2008年8月アーカイブ

遊行かぶき『しんとく丸』

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遊行舎演劇公演 — 遊行かぶき『しんとく丸』を観に行った。観劇は 1990 年,旧銀座セゾン劇場で観た『チャイコフスキー殺人事件』(藤田敏雄作,西川信廣演出,山口小夜子主演) 以来である。藤沢,一遍上人ゆかりの遊行寺 (清浄光寺) 本堂での公演であった。原作/寺山修司,演出・脚本/白石征,音楽/J. A. シーザー,説教節/政太夫,歌/長谷川慶子。主演は中島淳子 (しんとく丸),岡庭秀之 (継母撫子),花岡雪花 (乙姫),ほか。

遊行寺の本堂,阿弥陀如来坐像を前にしたお芝居。日本の中世の気が漂っている。寺院を取り囲む木々の蝉の声がわしゃわしゃと聞こえる。お堂に集う,観客というよりは善男善女。床に座って,団扇や扇子であふいでいる。公演に先立って住職らしきひとが遊行かぶきのゆかり・公演の意義をとつとつと話している。白石征,J. A. シーザーも席にいるとのこと。

『しんとく丸』は,継母の呪によって盲目の癩病者となり果てた主人公・しんとく丸の貴人流離潭である。母恋潭でもある。しんとく丸の舞に魅せられたかつての許嫁・乙姫の献身によって,主人公は氏神である清水寺で再生し,いま再び舞を舞う。その絆ともいえる舞は『梁塵秘抄』に見える,あの「舞え,舞え,蝸牛,... 遊びをせんとや生まれけん,戯れせんとや生まれけん」という穉兒の舞である。

「かぶき」といってもこれはあの歌舞伎ではなく,説教節と現代的な音曲が混淆した様式の演劇であった。音曲にはロック調もあれば JPOP 風も,ワルツのような舞曲もあった。日本の古典演劇の様式化への衒いはないが,主人公の置かれた状況が「うたい」で説明されるところなど,能やギリシア古典劇の味わいがあり,簡素極まりない舞台装置を越えた奥床しさがあった。頭を剃った白塗りの裸男が体をくねらせながら踊る様に私は,一遍上人の踊り念仏を想像しただけでなく,寺山修司の映画や昔観た北方舞踏派のアングラ演劇に迸る暗い淫猥な情念をも掻き立てられた。よく通り,明晰に台詞を発する俳優の声に古典的崇高さがあった。喉から汗がしたたり落ちるのがはっきり見えた。しんとく丸,乙姫は美しかった。私は演劇ならではの肉体の生々しさに感動した。

クライマックス,車に載せられたしんとく丸と,それを引く乙姫とが清水に到着する場面 — 舞台の奥にあたる本堂正面扉が開き,黄昏れてゆく外光のなかから二人が登場する。いきなり自然光を背負って現われた神々しさ。観客の後方にある阿弥陀如来にも光が差し込むという舞台効果の凄さ。観客も虚をつかれ,思わずおおとどよめいた。

二時間半以上もの間お堂の板床に胡座をかき続けて,尻が痛くなった。次に来る時は座布団と扇子を持参しなくては。芝居がはねたあと藤沢駅付近をしばらくぶらぶらした。「まなざしのおちゆく彼方ひらひらと...」(寺山修司)。寺田家という横浜家系のラーメン屋で脂ぎったとんこつラーメンと餃子を食した。あれこれと舞台のシーンを反芻した。店では一青窈の曲が流れていた。店員の好みのようだった。「君と好きな人が百年続きますように」という歌詞にじんときた。

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朝まで生テレビ

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ちょっと個人的な理由でテレビ朝日『朝まで生テレビ』を少しだけ観た。私はこの番組をこれまで何度か「覗いた」ことがある。激論を交わすひとたちはそのテーマに一家言を有する有名人ばかりで,尊敬に値するひとたちではないかと思う。ところが集まって番組で議論をはじめた瞬間にそのへんの井戸端会議のおっさん,おばさんに見えてくるから不思議である。互いにひとの話の腰は折るし,脱線するし,揚げ足はとるし,田原総一朗も意地悪なつっこみを入れるしで,要するに私はいつもみるにみかねて最後まで付き合ったためしがない。

それはそうとして,今夜の議題は「これからの "皇室" と日本」。私がちょい観たあたりでは,雅子さまが心の病いに苦しんでおられるゆえの皇室の公務への差し障り,その是非などなどが話題になっていた。西尾幹二さんが公務をまっとうできない皇太子妃は国民を守る (?) 立場に相応しくないなどと,意味のわからない雅子さま批判をしていたのが印象的であった。

皇室でさえもが心の病いに陥っている現実を受入れているこの日本という国が,開かれたよい国なのだと思うばかりである。こういう弱さは日本人の美点であると思う。あきれるばかりの誠実さ。皇太子殿下も取り繕うところがない。雅子さま,下から読んでもまさこさまは,現代日本人の悩みを体現しているようで,お気の毒であるが,妃殿下の恢復は現代日本人の心の癒しを測る指標にすらなるように私には思われる。欧州での静養が妃殿下の心の安定に資するとの話にはぞっとしないものがある。日本人自身が日本になにか違和感を覚えているのだろうか。心の病いがクローズアップされることでこそなぜか私には雅子さまがダイアナ妃よりもチャーミングに見えてしまう。こんなことを言っても不敬にはあたらないはず。

戦い去って

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オリンピックが終わり,日本選手団が帰国した。負けた選手も,メダルを獲得した選手もなんか誇らしげで羨ましくなった。野球は残念だったが,Yahoo! ニュース「G・Gは坊主に,「よくやった」にも言葉なく...星野ジャパン帰国」を読んで,日本人の優しさを感じた。「東京都練馬区の会社員,田幡年式(としのり)さん(55)は「恥ずかしい試合だったから腹が立ったけど,本人たちを目の前にすると『お疲れさま』って言っちゃったよ」と苦笑いを浮かべていた」とのこと。ちょっとほろりとさせられた。思いに反して出てくるこういう性は実はとても大事だと思う。結果がどうであれ,やっぱり戦ってきたひとを認めないわけにはゆかないのだ。五輪でしゅんとしてしまった野球選手たちも今日からリーグ戦に復帰して (新井選手みたいに実は骨折しながらプレーしたために病院行きとなった強者もいたわけだが) それなりに活躍しているようで,やっぱり私も拍手を送りたい。

昨日は歴史的仮名遣いをコテンパンに取り扱った新書を紹介した。また歴史的仮名遣い派をからかったようなところもあったかも知れない。でも私自身は — 現代仮名遣いを使うのがごく当然だと思っているのだけど — この現代において歴史的仮名遣いで文章を書くひとを尊重したいと思う。それをよいものだと思って実践しているひとは — 『旧字力,旧仮名力』の著者・青木のようなただのカッコつけが多いのだろうけれど — 国語に対して意識的な証左であって,ある意味で尊敬に値するからである。

