2008年7月アーカイブ

ロープシン『蒼ざめた馬』

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1907 年刊のこの有名な書は,二十世紀初頭のロシアのテロリストを描いた日記体小説である。題名は,ヨハネ黙示録に現われる「死」の跨がる蒼い馬から採られている。作者ロープシン,本名ボリス・サヴィンコフは,社会革命党(エス・エル)の一員として数々のテロ活動を指揮した,ほかならぬテロリストであった。要するに,本書はフィクショナルな小説の形態をなしてはいるが,当時のロシア・テロリズムの「現実的な」一端を示すものなのである。

殺人になんの抵抗も良心の呵責も覚えることのないニヒリズム,ツルゲーネフばりの抒情的な自然描写,全編の至る所で言及される聖書の断片,婦人への理由なき愛。作品では,こうした相互関係の希薄にみえる要素が,主人公テロリストの同一視点から語られる。ロシアのテロリズムにおいては詩人であることと政治的殺人者であることとには矛盾はないようである。むしろ,この分裂というか張りつめた関係こそが人間のモラルの真実性を示す,ということなのだろうか。

テロリズムが国家間の「戦争」になった 9.11 以降のいまのこの時代を理解するうえで,本書がどんな意味を持つのか私にはわからない。正直なところ,私には本書は,ドストエフスキイの危険性 — 先に書いたような — がとるであろう現実の姿としか思えない。しかしなんと美しい作品なのだろう。

湿った土のうえに頑丈な樫とポプラが立っている。教会のようにひっそりとしていた。小鳥も鳴かず,小川のせせらぎだけが聞こえる。わたしはその流れをみつめていた。水しぶきがきらめいていた。わたしは水の音に耳をすませる。ふと目をあげると,枝葉が織りなす緑の繻子に包まれて,むこう岸にひとりの女が立っていた。
ロープシン『蒼ざめた馬』川崎浹訳,岩波書店,2006 年,p. 13。
あそこ,監獄では,世界がすばらしく思えることがあり,大気や,灼きつける太陽を欲した。ところが自由の身になってみると,ここでは,ふたたびたいくつにさいなまれる。しかし,ある日の夕方のことである,わたしはひとりで歩いていた。東の空はもう暗くなり,最初の星が輝きはじめていた。山々は菫色の靄におおわれている。ふもとの川からはかすかに夜風が立ちはじめる。つよい草いきれだ。蝉が鳴きたてる。空気はあんずのように濃く,あまい。そしてこの瞬間,わたしはとつぜんさとった。そうだ,わたしは生きている。死は存在しない。
同書,p. 171-2。
彼女の眠りは浅く,すぐ目ざめる。二度目のノックだ。まえよりもしつっこく,音もたかい。彼女はさっと髪をなおして,起きあがる。灯はつけないまま,はだしで右手のピアノわきの大きな机にちかづく。手さぐりで,やはり音も立てず,引き出しから拳銃をとりだす。わたしが贈ったものだ。それから彼女は,あいかわらず闇のなか,手さぐりで服を着る。三度目のノック,これで最後だ。つま先だちで隅の窓ぎわへいく。暗いカーテンをあける。湿って,せまい,たたき石の中庭を見た。星のかわりに,下のほうにうすぐらい街灯が......すでにドアをこわしはじめた。誰かが斧で規則正しく打つ。彼女はドアのほうをむいて,つよい,しなやかな動作で胸に拳銃をおしあてる。はだかの胸に。心臓のちかく,乳首のすぐ下に。彼女は部屋の隅へあおむけに倒れる。拳銃は絨毯のうえに黒ずんで見える。ふたたび暗闇と静寂。
同書,p. 209。

ちょっと長い引用になってしまったが,この冷徹な抒情と生の充溢は,作品の酷薄な倫理を別としても,美しい。二十世紀のノワールな文学的タイプだと私には思われる。趣味人サディストや淫蕩な女どもで溢れた十九世紀文学の紋切型を,爆弾で吹き飛ばしてしまったかのようである。
 

高校野球神奈川県大会

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今日,午飯を食べながら何気なくテレビをつけたら,高校野球の神奈川県大会決勝戦が中継されていた。東海大相模 VS 慶応。慶応は自宅からそう遠くない地元の高校だ。点を取られたら取り返す,実力の伯仲する好ゲームだった。妻と昼間からビールを酌み交しつつ観戦することに。延長 13 回の激闘の末,6-9 で慶応高校が優勝し,春夏連続全国大会出場を決めた。アナウンサーが「東海大相模,三年連続の準優勝です」などとわけの分らないことをしゃべっていた。

殊勲の決勝三塁打を放った選手が試合後のインタビューで,「ピッチャー交代の投球練習のとき直球ばかりを投げていたので,真っ直ぐ狙いで行きました」と語っていた。これからの対決を前にしたごく僅かの間に相手をよく観察し,戦術を決め,結果を出したわけだ。後生畏るべし。私自身などは,あとワンアウトというところで投手交代を決めた采配の是非を詮索したり,投球練習する球の速さに感心するばかりであったのに,この選手は「球速ぇなあ」と虞れをなす前に戦いに臨むに当たってなすべきことがなにかを心得ていたのである。私は,そんな彼に感銘を受けただけでなく,こういうクレバーな選手をきちんと育てられる指導者に尊敬の念を覚えた。まず相手を観察し,考え,戦いの方針を決めること。この選手は私の長男とほぼ同じ歳なのだ。

