2008年11月Archives

11 月もおしまい

今年も残すところひと月になってしまった。

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インド・ムンバイでの同時多発テロが大々的に報道されている (Yahoo! ニュース)。日本人の被害者も出て,日本政府としても対応を迫られそうである。インドは中立国という位置づけらしいけど,米国・英国とも比較的良好な関係を維持し,IT 産業を中心として国力を著しく発達させている。その一方で,パキスタン,アフガニスタンと接している地政学上,テロの危険性も高い国である。中国との伝統的な領土紛争もまたいつ蒸返されるかわからない。政府が比較的冷静なのは,悠久の歴史をもつ国の余裕なのか。日本との関係も深い友好国なので,うまい解決を果たしてもらいたいと思う。

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超勤上限,月60時間に=国家公務員,実態踏まえ指針見直し−人事院』とのニュース。

一般の人達は国家公務員というと,お役人コンプレックスからか,ことあるごとに「税金泥棒」みたいに思いたがり,公務員の不正のニュースに大喜びしているのではないだろうか。私は仕事で国家上級公務員とかかわることが多かったので自身肌で感じていることとして,彼らは本当によく働く。仕事の質において絶対に妥協しない。メーカー・業者に対して非常に厳しいけれども,それは血税を使って仕事をしているということを強く意識しているがゆえである。私の知る国家公務員は皆そうであった (地方公務員はどうか知らない)。

だから私はこのニュースをごく当然のことと受けとめることができる。なにも知らないひとは,残業しないで効率よく仕事をすることを考えて欲しい,なんて言う。そんなの,知能労働・人間交渉を巡る労働というものの難しさを知らない者の言い草である。犯人の潜伏先の情報を受け,それがガセで無駄になるやも知れないと思いつつも夜中に現場に向かう警察官を捕まえて,そんなことが言えるかというのだ。ことの本質は警察官の特殊な任務に限らないのである。

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来年入学して来る小学校6年生相手にオリエンテーションのようなイベントが明日あると,娘が言う。寸劇のようなこともするらしい。そこで娘は進行役のような役回りで「それじゃあ,タイムスリップ!」などという台詞で臭い演技をしなければならないという。「普通にそのときを再現してみます,ってやればよいのに,なんでそんな小学生にもバカにされるような演技をしなくちゃならないの? それが嫌で嫌で嫌で嫌でたまらない」。

「じゃあこうしたら?」と提案する:「『タイムスリップ!』というときは,ビートたけしが『タイムショック!トラベルチャンス!』とやるときみたいに,上からボールを投げる仕草をする。『タイムゴーバック!』のときは,今度は下から片手をすくい上げるようにして中指だけを立ててみせる」。

そんなことやったら先生怒りまくるかも... でも,やれやれ!— 親がこんなんでどうするの?

元東大生逮捕・溢れる大学院生

Yahoo! ニュースで『元東大生が文科省幹部の殺害予告「教科書と違う...だまされた」』なる記事を見た。「理想を持って勉強してきたが,教科書の内容と違う現実があることを知り,文科省にだまされたと感じた」などと供述しているという。人生をなにかしら思い通りにしてくれる教科書があるとでも思っていたのだろうか。どうも言いわけじみていて嘘くさい。曲がりなりにも東大を卒業した優秀な人材がこうした愚かな逆ギレじみた行為で牢屋送りになったという事件。本当につまらない。

この事件の背景には,東大を出れば将来が約束されるという学歴社会が崩れつつあるという時流があるのかも知れない。しばしば批判される過当な受験競争の弊害はあるにせよ,どこの馬の骨でも東大を卒業すればひとかどの人物として世に受入れられ,世のため人のために活躍できるという構造は悪いものではない。学歴社会には,西欧の階級社会にない開かれた長所があるのだ。かつての東大生は卒業すればエリート官僚・企業人となって日本を担うのだという気概に充ちていた。彼らは頭もよいし,他者のために身を粉にして仕事をしたはずである (ならば,ちょっとした鼻持ちならないエリート意識なんて大目に見てもよかろう)。どうも最近,新自由主義の実力社会という,聞こえはよいが実は金だけの世の中になってしまい,勝ち組・負け組などという分類が流行である。高学歴エリートの存在感が薄い時代になってしまった (そうするとそのうち,勉強しても世に認められない風潮がまかり通って,基礎学力の鍛錬すらしなくなってしまうのが世の趨勢となって来るのではないか?)。

日曜日の夜に放映されている NHK テレビ番組『カンゴロンゴ』で,つい先日,ワーキングプアがテーマに取上げられていて,興味深かった。大学博士課程を終えた秀才が正教員になれないうちに大学をリストラされ,学術的情熱を持ちつつ行先を失って,アルバイトで糊口を凌ぐだけの希望のない生活を余儀なくされている — そういう姿が,ワーキングプアの典型というものだった。20 年前には 5 万人程度だった大学院生がいまや 20 〜 30 万人もいるのだそうである。大学に長く居すぎた秀才は世の中に相手にされないということか? 確かに企業は 20 代前半の新卒就活生には門戸を開いているが,30 を越えた学者崩れを正規に雇用するというのはあまり聞かない。こういう話を聞くと,世の中には優秀なのにその力を発揮できず,一過性の一時凌ぎの労働でその才能を十分に活かせない人達がゴマンといると思わずにはおれない。

文科省は 10 数年前から知的国力を高める目的で,優秀な人材を大学院で鍛える大学院重点化政策を展開して来た。私の亡くなった恩師は「どうもこれからは学部生は相手にせず,大学院生だけをきちんとした指導の対象とすべきとでも言いたいらしい」というようなことを面白からず口にしていた。学生の質が低下し,大学が知の先端ではなくなり,企業も大学の研究成果をそれほど当てにしなくなっていて — ビジネス・ニーズに敏感な企業研究者のほうがシビアに成果を問われるだけ大学研究者よりよっぽど「実益にかなった」優秀な研究をしている以上 —,大学教育とはいったいなんなのかという文科省の危機感がここにはあったと思う。しかしその政策のため,大学院生が世に溢れ,企業はこれを採用せず,これゆえ才能ある若者たちがワーキングプアと化している。もったいないことである。逮捕された元東大生もそのあたりに不満があったのではないか。

安倍首相はこの問題に対し「再挑戦できる社会を」と叫んでいたけれども,「格差はどこにでもある」という別の発言からワーキングプアは畢竟「自己責任」との考え方もほの見えて,どうも他人ごとだったようである。高等教育を受けた者の人的流通を活性化させる政策がなにか具体的な形で打ち出されただろうか。若い人達が才能を持て余して社会に貢献できない,というのは犯罪者が刑期を終えて出所したあとの就労が難しいというのとは大違いなのである。「再挑戦」どころかはじめから世の中に受入れる枠組みがないのではないか。政府自民党の皆さん,頭のいいヤツがぐれるとコワイぞ。

私は優秀な若者があたら才能を眠らせつつ巷を浮遊している状況は,当人にとってだけでなく国の将来にとっても,極めて憂うべきことだと思う。私は大学院修士課程を修了した段階で,さっさと自分の学問に見切りを付け,食うために就職した。20 年前でもすでに — というか伝統的に — 文学修士という学歴は実益優先社会への入り口では障碍にしかならなかった。それでも物好きなメーカーが拾ってくれたわけである。私は運がよかった。研究者を諦めたことが禍根を残さないわけではないが,しがないコンピュータ屋になっていまではよかったと思っている。本当に学問がやりたければリタイアしてからでもよい。それが人生というものだろう。そういうこともあり,上記のような話を耳にするにつけ,我がことのように若者が不憫になる。

