2008年3月Archives

openSUSE

最近ほとんど使うことのない JCS 製 Pentium III 1GHz, 256MB マシンに,openSUSE 10.3 をインストールした。少しは Linux にも触れようと前々から考えていたのである。FreeBSD メインはこれからも変わらないと思うけど,なにかと対応の遅い FreeBSD では動作しないアプリを Linux で試してみる,自作ソフトを Linux で動作確認する,といった用途を考えている。

Linux にはいろんなディストリビューションがあって,どれにするか悩むところだった。LaTeX 多言語処理に関して尊敬する N 先生の影響もあり,openSUSE を選んだ。ロシア語 LaTeX についてお世話になった V. ヴォローヴィチ氏が愛用していた Debian GNU/Linux にも,私は食指を動かされていたのだけど。ドイツの開発者が中心となって構築された openSUSE はヨーロッパではもっとも普及している Linux なんだそうである。ロシアの Linuxer の間では Ubuntu が人気のようである。

ちょっと古めの PC なのでハードウェア認識トラブルもなく,インストールは終了した。デスクトップの選択で Gnome を指定したのだが,使い勝手において Windows とほとんど変わらないのにびっくりした。主なアプリはすでにセットアップ済みで,仮名漢字変換もすぐ使用可能な状態になっている。これだと UNIX を使っている感じがまるでしない。

お医者

妻の突発性難聴が快癒した。お医者さんに感謝。

会社のクリニックにいた S 先生のことを思い出した。かつて私はこの先生に半年にわたってストレプトマイシン注射を打ってもらったのである。「森鴎外も結核で死んだらしいよ」とか,「いい時代になったねえ,ストマイは戦後すぐのころは時価一本一万円もしたから,金持ちだけが打てたんだよな」とか,「この注射器ってのは医学史最大の発明だろうね。フランス人だかドイツ人ってのは頭いいんだな」とか,雑談をしながら。世間話なので真偽のほどは確かめてませんが。

Yahoo! ニュースで『コレステロール,低い方が危険=男性は高いほど死亡率減る−富山大など』という記事をみた。最近の医学関連の記事はこの手の統計的判断の報告が多いと思うのは気のせいか。こんな報告は「信じるか信じないか」という恐るべきものではないだろうか。「この注射を打つと直る傾向が統計的に証明されています。もちろん僅かの確率で死ぬ場合もあります」とお医者に説明されたら,心臓がドキドキするではないか。なんか医学が科学的ではない方向に進んでいるようで,ちょっと不安になる。これは医学ではなく統計学の記事ということか。

バッハ,72M,論文査読結果

寝る前にバッハを聞きながら書いている。平均律クラヴィーア曲集第一巻。スヴャトスラフ・リヒテルによる名盤である。もう三十年近く昔に手に入れ,何度も何度も再生した LP レコードなのでスクラッチノイズが酷いけれども,私はあんまり気にならないほうである。コンサート会場の観客の咳きや楽団員が譜面を捲る音のようなものである。バッハを聴いていると,時おり『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士の気分になってぞっとする。映画の音楽の影響はうれしくもありうれしくもなし。

* * *

ロシア映画『72M』を観た。毎度のことながらロシア映画における文学の位置づけの大きさに驚く。軍人の家の部屋に詩人 (エセーニン) の肖像画が掛けられているなんて設定はロシアだけだろう。この映画は「潜水艦パニックもの」であり,ハイブロウな要素がまるでないからこそロシアの国民性を感じるのである。

休日に浮かれる二人の友人同士の水兵が,バルコニーで読書をしている美女を認めて,同時に一目惚れしてしまう。例によって上官 (映画の主人公) がもうひとりに肩車をさせ,バルコニーに顔を覗かせて「何読んでるの?」と声をかける。女は「当ててご覧なさい」と,本の一節を朗読する。「ゴーリキー?」ー「違うわ」。すると下で台の役をさせられている友人のほうがすかさず答える,「アレクサンドル・グリーンの『深紅の帆』ですね」。これでこの美女は相手の顔をまだ一度も見ていないのに,飛び出してこの下のほうにいる軍人に走り寄る。