『名短篇,さらにあり』

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北村薫と宮部みゆきの両作家が編んだ『名短篇,さらにあり』は,現代でも奇妙な味わいを失わない古い時代の作品を主にしたその選定において,ちょっと個性的な短編集である。舟橋聖一,永井龍男,林芙美子,久生十蘭,十和田操,川口松太郎,吉屋信子,内田百閒,岡本かの子,岩野泡鳴,島崎藤村。ほとんどが昭和初期から終戦直後に最盛期を誇った作家たちである。

よくできた短編小説は,演奏効果に欠ける室内楽の名曲と同様,ひとり静かにしみじみと唸らせてくれることが多い。これを読まなくちゃなんてわざわざひとにいうのも野暮な,玄人の雰囲気がある。桃李ものいわざれどもである (いまこのブログで面白いよという私は野暮なんである)。要するに拍手喝采ではなく頷くことで報いたい質の至芸がある。この作品集もまさにそんな佳作ぞろいで,選者の粋を思わないではおれなかった。

内田百閒と久生十蘭の恐い短篇は私の愛読するところのもので,いつものとおり楽しませてもらった。とくに,これまでその名を知らなかった作家・十和田操の『押入れの中の鏡花先生』は,快い剽軽でほのぼのと笑わせてくれる一品。鏡花の知遇を得た作者のどこまで真実なのか怪しい私小説なんだけど,大作家が雷を怖がって押入れに閉じこもるところや,蛇めしについて大真面目に議論するくだりを「とうちん」が語る様は,「ふむふむ,それでそれで?」という,楽しいお話を聴くときの幸福感を実感できる。「先生がお化けにつられてだんだん読んでいくうちに,火柱が立ったり,新婚のあやしい美女が真夜中に古庭の釣瓶井戸のそばではだかになって水を浴びたり,月光に肌をなめさせたりする風景があらわれてきたりするので文章のほどはまだ黄いろいが,こいつは面白い話だと思ったのかも知れない」(p. 132) — 泉鏡花への悪意のないパロディを読んで吹き出したのはこれがはじめてである。その他,島崎藤村の『ある女の生涯』は — 藤村にはただただ暗い日本のリアリズム文学の気難しい爺という印象しか私にはなかったのだが — 狂気と幻想をこんなに悲しく果敢なく強く描いてくれる作家だったのかと見直さざるをえない好篇であった。 川口松太郎の明治風人情ロマンもあはれなり。

このクソ暑い季節,出張での移動の合間なんかにちょっとさぼって喫茶店でこんな短編集を読んで,「明治は遠くなりにけり」の感覚に浸るのも悪くありません。

ただこの本,作品の初出の年・書誌をきちんとしるしていないところは,私には許しがたい瑕疵である。これじゃ筑摩の編集者も「らしくない」と言われますよ。久生十蘭作品をこよなく愛する私はさておき,彼についてなにも知らない読者は,『雲の小径』で語られる,終戦後間もないころに飛行機に乗る行為の非日常的雰囲気に,いつ書かれたのかという情報がないと思い至らないのではないだろうか。

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今夜は家族で焼き肉を食べた。帰り,川崎西口バス停留所に,なかなか車が来なかった。今日は等々力球場でフロンターレとグランパスのサッカーの試合があり,それで混雑しているんだとぼやく。サッカーのある休日の府中街道の混雑はハンパじゃない。

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夜,私がスポーツニュースを観ていたら,妻がなにかの本を読みながら「サッカーなんかで点が入ったらそれで試合が終わるのって『ゴールデンボール』っていうんだっけ?」と真面目な顔で聞く。「そりゃ『ゴールデンゴール』だよ,昔の『サドンデス』じゃ。『ゴールデンボール』じゃきんたまじゃねえか」と私。

ツタヤオンラインでレンタルした映画を観た。ロシアのアレクサンドル・ロゴシュキン監督作品『ククーシュカ--ラップランドの妖精』(2002年)。「ククーシュカ」とはロシア語でカッコーのこと。第二次大戦中,ロシア兵はフィンランドの狙撃兵をククーシュカと呼んだそうである。一方,カッコーは別の鳥の巣に子供を産みつけるのに対し,この映画では,戦争で家族を失った女主人公が二人の敵対する国の兵士を受入れて生活をする (ロゴシュキンはそのちぐはぐな面白さをメイキングで語っている)。