『カンゴロンゴ』でよいお言葉があった。曰く,人間至る所青山あり。曰く,君子は豹変す。

ロンドン在住のロシアの作曲家ドミトリ・スミルノフからメールが来た。久しぶりとの挨拶とともに,彼の作品:"Op.140 DREAM JOURNEY (夢は枯野を Yume wa kareno wo - ГРЁЗЫ СКИТАНИЙ) 17 Haiku by Matsuo Basho for soprano, flute, clarinet, violin, cello and piano" の初演コンサートの案内があった。この作品は松尾芭蕉の十七の俳句をもとに,もともとソプラノとピアノのために作られたものである。その後,ソプラノ,フルート,クラリネット,ヴァイオリン,チェロとピアノのために再編成され,今回この室内楽版で初演されるとのこと。

来年 2009 年 2 月 6 日金曜日,ロンドンの王立音楽院 (ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック)・デュークス・ホール,午后 6 時開演だそうである。作品はスミルノフによる露訳・英訳テクストでも演奏可能になっているが,今回は芭蕉オリジナル日本語テクストで演奏されるようである。演奏は,Erika Colon (soprano), Tzu Kao (flute), Lucy Downer (clarinet), Lisa Ueda (violin), Jessica Hayes (cello), Alissa Firsova (piano)。最後のアリッサ・フィルソヴァはロンドン王立音楽院に在籍しつつプロ・デビューを果たした新進ピアニストであり,スミルノフの令嬢である。彼のウェブにもその案内が掲載されている。

この作品はスミルノフが五年前に作曲したものである。2002 年にたまたま私が彼にファン・レターを書いたところ,それをきっかけに芭蕉についてのメールの往復がはじまり,その過程で,本作品の日本語部分のチェックなど私もささやかな協力をしたのである。そのお礼に彼の作品の CD や,この Dream Journey のスコアをいただいた。私にとっても思い出深い作品である。 その経緯からか,初演の案内を私に知らせてくれた彼の心遣いもまたとても嬉しかった。私もこの初演コンサートに行きたい。しかし私には仕事もあるし,ロンドンは遠い (先立つものもない...)。このコンサートの録音が手に入ればよいのだが。

否定表現について

「忙しない」,「如才のない」,「ぞっとしないね」などという言葉を耳にすると,言葉というのは面白いと思う。いずれも「忙しい」,「如才のある」,「ぞっとした」という意味であって,まさに否定表現が肯定的意味を強めていると思われる。また,お笑いでも,聞かれてもいないのに相方が「君の財布をポケットに入れたなんて言ってません」というようなセリフを唐突に繰り出して,財布を自分の懐に隠したことを逆に露にしてしまい笑いをとるようなボケがある。否定することで却って主体の向かう焦点を指し示す例であろう。

アレクサンドル・プーシキンの物語詩『盗賊の兄弟』の冒頭に次のような詩行がある。プーシキンも,否定表現によって対象がまさに否定されているものと同等であることを強調する特殊な比喩手法・パラレリズムに長けていた。

 腐れ行く亡骸の山に,
集まって来たのは,からすのむれではない。
夜,ヴォルガの岸の焚火のまわりに,
向こう見ずどもの徒党が集まったのだ。
川端香男里訳,プーシキン全集 巻二,河出書房新社,昭和 56 年版,p. 341。

堀切実はその『表現としての俳諧』(岩波現代文庫 G79,2002 年) で与謝蕪村の否定表現を論じ,まさに否定表現のもたらす主体的詩法を明らかにしている。

... 「否定」とは,本来,表現の世界にのみあり得るもので,決して対象の世界そのものにあるわけのものではない。言いかえれば,「否定」は結局,それを表現する主体の判断にかかわるものであり,対象の側に肯定的事実とか否定的事実とかいうものがあるわけではない。極端な場合,目前に青い山をみても,「青くない」と表現することさえ可能である。従って,否定表現において重要なのは,そうした主体側のエネルギーそのものなのである。否定のエネルギーの集積が,詩心をも尖鋭化してゆくのである。
堀切実,前掲書 p. 267。

芭蕉・蕪村の一級の読み手による鋭い指摘である。
 

misima 注意事項

旧仮名遣い・旧字変換支援ソフトウェア misima はたくさんの人にご利用いただいている。ありがたいことである。私自身の課題解決のために作ったソフトウェアが他の人の役にも立っていると思うと,甲斐があったというべきである。

しかしながら,デバッグ目的でごくたまにログの入力内容の変換試験を行って気づくことだが,旧仮名遣い・旧字体で入力される例が結構ある。旧仮名遣い・旧字体で入力するのが困難であるという事情からこのソフトウェアを開発したのに,これはいったいどういうことだろうか? はじめから旧仮名遣い・旧字体で書くことの出来る人なら,misima は必要ないはずである。

こうした旧仮名遣い・旧字体による入力テキストを調べてみると,それが不完全な「旧仮名遣い・旧字体」であることがわかる。例えば「ありがとうと云い,戰いをなすであらう」のような文に類するものである。これは旧仮名遣い・旧字体テキストとしては「ありがたうと云ひ,戰ひをなすであらう」が正しいと思われる。ところが「あらう」だけが「あろう」の旧仮名遣いになっていてあとは現代仮名遣いであり,また「戰」が旧字体になっている。

この中途半端な旧仮名遣い・旧字体テキストを misima に処理させるとどうなるか。「ありがたうと云ひ,戰ゐをなすであらふ」—「戰ひ」となるべきが「戰ゐ」に,「あらう」と入力したのに「あらふ」に誤変換されてしまっている (もともと「戰居を茄で洗う」のつもりだとすればこれでよい...)。これは misima が日本語解析に使用している日本語形態素解析ソフトウェア茶筌が現代仮名遣い,当用漢字テキストで最適化されているにもかかわらず,中途半端な旧仮名遣い・旧字体テキストで語の区切り,語の解釈を誤ってしまったためである。misima のデバッグ機能で確認するとわかるが,「戰い」は「戰」と「い」(「いる」の連用形) に,「あらう」は「洗う」に解釈されている。こうしてもともと正しかった旧仮名遣いテキストをも改悪してしまうわけである。

ユーザはなぜ中途半端な旧仮名遣い・旧字体テキストを入力するのか? 私にはよくわからない。敢えてその真意を忖度すると,「不完全かも知れないテキストを misima によって正しい旧仮名遣い・旧字体にしたい」ということなのだろう。しかし misima は現代仮名遣い・新字の旧仮名遣い・旧字へのテキスト変換機能は備えているが,「半完成の旧仮名遣い・旧字体テキストを訂正する」ことができるなどとはひとことも主張していない。

旧仮名遣い・旧字体で書きたいと思うのは結構であるが,中途半端なことはしないほうがよい。そういう方は辞書をこまめに引いて正しい歴史的仮名遣い,旧字体を特定したうえで書くべきである。misima のようなツールで変換しなおかつ結果が正しいかを見直さないなどという態度では,上記のような誤変換で恥を晒すだけである。それは『misima について』にも,misima 仕様書にも,変換フォーム特記事項にも,口酸っぱく書いたことである。私のツールを愛用してくれるのはありがたいけれども,これを使って誤った日本語テキストを公開して当該ユーザが密かに笑い者になるような結果になるのは,作者として憂うべきことである。私はある程度旧仮名遣い入力を判断できるように misima システムを可能な限り調整してはいる。そうはいっても,文脈の判断をアルゴリズムに組込むことは現実的に不可能である。ドキュメントに記載した注意事項をよく理解いただきたいと思う。

misima は「日常的に旧仮名遣い・旧字体で書きたいけれどもよくわからない」と思うひとのためのお勉強ツールではない。逆に,現代仮名遣い・当用漢字で普段は書いているが,論文等で古い文書を引用しなければならない人,なおかつ歴史的仮名遣い・字体変更をきちんと理解していて自動変換の結果を見直すことのできる人。そういうひと人がラクをするためのツールである。学術的な課題をもつ者こそが misima のターゲットユーザである。そんな利用者がいるのだろうか,と不審に思う方は misima を使うべきではない。いるのである。それは国文学の研究者や俳句・短歌の伝統文芸家など,特殊な課題をもつ少数派である。だから私のささやかなサイトのなかで misima がダントツのアクセスを誇る理由が私にはまったく理解できないのである。

misima ユーザの大半は,残念ながら,どうも私の想定するターゲットユーザから外れる「日常的に旧仮名遣い・旧字体で書きたい」人のようである。そうすると misima 注意事項は,misima を使うな,である。そういう人は,自分できちんと辞書を引いて書くべきである。でないと,ツールの自動変換に足を掬われて恥を晒すことになる。