文学の趣味が合うというのが男のモテる属性のひとつのようである。グリーンという作家の名前が言及されることの意味深さ,マニアックな趣きを理解できるのは,ロシア人でなければおそらく一握りの観客だと思う。こういう筋書きは,ハリウッドではまず見られないし,文学がどこか「青臭いインテリの穀潰しの無意味な道楽」に近い扱いを受けている現代日本では,まず絶対にお目にかかれないのではないか。また,事故で沈んだ潜水艦に閉じ込められた生存者たちが,生死の境目にあって,主人公の話すジョークに皆で足を踏みならして大喜びし,連帯感を確認し合うシーン。涙が出るほど印象的であった。

この映画はいろんなことを教えてくれる。現代のロシア人がソヴィエト時代の過去にひそかに苦しめられていること。ウクライナとロシアはかつて同じソヴィエト連邦であったが,現在はどうやら韓国と日本のように憎み合い,でもなんとかその溝を克服したいという気持ちがあること。ここで詳しく記すのはやめにする。観れば分かります。

それにしてもこの下品な DVD パッケージジャケットは何なのだろう。

* * *

十一月に投稿した論文の査読結果がメールできた。目の付けどころは悪くないが論証がいい加減なので見直すこと。四月末までに見直し版を提出せよ,とのこと。厳しい指摘が多かった。私の論文を二人の先生が真面目に査読してくれ,キツイとはいえ的確なアドバイスをくれて,本当にうれしかった。とにかく自分の行動に対して真摯なリプライが得られると,俄然それに応えなくてはならないと思う。でも本業をかかえつつ四月末で書き直すのは時間がなさ過ぎ... 独りよがりを 100 頁ものするのは — このブログのように — いとも容易いけれども,独りよがりを矯める 5 頁を認めるのは,その何十倍もの精神集中と時間とを必要とするものである。

東京交響楽団コンサート

本日 25 日,東京交響楽団川崎市民コンサートに出かけた。今回も長男の学校のコネでチケットを安く入手できたのだ。ミューザ川崎シンフォニーホール。オーストラリア・ウーロンゴン市姉妹都市交流 20 周年記念との副題がついた催しであった。もともと妻と行く予定だったのに,妻は突発性難聴の治療のため,娘が代わりに行くことになった。

演目は,ベルリオーズ作曲序曲『ローマの謝肉祭』作品 9,モーツァルト作曲ピアノ協奏曲第 20 番ニ短調 K.466,ドヴォルザーク作曲交響曲第 9 番ホ短調作品 95『新世界より』。演奏は東京交響楽団の管弦楽,ジェシー・ピナッツァのピアノ独奏,飯森範親の指揮。

モーツァルトでは少し管の音が大きいのが気になったけど,ちょっとバロックアンサンブルを思わせる弦の味わいがあって個性的な演奏だった。ソリストはベージュのスーツにネクタイ姿で,よそ行きのビジネスマンを思わせる美男子であった。「あのピアニストすごい緊張してる。だから手のひらに汗かくんだよ」とピアノを習っている娘が指摘した。でも,モーツァルトを聴かせてくれたと思わせるだけの,軽やかで立派なソロだった。

それにしても飯森範親はただものではない。「耳にタコ」の「新世界」が新鮮に聞こえた。第二楽章のあの有名なイングリッシュホルンの旋律を支える弦楽アンサンブル,弦楽八重奏のくだりの精妙さに驚いた。

『新世界』が大好きな娘も満足していた。「コンサートホールでオーケストラを聴くとすぐまた来たくなるんだよなー」とか娘と話ながら,ロビーから出ようとしたとき,鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハ・ブランデンブルグ協奏曲全曲演奏会のポスターが目に留まった。

muza-080325.png

SCIM でロシア語入力

これまで Firefox 上で日本語を入力するのに Wnn7 を利用していた。ロシア語については Wnn7 Xwnmo のローマ字入力定義を変更して EUC で入力できるようにしていた。EUC キリル文字は検索エンジンなどでは Unicode と同様に処理されるのである。それでもドイツ語やフランス語のアクセント付き文字,多言語一般の入力はいかんともしがたいのだった。

