2009年9月アーカイブ

学園祭

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息子の通う高校の学園祭に,妻と二人して行って来た。JR 横須賀線・西大井駅から歩いて 10 分くらいのところ。高校生活最後の学園祭である。クラス毎に各々独自にデザインしたポロシャツを着た生徒たちが,模擬店やクラスの催しに勤しんでいた。オカマバーなんかもあり,面妖な格好をした生徒たちがうろついていた。模擬店でフランクフルトと焼きそばを買い食いし,講堂でチアガールたちのダンスを観た。昨年観た男子生徒による凄いテクノダンスは,今年はなかった。

息子のクラスは音声ホラー館を開いていた。真っ暗の教室の席でヘッドホンを付け,生徒が制作したホラー「トイレの花子さん」を聞く。時おり女生徒が椅子を揺らしたり,肩を掴んだりして怖がらせるのである。トイレの花子さんの声が息子のものだったので大笑い。

昨夜深酒をしたせいか,腹の調子が悪くひぢひぢしていた。私もトイレの花子さん状態であった。

西大井駅付近を少しぶらついて帰宅した。このあたりは細い路が錯綜する住宅街だが,町工場や昔ながらの商店街があってなかなか風情のある町である。

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鳩山さん外交デビュー

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鳩山新首相が国連総会で演説するとともに,特筆すべきことに,オバマやメドヴェージェフなど大国首脳との会談を就任早々果たした。その内実の議論はさておき,この早々の首脳会談の実現は,なによりも各国の新政権への関心ぶりを示している。これに比べると小泉,安倍,福田,麻生の歴代自民党首相は国際社会からほとんど無視されて来たも同然だったのである。小泉さんなんて米国人からはプレスリーを踊った人としかみられていないのではなかろうか。安倍さんなどは,対米従属根性のシッポをあれだけ振っていたのに,米国人には従軍慰安婦問題の国家的責任を否定した「二枚舌セクハラ・ジャパニーズの代表」の印象しかないのではなかろうか。すべて鳩山さん登場のためのお膳立てということか。

私は小沢さんが秘書逮捕事件の直前にぶった日本独自防衛論などを聞いて,民主党幹部があまりに国際情勢を甘く見ているのではないかと思った。鳩山首相も反米とも受け取られかねない「多極化指向」の論説を自身の Web で公開しており,米国の一部マスコミにはかつてない警戒心を巻き起こしているようである(そんな例がこれまでの日本の首相でありえただろうか?)。しかし,本当に「反米」なら自滅路線を行くのは間違いなく,今回の首脳会談では,新首相はあくまで日米同盟を維持・発展することを表明しており,より現実的であったわけである。マスコミ報道は核心の議論をしなかったと斜に見る意見が多かったが,米国からイヤミを言われなかったこと自体が極めて重要な顔合わせだったことを示している。「反米」ではなく,鳩山さんの言うとおり,冷戦終了後の「多極化」情勢を冷静に受けとめて,米国と距離を置いて仲良く付き合って行く,というのが正解かも知れない。そして米国もいまのところそれを理解したふりをしてくれているようである。いまや米国より中国の振る舞いのほうが日本にとって影響が大きいのである。米国も日本よりも中国との関係のほうが大事なのである。こうした事情を踏まえると,米国べったりで共倒れするより,中国と政治的・経済的に戦いつつ協調して行くほうが私としては納得できる。米国もこういうところを敏感に察知して,鳩山さんとなら対米従属の元カノ安倍さんよりはまともに話をする気になっているのかも知れない。飼い犬ならエサを与えて「お手」と命令するだけかも知れないが,相手が人間なら話をし,また聞き手にも回るわけである。

国連演説,会談の報道を見る限り,海外には好意的に受け取られたようである。温室効果ガス削減目標について,国連総会で公約する必要があるのか少し疑問であったが,核兵器削減の先頭に立つとの意思表示ともども,世界の日本への評価が相当アップしたのは疑いがない。できるかどうかいかに疑問符が湧いて出ようが「約束」という形で意思を明言することが,どれだけ自国民の緊張感を掻き立てただろうか。結構感動するものがあった。私のような普通のサラリーマンでも,あそこまで明言されるとやらなくちゃと思うものである。「ただのカッコつけ」という人もいるかと思うが,日本の政治家が世界に向けてここまではっきり主張するのをこれまで見たことがあるだろうか。私は民主党の体質にも政策にも支持できないものを感じているけれども,国際社会において日本が「経済」ではなく「政治」で何かを印象づけたとはじめて感じたのである。日本が経済力,マンガやアニメ以外で一目置かれるなんて「事件」である。

「美しい国」などと言い,米国を除く周辺国に言いたいことを主張すると公言したが,実質は米国にとって鬱陶しい元カノ役でしかなかった安倍さん,米国の関心を買いたいために中国,ロシア,韓国,北朝鮮の(要するにアジアの列強の)悪口ばかりを国民に吹き込んでいた自民党政権と比べると,日本は外交において本当に独り立ちをはじめたのだとの印象を受けたのである。少なくとも,そのように世界に向けて宣言してしまった。この点がかつての村山非自民政権との大きな違いでもある。もちろん,民主党政権ははじまったばかりであり,これから吹き出す問題をどう乗り越えて行くかが勝負である。

民主党は大勝したけど,国民はただ自民党政権にイヤ気がさしたというのが大勢であろう。マニフェストにはあまり関心がないようである。にもかかわらず民主党はマニフェスト実現をことあるごとに繰り返している。前途多難である。でも成果をあせらず,党として主張する政策をまずは実行してみてほしいと思う。選挙で選ばれたんだから。政権交代をしたのだから浮かばれる者,あおりを食う者が出るのは当たり前である。山ツ場ダム問題とかかしましいけれども,優先順位を国民にきちんと説明して判断すればよいのではないだろうか。

sator arepo tenet opera rotas

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"sator arepo tenet opera rotas" というラテン語の格言がある。いくつかの古代遺跡の壁面に刻印されているそうである。「種蒔く人は収穫を保有し収穫は種蒔く人を保有す」という意味である。これだけだとなんということもなさそうに思われるが,次のようにしるすとその驚くべき姿が見えて来る。

S A T O R
A R E P O
T E N E T
O P E R A
R O T A S

左上から右横,下方へ読んでも,右下から左横,上方へ読んでも(つまり逆から読んでも),さらに,左上から縦下に,右方へ読んでも,右下から縦上に,左方へ読んでも,同じ。しかも真ん中の TENET は上下・左右で回文をなし,十字架を形成する。

