2006年3月アーカイブ

会社のビルとその裏手にある高層マンション区画との間に小道があり、桜並木がきれいである。今日、もうほぼ満開になっていた。お午を食べたあと、花見がてらしばらく散歩をして、いい気持だった。冷たい、少し強い風が吹き、枯れ木にとまった烏の鳴き声が高いところから響きわたってのどかだった。かれえだに烏のとまりけり春の午。くだらない。

トラブルプロジェクトも三月末を向かえカリカリも絶頂に達しつつある。プログラマのケツをたたいてお客との約束の日に対策版ソースコードを入庫させたが、これを顧客計算機に組み込む SI チームがもたもたしてなかなか検証環境でのテストに入れない。事情をきくとやり方がわからないという。私は頭にきた。あなたがたはいままで、このひと月、いったいなにをやってきたんでしょうか? どうも手順を教えてもらわないと自分ではなにひとつ開拓できないらしい。こちらは仕様書のないわけのわからないシステムの問題点に対し、プログラマといっしょになってやっとバグを摘み取り、お客との約束をやっと全うできるぞと思いきや、このざまである。しようがなく私の子分に命じて、検証マシン用アーカイブのビルドとデプロイという SI チーム作業を肩代わりさせなければならぬ始末であった。おかげで約束の三月二十五日朝いちばんの期限から9時間遅れてリリースとなってしまった。私は二十四日の夜、詫びのメールを顧客担当者に入れた。ところが、お客も怒っているわけではない。というか当日は土曜日でハナから試験するつもりにはなっていなかったようである。一日も早くという要望に対し、どうしても土曜日の朝になってしまうという私の対策スケジュールの説明に、顧客は不承不承合意したにもかかわらず。結局顧客が確認をはじめたのは今週月曜日になってからであった。私は頭にきた。ひとに死ぬ思いの仕事をさせておいてふざけている。

そんなこんなで最近、つとに気が滅入ってしまう。なにかにつけて噛みつきたくなっている自分があわれである。

SI チームの教えてクンぶりにあきれたついでに、TeX の Q & A などで見かける教えてクンその2の特性について。そう、SI チームの教えてクンと同様、ひとにものをきいておいて、頼んでおいて、私の顧客と同様、その回答・成果が得られてもなんのレスポンスも返さないものがいる。回答を出したひとはいったいなんだったんだろうか。金の問題、依頼者と委託者の問題ではない。わかりました、これからはこう進めればよいんですね、となぜ総括をしないのか。うまくいった、ありがとう、となぜいえないのか。今度はオレの仕事をまっとうする番だ、となぜしゃかりきになれないのか。まったくひとの労苦というものをナメているのだ。

私は TeX の Q & A では私自身関心のあるテーマについて雑談めいた A しか書かないが、自分の興味とは無関係の初心者の質問にも親切に応答するパワーユーザの方々がいて感心してしまう。一方、ひとにものをきく態度がなっとらん式の手厳しい苦言を呈する方もいて、なかなか面白い。なかにはいいがかりめいた無意味な挑発を認める者もいるにはいるが。私なんかまずもってあきれてみているだけであるのに。

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今日、私は出勤だったこともあり、妻に頼んでアスキーの『UNIX MAGAZINE』、通称ユニマガを買ってきてもらった。この4月号から季刊になったようである。実は最近、ユニマガについて、価格が220円上がったのも不満ではあるが、いまひとつ面白くないと感じていたのである。読者が減っているようである。ここのところ、読む目的がいまひとつわからない構築事例風の記事が多いように思う。Linux のブートプロセスのハックなどはテーマが特殊すぎやしないか。UNIX やネットワーキングのツールを主題にした玄人向け利用術やプログラミングテクニックなどの話題がユニマガの真骨頂なのにと思っていたところだった。

私は 93 年 5 月号から欠かさずユニマガを購読してきた。ちょうどそのころ IBM-PC/AT がブレイクしたころで、DOS/V マガジンなど PC 系雑誌もよく読んだものだが、ハードウェア一辺倒なのに嫌気がさして、間もなく定期購読をやめてしまった。これに対し、ユニマガだけはネットワークやインターネット・アプリケーション、Emacs、TeX、FreeBSD など、今日の私の技術素養を養ってくれたのである。公衆回線を使う PPP 通信の実現など、『日経ネットワーク』のようなビジネス色の強い雑誌では得られない、具体性を指向した生きた知識を授けてくれた。

