2006年7月アーカイブ

true album akina 95 best

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さきほど,なんと中森明菜がバラエティ番組に出ていた。一時期は「時代を袖にした女」として一世を風靡したアイドルであった。とある男性アイドルとの醜聞がもとで,姿をみることが少なくなってしまった。そのスキャンダルは,彼女を悲劇のヒロインにはしてくれなかったようである。相手が相手だったこともあり,私にもただ女を落としたとしか思えなかった。

しかし十年くらい前,ある深夜番組で彼女がかつてのヒット曲『セカンド・ラブ』を歌うのを聴いて,感動したのを私は覚えている。80 年代の華やかなりしころは少し険のある声が耳障りでさえあったのだけれど,その夜のステージでの彼女の姿と声は,醜聞とその後の凋落,再起を経て,年齢を重ねた艶と枯でもって,陶然とさせてくれたのである。色っぽかった。

TRUE ALBUM AKINA 95 BEST

中森明菜
ユニバーサル (1995/12/06)

このレコードはちょうどそのころ出たリニューアル・ベスト・アルバム。とくに「Wisper Disc」は,この艶と枯を味わうことができる。

ナウカ倒産

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ナウカが倒産したという。ロシア・東欧の学術書,文芸書の輸入・販売をはじめ,徳永晴美の『ロシア語通訳コミュニケーション教本--会話からスピーチ・交渉へ』などの有用なロシア語書籍の出版も行っていた。『プーシキン語彙辞典』や『ダーリ辞典』などもう入手できない貴重なロシア語文献をリプリントで出版したり,日本のロシア関連研究者にとってなくてはならない存在だった。

ロシアは 1990 年代に社会主義の崩壊,強烈なインフレ,ルーブル切り上げなど激動の経済状況を迎え,一方で日本のバブル崩壊後の不況と重なり,ナウカは深刻な財務問題に呑みこまれ,それが回復できないままに倒産という事態に至ったのであろうことは想像に難くない。最近ではインターネット販売の普及で,専門的輸入業者に頼る必要性も失われた。数年前,神保町の本店が移転したとき,なにか嫌な予感があった。

私は大学院生のころナウカには世話になった。毎月新入荷の新刊書や古書の案内を研究室に持ってきてくれた。本代のツケがきいたりもしたのだ。なんとも残念である。先輩がひとり入社したのだけど,どうしているか心配である。それにしてもユーザと密に付き合うタイプの本屋さんがなくなるのは,現代の人間味のない商売の世界を象徴しているようで,寂しい。

昨日は月一回の妻との外食の日,仕事のあと神保町,お茶の水でデートした。本と CD を買った。

ユーリイ・バシュメットのヴィオラ演奏によるショスタコーヴィチ,ロスラーヴェツほかのヴィオラ・ソナタ集の中古 CD を見つけた。ショスタコーヴィチのソナタは最晩年の遺作であり,冒頭の五度音程のピツィカートと,月光ソナタふうの夢幻的なモチーフとが印象的な名曲である。

私がこれまで愛聴してきた初演者フョードル・ドルジーニンの盤と比べると,バシュメットはさらにテンポを落とした重い演奏になっている。モダニズム,悲痛さが強調されているように私には思われる。なかなかの名演である。ピアノはともに初演者ミハイル・ムンチャン。とはいえ,バシュメット盤もよいけれど,私は淡々としたドルジーニン盤のほうが好みである。ムンチャンのピアノも後者では,雨の日の憂鬱とでもいうような味わいがある。

作曲家であるロシアのメール友達は,モスクワ音楽院に在籍していた 1975 年 10 月,ショスタコーヴィチ死去の報知のまだ生々しい雰囲気のなか,モスクワ音楽院小ホールにおいて,まさにこのドルジーニンとムンチャンとによるモスクワ初演を聴いたという。私は羨まずにはいられなかった。彼のヴィオラとハープのための小曲 "SHADOWS IN LIGHT for Viola and Harp Op. 122 (Dmitri Smirnov, 1999)" も素晴らしい作品である。

