2010年7月Archives

ZIPPO ふたたび・ptexfilter バグ

IMCO が壊れた。今度は ZIPPO にした。じつは大学三年生のころ,ZIPPO 50 周年記念のレプリカが売りに出ていて— 札幌大通りの『4丁目プラザ』だった —,私は真鍮・金メッキの一品を購入し,愛用していた。社会人になりむちゃくちゃな労働生活の挙句に肺病になり入院したその日に,ハイライトの吸いさしとこの ZIPPO を妻に取上げられた。それから引っ越しやらを経るうちに,20 年近く使い込んで渋く変色したこのお気に入りライターを,自宅のどこかに眠らせたまま探し出せないでいた。いまふたたび同じ 1932 年レプリカを手に入れた。エッジの二本線が特徴である。

お店に依頼して,文字を彫金してもらった。"fluctuat nec mergitur" というラテン語を Roman 体で入れてもらった。『漂えど沈まず』という意味の格言である。昔,『週刊プレイボーイ』に開高健が人生相談のような連載をしていた。そこで,開高健の好きなことばとしてこの名句がしるされているのを読んだ。パリ市の紋章にもこれが印字されているそうである。時代のなかで翻弄され漂うように不安定ながらも沈んでしまうことはない,そのように生きよ,というメッセージであろう。開高健を尊敬する私にとって,爾来,このラテン語の格言は,彼が残してくれたことばと等価になった。
 

zippo_retunes.png

* * *

奥村先生のサイト TeX Forum で,『美文書』第 5 版 p.373 にある ptexenc フィルタの Perl コードの問題点の指摘があった。これは私が自分用に使っていたのを,Unicode と pTeX に関する節に参考として掲載したものだ。このプログラムに,utf8::decode 関数を,binmode 関数で UTF-8 として入力したテキストに対して発行すると,『二重デコード』されてしまうバグがあった。こういうことを見逃さずきちんと検討して,すぐ教えてくれる凄い読者がいる。そして忌憚なく語れる場がある。これこそ LaTeX コミュニティの凄さだと思った。

自分なりに納得の行く見直しをして,『[改訂第5版]LaTeX2e 美文書作成入門・付録I『LaTeX2e による多言語処理』サポートページ』に訂正版をアップした。ついでに Utf82TeX も同じバグを抱えていたので訂正した。こちらは折角なので,<utf82tex_n> 無変換指定タグサポートを追加し,swath タイ語ワードブレイカー 0.3.4 以降への対応に変更した。

『芸術の記号学』,cjhebrew

ロシアの Ozon から本が届く。Успенский Б. А.  Семиотика искусства. М.: Школа «Языки русской культуры», 1995. B. A. ウスペンスキイ『芸術の記号学』,モスクワ,1995 年。ロシアの記号学者ボリス・ウスペンスキイの代表的論考『構成の詩学』,『イコンの記号学』その他を収録する論文集である。本書の版元・「ロシア文化の諸言語」学派出版は,ロートマン,トポロフ,パンチェンコ,ウスペンスキイといったロシア記号学を代表する有名な学者の論文集を多数出版していることで知られている。とりあえずは積ん読状態か。

* * *

参院選に落選しながら留任した法相千葉景子が,これまで認可しなかった死刑執行を,2 死刑囚について認可したことが話題になっている。この人の信念とはなんだったのだろうか。私の不信感は,ただそれだけ。千葉さんは執行に立ち会ったというのだから,この態度は認めてもよいと思う。そうそう,もうひとつ疑問がある。テレビドラマなんかで,死刑囚がキリスト教の神父なり牧師なりから説教される執行直前のシーンをよく目にする。これが実際運用の姿であるとすると,なぜにキリスト教なんだろうか,とずっと疑問なんである。千葉景子さん,教えてくれませんか?

政府・与党,死刑執行『適正な判断』=野党,落選法相を批判』をみる限り,千葉法相を批判する声がかしましいらしい。「国民にノーと言われた人が死刑執行のはんこを押した」と川崎二郎自民党国対委員長は人道を装った批判をしている。べつに国務大臣は国会議員である必要はないのだから,「国民にノーと言われた」かどうかなんてことは法的根拠をまったく欠いている。もちろん,死刑囚を死刑にすることにどこにも法的問題はない。説明責任? アホか。「批判のための批判」であることがこれでわかる。それより,「あなたは法務大臣らしく国家権力で二人の死刑囚の死刑執行を命令しましたね」と誉めてあげたほうが,よっぽど相手は堪えるのではないだろうか。

* * *

ArabTeX ヘブライ語,Babel ヘブライ語について調べていたなかで,cjhebrew ヘブライ語パッケージについて知るところとなった。cjhebrew は,右から左へ向かう書字組版のための e-TeX TeX--XeT エンジンを必要とする。cjhebrew パッケージは ptexlive なら初期導入されている。

簡単な使い方を示す。\usepackage{cjhebrew} をプリアンブルに書いておく。\cjRL{AB} 命令はヘブライ語テキストを BA(右→左)で出力する。\cjLR{AB} 命令は,AB(左→右)で出力する。cjhebrew 環境は,環境内のヘブライ語テキストを右→左方向で出力する。ヘブライ語は,アスキーコードで記述する。母音点記(nikud)も可能なところが素晴らしい。聖書学でヘブライ語を扱う学徒にとって,母音点記を表現できないと使い物にならないのではないだろうか。cjhebrew 入力方法の対応表を以下にマニュアルから引用しておく。詳細は cjhebrew マニュアルを参照(ptexlive なら texdoc cjhebrew とすると PDF マニュアルが閲覧できる)。

cjhebew-tab.png

cjhebrew は,日本語混在でも問題なく使用できる。Babel Hebrew UTF-8 の日本語混在では不可能な母音点記も可能である。日本語と同時に用いる場合は eplatex でコンパイルしなければならない。日本語 pLaTeX2e でもこういうことができるようになったのだ。e-pTeX を開発してくれた北川さんには本当に感謝したい。cjhebrew ヘブライ語を日本語,ロシア語,ギリシア語と併用した例を以下に示す。ヘブライ語は旧約聖書・創世記の冒頭テキスト(nikud 付)である。

% -*- coding: utf-8; -*-
% eplatex --kanji=utf8
\documentclass[a4paper]{jsarticle}
\usepackage[T1]{fontenc}
\usepackage[utf8x]{inputenc}%
\usepackage[polutonikogreek,russian,japanese]{babel}
\usepackage{cjhebrew}%
\pagestyle{empty}
\setlength{\textwidth}{240pt}%
\begin{document}
\parindent=0pt
\selectlanguage{japanese}
{\large ヘブライ語Cjhebrew試験}
 
\vspace{1em}
\begin{cjhebrew}
b*:re'+siyt b*ArA' 'E:lohiym 'et ha+s*Amayim w:'et hA'ArE.s; 
w:hA'ArE.s hAy:tAh tohU wAbohU w:.ho+sEk: `al--p*:ney 
t:hOm w:rU/a.h 'E:lohiym m:ra.hEpEt `al--p*:ney ham*Ayim;
\end{cjhebrew}
 
\hfill (創世記 1:1)
 
\vspace{1em}
\selectlanguage{russian}
\noindent
Ты проходишь без улыбки,\\
Опустившая ресницы,\\
И во мраке над собором\\
Золотятся купола. \\
\hfill{\it Александр Блок}
 