大学の計算機科学専攻の助教授やソフトウェアメーカの第一線プログラマがユニマガに寄稿している。共立出版の『Bit』ほどハイブロウではないが、専門的なレベルを堅持しつつ、かつあんまりオタク臭がない良質の話題を取り上げる。趣味と仕事、研究との双方で有益なテーマについて必要な知識分量を適度な回数からなる連載で纏めあげる。TeX の便利なスタイル・パッケージや Mule の多言語操作を早くから紹介していたのもユニマガの特色だと思う。とくに 94 年には METAFONT や DVIWARE などの高度な TeX 特集が組まれ、そこで私は TeX のフォントやマクロの概念を理解したものである。最近も pTeX の設計者であるアスキーの中野氏による記事を掲載するなど、内容の確かさにおいて他の雑誌とは一線を画している。

ユニマガの扱うテーマは、掲載の三年後に自分の仕事、趣味で使う場面に到り、遡って記事を読み返したようなものが多々ある。いまちょっとなあと思っている記事や特集がそのうち有用になるかもしれない。ユニマガとはそんな雑誌なのである。月刊から季刊になったのは、私の生活のリズムが狂うようで少し寂しい。どうか廃刊に追い込まれないように祈る。

これは UNIX MAGAZINE 創刊号 (1986年11月号) から 2006 年 4 月号までのほぼすべての記事を、PDF で閲覧できるメモリアル・アーカイブである。うーむ、でもやっぱり冊子体のほうがいいなー。

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3月21日の休日、出社したら、会社のビルの庭の桜が咲いていた。

新川崎のツインタワーにある事業所でトラブル対応の仕事をはじめて、もうすぐひと月になる。三月六日から子分が付き、私がぎゃあぎゃあいってようやくプログラマ四名を割り付けてもらい、やっと私のチームもチームらしくなって問題点の対応作業が廻りはじめたところである。当初は怒りまくるだけであったお客さんとも、冗談口をたたける仲になりつつある。

午后のひととき、やはり外の空気を吸いたくなって、ビルの裏手にある高層マンション群の間にある小さな広場のベンチにやってくるようになった。熱いコーヒーを飲み、しばらく放心する。

その広場には、少し段差を付けて高くしつらえた一画があり、ちょっとしたブラスバンド演奏などの催しができるようになっていた。昨日は春一番が高層建築のあわいを強力に吹き荒れていた。コンビニの袋やら枯葉やら粉塵やらが舞いあがっている。同じ紺の制服を着た小学生が三人、なんの遊びなのか、この「舞台」を右に左に行ったりきたりしている。三匹の子ぶた。風に吹かれて翻弄の態か。狼が出ないのを祈る。

ここはパークシティという名のエリアで、一昔前は「億ション」と噂されたモダンな高層マンションが立ち並ぶ。ベンチの私の前を通り過ぎる初老のおばさんも、スパッツにデザインキャップなんかを着けて若づくりをしており、あんまりおばさんらしくない。平日の昼間なのに、若い男女が棟の入り口から出てきて、歩調を揃えてお出かけの様子。いうことをきかないダックスフントの前で女が途方に暮れて立ち尽くしている。

「舞台」の向こう側にある二十階建ての棟の最上階のベランダに、ひとの動くのがみえる。一瞬、宮部みゆきの小説『理由』を連想する。なにか恐ろしいものを感じる。こんなところに住まなくてよかったと思い、コーヒー缶を弁別ゴミのアルミ箱に捨てて私はそこを立ち去った。

事業所ビルのアトリウムに戻ると、自動ピアノ — 先日池田君がメンデルスゾーンを弾いていたあのグランドピアノが、いまはコンピュータ・プログラムに従って、ショパンの英雄ポロネーズを奏でていた。ピアノを設置した台のカーペットのフリルが、自動ドアの開閉をすり抜けてくる風に、激しく舞い騒いでいた。いまはショパンもただの騒音でしかなかった。

人文系の論文とソフトウェアのマニュアルは書いても読まれないもののひとつである。逆にそういうものをきちんと読むひとを私は尊敬してしまう。私もときおり訪れては発言する TeX の Q & A サイトで、ピントはずれな質問をしまくる初心者について、最近議論があった。初心者ユーザのなかには、マニュアルや書籍、インターネット・リソースにあたればすぐに明らかになることを自ら調べもせずに、なんでもかんでも質問する、しかもその質問たるや何をどうしたら出来したエラーなのかなどまったく条件を示さずに結果だけで問い合わせを行うようなひとがいる。こういうひとを「教えてクン」というらしい。

