2008年9月アーカイブ

米金融安定化法案否決ほか

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米国下院で金融安定化法案が否決された。経営で失敗した企業の尻拭いを公的資金で行うことはモラルハザードをもたらすとの基本的理念に基づくものだろう。それが世界的金融不安を増長するかもしれないわけだけど。日本も 1990 年代の不良債権問題で公的資金を投入してきたのであってみれば,その経験からこれが吉と出るか凶と出るかは専門家が判断すると思う。いずれにせよ破滅に向かって歩みつつあるような危機感を覚える。金融不安になるとこれまで資金転がしで金持ちになったひとたちが大損するだけならざまあみろで終わるのだが,金持ちがその損害を下々のものに転嫁するから堪らないのである。

これで米国の金融市場がガタガタになると,1990 年代以降米国型金融グローバリズムに適応させられ,郵政民営化でそれが完成してしまった日本への影響が測り知れない。かつて国庫にあった日本人の巨額の郵便貯金が海外の巨大投資家によって運用されて,日本の富が収奪されてゆく。米国型金融経営が破綻するとともに同じ構造に立つようになった郵便貯金も同じ運命をたどるのだろう。小泉改革万歳。

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相撲協会をクビになった元若ノ鵬関は法廷闘争に踏み切った。これに加えて,大麻疑惑,八百長問題をはじめとする相撲界の数々の不正に対し積極的に証言すると語っている。日本人のなあなあの体質に胡座をかいてきた相撲協会が外国人の論理で攻められはじめたということだろう。なんか企業をクビになった社員のチクリで大っぴらになる偽装問題と酷似している。どんな結末になるか見物である。

ネットを検索していたら,面白いロシア語学習サイトを見つけた。「ロシア語習得支援サイト ruruwara.com — ロシア人をロシア語で笑わせて!」というサイト。最近はこのような事業が成り立つようになったのかと感心してしまった。

ruruwara.com は教科書を通信販売で提供し,例文の発音を YouTube の動画で公開するというユニークなものである。サイトの副題から想像されるように,例文はくだけた会話主体のものである。しかも,その動画たるや,ロシア美女がちょっときわどいお色気でもって例文を発音している一風変わったコンテンツである。

1980 年代前半,私が大学に入ってロシア語を習いはじめたころは,ロシア人の生の発音が聞けるロシア語教材といえば NHK 講座もしくはソ連製中心の LP レコード/カセットテープくらいしかなかった。社会主義国家のお堅いアナウンサーが「話者のあとに続けて繰り返しなさい。そして比較しなさい」と規律正しく発音練習を促す。例文もいたって真面目な内容に限られていた。ruruwara.com はというと,金髪・ノーブラ・ボディコンの女性が「わたしはあなたのもの」みたいな例文を速度を変えて繰り返しながら,胸の谷間を「見せつける」。視聴していると目的がわからなくなってきた。隔世の感がある。私でさえ信じられない時代になった。明治は遠くなりにけり。

興味のある方はどうぞ。このサイトで学習しても,プーシキン,ドストエフスキイを読めるようにはならないだろうけど。効果 (どんな?) のほどを私が保証するわけではありませんので悪しからず。

論文集見本誌拝受

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今日,東京大学スラヴ語スラヴ文学研究室より年報 SLAVISTIKA XXIV 見本誌を拝受した。やっと出た。プーシキン論文最終稿を提出してから三カ月以上経ち,いったいいつになったら出るんだろう,もしかして来年度分と合併号になるのかな,などと私は思っていたのだった。研究室の担当者はわざわざ私の論文だけの抜刷まで準備してくれた。多謝。論文が公になり,専門のプーシキン研究者がどう見てくれるのかを想像すると,まことに心もとない。鷗外ではないが,「心あるひとはいかにか見けむ」である。

自著の論文が印刷された冊子体現品を見ると,さすがにうれしい。さっそく子供たちに自慢した。いまや立派な文筆家となった義父も論文執筆について折に触れ私を励ましてくれたので,私はお礼も兼ねて彼に抜刷を送付しようと思っている。今回の論文のネタを 2006 年正月に思いついて,もう二年半以上になる。文学研究論文への取り組みは,ただのコンピュータ・エンジニア・サラリーマンである私にとっていろいろと紆余曲折があったが,これで終わり。スミルノフさん,義父と大学時代の友人が褒めてくれ,なにより子供たちが「お父さんすごい」と言ってくれた。妻はスパークリング・ワインで祝ってくれた。サラリーマン・オヤジはそれで十分にご満悦なのである。論文を書くことを仕事にしている研究者を慮るにつけ,論文をたった一本掲載されて悦に入っているこんな私は実におめでたい限りなのだけど。

おもしろうてやがて悲しき鵜飼かな — 芭蕉。

愛すべき Microsoft

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マイクロソフト,「I'm a PC」をマックでつくる」という記事を見た。Microsoft はライバル Apple 社 Mac の,Windows PC を小馬鹿にしたあの CF に対抗して「I'm a PC」なる CF を作成したが,実はそのコンテンツは Mac で製作されたものだそうである。昔,Windows Server が評判になりはじめたころ,Microsoft は自社サイトの Web サーバを UNIX マシンで運用していたとのウワサを耳にしたことがある。