これは「魔法陣」と呼ばれるものである。クロード・ロスタンによれば,その起源,言語学的・宗教的意義について,学者の意見が一致していないという。それにしても,精巧にして不思議。くらくらして来る。

作曲家アントン・ウェーベルンはこの魔法陣に霊感を得て,12 音列を展開した曲を書いた。九つの独奏楽器のための協奏曲作品 24(1934 年)。音による点描のような断片的な無調音楽に聞こえるが,現代音楽好きは簡素な美しさに魅せられる。その枯淡の音像のなかにじつはこの魔法陣のような精巧な規則性があると思うと,くらくらして来る。

「種蒔く人は収穫を保有し収穫は種蒔く人を保有す」— 私はこの格言を,クロード・ロスタンによるウェーベルンの作品論(クロード・ロスタン『ウェーベルン』店村新次訳, 音楽之友社, 1975 年)によって知った。ウェーベルンの短く緻密な音楽様式を象徴するに相応しい言ではないだろうか。しかし,上記のごとき魔法陣の神秘性を取り除いても,含蓄あることばである。私は仕事の上での座右の銘にしている。仕事とその成果との循環性を鼓舞しないと,日常性に耐えきれなくなってしまうのである。私はまた,この格言で弊 Web サイト・トップページを飾らせてもらっている。
 

Complete Webern [Box Set]

P. Boulez (Dir)
Berliner Philharmoniker
Ensemble InterContemporain
Emerson String Quartet, et al.
Deutsche Grammophon (2000-05-09)

H2B の成功

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9 月 11 日に宇宙航空研究開発機構(JAXA)が H2B ロケット打ち上げに成功し,さらに 18 日には「宇宙ステーション補給機(HTV)」1 号機の国際宇宙ステーションとのドッキングにも成功した。H2A の失敗から 15 年,JAXA は失敗を素晴らしい成功に転じた。このニュースは衆議院選挙の影に隠れて日本ではあまり騒がれなかったが,海外メディアも注目したという。私にはなにがどのようにスゴイのか皆目わからないのだが,宇宙ステーションへの物資運搬技術としてこれは画期的なことらしい(50 年ほども前に有人宇宙飛行を果たしたロシア,40 年も昔に月面に人類を送り込んだ米国の成果と比べ,H2B のなにが優れているのか,私には正直,さっぱりわからない)。個人的には,その少し前に,韓国がロシアと共同して計画したロケット打ち上げに失敗していたからなおさら,このニュースによって日本のロケット技術の優れた精度が印象づけられたように思う。

ロケットといえば,今年 4 月に北朝鮮が敢行したミサイル発射がすぐ思い浮かぶ。宇宙開発としてのロケットと兵器としてのミサイルは,技術的には同じというではないか。このとき北朝鮮はこれが「人工衛星」だと主張していた。つまり公式的には,今回の日本のロケット打ち上げと目的も見た目も変わらないわけである。とはいえ,北朝鮮の公式発表を額面どおり受入れた日本人は稀だろう。

面白いことに,北朝鮮は今回の日本のロケット打ち上げを「『宇宙空間での軍事的優位で軍事大国化を実現しようとする日本の犯罪的策動』と非難した」(「日本のロケット発射を非難=北朝鮮」)そうである。パンピー日本人である私には,H2B がいかなる傍系的意義においても「軍事目的」を有するとはとても思われないのだが,北朝鮮にはこのように見えてしまうらしい。じつは私は,北朝鮮のロケット打ち上げ, H2B 打ち上げともども,北朝鮮の見方が正しいのか私の印象が正しいのか確信をもって判断できない。ただ,日本のロケット技術が無視しえない「軍事的脅威」として周辺国の眼に映じていることは確かなようである。

何が言いたいのかって? こんなに平和な日本が軍事的脅威であるということ。平和目的の技術革新が周辺国を震え上がらせているとしたら,皮肉ではあるが,憲法に則った安全保障手段としてこれ以上のものはないではないか。勘繰り深い北朝鮮は日本がイスラエルのような隠れた核兵器保有国だとさえ思っているかも知れない。パンピーの私には実際のところはわかりませんけど。

蓮實重彦『反=日本語論』

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蓮實重彦著『反=日本語論』(ちくま学芸文庫, 2009 年, 1977 年初版)を読んだ。もって廻ったような文体に少々辟易しながらも,読み進むにつれ,制約から自由たろうとするこの著者の思考に惹き付けられて行った。

主旨は次のようなものと読めた。「言語の一般性」と「文法の規則性」という普遍への指向をもつ言語概念は,フランス古典主義の反映に過ぎず,じつは極めて特殊な,つまり歴史的なものである。西欧の言語学の基盤には音声中心主義があり,文字表記はそれを写す二義的位置しか占めていない。日本語は漢字・仮名という文字を持ち,文字による言語認識ともいえる実効性を有し,必ずしも西欧的言語概念で仕切れない場合がある。しかし一方で,こうした「音声」,「文字」,「意味」,「表記」が正書法,文法などの原理によって「制度化」されてあるということ。そこには,近代の言語の暴力性(方言に対する隠然とした揶揄,間違った綴りへの嘲笑と社会的・階級的優越感,占領国による言語の強制)が漲っているという観察。言語学という「学」もその「制度性」から自由ではないという指摘。制度としての言語に囚われた言語学,言語論者への批判。そういう「制度」に囚われない言語生活の諸表情への愛情。こうした言説を,己の見聞と,もっぱら身近な家族の言語生活とに対する観察から著者は導き出す。

「言語という制度」。なのに,日本語論者もまたそれを自覚することなく,西欧的観念に支配された言語アプローチに囚われてしまっている,と著者は批判する。「反=日本語論」の「反」はそこに由来する。「フランス語は明晰である」とか「日本語は美しい」とか「最近の日本語は乱れていて正すべきである」とか,そういう評価は「制度化」されたフィクションに幻惑されたものでしかないと言うのである。言語について語る場合には,それを自覚しそこから解放されそれを克服した地点に立たないと,目の前の言語の — 制度化されていない — 豊かなあり方,本質には至らないはずだと著者は言うのである。私にとって極めて示唆的であった。「示唆」しかされなかったのが不満ではあるが(鋭い批判分析をなす一方,どうあるべきかのポジティブな理論が帰納されない点が — 極めて困難な仕事であるのは認めますが — 本書に対する私の不満である。それが目的ではないと言われればそれまでであるが。「それは『正しく美しい日本語』といった抽象的虚構を追い求める従来の『日本語論』に対して,根源的な異議申し立てを行うこと」(カバー)と要約している本書の編集者は優秀である。「異議申し立て」が本書のエッセンスなのだから)。