第二次大戦末期,フィンランドの北部のラップランドで,ロシア語,フィンランド語,サーミ語を話す三人が偶然出会う物語である。お互いにまったく言葉が通じないなかで奇妙な共同生活をはじめる。ロシア人とフィンランド人はお互い敵同士の関係にあり,ロシア人はナチスドイツの軍服を着せられたフィンランド人に対する不信感と嫉妬とに苛まれつつも,共同生活に溶け込んでゆく。戦時中にあっては静かな小屋や暖かいスープは粗末でも生と平和のありがたみを象徴する。女主人公のよがり声 (下品な表現ですみません) がラップランドの薄暗い自然に高らかに鳴り響くシーンに,性の下品さ・いやらしさなんかではなく,なんとも平和なのどかさを感じるのだ。

主人公のロシア兵は詩人であり連隊で書いた詩がもとで逮捕される。彼がジープで軍法会議へと連行されてゆく間際に,ひとりの兵卒が「あなたの無罪を信じている。幸運を祈る」と主人公にささやくシーンがある。真実を語るがゆえに迫害される一方その言葉で誰かの魂を揺り動かすロシアの詩人のイメージがこんなところでも健在なのが面白かった。

大先輩

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今日,協力会社のまとめのひとと体制の打ち合わせをしていたら,ひょっこり I 氏が現れた。私は驚き「お久しぶりです」と大声をあげていた。I 氏は会社の大先輩である。もう十年以上前に直系の関連会社に転属し,先頃,定年退職した。ところが 2 年前に旗揚げした IT 企業にこのたび顧問として迎えられ,今日,私の事務所にご挨拶に参上したとのことだった。

私が SE になって 2 年目,私の担当プロジェクトに I 氏がオンラインプログラム設計の取りまとめ技師としてやってきて以来のお付き合いである。I 氏は,日本のコンピュータ産業の草創期に高卒で入社し,鉄道座席予約オンラインや株式取引オンラインなど,私の会社が社運をかけて取り組んだ社会インフラ・システムをいくつも設計・開発してきた現場の本当のプロである。私はこれまで 20 年に及ぶ会社生活で,その「芸術的」技量をもって本当に尊敬に値すると思った仕事仲間は I 氏をおいて他にいない。私の会社にはすごいエリート研究者が数多くおり,私はそうした博士先生ともしばしば一緒に仕事をしてきたけれども, I 氏の設計能力と経験との前ではそうした鼻の高い先生たちのスマートな技術も吹っ飛んでしまうのである。それは,プロジェクトの修羅場で,巨塔のごとく立ちはだかる困難な障壁を突き崩して行く I 氏の姿を目の当たりにしたからである。

I 氏がやってきた当時,私の担当の大規模オンライン検索システムは性能問題で火を吹いていた。月額 2 億円近い最新鋭の超大型汎用機を導入する予定だったが,組合せ試験途中のシステムのパフォーマンスを開発機上で性能測定したところ,目標値の 10 倍の CPU 時間を要することがわかった。このシステムは,トランザクション当りの CPU 時間を 0.3 秒以下に抑えないと,顧客要求の端末トラフィックを要求応答時間で捌くことができない。それは待ち行列計算でわかっていた。それで,ダイナミックステップ (走行命令数) を処理装置性能から割り出し,トランザクション・五百万ステップ以下,AP メモリ所要量 5MB 以下とすることが基本設計時点での私たちの目標であった。実測の結果,ダイナミックステップのコマンドミックス (検索モデルの加重平均値) が五千万ステップにも達してしまったのである。おまけに,保守性を優先させプログラムモジュールをダイナミックリンクで設計したことが裏目に出て,モジュールのローディングでシステムがフン詰まってしまった。

最新鋭計算機はできたてのほやほや,出荷検査の最中であった。顧客システムをその工場に持ち込んで性能試験をはじめたころ,その工場の計算機室の控え室で,I 氏を含めて私たちは大型計算機処理装置のハード設計者,OS,DBMS,DC (オンライン通信コントロール) とユーザプログラムのソフト設計者とともに,連日,試験しては対策会議をやった。そのころはなにからなにまですべて自社で開発した計算機システムで商売のできた素晴らしい時代であった。どのような問題も自分たちだけで手を打つことができた。I 氏は検索のメインパスのアセンブラ・コードを自ら解析し,ラインプリンタ出力紙の裏にフリーチャートを書いて問題点のポイントを説明して対策案を打ち出した。システムは数百万行の規模があるので,I 氏はほんの一握りのコードを漁ったに過ぎないのだけれど,それで十分だった。あとは何十人もいる担当者が手分けして同じようなコードの問題を手直ししてゆけばよかったからだ。こうして I 氏のおかげでダイナミックステップ数を激減させ,サブルーチンをメモリ常駐させてローディングオーバーヘッドをなくす対策を完了することができた。ひと月 2 億円の計算機を 10 台並べないといけない事態にならずにすんだのである。

いけない。「ああ,あのころはよかった」式になりつつある。

映画『西の魔女が死んだ』

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川崎ラゾーナの 109 Cinemas で『西の魔女が死んだ』を観た。本当なら娘と来るはずだった。けれど娘はクラブ活動を優先した。それで,妻と二人でビールを飲みながらの鑑賞となった。