休日 — CD,本の買い物

今日三連休の二日目,妻と川崎駅周辺で買い物をした。私は久しぶりに CD を 2 セット (4 枚),本を 4 冊とまとめ買いした。

CD は高橋悠治,三善晃の現代もの。高橋悠治の CD (fontec FOCD9387/8) は『「糸の歯車」箏とオーケストラのための 』(1990),『「慈善病院の白い病室で私が」 ヴァージョン A & C』(1989),『「七つのバラがやぶにさく」独奏ヴァイオリンのために』(1979),他。数住岸子のヴァイオリンがいつもながらシャープで攻撃的でほれぼれしてしまった。三善晃の CD『三善晃の世界』(ビクター NCS 587/8) はこれまで LP で聴いていた録音が CD になったもの。ピアノ協奏曲 (1962),ヴァイオリン協奏曲 (1965),弦楽四重奏曲第二番 (1967),ヴァイオリン・ソナタ (1955),他。弦楽四重奏は日本人によるものとしては密度の高い,破局の予感に充ちた一品である。巌本真理弦楽四重奏団の研ぎすまされた集中力が光る演奏である。

買った本はすべて文庫本。ここのところハマっている阿刀田高の『新約聖書を知っていますか』,『ギリシア神話を知っていますか』,佐藤優のロシア論『自壊する帝国』,宮部みゆきの『火車』。読んで面白かったらまた改めて。

百貨店の最上階で安ステーキを食い,ビールを飲んだ。

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阿刀田高の『コーランを知っていますか』を知っていますか?

イスラムは最近,イスラム原理主義と結びついたテロリズムのイメージばかりが先行していて,「アッラーフ・アクバル (アッラーは偉大なり)」というと,いままさにこれから自爆テロで殉教しようとする悲壮なイスラム教信者を連想してしまう。でもこれは先入観というものである。日本人と聞いてチョンマゲ,もしくはカミカゼ,ハラキリ以外に何の連想も起こさない外国人とほとんど変わりがない。それに捕われてしまうのも,イスラム教,その文化に対してあまりにも理解が足りないことがその原因だと思う。

本書はその謙虚さ,未知の文化に対する開かれた感受性において類い稀なコーラン入門書である。私は阿刀田高をはじめて読んだのだが,びっくりしてしまった。日本人としての立脚点もしっかりもっている。

旧約聖書がユダヤ王国の建国史,新約聖書がイエス・キリストの伝記であるとすれば,コーランは親父の説教のようだ (p. 35),という素描や,「つまりユダヤとイスラムの争いってのは,正妻と妾腹の子の対立から始まっているのか」(p. 122) といった解釈など,半畳を交えたくだけた解説は楽しい。それでなおかつ対象に対する礼儀を欠いていない。

これでイスラムが理解できたか? 私にはますます謎めいたものとなった。

本書はイスラム教についてなんらかの理解を得たいと思うひとの必読書だと思う。私は本書によって阿刀田高の異文化に対する切り口に感銘を覚え,『旧約聖書を知っていますか』も続けて読んだ。まだまだ彼のエッセイがある。これから楽しみである。

改行,行末

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改行,行末とある。あなたはなにを連想しますか?

最近のひと:かいぎょうコードがぎょうまつにあるのはあたりまえ。
昔のひと :おこないをあらためれば,ゆくすえはやすし。

私も近頃は「行末」を無意識に「ぎょうまつ」と読んでしまう。「我が行末はどうなつてしまふのであらう」— 「改行コードがあると思ふよ ...」? なわけねーだろ。「ゆくすゑ」だとわかって愕然とすることがある。

アナログ・プレーヤ用カートリッジのシェルを交換した。ネットで Technics 製 SL-1200 用の漆黒のシェルを手に入れた。屋根裏部屋で愛用しているレコード・プレーヤ (Technics が 1977 年に販売したクォーツ・ロック式ダイレクト・ドライブ・プレーヤ SL-01) では付属品のシェルを使用していた。キズが目立っていたので替えることにしたのである。私は決してオーディオ・マニアというわけではないけれども,好きな音楽をよりよく楽しみたいとの思いは人並みにある。

アナログ・プレーヤの調整は面倒である。そこが趣味の趣味たる所以である。デンオンのカートリッジ (DL-103R) を取り付け,オーバーハングを Technics SL-01 指定の 52mm に調整する。オーバーハングとはシェルの根元から針先までの長さであり,レコードの盤面の中心に針が位置づけられるようにするための設定である。次に,ピックアップをプレーヤのアームに固定して,針圧,アンチスケーティング,アーム高を調節する。アンチスケーティングというのはアームがターンテーブルの内側に向かって力が働いてしまうのを打ち消すための圧力調整である。このようにアナログ・プレーヤは CD とは違って,音源ピックアップ部の機械動作が原始的なだけに,レコード音溝をトレースするのに適したバランス確保のための様々な工夫がなされている。

アナログ・レコードの音質は透明感においてデジタル CD には適わない。あのプツプツいうスクラッチノイズも不可避的なものである。それでも私は 30cm の黒い円盤がゆっくりと廻っているのを眺めながら,ピアノや室内楽のアナログ・レコードを聴くのが好きである。古い録音のジャズやビートルズ,ボブ・ディランなど,CD で聴くと端正すぎて音作りの古色ばかりが再現されてしまうけれども,LP だと一種独特の開放感と野性味が私にはありありと感じられる。思い過ごしだろうか。

中学生のころからロックやクラシックの LP を少しずつ (大人買いということをしたことがない) 買い集めて,やっと 400 枚くらいである。CD の時代になり,社会人になって懐銭が増したことも手伝って,あまり吟味せず買い求めて来たおかげで CD の数は LP の 2 倍くらい蓄積されたけれども,いまだにアナログ・レコードに愛着がある。一枚一枚に青春の感傷がこびり付いているのである。

昔なにかの映画で,若かりし桃井かおりがアパートの狭い部屋で悲しみを抑えつつ,ポータブル・プレーヤでモーツァルトの交響曲のレコードを掛けるシーンを観た。また,映画『ツィゴイネルワイゼン』では,妖艶・大谷直子がサラサーテの盤を蓄音機に掛けて,藤田敏八をもてなす場面があった。いずれも,その回転する円盤がなにかを象徴するようなロマンを放っていてよかったのである。

Technics DD Record Player SL-01

ボーリング大会

今日は会社の本部ボーリング大会だった。墨田区東向島のボーリング場。田町の顧客と長い打ち合わせがさらに長引いたため遅刻。私は 2 ゲーム目から参加となった。

何年ぶりかのボーリング。「りっつこさん!」(古っ!) と言いながらプレイしたのでありました。100 行く自信もおぼつかない低レベルの腕前。今回も 100 ちょうどのスコアであった。60 人の大会でトップはなんと 194 点。そのあとみんなで飲み会。

酔っぱらって寒風にさらされ,東向島から川崎の自宅まで帰るのが億劫であった。

危機言語 TeX サンプル

稲垣さんがサイト『日本語LaTeXによる多言語処理』で世界の危機言語 TeX 出力例を精力的に公開なさっている。いままさに進行中の試みのようで,数日おきに更新されている。その一覧を見ると圧倒される。言語学者である友人が研究しているユカギール語についても,コリマ・ユカギール,ツンドラ・ユカギールともにサンプル・テキストが掲げられていて,もう片っ端から挑戦しているという意気込みが伺える。