いずれも米国人らしい適材適所の発想ではないか。しかし,これがジョークになってしまうからこそ Microsoft は愛すべき企業なのだとつくづく私は思う。さまざまなジョークにこと欠かない Microsoft なんだけど,なにはともあれ,Windows 搭載サーバは近年はなかなかの安定性を発揮してくれていて,私自身仕事のうえでほっとさせてもらっている身なのである。私は Mac OS X を愛用しているとはいえ,思うに品質という点では Apple は Microsoft の敵ではない。Mac OS X はバグだらけなのである。

ロシア人力士の大麻疑惑で角界が大騒ぎである。これまで八百長疑惑,シゴキ殺人疑惑,朝青龍サボリ問題などが立て続けに世に出ていて,相撲協会にとって荒波が収まらない。

三人のロシア人力士はクビになり相撲界から追放された。若ノ鵬関以外の二人は疑惑を否定しているが,ドーピング検査結果からして相当黒に近い (大麻吸引がドーピング検査で明らかにできるのかよく分りませんが)。不法所持で逮捕された若ノ鵬関は年齢上の理由で不起訴処分となり,マスコミを前にして自分の過ちを詫びながら,「それはそれ,これはこれ」というもっともな立場に立ってもういちど土俵に立たせてほしいと哀願した。実力がものを言うプロの世界なのだから,「前科者」であっても罪を償ったからには,フェアでかつ強ければファイトさせてもよい,というのが世界一般の考え方ではないかと私は思う。ましてや若ノ鵬関は結果的に不起訴なのだから「犯罪者」ではない。モンゴル人の横綱白鵬関などもこの考え方に立って,若ノ鵬関の復帰を擁護していた。しかし,これは集団主義的潔癖「症」に冒された日本人には残念ながら通用しない。部員の不祥事でチーム全体が甲子園出場を辞退するのが美しいとされるへんな国なのだ。この三人は,スポーツというより民族的儀式といったほうが適切な,ファイターにとって絶望的な相撲という世界はこの際諦めて,別の道 (やりたいならプロレス界に来い!とアントニオ猪木が言っているそうではないか。捨てる神あれば拾う神あり) をゆけばよい。

相撲にはドーピング検査がないそうである。全力士に対してロシア人力士と同等の検査を実施したら,実はもっと「面白い」ことが起こったかも知れない。今回これだけ大問題になっている以上,角界の大麻汚染,もとより不正薬物使用がこのロシア人力士に限定的であったことを — 要するに過ちは三人だけだったことを — 示すには,相撲協会は全力士の検査をすべきではないだろうか。なぜ問題力士だけが検査され,さらに刑事訴追されてもいないのに協会を追われなければならないのか。

問題発覚の当事者と責任者の排除でことを終わらせようとする協会の態度。われわれメーカーの設計者なら,問題そのものを訂正するだけでなく,「類似見直し」で同様の問題が隠れていないかを徹底的に再調査し,その動機的要因を遡って根本原因を突き止めこれをつぶすことで「再発防止策」とする。根本的問題に対して手を打たないとまた起こるのが目に見えているからである。「間違いは人間誰しもあることで許されるが,同じ間違いを二度犯すのは許されない」という思想があるからである。こうした方法がメーカー必須の不良対応手順となっている。顧客も事情を承知していて,これを怠ることを許してくれないし,だからこそメーカーと顧客の間に信頼関係ができるのである。相撲協会の態度は,発覚したバグだけを訂正しそれを作ったプログラム担当者をクビにし,ついでにその上長もクビにして「誠意を示す」という,われわれにとって絶対してはならない安易なごまかし手段とまったく同じなのである。だって,三人以外には薬物使用者がいないことも,理事長の首のすげ替えで体質が変わることも,まったく証明されないではないか。まだまだ問題力士が掘り出されますゾ。

しかしクビにするだけで「類似見直し」も「再発防止策」もない措置でなんとなく事態が収拾しつつあるのはなぜなのか。「協会の毅然たる態度に好感がもてる」などと言い出すバカもいる。それは,相撲界をよくするなんて,所詮どうでもよいことだからである。「国技」の体面だけが心配だからである。この大麻疑惑について,「国技の品格,礼節がなっとらん」,「神聖な土俵を穢す」,「国技の威信を回復しろ」などの「国技」としての側面ばかりがあげつらわれているではないか。これらの非難を聞いていると,相撲とは歌舞伎などと同じ芸能・見せ物か,あるいは神社の祭祀みたいなものなのだと思ってしまう。もうひとつ,この問題の過程を見ていると,外国人力士に対する拭いがたい差別意識も垣間見える。「早く (ロシアに) 強制送還しろ」との書き込みもネットで見た。例えばここ

スポーツとしての相撲の素晴らしさの本質は,国技の品格などということよりも,もっと別なところにあると私は思うんだけど。どんな形にせよ足裏以外で土がついたら負けという潔いルール,裸の巨体に相応しい力強さ,信じられない敏捷さ,狭い円内での多様な技のダイナミズム,小よく大を制する意外性などなど...。

力強く速く美しい相撲を取るがハレンチ生活を噂される力士と,腰砕けで弱っちいが男前で品行方正な力士と,さあどちらがよい力士? わくわくさせる素晴らしい授業をする不倫教師と,教科書棒読みの品行方正教師,さあどちらがよい教師? 集団全体の体面を重視する日本人はまず間違いなく後者を支持するのではなかろうか。「これは極端な選択肢だ」と言うのは本質というものを考えないひとである。今回の角界スキャンダルへの意見をネットで読むにつけ,これと同様の本質を見誤った偽善的ゴタクだらけなのにウンザリさせられた。例えばやっぱりここ。だから相撲界は脇が甘くあら探しばかりされるようになったのである。だから子供は学校で先生を無視し,予備校の名物講師のもとに走るんである。おっとこれは飛躍か。