このたび SCIM をインストールしてみた。ports を使い /usr/ports/japanese/scim-anthy と /usr/ports/textproc/scim-m17n のディレクトリにおいて make install clean 一発で導入可能である。かつては FreeBSD は SCIM のプロトコルに対応していなかったと記憶する。Xorg 7.3 になって動作するようになったようだ。

日本語入力は Anthy で仮名漢字変換が可能である。フリーソフトウェアなので ATOK などと比べると辞書はヘボいに違いないと思う。多国語入力もロシア語,ヨーロッパ諸言語はもちろんインド系諸語やアラビア語,ヘブライ語などのさまざまな言語をサポートしている。古典ギリシア語はないようである。

SCIM は,これを使用するアプリケーションに先立って,scim -d を実行してデーモンとして起動しておく。私が端末としてもっぱら使用している Eterm は残念ながら UTF-8 をサポートしていないため,こちらは EUC-JP ロケールのまま Wnn7 の使用を継続し,SCIM は Firefox のみで使うようにした。この場合ロケールと IM プロトコルとを個別に設定する必要があり,端末から Firefox を起動するには,env LANG=ja_JP.UTF-8 LC_ALL=ja_JP.UTF-8 XMODIFIRES='@im=SCIM' firefox & とする。いちいちこの長いコマンド文字列をタイプするのは億劫なので,Alias や gkrellm ランチャ,Enlightenment アプリケーションメニューに登録して簡単に起動できるようにしておく。

Ctrl+Space キー操作で SCIM Anthy 日本語入力モードに切替えることができる。Anthy のアイコンをクリックすると言語入力メソッド一覧が表示される。ここで好みのキーボードレイアウトに応じたロシア語入力メソッド (ここでは ru-yawerty) を選択すると,ロシア語の入力が可能となる。

scim-jp-ru.png

SCIM の設定は,SCIM アイコン上で右クリックしメニューから選択するか,もしくは scim-setup コマンドで設定画面を起動して行う。言語入力メソッド選択メニューがあまりに賑やかだと効率を落とすので,設定画面で通常使用する言語のみ一覧に現われるようにカスタマイズしておくのがよい。ショートカットを登録して言語切替えキー操作を素早くできるようにしておく。言語の有効化/無効化を設定後,SCIM を再起動する必要がある。

scim-lang.png

これで FreeBSD においても Mac OS X と同様に多国語インプットメソッドが利用できるようになった。

文書作成での私の文房具である Emacs では,相変わらず従来の Quail インプットメソッドを利用している。こちらのほうが多言語入力はお手のもので,古典ギリシア語,教会スラヴ語もばっちりなのである。日本語入力も Wnn7-tamago でそんなに困らない。Unicode コードポイントで入力するインタフェースも備えている。

ところでついでながらだけれども,Mac OS X Tiger の多国語インプットメソッドにはつまらないバグがある。ドイツ語,フランス語に切替えた後,英字 (A) にしてもキーボード配列が戻らない。US 配列 Mac キーボードの刻印どおりに文字が出ないのである。通常の JIS 配列キーボードをお使いの方も事情は変わらないと思う。このバグはなかなか直らない。結構困っているひとがいると思うのだが。Apple のバグフィックスのとろさには呆れる。こういうところが Microsoft や Linux の後塵を拝する要因のひとつではないだろうか。(それでも私は BSD Mac が好きなんだけど...)

