2010年5月Archives

ブツブツ

社民党が政権離脱し,普天間問題が政局になってしまった。鳩山さんは,政権を手放してまで普天間基地県外移設にこだわるほど社民党がバカだとは,おそらく想像すらしていなかったのではないか。おかげで,ヘタレ民主党は自滅の道を歩みはじめた。鳩山さんの軽口が災いして,彼や小沢さんほど肚の座らない右顧左眄議員どもが鳩山降ろしをはじめた。

鳩山さんの次はじゃあ誰だろうか? 沖縄県民から蛇蝎のごとく憎まれた,クソ真面目の岡田さん? 偽メール事件ごときで翻弄され代表を辞めさせられた,浅はかな前原さん? 最近まったく存在感のない菅さん(なにかよくない病気になっていやしないか心配)? それこそ何を言いたいのかさっぱりわからない平野さん(もっとも自民党員にみえる民主党員)? 参院選の前に奈落の底に落ちたいのか? 「鳩山首相に国民が怒っている」(某小沢チルドレン)って本当? 少なくとも私はぜんぜん怒っていませんよー。

ま,「海兵隊の抑止力」なんて戯言を言いはじめた鳩山さんには,なんの未練もありませんけど。これは首相がせっぱつまって官僚の言いなりになりはじめた証拠だからである。もしハトが辞めるなら,その次はコワもての仙谷さんあたりがいいんじゃないかなー。

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サッカー・イングランド戦は,DF がなんと二つのオウンゴールという愚鈍をしでかして負けたのに,本田選手が信じられないハンドで PK を与えたのに,「あの強豪を相手に善戦した」風の肯定的な意見が多いのにめちゃくちゃ私は驚いている。点が取れないばかりか,守備に注力したにも関らずわざわざ点を献上して負けたのである。なんか世の中のモノの見方が — 普天間問題を筆頭に — 私にはホントにわかりません。夕刊フジなぞは「だから中村俊輔はいらないって言ったでしょ」みたいな,大学出の大人が書いたとはとても思われないくらいの飛躍を,したり顔してホザいている。呆れ返る。そんなこんなで,韓国戦で惨敗したときには感じなかった「怒り」に,期せずしていま私は駆られているのである。

これと同じ試合を本大会でしたと考えると,いったい誰が満足できるのだろうか? あの試合のどこが「善戦」なんでしょうか? 4-1-4-1 だか 4-1-2-3 だか知らないが,「取って付けたような」小手先の試験的布陣がたまたま前半で(しかもイングランド・主力がテストモードで手を抜いていた前半に)少し機能したくらいで,「筋道が見えた」などと宣う岡田監督は,浅まし過ぎやしないか? 勝ってからそういうことを言え,というのだ。あんなスーパーオウンゴールが二つも出てしまうのは,アンカーのおかげでラインが下がり過ぎた当然の結果じゃないのでしょうか? 英国がただただだらしなかったとしか見えない私のほうが間違っているのか? モチベーションのめっちゃ高いサブ GK のスーパーセーブだけがこの試合の収穫じゃないのでしょうか? これがなければあと 3 点取られていたかも知れない。仮に 5--1 で負けていたら「善戦した」だとか「阿部がアンカーとして機能した」なんて暢気なことを誰が言うだろうか。おまけに,川島選手の半分まぐれのスーパーセーブのおかげで,間違いなく本大会で GK の選択を誤る「筋道」ができたわけである(これは選択肢が広がったとポジティブに考えましょう)。

私はこの試合を観て,日本が W 杯 3 戦全敗を免れる方法にやっと気付いた。試合時間を 90 分ではなく 70 分とするよう,ギリシアを救えるくらいの大金を積んでルール改訂を強力に FIFA に要請すること。要するに,90 分間戦うという基本的なチーム作りをしなかったのは,もう取り返しがつかないということなのである。私が観た限りで,キラキラ光っていたのは長友選手だけだった(あのスーパーセーブはただのラッキーだったと割り切るべきである。川島選手,フロンターレ・サポーターには申しわけない)。

松井選手をもう少し観たかった(なぜなら,彼以外の日本人選手の誰が「仕掛ける」根性があるだろうか)。本田選手と森本選手の惜しいシュートが私にとって数少ない見所だった。

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中国の温家宝首相が来日した。日中関係は小泉さんのころと比べると蜜月といってもよい。対日貿易についても中国は米国に急接近しているのだから,米国に少しくらい冷たくしてでも,中国との外交関係をより有利に進めてゆくことは,大賛成。中国の軍事拡張にモノ申すのも大賛成。

昼間,職場の溜池近辺では右翼の街宣車が,温家宝首相来日への文句をがなりたてて,ホントうるさかった。誰に頼まれてやっているのか知りませんが,ご苦労様です。

私達を名付けてください

ラヴェルの室内歌曲『ステファヌ・マラルメの三つの詩』は私のもっとも愛するラヴェル作品のひとつである。弦楽四重奏,ピアノ,フルートとクラリネットによる音響が色彩感に充ちて官能的である。シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』,ストラヴィンスキイの『兵士の物語』と並んで,20 世紀のモダンな室内歌曲の最高傑作といってよい。

この作品の第 2 曲『徒な願ひ(Placet futile)』に,「私達を名付けてください(Nommez nous...)」なる詩句がある。マラルメ独特の難解さ,意味深長さがある。

私達を名付けてください......木莓の薰の高い笑ひ聲が,
慕ひ寄る人の懇願を喰ひちらし 恍惚として啼き喚き,
飼ひ馴らされた仔羊の群さながらになる あなた,
『マラルメ詩集』鈴木信太郎訳,岩波文庫,1963 年,18 頁。

あるものを名付ける行為は,それを他ならぬものとして認識するとともに,己の支配下におく(「飼ひ馴らされた仔羊の群さながらに」する)ような意味をもつ。家に籠りっきりで親とも社会ともコミュニケーションを断絶し,独り趣味に埋没して社会性を喪失する行動様式は,齋藤環によって「ひきこもり」と名付けられることによってはじめて,これが悪魔の取り憑いたわけでも気が触れたわけでもなく,また個的現象でもない,社会的病理であると認識され,克服されるべき問題として「顔」をもちはじめたのである。この曲を久しぶりに聴いて,「名付けること」の重みに考えが飛躍するとともに,千代崎秀雄著『聖書の名句・名言』(講談社現代新書,1987 年)の一節を思い出した。人間の根源的な情念にも関る,よい一節なので,少し長いけれども引用しておく。

《人が,生き物につける名は,みな,それが,その名となった》(創世記 二19)
 
 一人の若い女性が医師をおとずれた。妊娠中絶の合意を得るために —。
 医師は反対したかったが,彼女は説得の余地がないほど決定的に中絶を決意しており,そのことについて悩んだ形跡もない。そこで医師は話題を転じて,もしかりに彼女がその子を生んだ場合,どんな名前をつけようと思うかとたずねた。
 気楽な話題として彼女はそれに応じ,男の子なら何,女の子なら何,と,あれこれ名を考えはじめたらしい。長い沈黙。その間,彼女の表情はあきらかに動揺を示した。ついに,"ありがとうございました。生みます" といった。
 これは,パウル・トゥルニエ医師の著『なまえといのち』(小西・今枝訳 YMCA同盟出版部)に記される一挿話である。
千代崎秀雄著『聖書の名句・名言』 講談社現代新書,1987 年,25 頁。

禅は,この「名付けること」のもつ恐ろしさに向き合うことを,修行者に突きつける。この意味で,パウル・トゥルニエ医師の報告する感動的な逸話よりも,私にはさらに意味深長である。『無門関』第四十三則に首山竹箆(しゅざん・しっぺい)という公案がある:「無門は評して言う — 竹箆〔しっぺい — 禅道場の指導者が使う,竹でできた法具:私註〕と呼べば触れるし,竹箆と呼ばなければ背く。有語であることもできない,無語であることもできない。さあ言え,言え」(秋月龍珉『無門関を読む』講談社学術文庫,2002 年,47 頁)。

秋月龍珉によれば,「竹箆」を竹箆と呼ぶと「触れる」(ふれる,犯す,逆らう)というのは,「真如」(ありのまま)には,本来「名」はないと考えるからである。本来「名」のないものに「名」をつけてそれに執着して迷うのが衆生である。一方,「竹箆」は竹箆以外の何物でもなく,これを「金棒」などと呼ぶと「日常」は混乱する(「背く」)。じゃあどうすればいいのか。「さあ言え」と無門は詰め寄る。秋月は次のように解説している。

