古書で中公新書の築島裕著『歴史的仮名遣い』を入手した。これは昭和六十一年に刊行された啓蒙書である。その後絶版になってしまい、残念ながら、現在では図書館か古書で探すしか読む手だてがないものとなっている。
私も歴史的仮名遣いは久しく興味の対象であり、近現代文学のオリジナルが旧字旧仮名遣いの作品は、学生のころから努めて原典表記のものを漁って読むようにしてきた。旧仮名遣い・旧字変換ツール misima を公開する動機にもなっている。
私が感銘を受けた本書の核心部は、仮名遣いというものを二種類に区分して論じている点である。つまりひとつは「実態」としての仮名遣いと、もうひとつは「規則、ルール」としてのそれとを区別しているところである。そして著者の教えてくれる興味深いところとしては、こんにち歴史的仮名遣いとして語られる後者が、契沖によって整理されてのち、明確に社会的に意識され、その習得度合いによって教養なりが判断されるようになったのは、たかだか明治の教育制度以降であるという歴史的事実である。ちなみに、「実態」としての仮名遣いというのは、その場、その時代で統一なく表記された姿を指しており、正則とされる「ゆゑ」が「ゆへ」であったり「ゆえ」であったりする、正しいとか誤りとかという判断を越えたあり方を示している。有名な定家仮名遣いは「ゆゑ」を「ゆへ」としていた。
きまり、ルールとしての仮名遣いの位置づけを明確に意識していたのは、ひとり築島だけではなくて、かの碩学橋本進吉博士もまさに同じことを述べている。そう、仮名遣いとは、同一性を強く指向する文化的、社会的ルールなのである。そこにはルールそのものとして現代仮名遣いと歴史的仮名遣いとでどちらが正しいルールか、などは当然議論として適切ではない。決め事なのだから。米国の法と日本の法のどちらが正しいかなんて意味がない。よって正誤は皆が則るべきルールに照らしてはじめて判断される。
歴史的仮名遣いについて述べた最近の普及書、青木逸平(青は旧字体、逸は二点しんにょう)著『旧字力、旧仮名力』(平成十七年刊)は、築島の著書とは対照的に、「現代仮名遣い」は不完全であり、「歴史的仮名遣い」こそが正統であり、合理的であると主張している。しかし、その主張はまったく「合理的」でない。
「新仮名遣いは、旧仮名遣いでは整っていた文法体系を例外事項で補わざるを得なくなり、語源への遡及も難しいものにしてしまいました。それにもまして、過去の日本語、文化とのあいだに大きな断絶をもたらすという結果をまねくことになったのです」(p.5)。「整っている」文法とは何か。整っていない文法なんて議論はあり得るのか。「例外事項」とは何か。現代仮名遣いで主語、目的語、方向属性を示す「は」「を」「へ」は発音に従う「わ」「お」「え」になっていない、矛盾だ、というようなことを言いたいのであろうが、なぜ「例外」と言えるのか。旧仮名遣いの規則をもとに現代仮名遣いのルールとして、主客属性を際立たせる意味で「そう決めた」に過ぎないのではないか。「語源への遡及」は旧仮名遣いは完全であろうか。そもそもことばの姿から「語源」などに遡及できるのだろうか。現代仮名遣いを採用したことによって「過去の日本語、文化とのあいだに大きな断絶をもたらすという結果をまねくことになった」などとどうして断言できるのか。ルールとしての歴史的仮名遣いが明治以降の産物だとすれば、「旧」対「新」は 80 年対 60 年の差しかないではないか。それをなんで断絶などと大げさなことが言えるのだろうか。現代仮名遣いを操る現代人で『徒然草』だって『枕草子』だって素晴らしく理解しているひとを何人も私は知っている。
青木はそういう疑問にまったく答えていないのである。なのに「合理的」などと何故言えるのだろうか。
青木は書いている。「旧字旧仮名表記の方を難しいと感じる人も多いかもしれません。一方、雰囲気があって「カッコいい」と受け取る人も多いのではないでしょうか。そう、旧字旧仮名遣いは「カッコいい」のです」(p.4)。なんだ、つまり「カッコいい」ということが言いたかった訳である。何故カッコいいのか? 趣味の世界だと言いたいのか。ならそう主張すればよいではないか。要するにスーツより和服のほうがカッコいいというのとあまり変わらない訳だ。それなのに何故「合理的」などと理論武装したいのか。
「合理的」というのは立看板に過ぎない。とすれば、何故「カッコいい」のか。他人とは違う「難しい」書き方であるからということ以外に私にはその理由を斟酌できない。ゆえに、「カッコいい」気分になれるのも旧字旧仮名遣いが廃れてこそだという皮肉な逆説が成り立つ。森鷗外などの旧字旧仮名遣いで書いた作家は、教養ある人間のルールに従っていただけで、旧字旧仮名遣いそのものを「カッコいい」とは思っていなかったはずである。教養ある読者が「分りやすいように」書いたのである。鷗外は『假名遣意見』(明治四十一年)で、仮名遣いは書かれたものに準拠すべきであると強く主張しはしたが、発音に基づく仮名遣いの案に対して、当時の仮名遣い(旧仮名遣い)が合理的ないし論理的だ、などという軽はずみな理論武装はしなかった。さすが。
青木の著書を読むとただちに福田恆存の『私の國語敎室』の主張を思い出す。福田こそ旧字旧仮名遣いの「合理性」を大いに主張した魁だからである。どうも旧字旧仮名遣いを「合理的」と主張したがるひとが多いのはその影響だと私は思う。福田の主張は私には青木の「論理」と同様に居心地が悪い。しかし文化的危機感がひしひしと伝わって来て、そこには別の(仮名遣いの正否とは別の)迫力で読者を圧倒する魂があった。「カッコいい」なんていう理屈は微塵もなかったのである。
築島と青木の、歴史的仮名遣いを主題とする二書を読み比べて感じたこと。昔のひとの書いたもののほうが冷静で、的確であり、「論理的」、実証的であるということ。好き/嫌いと事実とを明確に切り分けているということ。(そもそも築島の著書と比べること自体、青木には可哀想なことかも知れないけれど。)

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