英国人おばあちゃんのもとに預けられた孫娘が魔女の血をひく老人の影響を受けながら精神的成長をとげてゆくというドラマである。私には「英国風エリート教育のすすめ」のような物語と映る。「魔女,すなわちエリートになりたいか? ならば自分の意志を強くもち,鍛錬なさい」というわけである。これは『ハリー・ポッター』などの英国式ファンタジーと同じ調子である。オックスフォードやケンブリッジのような全寮制の学校に子供たちを閉じ込めてエリート教育を行うあのやり方である。君たちは一般人とは異なる選ばれた者たちである。だから一般人とは違う厳しい,しかし名誉ある道を歩むのだ。ここには,かつて世界を支配した英国一流の,一握りのエリートが魔法のような知恵と見識とをもって世界をコントロールしなければならなかった社会の教育思想があると思う。ノーブレス・オブリージュの精神である。

主人公の少女は登校拒否に陥っている。その理由はいじめである。「クラスにはいくつかのグループができる。そのグループはそれぞれ仲良くやってゆくことができる。どのグループにも属さない一人を敵にまわすことによって」と彼女は言う。そう,いじめに苦しめられている者は,朱に交わらぬ選ばれし者ということ。英国風の選ばれた子供たちの生きる道が,現代日本の一億総中流意識の集団主義的病魔に対するアクチュアルなモラルとなる,といえる。悪くない。「あの子もやっているのにどうして私だけ?」,「どうして私だけがこんなつらい思いをしなくてはならないの?」といった集団主義の裏返しの論理に太刀打ちするためのモラル。

西の魔女,おばあちゃんは孫娘の精神状態に応じてお茶のハーブを選択し,まるでそれによって孫娘の心を制御しているかのようである。自然と生活の知恵の詰まった老人は魔法使いのカリスマをもっている。本当に必要なのは,か弱い老人にやさしい社会ではなくて,体力も資金力もない老人が知恵と見識とでもって風格を備え,影響力を発揮する社会でこそあるということを,私に実感させてくれる映画であった。現代の日本はどうもおかしい,と感じるのは私だけではないだろう。英国風でなくとも老人がかつての日本を語ることそれ自体が意味をもつ時代ではないだろうか。

サーバー移設

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知らない間に Web サーバーがダウンしていた。このクソ暑さでいかれてしまったのか。電源を切ってブートさせたところ,ファイルシステムチェックも通ってきちんと起動した。とりあえずディスクが壊れたというわけではなさそうでほっとした。

機械を設置している自宅3階の屋根裏部屋 (自称書斎) は,最上階ということと天窓から日光が差し入ることで,夏場はむっとするくらいに室温が上昇する。ノート PC でサーバー運用していたころは CPU も HDD も省電力パーツでこの部屋で電源を入れっぱなしでも動き続けたが,通常のデスクトップ PC となると熱のために故障するかも知れないという危機感が湧いてきた。それくらい暑いですね,このところ。

というわけで,もっと涼しい2Fの寝室に設置し直すことに。ここには妻の PC がすでに置いてあり,その上を新たな場所とした。静音設計のキューブ筐体なので騒音で煩わされることもなさそうである。ところがこのサーバー用のモニターディスプレイ EIZO の電源プラグが三つ又で2Fのコンセントに合わず,妻の PC のモニターを一時的に接続して起動確認を行った。明日変換器を買って来なくては。移設ついでに私のサイトロゴステッカーをサーバーの筐体に貼付けた。

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まず,タイトルが豪速球のストレートのように真摯である。イエスかノーか,帰ってきたのか途中で倒れたのか,生か死か。作品は日本と朝鮮の歴史上もっとも過酷な時代をまじめに描いた,思わせぶりのないロマンである。ソ連が侵攻した終戦直前の満州と昭和56年の平和な日本とを描き分ける。戦争中の罪と罰,愛と苦悩が主人公とその子の世代の運命とを決定づける。そんな筋書きはまさに歴史の姿ではないだろうか。主人公桜子と世津子は,聖と俗,清浄と汚辱という対語が頭に浮かぶくらいその性格・運命が対蹠的ではあるけれども,ともに歴史の現われであるという意味でむしろ等価な存在なのだ。

この小説本は,大学の卒業のころ友人からもらった何冊かのうちの読まずに死蔵していた一冊である。なぜかふと手に取って読みはじめたら,止まらなくなった。作者は昭和初期に来日した韓国人作家である。在日韓国人の文学には一種独特の暗い勁直さがある。麗羅のこの作品も少しごつごつしてはいるがケレン味のない美しい文章で魂を打つ。こういう文学を読むと日本も朝鮮も偉大な歴史を歩んだのだと思う。麗羅の名は最近とんと聞かないが,他の作品も探してみたいと思っている。

お休み・鰻を食す

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今日は会社の創立記念日でお休み。昨日は,ある顧客でトラブルがあり,木曜日に説明に行かねばならない状況になった。夜,子分と説明資料を作成し,レビューを済ませた。水曜日は予定通りお休みしようということに。

