世界のトヨタがいまリコール問題で大バッシングを受けている。もちろん問題を増幅している原因はトヨタそのものの大企業病的対応にある訳で,企業として社会的責めを負うのは仕方がない。でも,これが政治的に利用されているとなると,少し考えさせられる。2000 年代以降,米国が金融経済にシフトし,製造業の興隆に手を抜くようになってから,この手の問題で日米摩擦をあまり目にしなくなったのだが,金融不況・ドル安の影響でまた真面目にモノ作り・工業製品輸出に取り組みはじめた米国は,いま再びテクノロジーのライバル・日本叩きを大々的にはじめたようである。米国はこの手の国際問題については与野党・マスコミがうまく結託するので動きが素早い。次はキヤノンのカメラ特許紛争か,富士通のスーパーコンか,などと私は妄想しているのである。

米国では --- これが彼らの「政治的」習性なのだろうが --- トヨタ欠陥車への抗議デモがトヨタ社ではなくなぜか日本大使館の前で行われた。これは,米国が国を挙げて日本を叩こうとしている徴候ではないだろうか。技術立国の日本の鼻をへし折るには,テクノロジーの欠陥を拡大鏡に写して世界にアピールするのがもっとも効果的である。これは米国の常套手段である。日本の大企業をターゲットに,製品の不良,特許の侵害,技術のパクリ,不正輸出入を摘発して,全世界に向かって大いに騒ぐ訳である。問題そのものは事実なのだから誰も文句が言えない。日立・三菱の IBM 産業スパイ事件,ミノルタのコダック特許紛争,東芝の COCOM 違反などなど。ミノルタはこの特許侵害で米国の裁判所から 100 億ドル近い賠償金支払いを命ぜられるとともに,「パクリ企業」として全世界に汚名を流してしまった。日本は海外の一般の人々からはパクリ名人だと考えられているのである(だから,日本人が口先だけで中国人をパクリだと騒いでも,目くそ鼻くそを嗤うと思われる)。トヨタ問題の米国での騒がれようを見ていると,米国はおそらく中国製品に対しても同じようなやり方でバッシングをすると思う。中国に対しても米国は巧みである。Google 問題で民主化問題・軍事問題を巧妙に絡めて,サイバー市場において中国バッシングを行っている最中である(もちろん,日本と違い中国は正面から応酬している)。

米国を「政治的」だと非難するのは,しかしお門違いというものである。そういうのを「逆ギレ」というのである。彼らの戦略をむしろ日本も学ぶべきだろうと私は思う。最近,中国製品が日本のみならず世界を席巻しつつあり,工業製品の価格競争では言うに及ばず品質においても,日本はおそらくもうしばらくすれば中国に追い越されてしまうだろう。おまけに,いまの日本国民は足手纏いの子供が嫌いで,次世代を育てる気概のない国になり下がってしまっているのだ。そんなこんなで,国力は間違いなく奈落へころげ落ちて行く。だから,一企業・業界の問題とせずに,政府も関与して国の産業戦略を立ててくれないと,私は不安でしようがない。そうでない限り,防衛費なんかいくら増やしてもまったく意味がない。もはや経済の帝国主義の時代なのである。戦争なんてやる前に経済が破綻して,食うに困るハメになる(そもそも,戦争に行く若者がいない)。「品格」ある国などと自己満足している場合ではない。「品格」を尊ぶのは国が老いている証拠だ。

バカな反中日本人は中国人のパクリ騒動が大好きで,ことあるごとにネットで「またやりやがった」と面白がっている。裁判などの公的な場で争って白黒付けない限り,「パクリ」への非難は被害妄想あるいは自己優越の自己満足に過ぎない。端からみていると,ネットで面白がっているのには,目くそ鼻くそを嗤う滑稽すらある。そもそも世界では日本人のほうが工業製品のパクリではつとに有名なのだ。ヤジを飛ばして嗤うのではなく,米国を見習って,きちんとパクリの根拠,製品の品質の問題を法的に示して,「知的財産権の侵害」や製品品質の欠陥を突いて,公開の場で争うべきなのである。そして,米国を絡めて米国のメディアから発信させれば(なぜなら,「品格」ばかりを大切にする日本のメディアは国内でしか通用せず,国際的影響力が皆無だから),全世界で中国製品の信頼が失われ,日本製品の価値が高められる(もちろん,当該中国製品に「パクリ」,「製品欠陥」があるという前提での話である)。そのためにこそ,著作権・特許権の保護やその登録奨励・不正摘発政策に力を入れる。日本は特許権において国際的に超優良国であり,その強みの活用を国家戦略とする十分な基盤がある。「食の安全」問題については結構「政治利用」されているのだけど,日本の食品産業がすでに中国に大敗している以上,それは日本食品産業の競争力強化というよりも,反中世論を煽ることにしか役に立っていないし,中国にとって脅威とはなりえない(つまり,「やっぱり国産だよね」の自己満足で終わっているだけでなく,逆に高いものを買わさせられ生活レベルを自ら落としている)。

なのに国会はカネ疑惑などでの足の引っ張り合い,ネットやマスコミは中国の「悪口」に始終している。「悪口」にはいくらでも「悪口」で対抗され,それこそ不毛な循環に陥るだけなのに。そうなると人口の多い国には太刀打ちできません。政府は米国が言うことには唯々諾々として従い,逆に国内企業の首を絞める方向に喜んで動く。製品開発スピードを鈍化させる管理規制を米国は日本に要求し,日本政府はありがたがってその提案を受け容れる訳である。東芝 COCOM 問題に端を発して,日本の企業の社内輸出審査に掛ける手間と時間がどれだけ増えたことか! トヨタが企業体力とともに世界的名声を落として終わりでは,日本人としてちょっと寂しいではないか(徹底的にケチで,下請け業者に冷たいトヨタに,私は個人的には感心しませんが)。

Ozon から書籍が纏めて送られて来た。ロシアのインターネットマガジンサイト Ozon からの発送書籍は,служва доставки(発送手続き)に付されてから 2 ヶ月程度を経てようやく手元に届く。その間にクレジットカードの引き落としがなされ,慣れないと気掛かりでしようがない。これは,ロシアの郵便事情そのもののトロさではなく,おそらく海外発送物に対する行政による禁制品チェックで時間が掛かっているものと思われる。

今回のお買い物は, Т. Г. Цявловская «Рисунки Пушкина».(Т. ツャヴロフスカヤ『プーシキンの絵』) М.:«Искусство», 1987.; О. А. Седакова «Стихи» и «Проза». в 2-х томах.(О. セダコヴァ『詩集』と『散文集』二巻本) М:«Эн Эф Кью / Ту Принт», 2001.; «Юрий Тынянов. Писатель и ученый».(『作家・学者ユーリイ・トゥイニャーノフ』) М:«Молодая Гвардия», 1966.; А. А. Зализняк «Грамматический словарь русского языка».(А. ザリズニャク『ロシア語文法辞典』) Изд. 6-е, стер. М:«АСТ-ПРЕСС», 2009.