ロシア映画二本,ブロークの詩

ツタヤのオンライン会員になった。たまにはエッチな DVD をこっそり楽しもうかと... まずロシア映画 DVD を二枚借りた。『エスケープ — 逃亡者』と『アルティメットウェポン』。どちらも B 級アクション映画といってよい。ロシアの映画というとタルコフスキイ,エイゼンシテインの芸術的作品がなんといっても筆頭にあがるとはいえ,この二本もそれなりに面白かった。

『エスケープ』はハリウッドでも製作された同タイトルのロシア・リメイク版。家族への愛はどこの国の映画にもよくあるモチーフだけど,ロシアでは血縁のない子供 (妻の連れ子や貰い子) を肉親のように愛するという趣向が特徴のように思う。主人公がヘリコプターから湖に投身しながら無傷で逃げおおせるといった非現実的筋書はご愛嬌ということで。

『アルティメットウェポン』は,視力を失ったボクサーが恋人ビーカと彼女の弟とともに警察とマフィアに追われながら身の潔白の証明を果たす物語。女主人公はかつての麻薬中毒者でありながら,同時に眼科医であり,アレクサンドル・ブロークの詩の熱烈な愛好家である。そんな役どころに,私はロシアならではの彫の深さ,音域の広さを感じる。弟の口にする「祖国か死か Родину или смерть?」という台詞はこれまたロシアの伝統的な発想である。ビーカの朗誦するブロークの美しい詩を手元の選集で探り当てた。1905 年,ブローク初期の詩の冒頭二節である。
 

Ты проходишь без улыбки,
Опустившая ресницы,
И во мраке над собором
Золотятся купола.
 
Как лицо твое похоже
На вечерних богородиц,
Опускающих ресницы,
Пропадающих во мгле...
А. А. Блок, Собрание сочинений в 6-ти томах, Том 1. Л., 1980, с. 374-375.
おまえは微笑むこともなく
通り過ぎようとする まつげを伏せ
そして伽藍の上の暗闇に
円蓋が金色に光る
 
おまえの顔はなんと似ていることだろう
夕べの聖母たちに
まつげを伏せて
靄の薄暗がりに消え行こうとする...
アレクサンドル・ブローク『ブローク詩集』小平武訳, 弥生書房, 1979 年, pp. 41-2.
 

世紀の黄昏,悲劇的予感にみちた,幻のような「永遠の女性」の姿である。円蓋が金色に輝く風景は詩人の幻想において靄の闇に溶け失せて行く...「まつげを伏せ」という詩句にびびびっと来る。脚韻のない四脚強弱格韻律だけれども,タタタータ・タタタータ女性韻行の繰返しと,詩節を終結させるタタタータ・タタター男性韻行とからなる独特のリズム。

これは亡くなられた小平先生の訳業のひとつである。詩人鷲巣繁男との共訳のブローク『薔薇と十字架』もロマンチックな演劇である。薔薇に個人の愛と悦び,十字架に政治的・社会的栄光・制約を象徴したミステリアである。大学時代,小平先生とトゥイニャーノフを読んだのが懐かしい。
 

  Изора (срывая розу в окне)
 
Возьми эту розу!
Так черна моя кровь, как она! —
Не уходи! С ума сойду я! —
Ближе, ближе ко мне подойди!..
Дай страшный твой крест
Черною розой закрыть!
А. А. Блок, «Роза и Крест», Собрание сочинений в 6-ти томах, Том 4. Л., 1980, с. 200.
イゾーラ (窓辺の薔薇をもぎとりながら)
  この薔薇をお受けくださいませ!
  わたしの血の黒いのは,薔薇さながらでございます!
  行かないで! わたしは心狂いそう! ——
  もそっと近く,もそっと近く,こちらへお寄りくださいませ!
  その恐ろしげな十字架をば
  黒い薔薇で覆わせてくださいませ!……
アレクサンドル・ブローク『薔薇と十字架』小平武,鷲巣繁男 共訳, 平凡社, 1995 年, pp. 114-5.
ブローク詩集 (1979年)

