先日,とある大学の先生とメールのやりとりをした。misima について丁寧な文面でお礼をいただき,私は嬉しかった。彼は「最近の大学生はまったく本を読まない」とこぼしていた。だから旧字・旧仮名遣いの文章で少しは学生の関心を惹きたい,と。「だとしたら,そんなバカ学生は旧字・旧仮名遣いという見た目にしか目を止めませんよ」とは言えなかった。教育者としての先生の真面目な工夫に私は感心したからである。

私は会社員なので,新入社員の知力には注意を払っているが,学生の読書量については昔と比べてあんまり変わらないのではと思っていた。というか,同僚は皆,理科である。その学生時代の読書傾向にも偏りがある。そもそも,一般の学生の傾向を新入社員から推し測るには無理がある。同僚達は,本の話題はコンピュータ関連図書ばかりで,しかも強烈な飛ばし読みをする。理科の人は結論の書いてあるところを探して読む習性があり,しかも図面やグラフ,数式だけで論のだいたいを理解する能力を備えていて,文系の私は驚かされる。知識の習得を特殊なパターン認識能力でもって行っていると,私などには見受けられる。つまり「読む行為」は二次的のようなのだ。とはいえ,この行為だって,図面や数式と文章とを相互作用させて理解を確実なものにしている訳で,やはり活字のトレース要素は無視できない。

「まったく〜ない」という表現は幅がじつに広いので,私は先生のボヤキがピンと来なかったのだけど,うちのガキどもの活字ギライをみても,最近の学生はホントに纏まった文章をまったく読まないのではないかと心配になる。「本を読まない・読めないヤツが大学なんて行くんじゃねえ」と私は叱り飛ばしている。子供達は,携帯メールでブツブツ断片的なことばを送り合い,「空気を読み」合っている。そして,ふとした文言で根拠のないキレ方をする。「空気」に犯されたのである。まったく悪意が「読み取れない」のに。このように,携帯メールのこの時代,纏まった文章で論理的に意思疎通を図るようなコミュニケーション,思想の伝達は,いまの若い人には望めなくなってしまったのだろうか。「携帯をもったサル」というような表現をどこかで目にしたが,携帯電話が低能児養成ツールになってしまっている現実を認めざるを得ない。義務教育にある子供にはその所持を禁止すべきだと私は真面目に思う。

子供達は,人が何を言っているかという論理ではなく,視覚的要素で人を分類する癖がある。「この人,うちのクラブのXX先輩に似ている」云々。人物評は「〜に似ている」しか思いつかないらしいのだ。そういうとき,私は「だからなんだ。人を見た目で極め付けるな」と叱る。「極め付けてる訳じゃないよ」---「『似ている』と表現すること自体,薄っぺらい価値観を貼付けていることに,お前は自分で気づいていないだけだ。見た目で判断するなら,少なくとも『あの目つきは他人を軽んじるタイプだ』くらいの観察がほしいね」。でも,どうもこの傾向は,近頃の若者全般に及ぶような気がしてならない。ネットをうろついていても,「戸田恵梨香似の女」といった,人の素描のじつに貧しい舌足らずの表現にぶち当たらない日はない。このように,何かの論理ではなく視覚的印象で軽率に人物を類型化する傾向は,思うに,ことばの論理に鍛えられていない証拠である。

Web で伝えたいことをきちんと書いても,おそらく 3 行以上のパラグラフになると,もう読まれないのではないか。Twitter というのが流行っているそうである。「つぶやき」くらいの量でないと,もはや読んでもらえない。そういう時代だということか。

予算シーリングにおいて「事業仕分け」がたいそうな話題。これまで官僚が奥の院で拵えていた予算編成の大振るいを民主党政治家の息のかかった仕分け担当者が,しかも公開形式で行うというものだから,これこそ前代未聞の「政治家主導」の象徴である。私もテレビで,仕分け側が省庁の担当者の説明に対し,キツイ口調で査定しているのを見た。

この光景は,まるで虐めをしているかのように,ある人には見えるようである。刑事が被疑者に対するがごとくとでもいうような(今日の朝日の夕刊の「素粒子」)。でも,一般企業の予算策定の現場でも,担当者が幹部に説明をする予算審議会風景は,まさにこれと同じであって,私などからすれば,おお,国政でもウチの会社と同じような喧々諤々の予算論議をやる訳か,と思いこそすれ,虐めにはまったく思われない。業者のことなど徹底的に蔑んでいる顧客との営業折衝などと比べたら,「事業仕分け」のやりとりはむしろ紳士的なくらいである。プレゼンテーションの悪い役人は予算が獲得できず,それこそ予算を取るのが仕事である役人として無意味な存在に貶められる訳である。

「事業仕分け」の意義はこの喧々諤々の面白さのみならず,それが公開の場でなされることにあると思う。このように予算策定の過程が国民に見える形にする,ということは今までにない試みである。そう,官僚の予算立案をそのまま国民に知らしめることこそ,政治主導以上の国民主導を形成するよい工夫ではないだろうか。

「テレビXXが選ぶ意味不明予算項目ワーストスリー!」とかいうような,テレビ局による悪ノリ特集番組を,省庁の担当部署名入りで放映なんかしてくれたら,最高に面白いと思うんだけど。でも,そんなことテレビ局がやる訳がない。なぜなら,これまでの官僚への従属は,政治家以上にマスコミこそがその張本人だからである。霞ヶ関の構造を叩く悪口を書くと,トップシークレットを握る官僚がニュースのネタを流してくれなくなり,マスコミ(大新聞社・テレビ局)にとっては死活問題になる。だから「ある経済産業省の幹部によれば」とかなんとかの触れ込みで,ただの官僚によるリークをさも自らの取材力のおかげであるかのように見せかけて,霞ヶ関の言うとおりに記事を書く訳である。こうして,意見の微妙な左右の違いはあれ,どのマスコミ報道もすべて同じ・画一的になる。これこそ自由主義・民主主義国家において素晴らしい統制を実現する仕掛けである。小沢元民主党代表の秘書逮捕騒ぎが突然静かになったり,普天間の問題が民主党政権になっていきなり大問題として浮上したり,チョー気味が悪い。

今日,9 時少し前に帰宅すると,我が家ではすでに夕食が済んでいた。この時間だとテレビを観ながら皆で晩ご飯が通常だが,今日は私ひとりでいただいた。妻が,洗物をする BGM として,ドヴォルザークの 8 番の交響曲を掛けた。第三楽章のスケルツォ,あの哀愁を帯びた優雅さがやっぱりよい。味醂で味付けした鰆の焼魚が旨かった。
 

ドヴォルザーク:交響曲第8番&第9番
ヘルベルト・フォン・カラヤン (Dir)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック (2003-10-22)

山口椿という作家をご存知か。エロティスムの画家にして作家。チェロもよくする趣味人である。この『ロベルトは今夜』は,祥伝社文庫が「山口椿エロティシズム・コレクション」の一冊として刊行したものである。著者自身によるカバー画と挿絵で彩られ,なおかつ半透明の硼酸紙による帯にくるまれ,文庫本としてはなかなか洒落ている。