新書三冊

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先週末から,野球やソフトボールを観戦しつつ競技の合間に三冊の新書を読んだ。

白石良夫著『かなづかい入門---歴史的仮名遣 VS 現代仮名遣』(平凡社新書 426, 2008年)。「美しい日本」の復古精神が意味もなく盛んになりつつある昨今,歴史的仮名遣いが官公庁の文書でも許容されるようになり — 許容されただけで歴史的仮名遣いで文書を記述するお役人などもはやいるはずもない —,荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』(幻冬社, 2007),青木逸平『旧字力,旧仮名力』(NHK出版・生活人新書, 2005),府川充男・小池和夫『旧字旧かな入門』(柏書房, 2001) など,「舊字舊假名遣ヒノススメ」風の書籍が出版され,「正字正假名」なるものでブログ,エッセーを公開する若者がインターネットでもそれなりに目立つようになった。

私も歴史的仮名遣いは学生時代から興味のあるテーマである。表記そのものによって現代日本の文化が豊かになるとはとても思われないが,まあ流行なんだと思う。そんな最近の傾向においては珍しく,というか当然ながらというか,白石の『かなづかい入門』の内容はまるで「平成の旧字・旧仮名遣い信奉者」に喧嘩を売っているようなものであった。

ここでも書いたことであるが,仮名遣いは究極において人工的なルールに過ぎない。普段自ずと出づるかのごとく書いている自然さも教育の賜物なのである。「正字正假名」をその信奉者が合理的だとか正統だとかもちあげるのを聞いて,私もプッと吹き出してしまうほうである。白石はそうしたルールとしての仮名遣いの位置づけとともに,現代仮名遣いが待望された事情を,もっと挑発的に述べている。歴史的仮名遣いが日本語表記の伝統であるとの主張すらをも「伝統の捏造」であるとこき下ろしている。学校の教科書では当たり前になっている,古典文学の表記を歴史的仮名遣いに統一することにすら疑問を呈している。彼の理屈からすれば宜なるかなというところだけれども,「そこまで言うか!」というのが私の個人的感想である。私自身は古典の校訂基準は歴史的仮名遣いのほうが好きである。それでも本書は,「いまからでも日本語表記を合理的な歴史的仮名遣いに戻すべき」などと宣っている頭の悪いひとたちの書物に比べると,はるかに「論理的」に書かれていると思います。福田恆存の『私の國語敎室』なぞを「崇拝」している方は,本書をお読みにならないほうが精神衛生上よいと思う。老婆心ながら。

野田敬生著『心理諜報戦』(ちくま新書 704, 2008)。スパイじゃあるまいし諜報活動などは私たち下々のこだわる範疇外のことである。それでも私たちは日々ニュース・報道を受け取って世界観を形作っているわけで,政府や権力者によって自分の不利益な方向に誘導されてしまうかもなんてことを言われると,少しは情報統制の危険性に対してもアンテナを調整しないといけないかなとも思ってしまう。本書は心理諜報戦の事例や「だまされない」方法の例 (真実はわからないことのほうが多いと野田は語るのだが) を紹介している。人間は「ストーリー」をもとに情報を組み立てるとか,そのストーリーを疑うには「常識」が必要だとか,興味深い指摘が多かった。この本で述べられている過去の事件の解説そのものが正しい解釈かどうか,私にはわかりませんが。

鈴木貞美著『日本の文化ナショナリズム』(平凡社新書 303, 2005)。明治以降の日本のナショナリズムの内容,特徴,背景を概観し,それが西洋と東洋の二極指向によるフィクショナルなものであったことを解説している。啓蒙書としては著者自身の思い入れのような主張があって面白かった。「川端康成と大江健三郎という現代日本を代表する作家のうち,ひとりは国際社会に向けて,『東洋の神秘』への関心に訴え,もうひとりは国際的に開かれた知性をもって,西欧とアジアに引き裂かれた日本のイメージを語った。このふたつの姿勢の対立も,できることなら越えてゆきたい」(p. 266)。「美しい日本」,戦前の強い日本のナショナリズムを取り戻すべきだと考える方は,本書をお読みにならないほうが精神衛生上よいと思う。老婆心ながら。

国への思い?

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北京五輪の野球日本代表が敗れた要因として,国を背負っているという気合いが足りなかったためとの議論がなされているようである。たとえばここ

確かに気合いが足りないと勝負事はうまくゆかないし,観ている方もつまらない。しかしその気合いの根拠と「国を背負っている」という意識云々はまったく別ものではないかと思う。ただ単に「勝利への執念」が重要なのではないか。戦争でもないのに,勝負事に「国の威信」などということを持ち出すやつを私は信用しない。ましてや惨敗した日本選手に対して「日本の恥」とか「敗残者は帰ってくるな」みたいな物言いがなされるのを聞くにつけ,本当にガサツなひとたちだと思ってしまう。「そういうお前は,日本云々のレベル以下の,ただの恥知らずだ」と言ってやりたくなる。

残念でした...

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昨日は会社で午過ぎ,子分からオリンピック野球日本チームの敗戦を伝えられた。何人かの社員がどうにも気になって会議室のテレビで応援していたらしい。2002 年のサッカー日韓ワールド杯を思い出した。「なにぃ,おめぇ仕事放ったらかしてテレビ観てたのか! 俺も呼んでくれよ!」

私は帰宅してからその模様を NHK の録画映像で観た。日本戦の延長で,バレーボール・ブラジル vs イタリア戦,テコンドーの試合まで観てしまった。それにしても,野球では韓国,キューバは強かった。韓国は渋い勝ち方で金メダルを獲得した。予選を通じて一敗もしていないことが韓国野球の技術の一流だけでなく集中力の強靭をも証明した。普段日本のプロ野球しか知らないわれわれは,こうして蒙を啓かれるのである。

星野ジャパンは,昨日は韓国に破れ,今日は米国に破れ,必達のミッションだった金メダルはおろか銅メダル獲得も果たせなかった。日本全体が代表の不甲斐ない結果の「戦犯」叩きに忙しいように思われる。ネットの書き込みは星野監督の采配,G.G.佐藤選手の落球を非難する内容で溢れかえっていた。またストライクゾーンの違いを敗北の要因に持ち出す自己中心的思考家もいた。仮に国際試合の判定が国内リーグとずれていたにせよ,対戦相手と条件は同じなのだし,ある意味で地域予選から分っていたことであって,戦いにおける環境適応力について日本チームが劣ったことに違いなく,これは負け惜しみでしかない。テレビを観た誰の目にも実力の差ははっきりしていた。完敗なのだ。