禅者〔無門:私註〕は衆生が「日常」の中に埋没して似而非なる「平安」に眠り込んでいるのを目覚ませようとして,「日常」の底にひそむ「危機」を見せるために,修行者を「極限状態」に追い込むのです。[ ... ] 我々一人一人が「即今なんと言ってもいけない」ところに立っていることに気づけというのです。[ ... ] こうした生死の「危機」に臨んで,避けず逃げずごまかさず,それと真っ向四つに取り組んで,この実存の大問題にぶつかってゆくのが禅の道なのです。
秋月龍珉『無門関を読む』講談社学術文庫,2002 年,48-9 頁。

知識というものがこの「名」に通暁することでしかない,となれば,そんなものは「知」ではないということも,これは教えているように思う。私は悟ったとはとても言えないけれども,この公案の意味は深い。
 

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ラヴェルの歌曲集はよい CD がなかなか出ない。私の愛聴しているのはエリー・アメリンクのソプラノによるエラート版だが,もはや廃盤である。次の全集に収録された『マラルメの三つの詩』もなかなかよい。
 

ラヴェル歌曲全集
T.ベルガンサ,G.バキエ,J.ダム,M.メスプレ,F.ロット,J.ノーマン
EMIミュージック・ジャパン (1998-12-16)
 

ステファヌ・マラルメは,めちゃくちゃ名声が高いわりには,私にはそのまともな翻訳を読んだ記憶がない,そういう詩人のひとりである。神秘的なまでに難解なのがこの詩人の特徴なのだが,そうはいっても奇妙キテレツなフランス語を使っているわけではないのだから(学生時代に Gallimard nrf 版を必死こいて読んだ時期がある),もう少し素直な翻訳が出てもよいと思うのに,研究者が細部の意味を知るだけにわざわざ読みづらく訳しているものばかりである。『詩集』を収録していて,現在,元気に生きている版は,専門家向け(というより — 専門家ならフランス語で読むはずなので — 好事家向け)の,いたく高価な筑摩の全集だけのようである。マラルメというよりマラルメの骸骨にしか出逢えないかも知れないが,この版へのリンクを以下にあげておく。これで「すべての書を読んだ」気分に浸っていただきたい。これ以外で手に入る版は手頃なものがなく,私の書架にある岩波文庫版もいまや中古で探すしかない。この詩人がいまだにインテリの所有物でしかなく,本当は日本人に愛されているわけでも,理解されているわけでもない証左であろう。
 

 

私はキリスト者ではないが,しばしば聖書のことばに深い感動を覚える。この本はユーモアに充ちた語り口で聖書の名句・名言を説いてくれる良書だと思う。
 

 

『無門関』は中国宋代の禅僧・無門慧開和尚による公案集である。公案とは,禅の修行者に課される試験問題のようなもの。いわゆる禅問答。公案を生(き)でいただいてもまったく理解できないと思う。先達の解説とともに読むことをお勧めする。
 

 

それにしても,公案にはあっと言わせるものがある。指を切り落とされて悟る,次の第三則『愚胝堅指』は恐ろしい。

 愚胝和尚は,何か質問を受けると,いつもただ一本指を立てるだけであった。
 のちに,愚胝の寺に一人の小僧がいて,寺の外の人に,
「老師はどんな法を説くか」
 と訊かれて,和尚のまねをして同じように指を立てた。愚胝は,これを聞くと,小僧を呼んでその指を切り落とした。小僧は痛さのあまり大声をあげて泣きながら,室外に出ようとした。愚胝はふたたび小僧を呼んだ。小僧は振り返った。そのとき今度は愚胝が指を立てた。小僧ははっと悟った。
前掲書,65 頁。

政局

社民党・福島瑞穂消費者・少子化担当相が普天間問題の政府方針への署名を拒否し,その結果罷免された。いったい,社民党が政権において実現したかったのは普天間基地の県外移設だったのだろうか? 少子化や雇用等の社会問題への対応政策だったのではないだろうか?

いろいろな争点が民主党との間にあるのは当然である。その上で民主党と組んだからには,目指す最大の目的に向かう過程で歩み寄りがあるはずである。普天間問題などという本当につまらない問題を巡って政権放棄を決意してしまうこの脆弱さ。「辺野古なんて認められない」ということに固執するのではなく,さらにその次はこうしよう,あるいは沖縄の負担の分散をこういうふうに議論していこうね,と問題提起することで未来のよりよい筋道を付けること。これこそが,建設的に民主党と折り合いを付けるだけでなく,本当に沖縄のことを考える姿勢ではないだろうか。

社民党らしい子供じみた偏屈。おかげで 5 末で一段落するはずだったくだらない普天間問題が「政局」になってしまった。本当に時間をかけないといけない問題がますます後回しにされる事態を招いた。それは,社民党にとっても,己の本来の仕事を投げ出す結果にもなってしまった。福島さんはそれに気付かないようである。マスコミが騒いでいる問題で「きれいごと」に固執する体質。

「廊下を走っちゃダメよ」というルールを決めても,火事の場合など走らなくてはならない局面がある。福島さんの行動は「火事になっても決めたことだから走っちゃダメ」というのと同じように私には見えるのである。物事の局面がまるで見えていない人たち。「そこに行きたいなら,この道を真っ直ぐ進みなさい」と言われて「そうするとあの電信柱に当たって進めないじゃないか」と悩むような一途なバカが,最近,多過ぎる。社民党はこれと同じに私には見えるのである。普天間問題なんてその電信柱ですよ。それがなぜわからないのか。

「だから社民党はダメなんだ」。これが私の結論。

難しい決断

サッカー W 杯日本代表が韓国に惨敗して,日本のサッカーファンに動揺が走っている。なかでも,日本サッカー界の至宝・中村俊輔選手が韓国戦で左足首の怪我を悪化させたことは,日本サポータを絶望させるに十分の衝撃があった。俊輔批判が噴出している。

中村俊選手の左足怪我が話題になってからじつはすでに二ヶ月近い。そこへこの 5 末に悪化させたとなると,あと半月で怪我を完治したうえさらに最高の状態に持って行くのはもはや無理だろう。本大会において,最高の状態で中村俊選手の黄金の左足を見られないのは残念でならない。中村俊選手にとっても悔しいことには違いない。けれども,怪我を押してまで彼を出場させるのはあり得ない判断だろう。

岡田監督はマネージャとして難しい決断を強いられていると思う。中村選手の回復が 30 日の英国戦に間に合わなければ,決然と入換えるべきではないだろうか。予備登録された選手には,小笠原,石川,香川など,可能性を秘めた素晴らしい選手がいる。判断が早ければそれだけ,交代要員が代表に溶け込む時間をより長くとることができる。また,こういう沈滞した雰囲気においては,ドラスティックな変化もある意味で必要だろう。

さて,岡田監督はどう判断するのだろうか。もちろん,中村選手が驚異的に回復し本大会で活躍する姿を見ることができるのが最高なんだけど。さんざん叩かれているだけに,ぜひとも実力を発揮して 4 年前の悔しさを晴らしてほしい。

※ Post Scriptum

敬愛する米原万里がこんなことを書いていた:「日本人は団体行動は得意だが,実は,チーム・プレイは苦手である。集団での踊りやダンス,オーケストラや吹奏楽の演奏などで手足の動きを揃えたり,音を揃えるのは巧い,しかし,誰もが同じ動きをしていてはチーム・プレイは成立しない。『ゲームの流れのなかで,あらかじめ予定していたこととは異なる動きをするのがチーム・プレイ』である。日本人は,チーム・プレイ=団体行動というふうに混同しがちだけれど」(米原万里『打ちのめされるようなすごい本』文春文庫,154 頁)。

農協的日本人気質そのものから変革しないと,サッカーも強くならない,ということをこの言は強烈に言い当てている(米原の言にもうひとつ私が付け加えるとすれば,日本人はチーム・プレイを「犠牲」とはき違えているところがある。日本人は軍隊に向いている — ゲリラによって一網打尽にされてしまう「昔の」軍隊に)。野球などチーム・プレイの必要性の薄いスポーツではそこそこ成果を出せても,サッカーのような常に流動するチーム・スポーツじゃ,右顧左眄の民族性ではどうしようもないようである。サッカーにおけるいま現在の不甲斐なさについて反省すべきは岡田監督,日本代表というより,国民性そのもの,われわれ自身ということか。こういう点を考えさせられる深いところが野球にないサッカーの面白さである。オシムさんが人生に譬えたのもよくわかる。