本書は,連作短編『罌粟のように Les Coquelicots』と二つの戯曲『薔薇と夜鶯 Rosent et Merleuse』,『ロベルトは今夜 Roberte ce Soir』から成る。これらは,西欧の淫微なエロスの伝統に一度は嵌ったことのある者にとっては,「ああ,これこれ!」式の紋切型であるがゆえにこそ,堪らない蠱惑を湛えた官能文学なのである。要するに「エロ文学」。そういう意味では,大衆文学の一大ジャンル・官能小説と変わりがない。

ここで直ちに,大衆官能小説と山口椿作品との違いは何か,との疑問が起こる。というのも,前者が,ほぼスケベ・オヤジで占められる読者たちが暇潰しに楽しむ,機能的にはエロ・グラビア週刊誌,アダルトビデオとさほど変わらない「興奮道具」であるのに対し,後者は,まぎれもなく「趣味と教養ある大人」のための頽廃美を装い,どうも知的で若い女性(そうそう,女子大学生など)が堂々と読むべき気品と風格とを備えている --- らしいからである。現に,この文庫本の解説を書いているのはファッション・エッセイストの光野桃である。このことこそ,若い「ファッショナブルな」女性の趣味を代表している証左といってよい。なぜ同じ「エロ」で,こんなことが起きるのか。

文庫の帯文には,光野桃の『エレ・マニ日記』からの一文が引かれている。

時代物から精神病理学,デカダンの香り高い幻想潭まで,山口椿の知識と趣味は広大な地平を持っているのである。不倫小説が流行し,貧しい官能と,肉体のない男女の絡みが横行しているこの世紀末,素人臭い性の世界にはもう,うんざりだと思う。
山口椿『ロベルトは今夜』祥伝社文庫,1999 年,光野桃による帯文より。

「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」でしかない不倫小説=大衆官能小説がコキ下ろされている訳である。でも,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」とはいったいどういうことか。この帯文からだけでは判断しようがなく,光野桃『エレ・マニ日記』そのものを読まないといけないのだけれど,どうもきちんとした定義ができるとは思われない曖昧な表現である。要するに,山口椿作品の「知識と趣味」こそが大衆官能小説との決定的な違いだ,というのが光野の意見だと読みとってよいだろう。ここがスケベ・オヤジと知的な若い女性との読者趣味を截然と分断する,という訳だ。

そう,「知識と趣味」。欧州の「香り高い」頽廃趣味と文学的・精神病理学的ハイブロウは,確かに山口椿作品に横溢している。要するに,光野は山口椿作品が「高尚なエロティスム」であり,大衆官能小説の下劣な「素人臭い性の世界」とは違う,とでも言いたいのだろう。しかしながら,山口椿作品において言及されるこれら特性 --- シャルル・ボードレール,オスカー・ワイルド,ポール・クロソウスキー,ピエール・ド・マンディアルグ,アンリ・バルビュス,マルキ・ド・サド,ジークムント・フロイトなどなどの名前は,西欧のエロティック文学の聖化されたオーソリティであり,糞尿とサディズムに充ちたポルノグラフィの嗜好も,ジョルジュ・バタイユをはじめとする「悪の文学」の論客によって理論的筋道を付けられて久しい,いまや安心できる「伝統」であり,新機軸が纏う危険性はどこにもない。

[ ... ] そして,あの性臭が,濃い霧のように,ロベルトの下半身を掩ってくる。
 それは,いささか忌まわしげな匂いだった。
 [ ... ]
 その匂いは,とても高価な香水,たとえばゲランや,コティのあるものによく似ている。
 それは,注意深く嗅いでみると,微かに糞便の匂いが入りまじったものだ ......
同書『ロベルトは今夜』,pp. 184--5.

糞便と香水という「性臭」の陰湿な取り合わせは,現実のあの匂いを現代の知性によって精密化した表現であるというよりもむしろ,バタイユによって定式化され,そのことによって解毒された,十九世紀末以来の頽廃文学の伝統的「紋切型」なのである。こうして,現代的リアリティから遠いという点では,山口椿作品のエロスは,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」たる大衆官能小説と本質的にはあまり変わらない。権威付けられた頽廃なんて,「頽廃」だろうか? 名辞矛盾というものではなかろうか? 光野さん,西欧の「高尚」な伝統の雰囲気に騙されていませんか? 権威付けられた頽廃美にただ感心しているだけではありませんか? 日本の女性は,かつて,神代辰巳監督の日活ロマンポルノには眉を顰めながら,一方でおフランス製 un cinéma pornographique『エマニュエル夫人』の上映には映画館に列をなして恥じなかった,そういう不思議な習性がある。イヤらしさの本質はどっちも同じだっちゅうの。

山口椿と大衆官能小説作家の「エロ」そのものには何の違いもない。光野のいわゆる「知識と趣味」の味付けによって山口椿作品がハイブロウにみえるだけである。山口椿作品の美点は,じつはその「権威付けられた頽廃」,すなわち西欧的エロスの紋切型が,やはり堪らない魅力を失なっていないということにこそあるのだ。ただのスケベが日本人でなく西欧人に関係しているならサマになるという美学が,西欧崇拝の伝統化した日本人にはある。山口椿はそれを意図的に操っているからこそ,一種独特の読ませる作家になっているのである。作品中にフロイトほか,先に挙げたオーソリティの名前が不必要に言及されていること --- これがパロディー的感性による構成上の意図的寄り道であることは明らかである。その西欧文学ぶりの本質はパロディーにある訳だ。

日本人が西洋の美少女の透き通るような白い肌(「白い裸身の仄青い翳だけが,記憶のなかでひりひりする」--- 同書,p. 98),碧い瞳(「人間という暖かな生きものに,鉱物質のブルーがあることに私は感動した」--- 同書,p. 83),ブロンドの髪(「琥珀の玉座に坐っている人魚の髪」--- 同書,p. 151)に憧れること。括弧のなかに入れたこれら魅力ある表現は「知識」とは無関係である。それでいいではないか。なのにそれを,光野ばりにジェンダー/フェミニスト文学評論風に --- 光野は山口椿の小説を「美しい叔母」に喩え,「女の自由な魂」の発露だと称賛している(同書,「解説」,p. 241)--- 正当化しても,山口椿文学の備えた堪らないイヤらしさは説明できません。日本のインテリは「高尚なエロティスム」を云々するのになぜか急がないではおれない。どうしてエロをエロとして肯定できないんでしょうかね。

山口椿と大衆官能小説作家とは,その描写において,前者のまぎれもない自分自身の生の視線への執着と,後者の道具立ての職人的周到という違いがある。つまり,大衆官能小説のエロ描写の視線は,作家個人の直截的ビジョンというよりもむしろ,ジャンルが強制する職人的/プロフェショナルなフィルターを一枚噛ませている。わかり易くいえば,「作法」がある。だからといって,この相違は,優れた大衆官能小説作家の描写の腕前を否定するものでは決してない。大衆官能小説作家の書法は職人芸であり,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」として棄て去るには --- ヘンタイとエロスを区別できる者にとって ---,惜しい限りである。山口椿はひとえにその「作法」とは無縁で,西欧エロ文学のレミニサンスと個人の視線が分ち難く融合して,それにとって代わっている。そこが山口椿エロティスム文学の個性だと私は思う。

植物のように伸びてゆく骨格に,ついてゆかれない肉はうすい。骨格と肉とのせめぎあいを,少女は生きている。
同書『罌粟のように』,p. 62.
ベルリンは怪しい魅惑を秘めた街だ。ゲルマンというものが,表層の整正とは裏腹に,頽れたデカダンスをかくしていることを,私はデューラーや,マレーネ・ディートリッヒから嗅いでいた。いや,そうした気障ったらしい謂いかたを捨てるなら,この国のいたるところに見られる『黄金と群青』は,いったいなんだろう。現世の欲望の象徴でもある『銭』と,はてしなく昏い『絶望』を,並べなければ納得のゆかないひとびと。
同書『罌粟のように』,p. 115.