残念ながら現在,ドルジーニンの 1975 年録音の CD(ビクター/メロディア VICC-2049)は入手できないようである。

misima 停止

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misima 旧仮名遣い・旧字変換支援のサービスを以下の理由でとりやめとした。閑古鳥の鳴く私のサイトではそれなりにアクセスがあったのだけれど。

  1. 右翼と勘違いされる。また軍刀やら戦闘機やら,「靖國で會はう」やらの,子供じみたミリタリーおたく幻想に奉仕するのはイヤになった。
  2. 旧仮名遣い・旧字の信奉者と勘違いされる。ネットでそういう発言を目にした。
  3. 戦争賛美者でも,「正字・正仮名」主義者でもないのだといくら強調しても,サービスの自己撞着を禁じえず。たばこは体に悪いといいながら売り歩いているみたいで,嫌気がさした。
  4. そもそもの私自身の課題・目的(TeX での文書作成)のニーズがない。自己満足を公開するのはバカげている。旧仮名・旧字変換抜きの多言語 TeX 変換は Utf82TeX を別に公開している。
  5. ソフトウェアの方式が日本語形態素解析を前提としているので重い。私のヤワなサーバではその負荷がばかにならない。
  6. 他にも同じようなサイトがあって,いまの misima ユーザは困らないと思われる。『「正(旧)仮名遣ひ⇔現代(新)仮名遣い」相互変換〜まるやるま君』というサイトがある。新⇔旧両変換が用意されていて仮名遣い・旧字変換そのものに関しては misima より高機能である。これまで misima を愛用してくださった方(どれだけいるかはわからないが)に,お礼を申し上げるとともに,この『まるやるま君』を紹介しておきたいと思う。

存在意義が自分なりに整理できたら,形を変えて再度公開するかもしれない。さしあたり充電期間に入りたい。

ジダンの頭突き

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7 月 9 日のワールドカップ決勝戦はジダンの頭突きで白けた終焉となった。その後テレビや新聞で何回もあのシーンを見せつけられうんざりしたひとも多いのではないだろうか。妻はけんかするときも手を使わないところが凄いわねと冗談をいう。昨日だか一昨日だか,FIFA の制裁処分が決定したそうな。

己の行為についてのジダンの釈明は,しかしながらこのどっちらけを吹き飛ばすくらい,印象的だった。「全世界の,なにが正しいのかを子供に教え諭す親と,子供たちとに謝りたい」。こんな謝り方ができるのはさすが,凄い。成熟したヨーロッパの選手たちは,スポーツマンであるまえに大人なのである。子供たちの導きの星であることの壮絶な自覚。「かっこいい」と思うのはこういう人間性をみせつけられたときである。日本の選手ならどういうのだろうと考えてしまった。「応援してくれるファンに申しわけない」がせいぜいだろう。いまの日本選手が欧州の彼らに敵うはずは,絶対にない。

決勝戦はつまらなかった。もちろん守備の硬いサッカーは地味である一方,目利きをうならせるものなんだろうけれど,私のような素人がみると,アルゼンチンともブラジルとも対戦しなかったチームがなぜに優勝できるのかピンとこなかった。マテラッツイの暴言は経験豊かなチームによくある知能的戦術のひとつにすぎないのかもしれないけど,ワールドカップという国際イベントでは,やっぱり肩を持つ気にはならない。ベンゲル氏がなにかの番組で,「イタリアは勝利を盗んだ」とブラックな批評をしていた。これまた成熟した眼差しに支えられた至言だと思う。

安部公房『壁』の数式

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安部公房の『壁』の終章『バベルの塔の狸』には,狸たちに追われる「ぼく」が逃げ道を探すうち,「シュール・レアリズムの部屋」に紛れ込むくだりがある。そこにはいくつもの穴が開いており,様々な方程式が書き付けられている。切羽詰まった逃亡に立ちはだかる数式のモチーフ。