韓国戦惨敗

W 杯前最終の日本での壮行試合対韓国戦は 0--2 で日本が完敗した。ベストメンバーで臨むと聞いていたのに,日本チームのスターティングメンバー,サブメンバーを見た瞬間にがっかりさせられた。私のような素人が見ても,「勝つ気がない」と思わせるものだったからである。「勝つ」ことではなく,いままでやったことのない守備的コンビネーションを「試す」— これが今日のコンセプトだったように思われた。なんでいまごろ? 埼玉スタジアムを満員にしたサポーターに失礼じゃね? なんで闘莉王,内田,松井を温存するのか? あるいは,対韓国を考えて,守備のヘボい内田はよいとして,当たりの強い岩政をなぜ使わないのか? さっぱりわかりませんでした。

パク・チソンは試合前,東アジア選手権・日本--韓国戦の映像を見て,「日本は以前よりハッキリと弱くなった」と指摘したそうである。まさにそのとおり。オシム監督のころあれほどうるさく叩き込まれていた「考えて走る」ことも,スピードも,日本は韓国に圧倒されていた。韓国のプレス,フォローの速さのせいか,日本の選手ってこんなにヤワでトロかったっけとびっくりしてしまうくらいだった。韓国は中国と同様,焦りを感じるととたんにガサツな(危ないファウルを連発してしまう)サッカーをする傾向があるが,今日はどちらかというと危険なプレーは日本に目立った。後半早々に足が止まってしまい,そうするより手のない試合運びだった。目を覆うばかりだったのである。いまや,残念ながら,日本対韓国は「因縁の決戦」,「宿命のライバル」どころではなく,まるで日本対香港を逆の側から見ているように,実力の偏差が著しくなってしまった。

W 杯本大会を直前にしてこのざま。でも,私はあまり怒りを感じない。今回の結果は先の東アジア選手権(そのときはじめて日本の置かれた位置を認識して,怒りを覚えた)から想像できたことだから。ただ,「勝利」に対するチームの淡白さ,拘りなさはもはや絶望的である。監督に勝つ気合いがないらしい。予選 3 戦全敗は致し方ないと半ば諦めかけていたが,こうなると恥ずかしい試合だけはしないでほしい。かくして,この日韓戦,どんどん期待のハードルを下げてしまう結果になってしまった。でも — でもばかりだけど — まだ終わったわけじゃない。初戦まで,まだ三週間ある。

風邪・いろいろブツブツ

このくそ暑くなるなか,風邪をひいてしまった。Web を見ながらブツブツ。

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韓国哨戒艦「天安」の沈没事件は北朝鮮の魚雷によるものとの調査結果が出て,北と南で非難合戦が繰り広げられている。魚雷を喰らっておいて,いまごろ「調査」の結果が提出され,犯人は北朝鮮だった,なんて信じられない。北朝鮮の潜水艦ってそんなに巧妙な攻撃ができるわけだ。というか韓国の海軍力はそれくらいヘボだということか。ソナーは働いていなかったのか,反撃はしなかったのか。調査結果報道にはそういう観点はないようである。そもそも,経済的失敗でキムさんが中国にとりなしを依頼しに行く状況で,北朝鮮はこのようななんのメリットもない暴挙を行うだろうか。なんかこの事件ウソ臭い。

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日経『自公,農相不信任案を共同提出へ 口蹄疫で責任追及』を見た。自公という人たちはどうしてこうも現場のことがわからない暢気者なのか,と呆れてしまった。口蹄疫問題はまさしく「危機」なのだ。責任追及に汲々とする前に,やることがあるだろう。いまは,最速・最善の対策に注力すべきときなのである。

私は SE という職掌柄,トラブルに見舞われることが多い。その対応を誤ると新聞沙汰になるかも知れないシステム障害にも遭遇した。こういうとき,問題の対策,リカバリを何よりも優先する。技術的・実務的オペレーションに注力する。その原因がどうして作り込まれたのか,誰が悪かったのかは,トラブルを収拾したあとに分析・整理すべき話である。なのに,対策会議を開くと,「どうして XX の問題に気付かなかったのか」とか,「なぜ顧客に YY をきちんと通知しなかったのか」など,問題の対策とは直接関係のない動機的要因について,現場責任者を責め立てるようなことしか言わないスタッフが必ずいる。これは正論かも知れないが,一刻を争う問題解決にとって雑音にしかならない。しかもこいつら(われわれ現場の人間はそういう人たちのことを「評論家」と呼ぶ)は現場担当者の責任追及で己の仕事を全うした気になっている。こちらは「じゃあ,この方面の調査は俺たちに任せてくれ」という声を期待しているのに。私は会議のあと「ゴミみてえな奴らを会議に呼んですまんかった」と担当者に詫びるわけである(当然,こういう経験から,「評論家」を対策会議に呼ばない知恵は付いて来るのだけど)。

口蹄疫問題に対するこの自公の態度を見て,こいつらはまさに「評論家」だと,私は肚が煮えくり返ってしまった。こいつらには二度と投票しねえぞ。まあ,民主党も野党だったら同じ愚行を犯しただろうことは容易に想像できるのだが。つまり,日本の政治家がいかに危機対応において脆弱なのかが,こういうところでわかると思う。

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サポの人種差別発言へ100通超の抗議メール…浦和』。浦和レッズのサポータがベガルタ仙台の選手に対し人種差別(?)的ヤジを飛ばしたのが問題になっている。具体的にどのような発言がなされたのか不明である。仙台には北朝鮮代表選手がいるので,おそらく朝鮮人差別に関るヤジだったと想像できる。

この問題への反応として,記事に付いたコメントを見ると驚く。「差別的発言は許せない」というごく全うなコメントがある一方で,「中国では反日的ヤジや侮辱が大っぴらになされているのに誰も中国に抗議しない」などというコメントが遥かに多数の賛同を得ているからである。問題を別の問題で混ぜ返す不誠実。こういうコメントを読むと私は虫酸が走る。こんなコメントに「そう思う」が大量にクリックされているこの病んだ現実。

浦和サポータの差別発言が中国における反日ヤジと比べて遥かに悪質であるということが,このコメントをなす人,それを支持する人たちにはわからないらしい。それは浦和サポータの発言が観客席という安全な場所からなされた卑劣極まりない「個人攻撃」であるという点である。北朝鮮が政治的敵対国であるのは認めざるを得ないけれども,だからといって,北朝鮮政府とは何の関わりもないベガルタ仙台選手個人を侮辱するってか? 救いようのない恥。浦和レッズのサポータにはこんなやつがいるのか,と心に留めておくことにしよう。

口蹄疫

宮崎県が口蹄疫問題で非常事態宣言を発した。連休前後からこの問題がちょろちょろニュースになっていた。現場ではおそらく地獄のような日々だろうと思う。誰が悪いのかという議論は後回しにして(責任追及好きの無責任マスコミは,東国原知事に一喝されたらしい),いまはとにかく宮崎県名産牛・豚が壊滅的打撃を受ける前に終熄させることに注力すべきなんだろう。

これこそ今年最大の危機的問題だと思う。5 月末決着を目標とすべきなのはこちらである。こういうときこそ自治体,政府の判断が死命を制する。自治体・農水省官僚の情報収集力・実務能力が問われ,首長の判断が問われ,ひいては政府,民主党への危機対策能力が問われる。もしかするとこれは東国原知事,農水相にとって致命傷になるかも。

岡田さん,可哀相

サッカー W 杯代表が決定して,直前の期待感がいや増しに高まって来た。こういう楽しみを味わうことが出来るようになったことの仕合わせ。1993 年のドーハの悲劇も,1997 年のジョホールバルの歓喜もテレビに齧り付いて観た私は,日本が 4 大会連続出場を果たしたことをなにより凄いことだと改めて思う。

ところが,サッカーファンの W 杯への期待度がかつてないくらい低いという記事をよく目にする。岡田監督への批判が凄まじい。今日もサポートメンバー 4 人が発表されたが,その人選に対しネットの意見は否定的なものばかりである。やることなすこと腐されているという感じ。カズをなぜ呼ばないのか,などというほとんど自虐的にしか聞こえない声が結構多いのに驚く。どうも,すでに W 杯は日本のサッカーファンにとっては終わったも同然のようである。でも,勝負はやってみないとわからないわけで,日本チームにだって一縷の望みはあるわけで。これじゃ,岡田監督,選手たちがあまりに可哀相じゃないか。

負の期待感に覆われたこの雰囲気。ならば,自虐ネタで楽しむのも面白いのではないだろうか。自虐的予想で現実を見つめておくことにより,あらかじめ 3 戦全敗時の落胆のハードルを思いっきり低くしておく。これは精神衛生上,大人の振舞いではなかろうか。そうすると,もしも,もしもですよ,仮に,神風でも吹いて,我らが代表が 1 勝でもしてくれようものなら,その喜びも一入じゃあありませんか。

守備にミスの多い日本チーム。どうなるんでしょうか......