しかし,相手を知らずして金メダルが当たり前のような雰囲気だった日本の野球ファンのほうがよっぽどおかしかったのだ。日本の選手たちはベスト4に入ったのだから少なくとも責められる謂れはないように思う。観ていて面白い試合は予選の韓国戦だけだったとしても。

野球では期待が高かっただけいっそう落胆も激しく,サッカーでは予想を違えずダメでやっぱりかーの虚無感に打ちひしがれた。とはいえ「難しいけどもしかして」の女子ソフトボールが起死回生の金メダルを獲得してくれたんだから,バランスが取れている。

* * *

中国が五輪史上の金メダル獲得数で一位になったという。北京オリンピックに向けてあらゆる競技で計画的に強化してきた成果だろう。野球で台湾に勝利するというサプライズを起こしたし,シンクロナイズドスイミングでも日本を抑えて銅メダルを獲得して第一線に躍り出た。従来から強い競技以外でも目立っていたと思う。人口の多い国だから不思議ではないというひとがいるかもしれないが,五輪やワールド杯のみならず国民の活動成果が人口規模に依存しないのは自明である。10 億人以上の人口を抱えるインドの五輪成績は? 日本の半分以下の人口しかない韓国は,野球だけでなく,日本よりメダルの数は上なのである。ヨーロッパ諸国はいうに及ばず。五輪という国威発揚の場に向けた各国の努力が如実に結果に現れているのである。メダルランキングで低い国であるインドやイスラム諸国も,運動神経が他の国々よりも劣っているのでは決してなく,五輪などよりもっと大切な目標をもっているのに過ぎない。

この調子でいけば中国が男子サッカーで日本を追い越して行くのも時間の問題である。韓国,オーストラリア,イラン,中国と指を折ってみる。日本は 2010 年を逃すと 1998 年以前のような,ワールド杯出場とは無縁の長い氷河期が再び訪れると思う。

でも私はそれでよいと思う。日本人はオリンピックや野球やサッカーやでなんかよりもっと崇高な分野でこそ,世界における名誉ある地位を占めなければならないし,その役割を発揮しなければならないし,できると私は思う。

オリンピック・女子ソフトボールで日本チームが宿敵米国を破って金メダルを獲得した。見ましたよね。上野投手の鬼気迫る投球。米国の豪腕投手を相手に内野ゴロで点を稼ぐ泥臭い攻撃。凄かったですね。ブストスという米国選手はその名前,その体格,その長打力で,忘れられない印象を残しました。テレビ中継の解説者・宇津木さんの我が子を見守るような語り口と,優勝が決まった瞬間の形振り構わぬ絶叫もお茶の間の感動を呼んだのではないだろうか。

テレビを観ながら「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」という俚諺の間にある凄惨を味わいました。「日本チームにはお父さんの会社の社員が三人もいるんだぞ!」と子供たちに自慢してしまった。「おかげで日本の金メダルがいっぺんに9個も増えたじゃない!」と娘は冗談を言っていた。「それにしても日本人選手は女が強い!男はだめねえ」と妻。ヤワですみません。確かに女子ソフトボール日本チームは,二度ある敗退は三度,四度,五度あるとの数学的帰納法を地で行ってくれる男子サッカーチームとは大違いであった。私なんかはこのソフトボール日本チームが男だったら,今夜は下のバットも振って祝勝カルナヴァルに浸ってくださいと労いたいところ (下品ですみません)。

そのあとのフジテレビ・スポルトに水泳の北島選手,体操の富田選手・内村選手が出演していた。うちの女性陣は内村君にきゃあきゃあ言っている。スポルトの司会が「これからどうしたいですか」と質問したら,内村君以外「休みたい」というような述懐があったと思う。ひとつの困難なプロジェクトが首尾よく終了したのだから当然である。すかさず妻は「水を制した北島選手,次は女に溺れる」となかなか気の利いた冗談を言う。女性はアスリートへの視線がわれわれ男性とは少し違っていて,たとえば引退したプロ野球・桑田選手について「アニータと恋の交換日記ね」などという女性セブン的醜聞をいつまでも覚えているらしく,恐い。

感動のあまり,下品ですみません。

北京五輪のあいだの事件

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北京五輪のあいだに,極めて不安な事件がふたつ起きている。グルジアの南オセチア侵攻とロシアの軍事介入。もうひとつはパキスタンの親米派ムシャラフ大統領の辞任。いずれも米国にとって逆風の事態である。

とくに南オセチアの件は,米国とロシアの緊張が高まり再び冷戦の到来かという不安を掻き立てた。米国はマスコミを使って極悪ロシアのイメージを作り上げるのに必死である。ロシア軍の攻撃で嘆き悲しむグルジア人の姿や,女性レポーターがロシア兵によって銃撃される瞬間の — ヤラセの臭いのぷんぷんする — 「衝撃的映像」ばかりが「西側に」報道されているが,グルジア軍の急襲によって 2,000 人以上が殺された南オセチア民間人のことはあまりフォーカスされていない。米国,NATO による情報操作は明らかなのである。

しかし,そもそも先制攻撃をかけた — つまり悪役に相応しい — のはグルジア軍である。「One World. One Dream」の北京五輪開会式の前夜を狙うなんて,相当の鼻摘み行為である。そして米国は,サーカシヴィリ大統領の後ろで隠然と糸を引いている以上,また,グルジア軍があっという間にロシア平和維持部隊に撃退されてしまったことで,世界的に無様な姿をさらしてしまっている。南オセチアはコソボと同じではないか。コソボ独立を強力に支持した米国は南オセチアに関してはまったく逆の行動に走っているのである。確かにロシア軍の「やり過ぎ」にも警戒が必要だけど,コソボ独立を支持しておいて — これだって親露セルビアへの米国・NATO 諸国の敵対的行動の現われである —,南オセチアへのグルジア軍進攻の非道をロシアの軍事介入への批判で混ぜっ返す「西側」の世論操作は,まったくもって自己中心的ではないだろうか。ロシア側のいい分が面白い。「グルジアの行為は民族浄化であり,許されてはならない」— これはコソボ独立を支持した側の主張そのものではないか。

パキスタンの件は,米国のアフガニスタンでのテロ戦争に危険な影響をもたらしそうで怖い。イラク戦争で米国が疲弊しているところに,これまでのようなパキスタン政府の協力が期待できなくなりそうで,アフガニスタンの情勢がさらに悪化するのではないかと想像する。

