『吉岡実散文抄—詩神が住まう場所』という本を見つけ、買い求めた。思潮社から「詩の森文庫」という新書版シリーズが出ているのを知った。
吉岡実は間違いなく戦後のもっとも重要な詩人のひとりである。私も学生時代に『僧侶』や『神秘的な時代の詩』を読んだ。猥雑でありながら硬質で、先鋭で、また「意味もなく」笑ってしまうようなおかしみもある。
さて『吉岡実散文抄』は、内容的には雑誌から乞われて書いたあんまり文学的でないエッセーがほとんであり、私にはこの大詩人の秘密をとく鍵は見い出せなかった。しかし、軍隊の輜重兵だった彼の目に見えた満州の光景が『苦力』に形象していることや、西脇順三郎の詩に吉岡が登場していること、詩人が現代俳句に傾倒したこと、会社が倒産して職安に通ったこと、浅草のストリップ小屋に齧り付いていたことなど、面白かった。現代詩に対する考え方ということで、吉岡の次の言葉は短いが芯を突くものだ。「詩は感情の吐露、自然への同化に向かって、水が低きにつくように、ながれてはならないのである」(p.82)。
現代詩はわからないというひとがいる。たしかに超現実的な形象があふれ、日常的リアリティに弛緩した精神にとってはたわごとにすぎないように思われる。でも、詩が「わかる」とはどういうことか。いいなあと感じられることだろうか。現代詩「は」わからないというひとは、おそらく、吉岡が言うとおり、「水が低きにつくように、ながれ」ないと気が済まないか、詩や文学を食べ物かなにかと勘違いしているんだと思う。
現代詩の本質をトゥイニャーノフはうまく述べている。1929 年に書かれた文章でなんだけど。「今日、詩について書くのは、詩を書くのとほぼひとしくむずかしい。われわれの時代の悪循環はこのようなものである。詩はますます少なくなり、実際、確実に存在しているのは、詩ではなく詩人たちなのである。」(『過渡期の詩人たち』 —『ロシア・フォルマリズム文学論集2』、せりか書房、1982 年刊、p.267)。現代詩はその文法と言葉をそのつど組み立てて受け入れなければならなくなったことをこれは言っているのであり、書くことだけでなく読むことが真に創造的である時代の到来を告げているのだ。当然自己の日常を越えて再度経験を組み立てなければ理解できるわけがない。また理解できるとも限らない。
それにしても、この本は吉岡実があちこちに書いた小文を集めたものなのに、初出の書誌情報をまったく掲載していない。解説者も編集者も怠慢ではないかと思ってしまった。「十年前、私は...」という文は時代背景の遡及手段を奪われ、意味不明に貶められてしまう。こんな本からはおそらくだれも引用しない。書物は「書いてあるとおり」というのは思い上がりだと思う。ものごとには「環境」というものがあるのだ。

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