カメルーン初戦。日本は大舞台の割に落ち着いた無難な立ち上がりを見せたが,前半 30 分,ロングボールを入れられて闘莉王がエトーと競り合って抜かれそうになり,エキサイトしてついついケリを入れてしまう。一発退場。ブブセラの咆哮が一気に高まる。後半開始早々,ゴール前のせめぎ合いで内田が相手の足を引っかけてファウルを取られてしまう。その 10 分後,今度は長友がペナルティエリアでハンドを献上してしまう。こうしてなんとペナルティキックで 3 点を失う。結局,日本は初戦を 5--0 で惨敗してしまう。岡田監督:「ちょっと選手に硬さがあった。高地対策はしていたが,南アフリカはいま冬だということを忘れていた」。日本国内では「いまからでも監督を代えろ」との大合唱が起こる。

第 2 戦。対戦相手は強豪国オランダ。なぜかここに来て,スリーバック布陣のスターティングメンバー。前半 20 分,岡崎が倒され,ゴール中央 25 メートル付近でフリーキックのチャンス! 中村俊輔,本田圭祐,遠藤保仁が厳しい表情で話をしている。いきなり中村と本田がジャンケンをはじめる。なぜかアイコでしょが続く。ホイッスルが鳴るので,しようがないなあと遠藤がコロコロとフリーキックを蹴ると,なんとオランダのキーパーが — まるでウイイレかと思うばかりに — 逆を突かれ,ゴール。日本先制! 岡田監督は大喜び。しかし,それも束の間,わずか 3 分後,ロッベンに稲本,中澤,岩政がクルクルとかわされ,当たってもいないのに駒野が倒れるスキに(ロッベンの鼻息で吹っ飛ばされたのか?),ゴール右に同点打を突き刺されてしまう。ここでああ,またかという白けた空気のチームに漂うのが,テレビ画面から地球の裏側にいる日本サポーターにまでありありと感知される。後半に入り,スピードの落ちた日本はさらに 3 失点。うち 1 点は,DF がボールを回す一瞬の隙を突かれて横パスをインターセプトされたものだった。4--1 で完敗。結果は下馬評通り。岡田監督の談話:「先制した時点でスリーバックが生きて来ると思ったが,相手のフィジカルの強さは予想以上だった。ポゼッションはウチが 7 割くらいあった。一瞬を突かれた感じ。惜しかった」。2 戦連敗でグループリーグ突破は不可能となった。日本ではその数時間後,満員電車のサラリーマンの手にある東スポ 1 面には,次期代表監督騒ぎが伝えられる。怖い顔をした犬飼会長の写真の下には「もっとブーイングをしてほしい」とのキャプションが読める。なぜかマツコ・デラックスの写真もその横にあるが,コメントは残念ながら読み取れない。サラリーマンはというと,桃色ページを見ている。

第 3 戦。これまで 1 勝 1 敗,勝てばグループリーグ突破が決まるデンマークは,主力をベンチスタートで温存するという,日本を舐めきったスターティングメンバー。しかし,日本は開始早々からデンマークに攻めまくられ,防戦一方になる。第 2 戦までノーゴールだった岡崎のワントップに代えて大久保,玉田,矢野のスリートップで攻撃的布陣をとった日本は,意外にも矢野の体を張った守備などが光り,失点を免れて前半を終了。後半,焦ったデンマークは主力を投入。日本はベントナーとトマソンのマークに集中し過ぎたためか,後半 40 分,コーナーキックからフリーになった若い MF エリクセンに頭で押し込まれ先制されてしまう。残り 3 分,岡田監督は矢野に代えて期待のフォワード・森本を投入。日本に攻撃のリズムが出はじめる。ロスタイムに入り日本は,足の止りかけたデンマークに対し波状攻撃をしかけるが,アッガー,キアルの鉄壁センターバックにことごとく跳ね返されてしまう。張り切った森本は,DF ではなくキーパーを背負ってしまい,中村憲剛の絶妙なスルーパスはオフサイドの判定。手元の時計・ロスタイム残り 20 秒のところで,大久保がゴール 20 メートルの絶好の位置でファウルを得る。中村俊輔 — 第 2 戦のあのジャンケンで勝利を収めていたのだ — の黄金の左足に期待がかかる。はるばる日本から危険を承知でやって来たサポーターは,アフリカ人に対抗しようと日本から持ち込んだホラを吹きまくる。キーパー楢崎も,攻撃に参加しようとゴールを放り出して上がって来た。俊輔のフリーキックやいかに。

試合終了後,テレビ局にゲストで呼ばれていたイビチャ・オシム前日本代表監督がひとこと:「人生にも,サッカーにも,負け続けることがある」。アナウンサーは「このたびはこんな真夜中にお越しいただき,ありがとうございました」と丁重に感謝のことばを述べる。「いやいや,オーストリアにいると思えば普通の時間,時差ボケにならずにすんだ。おまけに日本は南アフリカと違って夏だ。それより,岡田監督の健康が心配」とオシム。画面には本田圭祐選手がタオルをかぶって横たわっている姿が映し出されている。なぜか両腕に高級腕時計を嵌めている。そこに,現地アナ(残念ながら男子アナ)からデンマーク監督の談話が伝えられる:「日本は凄い(fucking)チームだ。フォワードの守備能力,ディフェンダーの攻撃能力に驚いた。東洋の神秘を改めて思い知らされた」。どうもこのアナウンサーは,これを日本への賞讃だと勘違いしたらしい。デンマーク監督はこれ以外のこともたくさんしゃべったに違いないが,ここだけが紹介された。ちょうどそのころ,2ちゃんねるでは「W 杯戦犯を叩こうスレ」,「予選突破韓国・北朝鮮は審判を買収スレ」が真夜中にもかかわらず大盛況になり,とうとうサーバーがダウンしてしまう。

疲れました。なお,本サイトの記述はフィクションであり,実在する個人,団体等とは一切関係ありません。為念。とはいえ「人生にも,サッカーにも,棚からぼた餅がある」と信じて日本代表を応援したい。頼むぞー。

※付記

日本チームの最大の問題は,点取屋がいないとかそういう技術的な点ではないと思う。11 人のなかにリーダー的存在がまったくおらず,「チーム」をなしていないところではないだろうか。カズを呼べなどと愚かな注文をするのは,この意味で少し理解できる。でもリーダーとは,ピッチの外にいてはダメで,戦う過程でレギュラーのなかから選手の暗黙の総意によって自然と選ばれるべきものである。「カズ,川口,もしくは中澤,キャプテンよろしく」なんて,バカではないだろうか(そういう「頼まれ」リーダーは責任だけを負わされる不幸な存在である)。中村俊や遠藤,中澤あたりが本来ならこの役割を果たさないといけないのに,彼らはどうも自分のプレーだけを大事にする「性格」であって,リーダーの素質がまったくない。だから,わずか 1 失点でチームがガタガタになってしまうのだ。これが日本チームの悲劇ではないだろうか。宮本のような,ヘタクソだがキャプテンシーを発揮する選手が選ばれたジーコ監督の一時期,日本は素晴らしい実績を残したではないか。岡田監督の責任があるとしたら,この点だと思う。

あまりに悲観的な物語に,かつんと来た方,じつは私はあなたの側にいます。いまの可哀相な期待感のなかで「ベストフォー」という目標に,ファンは「ちょっとここだけにしておいて」風の白けを感じている人が多い(グループリーグのベストフォーということか? なんていう人もいる)。また,言葉尻を捉えられて,いまや「ハエ・ジャパン」とまで蔑まれている。ちょっと酷くね? ところが,本田圭祐選手はそこへもってきて「優勝をめざす」とぶち上げた。やっぱりアスリートはこうでなくちゃ。私はたとえ上のような事態になったとしても,W 杯日本代表チームを尊敬いたします。