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妻とフランス映画『大いなる幻影』を観た。1937 年,ジャン・ルノワール監督作品。フランスのしゃれ者とは一線を画す男臭さを発散するジャン・ギャバン主演の名作である。世界史を学ぶとフランスとドイツとは伝統的に仲の悪い隣国であったことが分る。しかしこの映画では,第一次大戦でヨーロッパが崩壊してゆく様を体験したものが,国家という枠組みを越えた共通点,零落してゆく貴族 (ボアルデュ大尉とラウフェンシュタイン司令官),労働者 (マレシャル中尉,未亡人エルザ),資本家 (ローゼンタール) などの階級を越えた人間的関わりにこそ新しい道を見いだそうとしているかのようである。

この映画が製作されたころはナチスが台頭し,もはやこの作品に見られるような紳士的なドイツをだれもイメージできなくなっていたに違いない。また共産主義革命で当時世界的に孤立していたロシア人の捕虜も人間的に描かれている。反独・反共世論が一世を風靡していたなかでこのような,国家を越えた個人を見つめることのできる第一級の映画を製作したフランス人はやっぱり凄いと思った。

大いなる幻影
ファーストトレーディング (2006-12-14)
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なんとはなしに『チャップリン自伝』(新潮文庫, 1981) を読んだ。学生時代,チャップリンの『キッド』,『モダン・タイムス』,『独裁者』などの名作を観て,その笑いと憂愁に感動した。いまだになにものにも代え難いと思い入れの強いファンが多いはずである。この本は彼の貧しい少年時代から,1916 年にハリウッドのミューチュアル・フィルム社に迎えられ,ようやくアメリカで成功したころまでを収めている。この時代以降の伝記は,どん底から這い上がったそれ以前に比べ成功物語としてのインパクトに欠けるからか,文庫版では割愛されている。

俳優というものがその人気によって,上流階級クラスの豊かな生活と,食うもの着るものにも困る最低の貧民窟生活との間を一挙に移ろう仕事であるという残酷。チャップリンは後者の境遇にあって,女優だった美しい母と四歳上の異父兄を支えにして,小学生くらいの年頃から様々な職業を経験しながら,お笑い芸を学び成長する。少年が己の才能を磨きアメリカンドリームを体現するようにのし上がってゆく様子は痛快でもあり,孤独な切なさを覚えさせもする。ひとことでこの自伝を評するとすれば,「ディッケンズを読んだときのような感動」だと思う。

チャップリンの優しさの原点ともいえる部分を,ちょっと長いけど,引用しておく。

このころ,あるちょっとした事件があったのをおぼえている。というのは,通りのはずれに屠畜場があり,羊たちはわたしたちの家の前を通って引かれてゆくのである。あるときのことだが,そのうちの一頭が逃げだし,通りを駆けまわって見物人たちを大喜びさせた。つかまえようとするもの,つまずいて転ぶもの,すっかり,通りは大騒ぎだった。とにかく羊は狂ったように逃げまわる,跳びはねる。わたしは面白くて笑ってばかりいた。なんとも滑稽な光景だった。だが,やがてつかまって,屠畜場へ連れもどされてしまうと,突然,クローズ・アップされてきたのは,むしろその悲劇的な現実であった。わたしは家へ駆けてかえると,泣きながら母に訴えた。「あの羊,みんな殺されるよ! 殺されるよ!」あの春の午後の冷酷な現実,そしてそれとはうらはらなドタバタ喜劇,それは長くわたしの記憶にのこった。そしていまにして考えると,このエピソードこそが,将来わたしの映画の基調---つまり悲劇的なものと喜劇的なものとの結合というあれになったのではないだろうか。
チャールズ・チャップリン『チャップリン自伝---若き日々』新潮文庫,1981, p. 72。
 

チャップリンは無類の女好きで,不倫スキャンダルで相当叩かれたようである。レッドパージで米国から追放されさえした。でも,---「国技」相撲界にまつわる潔癖症とは異なり,— その面白い芸術はやっぱり至高・不朽の価値を万人に認められるところとなった。そう,あんな素晴らしい笑いとペーソスでたくさんのひとに人生を教えてくれたのだから,ちょっとした個人的欠陥などはどうでもよいのだ。また,たくさんの子供,孫に恵まれ,その名声だけに依らず幸福な晩年だったのだろうと思う。ちなみに,彼は日本人の使用人を重用していたことでも知られ,戦前から何度も来日し,日本人にとっても特別な親日家・大俳優だった。「チャップリンのマネージャは日本人だった」というのがテレビ番組「トリビアの泉」で紹介されたそうである。

チャップリン自伝―若き日々 (新潮文庫)


 
チャールズ・チャップリン
中野好夫 訳
新潮社

堂場瞬一『破弾』

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書店をぶらついていたら文庫本の平積みに堂場瞬一の作品がたくさん並べてあった。帯には「寝不足書店員続出!?」なるコピー。批評家や職業的書評家よりも,編集者,本屋が勧める作品には本当に楽しめるものがある。『このミステリーが面白い』などもこうした本好き無名氏たちの無私の批評眼に支えられていて,参考になる。というわけで,これまで知ることのなかった堂場瞬一という作家の,シリーズものの一冊『破弾---刑事・鳴沢了』(中公文庫, 2005) を購入した。500 頁に及ぶ長編であるが,結構楽しませてもらいすぐに読了した。帯のコピーが唆すほどの「これは!」という作品ではなかったが,私はいまの日本を担う世代への作者の思いに感銘を受けた。