タチヤーナ・ツャヴロフスカヤの『プーシキンの絵』は,詩人プーシキンが詩文のマニュスクリプト余白などに描いた言わば落書き絵に関する研究書である。プーシキンは 18 世紀的教養人の教育ゆえに,絵の素養もあったのである。この本を眺めていて,興味深いことに気づいた。

プーシキンは女性の足フェチだったことがつとに知られており,『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章 32--35 節に --- 4 詩節も費やして ---,女の足を歌った有名なくだりがある。この一連の詩の「足」は緑の草を歩む白い素足の変奏だと,私はなんの理由もなくごく自然に思い込んでいた。ルネサンス風の健康的な神話的エロスの伝統もあるのだろう。ところが,本書に掲載された「女の足」の落書きを見ると,乗馬用の靴と思しきものを履いている。この絵は直接『エヴゲーニイ・オネーギン』の詩節に関係付けられたものではないけれども,こうした「履物を付けた足」に詩人が「萌え」ていたとすると,私にはちょっと驚きなのであった。『PENTHOUSE』などの海外の成人向雑誌などで,靴だけを履いた女性のヌードをよく見かける。ああ,この趣味かと。西洋人は家屋のなかでも靴を履く習慣である訳で,男と女が情欲に急き立てられて事に及ぶと,往々にして衣服ばかりを剥ぎ取って靴を履いたままとなる。これが一種独特のエロスの型になるというのも頷ける。プーシキンとの間に少し距離を感じた... でも,ちょっとした発見。
 

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足以外にも,プーシキンの好む「悪魔(デーモン)」の絵も印象的であった。
 

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オリガ・セダコヴァの二巻本の詩・散文集は,この知る人ぞ知る女流詩人の,おそらくははじめての著作集である。『野薔薇』,『トリスタンとイゾルデ』などの清らかな詩,紀行文,文学研究論文などの散文が集められている。かの高名なビザンティン文学研究者セルゲイ・アヴェリンツェフが序文を書いている。いま私は,プーシキンの『青銅の騎士』についての彼女の論文: «Медный Всадник»: композиция конфликта.(1991) 『«青銅の騎士»--- 葛藤の構成』を読んでいるところである。
 

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ユーリイ・トゥイニャーノフの書籍は,彼の友人たちによる回想録とも言える文集である。ヴィクトル・シクロフスキイ,ボリス・エイヘンバウム,リディア・ギンズブルク,セルゲイ・エイゼンシテインといった錚々たる文芸学者,映画人たちの手記から成っている。1966 年,かつて禁止されていたロシア・フォルマリズムの遺産が「雪解け」のおかげで陽の目を見つつあったころの出版である。作家・文芸学者ユーリイ・トゥイニャーノフは私にとってはなによりもプーシキニストであって,ロシアの文学研究者としてもっとも尊敬するひとりである。1920 年代にすでに「構造」という概念で --- структура ではなく конструкция という用語だった訳だけど --- 文学作品を分析していた。しかも,実証主義的・文献学的アプローチで論を固めて行く紛う方なき「学者」なのであった。こういう点に,フランスの構造主義的文芸批評家(彼らは哲学者・文学者として名を残しても,「学者」ではない)とは一線を画するロシアの文芸学の特徴があり,60 年代以降のロートマン,イヴァノフに引き継がれる伝統がある。私はトゥイニャーノフという人に,その業績のみならず人間として興味をもっている。革命前後の大いなる文化興隆の一体現のように思っている。

アンドレイ・ザリズニャクの『ロシア語文法辞典』(2009 年第 6 版,初版 1977 年)は,ロシア語語形変化パターン辞典と言ったほうが誤解が少ない。本書は,コンピュータでロシア語を解析しようとする計算機科学者にとっても重要な文献のひとつになっており,ロシア語形態素解析ソフトウェアはほぼ間違いなく本書の語形変化パターンの恩恵を受けて開発されているのである。そういう訳で私も最新版を手元に一冊。

一般人に対する暴力事件スキャンダルで,横綱・朝青龍が引退した。私は相撲ファンのひとりとしてこの事件を残念に思う。本当につまらない問題で強い横綱が辞めなければならないなんて。朝青龍はその「品格が疑われる」行動によって,物見高いマスコミ・一般大衆の食い物にされて来た(品格だけの弱い力士のほうが可愛いらしい)。被害者は朝青龍の知人だという。腕をヘシ折られたというなら話は別だが,普通なら「警察沙汰」なんかになる話ではない。

この「暴力事件」について朝青龍本人はいまのところ事実を認めていない。酔っぱらっていたらしいので,記憶自体がはっきりしないこともある。被害者は,警察にまで出向きながら,なぜか被害届の提出をせず,事を荒立てないことを選んだ。私は,被害者は「警察沙汰」にしたのなら「被害届」をきちんと出して,警察に捜査をさせりゃいいじゃねえかと思う。なぜなら,事実関係が曖昧なまま,まだ 29 歳の強い関取が潰されるのが私には忍びないからである。じつは,私はこの事件,朝青龍バッシングのなにかの罠のような気がしているのである(この様子を見ていた朝青龍嫌いの「品格」を重んずる清潔漢が警察に大げさに届けた,とか)。そんな根拠のない妄想を抱いてしまうほど,朝青龍は不憫にもこれまでイジられ,辱められ過ぎたのだ。事件の起こったタクシーの運転手は「前を見ていたのでよくわからない」と証言しているという。後部座席で暴力行為があった場合「わからない」なんてことがあるだろうか。いずれにせよ,知人同士の問題が「警察沙汰」で大騒ぎになり,横綱の引退騒ぎに発展するなんて,尋常ではない。うそ寒い世の中である。

もうひとつ,石川議員の逮捕で再燃した小沢民主党幹事長のカネ疑惑問題は,検察が不起訴の方針を出したことで一区切り付いたように見える。でもまだ終わっていないというのが本当だろうと思う。

この問題も警察沙汰になることで,当事者の高い志を簡単に潰すことができるよい例だと思う。石川議員,ひいては小沢さんの犯した「罪」がどのようなものか,私のようなごく一般の人できちんと説明できる者がいるだろうか? 私は「説明責任」云々をマスコミやら野党やらが喚き散らすのも,自身この問題の「犯罪性」が理解できていない証拠だと思っている。政治家にとって立ち小便くらいの問題で,検察が騒ぎ立てているのではないか。

「政治資金収支報告書に誤記があったと言ってるけど,どうもウソがあるらしい」ということが,常識的に考えて「犯罪」だろうか? こんな疑惑でなら,誰だって政治家をしょっぴくことができやしないか? 金権政治腐敗は許せない訳だが,ならばその「許せない」事実がどこで明らかにされただろうか。でも,ひとたび「逮捕」されてしまうと,世間はその罪がどのような「悪事」なのかおかまいなしに,ほぼ「殺人犯」,「詐欺師」,「レイプ犯」などと同列において「被疑者」を叩く。そのほうが面白いからである。

石川議員には政治家としての「志」を貫いてほしいと思う。「政治家」らしく自らの行動と捜査の過程を手記にでもして公表してほしいと思う。

いまの日本は,ヤクザやゴロツキを放置して,「ちょい悪」の優秀な人物の足を掬うことが好きな清潔漢,なんでもかんでも警察に持ち込んで解決を図ろうとする権力依存者があまりに多いようである。見知らぬ人がヤクザにボコされるのに知らんプリをしながら,嫌いなヤツ(才能のある者は小人からたいてい嫌われる)が立ち小便をしているのを見て警察に通報する。だって「法律違反ではないか」と。ヤクザや右翼が怖いマスコミも,大喜びしてこれを煽っている。良識のある人もこの茶番を茶番だと言えない。だって「法律違反」には違いないのだから。

いまこの苦しい国民事情(不況,雇用問題)への対応について国会で議論すべきときに,バカな自民党のおかげで今国会がカネ疑惑追及集会と化している。日本国民がいま危機的状況にあることなんてどうでもよいらしい。自民党は鳩山首相を失脚させるために,同じ疑惑を持たれている弟の自民党議員に「罪」を認めさせようとしたというではないか。仲間を売ってでものし上がろうとするこんな組織を,いったい誰が信用するだろうか? どこまで落ちりゃ気が済むのだろうか? まあ,民主党も野党時代に民意をさしおいて自民党のスキャンダルをバカ正直に追及することに余念がなかった訳で,与野党そろって政治家がこんなことだから,官僚依存国家になってしまうのだと私はつくづく納得。ここいらで検察が自民党議員も立ち小便なり信号無視なりでしょっぴけば,もはや官僚権力に楯突く者はいなくなるはずである。うそ寒い風景だこと。

