クリスマス・プレゼントに万年筆をもらって、目を輝かせる小学生がいる...
そんな子供、本当にいるのか、なんて考えてはいけない。中学の入学祝いに大伯母さんからセーラーの万年筆をもらった。この小学生のような空想未来小説への憧れと書きたいという思いはまるで私にはなかったけれど、うれしかった。書いたら消せない、鉛筆とは違う、後戻りを拒む万年筆。ちょっとした緊張感を覚えたものだ。
最近は万年筆、鉛筆などの筆記用具でもって紙に文字を書きつけることが少なくなった。仕事でも、プライベートでも、いま私がしているように、コンピュータ(あるいは携帯電話?)に向かってタイプする。私はこの行為をも「書く」などと平気で「書く」。
書家石川九楊の書『書字ノススメ』は、こんなコンピュータ・タイピストたちを批判している。彼によれば、書くということは筆を通して人間が身体の過去と現在を定着させる感触/行為に他ならない。これを「筆触」といっている。ワープロなどで文章を作るのは人間精神の所作ではないと断言する。キーボードのボタンを押す動作の延長に立ち現われる、自動出力された一様の文字からは、生のまともな発露は望めないというのだ。
「うむ。過激だなあ」と少し辟易する。人間が己の手でわが身の存在を無なる空間に定着させてゆく感触/行為そのものこそが書くことの本質である、というのは、しかし、へたな身体論より気迫がある。気負い、逡巡、動揺などのそのときの精神状態や、修練、経験、考え方、感じ方などの生の蓄積が、運筆の時間の過程で、人間精神を象徴する文字、言葉として、析出すること。
こんな私でも、システム/プログラムの設計や、顧客提出資料のスケッチをなすときは、妻がくれた WATERMAN の万年筆で大学ノートに書く。計算機に向かって入力するのは「設計」が終わってからでないとダメである。思考を研ぎすまそうとすると、手を動かして、真っ白な無の広がりに対し、自分自身のその場限りの文字やイメージを書きつけてゆくのである。石川の主張とは少しずれるが、人間の精神のいとなみの核心部分と書く行為とが、たしかに直結しているような気がする。
昔の侍が刀で人を斬るのと、現代の軍人がミサイルの発射ボタンを押すのとの違いをなぜか連想してしまう。後者には殺傷のリアリティはない。この書家の論ずるところに人間的なるものを感じる所以である。


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