ニイタカヤマノボレ

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八月は戦争の記憶を新たにする季節でもある。

娘に質問した。
私:「太平洋戦争が始まったのは 1941 年 12 月 8 日。オーケー? では問題です。そのころ日本でもっとも高い山はなんという山でしょう?」
娘:「富士山。バカにしないで!」
私:「ブー」
娘:「えっ? もしかして爆弾か地震か何かで崩れたもっと高い山があったの?」
私:「アホな。答えは新高山。ニイタカヤマノボレのニイタカヤマじゃ。そのころは台湾は日本の領土だったから,日本一高い山は台湾の三千九百米級の新高山だったの。ものごとは頭ごなしじゃなくちゃんと条件を吟味してから考えないといけないよ。ニイタカヤマノボレってのは日米開戦を告げる日本帝国海軍の暗号電文だったそうだよ」

今日でお盆休みも終わり。今年は例年になく,オリンピック観戦でテレビに齧り付きの毎日であった。昼間っからビールを呑みつつ競技を観戦し,競技の合間に本を読み,競技の終わった深夜に映画を観,とまったく暇オヤジと化していた。妻の実家に遊びに行っていた息子が一昨日に,娘が今夜帰ってきた。これでまた我が家の騒々しさが戻ってきた。

* * *

北京オリンピックはそれなりに成功裏に進んでいると思う。しかし一方で,開会式での少女の口パクやCGによる演出が問題視されたり,集会の自由などの開催決定時の公約が遵守されていないなどのケチをつけれらている。たとえば産経新聞の配信記事

口パクのどこが悪いのか。CGによって開会式映像の劇的効果を高めることのどこが悪なのか。ありのままが何の真実を伝えるというのだろうか。この点について私はまったく非難の根拠が理解できない。演出というものは本来そういうものではないだろうか。湾岸戦争の世論操作のためにどこかの国が世界中にばらまいた油まみれの海鳥のニセ映像と比べれば,北京オリンピックにおける「ウソ」,脚色は罪のない平和なものである。むしろ中国人の端倪すべからざる創意に目を向けるべきである。

人権問題・言論の自由への中国政府の対応に対する批判は,中国の共産党一党独裁体制の信頼を貶めるための半ば伝統的な手法である。大国特有のきな臭い陰惨な行動に対しては国際的連携のもと大いに批判すべきである。しかし,いまこのオリンピックについて問題にすることなのだろうか。それはそれ,これはこれで議論すべきことではないだろうか。こうした様相は五輪祭典がいまや名実共に政治的イベントになっていることを示している。ところでこの問題で大騒ぎをしているのは,中国・ロシアの国際的発言権の増大で国益を損なう老獪な英国とそのメディアが中心になっていることをよく考えたほうがよいと思う。そして日本のメディアはこうした英国主導のプロパガンダにまったく無批判で唯々諾々の態であるということも。この件について極めて慎重なアメリカを見習うべきである。日本政府が英国の尻馬に乗るようなことがないよう期待する。五輪開会式に皇室ではなく — 宮内庁は皇室出席の中国要請に対し「五輪は政治的イベントであるから」と正鵠を射た理由をもって拒否した — 福田総理が出席したことは,日本として極めてバランスのとれた適切な行動だったと私は評価する。

しかし日本のマスコミの偏向報道で反中・嫌中を刷り込まれている日本人は,英国が騒ぎ立てているこの五輪演出や人権問題を過大に受け止めているひとが多いようである。先にリンクした産経新聞記事に付属したブログ記事を見てみるとよい。自分自身がさも中国人と長い間つきあって身に沁みたことでもあるかのように「世界は中国人の身勝手な姿をいまごろ知ったのか」風の愚かな言をなしている。また別の産経ニュースで報じられたネット調査によれば,五輪開会式への日本の要人出席についてなんと 87% が反対 — その理由は人権問題である — としている (ここまで反対が大勢であるにも拘らず開会式に臨んだ福田首相の考え方にも興味を覚える。似非ナショナリスト — というより戦争好き米国の,可哀相になるくらい卑屈な従僕 — でしかなかった安倍首相なら,自信満々で開会式主席を拒否したかも知れない。否,ブッシュ大統領が出席するならと対米従属根性でのこのこ出かけたかも知れない)。

これは日本のマスコミが,中国人の反日的行動や,偽ブランド品の販売や,不潔で洗練されない生活や,など否定的側面ばかりを報道しているため (どうも産経新聞はその代表のようである),逆切れ,あるいはナイーブな清潔漢ぶり,正義漢ぶりを発揮しているだけなのだと私は思う。その抽象的もの言いを聞くにつけ,そのことを本人が気づいていないとしか思えない。だって,その反中的ブログの著者が具体的にいつの,中国人のだれの行為を根拠に語っているのかまったく分らないではないか。私だって中国人「全般」についてはそんなに知るところはない。しかし,私の職場で働く生身の中国人技術者は日本人以上に勤勉であり,ものごとへの取り組みが真摯であり,その技術的精度も高く,そこから察する限りにおいて中国人は尊敬に値する国民であると私は自信をもっていうことができる。オリンピックにおける中国人の活躍も納得できるのだ。それは韓国人についても同様である。反中ブログ一言居士氏たちは本当に自身が中国人と直に接したうえで,その国民性を悟って発言しているのだろうか。マスコミ報道で作られたイメージだけで勝手なことをおしゃべりしているだけだと私は思う。目隠しされた者がゾウの足に触れてゾウを「厚い皮膚の足の太い動物だ」と認識してしまい,長い鼻や大きな耳の属性を知らずにいるのと同じで,私は中国人の本質を捉え損ねているかも知れない。しかし,触れもせず人聞きだけで「ゾウって愚かな動物だ」としたり顔して公言して憚らない馬鹿よりはましだと思っている。

中国人は日中戦争の苦い経験とナショナリズムの発揚とのために反日教育を受けている。よってことあるごとに反日的プパガンダが現われるのは当たり前なのである。でもそれは反中ブログ一言居士氏たちと情報操作に踊らされているという意味で同じレベルだと思う。四川大地震における日本の支援グループが被災者の前で黙祷したとのマスコミ報道や,五輪開会式で日本の選手団が日章旗とともに中国の国旗を振っていたことで,ころっと日本のイメージを変えてしまう中国人がいるくらいなのだ。つまり対日本,対中国の両国の国民感情は意図的な情報操作に著しく左右されているということではないだろうか。日本の反中ブログ一言居士氏たちは自分は自由な先進国の国民であり,自由な — しかし実際は画一的な — 報道に基づいているので賢いと思っているだけ,いっそう哀れなんだけど。統制国家の体制的情報操作と主体性のない自由な国家の画一的情報供給とはある意味で同じ喜劇性を呈している。