私が会社に入って何もわからないなかで仕事をしなければならなかったころ、製品工場の担当設計に問い合わせをすると、これこれは調べたのかとか、マニュアルは見たのかとか、とにかくドキュメントを参照しているかをまず切り返され、下調べが足りないと「あっそ」とけんもほろろにプチンと電話を切られるか、ガミガミお叱りを受けるかしたものであった。だからして、ひとにものを尋ねる場合は、最低限マニュアルに目を通し、「こういう条件でこういう結果になった。ここまで調べたけれども、この先が手元の資料では不明なのでどうすればよいか」式のパターンでぶつかっていかないと進展がないということが骨身に染みてしまっている。

仕事で手厳しい扱いを受けるとこのように、わからないことはまず自分の参照しうる範囲の書かれたものを自分で調べなければならないと考えてしまう。安易にひとに教えてもらおうというのは恥だと考えるようになるものである。これが知ったかぶりの弊害を生むこともあるが。機械の操作に慣れない年配のひとはビデオやエアコンなどの電化製品が思うように動作しないとすぐ電器屋を呼びつけて対処しようとする。インターネットが普及して誰もが計算機を使うこの時代、このマナーは若者にも波及している。とにかく、ものを読んで理解しようとしない。おいしいところだけもってゆきたがる。

うまく使ってもらおうと一所懸命に取り扱い説明書を書いても誰も読まない。そのくせ文句をのたまう。「マニュアルを読まなくても使えるようにするのがインターフェースデザインの極意」みたいなことを平気でいうひと、信じているひとがいる。ものごとには努力しないとわからない深みがあるということを知らないのではないだろうか。

うちの子供も勉強でわからないことがあるとすぐ私にききにくる。自分でどこまで考えたのかをまず語らせるようにしているが、いくら口をすっぱくして諭しても正されない。どうして? おまえ、教えてクンか!

今日、トラブルプロジェクトの支援のために、私の下に部下がひとり付いた。本来私が所属する公共システムの事業部の部長が私のために駆け回って、若い SE をひとり派遣してくれたのである。彼は今年三年目の、やっとひとり歩きをはじめた SE である。某省庁システムを構築し終えて、やっと落ち着いたとき、トラブル対応の新たな試練を課されたわけである。

彼はその省庁システムの稼働維持対応 SE として名指しで顧客から雇われている身であってみれば、これを引っぺがすのは問題である。私の上司は、この若者 SE の不在を、メンタルの病でしばらく入院することになってしまったという作り話でもって、顧客に説明したそうである。もちろん「入院」してしまった担当者の仕事は残された要員がカバーするのである。こういう話をきくと涙が出てくる。普通の企業からみるとバカバカしい話であるが、独立採算制を採る複数事業部からなる大企業では、事業部を跨った支援は、支援する側の事業部にとって一文にもならないのだ。ウチの事業部は、トラブル対応、非常事態というものがいかなるものであるか、どういうモードで身の振り方を決定しなければならないか、どういういきさつにせよ困った同僚を援護射撃しなければならないのだということを知り抜いているのである。要するに、こういうときは儲を度外視して「仕事」をしなければならないのだということを、そういう行動が会社の体力を増進するのだということを経験で知っているのである。なんのために働くのかということを、こういうときに痛切に感じてしまう。

私のトラブル対応への要請は本来、担当のサブシステムについてM票(問題点指摘票)を受け付けて担当者に割り振り、スケジュール管理を行い、予定どおりにゆかない場合、その問題解決にあたる、というのがミッションだった。要するに旗振りをすればよいと思っていた。

ところが、来てみると、プログラム開発担当者はトップ・プライオリティのサブシステム対応で占有され、私の担当サブシステムに応接する余力がまったくない。つまり旗を振りに来たのに、その旗の前には肝心の右を向いたり左を向いたりするやつがひとりもいないのである。動かさなくてはならない時期はどちらも同じなのに。当然ひとの数を増強しなければならない。私は、M票が出はじめて三ヶ月放置され、まるで臭いものにフタをされたようなこのサブシステムのM票を、誰もあてにせず調べるところから入るしかなかった。顧客はそんなことはまったく意に介さないから、担当サブシステムの「責任者」である私をがんがんフォローアップし、遅々として進まない状況に怒りまくる。当然である。

このシステム、最大の問題点はシステム仕様が纏まったドキュメントとして記述されていないことにあり、要するに何十万行ものソースコードのジャングルを探索しないと何も解らないのである。最初に「設計」した技術者はメンタル面で病んで会社を辞めてしまった。納品から一年以上経過しており、すでにチームが解散していたところに、今回の品質問題勃発である。再度編成した開発チームには、中身を知った開発者はひとりもいない。クイーンズタワーの猿部長の逃腰にも納得がゆくというものである。お客さん、一年間いったいなにをしてたんでしょうか。