\vspace{1em}
\selectlanguage{polutonikogreek}
Ἄνδρα μοι ἔννεπε, Μοῦσα, πολύτροπον, ὃς μάλα πολλὰ\\
πλάγχθη, ἐπεὶ Τροίης ἱερόν πτολίεθρον ἔπερσε.\\
πολλῶν δ'' ἀνθρώπων ἴδεν ἄστεα καὶ νόον ἔγνω,\\
πολλὰ δ'' ὅ γ᾽ἐν πόντῳ πάθεν ἄλγεα ὃν κατὰ θῡμόν,\\
ἀρνύμενος ἥν τε ψῡχὴν καὶ νόστον ἑταίρων.\\
ἀλλ'' οὐδ'' ὧς ἑτάρους ἐρρύσατο, ἱέμενός περ;\\
\hfill{\it Ὅμηρος}
\end{document}

この組版結果は次のとおり。原稿: cjheb.tex,PDF: cjheb.pdf も置いておく。

cjhebrew.png

NEC スーパーコンピュータ撤退

日電のスパコン撤退に絡んで,『理化学研究所,スパコン撤退のNECに損賠』なるニュースをみた。儲からない製品からメーカーが撤退するのに,損害賠償もクソもないんではないでしょうか? メーカーはシステム開発の途上では顧客の奴隷に近い体たらくであるが,いざ「法的手段」に臨むとなると,契約において絶対負けない条項を固めているのが普通である。NEC は裁判では負けないと思う。

電機メーカーに勤めていないとわからないだろうけれど,スーパーコンピュータの開発でメーカーは大赤字なのである。かつては国策だったこともあり,日本のコンピュータメーカーはベクトル演算プロセッサや,超高性能メモリ,最適化 FORTRAN の開発にしのぎを削った。私が入社したころは,自社製スパコンが世界最高性能であることに大いなる誇りを感じたものである。ところが,研究開発に金は掛かるは,お客はケチだはで,おまけに長期化した平成不況の過程で,いくら日本の電子立国を背負っているという気概があろうと,日電,日立,富士通といえども,食えないんじゃその事業も活気を失って当然である。長続きするはずがない。

NEC のスパコン撤退は,大型汎用機からの撤退と同様,経営資源の選択と集中という考え方に依る以上,当然の選択なのである。日立,富士通という日本のスパコンメーカーの雄は依然開発を継続しているわけであるが,いまや「計算能力世界一」なんて目指してはいない。性能においてもはや米国クレイなどに圧倒的に水を空けられてしまっていて,いま日本のスパコンメーカーが自社の「売り」にしているのは,低コストと大幅な消費電力低減なのである。要するに性能が求められているところでエコを目指しているんである。悲しいことに,計算能力というだけの観点では中国のメーカーにも叶わない状況になっているのである。

これをどうみるか。ハイテク分野でも中国に勝てないのかよ,と思う人もいるかも知れない。国がちゃんと予算をつけないから中国なんかに負けるんだ,だって? 世の中というものは,モノ作りをする人たちよりも,銀行や証券会社などの金で金を生む人たちのほうに有利にできている。スパコンの開発者は銀行員の半分の給料しかもらっていない。自分でモノを作り出す人たちはエラい苦労をしても,それに見合った社会価値がえられないばかりか,おまけに金融経済がコケたらコケたでいよいよ給料を減らされ,元気を殺がれているのだ。そんな状況なら,国家としては,日本の開発者を鞭打って努力を強いるよりも,金融で生まれたその金で必要なものを外国から買って来たほうが合理的なのは,この時代当たり前ではないか。

私自身は,本質的でないことでトップを目指すのはもうやめてもよいという立場である。スーパーコンピュータの用途とはなにか。超越数の桁数などの科学技術計算であり,ミサイルの弾道計算であり,気象予測分析のための偏微分方程式計算であり,....,いずれにせよ,特殊中の特殊の分野である。一方で,日本のメーカーも,軍事関係は別として,天気予報などの社会のインフラとして必要なところに,必要な性能を備えたスパコンを供給するくらいの技術体力は有している。ヒトゲノムの解析にも国産スパコンが貢献したはずだ。でも,もう国産で世界最高性能の製品すべてを賄おうなんて風潮は時代遅れである。逆に国力を疲弊させる。コンピュータだって,買い集めて来てソリューションで勝負する時代になって久しいのである。

米国と中国は日本とは桁違いの金をスパコンに投資している。それは軍事目的である。とくに中国は米国製計算機で ICBM 弾道計算をするわけにいかないから(そのためには米国人技術者が必要になるから),独自開発に必死なのだ。高性能が実現できて当たり前である。でも,それに見合った利益が米・中の一般国民生活に還元されているとはとても思われない。

なんでこんなことをくどくど書いているのか。スパコンで世界に大負けしたわが国の不甲斐なさがやっぱり悔しいからである。でも考えてみればそれでよい,ということ。

丸山眞男

FIFA W 杯を楽しみながら,日本の組織的弱さ・心の弱さについていろいろ考えたりした。日本代表と世界の強者たちの試合に夢中になったこの一ヶ月間に,山本七平『日本はなぜ敗れるのか』(角川書店,2004 年),その元ネタになった小松真一『虜人日記』(筑摩書房,2004 年),鈴木邦男『右翼は言論の敵か』(筑摩書房,2009 年),猪野健治『やくざと日本人』(筑摩書房,1999 年)など,とりとめもなく読んだ。それらのなかでも,丸山眞男の著作がなによりも私の心に響くものだった。

私は高校生のころ,丸山眞男の『日本の思想』(岩波新書,1962 年)を読んだ。思想史において,日本の思想,とくに神道の宗教思想は,異文化の思想と相克することを通して発展するということなく,あらゆるものを雑居・吸収し,その結果,構造化されず,日本人の思惟基盤として蓄積されず,近代を迎えた。そのため,思想的基盤が弱く,雑居する思想的伝統がご都合主義的に「思い出さ」れる。そこでは,「軍国的全体主義の時代にも日本には民主主義があったじゃないか」ということになる。「思想」を構築されたフィクションとしてではなく現在する「モノ」として捉えるその心性は,フィクションであるからこその知的一貫性・主体的責任を担うのではなく,現実的な「モノ」の前に主体性を放棄してしまう(「こう信ずるがこれが現実だからしようがない」と投げ出す)結果となった。この思想的脆弱性こそが太平洋戦争に対する総無責任を生み出した。

丸山の論はおおまかにはそのようなものである。これはおそらく,西欧的思想伝統に決定的な敗北を認める,戦後自虐思想の嚆矢ではなかろうか。高校時代の丸山読書のおかげで,以来私は,日本人の「思想」というもの,「信念」というものの薄っぺらさ,弱さの原初的認識を植え付けられてしまったようである。太平洋戦争になぜ突入してしまったのか,どうしてこの戦争終結を閣議決定できずずるずると引きずって原爆投下,ソ連宣戦布告を招いたのか。日本人が自分の行動に対して無自覚かつ,現実に対し可能性にかけて働きかけて変化を齎すというよりもむしろすべてが既成事実化するのを待って(太平洋戦争の場合,天皇の「御聖断」— これは昭和天皇自身のおことばによればご自身のモラルに逆らった行動だったが,これによって日本は救われたのである),「現実」の前に責任をも放棄してしまう思想体質だからである(よって私なら「ツルの一声体質」とでも言おうか)。今回,岩波の『日本の思想』,平凡社ライブラリー『丸山眞男セレクション』で丸山眞男を再読し,多感な時期に受けた読書の影響というものを再発見した。改めてこの政治学者の論に接し,私は彼の考え方がいまだにアクティブな意義を失っていないと再認識したのである。