今日は神奈川県立高校前期入学試験の合格発表の日だった。午前 11 時過ぎ,会社で朗報を聞いた。ここ数日妻が,大丈夫かな,大丈夫かな,とうるさくてしかたなかった。小論文,面接の様子を娘から聞いていた感触では,大丈夫そうだと私は思っていたので,たんたんとおめでとうを言った。会社を定時で上がった。今夜は家族でお祝い。焼き肉を食べに行った。親としてもとにかくひとつ肩の荷が下りた。「お父さんとお兄ちゃんが,タマタマをなでなでしながら,タマコーコーウカレ,タマコーコーウカレと念じたのが効いたんだ」(なにかにつけすぐ私はこういう下品な話になってしまう)。

帰宅して,入学手続きの資料に目を通す。入学金五千いくら,年間授業料十二万いくらに公立高校というものを実感する。あとは民主党政権がタダにしてくれるのを待つばかりである。

イタリア映画『マレーナ』は,2000 年,ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品。モニカ・ベルッチ,ジュゼッペ・スルファーロ主演。これはおそらく映画ファンの記憶に残る名作だと思う。『自転車泥棒』や『ラ・ストラーダ』に代表されるヒューマンな名作を誇るイタリア映画の伝統を感じた。

この映画はモニカ・ベルッチの寡黙な美貌の存在感が圧倒的魅力になっているのは疑いない訳だけれど,作品の面白さは,物見高く,噂好きのかしましい「世間」を構成するちょい役の人たちに因って来ると思う。南イタリヤ・シチリアの,貧しく下品だが開放的で正直な大衆。ムッソリーニの演説にやんやの喝采を与えながら,イタリアが戦争に敗れ米軍が入城してくると星条旗を振って大歓迎する人たち。しかしながら,彼らは,まるでラブレーのガルガンチュアとパンタグリュエルの登場人物のように,低俗極まりない喜劇的台詞・所作でもって,観る者の哄笑を誘う。主人公レナートの学校での事件はマレーナの悪どい風聞を象徴する,身近な情景である。ラテン語の授業中,クラスの生徒が立ち上がり「マレーナと一発やって来てもよろしいでしょうか」と先生に申し出る。便所に行きたいということだ。「急いで行って来い」と受け流すこの教師はマレーナの父である。「先生,マレーナの口に突っ込んでもいいでしょうか?」,「オッパイに挟んでもよいでしょうか?」,「太腿の奥は?」と生徒が次々にふざける。諦め顔でこの先生はなおも冗談で応える ---「ダメだ。一度には無理だ」。

この笑い。ここにあるのは無節操というよりは「世間」のいきいきとした底力なんである。日本の賢しらの映画ならこういう戦中・戦後の「世間」の振る舞いに,俗衆の低俗・陰険のみを植え付けて終わりなんだろうけど,ボッカッチョの国の確かな人間洞察の精神はさすがである。この喜劇的・世俗的雰囲気のなかで,その対極にある物言わぬヒロインのエロティックな美貌が崇高なまでに高められている。「女神」ということばが度々発せられるのも宜なるかな。

「世間」は,ヒロイン・マレーナの美貌に憧れと嫉妬の視線を臆面もなく注ぎ,亭主を戦争で亡くしたマレーナが淫蕩な生活をしていると信じて疑わない。ところが時は戦時中,父親も空爆で亡くなり,マレーナは生活のために町の有力者や進駐ドイツ軍将校に体を売るしか生きてゆく手だてがなくなり,周囲の低俗な想像に応えるかのように「娼婦」に身をやつしてしまう。少年レナートは,思春期の悩ましい憧れに焦がれてマレーナを見守るなか,彼女が戦争に行った夫をただひたすら思い,周囲の低俗な視線に耐えつつ暮らしていることを,ただひとり知っている。

主人公レナートの性格は,幼いころに遥か年長の美女に憧れを抱くコンプレックスのタイプである。この感傷に捕われたことのない男など,私は想像できない。それくらい共感を呼ぶ少年の思いをジュゼッペ・スルファーロが切なく好演している。彼の父親も重要な役である。少年を恋煩いから立ち直らせるために「一発やらせれば治るんだ」と売春宿に連れて行く。「さあ,行け」と我が子を促すシーンだけ,このうすらハゲのオヤジがめちゃくちゃカッコ好く撮られているのが印象的である。

少年は思春期の性的欲望からマレーナを思慕し,ストーカのように後を追い,飽くことなく見つめるのだが,その過程の果てに,愛する人を失うことになってもその人が幸福になることを選択する。精神的に大人に成長するのである --- マレーナが落とした果物をレナートは拾い集めてあげる。ふたりが接触する --- ことばを交わし目が合う --- 唯一のシーン。そして,レナートは彼女の後ろ姿に「お幸せに,マレーナさん」とことばを掛けるや,彼女を振り返り,振り返り,自転車を走らせる。この最後のシーンは,下品で低俗でかしましい喜劇を,崇高なヒューマンドラマに一気に昇華させる。カモメの舞う海辺。美しい映像なのだ。

この映画は,大笑いさせてくれるとともに,シチリアの美しい映像でうっとりとさせ,少年の人間的成長で泣かせてくれる。私にとって最高の映画の属性なんである。音楽も切ない明るさで郷愁を誘って,素晴らしい。
 

ツタヤのレンタル DVD で『暗い日曜日』を観た。1999 年,ドイツ/ハンガリー合作。ロルフ・シューベル監督作品。主演はエリカ・マロジャーン(イロナ),ヨアヒム・クロール(ラズロ),ステファノ・ディオニジ(アンドラーシュ),ベン・ベッカー(ハンス)。出演者はハンガリーの女優,ドイツ,イタリアの男優であり国際色豊かであるが,ドイツ語で統一された映画である。

『暗い日曜日』は自殺をそそる曲として有名で,この映画は,ナチス・ドイツの台頭とユダヤ人迫害という歴史的背景のなかで,この曲を巡って作曲者,周辺人物の運命を物語るドラマである。女主人公イロナは,レストランを営むユダヤ人紳士・ラズロと若い作曲家・ピアニスト・アンドラーシュの二人を愛してしまう。男二人は人間として互いを認め合いながら嫉妬に狂った挙句,女を共有することにする。そこにドイツ人実業家にしてナチの親衛隊長にまで昇り詰めるハンスが割り込んで来る。なんとも捩じれた男女関係の訳だけど,こういう人間関係もありだと納得してしまう。それくらいイロナが魅力的なのである。好きな男とイヤな男とで女の悦びようも軽蔑の視線も決然としていて,三角関係の陰湿さをまるで感じさせないところが素晴らしい。映画に出て来る彼女のセピアの写真を見て,マリア・カラスを想起して魂を潰す人がいるかも知れない。

登場人物のどれをとっても深みのある魅力的な恋愛ものを,久しぶりに観た。世界を皮肉に眺め金にうるさく商売に徹しながらも,他者を理解し理性的に振る舞うことのできるユダヤ人ラズロ。ナチズムの権化のごとく横暴でありながら,愛する女を前にしたとき自信を喪失してしまう --- ドラマのなかでは「悪役」なんだけど --- ハンス。自分で作曲しながら『暗い日曜日』が自殺の原因となるメッセージを読み解こうとし,自らも命を絶ってしまう生命力の欠如した芸術家アンドラーシュ。