「ぼく」はできれば無限大の穴を探って逃場を求めようとして「一番訳の分らない式」の穴を選択する。でもこの方程式,ちょっとヘンで解けそうもない(数式を LaTeX で組んでみた)。

kabe_exp.jpg

「ぼく」と同様,「考える暇がないので,いい加減にこれと思う方向に行」くしかないこともある。

ところで,この穴,「壁は一面鼻汁のようなもので覆われ,うねうねと曲り,広くなったり狭くなったりして,狭いところは四つんばいになってやっと通れるくらいでした」と描写されている。古来,洞窟や洞穴は膣の確固たるシンボルである。この「鼻汁のようなもので覆われ」た穴もそれに連なる表象だとすれば,数学とエロスとの結合の文学表現として注目してよい。
 

川崎のタワーレコードでまとめ買いした CD を聴きながら,勝目梓の『夜を往く者たち』(双葉文庫)を読む。

勝目はエロ・ハードボイルドというかエロ・ミステリの大家。エロはエロでも骨のあるエロで,結構好きな作家なのである。ところが本書は,エキセントリックな中学三年生が登場し,青少年の残忍性,心の闇がテーマになっている。私には — 同じく中学三年生の子をもつ親であってみれば — 重すぎて滅入ってしまう。ミステリは謎解きというよりも,期待感が面白さの本質だと私は思う。しかし最近ことに問題になっている青少年犯罪のテーマゆえか,「なぜ」が明らかになる大団円における発火のカタルシスにも虚しさが拭えない。これは作品がダメだというのではなく,作者自身の感じる虚しさなのだと思う。

CD の一枚目は,前から気になっていた佐藤聰明の『夜へ』。チェロと弦楽のための "RUIKA",弦楽のための『夜へ』,ソプラノと弦のための "HOMA" の三曲。静謐な,癒される現代音楽。

夜へ

佐藤聰明 兎束俊之 アンサンブル・エンドレス 苅田雅治 佐藤教子
フォンテック (1993/01/25)

モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集。ヒロ・クロサキのバロック・ヴァイオリン,リンダ・ニコルソンのフォルテピアノによるもの。私は若書きの 25 番 K.301 が昔から好きで,この演奏も午前の新鮮な光を思わす名演奏。

モーツァルト:VNソナタ集
ヒロ・クロサキ(Vln), リンダ・ニコルソン(Pf)
ワーナーミュージック・ジャパン (2000/10/25)

メンデルスゾーンとシューマンのピアノ三重奏曲集。チョン・キョンファのヴァイオリン,ポール・トルトゥリエのチェロ,アンドレ・プレヴィンのピアノという異色のトリオによる演奏。この盤は,昔カセットテープでよく聴いたんだけど,なかなか入手できなかった CD なのだ。このたび EMI の廉価盤を見つけてうれしくなってしまった。

メンデルスゾーン/シューマン ピアノ三重奏曲
チョン・キョンファ(Vln), P. トルトゥリエ(Vlc), A. プレヴィン(Pf)
東芝EMI (2005/12/21)

アルヴォ・ペルトの感動の "Passio domini nostri Jesu Christi secundum Joannem"(『ヨハネの伝える我らが主イエス・キリストの受難』)。ヒリアード・アンサンブルの自家薬籠中の演奏。

ペルト ヨハネ受難曲


The Hilliard Ensemble, P. Hillier(Dir)
ユニバーサルクラシック (1992/11/26)

最後に,ポリーニによる新ウィーン楽派のピアノ作品集。シェーンベルクの全ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲,ウェーベルンの『ピアノのための変奏曲作品 27』が収められている。新ウィーン楽派やスクリャービンのピアノ曲は,なぜだか,私は仕事がうまくゆかないときに聴きたくなるのである。

Schoenberg & Webern: Piano Works
MAURIZIO POLLINI Edition;
Arnold Schoenberg, Anton Webern;
Claudio Abbado, Berlin Philharmonic Orchestra
Deutsche Grammophon (2003/02/11)

元宮内庁長官によるメモ

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今日,といっても二十日の朝日・夕刊に,昭和天皇のおことばをひかえた元宮内庁長官によるメモについて,報道されていた。メモには靖国神社に参拝しなくなった理由が述べられていた。「A級が合祀され(...) 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ」というフレーズが,「意思」というものを感じさせる。「親の心子知らず」なんて強い責めことばを皇室も使うんだと思った。皇室が今上天皇を含め 75 年以降靖国参拝を行っていないということの真意がはじめて明らかになったように思う。政治家よりもずっと敏感であられたのだと感銘を受けた。