水村美苗『日本語が亡びるとき』を読み,そのとき「日本語を保守する国民的努力がなければ日本語が亡びる」との水村の主張に感じた「胡散臭さ」のよって来る源を,私は蓮實に説明してもらえたように思う。萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』のような「歴史的仮名遣い」原理主義者に認められる「表記」の絶対化を「制度としての言語」に無自覚な独善として私は理解した。そういう眼で見ると,萩野のマナー — 敗戦によって文化的に押し付けを受けたという一種独特の被害者意識と,そこから来る攻撃的性格(他者攻撃しないではおれない,敗者に特有の性質)と,自己の主張を学問的装いでもって正当化したがる衒学的身振り(「論理的・合理的」言語への執着)— がいよいよ無惨である。水村や萩野など示威的に「国語を愛する」者たちに対する私の違和感は,言語の制度=虚構を他人に押し付ける者たちの「帝国主義的言語観」の横暴ゆえなのだと。

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ところで,私は蓮實重彦の学者随筆風評論の「文体」が嫌いである。なにより,凝りに凝ったあの長大な書き出し。外国語の文法で謂うところの関係節・譲歩節が錯綜し,しかも論の主旨とは無関係な情報に満ちている。こういうのを「気取り」というのである。第二に,もって廻った構成。具体・経験を詳細に語り,言いたいことを意図的に伏せるように叙述しているのかと思えば,その流れから読み手が想定する命題を否定し煙に巻いた挙句に,さり気なく要点をしるす。随筆としては巧みな表現で読ませるが評論としては究極において何が主張したいのか晦渋で間怠っこしい。あたかも,奥床しい本質の周りをぐるぐる廻ってぶつぶつ独言(本人以外には理解困難な言語)を呟いている不平紳士を眺める(対話するのではなく眺める)ような気分なのである。

今日では誰もが『パンセ』と呼ばれる一冊の書物として知っているキリスト教弁証論を書いた十七世紀フランスの思想家ブレーズ・パスカル,もっとも,書いたといっても,彼はその論証体系の構造を明示することなく,未完の草稿を幾綴りもの紙片のまま残して三十九歳の若さで死ななければならなかったのだが,そのことによってかえって,天才と夭折との神話的結合ぶりを正当化しているかにみえるパスカルは,姉ジルベルトの回想によると,すでに幼少期から,「神童」にふさわしい孤独にして特権的な視線によって,世界の諸々の相貌を鋭く解読していたらしい。
蓮實重彦『反=日本語論』ちくま学芸文庫, 2009 年, p. 9(下線部は原典傍点).

『パスカルにさからって』のこの長大な書き出しの一文は,そのあとのコンテクストに照らしても,「姉の証言によればパスカルは幼少期から天才的に世界を解読していた」以上の機能を有していない。なのに何故,このようにあっちこっちに言を撒き散らさずにおかないのか。これが「命題」(真か否か)ではなく「表現」,「文学」(美しい・カッコいい・正しいか否か)を指向するものだからである。ことばに芝居をさせている。これは蓮實の文体に特徴的である。私の性格なのか,不幸な国語教育ゆえなのか,残念ながら,私はここに「テクストの快楽」などは感じない。「論文」などでは絶対に真似をしてはならないマナーである。

「論」は言語がフラットであるべきだと私は思う。なんというのか,無味無臭を指向すべきということ。凝った「表現への指向」があると,ことばに身振りをさせてしまい,煩くてしようがないと私は感じてしまうのである。「鞄」とは何たるかを説明してくれるのだが,そのために指差された鞄の説明用実物が凝りに凝った装飾の施されたエルメスのブランド品であったりすると,これ幾らするんだろうかとか,この人お洒落だなあとか,そんなことばかり植え付けられてしまい,鞄の本質がどこかへ飛んでしまうような,例えばそういうことである。そう,ここで起こっているのは「内容」と「形式」のすり替え・逆転である。鞄の「内容」を説明しているように見えるけれども,エルメス(「表現」)はその鞄を説明する「形式」のはずが,エルメスが使われることによってそれ自体が意味を持ちはじめ,鞄の本質=「内容」が逆にその表現のための形式にとって代わられてしまうのである。

話が逸れるけれども,「正字正仮名」による文章もまさにこれと同じ構造に嵌る。表記そのものが「文体」的意義を帯びて「形式」が「内容」としてでしゃばりはじめるのである。なのに,書いている人がそれをうすうす知りつつ —「正字正仮名」は「カッコいい」と自認しているではないか — ニュートラルな「正しい」文章を書いているつもりになっている。「文体」というものに対し無感覚の「国語を愛する」らしい者たち。「滑稽」とはこういう所作を指すのである。彼らは「正字正仮名」を用いて何かを語るのではない。「正字正仮名」を用いるために何かを利用しているというべきである。その「何か」は往々にして nothing である。もっぱら「正字正仮名」の宣伝と,その反対者への悪口ではないか。「形式」と「内容(nothing も含む。まさに「無いよー」)」の逆転の例がここにもある。

またまた横道に逸れるけれども,「論」を期待して手にとった書物が「文学」だったりすると,私はどこを読み飛ばすかの戦略を最初の数頁で立てようとしてしまう。「... だが」とか「... にせよ」とか「... ではない」という断片が現われたら,その前のテクストをすべて破棄する。主語,目的語,述語「だけ」を探して読む。これで理解できない場合は,諦めて,読まなかったことにする。そのように「点と線」で組み立てられた言説によって,ダメな本かそうでないか判断するのである。まあ,今回は蓮實作品の初物でもないので悩みは少なかったわけだけど。

でも蓮實の文体を巡る私の印象は,蓮實その人の個性に対するというよりもむしろ,学者随筆風評論一般に対する嫌悪といったほうがよいかも知れない。学者随筆風評論文体というのは,学者が学問を離れつつその学問に関る話題について専門用語を鏤め,「学問性にこだわらず」に詠嘆してみせたりする「文学的な」文章である。「正確」を志すように見えて本質から遠ざかることにしか奉仕しない — よって知的な雰囲気を醸成する — 凝った冗長表現に満ちた晦渋な文体。思うに,日本の有名な大学文学部先生の「有名」の根拠は,多くこのような学者随筆風評論の文学性にあるのであって,その学問的成果ではない。日本の文学研究者の評論は「文学的」独言である。学問性を問うものではないから。その専門の文学分野の「香り」を伝える「文学臭さ」が特徴である。だから「知的」にして「孤高」の随筆になる。「さすがー」と思わせる。ところが,学問的体系化への指向がないから,なにか本質とは別なものを掴ませられた,香り高い雰囲気に騙された気分になるのである。鞄の説明のために,凝りに凝ったブランド品を使っているに過ぎないのだ。