映像が少し暗く,どこかくすんでいて,ヨーロッパの映画らしい質感が堪らなかった。ラズロとイロナが自転車で二人乗りして,ブダペスト市内,ドナウ河に架かるセーチェーニ鎖橋を走るシーンは,息を呑むくらい美しかった。ふやけた中年男・ラズロと輝かしい美女・イロナが裸で明るい午前のバスに浸かってサラダを食べ,男が「石鹸で手が滑った」とふざけて女の乳房に手を伸ばすシーンも,人生は楽しいものだということがしみじみとわかり,感動的である。

ユダヤ人迫害とその怨讐がライトモチーフになっている。「洪水のあとに残るのは我々だ」(ラズロの台詞)。『暗い日曜日』が惹き起こす冒頭の死のからくりについて書くのは,ネタバレになるのでやめておく。ミステリー仕立ての結末は,間違いなく落としてくれ,カタルシスをもたらしてくれる。だけれども,作品の哀しくも麗しいロマンがちょっと殺がれたかな,という思いも私にはある。映画を観たあと年甲斐もなく感傷的になってしまい,Damia の歌うシャンソン『暗い日曜日』を妻から借りて聴いた。
 

暗い日曜日 [DVD]
メディアファクトリー (2002-11-01)

どうもこの DVD のジャケットは下品である。でも,中身は確かな作品である。つまらないハリウッド映画ばかり垂れ流すのではなく,このような美しいドイツ・東欧の作品をもっともっと映画館に掛けて欲しいものである。

妻がアマゾンから Virginia Astley の CD: Some Small Hope を入手した。このレコードは坂本龍一プロデュースによるもので,彼独特の電子音響が聞いてすぐわかるほどである。透きとおる声とヨーロピアン・テクノ風音響は,大貫妙子のファンなんかには好みのものではないかと思う。

このアルバムはアナログ・レコードで聴いて来た。妻に MP3 変換を頼まれていて,A 面まで済んだところで放置してしまっていた。とうとう CD で発売され,もはや MP3 化を継続する必要がなくなった。
 

サム・スモール・ホープ(紙ジャケット仕様)
ヴァージニア・アストレイ
スリーディーシステム (2009-09-30)

外国人参政権を巡って,官房長官の発言「地方の意見は関係ない」が批判を浴びている。でもこの問題は民主党のマニフェストにも書かれていたことである。それで衆議院の過半数を獲得させたのだから,いまさらなにを言っているのかと笑ってしまう。この問題をことさら重視するなら,民主党に投票すべきではなかったのだ。民主主義とはそういうものではないか。

外国人参政権はあくまで地方自治に限定されている。国政には適用されない。従って,安全保障や外交など日本国政府が日本国民の福祉に基づいてコントロールすべき事柄において,在日外国人の「反日」的意図により日本の進むべき道が歪められることは直接的にはありえない。「間接的」にならば,外国人参政権の問題に依存せずいつでも起こりうる。だから,これはそれ自体としては「売国」的法案というほどの意味は持たない。

私はむしろ,地方自治における外国人参政権をきちんと認め,日本に在住する人達にも地域の政策に関与しているという意識を促したほうが,日本で生活していることの権利・義務・責任や,日本国民との共存共栄をより真面目に考えるだろう,と思う向きである。それこそ自由・平等に基づく民主主義の発展観ではないだろうか(民主主義という多数決の論理が,本当によいものかどうかは別として)。

この法案は,憲法 15 条,93 条に反すると理屈をこねる人がいる。ところが実際は,憲法 15 条でいう「公務員」は国民全体に奉仕すべき裁判官や国会議員,政府役人のこと(「全体の奉仕者」)であって,地方議員・地方公務員のことではないと考えられる(神奈川県の「公務員」は長崎県民に「奉仕」すべき立場にないから「全体の奉仕者」ではない)。つまり,憲法 15 条は地方自治への参政権について定めたものではないことになる。93 条も「地方公共団体の長,その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は,その地方の住民が,直接これを選挙する」となっており,「住民」と規定するものの「国民」とはなっておらず,外国人であることによって「住民」であることは否定されない。だから,地方自治の外国人参政権は憲法に違反しない。日本国憲法において「国民」の用語は極めて意識的に使われているのである。「文体論」で日本国憲法を腐しているどこかのへんな文学者知事には,こういうことはどうでもよいのかも知れないけれど。

この法案に反対しているのは,多かれ少なかれ在日コリアンに差別意識を持つ人か,あるいは,地方自治が直接日本国の安全保障を左右すると勘違いしている人だと私は思う。反対意見(ここから私は閲覧した)はまず間違いなく在日コリアンを念頭になされているし,安全保障・外交問題を心配しているではないか。「反日コリアン」に参政権を認めるなんて売国同然? それならヤクザやゴロツキに参政権を与えることで日本国の国家政策が極道者に有利な方向に傾く・傾いている,というようなことになるのだろうか? こうしたどうしようもない日本人のほうが数の点からすれば在日コリアンよりも多い筈である。なんかクソもミソも同じにしてませんかね。

そうやって差別をするから,日本に住んでいることに対する在日コリアン自体の意識にいつまでたっても「経済活動」だけを植え付けてしまうのではないか。逆に「反日」を助長しているのではないか。地方自治という地域社会生活に密着した政治レベルでは,税金を納める「住民」を対等に扱うほうが,地域社会が強化されると私は思う。「どうせ言っても聞いてもらえない。ならば,できる範囲で自分のことだけ考えて日本人を見返してやる」という状況を「自分の意見を聞いてもらえるのなら,他人(日本人)の意見も尊重し,自分も他人もうまくゆくようにしよう」という方向に向かわせるように,この法案は働く --- 私はそのほうにより希望を見出す。

安全保障や外交は,地域社会における身近な生活の遥か上方に位置する,高度な政治レベルである。日本国籍を持たない者に国政への参政権を与えることには,もちろん私も「日本国民として」絶対反対である。それこそ「売国的」政策である。平野官房長官は国政と地方自治のレベル・役割の違いをきちんと理解している。だから名護市長選の結果(地方自治)と普天間基地問題(国家の政策)とを切り離して議論できるのである。

妻が録画してあったテレビ番組を観た。『日曜美術館・若沖特集』,『祝女』。

日曜美術館は,ナビゲータ・姜尚中のファンである妻のお気に入りである。あの声がイイのよ。一昨年,上野で『仙人掌群鶏図襖』,『旭日鳳凰図』など若沖の傑作を観て度肝を抜かれたので,若沖その人にも興味がなかった訳ではないのだが,今日は義兄がちょっと出演しているというので早送りしてそこだけ観た。彼は精神科医なのに,文学,美術などの領域でも専門的意見を求められるほどの有名人なのである。

そのあと引き続き『祝女』を観る。最近,NHK もユーモアたっぷりの世相バラエティを放送するようになった。『サラリーマン NEO』や『祝女』はなかなか面白い。今回は,友近とYOUが韓流スターにハマったアラ X を演じていて,愉快だった。YOUが,はじめはバカにしていた韓流スター「無限男子」の虜になってゆく過程をリアルに,コミカルに表現していて,笑いと悲哀を感じさせてよかった。うちの息子は「これだから中年オバサンはキモい」と酷薄である。「あたしが韓流にハマって追っかけをはじめたらどうする?」と妻。「うーん,じゃあお父さんはマン流にでもハメる,いやハマるかな」。鉄拳が飛んで来た。下品なオヤジですみません。

* * *

今日は,神奈川県立高校入学試験 2 日目。面接である。娘は早めに学校に行った。何度も練習をした甲斐があってか,卒なく応じられたらしい。昨日の小論文のとき,娘の前と横の席にいた男子 3 人組 --- 「ユーフォー」と呼ばれる男子,五角形,すなわちゴカクの「合格鉛筆」と「合格消しゴム」を机から落としてしまい「合格鉛筆も消しゴムも落ちちゃしょうがねぇ」とうるさい男子,そして,やたらと緊張して思い出したように頭を抱えて「あああ」と繰り返す男子から成る 3 人組 --- が,受験番号が近いからか,今日も娘と同じグループ枠にいて,待ち時間にコントまがいの会話をやっていたらしい。

本番で「将来の夢はなんですか」と予想どおりの質問が出た。練習のとき,私は娘に提言してあった --- 挿絵画家になりたい,という受答えは正直なところでよいけど,「じゃあ好きな作家はいますか」と突っ込みが絶対次に来るので,ちゃんと画家の名前を挙げて具体的に話ができるようにしといたほうがいいよ,と。今日,やっぱり「どんな挿絵画家になりたいか」と面接官が踏み込んで来た。「『ふたりはともだち』という絵本で見たアーノルド・ローベルのような,動物をユーモラスに表現する画家です」のようなことを娘は言ったらしい。な,お父さんの言ったとおりだろ?