HTML のマナーのこと

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今日 Web をみていたら,HTML のマナー,心得のようなことを述べるサイトがあった。HTML の利点は環境に依存しないことであるとして,ブラウザの推奨環境についての断りを記述するのは HTML の「思想」に反するだけでなく,HTML コーディングの力量不足をさらけ出すものだ,そんな制作者は Web ページを公開する資格がないし,またそのページは読むに値しない,という。あなたの非難しているのは,はい,私のような輩です。

たしかに,できる限り多くのターゲットユーザにアクセスしてもらう工夫をするのは大事なことである。この点で HTML に「環境に依存しない利点」があるというのはわかる。しかし,だからすなわち「推奨環境の措定は悪で,HTML の思想に反する低級なマナー」と主張するのはどういう理屈なのだろうか。HTML という言語形式のもつ特質に立脚しないことはすなわち悪であるという,こうした主張の根本にはあるのは,論理や思想ではなく形式への崇拝であるに違いない。世の中には形式に拘って,中身のない正論を一所懸命にする暇人がいるのだなあというのが私の正直な感想である。彼らにとってのコンテンツの価値は HTML チェッカの採点によって測られる。ばかばかしいのでそのサイトへのリンクを貼るのはやめておく。でもお硬い Web サイトをときおりぶらついていると,この手の「HTML の思想」みたいな主張をするリゴリストが意外と多いのに驚く。またそんなのにつき動かされてこんな文章を書いている自分の頭の悪さにも嫌気がさす。

もちろん HTML 仕様を研ぎすましている研究者,技術者は,計算機技術に裏付けられた慎重な考え方に準拠している。当然,HTML という言語は,その仕様の特性から,有効な,あるいは標準的な書き方というものが想定される。しかしそれはあくまで「設計」の話であって,HTML の具体的なコードは IE や Safari などの「実装」を通して表現がモニタ上に現われてはじめてその効力を発揮するものである。UTF-8 コードなど HTML 仕様,すなわち「設計」としては堂々と認められているにもかかわらず,「実装」の世界ではフォント,グリフがシステムにないなどの事情で,どのブラウザでも同じように出力できるというわけにはゆかないものがある。HTML の制作者がどうしても特定のターゲット実装に言及せざるをえない場合があるのだ。よってもって,「万人が閲覧できるように」コードを書くべきという主張は,— 実装が共通でない以上 — 机上の空論なのである。こんなことが不可能なことは,計算機プログラムを汎用的に書こうと努力した経験のあるものにとって当たり前の現実なのだ。「設計」と「実装」とは別物であると考えることは,計算機技術者のみならずあらゆる分野の技術者の認めるところである。 HTML の「適用」あるいは「運用」は「実装」に依存している以上,「設計」の思想とは独立して戦略をたてることの,いったいどこに「悪」があるのだろうか。HTML 運用の「推奨環境」の存在そのものを課題の議論抜きに「悪」だといって憚らないひとは,「設計」と「実装」の乖離に気づかないでいられるレベルの内容にしか思い至らないのだ。

HTML だとか,XML だとか,さらには SOAP にせよ,Web 2.0 にせよ,一般に計算機の技術というのは,何かの目的のために最適化された道具・フォルムに過ぎないのであって,それそのものは「思想」ではない。思想はそのフォルムを通して表現される内容,すなわちコンテンツもしくはアプリケーションなのである。それは,極端な喩えではあるけれど,数学記号が数学的思想を表現するための仮構的言語であり,その汎用性がいかなるものであれ,それそのものが自律して意味を有するものではなく,数学の目的とされ,評価の対象とされるのは,記号によって表現される数学的思考そのものであるのと同じである。微分が dy/dx や f'(x) ではなく独自に定義した記号で説明されているのをみて「こいつは無知だ。頭が悪い。数学の思想に反している。こんな論文は読むに値しない」と決めてかかるひとがいるだろうか。dy/dx や f'(x) は標準的記法であり広く説明抜きにわかるという意味でそれを使うことはたいへん重要だが,使わないからといってその数学者が「ばか」だとか「悪」だとかという判断をどうして下せるのだろうか。