反中一色のマスコミ報道に煩わされず,もっと自分たちの生活の実際から物事を考えるべきではないだろうか。私自身はいまや中国人プログラマ,技術者なしでは仕事が立ち行かなくなっている。それは日本の技術者が足りない,単価が高いなどの要因によるのだけれども,言語の障壁を除けば中国人技術者の質は極めて高い。日本の技術者が見習うべきところは多い。スーパーに行って,中国産の食品,衣料品がなくなると何が起こるか考えてみるとよい。日本人の生活が成り立たなくなる筈である。これだけ生活の急所を中国に握られているのに,先進国ぶった浅はかな反中自己満足で日中関係を損なう行動に走るのは建設的でなく,まったく馬鹿げている。冷凍餃子問題なんて大海の一滴の濁りをことさらマスコミが煽っているだけだと思った方がよい。

※12.7 付記
だからと言って,私が中国によるチベット弾圧や冷凍餃子問題を軽くみていると思われるのも癪である。中国政府の人権問題や食の安全管理については,日本の立場からがんがん批判してよいと思う。私が上で書いたのは,その問題が中国人全般の人間的欠陥のように極め付けることはなにも事態を改善しないということである。日本人だって,歴史認識や従軍慰安婦問題等々で中国人や韓国人,米国人などのうち国際意識の低い人々から,「日本人という奴らはみんな二枚舌でスケベ」というような同じ視線を浴びているということを受けとめるべきだと思う。

先ほど,北京オリンピック野球予選,日本 VS 韓国戦が終わった。手に汗握る素晴らしい試合であった。日本は残念ながら勝負強い韓国に破れたが,プロらしい粘りを見せてくれた。韓国の監督の冷静にして決然たる采配と,星野監督の「選手を信じる」熱血采配との差が出たのではないだろうか。要するに,不都合が起きる前に手を打つ指揮者と,問題が起こってはじめて火を消しに掛かる指揮者との差。こういう微妙な違いが勝敗を決するところ,本当に素晴らしい。唸らせてくれた。

日本も韓国も,選手の顔つきが凄まじかった。ピンチでの和田投手の力投。2点先制された直後に,和田投手の不用意な四球のあと,抜け目なくホームランをかっ飛ばした韓国選手。最終回3点ビハインドという絶望的な状況で三塁打を放った新井選手。男の戦いを見せてもらった。日韓両国の選手たちに敬意を表するべきである。ねちねちと攻めないといけないノーアウト二・三塁の場面でボール球を大振りしてしまうロングヒッターの愚かな性向,ここぞというときの三塁手の守備の乱れ — 村田選手のような恰幅のよい三塁手はヘタクソという確固たるイメージが私にはある。アテネ五輪 (中村紀選手) でもそうでなかったか — は,ロングヒッターと投手力だけで選出された日本最強メンバの悲哀ということで,納得しましょう。

緊迫した戦いのなか,日本のチャンスで山本コーチが手のひら,肘裏,肩へとリズミカルに手を打ってサインを出すのを見て,高校2年になる息子がその真似をしながら「エンヤーコーラヨット,どよぉはーちーじぃだ!」とドリフターズの「8時だョ全員集合!」のテーマソングを歌いだした。こんな昔のテレビのネタをいったいいつ仕入れているのか。この息子,勉強はいまいちなのだが,この明るさには我が子ながらまったく頭が下がる。

頭痛,無聊ナリ

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昨日ハ終戰紀念日デアツタ。戰爭デ苦勞サレタ方々ヲシバシ思フ。

今日モ頭痛ガ酷イ。冷房デ體調ガスグレナイ。無聊ナリ。北村薰・宮部ミユキ編『名短篇,コヽニアリ』(チクマ文庫),露西亞ノ盲目ノ數學者 L. S. ぽんとりゃーぎんノ名著『ヤサシイ微積分』(チクマ學藝文庫,原著:Л. С. Понтрягин, Математический анализ для школьников. Изд. 2, 1985.),サラニ勝目梓ノえろ・はーどぼいるど『ぼでぃーがーど午前四時』(光文社文庫) ヲ讀ム。

北大ノ浦井敎授ヨリ,郵便デ論文ノ拔刷三册ガ屆ク。先日イタヾイタ露西亞語形態素解析用電子辭書ニオケルでーた構造ノ仕樣ニツイテ述ベラレテヰル。コンナ私ノタメニ手數ヲ掛ケサセテシマヒ,是非トモ成果ヲ出シテ先生ニ報イナケレバト思フ。

(misima 辭書ヲ久シブリニ訂正シタコトモアリ,今日ハコレヲ使ツテチヨツトオ遊ビ。)

対決---巨匠たちの日本美術

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8 月 12 日,妻と上野の東京国立博物館に行った。『対決---巨匠たちの日本美術』と銘打った展覧会。狩野永徳と長谷川等伯,雪舟と雪村,写楽と歌麿など,日本を代表する画家,工芸家の,それぞれ作風を異とする作品を対で展示する個性的な催しであった。地下鉄銀座線の広告で『青春のロシア・アヴァンギャルド展』とともに知るところとなり,夏休みを利用して出かけたのである。

雪舟の『秋冬山水図』,写楽の歌舞伎役者の浮世絵など,日本史の教科書の図版くらいでしか知らなかった国宝級の名作を間近に見ることができ感動した。長谷川等伯の『松林図屏風』の実物をいちどこの目でしかと見たかったのだけど,展示期間を過ぎてしまっていたらしく,果たせなかった。残念。

閉館時刻に会場を出て,自販機のジュースを呑みながら煙草を吸っていたら,夕立に襲われた。驟雨でちょっと涼やかになった上野公園を歩いた。

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ひねもすオリンピック

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今日は午近くに起き出したら,頭痛が酷い。うんうん唸りながらご飯。テレビでオリンピックを観はじめる。あまりの痛みに腹を下し,冷や汗は出るはで,頭痛薬を服用した。そのままテレビを観ているうちに和らいで来て,男子バレーボールの試合で溜め息をつきつつも,夕方,サッカー日本 vs ナイジェリア戦がはじまるあたりになると,完全復活,ビールを呑み出す始末であった。こんなに一日中テレビに齧り付いたのは何年ぶりか。

柔道で見せてくれましたね。昨日は谷選手が惜しくも,とういうか堂々の銅メダル。「ママでも銅」は凄いこと。これで金メダルなんか獲得しちゃった暁には「次はバツイチでも金,オバサンでも金」なんてことになりかねないではないか (母親としても心身をすり減らしているところに,柔道で肉体を蝕まないといけない理由などもうないはずである)。続いて,今日はかわいい中村選手の銅メダル,男前の内柴選手の2大会連続の金メダル。サッカー,バレーボールはちょっと残念な結果だったけど,皆,夢舞台で己の最高の実力を見せてくれたのではと思う。まだまだ競技が続くのでこの夏は熱いゾ。

