中日ドラゴンズが日本シリーズ進出を決めた。なんでセ・リーグの CS ファイナルがテレビ中継されないのかといぶかしんでいたら,今夜フジが中継していた。麻雀ゲームをしながら,本を読みながら,横目でつらつら観た。
讀賣ジャイアンツは二連敗ののち昨日初日が出て,今夜はどんな闘いを見せてくれるのか,興味深かった。やはり投手力の差が出てしまった。8 回裏,四球で追加点を献上するなんざ,愚の骨頂である。今年の讀賣を象徴するようなシーンだった。それでも,9 回表,打ちあぐねていた中日浅尾投手から下位打線でチャンスを作ると,谷が送りバントでランナーを三進させ,松本が渋いセカンドゴロでランナーを返し,ジャイアンツは土壇場で同点に追い付いた。これを見て,私はさすがジャイアンツだと感心した。
あそこで送りバントを命じるところが,阪神真弓監督と大きく異なるまさに「采配」であって,私は原監督の腹の座り方の凄さに唸らされた。真弓監督なら,あそこで代打を送って強振させ,あわよくばタイムリーヒット,逆転ランナー出塁を期待するに違いないのである。ところがコントロールのよい投手を相手にすると打ち上げて,あるいは三振して終わりの可能性が高い。ここには,どうしてそれまで打ちあぐねていたのかというマネージャとしての分析も,反省もない。プロ・スポーツで神頼み,運頼みを見せつけられるとうんざりしてしまう。こういうところからも今夜は,「簡単には負けないぞ」というジャイアンツのプロの意地のようなものを見せてもらった。
結局,中日和田選手の目の覚めるようなサヨナラタイムリーで中日が勝利した。クリーンアップが攻撃のキーとなり,投手が守りきる。この基本に忠実だった落合監督の姿勢ゆえのタイトル獲得である。阪神ファンとしても見応えのある試合だった。
* * *
TBS『報道特集』を観た。TBS は『朝ズバッ!』捏造スキャンダルなど感心しないことも多いけれども,特許庁情報流出問題,野中広務・機密費スッパ抜きなど,なかなか大新聞が踏み込まない部分にメスを入れ,大新聞に踊らされない特集を組んだりすることがある。特許庁収賄事件も TBS の報道を受けて特許庁が内部調査を進めるうちにあぶり出された事件だという。結局,東芝ソリューションと政治家とのつながりなどは明るみにはならなかったけど。
今日の特集は検察審査会であった。小沢さんの「強制起訴」でがぜん話題になった,11 人の怒れるアマチュア集団についてである。この制度のよい面,悪い面ともあげていて,私の眼で見る限り偏向を帯びているようには思われなかった。審査員となった人々に直接話を聞く取材あり,国会での民主党議員による検察審査会の密室性に対する問題提起ありで,何も知らず「強制起訴」を普通の立件と同じように捉えている世間知らずにはよい特集だったと思う。議決過程が秘密であるにもかかわらず,どこから漏れたのか「全会一致で起訴相当議決」などという情報が新聞に載るなんて,気味の悪い制度運用にも触れていた(秘密情報を検察がマスコミにリークしているのは明らかなのである)。審査員経験者のひとりの言から,権力者の事案については厳しくなってしまうという「市民感覚」が浮き彫りになっていた。
「法のもとの平等」,「法に厳格に立つ裁定」,「推定無罪」という法の三原則が「市民感覚」によって危険にさらされないか,とキャスターが危惧の意見を述べているところが私には印象的であった。良識あるキャスターだと感心した。法のもとには権力者も弱い一般市民もない。何の罪か,法に基づいて厳格に定義されなければ人を罰するなどもってのほかである。起訴されても判決が出るまでは,無罪として被告人を扱うべきである。この原理はまさにその通りである。
なのに。11 人の怒れる男たちの安っぽい無責任な正義感で,罪状においてプロフェショナルがその立件を断念した「灰色」の人間を「起訴」に追い込み,被告席に立たせることができるようになった。「市民感覚」で権力者を叩くことができるようになった。そして検察がそれを見越して議決を誘導し,権力の奴隷・マスコミに「全会一致」をリークし,民意が起訴を正当化したことをアピールする。こういうのを「衆愚政」というのである。人を裁く一端を担っているという恐ろしさの自覚,判断に対する責任感がこのアマチュアたちにはないのだ(そもそも裁判官には皆これがあるとも言えないけど)。この『報道特集』を観て,私は基本的にアマチュアを信用しない質だからか,検察審査会制度に対していよいよ不信感を強めた。
* * *
野球観戦の合間に二畳庵主人・加地伸行『漢文法基礎』(講談社学術文庫,2010 年)を読む。朱川湊人『いっぺんさん』を読了して,ちょっと一休み。『漢文法基礎』は 1984 年に Z 会の受験参考書として出版された本である。なんでこんな学習参考書が講談社学術文庫から出るのか。じつは,最近,この手の昔の「学参もの」が相次いで文庫で再刊されている。小西甚一『古文の読解』(ちくま学芸文庫),高田瑞穂『新釈 現代文』(ちくま学芸文庫)など。