そもそも形式そのものが新しい課題・思想によって変容していくものであり,課題を議論しない形式への拘泥は,形式はそれ自体で完成されたものであるとの幻想に取り憑かれたものの陥る誤りだと思う。HTML の作法だけでコンテンツの価値を測るなどまさにこれである。もちろん形式自体が意味を担うことがある。スタイル,様式といわれるものがそれである。でもこの場合も,思想・課題の議論が存在してはじめて,逆に遡って意義付けられた形式なのではないだろうか。

訃報

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大学時代の恩師の訃報あり。六日に逝去とのこと。

中田選手引退

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中田選手のサッカー選手としての現役引退表明の話題でもちきりのようである。ファンに宛てたメールとして,七月三日に自身のホームページに掲載されたこの表明は,スポーツ界を越えて反響を呼んでいる。まだ二十九歳であり,あと数年は一級のプレーヤとして活躍できると思われるのにもかかわらず,ワールドカップを期にこうした決断を公にする切替えの早さ,白黒はっきりと清算しようとする不敵さは彼らしいと思った。

文章を読むと,しかしながら,彼の意外な側面が垣間見えて,動かされるものがあった。「とある小学校の校庭の片隅」に始まる,半生の簡潔な総括。人生を旅に喩えるという,芭蕉の『奥の細道』にもあるような日本の古典的な人生観。冷静さ,ドライさをとかく指摘されることの多い彼の性格描写に反して,彼の文章は,実はロマンチストだったんだ,ということを印象づける。もうひとつ,さらに意外だったのは,「新たな自分探しの旅」というフレーズ。自分を見失ってしまったということの告白なのだろうか。「自分探し」なんて言葉は,いま目の前の問題に目をつぶる高校生か大学生の,青臭い自己陶酔の現われだと私は思っていた。これはそうではない。サッカープレーヤとしての人生はいずれ早々に体力の衰えとともに終結せざるをえない。彼の「自分探し」は,その認識ゆえの人生の白紙撤回なのだという恐ろしい意志を感じる。

また別の形で素晴らしい仕事ぶりを見せつけて欲しいと思う。

幼児虐待のニュース

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滋賀県で若い夫婦が二歳児に熱湯をかけて虐待死させたとの事件の報道を見た。児童虐待の件数が十年前の13倍にのぼるという。少子化,晩婚,老齢化社会。未来を担うはずの子供が親に虐げられる。北朝鮮の核爆弾なんかより,こういう事件のほうがよっぽど背筋が寒くなる。

ミサイル発射のこと

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北朝鮮がとうとう,本当にミサイルを発射した。意図が理解できない。枕を高くして眠れない時代が現実になりつつあると思う。7発も連射しておいて,また昔みたいに人工衛星だなんて説明するんだろうか。

政府の対応がまた理解できない。制裁として,北朝鮮の船舶を「とりあえず」「半年間」入港を禁止するとか。どういう考え方から「半年」という期限が出てくるのか。北朝鮮の「シワク?(オモワクだろ)を分析中」との,麻生外務大臣のテレビ出演時の意味不明なコメント。米国による金融凍結制裁が「効果的」だった,ゆえにマンギョンボン号の入港禁止が「効果的」と断言できるのはどういう論理だろうか。「効果的」ってなに? そもそも発射させないことが「効果」の目的なのではないんだろうか。着弾推定場所のことを「ソ連」沿海といい,衝撃のことを「シュウゲキ」といい,思惑を「シワク」といい,このお方は次期首相候補のひとりなんだそうである。まったく理解できない。

政府は制裁措置をいくつか挙げて,なおも「検討中」だという。ミサイル発射の危険性はひと月以上前から問題になっているのに,実際に発射されてから「検討」しているのも理解できない。発射したらこれとこれとこれを発動すると予め宣言しておき,実際に発射されたらそれを行動に移すととともに,予め秘密裏に用意しておいた追加の措置をもって臨むのが外交戦略というのではないのだろうか。「やったらとんでもない制裁をおみまいする」といっておきながら,事が起こってはじめて「なにをしようか」,である。これこそ北朝鮮だけでなく諸外国からバカにされることではないだろうか。「シミュレーション」以前の問題だと思う。こんな外交力で強硬路線なんて柄でもないことはやめてもらいたいと思う。