政治の結果責任を丸山は強く求めた。「よくがんばったからいい」という発想はここにはない。福沢諭吉を高く評価し,ある既成観念に応じた判断(福沢の言う「惑溺」)ではなく,具体的事案の状況に即してその都度善し悪しを評価し次の行動を決して行く動的な態度を主張した。思想や信念を固定した価値そのもの,「モノ」として捉え,政治をその思想・結果ではなく,意気込みや動機,精神論で議論しようとする人たちが,いまのこの国にはなんと多いことか。「政治とカネ」— それで私たちが結果的に仕合わせになるならべつにいいじゃないか。「海兵隊は抑止力だからいてもらわないと困る」— 「海兵隊は抑止力」だなんてなぜ言えるのか。抑止力というなら北京の方向にミサイルを配備したほうが効果的じゃね? ミサイルは憲法違反だからできないって? それなら自衛隊はそもそも憲法違反じゃないか? なぜ憲法解釈に依らず最良の道を「作り出す」ことをしようとしないのか! 「普天間基地県内移設は党の思想と相容れないから政権離脱する」—「原理・原則」はもっと別なところにあるべきではなかろうか。「相容れな」くてもまさにそのときの状況により一時的に受け容れることが本当に目指す目的に叶うなら,それでもよいのではないでしょうか? 日本人はこういうのを「ブレ」ていると称して軽蔑する。たしかに,「思想」だとか「信念」だとかに対して「惑溺」しているのである。状況に応じて発言をした「宇宙人」鳩山さんが,このつまらない「ブレ」だけを捉えられ,理解されなかったのは当然である。こういう事態にバカバカしさしか覚えない私は,やはり丸山の影響を受けていると自覚してしまう。

でも,いまの私は丸山の考えすべてに同意しているわけではない。天皇制に対する生温い戦後処理に彼は厳しい批判を加えたが,私は「政治の結果責任」という意味では天皇制が残ったこと(「権力」と「権威」が分かれて存続したこと)に意義を認める。日本の思想が構造化されていないという丸山の批判についても,このグローバルな欧米一辺倒の価値観のなかでは可塑性あるフニャフニャヘタレ思想も逆に新しい可能性をもっていると信じている。ただその思想的基盤,原理・原則のなさこそは克服すべき中核にある,ということは間違いないと思う。丸山はどこかで「日本文化の雑種性」という加藤周一の捉え方について前向きに評価しようとする態度を表明していた。私は加藤の「雑種性」の考え方のほうがより現代的だと思っている。いろんな相反する価値観があり,それらが相互影響を与えつつ,暴力的に排他することなく,同居してゆくこと。これを認めることがいまいちばん大事な立場ではないだろうか。

それでも。丸山の思考様式には,これを乗り越えるべき凄い価値がある。どうしていまの日本には丸山眞男のような堅牢な政治思想家がいなくなったのだろうか。柄谷行人,鶴見俊輔がいるって? うむ,まぁ。佐藤優がいるって? ハァ? いるのは「ジャーナリスト」ばかりである。へんなマンガ家が堂々と臆面もなく書いた,わかりやすい,ヘボな戦争論に,ネット「右翼」・2ちゃんねらー・Yahoo! コメンターたちが,これまたわかりやすく,ハマってくれているのを眺めていると,政治は動物園のように観て楽しむものになってしまった観がある。いま歴史が流行っていて「歴子」なるお姉ちゃんがわんさかいるらしい。そのうち今度は政治ブームが来て,「政子」たちが登場し,永田町が大賑わいするかも知れない。
 

この本は,1961 年初版以降,この 50 年で 100 万部以上売れたそうである。私が読んだのは 1978 年の第 31 刷である。このような本がそれだけ読まれたということは,ちゃんとした本が読まれなくなったと言われて久しいいま,日本もまだまだ捨てたものじゃないと思ってしまう。『「である」ことと「する」こと』にある,行動する思想の考え方や,「ササラ型」と「タコツボ型」という文化類型と思想構造の問題論は,いま読んでも新鮮である。

下にあげた『丸山眞男セレクション』にも『I 日本の思想』が収録されているけれども,岩波新書版は『セレクション』に含まれていない重要な論文も収録している。
 

これはいま古本で探すしかない。このなかの『追記および補註』に右翼(丸山は「無法者」と書いている)に対する面白い類型分析があったので,私がとくに鋭いと思った点をかいつまんで紹介すると — 「(1)一定の職業に持続的に従事する意思の欠如 [ ... ]。(2)ものへの没入よりも人間関係への関心。その意味で [ ... ] 専門家に向かない。[ ... ] (4)しかもその『仕事』の目的や意味よりも,その過程で惹起される紛争や波瀾それ自体に興奮と興味を感じる。(5)私生活と公生活の区別がない。とくに公的な [ ... ] 責任意識が欠け,その代りに(!)私的な,あるいは特定の人的な義務感(仁義)が異常に発達している。(6)規則的な労働により定期的な収入をうることへの無関心もしくは軽蔑。[ ... ] (7)非常もしくは最悪事態における思考様式やモラルが,ものごとを判断する日常的な規準になっている」(pp. 510-1)。

ここでいう「無法者」とは直接的には,いわゆる武闘派右翼やヤクザを指す。本書の歴史的背景,つまり 1940 〜 1960 年代くらいは,ヤクザ,右翼は軍部・自民党政権に間接的に雇われて,労組つぶしや政治デモつぶし,左翼運動家への脅迫・嫌がらせの主たる手先になっていた。いまの総会屋・街宣右翼みたいなものである(ただし,いまと違って当時の「無法者」は,刑法を無視した露骨な暴力を振るい,一方で警察はほとんどそれを見て見ぬふりをしていたのである)。国民生活が安定した 1960 年代中期以降,政府はヤクザをつぶして「正義の味方」をアピールするほうが権力維持に有効だと判断して方針を切替えた。東京オリンピック開催の体面もあった(こういう点で日本政府もいまの中国とそっくりだったのである)。警察は暴力団の大量検挙をはじめるようになった。権力は,暴力装置をさんざん使い,用がなくなったら体よく切り捨てたわけである(このあたり,猪野健治『やくざと日本人』(筑摩書房,1999 年)に詳しい。この本もめっぽう面白い)。

しかしながら,考えてみれば,いまのネット「右翼」も,これらの一部特性は顕著ではないか? (1), (6) は,むしろ仕事がなくて,独りネトウヨするしかないからか。(4) なんて「2ちゃんねる」そのものじゃないだろうか。(7) は,日本がつねに反日スパイに蹂躙されているという被害妄想がこれに該当してますね。自分の意に染まない人に対して,のべつ幕無しに「売国奴」,「朝鮮人」のレッテルを貼りたがるわけです。社会人はそのほとんどが常日頃,諜報なんかではなく「仕事」をしているということがわからないんですね。まさにこれこそネット「右翼」自身が「仕事」をしていない,労働を通じた社会とのコミュニケーションにおいて疎外されている証左になっている。じつはここに書かなかった「無法者」の特質に (8)「性生活の放縦」というのがある。ネット「右翼」にはおそらく見られない特徴であろう(独りで寂しいクソ真面目君だからだ)。でも,そもそもネット「右翼」に当てはまらないのは「無法者」という範疇そのものである。彼らは安全な市民生活を送っていて,ただ頭の中が新世紀エヴァンゲリオンなだけだからである。そういう意味では (5) 公私の区別がないというより,現実と妄想の区別がないというべきか。
 