それにしてもオリンピックを観ていると,小市民サラリーマンの私には,選手の半生が哀れに思えてくる。メダルへの輝かしい期待と,裏切りの結果への冷たい視線。柔道の中村選手はうちの長男と同じくらいの年齢であり,不敵ながらあどけないその顔つきを見ていると,期待に押しつぶされるくらいならもっと余裕ある堅実な人生を歩ませてあげたい気がした。そもそも過酷な練習でへたな怪我をして選手生命を棒に振り,忘れ去られてゆくひとがゴマンといる。女子バレーボールの大山加奈選手などは日本国民の口に出ぬ陰険な圧力で削られたも同然ではないか。

でも,勝つか負けるかでくっきりと明暗を分けるデジタルな潔い世界に身を浸して己の限界に挑んだ選手たちは,屈辱にうちひしがれたとしても,日本人の現在と未来に戦う心を掻き立てる意味でよい影響を与えているのだから,尊敬をもって迎えられるべきである。勝つこともあれば,負けることもある。大事なのは勝負したということ。なんと哀れなことか。

我が家のメールサーバがお亡くなりになった。南無阿弥陀仏。ディスクが壊れてしまったらしく,リブートさせると fsck でエラーとなって起動しない。このサーバ上にはメールデータが蓄積されているだけでなく,自作プログラム,Web ページのソースコードなどの CVS リポジトリがある。気が向いたらバックアップを採っているんだけど,ここのところサボっていてそろそろと思っていたところへこのざまである。

新たなメールサーバとして,以前 Web サーバに使っていた ThinkPad X20 を流用することにした。なんとかメールデータ等の失われては困るファイルをこの新サーバにコピーできないか思案した。骨を拾ってやらねばならぬ。FreeBSD ブート途中,fsck エラーで停止している状態はシングルユーザモードであり,ファイルシステムは壊れた状態である。このため Read only でルートファイルシステムがマウントされている。再度 fsck を掛けてみたが,破損した LBA がいくつもあり,結局ファイルシステムはクリーンにならない。しようがないので,クラッシュ覚悟で強制的に書き込み許可で再マウントして,ブートプロセスを継続させたら起動した。scp で必要なファイルをネットワーク・コピーすることができた。幸いにも重要なファイルは破損していなかった。

新サーバにメールサーバ関連ソフト (qpopper, fetchmail, procmail, MHonArc),スパム撃退ソフト (Spamassassin, miltergreylist) をインストールした。DynDNS のアップデート環境も旧メールサーバにあったので,ddup をもインストールしようとしたが,FreeBSD 7.0-RELEASE の ports から ddup は削除されているようであった。困った。Google で調べたところ,最近は ddup よりも ddclient のほうが主流のようであり,こちらを使うことにした。ddclient には,ルータに付与されている IP アドレスで DNS 更新できる工夫があり,感心した。デーモンとしてこれを動作させ,定期的にアドレス更新を実行させることも可能である。ddup 運用のように,ルータに IP を問い合わせて ddup を実行する自前のプログラムは不要になった。

ddclient の設定はまず /usr/local/etc/ddclient.conf に以下を記述する。

daemon=300      # check every 300 seconds
syslog=yes      # log update msgs to syslog
mail=admin      # mail all msgs to root
mail-failure=admin # mail failed update msgs to root
pid=/var/run/ddclient.pid # record PID in file.
ssl=yes	        # use ssl-support.  Works with ssl-library
use=web         # これがルータ付与IPで更新する場合,重要
login=foo		# DynDNS ログイン名
password=bar	# DynDNS パスワード
mx=mailExchange # default MX
wildcard=yes	# add wildcard CNAME?
## server, protocol は変更不要 
server=members.dyndns.org,		\
protocol=dyndns2			\
hoge.homeip.net   # 自分のドメイン名

次に /etc/rc.conf に ddclient_enable="YES" を追加する。これでリブートするか,スーパユーザで ddclient -daemon=0 -verbose -noquiet を発行すると DynDNS 更新登録が実行される。SUCCESS が返却されれば成功である。上記 conf では 300 秒ごとに更新チェックするようになっている。

夏休み---映画で夜更かし

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今日仕事が終わって,夏期休暇となった。ツタヤオンラインで届いていたロシア映画の DVD を二枚,帰宅してから夜が更けるまで観た。

一枚は『ステルスX』(ヴラディーミル・ポタポフ監督作品, 2007年)。原題は "Ноль-седьмой меняет курс"『07 は針路から逸れた』。セルゲイ・マホヴィコフ Сергей Маховиковアンナ・タラトールキナ Анна Тараторкина の主演。ロシアのステルス爆撃機が登場するスカイ・アクション映画である。私はその正義感が平板でしかなくても,人間性に奥行きがなくても,どんぱちアクションものも大好きなんである。ロシアとアメリカが腹を探りながらも協力して,テロリズムと戦うという筋書き。やっぱりテロリスト=極悪人であった。それにしても,そんなにもロシア人はアメリカより自国の軍事技術が高いと思いたいのか。まあ,どこの国民もこの辺りの自意識は同じか。

ステルスX
アルバトロス (2008-04-04)

もう一枚は『ウルフハウンド』(ニコライ・レベジェフ監督作品, 2006 年)。原題は "Волкодав из рода Серых Псов"『灰犬一族の猟犬』。アレクサンドル・ブハロフ Александр Бухаровオクサナ・アキンシナ Оксана Акиньшина の主演。ロシア製『ロード・オブ・ザ・リング』風ファンタジーといった感じの作品である。「僕は他人の神を侮辱しない」なんて台詞が出てくることからも分るように,譲る気持ちをもって異文化間の復讐の連鎖を断ち切り未来を切開いてゆくことがテーマになっている。

『ウルフハウンド』主演のアキンシナは麗しのリブ・タイラーのような神秘的な魅力をもった美女であり,この映画で私はファンになってしまった。 彼女はスパイ映画『M:I:M ミッション・イン・モスクワ』(ヴァジム・シメリョフ監督作品, 2006 年) でも女ハッカー役を演じていて,そのジョディ・フォスターのようなカッコいい女傑イメージで気になっていたんだけど。それにしてもこの『M:I:M』は『ミッション・インポッシブル』の猿真似のような題である。でも原題は "Обратный отсчет"『カウントダウン』であって,パクリの真犯人は日本の配給会社である。

WOLFHOUND
ビデオメーカー (2008-04-04)

北大の浦井康男教授より,先生が構築したロシア語辞書データをいただいた。浦井先生は日本のロシア語学者のなかで計算機でロシア語テクストを解析するにおいてもっとも先進的な方である。ロシアの文法学者ザリズニャクの文法辞書に基礎を置いたロシア語電子辞書を何年もかけて構築し,コンコーダンス作成やテクスト研究に活用して来られた。その成果の一端はここで書いたとおりである。