危機言語そのものに関心をもつひと,LaTeX の多言語組版の可能性について触れてみたいひとには必見のサイトである。

misima 辞書訂正

misima の旧仮名遣い辞書のエントリで間違いを見つけたので訂正した。

「たじろぐ」は歴史的仮名遣いでも「たじろぐ」だと思っていた。府川充男・小池和夫『旧字旧かな入門』(柏書房, 2001) でも「たじろぐ」となっていたので misima もこれに従っていた。しかし今般『改訂新潮国語辞典 — 現代語・古語 —』(1980年改訂第7刷) で確かめると,「たぢろぐ」としるされていて,さらに「歴史的かなづかいで『たじろぐ』とするは非」とまで解説が付されていた。おそらく「たじろぐ」という表記は戦前でも広く行われていた誤りなのだと思う。たしかに『言海』では「たじろく」(「し」は「志」の変体仮名) という見出しで出ていた。今回 misima では「たぢろぐ」を採用することにした。

あと「じっと」という副詞が「ぢっと」と誤変換されてしまうのを訂正した。misima の辞書を作成する際,茶筌辞書で「じ」「ず」を含む語をすべてチェックしたつもりなんだけど。なんで漏れていたのか。

misima は旧仮名遣い変換において原則的に「じ」・「ず」を「ぢ」・「づ」に変換する。「じ」「ず」としなければならない語は辞書に登録しておく必要がある。「たじろぐ」はエントリの削除,「じっと」はエントリの追加で対処したわけである。

Amazon から CD が届いた。リヒャルト・シュトラウス,クロード・ドビュッシー,アルノルト・シェーンベルクの歌曲集。J. カウフマンのソプラノ,I. ゲージのピアノによる演奏。

シェーンベルクの収録作品は初期の歌曲『架空庭園の書』作品 15。彼は詩人シュテファン・ゲオルゲを美の盟主のように崇めていたようで,ゲオルゲ詩に基づいていくつも歌曲を作っている。この作品も耽美的・夢幻的な抒情でたまらない一曲である。シェーンベルクの頽廃趣味の作品群のなかでも私の好きな曲のひとつである。

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リビングにあるオーディオの掃除をした。もう何年も使っている古い機種 — ヤマハ製のプリ・パワーアンプとスピーカ,テクニクス製のアナログプレーヤ,デンオン製 CD プレーヤ — なので,きちんと手入れをしないといけない (とかなんとか言いながら年 1 回しかやらない)。それが終わって,ショスタコーヴィチのピアノ五重奏の LP — ボロディン四重奏団とリュボーフィ・エドリーナの演奏による,もうとんと聴いていないメロディアの廉価盤を掛けてみた。盤面が汚れまくっていたためかラジオのような鳴り方で酷い。洗浄液 (レイカ製) を振りかけ,クリーニングクロスでごしごし盤面の汚れを落としたら,新品かと思うくらいに復活した。アナログ・レコードの手入れはたいへんである。

このレコードはゆったりとしたテンポで悠々とした運びが特徴だと思う。第五楽章終曲の軽やかな出だしのピアノが好きである。アンナ・アフマートワの有名な肖像画がジャケットに採用されている。

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子供たちが本を読まないと妻はしばしばこぼす。私もことあるごとに映像よりも音楽よりも書物が人間の思想の記録として尊いと諭す。でもだめである。テニス,バレーボールか JPOP に夢中である。本よりテレビドラマ,お笑い番組のほうが面白いらしい。まあそんなものか。

ところで小学生,中学生のころの自分はどうだったか? 私もたしかに野球やサッカーに夢中だったわけで,勉強はいわんや,読書も,とてもほめられたほど勤しんだという記憶がない。とはいえ,我が子を見ているとそのころの私の程度すら読むという行為をしない。

小学生のころは二反長半の書いたジュブナイル。日本神話,ギリシア神話ばかりを繰り返し繰り返し読んでいた気がする。中学生の私は星新一ひと筋であったように思う。その一方で,中学一年の担任であった国語の K 先生 — 文学青年であった — がやたらと志賀直哉の凄さについて語るので,私も『和解』を読んでみた。まったくもってつまらないと思った。学校の先生が勧める本は面白くない,という思い込みがこれでできてしまった。

私の子供たちも同じ思いを抱いているのかも知れない。人生において自分のつまらなさに謙虚に気づいたとき子供たちも自分で選んだ本を読みはじめるだろうといまはそっとしておくことにする。

志賀直哉について,その後私は長ずるに及んで『城の崎にて』などを読み,私のなかでこの大作家が名誉回復したことはいうまでもない。

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K 先生は私のよい思い出のなかにある。文学への私の関心もこの先生のおかげだといってよい。けれども,その志賀直哉崇拝以外にも私には素直に受入れられなかったことがある。それは文学作品名の表記のことである。

夏目漱石に『こころ』という小説がある。K 先生 — 私の担任だったほう。『こころ』にも「K」や「先生」が出て来るのでややこしい — はこの作品名を『心』と書いてはいけないと教えた。同様に谷崎潤一郎の『細雪』は『ささめゆき』としてはいけない,文学作品名はひとの名前と同じでその表記以外でしるしてはいけない,試験の回答でもこの「正しい」表記で書かないとバツである,という。しかし私はその後,漱石に関する本のなかで,『こころ』の原稿印影に『心』と表題がしるされてあるのを見つけ,K 先生 — 私の担任だったほう — の教えの杓子定規に「こころ」の底から嫌悪を抱いた。漱石そのひとが『心』て書いとったのに『こころ』やないとあかんやてうそっぱちやんけ。岩波漱石全集第九巻 (1994 年刊) でも『心』となっているようである。

文学作品名の表記についてはおそらくいまも K 先生と同じように教える先生が多いと思う。それでよいと思う。教育とはそういうものである。人間を標準型に仕立て上げるのは大事なことである。そうはいっても,それが絶対であるかのように思い込むのもおかしいとどこかで反抗してしまう部分が私にはある。森鷗外の小説に『文づかひ』がある。でもこれを『文づかい』と表記したってよいわけである。ドストエフスキイは『カラマーゾフ兄弟』を書いた。ところがこの作品の本当の名は «Братья Карамазовы» (ブラーチヤ・カラマーゾヴィ) なんだけど,誰も『カラマーゾフ兄弟』という表題を間違いだなんて言わない。あんまり学者ぶるのはやめたほうがよいのだ。

業務用語集

会社のかつての上司が「机のなかから出て来た」と言ってさる顧客が作った業務用語集をメールで送ってくれた。紙の資料をスキャンして PDF にしたファイルであった。多くのサブシステムからなる大規模システム開発では,プロジェクト要員の間で用語の意味を限定するために用語集を作ることがよくある。でもこれは用語集といっても,このお客さんが酔狂で作った「業務冗語集」である。もう十年以上前のものである。

「EWS」の項をみると — EWS (Engineering Work Station):XXX業務端末として使われている EWS4800 (注:日本電気製 UNIX ワークステーション)。また麻雀ゲーム機。このため,EWS は "East, West and South" の略との説もある。その名のとおり北家がなく,コンピュータが東家,南家,西家の役をすべて独りでこなしてくれる。

また「C」の項では — C 言語 (C language):「C」をするときに用いる言語 (注:初心者向け解説書として『はじめての C』が出版されている。これはそのエッチな表題のため本棚に並べられないと批評されている)。キスの際に用いる B 言語 (Body language) を改良して完成したもの。C++ (C plus-plus language) は子供まで生成できる C 言語のスーパーセットである。

このようなコンピュータ用語,業務用語を捩った項目が9頁にわたってしるされていた。これ以外の傑作用語をここにあげられないのが残念である。この「用語集」を読みながら PC に向かってクスクス笑っていた私はたしかに仕事をさぼっていたことになるんだけど。仕事の合間にこのようなジョークを作ってこっそりプロジェクト担当者を笑わせてくれるひともいたのである。システム開発の修羅場に現場のジョーク集。「一将功成りて万骨枯る」のみにあらず。「印刷不可」と言い添えて,親展属性メールで子分にも転送してやった。

世界の将軍たちがその世界戦略についてインタビューを受けた。各国の将軍はそれぞれ次のように語ったという。

●アメリカ:疲れたし,大いに嫌われたんで,そろそろまた独りにしてくれ。イラク君・アフガニスタン君との喧嘩が一段落したら一生懸命働く。

●イギリス:私は紳士である。喧嘩は嫌いだ。ロシア君,アメリカ君,イラン君の内緒話を盗み聞きして,もうけを先取りするさ。それが楽でいい。

●ドイツ:アメリカ君がテロ戦争で疲れ切っているどさくさまぎれにヨーロッパは俺たちでいただくさ,な,フランス君。(と言ってビール杯を掲げる)

●フランス:(ワイン・グラスをドイツ君のビール杯にぶつけて)ルネッサーンス!