妻も本日は仕事のない日なので,お午に川崎駅近くの老舗で二人で鰻を食った。暑い白昼の空きっ腹に堪えるほどサッポロ黒ラベルが旨かった。蒲焼もさらなり。子供たちにはこんな贅沢はさせられない。子供より親が大事。

あおい書店で北村薫・宮部みゆき編『名短篇,さらにあり』(筑摩書房) と永六輔『大往生』(岩波新書) を購入し,帰宅した。岩波文庫のクルト・ゲーデル『不完全性定理』を電車のなかで読んでいるのだが,まったくついてゆけない。その難解さは私の知力を遥かに越えている。岩波文庫から出る古典は硬くとも少しずつ噛み砕いて読み進めることができるはずだと思っていたけれど,甘かった。これはダイヤモンドのように硬い。ちょっと別の本に鞍替えしようというところなのだ。

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北京オリンピック・サッカー日本代表が決定した。U-23 世代はどうも盛り上がりに欠けるし,予選を観ていてもこんなレベルでオリンピックに行ってよいものかとしばしば不安にさせられたのだけれども,2010W 杯の中核を担うべき若者たちである。反町監督が「ハートで選んだ」という 18 人の顔ぶれはこんなものかなというところ。ハートだけじゃ勝てませんよ,と腐してもはじまらない。この最終メンバで中国人のヤジに負けず頑張ってほしい。

FW に — 平山相太ではなく — 李忠成が選出されたのがうれしい。在日朝鮮人として育ちオリンピックを機に日本国籍取得を決断した彼や,彼のご家族の心情を察するとこみ上げるものを感じる。

午后の休息

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今日午后,ちょっと一服に事務所の外に出た。煙草を吹かしていると,霞ヶ関ビル,特許庁の方から烏が悠々とこちらに向かって飛んできて私の事務所ビルの屋上に止まった。「からす,なぜ鳴くの」,「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」など日本人の心性には,この醜い鳥への,言葉に現しづらい愛情がある。霞ヶ関・赤坂のビル街にはびこる烏。この烏はいったいどこに巣を営んでいるのか。「山の古巣へ来てみてごらん」— なんてやさしい歌なんだろう。

溜池裏通りのうどん屋

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金曜日,急な仕事が入りお午が取れず,夕方ひとりでぶらっと食事に出た。私の会社の溜池事務所前を通っている外堀通りから米国大使館の方にひとつ行った裏通りに入った。この細い通りにはお洒落なフランス料理屋,ドイツレストラン,高級パティセリー店,個性的な弁当屋,うまい鶏肉を食わせる料理屋,それなりのとんかつ屋などが立ち並んでいる。今日は前から気になっていたうどん屋にはじめて入ってみた。狭くてちょっと薄汚い店だった。

私は関西人である。大学に入学して札幌で暮らしはじめたときはなにより食の違いに驚いた。原理的には腐敗した,独特の臭いとともに糸を引いて粘る納豆を,自分が好んで食べるようになるとは想像だにしなかった。ウスターソースをかけて食うものだと思っていた天ぷらを,天つゆで食することに感心した。一方,厚焼き卵の味付けの違いにはなかなか慣れなかった。

しかし札幌 — というか東の文化圏 — に来て,これだけは絶対だめと思ったのがうどんである。関西のうどんつゆは昆布だしで薄い色だが独特の甘みとコクがある。それが当たり前だった私は,鰹節だしで醤油の濃い札幌のうどんつゆはどうもだめだった。おまけに関西ではうどんは当時 100 〜 200 円の間で一級品が食べられたが,札幌ではまずい上に 300 〜 500 円と高価で「ぼられる」ような不満もあったのである。概して東日本は麺類が異様に高い。

溜池裏通りのうどんは関西風の昆布だしの懐かしい味がした。小学生のころ,鍵っ子だった私は,たまに母からお午のお金をもらうと,近所のうどん屋によく行った。そのうどん屋の親子丼が旨かった。そのころはまだ,普段着として和服を着るお姉さんをよく見かけたものだ。そんなお姉さんがうどん屋で主人と冗談口をたたきながら,肘を付いてきつねうどん — そう,確か 70 円だった — を食べる鯔背な姿を眺めているのが私は好きだった...。いまにして思えば,鷗外の『ヰタ・セクスアリス』に出て来る「冬は半衿の掛かった銘撰か何かを着」た女のような存在だったのかも知れない。溜池で関西風うどんを食いながら,そんなことを思い出していた。値段はこのご時世なので,580 円もしたのだけど。

事務所へ戻る途中,同じ裏通りにある煙草屋に立ち寄った。私はまだタスポを入手していないので自販機を使うことができない。「ハイライトください」と私が注文すると,「あいよ。ハイライトっていくらだっけ」と煙草屋のオヤジ。このオヤジ,自販機に仕事を任せていたせいか職業感が失われてしまったようである。私は「150 円,... でしたよ。私が学生のころは」という冗談が頭に浮かんだ。「290 円ですね。これからちょくちょくお世話になります」と言った。