こういうミクロとマクロの --- 接視とロングショットといったほうがよいのか --- 確かな視線に支えられた描写が,彼の「権威付けられたエロ」に奥行きを与え,学生時代にバタイユや澁澤龍彦を読み過ぎた元 Romantiker の,ただのスケベ・オヤジにとってこそ,懐かしく堪らない魅力になっているのである。大衆官能小説のジャンル的作法との差異がリアリティ(の錯覚)を生み出す。それは「知識と趣味」とは何の関係もない。「通」とはそういう魅力を,余計な,「女の自由な魂」などといった根拠のない正当化なくして,冷静に --- 先行する文学との差異を認知しつつ --- 享受できる読者のことを言うのである。そして,山口椿はそのような読みに応える「通」の作家なのである。山口椿は「下品」極まりない書き方を決して厭わないし,「エロ」そのものとしては大衆官能小説と比べ,どこにも「高尚」の優越はない。「あそこ」のことを山口椿は「ラビア」(つまりラテン語 labia --- labium 「唇」の複数形)と書き,大衆官能小説作家は「ワレメ」,「オマンX」などと書く(下品ですみません),その違いのようなものである。どちらも「人畜無害」という意味では同じである。

それでも西欧の伝統的エロのレッテルは便利ではある。それを「芸術的」と茶化しても皮肉に受け取られないからだ。私が本書を読んでいるとき,娘が横から「何読んでるの?」と聞いた。「ヨーロッパの香り高い,芸術的なエロ小説だよ。エッチな挿絵も入ってる。見せないけど」と私。「だから,おまいらには読ませねぇ。大人のお父さんだけの十八禁じゃ」---「ふうん,でも『十八禁』の本って聞いたことないよ」---「なるほど」。「あ,これ読んでしまった。次,何読もうかな」と私が言うと,娘は「それに毛の生えたようなやつ読めばいいんじゃないの?」。「毛の生えた?」---「そのたぐいの本ってことよ」。陰毛を偏愛するエロ小説のススメかと私はどきりとした。それはともかく,文学は想像力であって,確かに『十八禁』ってのも笑ってしまうわいな。子供たちがこっそり読んでも別に構わないか,とヘンに納得したのでございます。

それにしても。「頽廃と倒錯,異端のサディズム文学!」との本書の帯。「[ ... ] 戦後の拝金主義と画一主義。それらに背を向け,アンダーグラウンドの世界で表現活動を続けることこそ,彼 [ 山口椿: 私註 ] の生を賭けての復讐だったのではないだろうか」(同書,「解説」,p. 240)との光野の言。日本人(とりわけインテリ)は権威付けられた安全な「異端」・「アンダーグラウンド」がなぜこうも大好きなんだろうか,と私はほとほと呆れる。それこそまさに「画一主義」。そんな「アンダーグラウンド」ってあるか? アンダーグラウンドってのは,警察に捕まるということである。ノリピーみたいに世間様から後ろ指を指されるということである。「異端」とはそれに関ると火炙りにされるような何かである。名辞矛盾というのではなかろうか? 文学を甘く見てませんか!
 

Facebook のスミルノフのページを訪れ,彼の『ヴァイオリン,チェロとピアノのためのトリオ作品 23・第一楽章』(1977)の YouTube 動画を発見。この作品は,彼の師であるエディソン・デニソフに捧げられている。ソヴィエト時代の作品としては自殺行為ともいえる前衛的な無調音楽である。集中力,密度の高い寡黙な音響というスミルノフ音楽の特徴が,この曲にもよく現われている。歌い出しにちょっとシュニトケ風を感じる人も多いと思う。

前衛的とはいえ,実験的ではない。西欧音楽とは一線を画した衷心さがある。弦のハーモニクスとピアノのモノローグ,悲痛な情感。なにか悲劇的な予感の高まり。ヒステリックなところのない,静謐なアンサンブルが美しい。

Posted by NewMusicXX.

この演奏は CD で入手可能である。ベルギーのレーベル MEGADISC からリリースされた "An Introduction to DMITRI SMIRNOV"(型番 Megadisc MDC 7818)。演奏は Patricia Kopatchinskaya (Vln), Alexander Ivashkin (Vlc), Ivan Sokolov (Pf)。ピアノ・トリオ以外にもヴァイオリン・ソナタほかスミルノフの室内楽が収められている。

smirnov-introduction.jpg

沖ノ鳥島に港建設 中国へ主権主張 政府が予算化」のニュース(産経新聞配信)。政府の予算シーリングがかしましいいま,このような政策が予算化されるとの話は興味深い。民主党政権には自民党がなかなか踏み切れなかった自己主張を清々となす体質がある。これはよいことだと思う。沖の鳥島が「岩」ではなく,周辺海域が日本の領海であるという事実の主張は,対中国安全保障シーレーンの重要地点であるだけでなく海洋資源となるこの海域を中国には渡さないという明確な意志表示なのである。日本は東シナ海で中国の好き勝手にやられてきた。沖ノ鳥島事案は,もうそうはさせないということだと思う。

沖ノ鳥島へのこれまでの政府の無策ぶりは,読売新聞政治部が纏めた『検証 国家戦略なき日本』(新潮文庫,2009 年)に詳しい。東アジア共同体構想といい,普天間基地移設問題といい,新政権は米国とも,中国とも,付き過ぎず離れ過ぎず独自路線で外交をしようとする意図を感じる(普天間基地問題対応は米国を怒らせようとする意図が見え見えである。その前にバカなマスコミを怒らせている訳である)。そう,日本の国益を考え,政治的に戦ってほしい。自民党が定着させてしまったこれまでの対米従属根性(対中国政策は嫉妬心による「嫌中」路線でしかなく,対米従属だったのである!)を「しかるべき」姿に戻してほしい。
 

先日,読売のニュースで「源氏物語、幻の続編『巣守帖』か…写本確認」という記事をみた。

どれだけのボリュームで見つかったのか,詳らかではないが,読んでみたい気がする。「『宇治十帖』で,浮舟をめぐる三角関係に敗れる薫に同情した後世の人物が,物語を対照的に書いた “外伝” だといえる」との池田和臣教授のコメントがあった。『源氏物語』そのものがどうも全編,紫式部ひとりの手になるものではないらしいので,作者論議でこの「続編」の価値を云々してもあんまり意味がなさそうである。とくに『宇治十帖』については,文体の多変量解析研究によって紫式部作者説を否定する学説を読んだことがある。もちろん,この『巣守帖』を『宇治十帖』と同列に扱ってよいというのは早とちりである。

