2011年8月Archives

民主党新代表

野田さんが海江田さんとの決戦投票で逆転で新代表に選ばれた。私は前原さんかなと考えていた。増税を掲げる野田さん,笑い者経産相だっただけに笑い者首相になること間違いなさそうな海江田さん「だけ」は勘弁してほしいと思っていた。「野田さんに決まり? なんでダチョウクラブが総理になるの?」というのは,うちの妻や娘の反応。でも,野田さんに決まったからには期待したいと思う。菅さんよりはマシだろうと。何の根拠もないけど。

それにしても,テレビも新聞も「この課題山積のなか民主党は親小沢と脱小沢の駆け引きにばかり始終している」なんて批判している。彼らこそが勝手にそういう図式に拘って政治意識を低くしているだけの様に思われる。政策論議がないなんて,なに偉そうなこと言ってるんでしょうか。もとより検察と結託して小沢一郎を犯罪者にしたてあげたのはほかならぬマスコミなのである。
 

付記:

今回,海江田,前原,野田,馬淵,鹿野の五名が出馬し,一回目の投票で海江田トップ,二回目の決選投票で前原,馬淵,鹿野陣営の票を集めた野田が勝利した。もとより馬(馬淵)と鹿(鹿野)が新代表になるなんてまったく夢のような話だった。そのわりに野田勝利に馬と鹿が大いなる役割を果たしたわけである。この一回目と二回目でトップが異なるなどというネジレた代表戦,馬鹿によって決せられたっちゅうことか。なんとも象徴的である。

野田さん,「どじょう」発言が何か無意味に受けているけれども,首相が泥のなかを這い回るどじょうじゃ困ります。新首相,期待したいんですけど。。。

来年 2012 年,米国,韓国,ロシアの大統領選挙がある。そして中国も習近平が新しい国家主席に就任する見通しである。北朝鮮も金日成生誕 100 周年,つまり北朝鮮の国家的一大イベント年を迎える。どの国も花火を揚げたいと思うのは目に見えている。となると,国内の不満を外に向けたくなるのは政治の常道。各国とも対外的に強気の姿勢を構える可能性が極めて高い。外交無能の上,震災で疲弊する日本はその一番のターゲットになる。もうそろそろ韓国,中国,ロシアが領土絡みで日本をイジメにかかっている。

こんななか,財務畑で官僚のいいなりの野田さん(要するに内向きの外交オンチ)で乗り切れるのか。ホント心配である。そんな外交的修羅場でどじょうになられた日にゃ国民も泥まみれになるんじゃなかろうか。

マー君すごい

楽天の田中将大投手が今日 18 奪三振の完封勝利を収めた。野球はチームスポーツなんだけど,びんびんのピッチャーがいてばったばったと三振になぎ倒せば,野手が寝ころんで鼻くそをほじくっていてもよいくらいの,ヘンな個人競技的性格がある。田中投手は日ハムのダルビッシュ投手とともに「一人だけで」試合を作ることのできる選手である。だとしたら,残りのザコ野手の 9 倍は給料をやってもよいように思われるのだが,そうならないところがやっぱりチームスポーツということか。

マー君のファンで「あった」妻に今日の活躍を伝えたところ,妻の曰く,「あとは里田まいと別れるだけね。そしたら許してあげる」。誰と誰とがラブラブなんて,よくそんなこと知っているものである。里田まいが何者なのか私はまったく知らなかったのだけれども,女性がスポーツ選手を主に芸能ネタとして眺めているのに,ちょっと心外な気がした。ま,なでしこジャパンについて「川澄,鮫島カワユス」という目線でしか見ない男たちも相当数いるわけで,人気商売である以上これはしようがないということか。スポルトなどでルックス(と,露出した肉体美)バツグンの浅尾美和選手ばかりが — タイトルとは無縁であるにも拘らず — 取上げられる所以でもある。