作者・堂場瞬一は 1963 年生まれで私とほぼ同世代である。1960 年代から 1970 年代前半にかけて盛んだった学生運動を生きてきた世代に対する見方という点で,私と共通する部分が感じられた。70 年代初頭,小学生だった私は,内部分裂の果てに凄惨な内ゲバ事件で殺し合う学生たちの姿をニュースなどで見て,彼らがただの愚連隊にしか見えなかった。そういう学生運動に身を投じた若者が,大学を卒業するといきなり生活人になって,企業の資本主義的利潤闘争に溶け込んでしまうことも,信じられなかった。いまだになんの共感も湧いて来ない。まったくの世代断絶,理解不能なのである。作品は過去の内ゲバ殺人が明るみに出ることを怖れたかつての学生運動家たちによる揉み消し犯罪を扱っているが,作品からは,何事もなかったかのようないまある彼らの姿に対する冷たい作者の態度が読みとれた。

私のような昭和 30 年代生まれのひとたちは,大学に入るあたりに,貧乏な暮らしからいきなり豊かな浪費社会に突入したような幻惑を覚えた世代ではないかと思う。紙芝居で飴玉をなめながら『黄金仮面』を観ていたのに,いきなり豪華なコンサートホールで『アイーダ』を楽しみ,レストランでフルコースを注文しはじめたのである。あるものは 1980 年代以降の浮かれバカ日本の代表者になり,その後の日本の悪趣味・偽善の先導者となっていまのこの現代日本を決定づけていると私には思われる。また一方,上の世代の暗い暴力と転向の時代にも,バカ日本の時代にも共感できないあるものは,堂場作品の主人公のように自分の過去の行動に苛まれ自信を喪失した生き方しかできないようである。私は自分の世代が親たちの物質的・精神的財産を蕩尽させ,他人のことを気にせず自己中心的で,子供たちに明るい未来を描けないように仕向け,つまり日本をダメにしたのだと痛感している。

作品の主人公・鳴沢了にせよ小野寺冴にせよ,「失われた十年」の 1990 年代に人格形成し,2000 年代に入って社会の第一線に出た,私たちの次の世代である。彼らは学生運動の世代にも,私たちバカ世代の振る舞いにも違和感を覚えている。彼らの煮え切らない弱さ・強がりはその自信喪失の結果なのである。でも私は,喪失した自信を仕事や技術・芸術で取り戻そうとするこうした 2000 年代の若者が好きである。この作品はそうした私たちの世代の思いをうまく伝えていると感じた。私は 2010 年代に社会に出る私の子供たちが,2000 年代の若者の弱さを克服し,私の世代の遺産を否定して,新しい日本を作ってくれることを望むばかりである。「売り家と唐様で書く三代目」なんてことにならないことを願う。

DVD でロシアのテレビドラマ『懲罰大隊』(原題 "Штрафбат") を観た。これは 2004 年,ニコライ・ドスターリ監督による全 11 話からなる戦争ドラマである。主演は,アレクセイ・セレブリャコフ Алексей Серебряков(大隊長トヴェルドフレーボフ役),ユーリー・ステパーノフ Юрий Степанов(グリモフ役),アレクサンドル・バシーロフ Александр Баширов(スティラ役)他。

第二次大戦中ソ連では,政治犯,刑事犯からなる懲罰部隊を組織して,危険な陽動作戦や捨て戰に動員したようである。彼らの武装も兵站も乏しいものだったようで,作品でも兵士はもっぱらドイツ軍からの分捕り兵器を携えていた。この軍団は前線で前からは敵に撃ちまくれ,撤退しようとすると後ろからは自国の保安部隊に撃ちまくられ,というような逃げ場のない絶体絶命にさらされた。なにしろこのころのソ連はスターリンの粛正で政治犯が大量に発生した時代であり,作品最終話のエンディングロールによれば,懲罰部隊は 1,049 も存在したのである。彼らは皆,シベリア強制収容所ゆきと同様,全滅覚悟の戦闘に投入されたのだろうと想像される。

ちょっと非現実的な設定ではあるが,正教神父ミハイル(ドミトリ・ナザーロフ Дмитрий Назаров)が物語の途中から,ロシア正教聖職者のあの黒衣に十字架を下げた長髪姿でこの懲罰大隊に仲間入りして,戦闘に参加したり,兵士のために祈りを捧げたりする。作戦を前に,並ぶ兵士たちに神父が順番に十字を切るシーン。ロシア人の神の姿を知ることのできる感動的なエピソードであった。

兵士の描き方はロシアらしく底抜けに明るい。ことあるごとにアコーディオンやギターを持ち出してきて下品な小唄を歌う。日本の戦争ものが,主人公のフラッシュバック — たいていは愛する人の思い出と平和な時代の幸福な記憶 — によって,涙をそそるばかりであるのと比べると対照的である。次は,作品でスティラの歌う戯唄である:

すべては前線で起こった
戦場でヤギに出会った
爆弾で首がちぎれてた
思わず自分の首を確かめた
 
ヤカンが沸騰してた
爆発したら小隊は全滅だ
ヤカンからお湯が漏れてる
自分のを触ったが漏れてない
 
戦場から遠く離れた本部で
偶然友達に会った
彼の胸は勲章だらけ
自分の胸に触ったが何もない
 

第二次大戦でソ連は 2,000 万人もの人々が犠牲になったという。200 〜 300 万人とされる日本人犠牲者と比べ桁が違う。もうこうなると,「一人の死は悲劇だが,大量の死は統計でしかない」というスターリン語録ともども,唖然とさせられる。作品のなかでも,このスターリンの有名な言葉が引用され,「俺たちが死んだって,悲劇なわけないよ,ただの統計さ」という主人公たちの台詞が出てくる。ソ連人が大量に死んだ要因は,概してロシアの国土が近代総力戦の戦場になったこと — 同様に,自国が戦場になった中国も日中戦争で 1,000 万人が亡くなったとされる — にあるが,軍指導者の無謀な作戦によるところも大きかったようである。ドラマの最後に出てくるドイツ軍参謀の台詞がそれを物語っている —「ソ連人の寛大さには感嘆を覚える,恐怖もな。もし我が軍が豊富でもこれほど兵力をムダにしないだろう」。スターリンの皮肉な引用といい,このドイツ人の台詞といい,このドラマではかつてのソ連の戦争指導者に対する風刺が効いている。海外ジョークでは日本の戦争指導者の無能さが嗤いの対象となっているが,ソ連でも事情に変わりがなかったようである。戦争で偉そうにしているのは,スティラの戯唄にあるとおり,「戦場から遠く離れた本部」にいて勲章をぶら下げる者ばかりであり,これは洋の東西を問わない。いま現代の日本であの侵略戦争を肯定しているのも,実際の戦争を知らない者ばかりである。あの「大東亞戰爭」に軍国的憧憬を抱く若いナショナリストたちは,靖國神社・遊就館に佇み,戦場で英雄になっている己を幻想するとき,「自分の胸に触ったが何もない」無名一兵卒なんかではなく,たいてい「司令官」を気取っているんではなかろうか。「美しい日本人」だこと。

それにしても,この作品でのロシア兵の煙草の吸いっぷり,酒の呑みっぷりはやたらとカッコいい。オーストリア・イムコ製のオイルライターで同じ火を二人の兵士が分け合うシーンがあり,芸が細かい。おそらくこれもドイツ兵からかっぱらった一品だったのだろう。やはりドイツ軍の隠し倉庫から盗み出したラム酒を爆音に晒されながらスティラがラッパ呑みする。「死んだ戦友たちに」と唱えて,一斉に兵士たちが二指分濯いだコップ酒を,背を反らせて一気呑みする。私も学生のころ,ロシア映画の同じようなシーンを真似て,生のウォッカを呷り数杯で意識を失ってしまったものである。
 

捕虜大隊 シュトラフバット DVD-BOX
ジェネオン エンタテインメント (2005-09-02)
 

ちなみにこの日本版 DVD の題名『捕虜大隊』は誤訳であって,正しくは『懲罰大隊』である。というか,商売上の作為を感じさせる誤りである。「捕虜」のほうが戦争ものの既成のイメージを抱かせやすく,興味を掻き立てるからだと思う。というのも,作品本編の字幕では "Штрафбат" というロシア語が『懲罰部隊』ときちんとした日本語訳になっているのだから。

もてる男の三つの条件

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海外のジョークには三題話というのがある。例えば —

ある黒人のホームレスの前に,神様が立ち現れ,三つの願いをかなえてあげようとおっしゃったらしい。ホームレスは迷うことなく,叫んだと伝えられています。
「白くなりたい! 女たちの話題の的になりたい! いつも女の股ぐらにいたい!」
たちまち男の姿は跡形もなく消え失せ,路上には小指大の白いタンポンが転がっていたのだそうです。
(米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』文藝春秋, 2003, p. 25)
 

ものごとに立体感をもたらすにはその属性を二つではなく三つ準備する必要があるということだろう。音楽でも三つの音ではじめて和声が成立する。女にもてる男の特性にも,三つの条件を上げるのが万国共通のようである。日本では,「男は三高 — 高収入,高学歴,高身長」。ロシアでは,Золото в кармане, серебро на голове и сталь под пахом. —「ポケットに金,頭の上に銀,股ぐらに鋼鉄」(要するに,金持ち,ハゲならぬロマンスグレーの髪,何度ヤっても衰えない鋼鉄のような魔羅の持ち主,ということ)。これは米原万里の本で知った和文から私なりに想像して仕立てたロシア語である (彼女のどの著書に書いてあったのか失念してしまった。ロシア語はこれでよい?)。ロシアと比べると日本の三条件はなんともジョークの精神に欠ける。日本の女はなんとも面白みに欠けるんだということをありありと印象づけてしまう。

ところで,このロシアにおける三つの条件は,米原万里が作ったロシア語教科書に訳文なしに掲載されていたそうである。この教科書を私は探しているのだけど,見つけられないのが本当に残念である。言語を学ぶことはその話し手の国民性を学ぶこと,というポリシーがこの教科書には伺えるような気がする。私が大学時代にお世話になったロシア語教科書は木村彰一先生の名著ではあったけれど,こういうジョーク精神はなかった。