 
アレクサンドル・ブローク
小平武 訳
弥生書房
薔薇と十字架 (平凡社ライブラリー)
アレクサンドル・ブローク
小平武,鷲巣繁男 共訳
平凡社
* * *

本当に久しぶりに UNIX 情報誌『Software Design』を買った。書店の雑誌コーナーをぶらついていて,FreeBSD 7.0-RELEASE 特集記事に目が留ったからである。最近 PC-UNIX は Linux 全盛であって,FreeBSD 使いは肩身の狭い思いをしているんじゃないかと思う。Firefox で Adobe Reader と Flash Player のプラグインを導入する解説が役にたった。

FreeBSD は 7.0 で ZFS ファイルシステムをサポートしたようである。Mac OS X の標準である HFS ファイルシステムの FreeBSD 正式サポート (5.3-RELEASE でローカルなドライバが公開されていた) は,個人的に iPod の接続で期待していたのだけれども,残念ながら果たされていない。一方,Mac OS X Leopard も ZFS を実装したので,iPod が ZFS でも利用できるようになるほうが早いかも。そうなれば Mac OS X iTune と FreeBSD Amarok とで iPod を共有できるんじゃないかと想像する。

妻のいない休日

土曜日,妻が会社の慰安旅行で沖縄に出かけた。月曜まで不在。今日,長男はテニスクラブの試合で早朝から春日部に出向く予定だった。ところが,30 分ほど寝坊してしまい,私に起こされて青くなって,スティックパンを手に大慌てで家を飛び出して行った。昼過ぎ,娘と川崎に買い物に行った。遅い昼食に二人でリトルスプーンでカレーを食った。食いながら雑談。

「お兄ちゃん,今朝寝坊したよね。なんか大騒ぎしてたから目が覚めちゃった。アタシだったら遅刻となったら,叱られるのヤだからもういっそ休んじゃうかも。もう遅刻ってわかったら 10 分でも 1 時間でも同じって思っちゃう。100 円ドロボーするのも 100 万円ドロボーするのも同じじゃんって。これ冗談だけど。だから,お兄ちゃんちょっと偉いなあって思った。」
「そう。遅くてもしないよりマシっていうよ。なんのためにクラブやってるのか,それで行動が決まるんだよ。そうなると 30 分より 25 分の遅刻が意味を持つわけさ。」
「お父さん,だめじゃん,米粒を三つ残してるよ。一粒に神様ひとりっていうよ。」
「はいはい,じゃ,神様を三人食ってやるよ。」

そのあと,ツタヤで DVD をレンタルし,ラゾーナ川崎 (というメガショッピング施設) で食材の買い物。妻のいない昨夜は出前の寿司を三人で食ったのだった。今夜は娘が夕食を作ってくれるという。

娘のメニューはタコ,ムキエビとパセリのガーリックスパゲティ,長芋とベーコンのポン酢炒め,コーンクリームスープ。料理本を見ながらの調理。はじめはちょっと不安であったが,食してみるとどれもとても旨かった。スパゲティはレシピ通り作ったらちょっと味が薄かったので胡麻油と醤油を加えて整えたとのこと。お母さんが帰ってからもまた作ってね!

080316dinner.png

食後,私が食器洗いをする間,子供達はレンタル DVD で映画『雨の町』を観ていた。娘はホラー映画,怪奇ものが大好きなのである。私は iPod で音楽を聴きながら仕事をしていたので,筋がよく分らなかったが,二人で大爆笑する場面があった。時折ホラー映画はまさに恐怖シーンで諧謔と紙一重の場合がある。

FreeBSD の X Window System をバージョンアップする傍ら,長大なパッケージインストールが流れる合間に,マリオ・プラーツの名著『肉体と死と悪魔』(国書刊行会クラテール叢書1,1986 年,原典 1966 年第二版) を読んだ。これはもう 20 年程昔に神保町の古書店で手に入れたもの。買った当時は拾い読みをしただけであったが,もう少しきちんと再読したくなったのである。

