2008年4月Archives

大問題勃発,論文提出

見直した論文を提出した。4/27 締め切りぎりぎり,23:00 過ぎに最終稿を送付。金曜日,最後の追い込みだーとばかりに仕事を切り上げようと思っていたところ,とある顧客で大問題が勃発。社内会議ですったもんだした挙句,論文なんかよりよっぽど難しい資料を月曜日までに作らないといけない事態に追い込まれてしまった。マジかよーと泣きたくなったけどしようがない。

論文については,3末に指摘を受けたところの反映にこのひと月,仕事から帰って少しずつ改稿し,ほぼ全面書き直しの体たらくであった。他人にも分るよう分るようといくら努力しても,他人に叩かれないと自覚できない独善がある。それを一から見直さなければならなかった。そのお陰で今度は少しは大学の先生を納得させられるはずだ。制限枚数に収めるため3頁削るのに手間どってしまった。ロシア語要約は,大問題発生のあおりを受けて,まあどうせ誰も読まねーかと腹を括って適当に書き上げた。いや,それでもいまの私のなし得る最高の論文を仕上げ,本業の資料もなんとか仕上げていまほっと一息なのら。これで論文の採用がダメならまた一年修行ということになるんだけどそれもよし。

いま屋根裏の狭い書斎(自称)は論文執筆のため,床に参考文献が積み上がり足の踏み場もない。冗談抜きで,立錐の余地もない。連休に入ったら書物の整理をしよう。論文のために参考書をたくさん買い込んでしまい,マコム(我が家のファイナンス)に多大な借金を抱えてしまったので,その返済のために売っぱらう本,CDを品定めしよう。あと,プーシキン,ロシア語電子コンコーダンスソフトの見直し,サーバのメンテナンス。

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オリンピック聖火リレー,長野で混乱したもよう。さすがの中国びいきの朝日も欧米の世論に逆らえない報道しかしないわけで,乱入したチベット問題抗議者を前に愛ちゃんが困惑している写真とともに,一面で波乱を報じていた。欽ちゃんの「警備のひとが欽ちゃん走りを始めたのでなにごとかと思った」とのコメントがサービス精神旺盛でよかった。中国人で溢れかえってとてもリレーが観られなかったそうな。それでも中国の政府筋は「成功」だのコミュニケを出したとのこと。ますますチベット問題が白熱して白けたオリンピックになりそうである。

* * *

論文執筆のために色んな本を読み返していて,蓮實重彦の文章にぶつかった:「デリダがやっていることは,多義性(ポリセミー)の運動を一旦は踏破し,比喩の様々な系列を辿りなおしつつも,しかし,その系列が常にその系列に対する余剰でもなく欠如でもない,ある『空白』の偏在によって可能になっているという事態を,再—刻印すること」(『「知」的放蕩論序説』)。いやはや,なぜ簡単に「デリダは比喩を使っている」と言わないのだ。こんな冗長極まりない隠語だらけの堂々たる文章を書いているから,大学文学部出は嗤われるのである。よくもまあこんな文章がその筋ではまかり通っているもんだと感心してしまう。これも「ざあます」セレブ語と同じでただのステータスを示したがっているだけではないかと,私なんかは思う。「余剰でも欠如でもない」だの「空白の偏在」だの,これはある種の符牒であって,「その筋」のひとたちには,われわれにとっての「爪楊枝」だとか「二日酔い」というのと同じくらい明白らしい。やっぱり私はプーシキンが好きである。「『軽蔑すべき妄評家(ゾイロス),その眠ることなき嫉妬心はロシヤのパルナス山の月桂樹に自らの催眠の毒薬をば注ぎかけ,その退屈なる愚鈍さはただ飽きることなき悪意とのみ比較し得る......』。いやはや,なぜ簡単に『馬』と言わないのだ」(『プーシキン全集第五巻』p.15)。

どうなる北京オリンピック

北京オリンピックの聖火リレーが,チベット問題に端を発する対中国抗議団体によって妨害され,それが大々的に報道されている。大会をボイコットすべきかどうかとか,西欧各国首脳はオリンピック開会式に出席するや否やとか,たいそう騒がれている。