映画『殺人の追憶』

映画『殺人の追憶』は 2003 年,韓国製作の犯罪ミステリーである。監督・脚本ポン・ジュノ,主演はソン・ガンホ,キム・サンギョンほか。

韓国のエンターテーメントというと,最近ではなんといっても恋愛ドラマ。いわゆる「韓流」は安定したジャンルとなった。最近の希薄な人間関係・薄情な世相に嫌気がさして絶望寸前にある日本のオバ(ア)さんたちから,絶大なる支持を得ている。男優も,女優も,話の作りも,「純愛」のリアリティをいまだに失っていないところにその魅力があるのだろうと私は思う。確かに「韓流」俳優には,かつての「スタア」の面影がある。日本の俳優が堕してしまった「イケメン」,「カワイイ」の情けないくらいの薄っぺらさ・安っぽさを,免れている。

私はというと,チェ・ジウやキム・テヒの美貌には納得できても,「韓流」恋愛ドラマには,どうも満足できない(純愛よりもドロドロが好きなだけなんだけど)。しかし,オバさんたちからあまり騒がれることのない韓国ミステリー映画は面白い。『殺人の追憶』はなかなかの味わいがあった。この映画は,1980 年代に韓国国民を震撼させた,現在も未解決の連続女性殺人事件(華城連続殺人事件)に基づいている。ネタバレになるかも知れないが,映画の魅力の本質とは関係ないので書いておく。この事件を追う二人の刑事の視点から物語が描かれる。

農村と近代的な大工場とが共存する地方が舞台である。農村というイメージには「美しい自然」という紋切型が付いて回るが,この作品にはそういう郷愁がカケラもない。目的が近代的生産に限定される巨大な「工場」のカタカタ稼働する「農村」は,それ以外何もないという,息苦しくて逃げ出したくなるような重い閉塞感に充ちている。映像もそれをよく表していた。農民・古い住民と雑多な工場労働者とに現われる,人間関係の濃い,薄いが,連続殺人の猟奇的恐怖を掻立てる。主人公の関る登場人物は,どういう生い立ちをし,どこから来て,どんな人となりなのか,それがまったくわからない。農村で生まれたから,あるいは,工場で働くためにやって来た。ただそれだけ。なぜ殺されなければならないのか。なぜ殺すのか。この「わからなさ」。作品の本当の怖さはここにあるのである。底なしに暗い。

知的障害のある貧しい若者がどうも犯行を目撃したらしいのだが,主人公の刑事は彼から何の手がかりも引き出すことができない。私の幼いころの記憶が甦る。近所に少し気の触れた,どこの誰かも知らない兄ちゃん(「あーやん」と私たちは彼のことを呼んでいた)がいた。草野球をしていると彼が外野のほうからじっとこっちを見ているのに,何の異常さも感じなかった。私は,映画のこの知的障害者を見て,少年時代には気付かなかった秘かな鬼気に触れた心地がして,身震いした。記憶のなかのあーやんは「何かを見た人」だったのではないかと。

工場労働者のオタク風の若者など何人かが疑われる。主人公は犯人を追いつめた瞬間を感知しつつも,その考えはことごとく外れてしまう。そして,犯人・動機がわからず仕舞で物語は終わる。ミステリーとしては,あの真実が明らかになる大団円のカタルシスの決定的に欠ける映画である。なんだこの映画。でも,この疲労感,閉塞感,無力感は,現代韓国の何かに目覚めた人の現実感覚なのか,という思いに至るのである。解決をしないがゆえに何かを感じさせる,珍しいミステリーである。

舞台は,そのことばの本当の意味で,「美しい自然」などという牧歌を拭い去られた「田舎」である。映像の「味」,「色」は,いまの日本人の趣味に合わないと思う。虚飾に慣らされた趣味は,この映画の醸し出す現実性には耐えられないだろう。
 

殺人の追憶 [DVD]
アミューズソフトエンタテインメント (2006-06-23)

『殺人の追憶』の表現は日本の 60--70 年代の暗くじめじめした映画(非大衆嗜好の作品)を思い起こさせる。おまけに,そんな日本映画とは違い,当然ながら「サヨク」的狡猾さがまるでない(韓国人にしかわからないポリティカルな何かはあるかも知れない)。韓国にはまだまだこうした優れたミステリーがあるはずである。ちょっと探していろいろ楽しみたいと思っている。日本の日活ロマンポルノのようなエロ映画もあるに違いなく,そういうものもぜひ観てみたい。

天声人語のエリート主義

先日,谷亮子参院選出馬について書いた。その元ネタにしたテレビ朝日番組はスーパーJチャンネルである。いま少し冷静に考えると,もしかすると「ママでもギイン」などとホザいたのは,チャンネルを適当に変えるなかで目にした,別のテレビ局のキャスターだったかも知れない。また,「解説委員」と私が思ったのはそうではなく,ジャーナリストの大谷昭宏氏である。いい加減なことを書きました,訂正します。でも,翌日 12 日の朝日新聞朝刊の「天声人語」は,この大谷昭宏氏とまったく同じ意見を表明していた。

天声人語曰く,「しかし,今ほど,政治家にプロの意識と手腕が必要な時はない。国を立て直す情熱を政策に練り上げ,国民に説く知と技である。さわやかな笑顔はオマケでいい」。「さわやかな笑顔」=ヤワラちゃんの人気には,「プロの意識と手腕」,「知と技」は縁もゆかりもないと断言しているのである。まあそれはよいとして,なぜ政治に「プロの意識と手腕」が今必要なのか。じゃあそれを持つような人は誰なんでしょうか?

「プロの意識と手腕」,「知と技」— そんな空想的なことなら私にだって言える。サッカー日本代表選出が難しいのは「得点力が高く,守備の完璧な選手」などを注文してもなんの現実性もないからである。現実にいる選手のなかからのベストセレクションを結果で証明しなければならないからである。こんなことは,誰でも知っている。朝日の注文は,サッカー日本代表に必要なのはクリスチアーノ・ロナウドのような選手である,というのとなんら変わりがない。なのに,このアホみたいな空想的政治論議の一方で谷亮子参院選出馬をアプリオリに腐す,その傲慢さが頭に来るのである。「プロの意識と手腕」を持つ者 — 朝日が言いたいのは,その言説に少しでも現実性(想定選手)を汲み取るとすれば,それはつまり,算数・国語・理科・社会ができる東大卒の官僚だということではないだろうか。エリート主義的朝日らしい見解だと納得が行った。

また,天声人語曰く,「自民を見限り,民主に裏切られた数千万人が票を握りしめてさまよう夏」。数千万人が「民主に裏切られた」と断言するのは具体的にどの事案・法案を指しているのでしょうか? 子供手当,外国人参政権,公務員法改正,これらはマニフェストから伺われる法案であって,はしごを外したわけではない。事業仕分けは国税の使い方への国民的関心を喚起した素晴らしい試みである。「裏切り」。小沢のカネ問題と普天間問題くらいしか思い当たる節がない。

でも,それは「裏切り」だろうか? 「裏切り」とは,基本的約束・期待をはぐらかすということである。小沢さんの疑惑は選挙前から存在した。ということは有権者にとって小沢の疑惑は想定の範囲内の話なのである。となると「期待」とは,朝日にとって,小沢が逮捕されることのようである。確かにその期待は「裏切られ」ている。普天間問題にしたって,衆院選後,民主党政権になって吹き出した事案であって,なにより「裏切り」と感じているのは「最低でも県外移設」に一縷の望みを抱いた他ならぬ沖縄県民のみであって,日本国民の大勢(「数千万人」マイナス百万人程度?)はそれまで普天間事案なんて何の拘りもなかった。いま現在の報道というと,5 月末の首相の約束がどうのこうのという解釈と,「首相たるお方の軽口」批判に大童なだけの,情けない議論をしているだけではないか。心配しなくても鳩山さんは約束通り「また先送り」という決着をつけてくれるはずである。朝日は「数千万人」が「裏切られた」などとどうして膨らまし粉をまぶすのか。

これほどアホらしいと思いつつ,朝日新聞を購読しているこの私。お嗤いください。この「数千万人」の有権者は,朝日のエリート主義(「票を握りしめてさまよう」などと徹底的に有権者を蔑んで顧みないエリート主義)とは異なる判断をする,と私は確信している。先日,4 月 18 日に行われた帯広市長選挙で,民主党推薦の米沢さんが僅差ながら当選を果たした。これは,あの「犯罪者」・石川知裕衆院議員が米沢さんの応援をした選挙の結果である。朝日的偽善(朝日だけではないが)が石川・小沢バッシングをするなか,帯広市民は朝日的エリートバカよりもよっぽど正鵠を射た判断をしたのだ,ということを私は思い知らされたのである。