本書は,18 世紀プレロマン主義から 19 世紀ロマン主義,デカダンティズム,象徴主義に至る西欧文学の思潮における悪魔的な美の形象を,豊富な引用と実証的比較検討によって詳説したモノグラフである。文学史においては,統制された美の規範に支配された時代と,そこから思想的/倫理的/様式的に自由に逸脱して新たな価値を具現しようとする時代とが交互に現われるとされる。文学史家には,こうしたコスモス対カオスの類型論に囚われるあまり,マニエリスム期の詩の様式とロマン期の詩人の意匠・作風の共通性を過大に評価する向きもある。プラーツは,歴史的規定性を根拠に,そのような軽率な文学評価を厳しく戒めている。この歴史的アプローチこそが文学的事象を印象批評から解き放ち,20 世紀の真に新しい独自の実証的研究を生み出した立場だと私は思う。

まがりなりにも外国文学を研究しようとする学徒にとって,西洋文学の伝統を知るのにマリオ・プラーツの本書,エルンスト・ローベルト・クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』,エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』といった碩学の著書は,避けて通れないと私は思う。こうした,確かな鑑賞眼と長い年月にわたる探求とによって支えられてこそなし得る「学問的」な仕事に触れると,ヨーロッパの学者の知力の凄まじさを知る。己の勉強不足を思い知る。また一方で,構造主義だとか脱コンストラクションだとかの批評は,もっと言うと日本の「ニューアカ」なる先生たちの仕事は,学術論文で引用するに耐えない,賢しらなだけのつまらないものと映る(もちろん読んで面白いものもあるけれども)。
 

肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー
マリオ・プラーツ Mario Praz 著
倉智恒夫, 土田知則, 草野重行, 南條竹則 訳
国書刊行会
ヨーロッパ文学とラテン中世
エルンスト・ローベルト・クルツィウス Ernst Robert Curtius 著
南大路振一, 中村善也, 岸本通夫 訳
みすず書房 (1971/11)
ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)
エーリッヒ・アウエルバッハ Erich Auerbach 著
篠田一士, 川村 二郎 訳
筑摩書房
ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)
エーリッヒ・アウエルバッハ Erich Auerbach 著
篠田一士, 川村 二郎 訳
筑摩書房

Xorg 7.3 upgrade

普段使っている ThinkPad X40 で,FreeBSD の最新 ports によって FireFox をアップグレードしようとしたところ,Xorg 7 でないと叱られた。知らないうちになんと X11 が久々のメジャーバージョンアップを果たしていたのだった。1 分悩んだあと,Xorg を 6.9 から 7.3 にアップグレードすることにした。

/usr/ports/UPDATING にある 20070519 付の記載に従ってオペレーション。portupgrade -a で途方もない時間を要した。ところが startx で X を再起動すると,could not open default font 'fixed' なるメッセージを出力して起動しない。fixed フォントのインストールに失敗しているようである。再度,portupgrade -f font-misc-misc などを実行してみると,bdftopcf ユーティリティが /libexec/ld-elf.so.1: /usr/X11R6/lib/libXfont.so.1: Undefined symbol "serverClient" エラーを吐いている。古い libXfont.so を参照しているようである。シンボリックリンクで逃げてこれは解決。また autoconf-261 の要求でエラーとなっている。ports から autoconf-261 をインストールしてこれも解決。startx はそれでもダメ,今度は権限に関連したエラー。.Xauthority ファイルを削除したらなんとか起動した。ところが確認するうちに,/usr/X11R6 と /usr/local/lib/X11 とのマージツール /usr/ports/Tools/scripts/mergebase.sh を実行したにも拘らず,xinit など X11 のいくつかのアプリについて古いモジュールが残存し,システムがこれを参照していることが判明した。X11 の環境が混沌とした状態になってしまったもよう。「OS 再インストール」という恐ろしい言葉が頭をもたげる...