もちろん,そんな学者随筆風評論にも「文学的に」優れたものがないわけではない。森有正の『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫,1986 年)などは私の愛読書のひとつである。私の友人の言語学者は,「森有正はデカルトやパスカルの学問的研究成果で日本の知を高めるのではなく,フランスの知的雰囲気をフランスから伝えるエッセイで人気を獲得した。『雰囲気』で勝負する日本の知識人の典型だ」と腐した。私は森有正の文章が好きなので,この批評に少し傷ついたのだが,しかし,この指摘は日本の西欧文化吸収における学者随筆風評論に現れた脆弱性の本質を突いている。この友人に私は教えられたのである。彼は上記の「文学性」を「雰囲気」と言っているわけであるが。

私にとって嫌悪すべきは蓮實重彦という著者の「文体」でしかない。本書には家族の何気ないことばをめぐって考察するくだりがたくさんある。そこには深い学識を有する観察の鋭い知識人の姿だけでなく,家族を愛しそのことばに注意深く耳を傾けるひとりの人間が浮かび上がって来るのである。

結婚式・多摩川散歩

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会社の部下の結婚式に出席した。バブル崩壊以降,新入社員が毎年自分の課に配属されるなんてまず望めないようになり,社員の結婚式に呼ばれるのも稀になった。なのに一方で売れ残っているベテランもかなりある。結婚する奴がいないのである。仕事で忙しいからか,相手がいないからか,結婚願望が少ないからか,総じて「結婚」ということばが職場でもめったに聞かれなくなった。少子化の理由はいろいろあるのだろうが,私自身の実感として,婚姻そのものの数が減り,あるいは婚期が遅くなっていることもそのひとつかも知れない。

場所は横浜元町にある「山手迎賓館」。JR 根岸線石川町駅で降りて,元町の瀟酒な商店街をぶらぶら歩いて,横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅すぐ側,港の見える丘公園に隣接した目的地に着いた。式場は白亜のお洒落な建物であった。この日,予報では台風が心配されたが,雲ひとつない快晴に恵まれ,若者の新しい人生の門出に相応しい日和となった。

人生に一度,結婚披露宴のときだけは,誰もが美男・美女,幼いころからやんちゃ・おてんばだが心優しいしっかり者,学校時代では秀才・才媛としてもてはやされ,いまや押しも押されぬ組織の中心人物,ということになっている。とはいえ,実際に,新郎は一流大学の工学部大学院を修了し,私の部下のなかでもとくに仕事ができる。なかなかのイケメンであり,顧客の女性社員からも人気がある。彼が伴侶に選んだ女性も佳人なり。そういうわけで世の披露宴の世辞が空虚に響かない。今日の花婿・花嫁は青い空と白い建物に映える,眩しいくらいの美男・美女であった。「僕にコキ使われて家に帰られなくても勘弁ね!」と事前の詫び言を新婦に対して口にする私は,気の効かない上司だということかも。トラブルの最中に結婚式を挙げ新婚旅行から帰って出社したそのときから一週間帰宅できなかったのが懐かしく思い出された。おめでとう。おめでとう。

豪華なフレンチ,おっと感心するくらいの美味なワイン,よりどりみどりのスィーツをいただいた。引き出物が橘吉製和風角皿セットだとわかって,妻がカンゲキ。「新郎・新婦の写真入り絵皿だったらどうしようかと思ってたのよ」。

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けふは妻とお散歩。「東京の古い町並み散策」なんて金がかかって嫌,ご近所ですまそうということに。多摩川沿いを進んで等々力緑地に至る経路だった。

自宅のすぐ近くにあるお地蔵さまの祠の裏手に,彼岸花が咲いていた。この鮮やかな緋色を不吉だと感じるのは,ただ墓場に咲くイメージと結びついているがゆえに過ぎない。でもそのおかげで詩にもなるのである。

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平間駅から多摩川・ガス橋の袂に出て,ここから多摩川沿いの堤を歩く。対岸の下丸子にキヤノンのビルが見える。少し歩いた向河原,武蔵小杉あたりからは日本電気の工場ビルが見える。このあたりはメーカーの工場が多いのである。昔は煤煙で鼻に煤がたまったと先輩から話を聞いたことがあるが,いまはそんなことはない。

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田園調布,多摩川園が望まれる中原街道あたりでは,何面もある河川敷野球グラウンドで少年たちが野球の練習をしていた。気兼ねなくトランペット,サクソフォーンの練習をする若者たちがいた。バーベキューパーティを楽しむ人々。これまで何度かこの河川敷で,息子のクラブのバーベキュー大会があった。土地勘のまるでない妻は「あ,ここだったんだ。こんな近くだったっけ」と感心していた。

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小杉陣屋町というところで多摩川沿いを離れ,等々力緑地に向かう。途中,「川崎バナナ」なる面白い名前の町工場を見つけた。

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今日は J リーグのサッカー試合があるわけでもないので,競技場付近は閑散としていた。秋分日に開催される「スーパー陸上」の準備が粛々と進んでいた。

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競技場のすぐ横の日本庭園に入った。ここは池一面を蓮が覆い,その季節には壮観らしい。その向こう側のより大きな池の奥に真白の鷺の群れがいた。ベンチで一休みしていると,黒猫が一匹やって来た。すぐ横のベンチにはホームレスの男が寝そべっていた。私は蚊に何カ所も喰われてしまった。

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市民ミュージアム前にペットボトルによるオブジェがあった。アリーナでは剣道の大会が行われていたようである。その側を通って等々力緑地入口からバスで帰宅する。バス停でクラブ活動の高校生 3 人がだべっていた。「お,今日『ブザービート』最終回じゃんか。それまで家に帰れるかなー」。