M票に記載された中途の調査状況や対策工数の断片から作業量をざっと求めて、三月末で終了するためのスケジュールを引いた。その結果、私のチームには SE ひとり、Java プログラマ五人の追加が必要と判断した。PM(プロジェクトマネージャ)である部長にその旨説明し、要員増強を要請した。この部長も、可哀想に、私より少し前に白羽の矢が立ってよそのプロジェクトからひっぺがされてきたのである。責任感の強い彼は、私のいうことに疑いを差し挟まず、すぐさま調達部署に五名のオファーを依頼した。

翌日、状況を訊くとなかなか見つからないという。調達部門を経由してひとを探すのは正攻法であるかもしれないが、崖っぷちに立たされた現場の緊迫感が伝わらず、三日かかるものは三日かかり、トラブルで死なんばかりの現場が要請するスピードにとても応えられないことを私は知っている。イライラして朝会でなんとかしてくれと訴えた。PM は全体のしきりがタスクであり、こういう場合、その補佐をする「三人」の PMO(何の略かしらん。妻は「ピンクの桃のおしり?」と冗談をいっていた)が動き回ってしかるべきなのだが、これまたみんな部長クラスで自分で動く気になってくれない。いったい全体なんて体制だ。この軍団は将校ばかりで一兵卒がいないのだ。私はちょっと頭に来て、私が付き合いのある公共システム系ソフトハウスのリーダーに片っ端から電話を掛けまくって、Java プログラマがいないかすぐリクルートしてもらうよう頼んだ。しかし公共関係は年度末納期のシステムが大半であり、三月のこの時期自分のシステム開発で大童になっていて、たった五人の捻出もままならないという。

三月一日の夕方、韓国人プログラマなら何人か候補がいるとの連絡が調達部門から入った。コミュニケーションと作業モラルがなによりもまず心配になった。私は中国人プログラマで失敗したプロジェクト例をいくつも知っている。日常会話が通じても、肝心のキーワードを誤解されたり、皆が徹夜をしている横で、「ぼくは今日は用事があります」といって仕事をほっぽって帰る個人主義的主張をされたら、チームの足を引っ張るだけである。三十秒悩んだが面接を申し入れた。

三月二日午前、八名の韓国人プログラマと会った。四人は学校を出たばかりで、さらに来日して三ヶ月しかたっていなかった。がんばりますという気合いは感じられたが、仕事人生の第一歩でこんな病的なプロジェクトに放り込むのは不憫だと思い、心の中で選考から外した。結局三人がなかなか日本語もでき、Java の様々なフレームワークの経験をもっており、なによりガッツがありそうで使えるかなと考えた。なかでもいちばん日本での開発経験が豊富な三十一歳のキムさんは、不敵な薄笑いを浮かべて、仕様書のないシステムなんて韓国では当たり前で、ソースコードからリエンジニアリングするなんて慣れたものだとしゃあしゃあと語る。そうか、いい加減なシステムにはいい加減なことをやり遂げたやつを充当するという発想。こいつだけはなんとしても雇い入れて、一緒に仕事をしよう。

ごく短い時間だけ私が面接した韓国人プログラマは皆、なんとか仕事にありついてがんばるぞといった意気込みを感じさせた。元気がなく、ぼーっとした印象が強く、線の細い日本人プログラマより気迫があるし、前向きである。逆境で真価を発揮する韓国代表サッカー選手を思い出した。このままでは、おそらくもう二十年したら日本は間違いなく韓国に国力において追い抜かれると思う。

面接のあと、ブローカに三名を指名した。面接の場でキムさんをリーダーとしたチームで採用してほしいとのお願いがあったのだが、三名だけだとだめかと交渉した。「考える」と彼はいい残して、引き上げていった。その夕方部長から、あの韓国のプログラマ、よそに持っていかれたよ、との連絡があった。そのサイトは三人だけというケチな条件を出さなかったわけである。うーん、いよいよ私はどうすればよいのか。兵隊がいないと闘いようがないではないか。