一応試験が終わったので,夕方,妻と娘は近所のカラオケ屋に憂さを晴らしに行った。その間に私が煮込んだカレーは,旨かった。

沖縄県名護市長選で基地移設反対派の稲嶺さんが当選した。これで普天間の移設が「民意」によって否定されたとしてかつての日米合意の履行が事実上不可能となりつつあり,日米関係がいよいよ危機的状況になった --- マスコミの論調はこのようなものである(例えばここ。時事通信だけでなく,読売新聞も米紙報道を伝えていた)。平野官房長官はそれでもゼロベースで検討する,と「それはそれ,これはこれ」テキ発言をしてケムに撒くようなところがあり,この問題に対する政府の動きがなんとも煮え切らないように映る。

でも,たかだか普天間の移設問題で日米関係に亀裂が生じると米国が本当に考えているのか,そもそもそのあたりから私はよく理解できておらず,この政府の煮え切らなさはただそれだけの話 --- 明確にしなくてもなんの実害もないという考えの現われ --- のような気もする。米国は「思いやり予算」さえきちんと確保すれば一言も文句を言わないのではないかと。だって,沖縄の基地の意味は米国にとっても日本にとってもいまやゼロだからである。米国はいまや経済的にも,環境問題でも中国と協調せざるをえないのだ。鳩山さんもそのへんよく分っていて,多分,この件については参議院選挙への影響しか頭にないと私は思う。だから「つまらない話だけど,選挙の争点にしたくないし,5 月には収束させなくちゃ」くらいの感覚ではないのか。

面白いのは,普天間移設日米合意をこじらせるに決まっている反対派市長の当選に,民主党が肩入れしたところである。民主党はわざと「日米関係の危機」でマスコミを煽っているとしか思われない。鳩山さんは 5 月までに結論を出すと明言している。橋下知事の提案どおり関空にもってけー。涼しい顔で「また先送り」という「結論」を出して,大笑いさせてくれることを,じつは私は期待しているんである。ほかにもっと大事なことがあると思うから。

* * *

今日は神奈川県立高校入学試験前期の初日であった。ウチの娘も第一志望の高校で小論文を書いて帰って来た。昨夜は緊張して眠れなかったらしい。私が朝 5 時まで仕事をしていたのを知っていた。「お父さんみたくインソムニアだった訳よ」。そのわりに練習のとき以上に落ち着いてスラスラ書けて,余裕だったらしい。

どんなに広く漠然としたテーマでもまずはじめに自分がどのようにテーマを捉えるかを明確にしろ,それに続いてすぐ結論を簡潔に書け。本論ではその理由と例を述べよ,その際,必ず自分の身近な経験・具体的な出来事とその考察から論を展開しろ。序破急の三段構成で書け,起承転結は飛躍に走るので絶対にやめろ。結論部には纏めとともに今後の行動の課題・意志を書け,などなど,私も自分なりに少しは指導した。

テーマは自然と人間について 600 字以内で考えを書け,というものだったそうである。例年,その高校は「次の三種類の椅子の写真を見て考えるところを述べよ」風の奇矯なテーマで書かせることで知られていた。今年はしごく「自然な」ものだったらしい。娘は百人一首の引用から説き起こして,自然と文化との関わりについて書いたという。娘は百人一首を丸暗記していて,得意分野に話を繋げた訳である。その論を読んだ訳でもないのに,なかなか大した奴だと私は少し親バカになった。でも百人一首への娘の取組みは,古典文学への関心ゆえではさらさらなく,なにより学校での歌留多取り大会でトップに立つためである。ウチの中学では絶対負けないと自負している。やっぱり体育会系なんである。

今日のお休み,屋根裏部屋,私の自称書斎のお掃除をした。本当は年末にするはずだったが,LaTeX, FreeBSD のインストールに夢中になってしまった。愛用の Mac,書架,オーディオなど,私の道楽で蓄積された品々の埃を払い,煙草のヤニでべとついた表面をアルカリ洗浄液で拭き清めた。

オーディオ機器はいまやアンプ(YAMAHA C-2 プリ,B-6 パワー),アナログ・プレーヤ(Technics SL-01),CD プレーヤ(Pioneer DV-S646A),スピーカ(YAMAHA NS-1 Classic)しか使わなくなってしまった。これらは古いものばかりであるためか,最近再生音の歪みが気になるようになり,そろそろ修理かと思っていた。ケーブルを外し,接点を専用オイルで磨いた。スピーカ・コードの末端を剥いて接触部を新しくした。狭い部屋に無理して押し込んでいるところに,機器の裏側への結線は面倒この上ない。これは CD,これはチューナ,これはレコード ... と行き先をタグしつつ,プリアンプに繋いでゆく。とくに YAMAHA の B-6 パワーアンプはピラミッド型の特殊な形をした優れものなんだけど,ピラミッドの裾のわずかな間隙からスピーカ・コードを食わせるのがなかなかうまくゆかずチョーイライラ。なんとか終わって接続の動作確認をする。

再生音の歪みがキレイに解消した。完全復活。これだから 1 年に 1 回は接点のメンテナンスをしなくちゃいけない。バッハのヴァイオリン LP,ビル・エヴァンスのピアノトリオ CD を聴く。やっぱり YAMAHA・Technics 製の古い再生装置(もう 30 年モノなのだ)は,音に艶があっていいなあ,とひとり悦に入る。
 

3f_audio_1.jpg

普段聞いていない FM/AM チューナ(KENWOOD KT-5020),BS チューナ(SONY SAT-100RX),予備のアンプ(Technics 70A プリ,60A パワー)にも通電した。SONY 製のカセットデッキ(TC-K555ESX)と MD レコーダ(MDS-E55)が壊れていた。機械動作の多い機器は,使っていないといつの間にかこのザマである。まあ,いまはもう必要性も限りなく小さそうなので捨て置くことに。
 

3f_audio_2.jpg

3f_audio_3.jpg

息子が iPod に曲を入れたいので Mac を貸してくれとやってきた。私が中学・高校生のころはオーディオやカメラが欲しくて堪らなかったが,最近の子供はこれらにまったく興味を示さないようである。なによりゲーム機,携帯電話,iPod の最新機種に物欲が働く。音楽は iPod などのポータブルオーディオで楽しむだけで十分なのである。iPod ひとつあれば,あとはとにかく好きなアーティストの CD をレンタルしまくって,金をかけず音楽を楽しんでいる。「使わなくなったアンプをやろうか,Technics 製の昔の高級機だぞ」と言っても,「場所とるからイラネー」とにべもない。「お父さんはスピーカから出てくるよい音響で音楽を聴かないとダメなんだよな」と言っても,まったく理解されない。ま,金をかけずとにかくたくさん新曲を聴きたいという音楽の楽しみ方としては,息子のほうがしごく合理的なんである。オヤジの道楽はつまらないところに執心しているのかも。