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約一時間半,十キロちかく歩いたのではないだろうか。

帰宅してインスタントコーヒーを飲んでいたら,友達と遊びにいった息子から電話。「あ,お父さん? 『ブザービート』録画予約してあるか知らない?」— 妻が横からしてあると言うので,「してあるみたいよ。でも,そんなことどーでもいーじゃねーか」。この『ブザービート』というテレビドラマを子供たちは熱心に観ている。バス停での一コマからしても高校生,ひいては若者全般に支持されているようである。だけど,私には苦手のドラマである。これは奥手の美男・美女が彼らに積極果敢にアプローチする男女を振り切って結ばれる恋愛ものである。息子は私の皮肉な反応を茶化すかのように「スミマセノトーサン」とあのソフトバンク CM の黒人を真似して電話を切った。おまいらテレビ観過ぎ。
 


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もうひとつの「仰天過去」

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仰天過去」といえば,かつて「疑惑の総合商社」と国会で非難され,斡旋収賄罪・政治資金規正法違反罪で公判中の鈴木宗男議員が,18 日の衆院本会議において外務委員長に就任した。私はこのニュースに本当にびっくりした。いま日本の政治が本当に面白くなって来たのだと痛感した。この人事は「自公など,『鈴木外務委員長』に異議=衆院本会議,開会遅れ」にあるように,批判を浴びている。リンクしたニュースに付加されているコメントをみると,「自公など」の「面白くない」政治をしてくれた方々と同様,「疑惑」を「事実」であるかのごとく鵜呑みにするおめでたい人達がほとんどのようである。

しかし,民主党がまっとうに主張するように,鈴木議員はまだ公判中であり,有罪が確定し公民権が停止したわけではなく,なにより「選挙」という政治家にとって最大の審判を経て国会議員の立場にあるのだから,まったく問題がない。鈴木議員は,その「疑惑」がいかなるものであれ,北海道民の「圧倒的支持」を得ている。これはじつに大事なファクターであって,政治家として影響力・実力のある証左なのである。(Yahoo! のXXなコメント書き込みの夥しさと有権者の確かな選択との間にあるギャップで私が痛感したのは,ネットの偏向というものである。これを根拠に,ネットの書き込みは何者かによる情報操作の可能性も否定できないということである。)

昨年 6 月,アイヌの先住民族決議案が国会で採択されたことも,この政治家のしたたかな活動成果のひとつである。もちろんアイヌ民族の人権擁護とセットで問題提起をしたことに第一義的な意味がある。しかし,もうひとつこの決議の重要な意義は,アイヌを北海道周辺の先住民族として日本国が認知することで,北方四島,樺太等の先住民としての権利をアイヌが本来的にもっていることを国際的に主張しやすくなったことにある。アイヌは日本国に属する民族である,よってアイヌの土地は日本に帰属するという「先住権」ともいえる主張である。もちろん,北方領土返還運動がこれだけで解決できるはずもない。しかし,ロシアという国は多民族国家の難しさを痛いほど知る国であり,「民族に固有の大地」という論理を — アタマでではなく — 身体的に理解しているので,「侵略行為」,「戦後処理」,「歴史認識」などというような高度に政治的な概念に基づく交渉よりも,遥かに真摯に耳を傾ける。こういう事情を知らない人のなかには,日本が実質的多民族国家だということを認めたがらず,鈴木宗男を国賊扱いする無邪気な者もいるようである。

鈴木宗男は,田中角栄のような古いタイプの「利益誘導型」政治家である。そのためか日本のマスコミからは,「ムネオハウス」の利権体質をあげつらわれ,ほとんど「犯罪者」扱いされている。けれども,彼が起訴され政治の第一線から退いて以降,日露関係が台無しになったのは海外の識者も認めるところである(「ニューズウィーク日本版」参照)。その後,日本はロシアと外交らしい外交がまるで出来ていないのである。北方領土返還の一歩手前と言われるまで交渉を進めロシア人から信頼された「疑惑まみれ」の鈴木宗男と,日露交渉においてまったくロシア人に信用されずなんの仕事もしなかった「クリーンなエリート」の川口順子(田中眞紀子と鈴木宗男が失脚したあと実質的に日露交渉を引き継いだ外務大臣)と,いったいどちらが優れた政治家であろうか。

鈴木宗男は鳩山総理から「北方領土をよろしく」と言われたそうである。民主党も彼の業績を評価しているわけだ。日露交渉にまた鈴木宗男が戻って来る。官僚による各種会見自粛にみられるように,新政権はのっけから官僚から「ご指示のとおり言われたことしかやりません」モードの主体性放棄の遵法闘争に応接されているけれども,良きにつけ悪しきにつけ前代未聞のようなことが起こって,しばらくは政治ブームが続くのではないだろうか。

(それにしても,鈴木宗男はあの「アホの坂田」に似た風貌と収賄「疑惑」とで,我が家では嫌われている。これが世の一般家庭の反応かと思うと,ホント,彼が不憫である)

仰天過去

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昨日,神代辰巳のロマンポルノについて書き,彼の映画で「体を張った」女優たちに触れた。私は「体を張った」女たちがまた別の分野で活躍する姿を見ると感激してしまうほうである。ひとの人生の奥床しさを感じてしまう。

先の衆議院選挙で当選した,ある民主党新人女性議員の「仰天過去が次々と明るみに出」(サンスポ.com 記事)て話題になっている。「仰天過去」の事実がいかなるものであれ(オマケにそれは彼女の立派な職業,「仕事」だったのだ),これから国民を代表して政治に携わるにあたり,それがなんの関わりがあるというのか。選挙において何を約束し当選後に何をやってくれるかが政治家の勝負どころだろう。

なのに,過去の経歴の「説明責任」がどうのこうの騒ぎ出す清潔漢,スキャンダル好き,人の弱みにタカりたがるヤツがいて面白い。こういうのを「品性下劣」というのだ。「きちんと身体検査を!」だって。こいつらの薄っぺらい正義感なんてクソくらえである。日活ロマンポルノ,アダルトビデオの「イヤらしさ」もこういう偽善,醜悪を前にすると可愛いもので,低俗さという意味では彼らの品性にはとんと敵わない(なのに堂々と,恥ずかし気もなく,自信満々にやってくれるものだから質が悪い。これら品性下劣サイトへのリンクを貼りたくてうずうずしているのだが,やめておく)。

「それがなにか?」と見下すように彼らを去なして,民主党は沈黙を守るべきである。「説明できないので黙ってるんだー」のような不真面目な揶揄で挑発されても,沈黙すべきである。なぜなら,馬鹿を相手にすると本来の仕事ができなくなるから。耳を傾けるべき意見と無視すべき意見とをきちんと仕分けることの出来るのが政治家というものである。岡田さん,しっかりしてくれよ。「選挙で選ばれてある」ことにのみ立脚すべきである。