●スペイン:我らが国王に「黙れ!」と世界を一喝していただく。

●ロシア:アメリカ君と仲の悪いやつらを丸め込んで,エネルギーを横取りする。そうすればこっちのもの。地球温暖化? そうなればロシアが暖かくなって大いに結構。ポーランド,ウクライナ,グルジアの裏切り者ども,アメリカ君が身をひいたら踏みつぶしてやるから覚えとけ,それと日本君,いいかげん ...(一杯気分なのか,まだまだ景気よくしゃべり続ける...)

●イラン:アッラーフ・アクバル。全能の神の意思により我らは勝利を得る。

●イラク:アッラーフ・アクバル。全能の神の意思により我らは勝利を得る。

●シリア:アッラーフ・アクバル。全能の神の意思により我らは勝利を得る。

●イスラエル:もっともっとイスラムどもを虐めてくれるようアメリカ君を唆す。

●インド:掛算の99・99ができるインドはいずれ知能で世界を征服できる。

●中国:そろそろ資金もできたし,めんどくさいけどアメリカ君からアジアを譲ってもらう。そしたら小賢しい小日本と台湾野郎をおとなしくさせてやる。

●北朝鮮:核兵器があるので世界は我らのいうことを聴くはずである。さしあたりテポドンの核弾頭が勝手に爆発しないよう注意する。

●韓国:独島を名実共に韓国領にする。日本列島ももともと韓国の領土だった。だって孔子も韓国がルーツだったのだから。え? 世界戦略? 韓国はもう世界を支配している。

●日本:靖國神社に参拝する。僕は悪くなかった。みんなと同じようにやっただけ。日本は美しい。え? そんなこと聞いてないって? 世界戦略? あ,アメリカ君にお任せする。

航空幕僚長の論文問題 (その2)

田母神氏の論文『日本は侵略国家であったのか』をめぐって,サラリーマンとして実はどうでもよい問題について好き勝手なひとりごとを書いてしまった。私は自身の仕事をどうすべきかに勤しむがよい。しかしその後,この問題についてネットの情報を閲覧したりして,私が選挙で投票したわけでもない田母神氏という軍人の政治的論文とその影響について思えば思うほど,不愉快になってくるのだった。子供が大人になる数年後すらとても心配になってくるのである。それで,サラリーマンとして実はどうでもよい問題についてさらに好き勝手なひとりごとを書いてしまい,あんまり長くなったものだから,記事を分けることにした。

* * *

「先の十五年戦争は侵略戦争などではなく八紘一宇の正義の戦争だった。これが歴史的誤謬であったなどとするのは自虐にほかならず,戦争に命を捧げた兵士に対して失礼極まる。いまの日本は平和憲法ゆえに軍事的脅威に目をつぶっている」などという主張を政治家が宣うのを見ても,私はなんとも思わない。「世界は日本を中心に回っているわけでないのに頭悪っ!」というほかは。別によいではないか。それが国民に支持されるかどうかである。

ところが今回,現にいま自衛隊を指揮すべき立場にある者がこんなセンチメンタルな「歴史問題」にかかずらっていままさに目の前にある己の職務 — 遵法精神に基づく国際軍事戦略の追究 — から逸脱した発言を行い,己の飼い主 (選挙で選ばれた防衛大臣) に噛み付くような真似をして,なおかつ「憂国の士」を気取っている。私はこれを目の当たりにして,幕僚長がこんな身の程知らずで暢気なんじゃ米国に見放されたら日本の安全保障も確かに終わりだワナと愕然としたのである。つまり,またぞろ二・二六事件を主導したような頭の悪い (戦術というものを考えないという意味で) 政治的軍人に国を仕切られ,同じ轍を歩むのかと想像すると身の毛がよだつ。私はよっぽどこのことで憂国の情にかられる。

* * *

しかし,最近の若い日本人は — ネットでの発言を見るにつけ —,中国や北朝鮮に対するマスコミのプロパガンダに踊らされ,それで煽られた反感から逆ギレ的に,そうしたアジアの国々に進出した先の大戦に対して肯定的な見方をするひとが多いように思う。その現われとして,この論文問題についても田母神氏に同情的であることがあげられる (例えば『Yahoo! 意識調査 — 航空幕僚長の論文発表は問題あり?』を参照)。

小泉さんの靖國問題で火が点いて以来,米国の飼い犬だった安倍元首相が「美しい日本」などと堂々と宣言してくれたおかげで,レベルの低い「強がり」・「逆ギレ」ナショナリズムが浸透してしまったように私は思う。「美しい日本」構想のなかで,安倍さんは「隣国である中国,韓国,北朝鮮,ロシアに,日本として言うべきことはきちんと言う」などと宣言し,あたかも主体性を尊ぶかのような「強い」日本のイメージを掻き立てた。ところがいまひとつの「隣国」であるはずの米国は「言いたいことを言う」リストに入っていないのはなぜ? 米国には無条件に従います?

米国は最近の日本のこうした愚かな「対外的 — ただし米国除く — 強がり」ナショナリズムを大歓迎している。靖國参拝問題は東京裁判の歴史的評価と直接結びつき,米国をも苛立たせずにはおかないにもかかわらず,これで騒いでいる国は中国と韓国・北朝鮮だけで,米国は沈黙を守っている。そのほうが米国の国益に適うからである。なぜなら中東で絶体絶命にあるいま,米国は日本国民のナショナリズムを焚き付け,自主防衛意識を高め,防衛力を強化させ,「六カ国協議主催者中国さん,よろしく!」とばかりにアジアの安全保障から身を引きたいからである。北朝鮮に対して譲歩路線を敷くのもその現われだと思う。核兵器さえ放棄してくれれば,拉致問題など米国の国益にとってはどうでもよい。それで日本人が怒りに駆られて,軍備増強のため米国から高価な兵器を買ってくれるならなおのことありがたい。

安倍元首相の哀れなのは,そういう米国の意図にまんまと乗せられながら,中国・ロシア・北朝鮮に対する主体性を唆して強がる — また,マスコミを使って反中・反露・反韓を煽る — 一方で,日米同盟万歳を叫び,米国にとって疎ましい,未練がましい元カノの役回りを演じ続けたところである。だから訪米時にブッシュから冷たくあしらわれ,米国下院からは従軍慰安婦対日非難決議で — 首相ともあろう者自らが,「記録がない」などと当事者の記憶をまったく無視した,常識的に受入れられない底の浅い舌足らずな反論をしたものだから,第三者をも敵に回し — からかわれ,ついに放心状態でリセット辞任の醜態を晒す結果となってしまったのである。

日本人は安倍晋三化していないか? 自分のことを美しいと慎みもなく公言する (日本人は慎み深いと言っているだけなおさら笑ってしまう),他人の苦痛に対する想像力の欠如した,周りをよく観察しない強がり。なのにつれなくする強者にしがみつき,進んで隷属しようとしている。「日本人」たる前に「人間」としていかがなものか。私はよっぽどこのことで憂国の情にかられる。