私は民主党を擁護しているのではない。もともと私は民主党について心情的に旧自民党よりも嫌いなんである(鳩山,小沢,仙谷,北澤など一部の肚の座った人以外は,きれいごとの好きな,マスコミ報道に戦々恐々とする優等生ばかりだからである。一方今の自民党はというと,私の好き嫌いを超越し,だだの政治的「ゴミ」になってしまった)。でも,雇用問題(派遣社員,フリーター,ニート問題含む)や少子化問題など,本当に大事だと私が思う焦眉の課題について,「次の世代」をしっかりサポートする政策を現実的に打ち出せそうなのは,いまのところ民主党しかいないのである。外交でも,いままでの対米従属(「美しい日本」)を脱して中国・ロシア・韓国・北朝鮮ときっちり向き合うことで,北方領土問題,北朝鮮拉致問題,エネルギー問題において,新しいブレークスルーを齎す可能性を秘めているのも,民主党しかいないのである。なのに,そういう大事な大事な問題が普天間やら政治資金などのハナクソのような「エピソード」ばかりで曇らされている。政治家の時間が浪費させられている。いまだに嫌中・嫌韓・嫌露の風潮が強い。こんな状況を招いた張本人は誰なのか。新聞,テレビじゃないか。

谷亮子参院選出馬・W 杯代表発表

今日,会社から帰宅して夕刊を見ると,「ママでは銅」だった谷亮子が次の参議院選挙に民主党から出馬するとの記事が出ていた。テレビを点けるとやはりその話題がニュースで流れていた。やはりどのチャンネルも同じ話題だった。テレビ朝日のニュースキャスターは「ママでもギイン」などとオヤジ・ギャグ(これこそオヤジ的な下品さがある)を発していた(他のテレビ局も,これとまったく同じ加齢臭ぷんぷんの下品なギャグを,恥ずかし気もなく口にしただろう,というのも容易に想像できる)。

そのニュースの解説委員(朝日新聞の社説を書いて来たようなベテラン記者だろう)が,民主党,自民党,なんとか党(元プロ野球選手の中畑氏を擁立)などがこぞって有名人を候補に立てて,人気取りをあからさまにしている様に,「情けない」とこぼしていた。要するに「有名だからといってスポーツ以外に何も知らないバカが政治家なんておこがましい。世も末だ」と言いたいらしい。この解説委員と同様の意見をもつ人が多いはずである。だからテレビに出演する識者として堂々とこのような見解を提示できるのである。

でも私の思うに,政治というものをエリートがなすべき特殊領域であると宣言しているに等しいこういう人たちこそが,政治家をどこか非日常的な存在に仕立て上げ,「陰謀」やら「謀略」やら「面従腹背」やら「私利私欲」やら「言行不一致」やらで政治家不信を煽り立て,政治への国民的関心を殺いでいるのである。このテレ朝解説委員は「一方で普天間という喫緊の課題があるのにですね,情けない」などとホザいていた。普天間なんかより,国民的英雄である谷亮子の議員としての活動に注目が行くことのほうが,よっぽど重要である。政治とは柔道と同じで真剣勝負である。谷亮子はそういう気持ちで出馬を受けたはずである。そういう真剣勝負をしてくれるなら,少しくらい脇が甘くとも,私は断固支持する。おそらく国民の判断もこのテレ朝エリート主義的知識人よりも確かなものだろうと私は確信する。

* * *

サッカー W 杯日本代表選手 23 名が決まった。なんで大久保がいるんだ?,えぇ? 今頃になって川口が選ばれるなんてわけわかんねぇ!,に類する,負の「サプライズ」を疑問視する意見が目立つ。でも,監督の悩んだ末の決断なのだから,この人選に私は十分納得できる。選ばれた選手たちを祝福し,1 ヶ月後の活躍を期待したい。

代表に選ばれた選手のなかでは,ロシア 1 部リーグ CSKA モスクワで活躍する本田選手に注目が集まっている。私は,昨年のオランダとの親善試合を観たときには,役割分担の徹底したフィジカルに強い欧州サッカー向きのよい選手であれ,守備的であるべき日本のサッカーには逆効果だと,彼について思ったものである。そんな本田選手も少しずつプレーを変えて来ているのはなんとなくその後の代表戦でも感じられ,なによりロシアでの光るプレーで日本のファンの期待を盛り上げてくれている。

本田選手が活躍したとき,CSKA モスクワの Web サイトを覗いたことがある。その試合に関るビデオクリップがいくつかアップされていた。そのうちの一つ,ヒーローインタビューでの彼の受け答えが面白かった。通訳者がテレビ局のインタビュアーのロシア語を英語に翻訳して本田選手に伝え,こちらも英語で応えていた。本田選手は自分の言っていることをロシア人の通訳がうまく伝えているのか気になったのか,"Do you understatnd?" と声を荒げて通訳につっこみを入れていた。「おめぇオレの言うことわかってんのか?」って感じであった。おお,ロシアのマスコミにも高飛車に接することのできるこういうヤツこそが,いまの日本代表に相応しい。

ロシアのテレビ中継における本田選手のゴールシーンのビデオクリップも見た。実況アナウンサーが "Хонда! Настоящий Самурай!"(ホンダ,これぞ真のサムライ!)と雄叫びを上げていた。ヴィヴィッドな日本人がサムライに譬えられるのは,ホント,世界共通の「紋切型」なんだと半ば呆れた。

今度の W 杯日本代表もサムライブルー。WBC 野球とは違って,彼らが 32 チームのトップを切って帰国を余儀なくされ,成田空港に到着するや「切腹」を迫られるのかと思うと不憫である。負けて不貞腐れる本田選手に対して,ネットの馬鹿者どもが「品格」を持ち出して悪口を書き立てる様がいまからありありと想像できる。それでも日本代表は我々の代表である。W 杯に出ただけでも凄い。堂々と戦って来てほしい。私はすごく期待しているのである。私の予想はグループリーグ 3 戦全敗だけど(付記:岡田監督の 4 バック主体の攻撃的布陣は,弱いくせに守備を軽視する滑稽戦術だと思う。敵をも己をも知らずして戦いに臨んでいるのではないか。3 戦全敗)。

薫風の五月

黄金週間以来,やっと五月らしい日和が続くようになった。躑躅が咲き誇っている。昼間はかなり暑い。夕べには窓を開けると涼風が気持ちよい。

金曜日,妻の両親が来た。土曜日,義父を川崎駅周辺の書店に案内。妻と義母は裁縫用品などのお買い物。これは義父母が上京した際のパターンになっている。とにかく義父は本が好きである。購入した小冊子を見せてもらった。義兄 — つまり義父の長男にして,妻の兄 — の写真とともに,彼の推薦する本の書評が掲載されていた。

夕餉の折りは,やはりご近所・親戚の近況,ウチのガキども,妻の高校時代までの昔話などで盛り上がる。妻が小さい頃から作文に長けていたこと,高校の全国模擬試験・倫理社会で岩手県 2 位の成績を取ったこと,などが義父の自慢であったという。私も妻の書いた文章をいくつか読んだことがある。祖父母の追悼文集に寄せたエッセイ,大学時代に書いた『梁塵秘抄』論など,私なんかより遥かに上を行っている。しかし,主婦になり,子供を育て,出版社に勤めるなかで,なにがしかの文章を書く機会がない。僅かの暇を見つけて読書している。「ブログでも書いたら? うちのサーバにはもうアカウント作ってあるよ」と私が勧めても,「そんなヒマどこにあるの?」とニベもない。そういう私こそが彼女の書く可能性を奪っているのは疑いない。

* * *

義父母が北上に発ったあと,私はテレビで野球観戦。NHK-BS で阪神--広島戦。阪神の勝ち。私はスポーツニュースで結果を確認する程度で,野球を観戦することは滅多にない。観たときに阪神が勝利してくれると本当に嬉しい。まあ,それでよいと思う。

マートンという優れたリードオフマンに感動した。こりゃ,赤星はすぐ忘却の淵に沈むはずである。今日は,若い鶴投手,西村投手がよいピッチングをしたのが一番の見所だった(結局,鶴投手はピンチに根負けして,残念ながら勝ち投手になれなかった)。とはいえ,タイガースの投手陣はどうしてこうも安定感がないのか。久保田君,いいボール持ってんだから,もう少ししっかりしてくれよー。昨日は 8 点取りながら 11 点献上して負け。疲れる試合を続けている。最近打線が好調だと騒がれているけれども,少しよい投手に当たるととたんに沈黙するのは致し方ない。やっぱり投手力が不安定なチームは長い公式戦を経てトップには立てないだろうと思ってしまった。