中国の人権にまつわる問題は褒められたものでは決してないけれど,チベットに対する中国の強圧的な対応はいまにはじまったものではない。また,イラクやパレスチナやアフガニスタンで繰り広げられているもっと凄まじい極悪に比べれば,チベット問題はそれほど敵意をもって囃し立てるべきことなのか。いまさらのように「人権尊重」などといっている偽善的な欧米の尻馬にのっているだけのように私には思われる。

北京オリンピックを成功させて,中国に「ちゃんとした」先進国になってもらったほうが中国市場の質が高くなって,日本にとってもいいことだと思う。韓国もソウルオリンピックの準備とその成功で,昔の軍政独裁国家,あの朴大統領暗殺事件などの血なまぐさい国のイメージがきれいさっぱりなくなったではないか。

これで日本の首相が,欧米諸国と足並みをそろえて,北京オリンピックに政治的なくちばしをはさむようなマネをしたら,それこそ欧米からも中国からも失笑されるに違いない (仮に米国が政治的にこの問題を採り上げる行動に出た場合,日本政府のお追従は目に見えるようです)。

それにしても福田さん,このネジレ国会のおかげでやることなすことことごとく意を得ない情勢で,本当にかわいそうになってくる。「国民の生活」とかいい気なことをいってはいるけど実際はその政策論に何の現実性もない,ただの人気とり反対政党民主党 — 二年前に決まった高齢者医療保険料の天引き問題を,まるでいまはじめて知ったかのように騒ぎ立てるやりくちに呆れてしまう — が相手では,いよいよかわいそうになってくる。

仕事でどたつくとぼやきたくなるこの愚かしさよ。

授業参観,プーシキン研究

中学二年になったばかりの娘の授業参観に行ってきた。授業参観はなんのためにあるのか。子供が授業ではつらつとしたところを見たい・見せたいからなのか,世の中の親御さんはどうなんでしょう。私は先生を見に行くほうである。実は子供たちにはあまり興味がない。どうせ授業参観のときはよそ行きの顔をするのだから。

12:50 授業開始のぎりぎりに教室に到着した。教室はがやがやと騒々しい。保護者は私ひとりのようである。時間を間違ったかと案内のプリントを確認したが間違いはない。あれ,ほかの人たちは?なんで授業してないの???? しようがないので教室に入った。なんで時間通りに授業がはじまらないのか。いくら授業参観だからといって,親は客ではないはずである。なんか釈然としない。私は叱られて教室のうしろに立たされたようなザマであった。そのうち別の親御さんたちがぽつぽつやってきた。10 分過ぎくらいか,先生が合図したらしく,子供たちは起立,礼。

国語の授業。文法である。品詞名を書いたカードを黒板に貼り付けて,先生はこのなかで知っているのありますか?と問う。生徒たちは「英語で習ったよ」と言いながら名詞や動詞などを指している。日本の学校における国語の授業が「英語以下」であることを改めて知らされて慄然とする。また,なぜ先生がそれぞれの品詞の役割,それらの違いをひとつひとつ説明しないのかいぶかしくなる。具体的な単語がどの品詞に属するか生徒に「考えさせる」だけなのだった。生徒の言葉の内省に問いかけるのはたしかに意味がある。中学校では,文法というもののだいたいの感じを掴むことが学習の主旨なのかも知れない。

帰宅後,娘に質問してみた。
「今日の文法の授業分かった?『できる』の品詞はなにか分かる?」
「英語の can が助動詞だから,助動詞!」
「あほ,日本語と英語は違うんじゃ」

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* * *

プーシキンの論文見直しをしている。なかなか進まないよー... でも以前に無理して購入したプーシキン語彙辞典 (Словарь языка Пушкина в 4-х томах, М., 1956-1961: Ozon からなんと 15,000 円ほどで手に入れた掘り出し物。この 50 年前に出版されたソヴィエト・プーシキン研究の精華を,普通の社会人で個人的に所有しているのは,日本広しといえども私だけだろう!),ウシャコフ編4巻本ロシア語詳解辞典(Толковый словарь русского языка под редакцией Д. Н. Ушакова в 4-х томах, М., 2000),そして自作のプーシキン作品コンコーダンスプログラムが,ここにきて大いに役立っている。テキスト解釈の論証に困ったとき,語釈辞典や作品用例を丹念に確認するとブレークスルーが得られることがあるんである。