これは一冊で丸山の重要な論文を収録している。

薬丸岳『天使のナイフ』

薬丸岳のミステリー『天使のナイフ』は,2005 年第 51 回江戸川乱歩賞受賞作である。多分に漏れず面白かった。昨夜一晩で一気に読んでしまった。

少年犯罪という極めて重いテーマを扱っている。加害者少年・少女,被害者の双方の立場は当事者でないと理解できない闇があるはずである。世間一般の道徳意識・好奇心でこれに接することは,間違いなく何かを侵す,そういう不謹慎さを免れない。アンタッチャブルにしてデリケート。それでも,本作品は,事件当事者の心情や葛藤に想像力で果敢に分け入ろうとする。そして,加害者/被害者の双方の物語を想像力の良心において紡ぎ出す。

文学作品はフィクション=仮構であって,本質的に現実認識のなんらの代替にもなりえない。しかし厳しい現実に対して名前付けするような,思考のモデルを想像力で齎してくれることがある。主人公に語らせている次の台詞は,少年犯罪のみならず,あらゆる犯罪の加害/被害の二項対立について,ひとつの真面目な結論だと評してよいと思う:「... こう言いたかったんだ! 自分もあなたも,人生につけてしまった黒い染みは,自分では決して拭えないとな。[ ... ] それを拭ってくれるのは,自分が傷つけてしまった被害者やその家族だけなんだ。被害者が本当に赦してくれるまで償い続けるのが本当の更正なんだとな」(本書,p. 426)。

これ以上はネタバレになるのでやめ。この作品は重いテーマを扱っているけれども,一方で奔放なストーリー展開を宿命付けられたエンターテーメントである。この両立性において本書が成功しているかどうかはまた別問題である。とくに,弁護士の情熱的なセリフに私は素人臭さを感じ(現実のプロフェショナルな弁護士は法律「のみ」に照らして法解釈で相手を攻めるわけであって,情熱的信念・哲学なぞが混じるのは却ってウソ臭い),それが大団円の醍醐味を少々貶めてしまった感は否めない。

子供を育てる立場にあると,いつ我が子が犯罪に巻き込まれるかも知れない,という不安は片時も離れない。それは被害者になるだけでなく,加害者にもなりうるという想定である。少年犯罪が報じられる都度,ネットで「こんなガキは社会のゴミだ,駆除しろ」風のエセ正義感が蔓延するのには絶対に同調できない。かといって,過度な人権保護や加害者少年の不幸な環境・背景への同情にも与することはできない。それぞれの立場は抜差しならないものだと,子の親なら想像できるからである。ニュースなどで,少年犯罪を犯した子供たちについて「あんな素直ないい子がどうしてこんなことを」テキな談話が報じられたりする。これはマスコミが意外性を煽って面白がっているのではなく,多面的な事実のうちのひとつの真実なんだと私は思う。「どうしてあんないい子が」なのだ。我が子が犯罪に関ることになったらどう行動すべきか。もちろん,本書にその答えを求めることはできない。
 

dvipdfmx で ArabTeX ヘブライ語 Type1 フォントを埋め込んで生成した PDF は,Adobe Reader V.8 以降でオープンすると,「埋め込みフォント XXXXXX-TeX-hclassic を抽出できません」というエラーが出て,フォントを表示できない。ptexlive 添付の ArabTeX フォントの問題かと思ったが,どうもそうではなさそうである。

これは dvipdfmx でよく出会う問題である。pdvips でフォントを埋め込んだ PS から ghostscript で生成した PDF や,pdflatex が出力した PDF なら問題ない。よって海外ではあまり文句が出ないのかもしれない。フォントのタイプ(Type 1C など),エンコーディング,Unicode-cmap,圧縮等々の事情だと思われるが,OK と NG それぞれの PDF について,pdffonts 解析ユーティリティの出力を比較しても決定的な相違点がはっきりせず,私にはその原因はわからない。

OldSlav の Type1 フォントでも同じ問題があり,mftrace で生成した Type1 フォントだと,dvipdfmx を含め問題なく表示できた。今回,ArabTeX ヘブライ語フォントでも同じ方法を試してみた。予想通りうまく行くことがわかった。

アーカイブ arabtex-rebuild-type1.zip を置いておく。興味のある方は,添付の README に従ってお使いください。UNIX ユーザーなら sudo make TEXDIR=$YOURTEXMF install 一発で組み込みができる Makefile,Type1 フォント生成のためのシェルスクリプト(必要ないけど)も添付している。ただし,無保証,ノーサポート,自己責任ということで。

Wnn7egg on Emacs 24.0.50.1

MacBook Pro, Mac OS X Snow Leopard に Emacs-24 を組み込んだ際,Emacs 起動後の最初の Wnn7 変換がタイムアウトし,二回目以降は動作が正常になる,という問題があった。Mac なので別マシンで稼働する Wnn7 jserver と接続して,仮名漢字変換を行う環境である。これまでちょっと我慢して使っていたのだけど,今日会社がお休みだったこともあり,調べてみた。

結論から言うと,eggrc-wnn7 中 121, 122 行目あたりにある以下の 2 行をコメントアウトすれば,タイムアウトしなくなった。Elisp message 関数で網を張り,どこで止まっているのか探り当てた。コメントアウトの影響はよくわからない。変換はできているのでよしとしておく。

(wnn7-add-notrans-dict (concat wnn-usr-dic-dir "/katakana") 15 t)
(wnn7-add-bmodify-dict (concat wnn-usr-dic-dir "/bunsetsu") 15 t)

Emacs-24 で Wnn7egg を動かすには,jpl.org で公開されている wnn7-elisp-el-1.02-1.patch.gz を適用しておく必要がある。このパッチ適用については『Wnn7, Mew-6.2 with Emacs 23.1.50』を参照。このパッチを当てた上で eggrc-wnn7 の訂正を行う。

PSCyr-0.4d-beta/日本語の乱れ

LaTeX ネタ今夜の二題目。キリル Type1 フォントについて調べていたら,PSCyr Type1 フォント 0.4d-beta において旧正書法フォント追加がなされていたのに気付いた。AntiquaPSCyr, JournalPSCyr(以上セリフ), TextbookPSCyr(サンセリフ) の 3 書体(ファミリ)だけではあるが,T2D エンコーディングがサポートされたわけである。PSCyr はモスクワ大学の Александр Лебедев 氏によって纏められたものである。この 3 ファミリ以外にも,AcademyPSCyr, HandbookPSCyr, CollegePSCyr, Lazurski, SouvenirPSCyr, TimesNewRomanPSMT(以上セリフ), ArialMT, MagazinePSCyr(以上サンセリフ), CourierNewPMST, ERKurierPSCyr(以上モノタイプ), CooperPSCyr, AdvertisementPSCyr(以上デコレーション)の計 15 ファミリを擁する LaTeX の古典的キリルフォント集成である。

PSCyr フォントパッケージ 0.4d-beta はロシアのヴォロネジ大学の ftp サーバから入手できる。ftp://ftp.vsu.ru/pub/tex/font-packs/pscyr/0.4d-beta/ 以下のファイルをすべてダウンロードする。T2D フォントエンコーディング定義ファイルを持っていない場合は,T2D サブディレクトリから入手できるので合わせてダウンロードしておく。このサイトは passive モードでないとアクセスできないので,ブラウザからリンクを指定しても拒否されるかも知れない。PSCyr-0.4-beta9-*.tar.gz を解凍して,TDS に従ってリソースを TeX ツリーに格納し,pscyr.map をマップ登録すればインストールは完了である。