Utf82TeX と misima の TeX 変換の不良を見つけた。コントロールシーケンスのあとに空白が挿入されない場合がある。教会スラヴ語の行末がコントロールシーケンスで終わる場合,{} が挿入されない。この二点を修正した。Utf82TeX は公開パッケージを入れ替えた。0807 版をダウンロードサービスから落とし,modules/utf82tex のみ差換えればよい。misima はサーバ側の変換エンジンの訂正なので,misima SOAP Web Service には影響はない。

米国の元国防長官ウィリアム・S・コーエンによる謀略サスペンス小説『陰謀者たち』を読んだ。国防長官といってもピンと来ないひともいる。要はあのペンタゴンのトップである。『ウルトラ・ダラー』といい,この作品といい,黒い国際事情に通じたひとが,フィクションという形式で,国際謀略を語っているのは興味深い。「イソップの言葉」で伝えるしかないという判断だろう。

本書は二十一世紀の米国の本当の仮想敵中国における二つの勢力に絡めて,面白おかしい物語に仕立てられている。米国の思い通りにならない大国にロシアと中国がある。両国ともに大国としての品位と文民統制を維持しているけれども,国内には過激な非合法的手段で米国を転覆させようと目論むもの (「ならず者」) もいる。米国にも中国・北朝鮮に対し軍事的強行政策を強く主張するものもいる。この作品は,国内の強硬派とのせめぎ合いのなかで米国の「良識」ある側が,中国の「ならず者」の陰謀をくじくという物語である。それなりに面白かった。しかしながら,謀略小説のわりには黒幕がはじめから明らかにされていて,誰が糸をひいているのかというワクワク感がないのが残念だった。

こういう軍事行動や諜報といったピリピリするテーマを扱う作品では,主人公の発するジョークや皮肉,警句が人間的コンテクストに引き戻してくれる大事なモチーフになる。そういうところが私にとって本作品の美点である。「もちろん,ジェファーソン[大統領]自身にちょっとしたイメージチェンジは必要だろう。ブリオーニの四千ドルのスーツは手放さなくてはならない。ドットコム企業で敏腕を発揮した連中が,ブリオーニのスーツから,連邦刑務所の囚人服であるオレンジ色のジャンプスーツに着替えることも多かったからだ」(下巻 p. 134),「マーク・トウェインが言ったように,歴史は繰り返すとは限らないが,韻を踏むことはよくあるのだ」(下巻 p. 282),等々。

さすがにこの作品は,米国の「正義」を代表する視点に支えられている:


[主人公は]FBI がテロ事件を依然犯罪として扱っていることには懸念を示し,激しさを増すテロの嵐に対応するため,進行の遅い司法制度を見直す必要があると説いた。現行の制度では,起訴,予審,陪審裁判,控訴 — 結審まで何年もかかってしまう。そのあいだ,わが国を崩壊させようとたくらむ輩は星条旗に身を隠し,法律で保証された権利を我々に認めさせようとする。
「テロリズムは犯罪ではない」上院で議論が闘わされたときに彼は声を荒げた。「戦争だ」(上巻 p. 38)
 

なぜテロリズムが横行する事態になってしまったのかは議論の対象にはならない。敵は敵なのだから。まず目の前の敵を排除する必要がある。本書は世界が憎しみの泥沼に入り込んでいるという,当事者によるイソップの言葉である。

iPhone 発売, etc.

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今日,iPhone G3 発売で大フィーバーだったようである。テレビのインタビューに応じていたある購入者は,今回苦労して手に入れた iPhone 以外に携帯電話を 3 台所有していた。そういうひとは彼だけではないらしい。iPhone などよりこっちのほうが私の関心を惹いた。会社の部下には会社で与えたものと個人所有とを使い分けている者もいるが,3 台も 4 台も「携帯」しているのを目にすると,よく嫌にならないものと感心する。便利なものは一つあるとありがたみを覚えるが,過剰にあるとそれに埋もれて身動きがとれなくなるのでは?

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Yahoo! のニュースで北朝鮮・金剛山での北朝鮮兵による韓国人女性の射殺事件を読んだ。北朝鮮側の説明はいつものとおり釈然としない。産経の記事によれば「女性は観光区域から鉄条網を越えて,軍の警戒区域に1人で入った。北朝鮮の兵士が停止を求めたが,女性はこれに応じず逃走した。このため兵士は警告射撃をした。しかし,女性がさらに約1キロ,集落に向かって逃げたために銃撃した」とのこと。禁止区域で射殺されたのなら,どうして韓国側が遺体を収容できたのだろうか。北朝鮮側が遺体を返還してきただけか。

核問題解決への進展に伴い南北融和の雰囲気が高まりつつあるのではないかと思う。況んや,六ヶ国協議がはじまった直後で,この事件はずいぶんな冷水ではないか。北の軍部が勝手なことをしているようにも見える。北朝鮮はまるで秋波を送りつつツレなくする女のようである。長く飽きられないでいる知恵なのだろうか。それにしても,六ヶ国協議では北朝鮮は米国への熱い視線を徹底していて,韓国も日本と同様に北朝鮮からまともな扱いを受けていない。