イヤな事件/上海万博

日本全国が普天間問題で大騒ぎしている間に,世界では悲惨な事件や気味の悪い問題が立て続けに起きている。韓国の軍艦の爆発物によると見られる沈没。ロシア・モスクワでの自爆テロ。ギリシア財政破綻。これで,中東あたりに火が点いたら,せっかく経済もゆるやかに回復しつつあるのがまた石油ショックでいっぺんに冷え込んでしまうように思われる。

マスコミが伝えるように,本当に北朝鮮の機雷ないし魚雷で韓国軍艦が撃沈されたのだとしたら,韓国国民の好戦的世論が沸騰しかねない。でも,なんとなく,ただの演習中の事故のようにも思われる。昔自分で撒いた機雷にでも当たっちまったというのが実際のところだったりして。もし北朝鮮の悪意が絡んでいるとなれば,こんなときにキム・ジョンイルさんが中国外遊なんてしないだろうと思われるからである。北に対して敵対しているのに当然ながら同胞意識も強い韓国政府は,いまのところ民意を刺激しないよう,うまく処理しているように思われる。

* * *

上海万博が開幕した。予想通り,運営上のずさんさ,中国人のマナーの悪さばかりが面白おかしく報道されている。大阪万博のころの日本人のマナーはどうだったんでしょうか。列の割り込みを巡って大人達が喧嘩していたのを私はよく覚えている(関西人が喧嘩早いだけか?)。いま中国で列を争うのをテレビニュースで見ても,あのころの日本と何の違いがあるのかと思ってしまう。

私は大阪万博で米国館を見たさに 4 時間並んだ。アポロ 11 号の展示を絶対に見たかった。日本館では,日本 IBM が展示したおっぱいが 6 つある女の絵を見た恐怖で,その後しばらく夜中に苦しめられた(あれ,何だったんだ?)。三菱未来館の 360 度映像に度肝を抜かれた記憶がある。企業パビリオンの催しのほうが数段上だった。太陽の塔の顔のあたりに過激派のお兄ちゃんがしがみついているのを直に見た。ションベンを我慢しながら列に並んで喧嘩している人たちよりもアホやなあと,幼心にも思ったものである。これ,中国なら銃殺か。

いま中国の人たちは,私が子供のころ大阪万博を観て輝かしい未来を疑わなかったように,この上海万博を言祝いでいるに違いない。それとも,若者は「假的(ジャーダ)」(ウソだー)と斜に眺めているのか。いずれにせよ,羨ましい。元気な国の気分の高揚は,病んだどこかのお上品国にはおそらく理解できない。

聖三稜玻璃・結婚記念日

山村暮鳥を再読していて,この詩人の詩で三善晃が作曲した歌曲をいま再び聴きたくなった。ソプラノとピアノのための組曲『聖三稜玻璃』(1963 年)。20 年以上も昔,学生時代に聴いていた LP レコードを見つけ出すのにひと苦労した。ソプラノ・大蔵坦子,ピアノ・木村潤二による 1969 年の録音。1985 年にキングから発売された 1,500 円の廉価盤。

山村暮鳥の詩は,大正日本の急激に進化した暗い知性の魁である。その後萩原朔太郎によって確立された静かな倒錯を先取りしている。『聖三稜玻璃』,『黒鳥集』のあたりを読むと,小さな動植物の静物画に張りつめた狂気が漂うのを覚える。「聖三稜玻璃」とは聖なるプリズム。日本の新時代の詩人がなにか曲折を経た現実像に囚われはじめたことを象徴している。

つりばりぞそらよりたれつ
まぼろしのこがねのうをら
さみしさに
さみしさに
そのはりをのみ。
『いのり』—『山村暮鳥全詩集』彌生書房,1964 年初版,102 頁。

三善晃の歌曲のテクストは,「さみしさに」が「さみしらに」となっている。この歌曲集を聴くと,三善は暮鳥の静物画に隠された静かな狂気をうまく音楽表現として伝えていると思う。魚になった私は,空から垂れ下がって来る釣り針にじっと見入り,どうもそれを呑込む運命にあるらしい。寂しいから。(このレコードの解説者は,三善晃のなかの古典主義者とロマン主義者の二つの顔の相克について語っている。悲しいかな,これは組曲『聖三稜玻璃』の音楽について何も語っていない。古典主義,ロマン主義,といった抽象的な用語を弄ぶのなら,西欧の伝統と現代日本との相克とでも言ってくれたほうが,よっぽど三善音楽の悲壮感を表していると私は思う。)

しんじつひとりのきみゆゑ
ひともとのききやうをてをる
『ほんねん』—同書,105 頁。

私の本棚にある山村暮鳥全詩集・彌生書房版はとうに絶版になってしまっているので,簡単に入手できる詩人文庫版を挙げておく。三善晃の組曲『聖三稜玻璃』は,藍川由美による気合いの入った CD に収録されている。山村暮鳥の詩,三善晃の音楽は,幸か不幸か,私にとって「日本の詩,音楽」の原風景である。
 

高原断章~三善晃作品集
藍川由美
(株)カメラータ・トウキョウ (2005-11-13)
* * *

今日,5 月 5 日は 20 年目の結婚記念日だった。妻,娘と武蔵小杉でしゃぶしゃぶを食べた。息子はデート。新婚夫婦の新居のために買ったウチの日立製冷蔵庫も 20 年使ったわけ。娘がクレヨンで夫婦の絵を描いてくれた。

昨日は憲法記念日だった。

朝日新聞朝刊 1 面に改憲世論調査結果が掲載されていた。「9 条改正 67% 反対」とのことだった。それでも改憲不要 39% に対し,必要 47% と改憲賛成のほうが多いのはどうしてか。象徴天皇の条文だろうか。二院制の問題だろうか。朝日には,9 条以外の改憲議論にもう少し光を当ててほしかった。

憲法改正論者には,現憲法が米国押付けによって成立したとでもいうような点(古関彰一『日本国憲法の誕生』は,この「押付け」成立論を否定している)に自立精神の欠如を見て現憲法を否定する人が多いように見受けられる。私には動機でものごとの正否を判断するような馬鹿げた考えに思われる(横道に逸れますが,新字体・現代仮名遣いを否定する人たちもこの手の安直な「自立精神」論者が多い)。そのくせ彼らは,滑稽にも,大日本帝国憲法のようなそれこそ「輸入品」に憧憬を覚えていたりする(横道に逸れますが,「正字正假名」論者も,滑稽にも,明治時代の書き方を「日本の傳統」などと騙る)。何故,戦後の日本人の決断に意義を見出せないのか。酷い話になると,石原東京都知事などは日本国憲法の「文体」が気に入らないなどと言っている。石原文学の「文体」のほうがその和製マッチョぶりで私にはよっぽど酷いものに感じられるのだが。

私は改憲反対である。保守だからである。戦争放棄も,象徴天皇制も,二院制も,変える必要性をどこにも見出せない。

* * *

妻と池袋に行った。まずは腹ごしらえ。カジュアルなフレンチを東通りの小さなお店でいただく。「牛のタルタルステーキ」を注文したのだが,火が通っているので,なんのことはない,ただのハンバーグであった。薬香が効いて旨かった。

そのあと,ジュンク堂で本巡り。この書店,私がかつて見た最大クラスの店構えである。本棚を眺めながら散歩気分で店内を歩いた。散歩は何も町並,自然,人を眺めて歩くばかりじゃない。この国の人々の関心事を書物の背表紙で総覧するのも面白い。ジュンク堂はまさにそういう散策のできる本屋である。

中西進著作集,江戸漢詩文学論集,日本画家・速水御舟の画集,ロシア音楽史 2 巻本,バルトーク室内楽に関する論文集,等々に目が止まる。O'Reilly 原書コーナーで TeX 本を探してみたが,やはりなさそう。寺山修司やアレクサンドル・ソクーロフ,フランス・フィルムノワールの映画 DVD コーナーに誘惑される。リチャード・ストールマンのエッセイ集と,中世武家短歌の伝統に関する本を購入した。
 

フリーソフトウェアと自由な社会 ―Richard M. Stallmanエッセイ集
リチャード・M・ストールマン Richard M. Stallman 著
長尾高弘訳
アスキー
* * *