使い方は \usepackage{pscyr} をプリアンブルに指定して,ファミリ切替え命令によって好みの書体に切替える。数式で使いたい場合,パッケージオプションに math を指定する。以下に切替え宣言型命令,引数型命令をあげておく。[ ] 内にファミリ名を示してある。( ) 内はロシア語書体名である。書体名の後ろに * を付加したものは,T2D エンコーディングもサポートしている。

- \aqfamily \textaq{...} [ faq ]: AntiquaPSCyr (Квант Антиква) *
- \jnfamily \textjn{...} [ fjn ]: JournalPSCyr (Журнальная) *
- \acfamily \textac{...} [ fac ]: AcademyPSCyr (Академическая)
- \hafamily \textha{...} [ fha ]: HandbookPSCyr (Балтика)
- \cofamily \textco{...} [ fco ]: CollegePSCyr (Бодони)
- \lzfamily \textlz{...} [ flz ]: Lazurski (Лазурская)
- \svfamily \textsv{...} [ fsv ]: SouvenirPSCyr (Сувенир)
- \tmfamily \texttm{...} [ ftm ]: TimesNewRomanPSMT (Таймс) 以上セリフ
- \arfamily \textar{...} [ far ]: ArialMT (Ариал)
- \txfamily \texttx{...} [ ftx ]: TextbookPSCyr (Букварная) *
- \mafamily \textma{...} [ fma ]: MagazinePSCyr (Журнальная рубленая) 以上サンセリフ
- \crfamily \textcr{...} [ fcr ]: CourierNewPMST (Курьер)
- \erfamily \texter{...} [ fer ]: ERKurierPSCyr (ER Курьер) 以上モノタイプ
- \cpfamily \textcp{...} [ fcp ]: CooperPSCyr (Кладезь)
- \adfamily \textad{...} [ fad ]: AdvertisementPSCyr (Рекламный) 以上デコレーション

文書のデフォルトフォント Roman, San Serif, Typewriter 書体をそれぞれ Академическая, Букварная, Курьер としたいなら,プリアンブルに以下のように書いておく。この指定を行わなければ,Квант Антиква, Букварная, ER Курьер となる(デフォルト)。

\renewcommand{\rmdefault}{fac}% Академическая
\renewcommand{\sfdefault}{ftx}% Букварная
\renewcommand{\ttdefault}{fcr}% Курьер

書体サンプルは doc/fonts-ex.tex を pdflatex でタイプセットして確認してほしい。私の組んだ旧正書法サンプルを次に掲載しておく。

pscyr-ex.png

原稿は以下のとおり。\usepackage[T2D]{fontenc} で T2D フォントエンコーディングを宣言しておく。旧正書法文字含め UTF-8 で直接入力する場合,\usepackage[utf8x]{inputenc} が必要である。

% -*- coding: utf-8; -*-
% PSCyr-0.4-beta T2D 試験
% Примѣръ русской дореволюціонной орѳографіи
%   coded by isao yasuda, July 19, 2010. All Rights Reserved.
\documentclass[b5paper,10pt]{jsarticle}
\usepackage[T2D]{fontenc}% T2D fontencoding
\usepackage[utf8x]{inputenc}% from the unicode package
\usepackage[russian,japanese]{babel}% 
\usepackage{pscyr}
\pagestyle{empty}%
\def\cyrillicencoding{T2D}%
\begin{document}
\noindent
{\bf PScyr-0.4d-beta---ロシア語旧正書法試験}
 
\sloppy%
\parindent=20pt%
\selectlanguage{russian}
\long\def\rtext{%
Ѳедоръ Достоевскiй, сѵнод, ѵпархия, СѴНОД, ѴПАРХИЯ,\par
Вопросъ о разрывѣ Татьяны съ Онѣгинымъ, несмотря на всю
ясность. Пушкинскаго стиха, выросъ у насъ въ своего рода 
\glqq гамлетовскую проблему\grqq,
къ которой постоянно возвращается критическая мысль.
}%
 
\vspace{1em}
{\aqfamily
\noindent Антиква AntiquaPSCyr (Serif):\par
\rtext}
 
\vspace{1em}%
{\jnfamily
\noindent Журнальная JournalPSCyr (Serif):\par
\rtext}
 
\vspace{1em}%
{\txfamily
\noindent Букварная TextbookPSCyr (Sans-Serif):\par
\rtext}
 
\end{document}

LaTeX 原稿 pscyr-ex.tex,PDF pscyr-ex.pdf も置いておく。直接入力の注意事項がひとつ。ロシア語旧正書法のイ・ス・トーチコイは U+0406, U+0456 ではなく,ラテン・アルファベットの I, i を使用すること。また Babel ロシア語言語定義 russianb.ldf は T2D エンコーディングを自動認識しないので,プリアンブルに \def\cyrillicencoding{T2D} を書いておくか,旧正書法ロシア語を記す前に \fontencoding{T2D}\selectfont をマークアップする必要がある。ロシア語旧正書法用のハイフネーションパターンが存在しないのが残念である。

* * *

大学一年になる息子が,電車のなかで携帯電話が鳴ったとき,向かいにいた中年オヤジにしかられたという。ところが,そのオヤジは「電話,切ろ! 切ろ! と言ってんだ!」とまくしたてたそうである。「『切ろ』なんてバカじゃね?」と息子。どうもこのオヤジ,「切る」の命令形と「着る」のそれとをごっちゃにしているらしい。標準語としては,明らかに間違いである。

日本語の乱れ。でも,別に「バカ」呼ばわりするほどでもないと思う。私が北海道にいたころ,地元の人は「やめろ」というのを「やめれ」と活用させていた。要するに「方言」を「日本語の乱れ」というのは無意味な見方であるのだから,このオヤジの変な日本語も一種の方言だと捉え,かつ「でも正則では間違いだ」と意識するくらいでよい。書き言葉で真面目に書いているのなら,大いにバカにしてやればよい(もっとも,蓮實重彦先生は『反=日本語論』で言語はフィクションだとおっしゃっていて,そうすると,これもご愛嬌だと受けとめよう)。事実「これは『切れ』と要求しているんだ」と息子には通じているんだから,現実の話ことばの形態をコムツカシクあげつらってもしようがない。

「ら抜き言葉」にあまりに神経質になって,可能動詞の用法が書き言葉としても広く認められた状況を知ってか知らずにか,「笑うことができる」という意味の「笑える」を,「笑はれる」と書かずにおれないネット思想家がいた(私の所謂「なんちやつて舊字・舊假名遣ひ派」のひとりである)。「切ろ」オヤジより,この「國語」にうるさい賢しらな偏屈ネット思想家のほうがよっぽど「笑へる」。

LH T2D/OT2 Type1 fonts 改訂

LaTeX LH キリル・フォント T2D/OT2 エンコーディング Type1 フォント集を改訂した。これまでのものは,mftrace で pfa を生成する際,エンコーディング指定を省略していたので,これらフォントを埋込んだ PDF からキリル文字テキストをコピー&ペーストするとラテン文字になってしまって(要するに化けて)いた。対策方法はわかっていたんだけど,mftrace 長時間実行が躊躇われてずっと放置していたのだった。美文書第 5 版(本書 p. 367 でこの T2D/OT2 Type1 フォントが言及されている)が出たのを契機に,やっとこの課題に取組む気合いが湧いて来た。