映画『花より男子ファイナル』(石井康晴監督) が観客動員数において二週連続第一位とのこと。世も末か。

私はこの映画を観たわけではない。テレビドラマを何回か子供たちと観ただけである。お金持ちに憧れるのは別に非難する理由にはならないが,現実社会の陳腐ないじらしさから目を背けてセレブリティ礼賛を煽るのは,俗物根性以外の何ものでもなく,十代の若者を不幸にする。世の中には六本木ヒルズで豪勢な生活を送る者もいれば,アパート代を払うと食費すら捻出の難しくなるワーキングプアもいるわけである。華やかな世界にばかり目を向けさせる「花男」のような作品を観ると私なぞはムカムカする。こんなふうに腐すものだから娘たちに「オヤジ」と言われてしまうんだけど。

ま,「花男」のような現代のシンデレラ伝説は少女マンガの伝統である。要するにワンパターン,紋切型である。女の子たちのノリとしてはどちらかというと,「私にも王子様が現れないかなあ」という期待感よりも,「主演のイケメン男優にきゃあきゃあ言ってストレス解消!」という方がむしろ強いと私は思う。健康的なのじゃ。
 

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岩波文庫新刊のチェーホフ短編集『カシタンカ・ねむい』を読んだ。神西清の名訳である。チェーホフの描く,現実社会の陳腐ないじらしさ,やり切れなさに,久々に打ちのめされた。

本書の一編『アリアドナ』には,美貌にものを言わせて金持ちに「とり入る」—「花男」への俗物的憧れに憑かれてしまったがごとき — 冷たい女が描かれている。「花男」そのものはただのバカでしかないが,「花男」のような偽りの世界に翻弄される人物を描くのはリアリズムとなる。貴族的でないものが貴族的なものを手に入れようとすると「とり入る」という惨めな手段を破滅的につきつめるしかないらしい。アリアドナという名前はおそらくギリシア神話のアリアドネーに由来するに違いない。アリアドネーはラビリントスで迷わないようテーセウスに導きの糸を与えた女神だが,チェーホフのアリアドナは自身がセレブ幻想という迷宮に迷ってしまう。大いなる皮肉である。

チェーホフ短篇の特徴的な手法にシチュエーションの繰返しがある。繰返しの描き方は二回ほど具体を描いておいて「このように何度も何度もやるのでした」とやるのが普通だろう。ところがチェーホフは,同じような愚かな行為を何回も何回も提示する。はじめに訪れたときはこうだった,次はこうだった,その次はこうだった,最後に訪れたときはこうだった。その過程でバカさ加減の微妙な差異が「リアリスティックな幻想」のような姿に変容する。そこが恐ろしいのである。それで顛末を語らず,酷薄な余韻を残して物語が終わる。この数学的帰納法バカはずっと続くってこと。バカは死ななきゃ直らないという残酷な真理を語っているのである。
 

昨日,Adobe Reader 8 での不具合への対応として SlavTeX Type1 フォント訂正版を公開した。これを同梱した OldSlav パッケージ Ver. 0.1i を,さきほど公開したところである。これに伴い,利用の手引きWeb 解説ページも更新した。

昨年,このブログで「Adobe Reader 8 Type1 フォント抽出失敗」の記事を書いた。この時は Ghostscript で作成した PDF では,また Adobe Reader 7 では問題なかったので,その後この問題を放置していた。ところが今日 (4日),素晴らしい多言語 LaTeX Web サイトを公開されている稲垣さんから,拙作 OldSlav 教会スラヴ語 LaTeX パッケージのドキュメントを Adobe Reader 8 で閲覧しようとしたら「埋め込みフォント「XXXX+slav10」を抽出できません」のエラー (下図) で SlavTeX フォントが出力できないとの指摘を受け,この問題をきちんと対策すべきとの意欲が掻き立てられた。

ar8err.jpg

当時から SlavTeX Type1 フォントのエンコーディングに問題があるのではないかと思っていた。このフォントは В. Волович さんが SlavTeX パッケージを再編成する際に,А. Слепухин さんの SlavTeX オリジナル MF フォントから MF トレーサを使って生成したものである。今回,私は mftrace を用いて,フォントのエンコーディングに tex256.enc ファイルを参照するように指示して Type1 フォントを独自に生成してみた。

% mftrace --magnification=4000 --encoding=tex256.enc slav10
% t1binary slav10.pfa slav10.pfb

ってな具合。これを slav7 〜 slav24, islav7 〜 islav24 のすべてのフォントについて行うわけだが,ひとつひとつ実行するのは面倒なので,次のようなシェルスクリプトを書いた。これは,できるだけ大きな解像度で METAFONT 解析を試みつつ,pfb フォントと同時にマップファイルも生成する。

#!/bin/sh
# $Id: pfbgen-slfonts.sh,v 1.1 2008/07/04 16:06:07 isao Exp $
#   SlavTeX Type1 Fonts Generation for OldSlav
#   using mftrace 1.2.5 and t1binary.
#
#                          2008(c) isao yasuda, All Rights Reserved.
 