先日,冷泉家の文庫から藤原定家筆の古文書が見つかったというニュースもあった。いまこの時代においても「発見」があるというのは面白い。

17--18 世紀の英国の政治家・チェスターフィールドは「なんでもできる人もいないなら,なにもできない人もまずいない」という言を遺している。これはなにが言いたいのか? だから自信を持てと言いたいのだろうか? 自信を喪失して,オレの価値はなにかと思うことがよくある。自分のできることが大したことか,とも。

清水義範という作家は,井上ひさしよりも若い世代のなかで,もっとも偉大なギャグ小説家のひとりだと私は思う。『蕎麦ときしめん』によりパスティーシュ・ジャンルを確立した作家として名を轟かせている。とにかく,彼の小説を読めば,その知的なパロディー,ユーモアでげらげら笑いながら最高のひとときを過ごすことができる。講談社文庫版『国語入試問題必勝法』は表題作をはじめ,七つの短編を収録している。

『猿蟹合戦とは何か』は,太宰治がなぜ『お伽草紙』で『猿蟹合戦』を採り上げなかったのかという問いから話がはじまる。この作品は丸谷才一のパロディーである。丸谷独特の旧字・旧仮名遣いと語り口を真似ていて痛快なのだ。自分の仮名遣いに関する丸谷の断り書きまでパロっていて芸が細かい。そして,この文庫本の解説を丸谷が書いているのが,なんとも笑える。

表題作『国語入試問題必勝法』は日本の受験国語問題,ひいてはマルバツ式の日本の国語教育に対する痛烈な批評である。「次の文を読んで問いに答えよ」なる問題で,その文を読まずにまず問いとその選択肢を読むべきである,とのテクニックが語られる。「まず,このことを知っておくんだ。こういう問題でたとえば選択肢が四つある場合は,大,小,展,外,の四つになっていることが多い。選択肢が五つの場合は普通これに,誤,というのが加わる。[ ... ] この種の問題の正解はこの,ちょっとピントが外れている,外,なんだ」(pp. 43--5)。国語の大学入試問題の本質的愚劣さを嗤いのめしている訳であるが,それは受験生の限界に合わせた結果ではなく,試験を作る教育者側の問題だと暗に語る:

月坂によれば,もちろん世の中には神秘的な気分や,幻想的な美を描いた詩や散文は存在するのだが,国語問題の出題者のレベルではそういう高度なものは理解できない。だから出題するはずがない,というのである。
 奴らが理解できて,喜んで出題するのは,故郷への思い,異国への憧れ,孤独の悲しみ,青春の苦み,くらいが関の山で,どちらにしても人間の心情のことばかりだという。
清水義範『国語入試問題必勝法』講談社文庫,1990 年,pp. 50--1。

問題の本文よりも先に設問と選択肢を読む,選択肢を読むだけで正解がわかることがある --- おお,これ,俺もそうだったぞ,と納得してしまう。私も大学の国語入試問題の回答はテクニックだと割り切っていたほうなのだ。このせせこましさで大学入試を切り抜けたのは事実である。高校生の息子にもこれを読ませた。ところが,きちんと本文を先に読んで回答するタイプだった妻と,国語入試問題への取り組み方について論争になった。「やっぱり,きちんと本文を読んで理解したうえで回答すべきなのよ。だからこの本で笑われているのは,お父さんタイプの生徒だということ」。同じ大学の国文科を出た妻のほうが,国語の成績が私よりも圧倒的によかったのは言うまでもない。この論争の結果,息子がどちらの言うことを聞くのか,これもまた言うまでもない。それでも,清水の穿ったパロディーには大笑いできること請け合いである。
 

シェークスピア『ハムレット』第三幕第一場に,あまりにも有名な台詞 "To be, or not to be" が出て来る。ハムレットのディレンマというものである。「生きるべきか,死すべきか」(小田島雄志訳では「このままでいいのか,いけないのか」となっている: シェイクスピア全集『ハムレット』小田島雄志訳,白水社,1983 年,p. 110)。

これを捩ってアメリカ人学生がよく口にする,次のような半畳があるらしい: "TV, or not TV"。「テレビを観るべきか,観ざるべきか」。娯楽か,勉学か。晩ご飯のとき,この話を子供たちにしてやった。テレビではお笑いバラエティーが放映中。「うん,シェークスピア,知ってるよ」。違うよ。おまいらテレビ観過ぎってこと。「That is the question」。そしたら,すかさず娘が切り返す ---「You, father, too」。あのな。
 

息子が新型インフルにかかってしもた。かわいそうに,40 度近い熱で唸っている。吸引タイプの薬をもらってきた。新型インフル問題では,ここのところ罹患率がきわめて高くなり,ワクチン接種運用が混乱している。半年ほど前は宝くじ当籤レベルだったのに。あの当時の大阪などの学校閉鎖騒ぎはいったいなんだったのか。いまこの季節,受験生は戦々恐々だろう。その親もしかり。ああ,俺もなんだか頭が痛くなってきた。

* * *

本を読み飽きて,退屈しのぎに LaTeX で遊んだ。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に出てくる鏡の国では,すべてがあべこべ,本の文字も反転している。その鏡の国の文字を組んでみた。
 

alice-mirror.jpg

フォントは Garamond ファミリー。文字の反転は graphicx パッケージの \reflectbox 命令を使っている。

\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{graphicx}
\usepackage[T1]{fontenc}
\pagestyle{empty}
\begin{document}
\usefont{T1}{ugm}{m}{n}% Garamond
\begin{center}
\itshape\Large%
\reflectbox{JABBERWOCKY}\\
\reflectbox{'Twas brillig, and the slithy toves}\\
\reflectbox{Did gyre and gimble in the wabe:}\\
\reflectbox{All mimsy were the borogoves,}\\
\reflectbox{And the mome raths outgrabe.}%
\end{center}
\end{document}

Usconcord ロシア語テクスト・コンコーダンス・パッケージの説明ページを改訂した。これまでは,単語条件式の説明が少し不親切だった。例を入れて詳しくしたのである。

Usconcord は主にロシア語テクストの KWIC(keyword in context)を自動生成するための Web サーバ・ツール・キットである。解析したいコーパス(文学テクストの電子ファイル)をサーバにアップロードし,単語条件式を入力し,解析を指示すると,条件に適合する単語のコーパスにおける出現度数・前後コンテキストからなる KWIC を表示する。コンコーダンス・サイトを運用したいひとはダウンロードサービスから usconcord-1.6.tar.gz アーカイブを取得してインストールできる。コンコーダンス解析オペレーションは Windows で稼働するブラウザから可能であるが,Usconcord サーバ運用は UNIX 環境(FreeBSD,Linux 等のオペレーティングシステムとその周辺ソフトウェア)が必要である(FreeBSD で開発したが,Linux gcc 4 でもコンパイルが通るようにしてある)。Windows ではサーバ・ソフトウェアが動作しない。

もっぱらスラヴ研究者向けに 2001 年にこのプログラムを書いた。とはいえ,対象テクスト処理の内部エンコーディング前提を X11 CTEXT(X Window System Compound Text)多言語形式としている関係で,X11 CTEXT,UTF-8 でコード化されたファイルであれば,フランス語,ドイツ語,スペイン語,ポーランド語,スウェーデン語などなど,だいたいの西欧・東欧・北欧語も処理可能である。正確には国際標準文字集合 ISO 8859-1, ISO 8859-2, ISO 8859-5 で記述できる言語を取り扱うことができる。日本文の解析は未対応である(日本語形態素解析ツール「茶筌」などを用いて予め分かち書きした日本語テクストであれば,処理できないことはない)。