今夜,衛星放送で大貫妙子のアコースティック・コンサートの模様が放映された。妻が目敏く番組表で見つけ,家族で観た。流行に流されずに,本当によいものに時間を割く --- これが NHK と他の放送局との「決定的な」違いである。

私は「JPOP」が大嫌いである。育ちのよい人達の,育ちのよい人達による,育ちのよい人達のための,ただの恋愛讃歌ビジネスには虫酸が走る。私のそういう思いは 1980 年代以降の日本人の趣味の否定でもある。大貫妙子のライブ映像を見て,この思いを強くした。

講談社文庫から高橋克彦の自選短編集が何冊か出た。高橋克彦は,『写楽殺人事件』,『北斎殺人事件』以来,日影丈吉,中井英夫,夢野久作,小栗虫太郎,江戸川乱歩,久生十蘭,横溝正史と並んで,日本のミステリー作家のなかでもとくに私の贔屓にしているひとりである。そして恐怖小説の質の点では,これら作家のなかでもベストといってよい。

自選ということもあり,収録作品はいずれも甲乙つけがたい佳品である。『ゆきどまり』,『ねじれた記憶』,『母の死んだ家』,『うたがい』,『寝るなの座敷』,『私の骨』... 私の偏愛からすれば,いわゆるホラー小説とは違って,高橋の恐怖小説はおぞましさ・グロテスクではなく,恋愛小説の土俗的歪みにこそその本領がある。東北のどこか荒唐無稽にすらみえる怪異伝説に,母性的存在への近親相姦じみた思慕や,記憶・人間意識そのものの踏み外し・裏返しやを絡めて,ドロドロした情念を描く。歪んでいる。けれどもめちゃくちゃ甘美なんである。こういう短編を読んでいる時がいちばん私は仕合わせである。

『寝るなの座敷』には座敷童子(ざしきわらし)の話が出て来る。

不意に背中から声がかかった。振り向くとおかっぱ頭の六,七歳の少女がスケッチブックを覗きこんでいた。[ ... ] 黒い利発そうな瞳に生気が溢れている。赤いスカートから伸びた細い膝頭には擦ったかさぶたもあった。頬っぺたの赤い元気そうな子だ。
『高橋克彦自選短編集 2 恐怖小説編』講談社,2009,p. 448. 下線は私。

これは,洟垂れ小僧や頬の赤い子供が最近どうしていなくなってしまったのかとの不審感を抱かない者には,絶対に引っ掛からない描写である。つまり「わかる人にはわかる」描写 --- 高橋の唸らせる手法のひとつ。こういう白昼のさりげない筆致はあとで思い出して怖くなる。この子は主人公が宿泊する旧家の座敷童子だった。主人公はその「寝るなの座敷」で怪異に遭遇するが,座敷様の眼に叶い,美しい娘の婿として認知される。

私の妻は岩手県和賀の生まれである。ある年の冬,彼女の実家をはじめて訪れた寒い夜,私は立派な丹前を宛ってもらい,妻の祖母と炬燵で世間話をした。私は無遠慮にも手酌でひとり麦酒を呑んでいた。そのあと寝間でぼっとしていると,妻が部屋に入って来た。私には,そのときの彼女がおかっぱ頭の頬の赤い子供のように見えた。と同時に,私の着た丹前の右肩に巨大な亀虫が止っているのにふと気づいた。その悪臭をなぜか私は,心置きなく味わうように目を閉じて深く吸い込んだ。翌日,妻の両親に「娘さんをください」と申し入れた。あとで妻から聞いたところによれば,祖母 --- もう亡くなって二十年近くになる --- が私を一目見て太鼓判を押してくれたので,妻の両親はなにも言うことがなかったそうである。

昨日の夜中の三時ごろ,『寝るなの座敷』を読み終わり便所で煙草を吸っていたら,突然,その北上の夜の記憶がありありと甦って来た。私は了解した --- あれは妻ではなく座敷童子,あの部屋は『寝るなの座敷』だったのだ。ベッドでは妻が静かに眠っていた。私は布団に潜り込みながら,「さっきトイレで座敷童子に逢っちゃったよ」と冗談混じりに囁いた。すると妻は「その子,消えていなくなっちゃったんじゃないよね?」と,背を向けたままはっきりと応えてまた静かになった。私は本当に怖くなった。

座敷童子がいなくなるとその家は不幸になるそうである。
 

FreeBSD のインストールをする合間に,西鶴『好色五人女』を読んだ。

この作品は,『好色一代男』のような遊郭を舞台としたスキ者の運命ではなく,主として町人男女の姦通とその悲劇的結末を物語るものである。当時世間に騒がれた姦通スキャンダルを題材にしたものだという。要するに色事のプロではなく,パンピーが主人公であり,それだけ男女の業がより浮き彫りになっているともいえる。どこまで事実でどこからフィクションなのかがわからない醜聞話であって,おそらく当時はいまの週刊誌の芸能ネタとまさに同じように読まれたに違いない。

艶笑と滑稽,そしてその残酷なまでの哄笑に支えられた悲哀。これがこの物語の魅力である。安価な正義観や倫理観抜きに,色恋をここまで笑い倒すのは痛快であり,また狂ったような残酷さがその笑いになんともいえない悲哀を滲ませる。唸らさせられるのである。

巻一『姿姫路清十郎物語』では,清十郎とお夏は駆け落ちに失敗して連れ戻されてしまう。引き離された挙句,清十郎はあらぬ罪で処刑されてしまう。それを知らぬお夏は,口性ないガキどもの歌う世の風聞囃子を耳にする。

何事も知らぬが仏,お夏,清十郎がはかなくなりしとは知らず,とやかくもの思ふ折節,里の童子の袖引き連れて,「清十郎殺さばお夏も殺せ」とうたひける。聞けば心にかかりて,お夏育てし姥に尋ねければ,返事しかねて涙をこぼす。「さては」と,狂乱になつて,「生けて思ひをさしやうよりも」と,子供の中にまじはり,音頭とって歌ひける。
新版『好色五人女』谷脇理史訳注,角川文庫,2008 年,185--6 頁。下線は私。

主人公をスキャンダルで物見高い世間の食い物にしつつ,ヒロイン自らにその面白半分の歌の音頭をとらせるなんて,残酷としかいいようのない狂い方をさせている。巻五『恋の山源五兵衛物語』は形式的にはハッピーエンドとなっているが,落ちぶれ,食うに困った主人公・源五兵衛とおまんに,我が身の上をパロディにするヘタな芝居事を子供相手にさせている。

「思へばいやのならぬ陥し穴,釈迦も片足踏ん込み給ふべし」--- 誰も拒めない女のあそこの落とし穴には,お釈迦様だってきっと片足を踏み込んでしまいなさる(296 頁)。「ほんにおれは,生まれ付き横ぶとれ,口小さく,髪も少しは縮みしに」--- あたしは,生まれ付き太めだけど,あそこは締まって毛も縮れているんだから(176 頁)。このようなあけすけでいきいきとした下ネタがわんさかとあり,もう笑いが止まらない。
 

会社の帰りに川崎のレコード店に少し寄り道した。ピエール・ブーレーズ指揮,アンサンブル・アンテルコンタンポラン,シカゴ交響楽団等の演奏によるストラヴィンスキイ・ドイツ・グラモフォン・コレクションを見つけた。どうも発売されたばかりらしい。6 枚組輸入盤で,なんと 3,690 円。迷わずゲットした。『春の祭典』,『ペトルーシカ』,『火の鳥』,『夜鶯の歌』,『兵士の物語』などの代表作,歌曲などとともに,なによりうれしいことに,室内楽集が収録されている。輸入盤 LP で愛聴してきたが,今回やっと CD になったのではないだろうか。