先日の朝日新聞(9 月 9 日)神奈川ローカル面に「KAWASAKI しんゆり映画祭」の記事が掲載されていた。この映画祭は毎年この季節に開催される市民映画祭である。15 回目を迎える今年は,川崎市麻生区ゆかりの映画監督・神代辰巳の特集である。ちょっと驚き。神代辰巳といえば日活ロマンポルノの巨匠。こんなポルノ映画監督もその「芸術的価値」によって映画祭のテーマとなりうる時代なのである。いいんだか悪いんだか。私としては大歓迎だけど。

私は彼の作品をいくつも観て来た。黒澤明,鈴木清順などと並んで指を折りたいひとりである。『一条さゆり 濡れた欲情』(1973 年),『赫い髪の女』(1979 年),『赤い帽子の女』(1982 年),『もどり川』(1983 年)などなど。とくに『もどり川』は私の観た邦画のなかでも最良の作品である(なのに DVD が発売されないのが悲しい)。いずれも存在の最終的な砦であるかのように性を激しく生きる女性と,彼女たちを巡るヒモ的ダメ男たちを描いている。私はここに性「愛」というようなものは感じなかった。もっと直接的で,それこそ体を張る凄みがあった。男は本質的に女のヒモだという思想に徹したニヒリスティックな作品に見えた。「愛情」なんてかけらもない非情なところが私にとっての神代ポルノグラフィの凄い点である。それゆえにストリッパーや娼婦という職業は落ちるところまで落ちた女の恥ずべき境遇である,という視線はこなごなにされた。それでもやはり秘めやかであることをやめない。彼の映画によって,樋口可南子や原田美枝子,伊佐山ひろ子といった「体を張った」女優たちが私にとって忘れられないものとなった。

KAWASAKI しんゆり映画祭」は 9 月 19 日から 27 日まで,小田急線新百合ケ丘駅周辺で開かれる。でも,私には神代辰巳作品の「芸術性」をあんまり云々したくない。あの「イヤらしさ」に共感できることはある意味で恥ずかしい。昔の日本のポルノは今のアダルトビデオなんかよりも何倍もイヤらしく,陰湿で,残酷で,非情で,そして危険だったのだ。魂を鷲掴みにしてしまったのである。

* * *

神代辰巳監督による映画『もどり川』は,萩原健一,樋口可南子,藤真利子,原田美枝子,蜷川有紀主演,1983 年東宝作品。残念ながら「KAWASAKI しんゆり映画祭」では放映されない。

原作は連城三紀彦の『戻り川心中』である。神代映画を観たあと,私は時を置かずこちらも読んで心を動かされた。主人公・苑田岳葉は女を変えながら心中未遂事件を起こし,そのたびに優れた歌集を出す短歌界の異端児である。彼の心中スキャンダルは厭世ゆえか,それとも作歌のためのフィクションなのか。そのどちらでもあり,どちらでもないのだろう。そういう芸術家の危うい性(さが)を描いた美しいミステリーである。『宵待草夜情』,『変調二人羽織』とともに,これが連城三紀彦作品のなかでもっとも私の好きなものである。最近どうしてこのような「浪漫的な」ミステリーにお目にかかれないのか。

いつもの休日

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午過ぎに起きてきて,ひとり遅い食事をとり,少し本を読み,FreeBSD で Emacs をいじくりまわす。今日もそんないつもの休日であった。夕方,バッハのマタイ受難曲,ブルックナーの 9 番を聴く。「マタイ受難曲を聴いた」と妻に言うと,— 娘が横から「え? ママの体重が何キロか聞いたって?」。「信長殿も信長殿だがねね殿もねね殿じゃ — お父さん,早口で言ってみて」。妻が掃除中,私の灰皿のチェブラーシカの首を折ってしまう。晩ごはんのあと,iPod で日本の旧き良き歌謡曲を聴きながら,食器洗いをする。山口百恵,上田正樹,南こうせつ,バンバンなどなど。学生運動潰えた世代の暗い曲の数々。ヒット江夏のケンケン,否「ひと夏の経験」に感じいって「モモエちゃん...」と独り言を漏らすベートーヴェン。そんな CM が昔あったな。わけわからん。

* * *

鳩山次期首相の組閣の話題でもちきり。半世紀ぶりの政権交代ということもあり,当然ながら,どんな体制になるか皆興味津々である。社民党と国民新党の両党首が入閣するそうである。参議院での協力を得たいため,大臣席でもって懐柔しようとしているらしい。民主党はあれだけ大勝したのだから,他の野党の顔色を窺う必要などないのではないだろうか。意見が合わなければ論戦すればよいのだ。選挙の結果からすれば社民党と国民新党が有権者の支持を得たとは言えない。そんな政党と連立政権を組むなんてナンセンスではないか。

* * *

陸上=南アのスポーツ担当相,『セメンヤ報道』に激怒」なる記事を見た。かの圧倒的強さを見せたセメンヤを「両性具有者」だとするオーストラリアのマスコミ報道に南アフリカの大臣が激怒したそうな。「第三次世界大戦もの」だなんて,そんな大げさな。

オーストラリアは日本にとって大事な国である。日本人の行きたい国のなかでも上位に入るのではないだろうか。しかし一方で,オーストラリアは昔から人種差別の酷い,つい先日まで白豪主義なる人種差別に囚われていた,思想的に遅れた国だ,というのが私の正直な認識である。オーストラリアでは,2005 年 12 月にも,シドニーにおいて中東やレバノン系の住民に対する白人暴動が発生している。いまだにこうなんである。米国の KKK などはもっと陰湿だが公的には徹底的に批判されているのと比較すると,人種差別が大規模化するところがオーストラリアの国情を物語っていると思う。また一方で,米国の反捕鯨団体・シー・シェパードの活動などを見ていると,オーストラリアという国は,環境問題にかこつけて人種差別をするこういうとんでもない愚連隊を政府が野放しにする国だとつくづく思ってしまう。捕鯨を生活の糧としてきた国は日本以外にもロシア,カナダ,ノルウェーなど数多くあるにもかかわらず,シー・シェパードが目の仇としているのは日本だけなのである(シー・シェパードの行為の対象がロシアだったらどうだろう。間違いなくロシア海軍によって直ちに太平洋に沈められてしまうはずである)。それは何故か。日本だけが黄色人種だからである。鯨の肉をかっ食らう日本人は土人と同じというわけか。鯨とカンガルーはどちらが旨いだろうか。