T2D 及び OT2 Type1 フォントの mftrace 生成に際して,--encoding オプションに対し,それぞれ t2d.enc, cm-lgc-ot2.enc を指示した。Александр Лебедев 氏による OldFonts パッケージ, Алексей Клюков 氏による CM-LGC パッケージに付属するエンコーディング・ファイルである。Type1 フォント生成に,以前は PowerMac G5 Tiger で 7, 8 時間かかったのだが,今回 MacBook Pro Snow Leopard では半分以下でできてしまった。

これで PDF のキリル文字をきちんとコピー&ペーストできるようになった。ロシア語旧正書法の文字も正しく取り扱われるはずである。ダウンロード・サービスlh-misc-type1-1007 アーカイブを置いた。インストール/使用法の詳細については,拙稿『LH キリル T2D/OT2 Type1 フォント集』を参照。

学期末試験

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今夜私が仕事から帰宅したとき,「あー試験終わったー」と高校一年生の娘がほっと一息ついていた。私も休みの日に,数学の順列・組合せ,二次関数・二次方程式を教えてやったりした。二項定理をいまは順列・組合せの単元で教えるのに驚く。私が高校生だったころは数学ⅡB・数列のセクションでであったはず。二次方程式の解の一般公式がどうして得られるのか示してやったら,そんなの教えてもらってないと娘に感心された。「んなわけねーだろ,お前。でも,高校生くらいの数学レベルなら,まだお父さんは錆び付いてないゾ。お父さんは共通一次試験,そう,いまのセンター試験で,数学はほとんど 100 点だったんだゾ」と自画自賛(当時の共通一次試験・数学は満点が 200 点だったことは伏せておいた)。二次方程式の判別式 D の効用を教えてやったのがピタリと試験問題に嵌ったらしく,私はいたく感謝されたんである。いまの高校生は数学Iと数学Aを別々に試験されるらしい。カワイソ。

「情報」の試験の自己採点に付き合わされた。「お父さん,プロでしょ?」と迫られた。たいていは,しごく簡単な問題である。「Microsoft Excel 2007 で Visual Basic はどのメニュー・タブに配置されているか」などという,私にはとても答えられない問いがあった。このような「そんなこと聞いてどうすんの?」というようなくだらない問題が結構あった。情報と個人情報保護・著作権との関わりを問うよい質問も,もちろん,あった。

時事問題もいくつかあった。「情報」の現在への生徒のアンテナの張り具合を試していて興味深かった。個人情報の公開をもとにユスリをした廉で今年5月に逮捕者が出た「ロマンシング」詐欺事件,日産自動車の工場が半導体部品不足のために生産をストップしてしまったニュース,iPhone4 iOS4 の Microsoft Exchange 連携での不具合,ゆうちょ銀行のシステムダウンによる混乱など,ホットな IT ニュースに関る設問があった。うちの会社のヘマで起きた恥ずかしい障害の話題もあった。ええ,こんなことまで試験に出んの? クラウドコンピューティングでマイクロソフトと提携したコンピュータメーカーはどこかという主旨の問題があった。「答えはマル4の富士通なんだろうけど,でもこの問題文,『クラウド』のところが『グランド』になってるなー。問いに間違いがあったよって先生に言っとけ」。娘はソニーと答えたらしい。「ソニーはとてもコンピュータメーカーなんて呼べる会社じゃねー。ただの趣味家電メーカーじゃ。要するに『情報』の世界に貢献するような何もできやしないのさ。覚えとけ! お父さんはなあ,VAIO(※)か Panasonic のパソコンを使っている人をみると『素人! ミーハー!』と考える勝手な人間なんじゃ」と私。もちろん,ここにはうちの会社の何倍もの株価を誇るこの世界的超優良企業に対する私のやっかみ(と,社会インフラになりえない企業への憐れみ,そして,愛社精神)がある。

(※)私は昔,ある事情で VAIO を分解したことがある。その作りがまさにウォークマンのパソコン版だと知り,驚愕した。うちの会社の製造するパソコン(「パーソナル・ワークステーション」などと称していた)は,絶縁シールドや配線部材など,「電子計算機」としてあるべき姿を追及し,凝りに凝っていた結果高価になってしまい,見事に競争に敗れてしまった。その VAIO がいかにスカスカ構造の粗悪計算機だと私には思われたとはいえ,普通のパンピー・ユーザーが保証期間内で普通に使うには十分な品質を備えた製品であったことには間違いがなく,ソニーのブランド力とユーザーにとっての機能充分性に支えられた製品開発ポリシーに,私は舌を巻いたのである。売れるが勝ち。でもねぇ。

W 杯閉幕

スペインが優勝した。これで 4 年に 1 度の熱い一ヶ月が終わった。サッカーはたかがサッカーだけど,されどサッカーであって,今回もいろいろな人たちの人生の断面を見せつけられるような感動があった。「無敵艦隊」は,オランダ同様,これまで W 杯ではなかなか下馬評どおりの実力を発揮できず,強いチームであることは誰の目から見ても明らかだったにも拘らず,悔しい思いをして来た。そういう意味では,スペイン,オランダのこれまでの屈辱は,日本が 8 強に入れなかった,あるいは予選突破できなかったその屈辱と比べると,遥かに深刻なものだったのである。強い/弱いの曖昧な,出たとこ勝負のチームが味わう悔しさよりも,本物の強者が敗れる厳しい現実のほうがドラマになる。スペインとオランダの決勝戦を思うにつけ,日本チームの敗戦がただの現実ではなく悲劇になるような,そういう闘いを早く観たいものだと痛感した。

先ほど帰宅して,Yahoo! スポーツ・ニュースを見ていたら,『オシムが見た決勝戦 今後はスペインのサッカーがモデルに』という記事があった。イビチャ・オシム前日本代表監督のコメントである。「イニエスタやシャビに似ている選手も日本にはいるが,日本人が得意とするコピーをすることがサッカーでは通用しない」とのこと。日本人の心性に対し「コピーが得意」という辛辣な批評を,愛情籠めて語れるこの人の厳しい優しさに,いまさらながらにその退任が悔やまれる。日本のサッカーを,肉体的観点だけでなく文化・社会性の側面からも考えて,代表チームの強化に取り組んだオシムの姿勢。これこそが,思うに,結果だけで判断されることを免れた彼の人間的魅力だった。なぜ日本人監督にはそれがないのか(岡田監督じゃダメというのではもちろんありませんが,結果だけで判断されたという意味で,英雄視されているいまの彼にこそ哀愁漂うものを私は感じる)。

これに関して面白いのは,W 杯が終了し日本サッカー協会が次期代表監督を選考中であるわけだが,やはり外国人監督が検討されていることである。なぜ日本人でないのか。どうも日本人は「指揮官」には向かないらしいのである。さらに,日本のサッカー・ファンはこれにまったく異論を唱えていないのではないだろうか。これ,私にはいたく面白い現象である。なぜか。「JFA はなんたる賣國奴か! 日本のナショナルチームの監督に外國人を据ゑるとは! 敵對國に我國の弱點・戰術的祕密を賣渡すかも知れぬではないか!」と言うバカ右翼/「売国奴」罵倒好き単細胞がいてもおかしくないと思われるのに,あんまりそういうことが聞こえて来ないからである(多分,間違いなくいるだろうけど。どの時代にも,どの国にもバカはいる,との言がオシム語録にもある)。技術論に特化していて,たいへんよいことだと思う。外国人監督によって日本のサッカーは強くなったし,これからも強くなるはずである。それはなぜなんだろうか。サッカーというスポーツの奥深さを思い知る。ま,これくらいで。

参院選民主苦戦

今夏最大の話題である参院選の投票に行って来た。国民もバカじゃないんだから,昨年政権交代を実現させたのに 1 年も経たないうちに参院選でネジレさせるなんてないだろう,と私は思っていた。しかし私がバカでした。タコのパウル君以下です。