プロ野球・巨人対阪神

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しばらく見ないうちにプロ野球がちょっと面白い様子。巨人が一時十ゲーム以上差をあけられていた首位阪神をこのところ猛追していて,今日の時点で三ゲーム差とのこと。オヤジ軍団阪神は暑い夏をやはり無事には越せなかった一方で,金に糸目をつけずに他チームから選手を引き抜いた金満軍団巨人はやはりじわじわとその効力を発揮しつつあるということか。

私は子供のころからの阪神ファンである。幼いころ,父が白黒テレビで野球を観ていた時代,巨人が打ち,阪神が投げている映像ばかりが私の記憶に残っている。要するに巨人がいつも勝ち,いつも攻撃していているイメージが強かったのだろうと思う。「20 勝 7 敗」などというようないまでは信じられないエナツ登板時のキャプションがテレビに流れていて,タブチの 背番号 22 の後ろ姿ばかりが焼き付いていて,阪神は守ってばかりいたのである。大喜びしているオー,ナガシマ,ホリウチ,クロエ,タカダ,モリ,カワカミばかりがテレビに映っていた印象がある。そういうとき父は不機嫌で,なんで面白くもない野球なんかを観ているのかと私は不思議に思ったものであった。父も阪神ファンだったのである (南海ホークスが彼のいちばんの贔屓であったが,テレビではセントラルリーグの試合しか放映されなかったので,阪神を応援している姿しか私の記憶にない)。

そのころ巨人軍 — 巨人だけが「巨人軍」と軍隊のような呼ばれ方をするのはどうしてか — は助っ人外人を雇わないのがポリシーで,日本純血を売り物にしていたようである。また,オーやナガシマには「紳士」のイメージがあった。ヤクザで下品な阪神と阪神ファンとは大いに違ったのである。長ずるに及んで私も阪神ファンとなってしまったが,どうやらこのへんに理由がありそうである。現代の弱い日本にいじましい愛情を覚えてしまうのも,どうやらこのへんに理由がありそうである。現代の上品ぶった清潔な日本に嫌悪を覚えてしまうのも,どうやらこのへんに理由がありそうである。

さて,金満巨人はオヤジ阪神に対して逆転優勝できるんでしょうか!? もちろん私は阪神の優勝を望んでいる。しかし,この元気のない日本が全国区・金満巨人軍の歴史的逆転の栄光で少しは自信を取り戻すのなら,そのほうがよい。

開高健の芸術エッセイ『ピカソはほんまに天才か』(中公文庫, 1991) とルポルタージュ『サイゴンの十字架』(光文社文庫, 2008),そして井上順孝著『神道入門』(平凡社新書305, 2006) を読んだ。

開高健の芸術論は,己自身の生から湧き起こってくる真実だけを言葉にしようとするところがなによりの魅力である。他人がなんと言おうと耳をかさない潔さがある。彼がピカソの青の時代しか認めないのを読んでも,ピカソのファンは気を悪くしてはいけない。それが作家の生の体験そのものだからである。開高は,有名な画家のタブローだけでなく,漫画や映画,広告ポスターなどに時代の肉・汗・臭・声を求める。対象に対して,見ること,聞くこと,読むことだけでなく,触り,舐め,食い,嗅ぎ,聴き,叩き,裂き ... とやらずには,語ることをしない現実主義者であった。ヴェトナムや中東で繰広げられた惨劇について,報道だけをたよりに語ることに決して満足しない真のヴォワイヤンだった。

開高は戦後日本の借物の底の浅い文化を憂いていた。鬼籍に入って二十年たったいまこの現代に生きていたら,彼はなんと言うだろう。開高を読む度に私は自分が恥ずかしくなる。

井上順孝の『神道入門』は神道の歴史的概観,「言挙げ」しない「神ながら」の道としての宗教特性だけでなく,日本人の宗教観をも素描した啓蒙書である。日柄方位など何気なく日頃口にしたり,見たり,聞いたりしている行為に深く浸透した神道の伝統の話が面白い。

ところで,私は大阪市住吉区にある浪速高等学校という,全国でも数えるほどしかない神道系私立学校を卒業した。中庭に神社があった (そんな学校はおそらく全国で唯一だと聞いたことがある)。朝登校するとこの神社に向かって二拝二拍手一拝をしなければならなかった。一年生の夏,伊勢神宮の宿舎で修養合宿があり,神職から講話を受けたり,食前に祝詞を唱えたりした。陽が昇る早朝,伊勢神宮内の五十鈴川の清流で禊をしたのが痛烈な思い出として残っている。

この学校では宗教科目として神道の授業があった。國學院,皇學館を卒業した先生が教鞭をとっていた。神道というと古事記の神話以来の伝統と皇室が結びついているところから,右翼のイメージを連想するひとがあるかも知れない。しかし,神道の授業は皇国史観を授けるのでは決してなく,日本人のアイデンティティとはなにかということを主なテーマとしていた。祭祀・儀礼の文化人類学的意味を調べるだけではなく,そのほか,和辻哲郎の『風土』やルース・ベネディクトの『菊と刀』を授業で読んだり,賀茂真淵,本居宣長,平田篤胤の神道説,日本の国学の伝統を学んだりと,普通の高等学校では想像できない授業をやっていたのである。私はいまだにその授業で使用された教科書を手元に置いているくらい,浪高 — というのが通称であった — は個性的な学校であった。私の先輩には小説家の藤本義一,落語家の笑福亭鶴瓶,『じゃりン子チエ』の漫画家はるき悦巳,元ボクサーでいまはタレントになってしまった赤井さん —「さん」付け以外で呼ぶことは許されない — がいる。