「セメンヤ報道」にも同じ人種的偏見を嗅ぎ取るのは私だけだろうか。中国や韓国という同族の意図的反日行動に怒りを覚える前に,こういうのをもっと叩いたらどうかね。

* * *

昨日は映画『キサラギ』を観て夜更かし。2007 年,佐藤祐市監督作品。主演は小栗旬,ユースケ・サンタマリア,小出恵介,塚地武雅,香川照之。アイドルおたく5人が彼女の死の一周忌に集まる。マンションで焼身自殺した彼女の死はじつは殺人だったというひとりの主張を巡って,5人の記憶をたどりつつ謎解き,ファン同士の掴み合いの喧嘩がはじまる。部屋のなかだけで進む謎解きストーリーは,『十二人の怒れる男たち』のような — 登場人物はそれとはまったく対極にあるようなアイドル・オタクなんだけど — 演劇風の緊張感に満ちていて,意外なくらい面白かった。

* * *

おっとそこへ最新ニュース。わが阪神タイガースが3位に浮上したらしい。このところヤクルトが絶不調。そのおかげでヤクルト,阪神,広島の三つ巴で「熾烈な3位争い」になっているらしい。今年の阪神の要約 —「09 年は熾烈な3位争いを演じた」。レベル低。

* * *

瞬間接着剤でチェブラーシカ復活!

cheburashka.jpg

イチローが大リーグ通算 2,000 本安打記録を達成した。9 年連続年間 200 本安打記録もあと 5 本に迫ったのだそうである。WBC でのあの底力,この記録。この人,もはや日本人じゃないですね。

* * *

それはそうと,昨日のサッカー・対オランダ親善試合観ました? 前半は素晴らしいリズムだったのに,後半は違うチームかと思うようなボロボロ・プレー。テレビ実況中継の解説者は「疲れているので,選手の交代が必要」を連発していたが,後半に入った瞬間にあのようになるものでしょうか。サッカーがチーム全体で成り立っているということが恐ろしいくらいにわかったのである。このような試合を見せつけられると,本田選手は — よいものを持っているが,— 「日本代表チーム」には向いていないと思ってしまった。岡田監督の眼も節穴ではないはずである。

日本サッカー協会は 2050 年に日本のワールドカップ優勝を宣言している(JFA2005 宣言)。2050 年...。これって,環境大臣が — なにをとち狂ったのか,サミット後なのに — 提示した温室効果ガス 2050 年 80% 削減なるビジョンと全く同じ。いったい誰がどのような責任でどこまで約束をグリップしようとしているのかさっぱりわからない(政府の出す「ビジョン」は「夢」とは違うはずである)。学校の教育目標理念とまさに同様に,右耳から入ってすぐ左耳から出て行く,それくらい現実感がない。

べつにいいよ,優勝なんかできなくったって。いまも十分面白い試合をしてくれるんだから。前半のような試合を南アフリカでも見せてほしいです。

Mew 6.2.52 on Emacs-23 を使いはじめて,ロシア語メールの Subject が全角キリル文字(さざなみ日本語フォントにあるキリル文字)で表示されることに気づいた。メール本文は問題ない。外国語はそれ用のフォントでないと醜いし,幅広だと情報量も落ちてしまう。Mew-dist や Mule-ja メーリングリストに問い合わせたところ,次のようなことが判明した。

Mew の Summary(メール一覧表示)では,多言語対応のため,CTEXT(X11 Compound Text)コーディングシステムを採用している。一方,Emacs はバッファを CTEXT で符号化する際に,エスケープシーケンスに包む個別の文字コードを優先順位を付けて選択する。日本語環境では,標準は japanese-jisx0208 が優先される。このため,バッファのキリル文字は,国際標準 ISO 8859-5 キリルではなく,JIS で定義されたキリル文字コードにエンコードされる。この結果,Summary の表示は JIS コード用の日本語フォントが使われた。

つまり対策は,その文字コードの優先順位を,ISO 8859-5 が japanese-jisx0208 よりも高くなるように指示してやればよいということになる。そのための関数 set-charset-priority がある,とメーリングリストで教えていただいた。Emacs の info で set-charset-priority 関数仕様を調べて,優先度設定コードを .emacs に追加したら,DejaVu フォント・半角のキリル文字で Summary 表示できるようになった。ギリシア語も同じ構造に嵌るので,greek-iso8859-7 も追加しておいた。また,キリル文字は width が 2 のため Subject エリアの空白数が文字数分不足することで,Summary のレイアウトがいびつになってしまう。width を 1 に設定し,キリル文字数と width を合わせるコードも入れた。これらの .emacs 対策コードは以下のとおり。

;; iso-8859-5 優先
(set-charset-priority
 'cyrillic-iso8859-5
 'greek-iso8859-7
 'mule-unicode-0100-24ff
 'japanese-jisx0208
)
;; キリル・ギリシア文字の width を 1 に
;; (Mew Summary レイアウト不正対策。Unicode-cyrillic は不要)
;;; iso-8859-5 キリル文字
(map-charset-chars
 (lambda
   (range ignore)
   (set-char-table-range char-width-table range 1))
 'cyrillic-iso8859-5)
;;; iso-8859-7 ギリシア文字
(map-charset-chars
 (lambda
   (range ignore)
   (set-char-table-range char-width-table range 1))
 'greek-iso8859-7)

前に書いた記事「Emacs 22.0.50 の Ctext」で CTEXT のエスケープシーケンスが変わってしまったことに触れた。この要因について今回わかったという収穫もある。上記の設定により,エスケープシーケンス X"1b2d4c" + ISO 8859-5 文字コードでキリル文字を CTEXT 符号化することができるようになった。

※ 2009/09/05
漢字フォントキリル文字が Unicode フォントに変更されたスナップショットを以下に示す。

mew-ctext-problem.jpg

日経 BP 社刊『日経コンピュータ』2009 年 8 月 19 日号「動かないコンピュータ」に「“野心的な”システム構想が頓挫133億円投じるも稼働のメド立たず」と題して,特許庁最適化システムが採り上げられた。日経の「動かないコンピュータ」は情報システムに携わる者にとって恐怖のコーナーである。ここで採り上げられるようなことは絶対にあってはならないと,私も先輩から言われ言われしたものである。それほど「恥」なわけ。どこからどう取材してくるのか,日経の記者は結構本質を突いた記事を書く。