# Fonts Type
FFT="slav islav"
# Size
GENB="7 8 9 10 12 14 17 18 24"
# Encoding file
ENCF="tex256.enc"
# Map file
MAPF="oldslav.map"
 
# starting.
echo "* SlavTeX Type1 fonts generation for OldSlav started at `date`."
cp /dev/null $MAPF
# font list generation
FLIST=""
# type 1 list
for i in $FFT; do for j in $GENB; do FLIST="$FLIST $i$j"; done; done
# SlavTeX Computer Modern Type1 Fonts generation
for i in $FLIST
do
    # When return code == 0 (mftrace normal end)
    # - break and go to processing of the next fonts
    # When return code != 0 (mftrace abnormal end)
    # - decrease mag by 100 and retry mftrace
    mag=4000
    while [ $mag -ne 0 ]
    do
        echo "* $i try magnification=$mag --encoding=$ENCF."
        mftrace --magnification=$mag --encoding=$ENCF $i
        if [ $? -eq 0 ]
        then
            echo "* mftrace $i pfa gen succeeded at $mag magnification."
            t1binary $i.pfa $i.pfb
            echo "* t1binary $i pfb gen succeeded."
            rm -f $i.pfa
            echo "$i $i <$i.pfb" >> $MAPF
            mag=0
        else
            mag=`expr $mag - 100`
        fi
    done
done
echo "* SlavTeX Type1 fonts generation for OldSlav ended at `date`."
 

これでできた Type1 フォントで古いものを置き換え,OldSlav ドキュメントを再組版してみたところ,Adobe Reader 8 でも問題なく出力できるようになった。ビンゴ! OldSlav パッケージにこの Type1 フォントを添付して公開しようと思っている。パッケージ修正はいささか時間がかかるので,とりあえず新しい SlavTeX Type1 フォント・アーカイブを暫定的に掲載しておく。これをダウンロード,解凍して,古い SlavTeX Type1 フォント ($TEXMF-LOCAL/fonts/type1/public/slavtex 配下にあると思う) と差換えればよい。

もうひとつ稲垣さんの指摘でわかったこと。OldSlav では教会スラヴ語の数値表現を自動的に出力する命令 (\slnum) をサポートしているが,稲垣さんによれば,\slnum の 10 台の数文字出力で 10 の位の数と 1 の位の数が逆転しているように思われるとのこと。しかし,А. Плетнева, А. Кравецкий 共著による教会スラヴ語教科書を再確認したところ,教会スラヴ語の数表現様式では 11 〜 19 の数字だけは文字を逆転させるのが規則である。よって,OldSlav 現状仕様の出力で正しいようである。私は OldSlav を作った際,この教科書で組版の正否を試験したのだが,この規則は読み落としていた。私も勉強になった。OldSlav の \slnum 命令は Слепухин さんの SlavTeX オリジナルコードを pTeX に忠実に移植しただけなので,要するに Слепухин さんが適切だったということなんだけど。

この 10 台の数値だけ位取りが逆転する規則は,考えてみれば別におかしくない。ロシア語では,たとえば 12 を десять (10)два (2) の組み合わせではなく,двенадцать (12) という特別な語で示す (英語でも "ten two" ではなく "twelve" という独立した語である)。22 は двадцать два で 20 と 2 の結合となる。これに従えば,12 の表現において 2 の部分が 10 を表す文字より前に出る (две (2) - надцать (10)) のも納得できるわけである。

教会スラヴ語の数値表現を下図に示す。12 の例でだけ,10 の文字と 2 の文字がひっくり返っている。

slnum.jpg

CyrTeX ユーザーズグループ

|

私はロシア・ヴォロネジ大学が運営しているロシアの LaTeX ユーザーズグループ CyrTeX のメーリングリストに加入している。興味深い話題だと,ブロークンなロシア語で投稿したりする。ここで SlavTeX に関する質問を私がしたことが契機になって,ロシア語 LaTeX 界の第一人者である V. Volovich さんがヴォロネジ大学の ftp サーバに SlavTeX パッケージを復活させてくださった思い出がある。CyrTeX メーリングリストは私にとってロシア語 TeX の主な情報源である。

一昨日,古スラヴ語の LaTeX エンコーディングである T2D についてとあるドイツ人が質問を発信していた。ロシア語で。これに対し,その問題点は LH フォントの T2D エンコーディングを含めたインストールがきちんとできていないことのように思われると,私は返信した。そのとき私は相手がドイツ人だということもあり,英語で書いた。すると質問者は英語で応じてきた。彼の英語はロシア語に比べると私には意味がよく分からなかった。たぶんジャーマン・イングリッシュなんだと思う。逆にこのドイツの方のロシア語が明解であることに,私は感心した。ここで面白いと思ったのは,私はドイツ語がまったく分からないのだが,ロシア語が分かるドイツ人とならロシア語でコミュニケーションできるところ。当たり前なんだけど,これはどれだけ素晴らしいことか。そういえばポーランドの方とも CyrTeX が縁となってロシア語で遣り取りができたのである。

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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