コンコーダンスはある作家,作品群においてことばの用例,単語,フレーズの使われ方を総覧するのに絶大な威力を発揮する。昔からシェークスピア,聖書のコンコーダンスが出版されており,近年,ロシア文学研究文献についてもプーシキン『大尉の娘』,ドストエフスキイ『罪と罰』等のインデックスが刊行されている。しかしながら,手作業で KWIC インデックスを作るのは膨大な労力が必要であり,そのような古典,大作家以外のコンコーダンスはまず入手不可能である。自分の研究する文学作品のコンコーダンス生成,しかも論理条件指定に基づく必要語彙に特化した KWIC 生成を,個人で手軽に実行できる,というのが Usconcord の目的である。

私もプーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』論を書いたとき,Usconcord の元になったツール(弊サイト「プーシキン作品コンコーダンス・サービス」)を用いて,単語の用例・頻度調査を行い,悩ましい論証でブレークスルーを得た。ことばは複数の語義を有することが多いが,作家の用例をつぶさに見ると,単語を使う傾向がわかり,テクスト解釈が争われる論点においてその語義を特定するための根拠にできることがある。私の場合,語の色彩的印影の特定のため共起分析の際に,コンコーダンスを活用した。

文学研究者には Usconcord をぜひ活用いただきたいと願っている。Usconcord はユーザーが自分の Web サーバにインストールして運用するキットである。でもそんな面倒を抜きにして使いたい方は,弊サイトの「ロシア語電子コンコーダンス・サービス」を利用することができる。

Facebook で Fugata Quintet からフレンドリスト追加へのお誘いがあった。Fugata Quintet はロンドン王立音楽院で学んだ若い五人のプレーヤーによる Nuevo Tango クィンテット。メンバーは Z. Nicolic (Accordion),A. Mavroudis (Vln),A. Hatzinikolaou (Guitar),A. Chaushyan (Pf),J. Opstad (Double bass)。

彼らの Web: http://fugata.co.uk/ を訪れると,その演奏が BGM に流れるので聴いてみるとよい。Á. Piazolla ピアソラに認められる,アルゼンチン・タンゴをベースにした楽天的な現代的アコースティックが特色のようである。Facebook の彼らのページには,彼らが歌手のすぐ近くで室内オペラを伴奏する,一風変わった舞台の写真も掲載されていて面白い。クラシック演奏家の名門・ロンドン王立音楽院を出た演奏家たちによる音楽だが,いわゆる古典音楽を連想すると期待が外れる。でもじつは,活きた音楽シーンはこのような若者たちが作るのである。

CD が出ていればぜひ入手してみたい。

脱官僚

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民主党が脱官僚,「官僚依存から国民への大政奉還」などと言いながら,各省庁に「答弁メモ」作成を指示していたとの記事を読んだ(「『答弁メモは事務的慣例』 官房長官、撤回示唆」)。

官僚からブリーフィングや原稿草案を受けるのは国政に携わる政治家にとって当たり前である。それをいちいち原則に反しているとしかつめらしく話題にするのは,頭が悪いのではないかと思ってしまう。私だって,小規模集団プロジェクトの運営においてすら,手を動かしている部下の報告を受けてものごとを判断する。部下がきちんと事実を伝えているか,道をはずしていないかチェックするのは当然である。脱官僚の本質は官僚の言うがままの予算,なすがままの追認を排するということではないか。

これと同様に「官僚の天下り」についても,「杓子定規」が罷り通りはじめており,本来の問題意識が失われようとしている。この問題の源は,ポストにありつけなかった者のために,役所が必要性疑わしいポストをわざわざ外部団体に作って税金を流し込む官僚人生設計 --- そんなムダが許されてよいものか,ということのはずである。もとより職業選択の自由がある訳だから,官僚もそのキャリアにものを言わせてより条件のよい仕事につく権利がある。「禁止」できる性質のものではない。志ある官僚が政治家,雇われ社長になろうとまったく問題がない。もちろん,税金で食っている訳だから税収が落ちれば,減給,リストラだってしようがないと思う。そういう一般的社会人のルールをきちんと適用すればよいのである。

官僚(9 時 5 時の時計に合わせて仕事をするような一部地方公務員のことじゃないよ,国家公務員上級文官・技官のことだよ)は国政実務のプロであり,政権に依存しない過去を唯一蓄積している集団である。もとより知力の優れた人材が集結しているのである。彼らを尊重すべきである。政治家は,きちんと彼らのプライドを認め,よく話を聞き,その上で自分の政策の実現に向かわせるしか方策はないのである。

なのに,郵政の新社長は官僚の天下りだとか,そもそも国務大臣自体が元官僚だらけだとか,無意味なからかいに明け暮れるマスコミは,まったくバカではないかと思ってしまう(産経新聞はその代表)。テレビ局は,NHK を除く民放大手はすべて,鳩山総理の首相所信表明演説のその時間,どうでもよい芸能人麻薬犯罪裁判に血道を上げていたのである。ノリピーの反省と決意は心からのものかどうかなんて,本人の問題ではないか。朝日は今日の夕刊で,ノリピーが介護に携わりたいとコメントしたのを巡って「介護を甘くみるな」という記事を掲載していた。そんなことノリピーの決意表明なのだから,本人の意思であって,他人にはわからないではないか。これがこの国の報道のレベルである。自由な国の自由な報道がどうなっているのか,というこの現実。皆,まったく同じ。共産主義国家以上に社会主義が浸透した珍しい国である。それなのに,中国や北朝鮮の自由なき報道を嗤っている。(私は海外のマスメディアを買収して日本の報道を日本で行わせるという事業があってもよいと思う)

選挙の投票に行って来た。川崎市長及び参議院神奈川県補欠選挙である。民主党が勝つんだろうな。幸福実現党が性懲りも無く候補を出していた。

それにしても,思うに,自民党はもはや過去の政党に成り果ててしまったようで,無惨である。野に下った「保守」政党としての自民党に,いまやどんな役割があるのかまったくわからなくなってしまった。民主党自体,保守的な政党だからである。だから農協やら医師会やらが平然と民主党支持に鞍替えできるのである。自民党の行く道はだだのひとつ。極右政党に成り下がることだろう。「保守」ではなく「右翼」になること。「利権」を喪失したいまや,靖國万歳,特亜殲滅,アジア蔑視の排外主義などなど,これまで隠然とやっていた「美しい日本」主義を大っぴらに主張しはじめるしか生きる道がなさそうである。

ロシアの政党に Либерально-Демократическая Партия России がある。つまり「ロシア自由民主党」。ソ連崩壊とともにできた極右民族主義政党である。「北海道はロシアの固有の領土だ」と主張するロシアの反日勢力である。旧態権力の生まれ変わりにして極右勢力という意味で,日本の自民党も同じ道を行く暗合のように私には思われる。名は体を表す,という。自由をも,民主主義をも認めないという意味で,「自由民主党」という党名は,名は体を表す。

石破茂や野中広務など,自民党にもホネのある良識派がいる・いたんだけどな。

* * *

妻の誕生日プレゼントに川村湊の著した『狼疾正伝』(河出書房新社,2009 年)を注文した。今年生誕 100 周年を迎える中島敦の評伝である。妻は中島敦のファンなのである。