いまこの時点で,民主党は目標の 54 議席+アルファどころか 50 を大きく割り込む見通しである。私の住む神奈川県では,あの現職法務大臣・千葉景子さんが落選するかも知れない状況である。まぁ,千葉景子さんに限ってはこれでよい。民主党のくせに官僚の言いなりだった大臣が嫌われたのだと思いたい。石川議員を特捜部に逮捕させ,取調可視化法案を放置し,記者クラブを温存し,自民党とまったく変わりのない不作為ぶりだった。ざまぁ見やがれ。今度はこの人が「政治とカネ」問題で騒がれるとホント面白いんだけど(クリーンであることだけは確かなようなので,これは考えられません)。え? 比例で復活当選するってか? 冗談じゃありません。

ところで,思うに,民主党は今回の選挙で,自民党というよりはマスコミの報道によって迷走させられた。「消費税」のキーワードを持ち出したとたんに,選挙後ただちに増税法案審議に入るかのようなニセ印象をマスコミに焚き付けられてしまった。「消費増税」が争点になってしまえば,反対派を増長させるのは当然である。民主党執行部がマスコミ対策に手を抜いたからに違いない。そして,それを否定すればする程「また民主党のあのブレまくり発言か」と揶揄され,悪循環。そのために敗れた。日本国民は,自民党の愚にもつかない「いちばん」幻想に騙されたというより,マスコミに操られたというのが正解のように私は思う。

いずれにせよ。またもやネジレ国会。これこそいちばん私の憂慮していたことである。野党はただただ反発のための反発に終始し,法案がなかなか可決せず,つまらないことが政局になり,事態が紛糾することになる。その間にいよいよ雇用・福祉問題,税制改革が宙ぶらりんにされ,首相はまたもや 1 年持たず,という事態になりそうである。自民と民主はどちらも保守であって,政治思想は(ない,という意味で)あまり変わらないのになんでこういうことになるのか。国民は自家中毒させられているとしか思われない。政権を安定させるのが麻生自民政権のころからいちばん大事なことなのに,どうして民意は自分で自分の首を絞めるような方向に働くのか。本当はいったい誰がブレているのか。国民自身だと言わざるをえない。それが民主主義だとすれば仕方がない。

日本の政治はこうして全世界の笑い者になり,国税は官僚の思い通りに無駄遣いされ,国の借金が増えて行く。中国の日本国債保有率が欧州の経済不安のおかげで着実に増えているそうですよ。日本政府が自浄能力に決定的に欠けるおかげで,中国政府に養われてる度合いが増えているわけである。レナウン株買収などにも見られるように,いま中国による日本買いが盛んになって来ているのである。あ,わかりました! 日本の国民の期待は,次は米国政府だけではなく中国政府にも仕切っていただければよろしい,ということなんだろうか。ジャイアン頼みのスネオのような日本政府。なんか,あるとき突然死するんじゃなかろうか。

自民党はまた小泉劇場政治の路線を復活し,地方の土建屋に金を落とし,大企業の原価低減に有利な雇用政策を推進し,新自由主義的政策を徹底してほしい。なぜなら国民自らが,今回の選挙でそれを望んでいるという意志を,あの日本をダメにした自民党にもう一度やらせたいという意志を,早々に示したのだから。大企業の一員である私個人にとっても,じつはそのほうがわが社が儲かるのでありがたい。私もリヴァイアサンに徹するぞ。仕事がなくて生活に困っている人たちのことなど気にしていられるか。そういう人たちは食うに困って「自己責任で」勝手に犯罪に走ればよい。—— ってか? んなわけないよね。
 

※ 7.14 付記

その後,結果は民主惨敗。「みんなの党」が大躍進した。「みんなの」というからには,つまり誰のものでもない,ということなのに。いや,これは「全体主義」ということか? いったい何なんだ? 世間はどうもカリスマ二世議員が好きらしい。いやな世の中になりつつあるとつくづく思う。

とはいえ,今回の結果はやはり国民の正しい選択だと思いたい。政治は選挙を唯一の正当さの根拠となすべきなのだから。となると,民主党は 9 月の代表選挙で新しい代表を選ぶということになれば,衆議院を解散し,改めて民主党政権の正当性を国民に問うべきではないだろうか。それで再び民主党が勝つのなら,ネジレに臆せず政策を果敢に実行する根拠が与えられるし,負けるのならそれはそれで国会が正常化して政治の停滞を少しは免れる。なによりネジレが続くのだけは勘弁してほしい。

misima は現在,限定公開としていますが,諸般の事情により近く運用を停止する予定です。サーバのメンテナンスのためのコスト・労力の負担が堪え難いものになって来たのがその主な理由です。本サイトは,http://yasuda.homeip.net/ の静的コンテンツ(とくに LaTeX 関係)以外の CGI, JavaServlet 関連アプリケーションを停止します。このブログも facebook あたりに移動させるかも知れません。時期は私の作業都合(要するにヒマ)次第です。突然見えなくなるかも知れませんが,悪しからずご了承ください。

J. S. Bach — Die Cembalokonzerte

今日,仕事の都合で最終電車となった。くたくたというわけでもないが,電車で無性にバッハのチェンバロ協奏曲が聴きたくなった。帰宅して針を落としたのは,1979--1981 に独 ARCHIV PRODUKTION が録音した LP レコード。トレヴァー・ピノック,イングリシュ・コンサートによる演奏である: J. S. Bach — Die 13 Cembalokonzerte; Trevor Pinnock (Leitung, Cem), Kenneth Gilbert, Lars Ulrik Mortensen, Nicholas Kraemer (Cem), The English Concert; Aufnahmen: 1979--1981; ARCHIV PRODUKTION, 2723 077.

私のお気に入りは,Die konzerte für 1 Cembalo d-moll BWV 1052 と f-moll BWV 1056。ともにバッハ自身のヴァイリン協奏曲をアレンジしたものだという。トレヴァー・ピノックのこの盤は,古楽器を使ったバッハ・チェンバロ協奏曲の演奏として高い評判を取ったもっとも古い録音のひとつではないかと思う。それまでカール・リヒターの演奏が最上のものとされていたが,ピノックの登場でガラリとイメージが変わった。清冽,愉悦,軽やかさと深い通奏低音とが合わさったその音響は,「バッハの精神性」などというものに凝り固まった,それまでの埃っぽい重たい解釈を,きれいさっぱり吹き飛ばしてくれたのである。

ああ,バッハはいいなぁ。

2010_bach_cem.png

私の所有する盤は 30 年前のドイツ・アルヒーフ輸入盤アナログ・レコードであり,もはやクラシック中古レコード店でしか入手できない。もちろん,この演奏は定番になっていて,いまでも CD で手に入る。

バッハ:チェンバロ協奏曲全集
T. ピノック (Dir, Cem), イングリッシュ・コンサート, 他
ユニバーサル ミュージック クラシック (2002-06-26)

七夕

今日は七夕。この梅雨どき,やはり雨で牽牛と織姫は遇えなかったようである。

* * *

W 杯準決勝でアルゼンチンが負けてしまった。私の観測は当たったためしがない。

優勝国がどこになるかで娘と賭けをしている。いま話題の野球賭博とは違い,金を賭けているわけではもちろんない。娘が勝ったらアイスクリームをふんだんにおごってやり,私が勝ったら肩揉みをしてもらう,そんな他愛のないものである。それでも「賭け」をやることでがぜん気合いが変わって来る。それで W 杯の楽しみを倍加させているのだ。当初,娘はブラジル,私はアルゼンチン,と張ったのだけれども,どちらも敗れてしまったので仕切り直し。いまは娘はドイツ,私はオランダ。オランダにはこれまでいろんなところで何度も賭けては負けて来て,今度こそはというところ。

