昨年10月、和歌山にいる友人から一冊の本をもらった。辻邦生と水村美苗の往復書簡集『手紙、栞を添えて』である。
水村美苗は、実はこの本ではじめて知った作家である。妻に聞くと、『續明暗』を書いたひとでしょ、と教えてくれた。最近の小説にも注意を怠らない妻が少し眩しく見えた。私は昔から純文学というもの(いまもこんな概念が流通するのかはわからないが)をあまり読まない。とくに働きはじめてからは、推理小説やスパイ小説、新書本ばかりが通勤電車の道づれとなっている。
10末納期のシステム開発がピークだったので、なかなか『手紙...』を手にとる時間がなかった。11月になった土曜日にようやく読みはじめた。ところがたいへん筋のよい本で、久しぶりに読書で徹夜をしてしまった。
この本の立場は「To the happy few」というスタンダールの引用に集約されている。書かれた物語になんの偏見も先入観もなく触れ、喜びを見つけることのできる少数のひとたちへ。物語がもたらす世界のすばらしさを、気取りもスノビズムもなしに、語り開いてくれるのだ。
書簡体の対談論集にしか見出せない自由で、美しい書法。ことにプロローグとエピローグの美しい語りを堪能した。トスカーナの古い僧院の鐘の音,信州の透明な風のトンネル。読むことそのものの喜びを説くのに、なにものにも代えがたい文章だと思う。
「人間の精神には、今ここに流通する言葉から抜け出したいという欲求がある」との水村美苗の洞察にはまったく同感。日常から物語に、ときには、抜け出したい。唸った延長でこの言葉を、旧仮名遣いに関する駄文「misima について」のエピグラフとして頂戴してしまった。私自身は旧仮名遣いなんかで日常から離脱する色気はこれっぱかしもないのだけれど。
本を送ってくれた友人は、新年のメールで水村美苗の小説『本格小説』を勧めてくれた。まだ本屋に行く機会がないが、時をおかず読みたいと思う。


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