何故なんだろうか。もちろん,これらの書籍は高度な内容を高校生向けに説いた,確かによい本であるけれども,ちょっとこのブームは気味が悪い。最近の学参は質が悪くて昔を見習えとでもいう主張があるのだろうか。難しいことをさも易しく説いてくれるものへのブーム(『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』なんて俗流本に釣られる人があまりに多いようである)があって,これらもその一端なのだろうか。違うと思う。学参のレベルが落ちているとの声も聞かないし,高等学校の国語はピーター・ドラッカーの言説とは範疇の異なるテクニカルなものである。これらの本は私が大学受験のころにお世話になったものばかりである。「ああ懐かしい」なんである。となると,どうやら私たちの世代が懐古趣味につけ込まれて単に商品の経済的ターゲットになったに過ぎないのだ,と考えざるを得ない。ま,それもよし,である。
私は漢詩が好きである。大学のころはロシア語をはじめ外国語の文献渉猟に追い回されていたためか,漢詩は大学を出てからのほうが読む機会が多くなった。頼山陽や菅茶山などの日本人の漢詩人に触れるようにもなって,なんで漢籍という日本の素晴らしい伝統が廃れたのか大いに残念だと思うにつけても,高校時代それほど得意でなかった漢文も,社会人になってから岩波全書『漢文入門』(岩波書店,1957 年初版)でふたたび学ぶようになった。藤田先生による sfkanbun パッケージによって LaTeX で漢文訓点を組めると知って以来,親しい漢文を自分でもタイプセットして面白がっている。旧字・旧仮名遣い変換ソフトウェア misima を作ったとき LaTeX 漢文訓点命令変換機能を入れたのも,Adobe Japan1 の恐るべき漢字空間(JIS X 0208 じゃ高校漢文教科書の漢字すらレパートリーが足りないのに対し,Adobe Japan1 ならカバーできてしまう)とこれに基づく OpenType フォントに魅了されただけではなく,ひとえに漢籍の組版にも思い入れがあったゆえである。
『漢文法基礎』は,「やあ,諸君,お早う」なる書き出しではじまり,よい意味で上から目線丸出しのくだけた語り口で,取っ付きにくい漢文を手取り足取り教えてくれる。書き下し文の仮名遣いや送り仮名の考え方など,学校ではきちんと整理してくれない原理のキモを徹底的に掘り下げてくれる。漢文は,中国の古典に親しむためではなく,国語の一伝統を身につけることにこそその目的がある,との説明は説得力がある。かりがね点(レ点),一二点を押さえていれば訓点の九割方を身につけたも同然,といった知見も,教育現場の豊富な経験に裏打ちされており,眼を見張らさせるものがある。高校生にはお勧めの教材である。
『漢文法基礎』はやはり高校生が読むものであって,私などはただの懐かしさで接するばかりである。「ヲ・ニ・ト(鬼と)帰る」なんて「あったあった」である。こんな書物を講談社が何故にわざわざ文庫本として再刊するのか — やっぱり,昔を懐かしむオジン,オバン心情に訴えているとしか思われない。もう一度,高校生になった気分で高等学校漢文を復習したいと思う人には絶好の本である。大学教育を受けた人で中国古典を日本人として読み解きたいと思う人には,私は岩波全書『漢文入門』をお勧めする。
* * *
『北朝鮮の『アリラン』写真,130万ポンドで落札』という記事をみた(中央日報)。ここまで値段が跳ね上がるのも凄い。私も一度実際にアリランを観てみたいと思っている口である。
アリランのようなスペクタクルを前にすると,私がまず抱く思いは恐怖である。それこそアリのようにわんさかいる人間たちが等質の動作でもって一糸乱れないなんて,北朝鮮という国の全体主義ぶり,洗脳ぶりを象徴しているように思われるのである(実際はそんなことはないのだろうが)。このアリランは,あの軍事パレード同様,怖い。こんなにたくさんの人々の振る舞いが皆同じだなんて,クレイジーの印象がもっとも適切である。
しかしながら,この記事に対して嘲りしか発せられない2ちゃんねらーや Yahoo! コメンターの自己満足も — 私はまず嗤ってしまうのであるが —,やはりこれもどいつもこいつも皆同じという意味で怖い。集団主義は日本人のお家芸である。日本人もアリランのような芸当は得意ではないかと思う。二個師団くらいの自衛隊員がアリランに類した規律デモンストレーションを皇居外苑あたりでやろうものなら,諸外国は震え上がるはずである。