敗れたアルゼンチン。期待の高かったメッシは結局まったく得点を上げられずに大会を去った。悔し涙に咽せてマラドーナに慰められていたのが印象的であった。私は敗れた者たちの姿の方が好きである。メッシはまだ若い。この悔しさをバネに,次の大会こそタイトルを奪取してほしいと思う。負けるなら,日本のような PK 戦ではなく,アルゼンチンのように完膚なきまでやられたほうがよい。次のリベンジへの執念がいや増しになって,楽しみが増すからである。

* * *

大英帝国のエリザベス女王陛下が 50 年ぶりに国連で演説をしたそうである。わが国の天皇陛下はまずこんなことはなさらないと思う。政治的と受け取られかねまじいお振る舞いは断じてなされないのはよいことである。安全なところにいていただかないといけないからである。

「君臨すれども統治せず」のエリザベス女王陛下がいまなぜ国連で — すなわち自国民のみならず世界に向けて — おことばを発したのか,その理由はいったい何なのか興味深い。バカな私にはまったく想像できません。英国も先頃政権交代があったが,国情はどうもよいとは思われない。かつて 70 年代に呼ばれたような「斜陽国」に,金融危機以降,再び陥った観がある。W 杯でもまったくよいところがなかったので,国民は失意の状況にあるのではないか。W 杯の祝勝気分を除けば,日本とまったく同じである。そうすると王室を前面に押し出して,なにかを回復しようというのだろうか。正直,ちょっと不穏な気配を感じる。女王陛下にしゃしゃり出ていただかねばならないなんて,英国は相当せっぱつまっていると私なんかは思う。

政治・経済がダメでも英国の権威が腐らないのは,王室があってこそである。まさにわが日本と同じ。ありがたいと思う私は右翼でしょうか? 日本・タイ国が中国・韓国より,英国が米国より「権威ある国」だと思うのは,まさにその一点に尽きると真面目に私は思うのである。サッカーなんぞのスポーツが弱くったって,一向に構わないのである。中国・韓国がそんなことで国威発揚し日本よりもどんどん先きに行ったところで,わが国が「権威」ある国であることは揺るぎない。私は自己満足の右翼なんだろうか?

参議院選たけなわ

ワールドカップにばかり夢中のわけだが,当然ながら世の中が止まったわけではない。プロ野球も,いつのまにやら,交流戦が終わっていた。DH 制に鍛えられた,投手力に優れたパリーグが,実力を見せつけた。そしていま,参議院の選挙運動がたけなわである。

今次,マスコミのおかげで消費税が争点になってしまった。これは誰の入れ知恵なのか。共産党から電話がかかって来る。「消費増税ではなくて,軍事費の無駄遣いをやめるべきですよね」と,彼らも争点は消費税にあると認識しているようであった。「消費税はどうでもよいと思います。それより,税金を安全保障関係費以外はすべて民間企業に運用させ,民間に事業委託してくれるんなら,共産党に一票入れてもいいですよ。民間企業経営者を — そうそう,日産のカルロス・ゴーンみたいなのがよい — 官僚のトップに据えて,片っ端から事業改革させ,余剰公務員をクビにしてくれるんなら。そうすれば財政再建はすぐできると思うんですけど。ところで,マルクス=レーニン主義なんてもう信じてないんでしょ?」と私。ジョーク,ジョーク(何が?)。

自民党は谷垣総裁のアップ CM を垂れ流している。ご飯時には見たくない映像のひとつである。「いちばんの日本」だって? あなたがた無邪気ですね。年収 400 万以下が労働者人口の半数を占める,そういう「普通の生活」すら難しい国民が「いちばん」なんて望むだろうか。普通の国民にとっては,そんな「いちばん」幻想のアジテーションなぞクソくらえであって,「せめて普通の暮らしができるようにしてくれ。もっと努力が報われる世の中にしてくれ」ということに望みは尽きるのではないだろうか。働いたらそれに見合った給料を貰え,食べて自分の家で寝ることができ,仕事のあとで好きな女の子・男の子とエッチしたり本を読んだり映画を見たりする少しの余裕が持て,結婚生活が送れ,子供を生んで育てることができ,老いて仕事ができなくなっても食べて行くくらいはできる — そういう普通の暮らしすら「望めない」人が世の中に溢れているのである。

またもや,自民党らしい単なるカッコ付け,国民不在の発想。野党に下ったのだから,原点に立ち帰って目線を地べたまで下げ,国民生活の現実をもっと見つめたらどうかと思うのだが。甘やかされたお金持ちのドラ息子が,親の財産を蕩尽したあげく落ちぶれても,やっぱり贅沢をやめられずカッコばかり付けている — いまの自民党はそういう体たらくである。「お前はもう死んでいる」というのがあったけど,自民党はまさにこれ,ホント終わっている。こういう亡霊みたいな人たちにまた政権を任せると,貧困がいよいよ蔓延して国民は地獄を見るかも知れない。

選挙でマイナス投票が認められないものだろうか。この政党,候補者にだけは当選してほしくないという意志を示す,対象の票数を減らす票である。そんな政党,候補者ならいくらでもいるのは何故なんだろうか。なんでこうもアナーキズムに傾いてしまうのか。もし,そういうマイナス投票制度があったとしたら,私はどこに入れるかって? もちろん民主党ですよ。ジョーク,ジョーク(何が?)。

美文書第 5 版発売

奥村晴彦先生の著書『LaTeX2e 美文書作成入門 — 改訂第 5 版』が来る 7 月 7 日に発売されるらしい。Amazon では予約注文の受付がはじまった。本書は,LaTeX の総合入門書として確固たる地位を占めて久しい名著である。3 年周期くらいで改訂され,最新事情を反映し続けていることこそが,その質の高さ・確かさと著者の良心の証である。
 

 

※ 7.7 付記

もう本書のサポートページが開設されていた。誤植や参考情報を掲載していて,ぜひ本書と合わせて参照することをお勧めする。

コンピュータ関連図書では,このように書籍中の誤植などの訂正情報を Web サイトでアナウンスするというマナーが定着している。文学関係の書物など,いったん公刊されてしまうと誤りすら「表現」として大きな顔をし出すことがある。文学書では誤りは「恥」なので,詩集などで刊行後にバグが見つかると編集者/校正は著者に呪われてしまう(編集者からすれば「アンタだってゲラ見てんじゃないの?」と言いたいところだろうが,文化人という人たちは俗事に関しては他者のせいにするのが得意である)。「芸術的書物」はそれ自体で完結していることが重視されるからか,別の形態で「訂正」するということそのものが忌避されるようである。間違いを犯すのは人間の性なのだから,この場合,著者は堂々とどこかに訂正を掲げてもよいと思うのに。こういうのと比べると,サポートページできちんと正す技術的文献の姿勢は良心的である。

※ 7.25 付記

本書付録 I 『LaTeX2e による多言語処理』のサポートページも公開された。本文にしるされたパッケージ,スタイルファイル,プログラムへのリンク,使用に際しての Tips が掲載されている。付録 I をタイプセットするために必要なすべてがある。今回も本付録のお手伝いをさせていただいた。もうすでに誤植を二つ発見してしまい,Errata としてその訂正情報を掲載してある。

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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