この辞書は 40 万の異なり語をキーとする単語・文法データベースである。ロシア語の変化形に対する見出し語や性・数・格,活動体/不活動体区分,品詞,アクセント位置などの文法属性情報を有し,ロシア語形態素解析に有用である。この辞書により私は見出し語ベースで KWIC を生成できるコンコーダンスプログラムを作成したいと思案しているところである。海外の Tagger プログラム (形態素解析器) — 語形や文法の特性に基づくアルゴリズムで解析するものが主流のように私には思われる — の利用も考えたが,より泥臭く語彙を集めたデータベースでやってみようと私は思っている。

* * *

いよいよ明日,北京オリンピックが開幕。清潔漢によるボイコットの呼び声もそれなりにかしましかったけれども,日本選手団が無事北京入りできてよかったよかった。

今日,北京オリンピック男子サッカー・日本チームのグループリーグ戦がはじまるということで,仕事を無理繰り切り上げて帰宅し,前半終了間際からテレビ観戦した。ビール杯片手にわくわく感を味わえるのはうれしい。この小市民ぶりがシアワセなんである。残念ながら日本は,見る限り日本と同様にどうもスピード感の足りない「チョーイマイチ」の米国に敗れてしまった。リードしている状況での米国の選手交代のタイミング,時間の絶妙な使い方に舌を巻く。

ところで Yahoo! ニュースの書き込みを見ていると,この試合で中国人観客が米国のチャンスで歓声を上げていたのが許せないだの,審判が公正でなかっただの,負け惜しみが多くて面白かった。私には審判の目が曇っていたようには思われなかった。それよりも足の止まった日本代表選手の度々の転倒がファール目当てなのが見え見えだったわけで,そっちのほうがよっぽどみっともなかった。負けたことより,こういうセコさが頭に来た。中国人の観客だって,アジア杯やW杯予選に比べると十分「教育」が行き届いていたように見受けられ,開催国の品位として非難されるほどではなかったと思う。

そう,反中ドモの負け惜しみ。米国戦の敗退は日本の実力の結果である。そんなこと,オリンピック予選のときから分っていたことではないか? ころころ変わった代表入り選手の面々からして,まあこんなものではないだろうか。でも,ナイジェリア戦あるいはオランダ戦でのサプライズを期待したい (グループリーグで「サプライズ」ってか!)。サッカー日本代表は,お山の大将に近い野球日本代表と違って,出場国の顔ぶれからしてメダルと無縁の最弱の国であって「失うものは何もない」のだから,ファール取りなんて小賢しいことをしないで,もっとのびのびはつらつ,フェアにプレーしてほしいと思う。間違っても,弱いくせにイタリアみたいな狡猾なサッカーはやめてもらいたい。ましてや,負けたからといってめんたまきんたまを抜かれるわけでもないのだから。

日野でステーキを食う

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昨日は正午あたりで激しい雷雨が東京に降り注いだ。事務所会議室から見える国会議事堂が暗雲下で稲光りする様は凄かった。急激な増水による事故で,お気の毒なことに,亡くなられた方もいたようである。今日は一過,夏の炎天となった。日野の顧客先での定例会議のため,午過ぎひとり溜池を出た。溜池山王,赤坂見附と地下鉄を乗り継ぎ,四ッ谷で JR 中央線に乗り換える。四ッ谷駅ホームで中央特快の待ち合わせ。炎天下,スーツを纏った我が身は暑さでメラメラと浮き上がるのを重い疲れで押し留められているかのようであった。ホームのベンチでコカコーラを呑み,しばらくぼーっとしていた。碧空に入道雲がもりもり湧き上がる快晴であった。列車が出て行ったあとの奇妙な静寂。一瞬ピカドンを想像。今日はヒロシマ原爆投下の日。

yotuya-sta.jpg

* * *

午后の会議の準備と目黒の顧客からの問い合わせ対応とで午前中きりきり舞いして,お午ご飯が食べられなかった。日野の会議が早めに終わり,もとより帰社する気合いも失せていたし,これからの長い乗車時間を思うと腹ペコも堪え切れず,私は日野駅すぐそばのマンション 2F にあるアメリカンなステーキ屋に入った。

ここはこれまで何回も子分と来た,私のお気に入りの店である。薄暗く,狭く,薄汚く,静かで,質素なたたずまいが好きなのだ。アメリカの田舎者の鷹揚にして愚昧なる人間臭さを思わせて好きなのだ。こういう店は都心では極めて珍しいのである。だから日野に来るとよく足を運ぶ。1,000 円で 120g のよく焼いた,バターも香ばしい肉を食わせてくれるんである。米国産牛肉であると想像する。安くて旨い牛肉ならじゃんじゃん輸入して食べさせてくれ。BSE? オラ・ソンナノ・カンケーネー。繊細なる松坂牛のレアなんて私には無縁なのだ。

注文するとまず,胡椒の効いたコーンサラダとともに,極々薄いコーヒーが,スプーンを立てたブリキのカップで出てくる。実は,これがコーヒーなのか変種の番茶なのかで,子分と争ったことがある。私は間違いなく二番煎じのコーヒーだと主張。コーヒーなら普通砂糖とミルクが付いてくるし食後に持ってくるでしょう,このモタついた香ばしさは番茶ですよと子分。論争がお莫迦でもあり,その真実を確かめることもせず (店に失礼じゃないか) それっきりとなったが,今日,これがやっぱりコーヒーであることが判明した。店のスケベそうなオヤジが私に「コーヒーのおかわり」を勧めたからである。最後に柚のシャーベット。コーヒーカップに立てたスプーンで食する。こんな気取りのないところこそ都心に稀なれ。

帰路,南部線の電車に長時間揺られながら,開高健の『ずばり東京』(光文社文庫) を堪能。昭和三十年代の東京に暮らす様々な人々の姿を開高兄ぃ独特の剛胆な文章で活写して妙である。「そうだよな,そうだよな」と私はひとりニタニタしていたのではなかろうか。帰宅して「午飯抜きだったから日野で食ってきた」と妻に言ったら,ステーキ食べたでしょと見透かされてしまった。

ソ連の作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンが 8 月 3 日に亡くなった。享年 89,自宅で心不全により息を引き取ったということなので,まあ畳の上の大往生といってよいだろう。ソヴィエト体制により 8 年もの間ラーゲリにぶち込まれながらも反体制文学を書き続けた反骨の大作家としては,静かな死である。