自民党の会合で,国防能力の強化を主張する声が強かったとの報道も見た。いまさら何をいっているのか。もとよりイージス艦など相当の投資をしているのに状況の確認が進まないのはなぜなんだろうか。このへんの各国の出方を見るというのが北朝鮮の目的のひとつだとしたらたいした賭けである。確かに防衛網が機能しているように見えないのは私がうといだけか。

政府は被害状況を確認中と言い続けている。着弾したとされるロシア沿岸海域の漁業組合を取材していたテレビ局のほうがよっぽど手が早い。日本海沿岸の自治体もなにがなんだかわけがわからず,「断固糾弾する」との議会決議ばかりに大童である。娘は日本海の魚がたくさん死んだのにちがいない,かわいそう!といっていた。もしかしたら明日米国か日本本土に本当に着弾し,たくさんのひとが死ぬかもしれないのだ。常識も冗談も通じないへんな国にも頭にくるが,子供じみた政府にはもっと頭にくる。

去年,ハンフリー・ホークスリーの『北朝鮮最終決戦』というクライシス小説を読んだ。その結末は北朝鮮の核生物弾頭ミサイルをめぐって超大国が牽制しあうなか,中国とロシアが連合して米国と日本を核攻撃するというものだった。そこに至る経緯は本書を読んでいただくとして,北朝鮮は中国の鉄砲玉みたいな描かれ方だった。今回の事件,中国とロシアはどちらかというと静観している。恐。

ドイツ—アルゼンチン戦

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仕事から帰宅して,ニュース番組のあとワールドカップ準々決勝ドイツ—アルゼンチン戦を観た。開催国ドイツはボールキープで少し劣勢に見えたが,なんと PK 戦にまでもつれこんで最終的に勝利を収めた。執念・実力が伯仲する凄い試合だった。ポルトガル—オランダ戦もそうだったが,こんな試合をみると日本チームの戦いで神風が吹くはずのないことがよくわかる。いずれにせよ精神的,肉体的に鍛えられた者たちの崇高さに感動した。ドイツ,アルゼンチンという国が,なぜだか,いよいよ好きになってしまった。

日本のサッカー界は現在次期代表監督騒ぎにある。失敗の後始末の過程で政治的な不手際が表面に出てくるのがこの国の伝統だけど,契約の主導的立場にあるジェフユナイテッドとの間になんのネゴシエーションもないままに日本サッカー協会がオシムさんの名前を公表し,自宅に押し掛けて交渉を行うなんて,大人のやることではない。これこそ民間(J リーグ)の企業努力を無視した親方日の丸的な日本の旧来のやり方ではないか。ジェフユナイテッドの幹部やサポーターは,これは自分たちの努力に対して権力者が侮辱行為をなしているのだと受け止めて,なんとしてもオシム・ジャパンの成立を阻止してもらいたい。東欧の壮絶な現代史に身を置いてユーゴスラヴィアをワールドカップベスト 8 に導いたオシムさんに,ギリギリの状況に向き合ってきた人間のもつ魅力,いま日本にもっとも必要とされるなにかを一番知る者だという期待を,私自身強く抱くのだけれど。

こんな茶番劇じみた騒動のなか,オシムさんの代表監督就任への期待が全体として高いのは興味深い。日本人監督(加茂さんの顔がすぐ浮かぶのはなんで?)ではだめなんだろうか。なんか明治時代に技術者,大学の先生はすべて外国人だったのと同じで,まだ日本のサッカーはスポーツとして充分に定着していないということなんだろうか。中国とロシアとの戦争に勝って大喜びして,世界の超一流に伍していけるという自信過剰に陥った構造も,明治日本と酷似している。「サムライブルー」,しばらくは不幸な歴史を歩まないと成熟しないということか。世界でサッカーが国を挙げたスポーツであるといわれているのが恐ろしく意味深長に響く。

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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