中島敦は昭和十七年に 33 歳の若さで逝った才能である。その漢文調の語り口は硬質,端正にして,格調高雅,意趣卓逸の気風に充ちている。近代人特有の知的憂悶を表現した文人作家を,中島敦,森鷗外,石川淳を措いて私は知らない。

誰もが高校の教科書で中島敦の『山月記』を読んだことがあるだろう。才能に恵まれた者が,その「臆病な自尊心と,尊大な羞恥心」の相克の果てに人間性を喪失し,虎と化す。虎は生存競争を強いられた暴力の象徴である。私はこの作品を改めて読み,まるで志高い高学歴の若者がワーキングプアに苦しむ様を見たような気がする。ワーキングプア問題があげつらわれる背景で話題になった小林多喜二『蟹工船』なんかよりも,この僅か 9 頁の作品のほうがよっぽど現代の若者の内向する苦悶を表現しているように私は思うのである。
 

今日,娘と高校の学校説明会に行って来た。JR 南武線・宿河原駅近くの高校である。川崎市の県立高校のなかでも古い名門であり,広い敷地に校舎がすべて二階層以下という贅沢な環境。裏手には多摩川の河川敷。大きな銀杏並木の接する広いグラウンドではサッカー部員が練習していた。旧き良き高等学校。校舎は老朽化が進み,校内の大きな庭は荒れ(整備の予算が付かないのだろう),寂れた印象が強かった。

学校の歴史・校風,進学実績,考査方法の方針などの先生の話は,私には「ふぅん」で終わった。それよりもなによりも,吹奏楽部が素晴らしい演奏を披露してくれた。司会の放送部女生徒の話す日本語が,明らかに放送向け発音訓練によって鍛え抜かれていて,端正この上なかった。びっくりした。おお,昔の NHK 女性アナウンサーはこんなしゃべり方をしたぞ。高校のクラブ活動では基本が徹底されていて,もはや大人にも侮れない。説明会のあと校内を少しぶらついた。女生徒のトランペット練習の音にいい知れぬ郷愁を覚えた。先生の話はそっちのけで,こういうことばかりに感心して帰って来た。

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* * *

ロシアのヴラジヴォストークで,日本製中古車販売に高関税を課しいずれこれを禁止するというロシア政府の政策に対し,中古車販売業者を中心とした反政府デモがあった。今日テレビのニュースで,その様子を見た。ケンカの強そうないかにものロシア人が「プーチンに死を」なんて過激なシュプレヒコールをしていた。

ロシアのこの政策は,日本車によって国内の自動車産業がホネヌキになっていることを受けており,国内産業保護の観点に立った,いわゆる保護貿易主義の現われである。日本政府がこのロシアの政策に今後どう対応するか注目される。とはいえ,昨年来の金融不況のおかげで,最近,世界的に保護貿易主義的話題が目立つ。ロシアに限らないのである。つい先日も,米国が中国製タイヤへの 35% の高い追加関税措置に踏み切り,中国から保護主義だと批判されている。これは,かつての日本バッシングを今度は中国製品に対して大々的にやりはじめたという徴候だと思う。米中は今後厳しく対立するように思われる。日本と違い中国は「ハイそうですか」と唯々諾々と米国に頭を垂れる国ではない。保護主義は相手国から対抗策をお見舞いされる。その連鎖が起きると両国の関係が見る見る悪化する。ミサイルを配備したというような安全保障危機意識よりも,産業,ひいては生活に直結するだけに,ある意味で対外的国民感情を左右しやすい。

また同じニュース番組によれば,鳩山首相が ASEAN 首脳会議で「東アジア共同体構想」を各国首脳に呼びかけたという。これは地域経済ブロック圏の確立への提案と考えられる。欧米の保護主義に対抗するための,中国と日本を中心とした経済ブロック圏構想。岡田外相が米国を参加させない,と言っているのが印象的である。

経済不況,保護貿易,ブロック経済圏と来ると,第二次世界大戦前夜の帝国主義諸国による覇権争いに酷似して来たと思わないではいられない。こんな提案が日本から出るのは,自民党政権による長い対米従属政策に慣らされた者には信じられない。普天間の問題よりも私はこちらのほうが心配である。もしかすると,上海条約機構のような軍事同盟にも,そのうち日本が絡んで来るのではと思ってしまう。冷戦構造を前提とした日米同盟がいま揺らぎかけているのではないかという見方と相まって,日本が日英同盟を解消した結果 --- 老獪な英国に見放されて --- 外交力を喪失し国際的に孤立して行った歴史的前夜を私は連想してしまう。民主党政権の外交力の真価がいま問われている。舵取りを誤らないようお願いしたいものである。

Windows 7 が発売された。Windows ファンの皆さん,おめでとうございます。

秋葉原のパソコン量販店では,夜中の 0 時にカウントダウンセール・イベントが催され,平日深夜にもかかわらずたくさんの人が集まったとか(まあ,パソコン・オタク達なんだろうけど)。Vista があまりにもひどい OS だったためか(私の感想ではありません),かえってコンピュータ・オタクたちの期待感を刺激しているようである。とはいえ,Windows 95 発売のときはこれ以上の大フィーバーであった。「Windows 知らぬ人から窓際族(ウィンドウズ)」なる川柳が詠まれた時代である。

Windows 95 は,マルチタスキングという装備を,IBM System 360 から 30 年以上,UNIX から 20 年以上も遅れて,やっと実装したに過ぎないにもかかわらず,パーソナル向けということから,さも画期的でもあるかのようにもてはやされ,その発売が一大事件として取り扱われた。「プリエンプティブ」だとか,訳のわからない新コンピュータ用語が大流行りになった。「先買権のあるマルチタスク」ってどういうことか。タイムシェアリング・マルチタスキング(古典的時分割多重処理方式)と何が違うのか。いまもってさっぱりわからない。マイクロソフトは,ごく当たり前の計算機ソフトウェア処理方式に対し別の比喩的英語を当てることで,なにかすごい発明をしたように見せるのがじつに巧妙なのである(どこかの文芸批評理論とそっくりなんである)。私もかつて Windows 95 が話題となったとき,顧客に自社 PC を売り込む際,マイクロソフトの尻馬に乗って「プリエンプティブなマルチタスクが実現されている」と説明したことがある。大型汎用機運用のプロであったその顧客は「TSS(タイムシェアリング・システム)とどう違うの?」と正鵠を射た突っ込みをした。「言葉が違います」と私。一同大笑いしたことが懐かしい。確かに,「コンピュータの大衆化」ゆえに,遅ればせながら TCP/IP を実装した Windows 95 はインターネットを爆発的に普及させた。その功績は否めません。

今回も,Windows 7 の何がそんなにありがたいのか,私はさっぱりわからない。いま勉強中である(というより Windows サーバーが 64 bit オンリーになるとき,何が起こるかを死活問題として考えているといったほうがよい)。Windows 95 以降,私は計算機商売にありながら,私的には世の中に取り残された感が否めない。