映画『冒険者たち』

青春のレザヴァンチュリエール。ロベール・アンリコ監督,アラン・ドロン,リノ・ヴァンチュラ,ジョアンナ・シムカス主演,1967 年フランス映画の名作。このたびツタヤのレンタル DVD で久しぶりに観た。

あの八分の六拍子の軽快なピアノのテーマ曲が不穏な 1960 年代の若者の,軽やかにして暗い情熱を表現している。二十年遅れで映画館で観たこの私にも,いまやこのうえなく懐かしい。このテーマは大貫妙子の曲『アヴァンチュリエール』(アルバム『Aventure』所収) のイントロでも引用されている (大貫妙子の曲では地中海ギリシアのサントリンが歌われているけれども,そのこころは同じである)。

大西洋の自由な紺碧の空。西仏ラ・ロシェール,海に囲まれた白壁のフォル・ボワイヤール (ボワイヤール要塞)。夢の挫折。世間体に捕われることのない自由への憧れ。ローランがレティシアの屑鉄モビールを前に「なにを表すのか?」と問う。レティシアは「わかるのは自由人だけ」と応える。おそらく自分でもわからずに。そう,かつての若者はこうした「自由人」に憧れたのではなかったか。いったい,いま,誰がこういう青春のテーマを描いてくれるのか?

アヴァンチュール
大貫妙子
BMGメディアジャパン (1999-06-23)

皇居周辺のお散歩

今日から竹橋,北の丸公園にある科学技術館で特許フェア。午前中その対応をやって,事務所に戻る途中,国立近代美術館を過ぎたあたりで,ふらふらと誘惑に駆られて皇居の堀沿いを散歩することに。あまり天気はよくなかったが,地下鉄なら三,四十分,歩いても五,六十分,まあちょっとくらい時間をつぶしてもバチは当たらないと思いたち,赤坂一丁目を目指してゴー。首都圏に出て来て二十年,携帯デジカメでパチパチやりながらの,久々のお上りさん気分であった。

平日のお午前,皇居に沿った内堀通りは車の流れこそ忙しないのであるが,人通りは意外に少ない。ときおりジョギングをするひととすれ違う程度である。思えば,東京に出て来て皇居を眺めながらその周りを歩くのははじめてかも知れない。半蔵門の英国大使館付近をぶらついたことがあるが,皇居を感じながらというわけではなかった。入社当時事務所が九段坂上にあったころは千鳥ヶ淵によく足を運んだものだが,これも同様に皇居を意識することはなかった。会社の目の前にあった靖國神社については,花見の場所取りの思い出ばかりである。

平川門 (下写真左) を過ぎ,気象庁を左に見てさらにゆく。大手門 (下写真右)。白鳥が数羽,遊弋していた。これは桜田門外の変以降,彦根と水戸の百年越しの和解の印であるという。門のあたりにはぱらぱらと外国人観光客がいた。

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少しゆくと桔梗門。ここから皇居と反対側に目をやるとちょうど東京駅中央口が見えた (下の左側写真,並木の果てがそれ。小さくてよくわかりませんが)。大手門と対面になっているとの思い込みは勘違いだったのだと納得。灰色の空が垂れ込めていて景気はよろしくない。

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桔梗門から皇居前広場へと続く。あれが二重橋だよ,おっかさん。皇居正門。下の写真ではなにがなんだかさっぱりわかりませんが。ひたすらだだっ広い外苑。ここは映画『動乱』(1981 年) で高倉健扮する二・二六事件の主犯格の青年将校が跪きながら「陛下,皇軍を動かします!」と厳粛に決意を表明したところ。健さんかっこよかったなー (おいおい)。ここは昭和天皇崩御に先立つ日々,記帳の行列で溢れかえったところ。自粛ブーム。正月明けの金曜朝の崩御のニュース。たった七日しかなかった昭和六十四年。まだ寝床にあった部屋ではプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ・ニ長調が鳴っていた。小渕さんの「平成」の額ブチ。いろいろ思い出される。ゆく手に東京タワーが見える。

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桜田門を眺めながら,晴海通り,日比谷通り,内堀通りが合流する交差点を右に折れる。桜田門というと警視庁。永田町といえば政治家,霞ヶ関といえば官僚を示すように地名が組織の象徴になっている界隈に入る。そういえばこの左手・大手町はというとわが国の古い超一流企業郡の象徴である。桜田門は,大老ともあろう政府の要人が過激浪士たちに暗殺された事件・桜田門外の変 (1860 年) でも有名だ。テロに脆弱だったことを示す歴史的逸話と結びつく場所にいま,警察の親分がでんと構えているのはなんとも皮肉である。

ところで横道にそれるが,井伊直弼を手打ちにした水戸浪士たちの幾人かは切腹した。ところでもっと横道にそれるが,泰葉が別れた三遊亭小朝を罵って「あんたなんか切腹しろ,そしたらあたしが介抱してあげる」などとメールしたという。そんな犬も食わないゴシップ記事を今日,美容院の『女性セブン』で読んだと妻が教えてくれた。「これ,『介抱』じゃなくて『介錯』だよね」と妻は大笑いしていた。泰葉がXXなのか,『女性セブン』記者がXXXなのかわかりませんが。

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警視庁舎を過ぎると国会議事堂。六本木通りに折れ,国交省,外務省,金融庁,霞ヶ関ビルなどのいつもの見慣れた風景が現われる。溜池交差点に着いた。

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今回,皇居を半周くらいして思ったのは,やはり日本のエンペラーの居住地だということ。広大な土地に広壮な宮殿を構えた海外の王侯貴族と比べると,皇室の住居は目立ったモニュメンタルな建築物をもたないとの印象が私には強く,このことが日本は地味な,貧乏な国たる本質を表しているのだと思っていたのだった。しかし今回,この狭苦しい東京のど真ん中に堀を巡らした静かな鎮守森のような佇まいに改めて感銘を受けた。どうも権力の強大さや富ではない,別のなにかを見る者に植え付けるというところに。聞くところによると,江戸城の天守閣は十七世紀半ばに江戸の大火で消失して以来,再建されていない。この国の最高権力者たちはなんと慎み深かったのかと感心してしまうではないか。通りに沿って歩きながら,頭を右に巡らせれば皇居の森,左に巡らせれば官庁舎・大企業高層ビルからなる大都会。こんな白日夢のような世界は東京のここでないと味わえない。そこが東京の魔都たるところか。

だいたい一時間に及んだ,仕事の合間の感傷散歩。六,七キロ歩いただろうか。最近運動不足で家族からメタボ・オヤジと責められつつある今日この頃,休みの日にでも,旧吉原や湯島,本郷,小石川など東京の古い町並みを眺めながらウォーキングもよいかもと思ってしまった。このあと飯を食って一時的に帰社し,午后は顧客打合せのため鎌倉に向かった。散歩のコースを Google マップで作ってみた。


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航空幕僚長の論文問題

防衛省制服組のトップである航空幕僚長・田母神俊雄氏が「わが国の侵略国家は濡れ衣」という主旨の論文を個人的に発表して,更迭された。どうして「個人的な」意見を発表してその責めを負わなければならないのか。別によいではないか。この論文問題をめぐって「列強による帝国主義的侵略の弱肉強食の時代に日本の行った行為が悪だったか,そうでなかったか」という古典的な議論が白熱しているようである。私にはどちらでも,どうでもよい。田母神氏の信念がどのようなものであれ,個人的なことである。彼は「憂国の士」なんだと思う。問題はもっと別のところにあると私は思う。

私も田母神氏の論文『日本は侵略国家であったのか』を読んでみた。「俺たちは共産主義による謀略に陥れられたんだ」という負け犬の遠吠え,昔から言われていることの繰り返し,というのが私の正直な感想である (タイトルの「〜であったのか」から想像される結論「〜でない」からして,なにか建設的論証があるとは思われませんでしたが)。これは「論文」などと銘打っているが,自ら一次資料を収集しこれを批判し自分が立てた説を論証するという姿勢がまったくなく,渡部昇一や櫻井よしこなどの,とても「文献」なり「研究」なり「学術論文」とは呼べないただの煽動本の,しかも単なる受け売りでしかなかった。それなら渡部昇一と櫻井よしこを支持するとだけコメントしてくれればよいのだ。なのにどの『文藝春秋』を開いても出て来そうな古くさいセンチメンタルなナショナリズムを,航空幕僚長という肩書きを付して,堂々たる論文として提示してくれるわけである。だから本論文はとても「真実」などではなく,ただの「右よりの主観的主張」としてしか受け取られない。「論文」としてはただのXXである (ひとのこと言えんの?)。だからといって,更迭されるのは田母神氏には可哀相である。論文という「公的な形式」で「個人的な愚痴」を世に問うたという二枚舌が,世のXXXとなることはあっても。いや,税金で得た肩書きで,XXでしかないこの「論文」を飾り立てたことが,それで懸賞金まで受け取ったことがまずかったのか?