特許庁事務処理システム再構築の調達を,東芝が予定価格の 6 割で落札した。ところが東芝にはノウハウがなく設計がまるで進まない。プロジェクトマネジメントを委託された業者アクセンチュアも工程責任を負うわけではない(ならなんのためにいるんだ?)。結局,特許庁は両者との契約金額 133 億を無駄に投じて逡巡している。記事はそのようなものだった。2006 年末に開始した基本設計がいまだに終わらず,稼働のメドがたっていない。「知的財産立国を目指す国家戦略にも影響を及ぼしかねない。国益にかかわる問題だ」との識者の憂いを引用していた。

官庁の事務処理は複雑怪奇であって,親方日の丸の責任のもとに,受託業者は社運を賭けて取り組む。官僚は 2, 3 年で人事異動するのが当たり前なので,業者は客よりも業務を熟知する気合いで担当者を投入し育成する。そこには当然企業として収益への指向があるわけだが,それ以上に国政を支える企業としての面子をもって,赤字覚悟でシステム稼働に取り組みノウハウを蓄積しようとする。この過程でハードウェア,ソフトウェア品質・性能を格段に向上させ,自社製品の競争力を高める意図もある。システムの設計・構築はビルを建築するのとは根本的に異なる「人間臭い」難しさがある。発注者が完全な仕様を提示するなんてことは,私の経験では,まずありえない。提示仕様の通り作って動かしてOKなんてことは絶対になく,非機能要件がヤマほど出て来て,業者が稼働責任を負う以上,初期構築は大赤字になるのが常である。だからひと昔前はシステムを初期構築した業者が随意契約で再構築を請け負うのが普通だったと思う。それによって業者も初期構築の大赤字を少しずつ回収するのである。そんなこんなで,官庁の大規模システムは資金的体力のある IT ゼネコンしか請け負えないしろものなのである。

しかし,近年,規制緩和により WTO 公開入札が義務付けられた。業者との不正な癒着を廃し,競争原理による適正価格で調達を行うことが,人間臭いシステム建設でも当たり前になった。そのあおりで,既存の業者が周到に見積もった再構築価格を大幅に下回る戦略価格で,業務を何も知らない野心的新参業者が落札する。これがよくある話になった。そしてたいてい火を噴く。そうして,税金が無駄に消えて行く。担当者は心を病み,自殺者が出ることもある。一将功成りて万骨枯る。プロジェクト X。フェアを是とする以上,その構造は免れない。しようがない。税金の無駄遣いよりも,不幸なサラリーマンを生み出すよりも,フェアを重視する — ご立派ではないか。官製談合とやらがまかり通る背景にもなっている。技術点の低い大安値業者に落札した時点で,特許庁の失敗はうすうす予想できたことではないだろうか。

日本は特許出願数において世界トップレベルにある。特許行政についても,米国 USPTO,欧州 EPO に対し三極の一角をなす,超大国である。特許庁はその自負と使命感のもと日本の技術立国を立派に支える極めて戦略的な官庁である。おそらく,外務省,防衛省以上に対外的センス,国際競争への意識が高い。よく働く。この不名誉な記事を糧として,なんとか立て直しを図ってほしい。国民の目線からすれば,東芝もどれだけ赤字になろうと約束したことは果たすべきだし,それくらいの企業体力はあるはずである(半導体事業の失敗,新型 DVD での敗北と,最近よい話がまったく聞こえて来ないのだが)。

自民惨敗

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衆議院選挙が終わった。投票率は過去最高水準だったらしい。それだけ未曾有の関心のなか,民主党は歴史的ともいえる圧勝を果たした。幸福実現党なるにわか右翼政党は,三百うん十人の候補者を立てながら,結局ひとりの当選者も出せなかった。ここまで民主党が一人勝ちするとは誰も予想していなかったのではないか。

私自身は麻生さんの政策をそれなりに評価していた。この結果をみると,日本国民の総体は極めて手厳しい判断を下したと思う。この国がいまいったいなぜおかしくなってしまったのか,もういちど原点からやり直す — そういう厳しさを私のようなものでも感じる白黒はっきりした結果である。小泉元総理は規制緩和・改革推進の劇場政治において「自民党をぶっ潰す!」と旧態依然とした派閥政治に敵対したけれども,ここに来て,自民党は本当にぶっ潰されてしまった。小泉郵政選挙での自民党の大勝利,今回の民主党の歴史的圧勝は,じつは根本は同じなのかも知れないとへんな暗合を覚えてしまった。マスコミの愚劣な情報選択(政治の悪いところしか報道しない体質)に捕われない大きな波というものがあるものである。

日本の国民・有権者は総体としてじつに酷にして適確な選択をすると痛感した。ヘンな政党がひとりも当選しない,自民党だけでなく公明党も惨敗,他の野党は横ばい,となると,いかにこれまでの政治に愛想を尽かしていたか,いかに穏健かつ良識あるあたらしい政権を望み冷静に選択したか。民主党には感心しないことも多いけれども,民主党「だけ」を選択した日本国民に私は感動した。

なぜこれほどに思うところがあるのか。最近,ネットニュースをよく見るようになって,それに付く右傾化した浅はかなコメントのあまりの多さに,「衆愚性」という一語が印象づけられてしまっていたのだ。例えば,田母神論文へのクリックサーチ結果でも支持者が過半を占めていることに,いまの日本は確かに異常だ(はっきり言って「幼稚」 — なんとなれば,戦後の決意と世界への約束を「忘れる」という姿は「子供じみて」いるからだ)と本当に呆れたのである。しかし,この選挙結果をみると,そういう馬鹿者どもはじつはネットに多いだけだったのだと,少し安心したのだ。うじゃうじゃいそうで結局国民に相手にされなかった幸福実現党みたいなものかと。日本の有権者は健全である。

それでも民主党政権の不安は拭い切れない。外交,経済政策など,相当の混乱が予想される。混乱のさなかにやっぱり官僚依存が強まるような気がする。これまで野にいたのだから,ある程度脇が甘くてもしようがない。外国との約束はたとえ自民党政権が安請け合いしてしまったものでも,遵守しつつ国益に照らして改善して行くのがスジである。首を傾げさせるような対応は厳しく批判されるだろう。ま,選挙で選ばれたわけだから自信をもって仕切ってほしいと思う。(民主政権もダメで,公約は果たされず批判にさらされ党内分裂,新党ブーム。その果てに次の参議院選で自民が大勝,ヘンな政党が躍進しはじめ,一方でまたもやねじれ国会の再来,法審議は空転し,内閣不信任決議と内閣信任決議が繰り返されるだけの茶番化する国会 — これ,じつは私の描く,最悪にしてもっとも起こりそうに見えてしまうストーリーなんである。否,暗い思考はやめよう。)

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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