春の嵐

今日,鎌倉の顧客との打合せだった。朝,悪天候のため電車が遅れていてヤキモキした。打合せが終わり,顧客事業所から大船駅に向かう途中,暴風で傘が吹き壊されてしまいずぶ濡れになってしまった。JR 東海道線が暴風のためストップしていた。

帰社途中,東京駅高架下の「なか卯」で遅い昼食。この前入ったときは場違いなクラシック音楽で落ち着かない気分だったが,今日は JPOP が流れていた。「なか卯」にはファーストフードみたいな JPOP が相応しい。

春の嵐で今年の桜もおしまいか。

東京都立中央図書館に行く

土曜日,東京都立中央図書館に出かけた。色彩論にかんする調べものがあった。Web 蔵書検索ページで事前に十冊ほど所在を確認しておいた。

最寄駅から恵比寿に出て,地下鉄日比谷線に乗り換え広尾駅で降りた。150 万冊以上所蔵する有数の図書館が自宅から 30 分足らずなのはうれしい。有栖川宮記念公園をちょっと散歩した。広尾界隈には十指に余る大使館が犇めいているためか,ガイジンさんで溢れかえっていた。春の清々しい午前十時,親子の連れ立って休日を歩む様が微笑ましかった。図書館のすぐ脇の広場では大学生とおぼしき若者たちがすでに花見をしていた。桜は満開。もはや葉桜。散りはじめの熟れた華やかさ。

十一時ごろ図書館の番号札を受け取り入館した。十年以上前,はじめてここを訪れたときは受付の長蛇の行列に驚いたものである。そして閲覧室は満員で,とても落ち着いて資料を調べる雰囲気ではなかった。東京の大図書館とはこういうものかと辟易した。今回は予期に反してガラガラであった。ノートパソコンを携えてきた私は PC 用閲覧机 — 「社会人優先」という貼紙があった — に陣取った。昼飯も食わずに,PC でメモをとりながら資料を調べ,閉館時刻を迎えた。

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プーシキン『青銅の騎士』

プーシキンの叙事詩『青銅の騎士』は,ペテルブルグに住む下級官吏がネヴァ河の氾濫のため恋人を失い,その後発狂してピョートル像に追われ野垂れ死ぬという物語である。『エヴゲーニイ・オネーギン』とともにプーシキンの,世界文学史上に残る傑作とされている。

作品の主人公エヴゲーニイ(『エヴゲーニイ・オネーギン』の主人公と同名である)は十四等官下級官吏。地位も名誉も金もないサラリーマンのような存在である。同時代を描きつつこのようなしがない一般人を主人公とすること自体が,叙事詩という高級なジャンル伝統からもロマン主義的流行からも大きく逸脱している。

エヴゲーニイは貧しい我が身を思って眠ることができず,そして詩人のように溜め息をついた,とある。「詩人のように」という句のやるせない諧謔。こうした諧謔や,ピョートルの都を讃える明るい古典的詩行が融合しているにも拘らず,この作品を読むとその厳粛性,悲劇性に,涙に咽ぶ思いを禁じえない。これは単に主人公が死に至るという単純なことによるのではない。そこには,イエスの捕縛ののちその仲間であることを三度否認したペテロ,ごく普通の漁夫でしかなかったペテロが,イエスの存在と対峙した瞬間に,厳粛で,悲劇的な全人類的高みに昇華していく,あの — アウエルバッハが指摘した — 聖書の物語構造に似たものがあるからだと私は思う(※)。ペテロとイエスの関係は,この作品ではエヴゲーニイと都市ペテルブルグ(近代ロシアの建設者ピョートル大帝の象徴)なのではないか?