この論文の問題は,しかしながら,このように論文の態をなしていないということにあるのではない。田母神氏は防衛省制服組のトップの立場にある。このような,「あの戦争は侵略だったかどうか」という国家の政策の動機的問題について自己正当化する職務にはない。なのにそれをやっている。自分の仲間内だけで信念としてしゃべっておればよかったのに。ここに本論文の危険性がある。これが私の嫌悪感の源である。軍服を着るトップならば戦術を研究すべきであって,政治的判断をなすべきではない。ガチンコでは負けることがわかっていた米国に対し日本軍はどういう戦術で臨むべきであったのか,究極には,どうすれば戦わずして勝てたのか,そういう戦術について冷静に論ずべき立場に彼はある。あなたは政治家ではない,軍人なのである。国家が正しいかどうかを公的に主張する立場にない。国家の命ずるミッションを受けて「うまく戦って勝つ」ことが職務である。

「どうしてあいつも,こいつもやっていたことを俺がやって悪いんだ? 同じようにやらないと俺もやられていたかも知れないんだ! 最初は仲良くやろうとしてたんだよ! それでヤツが得したところもあるんだよ! なのになんで俺だけが責められるんだよ!」というのが田母神論文の骨子である。こういう認識が危険だと思われるのは,不良少年集団に属する者の,暴力行為に対する哀れな自己正当化衝動に近いからである。「赤信号みんなで渡れば怖くない」日本人丸出し。なのにどうやら彼だけが信号無視で捕まったらしい。「やってるのは俺だけじゃないんだよ,俺だけ捕まるなんて不公平だよ」という者に誰が同情するものか。私の思いは「そんなことは知ってるよ! あんたから聞きたいのは手を出した理由なんかじゃない,どうすれば周りから非難されずに喧嘩に勝てたのか,その反省を教えてくれよ! それがあんたの仕事でしょ!」ということである。

試合に負けたサッカー選手がインタビューで「負けたけど僕は気合いが入っていた,そこを評価してほしい」というような愚にもつかない自己正当化をしてくれることがある。田母神論文はこの哀れなサッカー選手の言い草とまったく同じではなかろうか。サッカーファンは「あのコーナーキックのときにディフェンダー皆がA選手に陽動されたために結果的にB選手にしてやられた。個人のそれぞれのマークの再徹底が修正点だ」というようなコメントを彼に期待しているのに。あんたの気合いなんてどうでもよいから,次は勝てるんだということを示してくれよ。

田母神氏は書いている:「諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない」(本論 8 頁目)。憲法の規定に基づく世論を「マインドコントロール」などと軽々しく扱う態度。「政治家」として眺めてみても,どうやら田母神氏はなにもわかっていないようである。

軍人が職務を逸脱し了見の低い政治的発言を行っているということがこの論文問題の核心である。法規に由来する考えを「マインドコントロール」などとしたり顔して言う,ルールを軽んずる政治的軍人 — それは五・一五事件,二・二六事件,宮城事件を主導した精神論だけの軍人とまったく同じ精神構造である。戦前なら軍法会議で裁かれた口である。更迭は不当だけど,軍法会議よりはましか。ルールが間違っているから正すのは軍人の勤めではない。ルールに従う政治家の命令で戦うのが軍人である。おそらく,それを理解しないこういう「政治的な」軍人が多かったから,兵力を税金と同じように扱い,自力を過信し精神論(これこそ「マインドコントロール」)で戦いに挑み,結局日本は先の大戦で負けたのだ。

兵家なのだから,クラウゼヴィッツ,孫子の現代版を目指してくれよ! 自衛官なのだから,状況にブツクサ文句ばかり垂れないで,憲法の規定に則っていかに安全保障を実現するのか,平和憲法を戴くからこその国際軍事戦略を真剣に考えてくれよ! そしてその理論のフィージビリティを論文として問うてくれよ! 私は自衛隊を否定しないし,国防問題を真面目に議論すべきだと思う。憲法第九条を尊重しつつこの難しい問題に取り組むことこそ,防衛省の真に尊敬に値する役割があると思う。しかし,この論文を読んで,いまこの現代にあっても日本国の軍人の体質はなにも変っていないということがわかり,歴史は韻を踏むことがあるという危機感が否が応にも高まったのである。

* * *

上を認めて一日経って,もうひとつ別の可能性が頭に浮かんだ。つまり,彼は政治的「軍人」なのですらなく,ただのタカ派高級「官僚」でしかないのかも知れないということ。政治的発言は誰にも思いつきでできるが,戦術を考究するのはそうではない。将官ならば戦術を考えるはずであるが,官僚となると机で書類を書いているのが仕事である。銃はなおのこと,鉛筆より重いものを持たず机に座ってばかりなのに「突撃セヨ」などと唆すタカ派官僚なんて噴飯モノではないか? これは最悪の可能性だ。とはいえ平和な日本である。ありそうなことである。政治的了見は子供じみて,軍人としての技術は怪しい,それで税金で食っているとしたら「官僚」以外のなにものでもないだろう。

田母神氏は見たところ気骨のありそうな厳しい風貌をしていらっしゃる。自衛官なら,この日本の平和を維持するための戦術をぜひ考えていただきたいと思う。自己正当化なんてしないで。

マリヤ・ユージナのバッハ

『羊たちの沈黙』でレクター博士がバッハに酔いしれているさまを読んで,大いなる共感とともにバッハのレコードを掛ける。ロシアの女流ピアニスト・マリヤ・ユージナ Мария Юдина (1899--1970) の弾くゴールドベルク変奏曲。バッハはなんといってもグレン・グールドだと思っている若いひとには,ぜひこれも聴いてみてほしい。独ソ戦争・大粛正時代を生き抜いた力強いバッハがここにある。

マリヤ・ユージナはショスタコーヴィチ,プロコフィエフ,ストラヴィンスキイといった当代の作曲家のほか,マンデリシュターム,パステルナークなどの文学者・詩人とも深い関わりをもっていた。彼女はソヴィエトでは禁止されていた西側の現代音楽,ウェーベルンやベルク,バルトーク,クルシェネク,ヒンデミット,ストラヴィンスキイ,メシアンのピアノ曲を演奏した。ユージナは演奏会でアンコールに応えて — 当時ソヴィエト体制に禁じられていた — パステルナークの詩を朗読したために,演奏活動を五年間禁止された。パステルナークは彼女の自宅ではじめて『ドクトル・ジバゴ』の朗読をしたとされている。