私は子供のころから日本の神話が大好きだったり,神道教育で神ながらの道を学んだりしたせいか,実は皇国の伝統が好きである。でも自分のことを右翼だとは思わないし,軍国主義的思想は大嫌いである。そもそも共感できない考え方に対して右だとか左だとか極め付けて非難することは意味がないし,愚かしいと思う。

『神道入門』は高校時代の授業でのあれこれを思い出させてくれた。

9.11 の記憶

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新規プロジェクトの旗揚げで,このところクソ忙しい。この連休も仕事である。暇よりは多忙なほうが精神衛生上よいのだが。

昨日 9 月 11 日はあの同時多発テロから 7 年目の日。グラウンド・ゼロでの追悼式典の様子を報じるニュースを見た。あの日,歴史的なテロ事件を知ったのは,やはり仕事が — ゲリラのように襲ってくるシステム障害対応にきりきり舞いしていたために — 深夜に及び,帰宅しようと拾ったタクシーのおやじからであった。「見ましたぁ,ジェット機がニューヨークの二本立てのでかいビルに突っ込んだの? 凄かったねえ。テロだってことですよ。ビルってあんなふうに崩れるんだねえ。中にいたひと,飛行機の客,気の毒だねえ。ひでえことするもんだねえ。毛唐はなに考えてんだかわかりゃしねえ」。私はなにがなんだかわからなかったが,夜中の三時くらいに家に着いてからテレビを点けると,米国繁栄の象徴のような世界貿易センタービルが崩壊する映像が繰り返し,繰り返し放映されていた。この事件で三千人以上のひとびとが亡くなったという。翌日から勤務地の溜池山王,虎ノ門のあたりは,外堀通りから米国大使館にかけて機動隊の大型車両がずらりと並び,警察官が二十四時間態勢で警戒にあたるものものしい事態になった。

このときから世界が一変したのだった。イラクとアフガニスタンは,この衝撃的な破壊活動のおかげで三千人の敵国市民の命と引き換えに,何十万人もの同胞の命を米軍に奪われることとなった。米国が中東で泥沼の報復戦争にまみれているその間に,中国とロシアがエネルギー大国・経済大国・軍事大国となって覇権を握りつつある。いまや再び世界は米国一人勝ちの時代から多極的なパワーバランスの時代になったようである。

イラク戦争のせいで投機の対象になった原油の価格が急激に高騰し,日本人もまた苦しい生活を強いられつつある。儲けているのは米国・英国式手法で資金を転がしている者だけで,一方モノを作り流通させている者は働けど働けど,いっこうに生活が充足しない。さらにその下で仕事を支える派遣・契約社員は正社員と差別され働く者のプライドすら自認できない有様である。かつて世の中のいじましさを知らないお坊ちゃん宰相は「格差社会というけど格差なんてどこにいっても必然的に起こることだ」と当たり前のことを述べてことの本質を突いた気になっていた。誰もが資金を転がして金持ちになるのがよい社会であって,それをやらない馬鹿のいるところでは格差に打ちひしがれる者がいても当然だとこのひとは言っているのである。若者が未来に希望を持てないのも宜なるかな。

首相は国政を放り出してしまうし,野党は選挙のことしか頭にないし,つまり日本はいまはまだ平和なのだということなのだろう。でも,ソ連がアフガニスタンに侵攻したころ,レーガン大統領がスターウォーズ計画を発表したころ,バブル景気から日本経済が転げ落ちたころ,米国がグローバリズムの要求で日本を虐めまくっていたころ,オウム真理教が松本と霞ヶ関でサリンを撒いたころに比べても,いまは私の記憶のなかでかつてないくらい不安な時代だと私は思う。『お笑いレッドカーペット』を観ながら大笑いしている子供たちが大人になる五年後が本当に心配である。

重陽節・疲れました

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午后,新規大口顧客システム案件の幹部会議があった。子分とともに作った資料で私がひとりで延々と説明。幹部にいろいろと鋭い,耳の痛い指摘を受けた。要するに検討不足のお叱りを受けたわけである。ひとことも発言しない観客 — スタッフ部門のことである — に苛立ちつつ私は,プロジェクトのブートストラップ時の侃々諤々の議論で疲れ果ててしまった。

自動販売機で缶コーヒーを買おうとしたら,十円玉が受け付けられない。よくみたらギザジュウであった。しょーもな。疲れた。

全国学力テストで大阪府が最低の成績だった結果を受けて,橋下徹知事が府の市町村が結果を公表しないのに業を煮やし「クソ教育委員会」などと暴言を吐いて話題になっている。橋本はん,そんな怒らんでもええやないか,アホな子ほどかわいい言うやないか。罵られた教育委員会はどうも事勿れ主義なのか,点数の公表が「序列化,過度の競争を招く恐れがある」との苦しまぎれの逃げを打っているらしい。でも情報を公開するのは大事なことだと思う。逆にきちんと情報公開しないと,全国学力テストの結果だけで大阪の子供は序列の最低位にあることだけが一人歩きしてしまうはずである。公開情報を見て,大阪の子はアホなんかいな,とこれこそアホな極めこみをするひともいれば,いやセンセがアカンのや,センセの給料悪いんとちゃうか,成績のええ地域ではなにが影響してるんやろか,という議論も起こるはずである。情報は勝手な想像ばかりでなく考えることをも引き起こすのではないだろうか。