でも全然気にならない。その時代の流れには利用者にとって何も新しいものがないからである(その間のソフトウェアの進化はことごとく開発者向けである)。ハードの進化はさておき,パーソナル計算機でできることはこの 20 年ほど,本質的には何も変わっていない。ソフトウェアとしては,そう,辞書の収録語数が増えたような進化である。Web,メールによるコミュニケーション・情報収集,ワープロ,スプレッドシート,プレゼンテーション,テキストエディタによる文書作成,息抜きのゲーム,エッチな画像・動画閲覧 --- これがほぼ不変のすべて。しかも,動画などの画像系アプリケーションは,ユーザーサイドからみると,従来の映画,写真集の品質の足下にも及ばない。オーディオ・アプリしかり(進化しているのは「作る」ためのものである)。私の愛する LaTeX アプリケーションも出版技術の後追いである。使う側の大半は少しも進化していないのである。怠惰で自己中心的な「教えて君」や,一事が万事の頭の悪い「ネット右翼」,礼儀知らずの匿名2ちゃんねらーが蔓延って,むしろコンピュータ・リテラシーは退化しているといってよい。

その一方で,パソコンの普及により,ソフトウェアのブラックボックスを甘受しつつ表層的な事象に意味を見出したがる文科系コンピュータ・ユーザーが増えたおかげで,HTML の書き方のような些末なことにうるさい人々が増えつつある。パソコンの活用が何かしらしかつめらしいイデオロギーを纏いつつある。「そんな使い方は冒瀆だ」テキな。手段でしかない計算機技術の何かが,ロラン・バルトのいわゆる「エクリチュール」(ある時代や集団に特有の価値観・世界観に裏付けられた,表現・言語マナーの体系)になりつつあるのである。馬鹿みたい。計算機とは「汎用的ソフトウェアを利用する」ためではなく,「自分の個別目的のためのソフトウェアを作る」ためのものだ,という原初的計算機観に取り憑かれてしまっている私にとっては,「しかるべき利用方法」なんてのは畢竟どうでもよい。

自分だけの課題は出回っているソフトでは解決できないことのほうが多い。例えば,あるロシア詩人の詩の脚韻パターンの正確な統計を調べたいといった特殊な要請が,独自研究をなす者にとっては課題の多くを占めている。特殊であるからこそ研究に値するのだ。そういうとき,自分でその調査のためのソフトウェアを「作る」しか解決の手立てがないのである。そして計算機はそのためにこそ無限の可能性を秘めているのである。そういう意味で,ソフトウェアの「利用」ではなく「開発」こそが計算機という機械の目的の核心だと私は考えている。ソフトウェアを「作る」ことなく既成の汎用ソフトウェアで満足していると,それでできる範囲で「作法」が成立することがある。私には,そんなのは己の通じた「手段」を神格化しているだけの自己満足に思われてしようがない。

思うに,そもそも「利用方法=コンテンツ」と「HTML=手段」をごっちゃにしている HTML リゴリスト達は --- HTML が「高級」言語であるだけいっそう --- なんともレベルが低い。原稿用紙の使い方ばかりに執着する物書きと同じだからだ。「正しい HTML」,「HTML の思想」,「HTML の資格」云々。ホント,バカじゃなかろうか。いやはや,これをフェティシズムと呼ばずしてなんと言うのであろう。だから「文科系」は「理科系」に嗤われるのである。

私は計算機言語の古典ギリシア語のようなアセンブラにはじまり,HTML,XML などの超高級言語に至るさまざまな計算機言語を学んで来た。その過程で機能実現以外にもそのプログラミング所作・癖そのものが一種の美学になる様も職場で何度も経験して来た。計算機言語にも日本語や英語のようないわゆる一般言語と同じような「文体」・「マナー」論議があることにほんとうに驚いたものである(昔その一端を駄文『鏡の中の鏡』にも書いた)。計算機ハード技術の進化には 3 年で 2 倍になるという「ムーアの法則」と呼ばれる経験則がある。この破滅的進化において計算機言語にまつわる考え方が,人類の一般言語(文字,表記,文法などなど)との関わり方の悠久の歴史をごく短期間でシミュレーションしているようで,極めて興味深い。「計算機言語のエクリチュール」とでも題して,何か面白い文化論ができそうな予感がある。

ヴァイオリニスト・植田梨紗さんが日本デビューする。Facebook で案内をもらった。12 月 14 日月曜日,大阪・いずみホール。チャイコフスキイのニ長調協奏曲を弾く。藤岡幸夫の指揮,関西フィルハーモニーによる管弦楽。ネットで検索したところ,関西フィル Web サイトにも「辻久子門下生による三大ヴァイオリン協奏曲の夕べ」の広告が出ていた。

植田さんは D. Smirnov 作曲 Dream Journey 初演(2009.2.6,ロンドン王立音楽院デユークス・ホール)においてヴァイオリン・パートを受け持ち,素晴らしい現代音楽アンサンブルを聴かせてくれたのである。ロンドン王立音楽院で研鑽を積んでいた。辻久子の門下生だとは知らなかった。

残念ながら,平日の大阪という場所には行かれそうもない。次は東京でコンサートを開いて欲しいと切に願っている。

植田さんのほか,辻久子門下生二人,徳田雅子さん,藤盛祐輔さんがそれぞれメンデルスゾーン,ベートーヴェンの協奏曲を演奏する。ヴァイオリン・コンチェルトの名曲をまとめて聴くことができる。興味のある方はぜひどうぞ。

la petite mort ということばをご存知だろうか。フランス語で petit は「小さい」,mort は「死」。つまり「小さな死」。これを含む仏文について「私はそのとき小さな死に浸っていた」という訳を読んだら,われわれはどう感じるだろうか。なにか哲学的な観照に,高尚な気分に話者が取り憑かれていると思うのではないだろうか。じつは la petite mort とはセックスにおける絶頂感,あるいはその後の虚脱状態の謂いである。日本語の「イク」,「イッちゃった」という俗語とあまり変わりない。日本語も,一線を越えて別の世界へ達する意味で,la petite mort の捉え方と酷似している。この訳は「おれはイったあとのあの脱力感を覚えていた」くらいでないと意味不明ではなかろうか。ところが,「イク」を「小さな死」と日本語に訳されることで,もとの意味が雲散霧消するのみならず,たんなる俗事が一気に詩的・哲学的なものに昇華する。フランス現代文学・批評の翻訳は,どうもこの la petite mort 直訳のようなものが多すぎるのではないかと私には思われる。これがあの難解さの一因ではないかと。

ロラン・バルト『エクリチュールの零度』の翻訳(森本和夫・林好雄訳註,ちくま学芸文庫,1999 年)を読みなおして,なにかフランス批評の翻訳には,la petite mort に類するボタンの掛け間違いがあるのではないかと忖度してしまう。それほどに,まったく意味不明なんである。それでいて哲学的な観照と高尚な気分だけはなんとなく察知される。私は先日,同じ著者による『表徴の帝国』を読み,それなりに感銘を受け,やはりバルトの批評眼は一流だと感じた。それで,いま再び新訳で『零度のエクリチュール』(かつて出ていた邦訳の題はこのように名詞がひっくり返っていたはずである)を読み返せば,学生時代に投げ出したこの高名な書物からなにかを学ぶことが出来るのではないかと期待した。果たして無駄であった。翻訳文を,--- 恥ずかしながら --- 文字通り一行も理解できなかった。