『青銅の騎士』は,その後のゴーゴリ,ドストエフスキイの都市幻想あふれる文学的系譜のルーツだといってよいと思う。それがプーシキンの創作過程のなかでどのように形成されたのかは興味深いテーマである。これを解き明かす鍵のひとつは,エヴゲーニイを『エヴゲーニイ・オネーギン』におけるインテリジェントな貴族(セレブ)から,とりえのない十四等官(パンピー)に貶めなければならなかった詩人の深い社会観・歴史観だと思う。ではそれはいったい何なのか。英雄的な人物よりもただの一般人に深淵を見出す芸術観は何によってくるのか。

※ その後考えれば考えるほど,『青銅の騎士』におけるキリスト教のモチーフが気になるようになった。ネヴァ河の氾濫はノアの洪水,ピョートル像はヨハネ黙示録に出てくる,蒼ざめた馬に乗る死とそれぞれ観念連合する。だれかがすでに指摘していることかも知れないが,私なりに面白いテーマである。(08.10.24 付記)

その後,東日本大震災のショックのなかでこの作品をロシア語で再読し,記事『А. С. Пушкин «Медный Всадник»』に書いた。
 

青銅の騎士 (ロシア名作ライブラリー)
アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・プーシキン
郡伸哉 訳
群像社
 

日本人は観念的で深遠そうなものが — たとえ理解できなくても — 大好きなので,ロシアの作家ではプーシキンよりもドストエフスキイのほうが「圧倒的に」人気がある。しかしロシアではプーシキンは近代ロシア文章語を確立した「ロシア文学の父」として崇拝されている。あのダンテ — トスカナ方言を文学言語に高め,ヨーロッパ文学の巨星として讃えられる大詩人 — と同じ扱いである。その研究文献の規模の壮大さはドストエフスキイの比ではないのだ。その感覚は日本人にはちょっと解らない。一方,プーシキンはピョートル大帝に連れて来られたエチオピアの黒人奴隷の血をひいており,詩人自身そのことを大いなる誇りとしていた。そういう「純血」とはいいがたいプーシキンを国民的誇りとして愛しているところにも,私はロシア人の懐の深さを感じないではいられない。
 

* * *

アマゾンの評価で,ちょっと頭に来ることがあったので付記。

上に掲載した翻訳書は郡伸哉先生による新しい訳である。先生は著書『プーシキン — 饗宴の宇宙』(彩流社, 1999年刊)において饗宴(酒盛)というキーワードでプーシキン独特の世界を巧みに把握,解説してくれた優れた読み手なんである。ロシア人以外でこうした「面白いプーシキン論」を展開できる人はまれなのだ。

ところが,この『青銅の騎士』他の翻訳についてのアマゾンにおける評価は低い。つまりアマゾンの評価は信用ならないということである。評価の内容を確かめると,ひとつは誤植をことさら非難する,あまり本質的とはいえないものである。「ここからスウェーデンを脅かそう」という訳がヘン,なんてそれこそ評者の言語感覚を疑わせる言をなしている。まあよかろう。

もうひとつの投稿は「賢そうにみえる」だけもっと質が悪い。曰く「しかし,小説という表現方法が確立されてしまった現代では詩や戯曲や詩劇などは受け入れられがたいのも事実である。それを考えるとどうしても私の評価は星三つになってしまう」。小説を詩や戯曲などと同列に扱い,しかも小説以外のジャンルを現代では「受け入れられがたい」と決めつけ,それを「事実」だとして憚らない軽卒な理屈はいったい何なのか。短歌や俳句の書籍はすべて星三つということらしい。なぜ投稿者は「詩や戯曲や詩劇」をそれそのものとして読み,アマゾンの評価に反映しないのか。こういう論法は,中身を確認せずに,個別事情をその都度見極めずに,ものごとを「頭ごなしに判断する」人間のものである。あるいは,中身をみても解らないのに自分のテリトリーのものとは異質なことだけには気づく自己満足。投稿者は「ドストエフスキーなども」耽読していると書いている。まさに先入観でもってドストエフスキイの深遠さに見蕩れているだけで,実は本をあまり読まない人らしい。

プーシキンも言っている —「すぐれた寸鉄詩は悪しき悲劇よりもよい......これはどういう意味か? よき朝食は悪天候よりもよい,などと言えるのか?」(「書簡からの抜粋および思索,意見」川端香男里訳 —『プーシキン全集』, 巻5, 河出書房新社, p. 34)。

ま,勝手なひとが勝手なことを書き散らすことができるのもインターネットの民主的なところ。私だってその勝手なひとりである。単なる個人的見解にいちいち反応していては疲れてしまう。しかしこと私の好きな作家について悪し様に書いているのを発見すると毒づいてしまう。
 

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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