しようがないので,フォントのみ新しい X11 用のディレクトリに移して /usr/X11R6 ディレクトリをばっさり消して,Xorg パッケージ一式を portupgrade しなおし,/usr/X11R6/bin 下にいたプログラムのなかで私にとってなくてはならない Enlightenment, Eterm, Rxvt, Adobe Reader 7, Xpdf, Gkrellm などを再度インストールした。これ以外のアプリは困ったそのつどインストールしなおすことに決めた。こうして,やっと以前の生活環境に復帰することができた。

もう意地になりつつあった。X11 でハマる前の環境より改善されてないと気がすまなくなり,FireFox のほか Xmms オーディオプレーヤもインストールした。Xmms は iPod で使われている MPEG4 ACC 形式をサポートしていない。xmms-faad2 プラグインを ports からインストールして,m4a 拡張子の AAC ファイルが再生できるようになった。なかなかクールなスキンも Winamp のコレクションからいただいてきた。

xmms.png

X11R7 となって,従来の /usr/X11R6 ディレクトリ構成が廃止されたのに伴い,とんだ苦労をさせられた。FreeBSD 7.0-RELEASE の組込み時期を待ったほうが賢明であったかも知れない。アップグレード後の私の愛機 ljudmila のスクリーンショットを見てあげてください。

Ljudmila Desctop

ウィンドウマネージャは Enlightenment DR16 (e16)。10 年前その洗練されたデザインに魅了されて以来,愛用している。かつては装飾のごてごてした,ゴシック風の頽廃的なテーマ (ウィンドウスタイルセット) を使っていたこともあったが,いまではメタリックな暗緑色を基調とするシンプルな BrushedMetal-Tigert に落ち着いている。それでも Windows XP, Vista のスタイルよりよっぽど華麗である。壁紙は自作したもの。といっても,ベルギー象徴派の画家フェルナン・クノップフの幻想的な絵画 Stéphane Mallarmé's Poetry's (Listening to Flowers) の画像をインターネット画廊サイトからいただいてきて, Gimp を用いて e16 のテーマ色の地に合成し,色調を整えただけに過ぎない。

基本的に私はアプリケーションは Emacs, Web ブラウザくらいしか使わない (メールも Emacs 上の Mew で読み書きしている)。ターミナルをたくさん起動し tcsh シェルからコマンドアプリケーション,ユーティリティを発行してだいたいの仕事をする。だから Gnome も KDE も使わない時代遅れの UNIX ユーザである。もはや UNIX の最新動向などには興味を失ってしまったのだ。

筒井康隆『文学部唯野教授』

高校時代,三島由紀夫やら谷崎潤一郎やら川端康成やら太宰治やらを読みすぎたせいか,大学に入ったばかりのころは「文学」には「面白い」という素朴な関心を越えたステータスがあると思っていた。いわゆる「純文学」こそが最高の文学であり,藝術作品であり,これを理解する者こそインテリに相応しいのだという幻想があったと思う。そう,日本的教条主義に毒された幻想が。

大学時代の友人 O はそんな私の対極にあった。彼は東京私学の名門・暁星高校を卒業し,フランス語しかできず英語の授業でからかわれ,試験では皆からノートを借りまくっていた。ある皇族の姫様のお婿様候補が高校の同級にいたので「御学友」などと茶化されていた。なぜか卒業論文は不幸なシモーヌ・ヴェイユをテーマにしていた。彼は幼いころからとにかく「面白おかしい」物語を渉猟するという幸福な読書人生の持ち主であった。吉川英治や栗本薫などの大衆文学がなにより好きで,第二藝術というか,サブカルチャー小説も大いなる関心をもって読み漁っていた。また,半ば敵意をもって芥川賞作家の作品を敬遠していた。「タンポンを嘗めた感想でも書いていろ」と言うのだった。

ある夜 O と本の話をするうち,筒井康隆の『俗物図鑑』が話題となった。読んだことがないと私が言うと,「これから読めるなんて羨ましい」と O。すぐさま私は『俗物図鑑』を読み,筒井康隆の度を弁えないハチャメチャな語りの快楽に,ただちにハマってしまった。三島由紀夫は天才の寄せ集めだけど,筒井康隆は天才そのものだと思ったものである。文学には第一も第二もないというフラットな視線を,私は筒井に,O に植え付けられたように思う。