ソヴィエトでは自殺行為に等しいこうした行動とは裏腹に,彼女の演奏はスターリンの気に入るところだったようである。それゆえに生き延びることができたともいえる。ユージナ独奏によるモーツァルト・ピアノ協奏曲第 23 番 K. 488 の演奏をラジオで聴いたスターリンがライブ演奏とは知らずにそのレコードを所望したところ,慌てた側近はその夜ユージナ,指揮者とオーケストラ楽団員を緊急召集し,夜半に録音を行い,ただ 1 枚だけのレコードを製作して,翌朝この独裁者の別荘に届けたというエピソードが伝えられている (このレコードの原盤は幸い現存し,その CD が入手可能のようである。また Maria Yudina - Official Website で聴くことができる)。

ことほどさようにマリヤ・ユージナには伝説が絶えない。ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』やナジェージダ・マンデリシュターム (詩人の夫人)『回想録』には,彼女の数々の武勇伝というか,奇行がしるされている。

バッハはベートーヴェン,シューベルトとともにユージナのもっとも得意とする作曲家であった。その演奏スタイルは「あらゆるものをシューベルト風に弾く」とも評されているけれども,バッハ演奏に見られるポリフォニックな構造感覚はグールドに勝るとも劣らないと私は思う。これが女流かと思わせる腕っ節の勁さ。この女傑ピアニストによるゴールドベルク変奏曲を聴くと,芸術にも,知性にも,男女の区別はないということがひしひしとわかる。

20世紀の偉大なるピアニストたち~マリア・ユージナ
マリヤ・ユージナ (Pf)
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント (1999-03-17)

トマス・ハリス『羊たちの沈黙』

最近やたらと忙しい。週の堆積した疲れのため今日は昼過ぎまで寝ていた。トーストとコーヒーで食事を済ませ,屋根裏部屋で煙草を吸った。ジェット機,横須賀線列車の通過する遥かな低い唸り声,近所のひとの自転車のブレーキの軋みに混じって,どこからかクラリネットの音階練習が聞こえる。トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』を読む。

この作品はジョディ・フォスター,アンソニー・ホプキンス主演の映画で知るひとのほうが多いと思う。私もまず映画から入った。「それできみのなかで羊たちの声は鳴きやんだのかね」と皮肉に,しかし真摯に問うレクター博士と,FBI 訓練生クラリス・スターリングとの対話にこそ見所のある,素晴らしい映画だった。『シックスセンス』とならんでここ十数年間の私の選ぶベスト映画のひとつである。

小説は,映画では省かれている登場人物のエピソードを描いている。植物人間となってしまった妻の横たわるベッドのそばで,クローフォドは本を読んでいる。いったいどんな本を読んでいるのか。私もなにかを分ち合いたいと,それがなにか興味を覚える。しかし,人知れぬ彼の苦しみと同様,それはわからない。小説のあとの記述から察するに,シェークスピアと同時代の英国詩人ジョン・ダンかも知れない。レクター博士はクローフォドへの手紙のなかでジョン・ダンの詩『熱病』の一節を引用している。

どんな火がこの世界を焼き払うか
論争を続ける諸学派は
次の事について考えるだけの知恵がない
彼女のこの熱がその火ではあるまいか,と
ジョン・ダン『熱病』〜トマス・ハリス『羊たちの沈黙』新潮文庫版 p.67

このように,ひとにはそれぞれ密かな終末論がある。そのもとになる苦悩がある。それは誰にも理解されない。「論争を続ける諸学派」にもそれを慮る知恵はない。しかし詩人が小さな現実を手に取って代弁してくれることがある。レクター博士の風格とは,思うに,そういう人生の認識に支えられているのである。

主人公クラリスは己の不幸な育ち・田舎風情,周囲の男たちから受ける淫微な視線・抑圧を克服したいと考えている。幼少期のトラウマを背負っているようにも思われる。そのような女性像は珍しくない。「羊たちの声」とは,そういう誰にも語れない生の密かな苦しみ,言葉に表せない社会的・ジェンダー的苦悩のことだろう。この作品はある意味で女性の受ける淫微な抑圧からの解放の物語だと思う。「それできみのなかで羊たちの声は鳴きやんだのかね」— しかしおそらくそれは消えることはないのだろう。

映画『羊たちの沈黙』は大ヒットした。日本にも犯罪プロファイリングをモチーフとする亜流がいくつも現われた。米倉涼子主演『交渉人』(テレビ朝日, 2008 年),浅野温子主演『沙粧妙子 — 最後の事件』(フジテレビ, 1995 年),「キターっ」・小泉今日子主演『踊る大捜査線 THE MOVIE』(フジテレビ, 1998 年) などはそのようなものである。これらのドラマは,豪華キャストでもありなかなか面白かったけれども,知的殺人者の性格においてその嗜好の異常性・猟奇性と知的エリート性ばかりが強調され,レクター博士の紳士としての彫の深さ,クラリスの女性性の業への真摯さがまったく,まるで認められなかった。その点で『羊たちの沈黙』の浅はかな贋造品であることを露にしてしまっていた。
 

羊たちの沈黙
トマス・ハリス
菊池光訳
新潮社
羊たちの沈黙
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2008-09-26)

ジョン・ダンの詩集もあげておきたい。以下は私の愛読する版であり,『羊たちの沈黙』のなかで引用されている詩『熱病』を収録している。この英国のバロック風詩人は私にとって最高の詩人のひとりなんである。英国人がジェントルマンの老獪な気取りを身につける前の,血腥い人間味を横溢させた詩人である。シェークスピアも孤立した天才ではなかったのである。
 

エレジー,唄とソネット (古典文庫 36)

ジョン・ダン
川村錠一郎訳
現代思潮新社

沖縄戦集団自決訴訟

二審も『軍の深い関与』認める=大江さん著書の名誉棄損否定−沖縄戦集団自決訴訟」というニュースを読んだ。作家・大江健三郎氏と岩波書店が『沖縄ノート』の記述をめぐって名誉毀損で訴えられていた裁判で,原告側の控訴が棄却されたそうである。日本軍が沖縄の住民に集団自決を命じたとする『沖縄ノート』の記述は虚偽であるとして,元日本軍将校らが訴えていたものである。

私が不審に思うのは,1970 年に出版された書物についてなぜいまになって「この本は虚偽」だと主張しはじめたのか,ということ。もちろんその背景には『沖縄ノート』で非人間的に描かれた者たちとそのご遺族の意向があるだろう。しかしこの裁判に私は,「美しい日本」を標榜した宰相に見たのと同様の欺瞞を嗅ぎ取ってしまう。あの戦争の否定的側面を戦後 60 年の時間のなかに雲散霧消させてしまおうとする,ご遺族の雪辱などよりもっと大きな政治的意図を認めるのである。

いまや太平洋戦争の記憶も風化しつつあり,当時を知る者が亡くなりつつある。争点となる事実も証明されえない状況下での「あれは虚偽である」との主張。もし出版された 1970 年当時なら戦後 25 年しか経過しておらず,沖縄戦の記憶も生々しく,複数人の証言によるクロス検証ができる可能性も高かったはずである。都合の悪いことは時が解決してくれるということか。巧妙としか言いようがない。原告が負けたのは「虚偽」がもはや証明されえないからであって,非常に後味が悪い。もはや「虚偽」かどうかは証明できないが,それゆえにこそ逆に「真実」だったという主張をも貶めることができるのである。ニュースも「直接の自決命令の有無は『証拠上断定できない』とした」と報じている。軍は民間人に対し「直接命令」する権限などなかったのだから「自決命令」なんて断定できるほうがおかしいし,命令でない「強制」の有無となると文書が残っているはずもない。記憶こそがよりどころなのだ。死人に口なし。何者かが原告の元日本軍将校に入れ知恵したのではないかとの疑いを私は禁じ得ない。

こうして過去の残虐行為 (軍人が敵兵ではなく民間人に対して振るう暴力のことを私は言っているのだが) はうやむやになってゆくのか。「集団自決は軍による強制」との記述が教科書検定で削除されたのに対し,沖縄県民が抗議の怒りにうち震えたのも肯ける。沖縄県民にとってはまさに「ふざけんじゃねえ!」である。

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