冬のオリンピックといえば、長野冬季五輪はいろいろな意味で感慨深かった。ジャンプで日本チームがすばらしい活躍をした。五輪というのはその国の世情が出るのが不思議である。バブル崩壊以降、オウム真理教の地下鉄サリン事件、阪神・淡路大震災、サカキバラ君のおぞましい殺人ゲーム事件を経て、常識のボーダレスと日本人の脱力感が頂点に達したこのころ、起死回生の感慨を抱いたひとは多かったのではないだろうか。私は、やはりジャンプで日の丸が三本揚がった 72 年の札幌五輪を思い出した。この年私は九歳だった。友達と興奮してテレビを観た記憶がある。いまにして思えば、ニクソンショック、オイルショック、日本赤軍のテロなどで戦後最大の危機的事件が多数起こり、札幌五輪はその幕開けであったかのような印象がある。

98 年は個人的にも大きな節目だった。年初、私はそれまでの十年間の無茶苦茶な労働が祟って、肺結核などという古風な病気を診断され、かかりつけの病院から、東京瀬田(二子玉川)にある玉川病院の隔離病棟に「収容」されてしまったのである。

近代的な一般病棟とは異なり、隔離病棟はまるで上海異人館のような頽廃的な趣きがあった。病室のベランダには洗濯物が干してある。古びた病棟は、裏手に面した原始林が同じ東京の地にあるとは思えない、まるで堀辰雄の『風立ちぬ』のような一種独特の大正風があった。裾の長いワンピースの白衣を着けた看護婦が出てきそうな気配があった。そこにはゲホゲホ咳き込む肺病病みが数十名おり、なかには五年間も「暮して」いる大先輩がいた。オープンの談話室では常連が将棋を打っており、肺病病みのくせして煙草を吹かしているやつがいる。図書室がある。「タンはくな」と貼り紙した見窄らしい洗面所と便所。病室はまるで旧制高等学校の寮のように汚く古く、夏にはムカデが出るという。国費補助で成り立っているがゆえの最低限の施設。ガーフキー(結核菌の増殖度)のレベルで病棟の階が決められているようだった。最上の三階には肺の四分の三が壊死した患者がいた。私は軽度の患者だったためか、一階の病室があてがわれた。四人部屋の私のベッドには作り付けの棚があった。天井を眺めると、小さなヌード写真が貼ってあった。

毎日朝六時と十九時の検温。午前と午後にアイナ(抗結核薬)の服用。おばさん看護婦にケツを捲られ、痛い痛いストレプトマイシンの筋肉注射を打たれるのが週二回。あとは何もない。メシのみ。先生は月一回回診にくるだけ。定期回診以外でガスマスクのような覆いを付けた医師の姿をみると何事かと訝ってしまう。ときに夜中に看護婦がどたばた駆け巡る。患者がお亡くなりになったわけである。こんな飼い殺しのような環境で、私は毎日、少し本を読み、たくさん眠った。FreeBSD を組み込んだ ThinkPad 560E で LaTeX や多言語計算機処理の勉強をしたり、C でロシア語単語統計プログラムを書いたりした。はじめて Web ページを作って、夜中にこっそりと、一般病棟にある ISDN 公衆電話にモデムのモジュラーケーブルを差し込んで、サーバにアップロードしたのもこのころである。

そんなある日、裏手の原始林を散歩して病室に戻る廊下に入るや、ベートーヴェンの第九が高らかに病棟に鳴り響いていた。長野五輪の開会セレモニーでの小澤征爾指揮、サイトウキネンオーケストラ(だったと思う)による演奏が、談話室のテレビから大音響で流れていたのだった。いつしか仕事も友人も忘れ惚けた私は、「人間界」との繋がりに突き上げる感動を覚えて、廊下の窓から、光を浴びた冬枯れの樹々を眺めた。

トリノの冬季オリンピックが閉幕した。今回のオリンピックは、トラブル対応のおかげで一場面も、テレビのニュースの報道もまったく見なかった。女子フィギュアスケートでの荒川静香の快挙。東洋人は氷上に立つだけで減点されるとさえ聞いたことのある主観的な競技であってみれば、妻からその知らせを聞いたとき、採点基準が合理的に改変されたのかと、勘ぐりをしてしまったくらいである。

やわらちゃんがはじめて金メダルを獲得したときはじんとくるものがあった。しかし私は、女子サッカー日本代表のストライカーが普段はスーパーのレジ担当だったというエピソードのほうが、人間の詩を感じ、能ある鷹の隠したツメをしかとみたような感動を、覚えてしまう。メダルを取って欲しいのは確なんだけど、そこらへんにいそうなにいちゃん、ねえちゃんのそういう一流に達した技を見せつけられると、日常性に神を見た気分になる。

ホステスの弾くバッハ、豆腐屋の名句、ホームレスの語るルベーグ積分....ひとはみかけによらぬもの。

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ISAO。システムエンジニア。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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