第二章は、登場人物の紹介がおもな内容である。作者は、文学臭をもった登場人物の特徴をアイロニカルに描く。
「シラーとゲーテをはぐくんだ/空の下 二人の詩人の詩の火を享け」[2(章), p.70(木村訳本ページ)] た感傷主義的・理想主義的詩人のレンスキイ、「どんな小説を開いてみても こうした美女は/見つかるはず」[2, p.84] のオリガ、「彼女にとって/小説はすべてであった」[2, p.90] タチヤーナ。オネーギンにはチャイルド・ハロルド [1, p.42] のみならず放浪者メルモス [1. p.9] の相貌が与えられている。
とくにレンスキイの描写には笑ってしまう。第六章からの引用だけど、感傷的なもって廻った詩人の詠嘆に対して、作者は一言の要約を対置し、前者を相対化する。
彼<レンスキイ>は心に思うのであった。『この人の
救いの神におれはなるのだ。女たらし<オネーギンのこと>が
溜め息と賞讃の火をかき立てて
若い心をたぶらかすのを
人のさげすむ毒虫が しおらしい
百合の茎を食い荒らすのを ようやくきのう
咲いたばかりの花が見す見すまだ半開きのまま
しぼんでゆくのを おれは黙って見ていられない』
友人諸君 これはみなこういう意味だ
『ぼくは自分の親友とピストルで決闘します』[6, p.249]
文学(いまならマンガ、テレビのメロドラマも含めてよい)のヒーロー、ヒロインをわが身に幻想する心情を現実・常識・散文的日常と対置することで、そのおめでたさを暴くわけである。しかし皮肉なまなざしでこき下ろすだけではなくて、そこには笑えない真実をも作者は充当したことを忘れてはならないと思う。これこそが登場人物に奥行きを与えているのだ。つまり皮肉な照射を受ける要素は、否定されているというよりも、やはり相対化されているといったほうがよい。
われわれみたいなヒュメン<婚姻の神>の敵は
家庭生活なるものを ラフォンテーヌの小説に
出てくるような 退屈きわまる情景の
連続としか見ないのに……思えばふびんな
レンスキイ 生まれつきこうした暮らしに向くような
心を彼はもっていたのだ。[4, p.191]
登場人物の文学臭い特徴描写は、ロシアフォルマリズムの分析以来言い古された指摘であって、『オネーギン』作品理解の常識ともなっている。さらに Yu. ロートマン(日本では芸術記号論の大家としてつとにに知れ渡っているが、私にとっては超一流のプーシキニスト、文学史家である)は、文学そのものの仮構性をむき出しにするパロディー構造を、その優れた『オネーギン』の注釈書において、明らかにしてくれる。
詩の構想や主人公の名は
もう考えてある。
これでどうやらこの小説の
第一章は書きおえたぞ。[1, p.61]
このように作者は、『オネーギン』という作品そのものを相対化してしまって動じない。もっと面白いのは語り手そのものを相対化してしまうところである。「私」はどうもひとりではないかのようである。
本当にまぎれもなしに
哀歌の趣向も出て来ぬうちに 私の生の
春はむなしく飛び去ったのか?
(今まではたわむれにそう言いもしてきたけれど)[6, p.275]
エヴゲーニイは、きらびやかだが空虚な社交生活に若くして失望し、分別を身につけた人物としての一面を発揮する。
彼は微笑を浮かべつつヴラジーミルの言葉をきいた。
熱っぽい詩人の言葉
まだあやふやな判断力
いつまでも感激の失せぬまなざし—
何もかもオネーギンには珍しかった。
相手の興をさます言葉はなに一つ
口にすまいとつとめつつ エヴゲーニイは
心の中で思っていた 束の間のしあわせに
水を差すなど愚の骨頂
自分が世話を焼かずとも その時はやがて来るはず
それまでは生をたのしみ
世の完全を信ずるがいい。
血の気の多い年齢に免じて
若者らしい情熱も空想も許してやろう。[2, p.76]
このようなエヴゲーニイのシニカルな視線は、しかし、のち当のエヴゲーニイそのひとに巡ってくる。後半、彼のことをバイロンの「結局パロディーなのではあるまいか」[7, p.300] とタチヤーナは結論づける。第四章において、家庭の幸福を嫌うエヴゲーニイは、タチヤーナの恋心を「すこぶる立派に」[4, p.161] はねつける。ところが第八章で、今度は、貴婦人に変貌したタチヤーナに「子供のような恋をした」[8, p.360] エヴゲーニイは拒絶される。わが「運命」に従うのみとタチヤーナは断言する。
さて今日はわたくしの番がきました。[8, p.376]
まるで自分で掘った穴に落ち込むかのようである。それは「もうとうにその原因を/たずねてもよかったはずの病気」[1, p.42] に陥った主人公の笑えない真実であり、作品の悲劇性はそこにある。作者プーシキン自身こそが、「名誉のぜんまい、われらが偶像!」[6, p.245] と皮肉った激情のまにまに、登場人物と同じ轍を踏んで決闘で身を滅ぼしたのは、非常に興味深い。
「作者」をも含めて叙述要素を相対化する構造が、この作品のもっとも面白いところであり、凄さであり、現代文学でも珍しい知的興奮をもたらす。
プーシキンはどこかで「虚構と知りつつ涙に咽ばむ」と言っていた。『オネーギン』のテーマには文学の虚構性と真実性の問題があったんだと思う。

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