ストラヴィンスキイの室内楽は,あまり録音がない。15 奏者のための 8 つの器楽ミニアチュール,弦楽四重奏のためのコンチェルティーノ,フルート・クラリネット・ハープのための『墓碑銘』,ヴィオラソロのためのエレジー,弦楽四重奏のための二重カノン。いずれも絶品なのに。いろんな演奏家の盤を聴いて来たが,ここに収録されたアンサンブル・アンテルコンタンポランによる録音がモダンで,きびきびしていて,私のいちばんのお気に入りである。とくにジェラール・コセ独奏によるエレジーがよい。
 

Boulez Conducts Stravinsky
P. Boulez (Dir),
Ensemble InterContemporain,
Chicago Symphony Orchestra,
The Cleveland Orchestra,
Berliner Philharmoniker.
Deutsche Grammophon (2010-01-19)

今日,相撲を観に両国国技館に行って来た。はじめての経験である。妻の担当した俳人が時津風部屋後援会の名士で,一階枡席に招待してくれたんである。妻の勤める出版社社長夫妻と四人で飲み食いしながら大相撲の臨場感を堪能した。息子がセンター試験のため渋谷に勝負に行くというのに,親は夫婦そろって物見遊山。少し呆れながらも,それはそれ,これはこれ。息子の健闘を祈りつつ,出かけたのである。テレビで観るのとはまったく違った。観客のどよめき,力士の肉体のてかり,投げの躍動はなんともいえなかった。

高見盛,琴欧州など人気力士が登場すると場内が騒然となって四方から声が上がる。先日千代大海を倒して幕内勝星の記録を打ち立てた魁皇関への声援も凄かった。それでもやはり横綱の貫禄には敵わない。朝青龍のガン付けパフォーマンス,それに続く危なげない取り組み。さすがである。社長のご贔屓・身長 169 cm の前頭・豊ノ島が身長 191 cm の旭天鵬を素晴らしい投げで打ち破った。小よく大を制す,のとおり今日もっとも見応えある一番であった。社長は上機嫌。この豊ノ島こそ次の大関だとしきりに誉めていたのである。

懸賞取組について社長から興味深い話をきいた。あれは一本三万円くらいだそうで(*),うち半分が勝った力士に,残りの半分は相撲協会に渡るという。協会は力士の後年のための積み立て金として貯蓄するんだそうである。社長は一本三万ならウチも出そうかと思ったがなかなか踏み切れないとのこと。相撲の世界を知る者独特の控え目があるのかも知れない。永谷園,マクドナルドは何本も懸賞金を出していて,一言企業紹介アナウンスがその本数分続いてじつに面白かった。一懸賞取組当り必ず四本出す永谷園は「味ひとすじお茶漬けの永谷園,さけ茶漬けの永谷園,梅干し茶漬けの永谷園,わさび茶漬けの永谷園」という具合。永谷園は相撲の世界では重鎮企業というイメージが定着しているようだ。観客も定番のようにアナウンスを聞いて興じていた。
(*) 2/8 付記:「一本三万円」というのは長年相撲を観ている社長の話である。今日現在の実際の懸賞額はもっと高額だとも聞く。

高見盛に「永谷園!」と声援を送るお隣の客には,つい笑ってしまった。この隣の客,めっちゃうるさいオヤジで,不甲斐ない大関・琴光喜には「カネ取る前に相撲取れ!」と檄を飛ばし,元楽天監督・野村さんが NHK のゲストに来ているのを認めると「ノムラー頑張れー」と叫び,結びの一番では行司に「ショーノスケェー」と呼ばわり,臆面がない。こういうファンの行動も,テレビでは味わえない面白さのひとつである。

私はじつは,結びの一番の番狂わせが惹き起こす,座布団の飛び交うあの騒擾を是非観たかった。そして,なんと横綱・白鵬が関脇・把瑠都に敗れるという大波乱が起こり,期せずしてそれを目にした。社長によれば,座布団投げは禁止行為との話だったので,私は投げなかった。白鵬は今場所 6 連勝中,通算 30 連勝中だっただけにがっくり来ていた。相撲の醍醐味は観客が作る。この大いなるどよめきのなか,弓取りが繰り広げられ,呼出がまるで誰もいない公園での仕事でもあるかのように静かに帚を掃いている。この動と静が私には堪らなかった。

麦酒,日本酒,幕内弁当,焼鳥など飲み食いした挙句,「お土産」までいただいた。枡席の客は,相撲茶屋と呼ばれる接客業者に席へ案内され,料理を運んでもらい,お土産を受け取って帰るのである。いったいいくらかかったのか知らん。一階の四人枡席が 45,200 円とあったが,これは観戦だけの料金だろうと思う。ご祝儀の慣習もあると聞く。でも,ごくごくたまにこういう行楽をなす値打ちが確かにある。

相撲協会は先般,大麻問題で批判を浴び,大激震が続いた。日本人力士の成績が振るわないところも,相撲人気の伸び悩んでいる原因かも知れない。でも,こんなスペクタクルを見せられると,そんなことどうでもよいという気になってしまうから不思議である。裸の力士はホント,カッコいいのだ。枡席観戦はセレモニー価格だとしても,自由席なら大人 2,100 円,子供は 200 円で,プロ野球観戦よりもずっと安い。これからちょくちょく足を運びたくなってしまった。

番付を貰って来るのを忘れてしまった。力士の錦絵が欲しかったが手が出なかった。でも,貰ったお土産に江戸の力士が描かれたバスタオルや,軍配をあしらった茶器があり,満足した。私は自分の甲斐性ではこのような経験がとんとできないが,妻のコネで今回ありついた。招待してくれた俳人の先生,社長ご夫妻に多謝。
 

20090116sumo.jpg

FreeBSD インストール大会 5 日目。Emacs 最新版の導入に取り組む。ChangeLog 2010.1.12 の履歴も新しい 23.1.91 である。

Emacs の開発最新版はかつて Emacs-CVS と呼んでいたと思う。だが昨年末,バージョン管理システムが Bazaar に変更され,これに伴いいまやチェックアウトを bzr コマンドで行うようになった。「伽藍からバザールに」という訳か。Download and Install Bazaar から FreeBSD 向けアーカイブ bzr-2.0.3.tar.gz をダウンロードし,展開後のディレクトリで python setup.py install を実行するとインストールできる。Python 2.4 以上が必要である。

Emacs 最新の trunk の取得は以下のとおり。bzr branch に恐ろしく時間が掛かる。CVS のころが偲ばれるほどである。bzr 実行のたびに No handlers could be found for logger "bzr" が出て煩い場合,$HOME/.bzr.log に書き込み権限を付加すれば解消すると思う。

% bzr branch --stacked http://bzr.savannah.gnu.org/r/emacs/trunk emacs-trunk
% cd emacs-trunk
% bzr pull

このあと,Emacs をビルドする。INSTALL ドキュメントによれば,./configure はオプションなしでよいようである。gmake が終了したら,./src/emacs -q & で,できたてのモジュールの動作確認をする。OK なら,スーパユーザで gmake install

% ./configure
% gmake
% ./src/emacs -q &
% sudo gmake install

そのあとは,site-lisp をバックアップからコピーし,Mew だけを再度インストールし直した(Mew は実行ファイルも提供しているため)。今回は,珍しく,なにも問題がなく終了した。

* * *

娘の受験準備で小論文・面接の練習に付き合う。こういうことに対しても,きちんと「準備」をし,父や母を掴まえて練習しようとする態度は,私よりも妻に似たようである。そう,「準備」をしたかどうかが大事なのである。私も会社訪問してくる就活学生の面接官をやったことがあるが,「当社のどこに興味をもったのか」など,聞かれて当たり前のことにも,内容を整理して応えられないヤツがいる。こちらは立派な意見を聞きたいのではなく「あらかじめ準備しているかどうか」をチェックしているだけなのに。