今日は重陽節。今朝家を出たら,秋めいた抜けるような青空だった。

アメリカ社会派映画二本

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ハリウッドが撮った社会派映画を二本観た。『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』と『ニューオーリンズ・トライアル/陪審評決 』。いずれもアメリカ人の,信念に基づいて問題に立ち向かってゆく正義感と,なにがなんでも意思を貫く行動力とに打たれる名作といってよい。結末のあっと思わせるトリックも出色の,お勧めの映画である。

『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』は 2003 年,アラン・パーカー監督作品。冤罪で無辜の市民を殺してしまうかもしれない,死刑制度の危険性を訴える物語。まだ観ていないひとのために,結末をしるすのは控えるけれども,司法制度を陥れてでも理念を証明しようとする主人公たちの行動力に感動する。

ライフ・オブ・デビッド・ゲイル
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン (2003-11-28)

『ニューオーリンズ・トライアル/陪審評決 』は 2003 年,ゲイリー・フレダー監督作品。この映画は銃の所持が正当化された社会と陪審員制度とをテーマとする法廷ものである。アメリカ陪審制度の法廷ものは,ヘンリー・フォンダ主演『十二人の怒れる男』(シドニー・ルメット監督作品, 1957 年) などの名作があり,アメリカ人の Justice に対する情熱と行動力を表現する映画の伝統をなしていると思う。裁判というものにおいて陪審員たちは黒を白に,白を黒にすることをいかようにでもできる,という前提がまず興味を掻き立てる。ジーン・ハックマンとダスティン・ホフマンとの法廷対決が古い映画ファンには堪らない魅力である。日本でも陪審員制度が導入される。日本人はアメリカのこの映画で描かれるような真摯な態度で陪審員制度に立ち向かうことができるのだろうか。

* * *

日曜日の未明,サッカー・ワールド杯最終予選の日本戦がスタート。わくわくしながら夜更かしして観た。とにかく日本がアウェーで勝利して幸先よい出だしといえそうである。でも,勝利に貢献したのは中村俊選手や遠藤選手といったベテランであって,若い選手にまったくよいところがないのは見ていて痛々しいくらいである。やっぱりオーストラリアとカタールに抜けられてしまう危機感がいや増しに募ってしまった。

「海外組」なしでも,個々人がへたくその印象の強かったとはいえ,素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたオシム監督とは異なり,岡田監督のチームは中村俊選手や松井選手などのタレント頼みではないだろうか。ネットでも結構叩かれているようである。オリンピック代表もそうだけど,いまの日本 A 代表は「海外組」に代表されるタレントがいないととたんにつまらない試合をしてしまうのが哀れである。オシムさんのチームはへたくそだったけど,試合を重ねる毎に成長しているなあと実感させてくれた。岡田さんになってまた一からやり直しの印象が強いだけでなく,この「成長」の感じがまったく見られなくなったのが残念である。

予選突破はもしかすると可能かも知れないが,南アフリカで恥ずかしい試合をするのは確実のように思われる。ならば,予選落ちしてもよいのできちんとした — 要するに,好不調による場当たり的なメンバー選出ではなく,ポリシーをもったチーム作りをして — 人材育成の姿を見せてくれたほうが,私としては納得できるんである。

福田首相辞任

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帰宅したら,ちょうど福田首相の辞任会見の模様が緊急報道されていた。観ていたテレビドラマがいきなり中断され,子供たちは大ブーイング。

「なんで辞めちゃうの? あの安倍さんと同じくらいみっともない。どうせなら解散総選挙をやって正々堂々と民主党に引導を渡してくれたほうがよい — つまり,民主党政権でもやっぱりだめかということがはっきりするから。民主党政権でも政策はあいも変わらずマヒ状態,その責任のなすり付け合いで民主党は内部分裂,新党ブームを引き起こした挙句に崩壊...,というストーリーが目に見えるようである」というのがまず正直な私の感想だった。でも福田さんは,原油高で経済的にもいよいよ米国の道ずれにされそうなこの国の大事に対し,民主党がまったく協力姿勢を見せず,潔癖ぶりを発揮して国政の足を引っ張るばかりなのに疲れ果て,一方,自民党不利の明らかな解散総選挙にも踏み切れず,結局辞任の話題性によって流れを変えるしか手がなかったようである。辞任会見は偽善民主党をわが首をもって駁すというふうに聞こえたけれども,これは党内でも信用を失った結果,国民よりも政府自民党延命優先のために暗に強いられた辞任だと思われる。安倍さんのまったく固まって尻込みしてしまったかのような放擲辞任会見に比べると,福田さんの言っていることはまだしも理解できた。

次は麻生さん。彼は,真面目だけれど退屈だった福田さんと違い,ちょっと小泉さん的なカリスマキャラクターをもっている。そんなのでよい方向にゆくものだろうか。小泉さん以後,日本の政治家はその政策論よりも,クリーンなイメージや面白キャラでばかり評価されているようで,どうかなと思う。麻生さん,「美しい日本」ならぬ「すごい日本」の幻想的キャッチフレーズで,またぞろ小泉さんみたいな劇場政治・衆愚の旗振りなんかしないでほしい。私には小渕首相がなつかしい。ま,どうでもいいけど。

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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