とはいえ,大学を出てからしばらく筒井の作品から遠ざかっていた。岩波新書の『短篇小説講義』を読んだ程度である。最近テレビドラマ『富豪刑事』で筒井先生をお見掛けはしたのだけど。ここにきて久しぶりに手にとった筒井小説は『文学部唯野教授』。これが出版されたとき,いまや筒井も岩波書店から本が出せる時代になったのかと複雑な感慨を覚えたものだった。筒井もとうとう解毒剤を注入されて,アカデミズムの領域に入ってしまったのかと。

この作品は,大学の文学部というところの「どうしようもなさ」を筒井一流のハチャメチャな語りで戯画化しつつ,ニュークリティシズム,ロシア・フォルマリズム,記号論,(ポスト)構造主義などの文学批評・文芸学理論を裏側から概観し,その代表的な批評家・思想家たち — かつては私ものめりこんだ — の言説を皮肉たっぷりに茶化し,相対化している。青春時代を嗤うようで,楽しくなってしまう。文学研究とは無関係な学内政治に奔走している大学文学部の先生の姿が,文芸批評・理論の仮構性とパラレルになっているようでじつに面白いのだ。文学作品を借り物の理論で割り切ろうとする者が,頭を冷やすのによい。唯野教授の講義が日本の文学理論エピゴーネンたちをこっぴどくやっつけてくれていると,もっと笑えたんだけど。
 


久しぶりの原尞

原尞の長編作品はそう多くない。私はそのすべてを読んできた。いずれも和製ハードボイルドの力作である。『愚か者死すべし』は私にとって十年ぶりの原尞読書となった。

通常の推理小説・探偵小説の主人公がもっぱら「与えられた」事実をもとに「推理」でもって犯人を暴き出すことを主眼とするのに対し,ハードボイルドは事件の過程での主人公の激しい個性,積極的な行動そのものに主眼を置くジャンルといえる。

かつては,日本人作家がハードボイルドで成功するのは難しいとされてきたようである。荒正人は「アメリカにハード・ボイルドが生まれたのは,それだけの必然性がある。だが,日本には,現在のところ,そういう必然性がない。だからハード・ボイルドを真似ても意味がない」とまで断言している(荒正人『推理小説のエチケット』, p.168, 江戸川乱歩, 松本清張編『推理小説作法』光文社文庫, 2005 年)。「必然性」の根拠を荒正人はきちんと述べていない。しかし,多民族国家で利害の対立が激しく法律的人間関係がより表面化しやすい米国の社会環境においてこそ,非情さ,ドライさ,行動力,ヒロイズムを特徴とするハードボイルドが成立したと荒に映じたのだと私は思う。

荒正人の断言から 50 年近く経たいま,もはやこの評論家のような言をなすものはいないと思う。日本にも原尞のような優れたハードボイルド作家が登場したのだから。日本の社会が米国並に病んでしまった証左といえるかも知れないが...

原尞作品の主人公私立探偵沢崎の魅力はなんだろう。フィリップ・マーロウ譲りのドライ,クレバー,シニカルなところはさておき,先入観のない人物像だと思う。『愚か者死すべし』には現代日本を象徴するかのような「ひきこもり」の若者が登場する。次のやりとりでは,この若者に対する偏見のない台詞が印象的である。

「なかなか大した観察力だ」と,私は言って,タバコを灰皿で消した。
「ほんと? からかっているんじゃないよね。バカにしてるんじゃないよね。まるで一日中隣のうちをのぞいているみたいな,変なやつだと」
「向かいのうちで,おかしなことが起こっていると思えば,誰だって気になるだろう。少なくとも,いまのおれにはそれが何よりも役に立っている。自分が変なやつかどうかは,自分で判断するしかない」
「そうか・・・・・そうだよな」彼は自信がないような口調で言った。
原尞『愚か者死すべし』早川書房, 2004 年, p. 63.
 

Moon Calendar

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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