* * *

米国政府機関が竹島 (独島) の帰属先を「韓国領」,「主権未指定」などところころ変えて,話題になっている。韓国国民は口角泡を飛ばして怒りまくっていたようである。一方,日本政府は努めて冷静を保とうとしているようである。町村さんが「米国への抗議がなぜ必要なのか」と往なすとおりで,たしかに米国政府が竹島をどう見ていようが,米国は当事者ではないわけで,それ自体で大騒ぎすることはないともいえる (昔,私が学生のころ,あるところで米国が北海道をソヴィエト領として間違った記載をして問題になったことがあったと記憶する。アジアの同盟国への米国の理解はその程度だと思ったものである)。

ところで,米国はこの時期に来てなぜこのような日韓に亀裂を生じさせるような不可解な行動を起こしたのだろうか。竹島領土問題は日韓のデリケートな問題であることを知りながら。米国の対応はブッシュ大統領の訪韓成功を,あるいは牛肉騒動収拾を図った韓国へのおもねりであるとの見方もあるが,これはおそらく違うと思う。米国のような政治大国がそんな及び腰をとるわけがない。要するに日韓両国ともになんでも米国の機嫌を伺うのはそろそろやめなさいということだと思う。「僕はイラクのことで忙しいのだ」ということ。自分たちのことは自分たちでなんとかしなさいとばかりに,東アジアにおいて米国が冷たい態度を意図的にとりつつあるのだと思う。北朝鮮拉致問題への対応と同じではないか。米国にとっては,六カ国協議で議論して中国に取り持ってもらったら?くらいの,おそらくは他人事なのである。これは当然のことである。仮にアリューシャン列島やベーリング海峡の米露国境付近の小さな無人島の帰属をめぐって米露間が争ったとしても,われわれ日本人はどうでもよいことと思うはずである。

しかしながら,これまで日韓両国はかつての反共勢力として米国を奉じる立場でのみ手を組んで来ただけとも考えられる。歴史問題 (ところで,韓国は戦前の日本の侵略行為に対し歴史的反省と謝罪とをしきりに要求して来た。確かに日本はその清算の仕方がドイツと比べて手ヌルいところがないわけではない。けれども韓国だってヴェトナム戦争での蛮行に対してヴェトナム人から反省を強いられても文句の言えない立場にある。戦争とはそういうものなのだと思う) が治癒しそうもないしこりになっている。親分の影が薄くなったら兄弟喧嘩をはじめるしか能がないかも知れない。米国のこんな他人行儀のそぶりを見て,お互いに信頼関係を築かないといけない時期に来ていると思われるのに。領土問題は国家の原理原則がぶつかり合う。殴り合い — 撃ち合いではないゾ — をすることで友情が芽生えるということもあるか? 私自身は韓国人も,中国人も,殴り合いをしたいなどとは思わないくらい好きなのだけど。

Ozon から書籍が届いた。Е. А. Маймин, Русская философская поэзия, М: «Наука», 1976. (Е. А. マイミン『ロシアの哲学的詩』),Академия наук СССР Институт русского языка, Новые материалы к словарю А. С. Пушкина, М: «Наука», 1982. (ソヴィエト科学アカデミーロシア語研究所編『プーシキン語彙辞典新資料』) と Б. В. Томашевский, Стилистика и стихосложение, Л: «УЧПЕДГИЗ», 1959. (Б. В. トマシェフスキイ『文体論と作詩法』) の三冊。いずれも古書で掘り出したもので,なかでもトマシェフスキイの著書はずっと古書で出るのを待ち望んでいたものである。1959 年の出版なので来年には刊行後 50 年ということで輸出禁止となる,そういうぎりぎりのタイミングで入手できたことが嬉しかった。

ボリス・トマシェフスキイはプーシキン研究史において金字塔ともいえる地位を占めている。有名なアカデミー大全集以降のソヴィエトにおけるすべてのプーシキン全集校訂を任されているように,プーシキン・テキスト校訂の権威であり,『プーシキン語彙辞典』,『ウシャコフ編ロシア語解釈辞典』の主要編纂者でもある。ユーリー・ロートマンとならんで,私がプーシキン研究でもっとも影響を受けた研究者のひとりである。彼はロシア・フォルマリズムの伝統を受け継ぐ文芸理論家としても世界的に有名であり,日本でもせりか書房から出た『ロシア・フォルマリズム文学論集2』に彼の『文学の理論』が収録されている。私は学生時代,西ドイツ Fink Verlag München から出版されていた Slavische Propyläen 復刻版シリーズの一冊 Б. В. Томашевский, Русское стихосложение, Петербург, 1923. (トマシェフスキイ『ロシア作詩法』) で,ロシア詩の勉強をしたものである。本書『文体論と作詩法』も彼の文芸学研究者としてのもっとも優れた業績のひとつである。『昔話の形態論』で世界的に有名な文芸理論家ヴラジーミル・プロップが本書の責任編集を担当している。

トマシェフスキイの文章は,文芸理論家によくあるような独自の専門用語を小難しく使って理論展開するタイプではなく,文体だとか,形式と内容,詩と散文,リズムと韻律だとか,一般的に使用されている概念を分りやすく説明してくれるところに大きな特徴がある。本書も学生のための教科書として書かれたものであり,その例外ではなく,たんにロシア詩を学ぶものだけでなくひろく西欧文学を学ぶものにとってもとても参考になる文献だと思う。日本のスラヴ学研究者のどなたかが翻訳・刊行してくれないものか。

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今日,娘を連れて,東急 Bunkamura で開催されている「青春のロシア・アヴァンギャルド」展覧会に行った。久しぶりの渋谷。最寄りの駅から直通でおよそ 15 分。JR 湘南新宿ラインの開通でこんなにも短時間になったのに,渋谷はもう何年ぶりだろうか。この暑さのうえ,相も変わらぬ人,人,人に少し酔ってしまった。

ロシア・アヴァンギャルドには「激動の時代の若者の好き勝手」というか,意思をもって過去に唾する血走った充溢感があって,いまなお「青春」という言葉が相応しいと私は思う。私は地下鉄銀座線の吊り広告でこの展覧会を知ってから,カジミール・マレーヴィチの絵を楽しみにしていた。『収穫』や『冬のモティーフ』などの作品を目の当たりにして感動した。この展覧会で,ボリス・アニスフェルドの『シェラミの娘』と『東洋の幻想』,アレクサンドラ・エクステルの『魚を持つ女』,ヴラディーミル・バラーノフ=ロシネーの『キュビズム風の裸婦』といった,これまでその名を知らなかった画家の素晴らしい作品を知るところとなった。『シェラミの娘』は現代日本のアニメの異次元ファンタジーに通じる幻想的な物語性でつよい印象を残した。娘は若きシャガールの『ヴァイオリン弾き』がお気に入りだったようだ。

娘は 109 に行きたがったが,やはり腹の鳴るのに耐えかねた。二人で安ステーキを食って帰宅した。汗だくになった私には,渋谷駅ホームにビルを吹き抜けて来る風が意外にも心地よかった。

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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