訳者も普通に読んで理解できないこの書の難解さを知っているらしく,本書の頁分量の半分以上,つまり本文以上の頁数を訳註・解説に割いて大童である(よって,フランス語で読んでもどうも晦渋な書物らしいと知れる)。しかし,その訳註を読んでも,本文がなにを言わんとしているのか,またなぜそんな註が可能なのか,ひいてはその註自体すら本文と同様,不親切な符丁で説明してくれていて,まったくもってわからない(人名解説は別として)。このわからなさの原因は,私の頭が悪いのか,翻訳が la petite mort 直訳ゆえなのか,ロラン・バルト自身の天邪鬼ぶりゆえなのか。判断できない。おそらく第一の要因が強いのだろう。でも第二の要因も相当疑わしいのである。そもそも「翻訳」なのだから,少なくとも日本語として意味が通るようにしていただけないものでしょうか。

こんな徹頭徹尾理解できない文章を書くことができるとは素晴らしい。称賛に値する(私は皮肉抜きで正直に言っているのだ)。insomnia 眠れない夜に格好の道具になる。でも,この「翻訳」でバルトを理解した人がいるのだろうか。「実際,同時代の著作家たちに共通の規則や慣習の集合体である《言語体(ラング)》や,著作家の身体や過去の個人的神話から生じる《文体(スティル)》とは独立した,文学の第三の形式的現実としての《エクリチュール》は,その後のバルトによって放棄されたかのようにみえる」など,これまた訳のわからない符丁(下線部分)に満ちた日本語文を,なんの前置きなくして気軽に書いてくれるフランス文学者がゴマンといる。こういう隠語だらけの文章を書くことのできる地点を「理解」だというのだろうか。

本書はおそらく文学論ではなく,聖書やコーランの神妙な説話や仏教経典にも似た壮大なメタファーなのである。事実の観察,分析,その総合としての「論」ではなく,いきなり「悟り」が比喩をもって繰り広げられる「神話」である。威厳と象徴に満ちた語り口に対して,たくさんの研究者が --- 親切にも --- 膨大な注釈を行う活動そのものに意味があるような。そしてまたその注釈そのものが他ならぬメタファーになっているとはどういうことか。まるで「啓示文学」である。こういう「論」にわれわれパンピーがこれら研究者と同じように付き合うのはやめたほうがよさそうである。なぜなら,どうもこれを「理解」しても,先に引用した日本のフランス文学者のような訳のわからない啓示的比喩に満ちた文章を書くことにしか資しないようであるからだ。本書のアマゾンの評価は最高点の五つ星である。その評もぜひ読んでみてください。比喩の素晴らしさを同じ比喩でもって称賛しているに過ぎない。比喩の連鎖は「論」ではない。

海外アニメのファンは,日本アニメ・オタクたちの使う「ツンデレ」,「ヤオイ」,「ショタ」などの隠語について,自国語のことばで咀嚼した訳語を使わず(だから「定義されない」状態のまま),日本語のままで流通させている。でもそれは,アニメ文化を彼らが自らの文化に受容し消化したというよりもむしろ,アニメ・オタク・ジャポネーを真似してその雰囲気を楽しんでいるに過ぎない。本書において「アンガジェする」だの,「シニャレする」だの,「シニフィエする」だの,フランス語がそのまま翻訳文に紛れ込んでいる姿は,この海外アニメ・オタクたちの楽しみ方とまさに同じである。日本語訳としてのあまりの支離滅裂さに,どうも雰囲気を楽しんでいるとしか私には「理解」しようがない。確かに,日本語として「理解」せずともその雰囲気を「真似」することはできそうである。「三島由紀夫の『金閣寺』は,かれの豊饒なる空虚としてのエクリチュールをもって --- それはほかでもない,文化という残酷な標章(「シーニュ」とのルビが振られている)の一系列にも近似した金色の楼閣を,戦後覆されてしまった『語られる言語(「ランガージュ・パルレ」とのルビ)』に偏在する虚無(「リアン」とのルビ)として描くことによって ---,あたかも文学の小さな死(「プティット・モール」とのルビ)を宣告したともいえよう」--- これはいま私がテキトーに「真似」してみせただけである。まあよい。文学者には暇人が多いものである。でも,la petite mort がただの「イク」なのに「小さな死」の形而上学的ニュアンスに読み替えられているとしたら,こんな滑稽はない。

もちろん,私にはフランス語原典とこの翻訳とを見比べて評価する能力がない。上記は私の頭の悪さを露呈しているに過ぎないかも知れない。訳のわからぬ翻訳を読んでいて,その内容とはまったく関係のない la petite mort がつい頭をよぎってしまった。まともな --- つまり,翻訳文が日本語であることをまず第一に考える --- フランス文学翻訳者の意見をぜひ聴いてみたい。
 

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)
ロラン・バルト著
森本和夫・林好雄訳註
筑摩書房

今日のニュースで,羽田空港を 24 時間就航のハブ空港にするとの前原国交相の発言で,千葉県知事が口角泡を飛ばす勢いで怒っている姿を見た。

韓国インチョン国際空港にもっていかれている収益を日本に還元できるのなら,国益に適うではないか。私は森田さんがなんでそんなに怒るのかまったく理解できなかった。千葉県にある成田空港こそをハブ空港にすべきなのに,ということか。でも,成田よりも羽田のほうが,羽田に国内線で来て成田に移動しそこから海外に出る地方の旅行者にとっても,神奈川県民である私個人にとっても,絶対に便利であり,私の個人的エゴからすれば国交相の決断のほうがありがたい。国が羽田ハブ空港構想を,たくさんいる知事をさしおいて森田さんに「ひとこと断る」べき理由などそもそもない。それを言いはじめると,ハブ化はなんで北海道の千歳空港でないのかと北海道知事が言い出すかも知れず,訳がわからなくなるからである。成田こそが国際空港なのだから,という理屈は,現在の国際線運用がそうなっているに過ぎず,利用者の立場からすれば関係ないではないか。羽田ハブ空港が千葉県の収入を減らしてしまうのだとしたら確かにお気の毒であるけれども,そのような説明もないし,いまそんな理解はできない。

民主党の「地方分権」の主旨は,私の理解では,地方が地方独自の施策で活性化できるよう交付税使途の制約を減らします(要するに,国は口出ししないので自分で知恵を出してうまくやりなさい)ということだ。政府は国益をまず考えます,地方に利権を回す(私はそれでもよいけど)というのとは違います,ということだと思う。森田さんがあんなにいきり立つのがやっぱり理解できません。羽田ハブ空港化によって千葉県の県益がどのように損なわれ,国の施策・国益とどう兼ね合いをもたせてゆくべきかという視点で問題提起してくれないと,あるいは成田をハブ化したほうがこれだけよいことがあると提言する立場でないと,千葉県民でない国民には理解されないのではないだろうか。成田空港の開港にどれだけ血が流れたかなどというセンチメンタリズムでは誰も納得しない(そんなの,そもそも成田に空港を作ろうなんて推進した奴が悪い,で終わってしまう)。

民主党政権,自民党の地方利権政治のツケをしばらくは払わされるということなんだろう。もともと成田と羽田とを国際・国内線運用で棲み分けさせようなんて発想が,利用者不在の地方利権政治の現れではないか。そもそも,そのおかげであれほど血が流れたのではないのでしょうか。

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ISAO。システムエンジニア。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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