「自分のよいところを PR してください」,「本校を志望する理由はなんですか?」など基本中の基本にはじまり,「2009 年を象徴する漢字はなんだったか知っていますか? また,あなたにとっての 2009 年の漢字はなんですか?」,「2009 年に日本で起こったことでなにがいちばん大きな出来事だと思いますか?」,「地球温暖化のなにが問題だと理解していますか?」など時事問題についても質問。とにかく相手の顔をちゃんと見てハキハキ応えること。「夜なにを着て寝ていますか?」---「そういうご質問にはお応えできません」。そうそう,それでよい。

FreeBSD インストール大会 4 日目,会社にゆく直前に統計処理ソフト R-2.10.1 のビルドを仕込んだ。make config-recursive であらかじめ前提パッケージ含めたオプション設定を行ってから make すると,例外が起こらない限り問い合わせをせず最後まで突っ走る。

R は数値計算ライブラリ ATLAS オプションを付けると,ATLAS のコンパイルが延々と続く。さっき帰宅して確認したら,まだ動いている。生成時間において,Java,Emacs,LaTeX の数段上を行くパッケージである。モジュールが多いということはそれだけ関わる人間の裾野の広大さを示している。コンパイルに,できたてほやほやの gcc/g++ 4.4 や Fortran 95 など,コンパイラ成果の最先端を要求する。じつは Java,LaTeX,テキストエディタなんかよりも科学技術の本質的発展に貢献しているソフトウェアだということが,こういうところでわかるのである(?)。

* * *

いまテレビでは,ハイチの大地震と,民主党小沢幹事長のカネ疑惑でもちきり。

ハイチは国民の 1/3 が壊滅的被害にみまわれたと聞いた。死者は数十万人とのこと。貧困に苦しむ国がさらに天災の追い討ちにさらされるなんて,言葉もない。地理的にも近い米国が空母まで動員して救助・復興支援に乗り出しているのを朝のニュースでみた。

小沢さんの件は,政治主導などと「おこがましい」ことを宣う政治家を,官僚がいよいよ牢屋にブチ込んで,従来の権力を誇示しようと動き出した,ということだと思う。ウラ献金問題に絡んで立件されるとなると,小沢さんはハメられたも同然。産経新聞が大喜びしている。でも,小沢さんはこれを乗り切れば本当に権力を掌握したということになるのかな。日本は官僚権力絶大国家の代表なので,ちょっと不謹慎ながら,ここらでひとつ政治家が官僚を打ち破り,「法に則って」粛正する様をみてみたい,というのが私の正直なところなんである。これで本当に「政治主導」が実現されつつあるのかどうかがわかるからである。でも,マスコミも裁判所も官僚になびくこの国では無理だと思う。

お隣のお婆さんのお通夜に行って来た。マイクロバスで送迎があった。帰りのバスのなか,近所のおばさんたちがかしましくて辟易。今夜も雨が降り,寒い。

ptexlive を IBM ThinkPad X40 FreeBSD 6.2-RELEASE に組込んだら ttf2tfm などが 7.0 でビルドされていてリンクエラーとなった,ということもあり,2 年ぶりくらいにバージョンアップすることにした。X40 はフロッピーも CD-ROM ドライブも付いてないので,今回も pxeboot でネットワークインストールを行った(最近の FreeBSD には USB メモリ・スティックに boot loader を格納してインストールする手段もある)。まず 7.2-RELEASE を入れたんだけど,インストール後の設定ドキュメントを FreeBSD サイトで調べていたら,なんと 8.0 がリリースされていることがわかり,7.2 から freebsd-update まで実行しなければならなかった。

今回悩んだのは,いつものとおりというか,やはり X11 の設定であった。前回と同様に Xorg -configure で自動生成した config を X -config xorg.conf.new で試験するとエラーで落ちる。この config にはスクリーン定義が 2 セットあって,要するにマルチスクリーンが前提のようなコードになっていた。これをひとつに減らして,再度実行。ところが真っ黒な画面が出てマウスを動かしてもウンともスンとも反応しない。6.2 のときは Intel i810 ビデオチップ用のドライバを使っていたが,どうも Xorg の新しい版では intel ドライバに統合されてなくなっていた。これが原因と考え,なんとかうまく動かす方法を Google で探しまくったが,まるで見当たらない。ええ?,こんなメジャーなビデオチップが動かないなんてノート PC じゃ使えないも同然じゃねえかと,FreeBSD の暢気モードが少し頭に来たところであった。

新しい Xorg 7.4 を FreeBSD 7 以降で動かすには,/etc/rc.conf

dbus_enable="YES"
hald_enable="YES"

を書いておくというのは,調べがついていた(moused_enable="YES" 行があれば,これをコメントアウトしておくこと)。これを追加してリブートしてもブラック画面が出る。試しに,X -config xorg.conf.new ではなく,config なしでいきなり startx を入れたら,なんとすんなり動いて twm のあの飾り気のないターミナルがふたつ現われた。つまり・・・ブラックアウトしているように見えた画面は,ひとつも X クライアントを起動していない X11 の地に過ぎないという訳だったのである。それなら真っ暗な画面にしないで少しは色気を出せよ!とまあ怒りが頂点に達したところで,このブラックユーモアに充ちた不親切さこそ UNIX だと改めて合点がゆき,その後はひとり笑い転げる始末であった。

改めて FreeBSD Handbook を読むとちゃんと書いてある。きちんとドキュメントを読むこと。少なくとも ISO 8859-1 英語版(日本語版はメンテナンスがまったく追い付いておらず,FreeBSD 最新版に関しては記述が信用できない)の FreeBSD Handbook/usr/ports/UPDATING には必ず目を通すこと。

Starting with Xorg 7.4 and above, this test produces a black screen which may make it difficult to diagnose whether X11 is working properly. The older behavior is still available by using the retro option:
  # Xorg -config xorg.conf.new -retro

いま,井原西鶴の『好色五人女』を読みながら,愛用のアプリをしこしこ導入しているところである。面倒な Java と Emacs は夜中に実行・放置を目論む。なんか年末・年初は LaTeX,FreeBSD と大物のインストール大会になってしまった。大いなる時間の無駄だけど,どうせまた 2 年はこの版と付き合うのだろうから,しようがない。

[※ 1/13 付記]

その後,hald が CPU を占有してしまうという問題が発覚し,hal-0.5.13_12 にバージョンアップすることでこれが解消された。しかし,このため,ports-current への入換え,依存関係パッケージの更新にえらい時間がかかってしまった。FreeBSD をインストーラで導入した直後に,FreeBSD の ftp サイトから最新 ports をダウンロードして,入換えておくことを強くお勧めする。この場合,インストール・パッケージの少ない時点で portupgrade -a -r を実行しておく。その後に愛用のアプリをインストールしよう。

もうひとつ注意事項。hald,dbus 環境では,CapsLock と Ctrl キーを入換えるなどの定義は,従来のように xorg.confXkbOptions 設定や xmodmap では効かなくなった。/usr/local/etc/hal/fdi/policy/ 下に xxxxx.fdi (xxxxxx は任意) というファイルに,以下のような XML を書いておかないといけない。

<?xml version="1.0" encoding="ISO-8859-1"?>
<deviceinfo version="0.2">
  <device>
    <match key="info.capabilities" contains="input.keyboard">
      <merge key="input.x11_options.XkbOptions" type="string">ctrl:swapcaps</merge>
    </match>
  </device>
</deviceinfo>

これは私の X40 英語キーボードの場合である。106/109 日本語キーボードの場合は <merge key="input.x11_options.XkbModel" type="string">jp106</merge> も,XkbOptions 設定行とともに必要である。

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ISAO。システムエンジニア。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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