帰宅して,Mac OS X Snow Leopard に Emacs を組込む。Bazaar で最新 trunk を落として来て,ChangeLog を確認したら,メジャーバージョンが 24 に上がっていた。前提となる画像・フォント周りのライブラリを configure エラーが出るたびにいちいち追加するのも面倒なので,MacPorts で gimp を組込み,その筋のライブラリがわんさか勝手にインストールされるようにした。Emacs はこれですんなり make できた。

Wnn7egg でまたもやトラブル。起動してしばらくするとミニバッファに "backend timeout" が出て elisp 処理が中断する。その原因を探ったら Wnn7egg の egg-use-input-predict 関数,つまり楽々入力機能の指定のところであった。これを外せば OK になった。それでも,一発目の変換でしばらく考え込み,"backend timeout" が出る。その後は問題なく変換できる。Emacs を起動して最初の Wnn7 変換だけ時間がかかるのである。

よい辞書を備えたフリーの仮名漢字変換 IME がないので,私はいまだに Wnn7 を使っている。FreeBSD サーバ上で jserver を稼働させ,Mac OS X のクライアントからネットワーク越しに変換するのである。FreeBSD の版が新しくなるたびに面倒なライブラリ調整をしなければならず,いい加減 Wnn7 から足を洗いたいのだけど。でもオムロンは新しいバージョンを出してくれない。

Mac OS X Snow Leopard で X11-Emacs を使うなら,キーボード設定を変更したくなるはずである。C-SPC でリージョンをマーキングできるように,Spotlight のショートカットキーを変更しておくことをお勧めする。また,X11 の環境設定で「X11 のキーボードショートカットを使用可能にする」をオフにしておかないと,M-w で Emacs が終了してしまう。私はシステム環境設定・キーボードで,ファンクションキーを fn キーなしで使えるように設定する(ファンクションキーのほうがモニタの明度などのハード調整よりも頻繁に使うと思うのだけれど,デフォルトはそうなっていない)とともに,caps lock キーにコントロールキーを割り当てている。MacBook Pro には HOME, END キーがなく,それぞれでバッファの先頭,末尾にジャンプする使い方には工夫が必要である。.emacs で (global-set-key [M-up] 'beginning-of-buffer) などとして,M-up で HOME と同じ動作をするように設定しておくとよい。

※ 7.21 付記
Wnn7egg の一発目変換タイムアウト問題はその後解決した。記事『Wnn7egg on Emacs 24.0.50.1』を参照。

ptexlive with e-pTeX on Snow Leopard

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MacBook Pro を手に入れ,ptexlive, e-pTeX をインストールした。epTeX-100420 は ptexlive に対応するとともに,ptexlive の懸案であった Babel 対応を付加してくれた。インストールは基本的に添付の文書: ptexlive の README,e-pTeX の INSTALL.txt を参照すればよいけれども,Mac OS X 10.6.3 Snow Leopard にインストールするに当たって,私がハマった点を中心にメモしておく。

ptexlive の 大前提 TeX Live 2009-20091107 の xz アーカイブから iso イメージを取り出す方法は,ptexlive 開発者・土村さんが ptexlive Wiki において懇切丁寧に書いてくださっている。Mac OS X での iso イメージのマウントは hdiutil mount texlive2009-20091107.iso とすればよい。どのデバイスにどのようなパスでマウントされたかが返される。このパスの install-tl を管理者権限で実行して,TeX Live を導入する。このパスは,あとで ptexlive の導入設定 ptexlive.cfgISO_DIR 変数に指定しておく。

ptexlive Wiki から ptexlive-20100322.tar.gz を,e-pTeX Wiki から eptex-100420.tar.bz2ptex-qtrip-100402.11.tar.gz を,ダウンロードし,同じ作業ディレクトリに格納し,ptex-qtrip- 以外をその場所で展開する。

私の場合,ptexlive 前提の nkf や libpng・zlib ライブラリ等を MacPorts でインストールした。Ports ではヘッダ,ライブラリ等が /opt/local 配下にインストールされるので,ptexlive.cfg においてライブラリ,ヘッダの場所を,次のように追加しておく必要があった。

CPPFLAGS="-I/opt/local/include -I/usr/local/include"
LDFLAGS="-L/opt/local/lib -L/usr/local/lib"
LD_LIBRARY_PATH=$LD_LIBRARY_PATH:/usr/local/lib:/opt/local/lib
export CPPFLAGS LDFLAGS LD_LIBRARY_PATH

いちばんハマったのが,autoconf,automake,m4 のバージョンである。それぞれ 2.63 以上,1.11 以上,1.4.4 以上であることを --version オプションで確認し,それ未満ならアップデートしておく。ここは普段軽く扱ってしまうところだけど,e-pTeX の開発者・北川さんがきちんと書いてくれているとおりにしないと,eptex のコンパイルがすっとばされてしまうので注意。

もうひとつ Snow Leopard への導入で大事なのは,プレインストールされている sed ではなく,GNU sed を追加インストールして,こちらを使うこと。そうでないと,e-pTeX の configure スクリプトのパッチがうまく当たらず,エラー終了してしまう。

これらの点で引っ掛かったけれども,そのあとは手順どおり以下を実行すれば完了した。

$ cd ptexlive-20100322
$ make stage2
$ cd ../eptex-100420
$ ./0eptex.sh
$ ./6babel.sh
$ cd ../ptexlive-20100322
$ make fonty test
$ sudo make install distclean
$ hdutil eject /dev/diskX 
→ TeX Live iso イメージのデマウント。X はマウント時に表示された番号。

このタイミングで実行パスを ptexlive, texlive のバイナリディレクトリに通しておく。

最後に ptexlive 旧版で構築したローカルツリー(texmf-local)のバックアップがあれば,これを新 ptexlive に展開し,そこにあるフォントマップを改めて登録しておく。

$ su -m
# cd /usr/local/texlive
# tar zxvf $where/texmf-local-back.tar.gz
# mktexlsr
# cd texmf-local/fonts/map/dvips
# for i in `find . -name "*.map" | xargs basename`
> do updmap-sys --nomkmap --enable Map=$i; done
# updmap-sys

最近の ptexlive では,texmf-local よりも配布ツリーが優先的に参照されるようになった。あるマクロの最新版を texmf-local ツリーに入れ,その旧版を配布ツリーに残したままにすると,予期しないトラブルに見舞われるので注意。

fmtutil-sys --byfmt eplatex などとして,UTF-8 ハイフネーションパターンもきちんとロードされるようになった(出力フォントが Unicode でもない TeX ハイフネーションパターンで UTF-8 にこだわるコントリビュータの考え方が,いまひとつ私には理解できていません。なんでもかんでも Unicode じゃないとダメという最近の風潮は Linux の悪い影響だと思う)。Babel ヘブライ語など,かつての ptexlive では処理できなかった右左書字方向言語も処理できるようになった。あとは upTeX が ptexlive に追従してくれるのを期待したい。

MacBook Pro

MacBook Pro が届く。上海から発送されたとのメールが来てから(いまや Mac も中国製),4 日目。ラップトップだけど US キーボード仕様である。やっと ThinkPad なみのカスタマイズを Apple もするようになったらしい。実物をまったく見ないで適当に比較的安価なモデルを選択したので,キーボードもモニタも意外に大きくてちょっとびっくり。HOME や PageUp キー/刻印がなく,PF キーともども,fn キーとの組み合わせでこれをインプットするのに戸惑う。タッチパネルに慣れるのにも時間がかかりそうである。ラップトップのくせに冷却ファンがデスクトップよりうるさい(これは夜中に使っていて感じる話であって,通常は気になりません)。

Windows 7 搭載 PC にするか Mac にするか悩んだのだけど,ヒラギノフォントの魅力で Mac にしてしまった。LaTeX の権威ある先生が「ヒラギノを買ったら Mac が付いて来た」とうがった冗談をおっしゃっていた。やっと Adobe_Japan1_6・JIS 2004 対応のヒラギノを手に入れて,いま私は子供のように悦に入っている。

連休中に届いたのを幸い,早速 X-code や Emacs, ptexlive, MacPorts を導入しているところである。初期設定で Apple-ID を入れたら,メールアドレスの一部で勝手に U-ID が設定されてしまう。変更できないらしい。頭に来た。まあ,やりようはあるのだろうけど,面倒くさいのでそのままで行くことにした。ユーザのアイコン設定でモニタにキモい画像が動いている。なんやと思ったら,iSight カメラに移った俺の顔だった。

Moon Calendar

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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