百恵伝説

米国の政府要人が来日していたからか,昨日は米国大使館付近の街灯には日章旗と星条旗とが掲げられていた。今日はもうないなあと思いながら,会社からの帰り,外堀通り,烏森通りを赤坂溜池から新橋まで歩いた。これがいまの習慣。烏森通り・新橋三丁目付近から新橋駅方面を望むと,薄明に灯りが灯った汐留シティセンタービル,電通ビルなどの摩天楼は,まるで『リング』の冥王サウロンの城塞のように見える。今日は何を思ったか,山口百恵の歌謡曲(今なら「なにそれ?」と言われるであろう昔の流行歌)を携帯電話 LISMO で聞きながら歩いた。

山口百恵は伝説のアイドルとなって久しい。人気絶頂のとき華やかな結婚をして忽然と引退,その後大いに期待されながらも復帰することなく伝説と化した。二人のご子息を立派に育て上げた。彼女は 1970 年代初期当初,いけない系(これは私の勝手な言い方。ちょっとふしだらな十代の背徳的歌詞をもつ曲が多かった)で陰のある不幸なイメージで人気を獲得した。映画・ドラマを通して 70 年代中期以降大ブレークしたのち,恐らく『秋桜』で老若男女の全方向的アイドルとなった。

私はというと,いけない系・不幸系の初期が好きなんである。都倉俊一の書いた旋律は感傷的だが質は高かったと思う。山口百恵の初期楽曲の特徴は,古臭い男心をくすぐる狡いフィクションだと私は思う。「あなたから許された口紅の色は枸橘の花よりも薄い匂いです」(『冬の色』1974 年,千家和也・詞/都倉俊一・曲)— 男尊女卑の臭いがぷんぷんして,こんな歌詞の J-POP が今出て来たら(出て来るはずがないのだが)ある筋からこっぴどく批判されるに違いない。「突然あなたが死んだりしたら私もすぐあと追うでしょう」という一方で「あなたなら他の娘と遊んでいるとこを見つけても待つことができる私です」という歌詞(同上)— 男に好都合な不幸へのこの指向はもう理解不能というしかない。当時 12 歳だった私のような子供でも,この「不幸」(「百恵」なのに)は徹頭徹尾「フィクション」だと割り切って楽しんでいたのではないかと思う。今の J-POP に見られる「本気」モードの「君を守る」式ワンパターン・ヒロイズム(呆れるくらいハリウッド映画に毒された「守りたい」ヒロイズム)とどっちがよいかは,世代の問題かも知れない。昔の流行歌はフィクショナルで狡かった。今のはどうも本気らしいが軽くて安っぽい。私は勝手にそう思っている。

新橋駅舎に着いて『秋桜』を聴きながら電車を待っていたら,列にいたスケベそうな親父(百恵世代に違いない)が扇子でせかせか涼をとっていた。その扇子のリズムが「あれこれと思い出を辿ったら... いつの日もひとりではなかったと...」という私のイヤホンにしか聞こえない音楽にぴたりと合っていた。
 

 

これはいま手に入る CD。LISMO 音源以外は,私は高校生のころに買った LP レコードをいまだに聴いている。でも,このレコード,現在もいい音で鳴るんである。山口百恵は,アナログな,昭和な郷愁とともに楽しむに限る。
 

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* * *

代表選への民主党の動きが本格化している。出ないと言っていた前原さんまで出馬表明する始末。やっと菅さんにお辞めいただけるわけです。これをまずは祝いましょう。

小沢さんの党員資格を停止した張本人たちがぞろぞろと小沢詣でをしているのを見るにつけ,この権力欲(頭に来る奴を粛正してやりたいとか,国民にあっと言わせる政策実行をもって歴史に名を残したいとか,そういう政治的野望ではなく,ただ単に内閣総理大臣という役職に着いてみたいというだけの)の恥も外聞もない有様に,「もう勝手にして」というばかりである。「挙党一致」— 恥も外聞も捨てる,という意味だったとは知らなかった。と言いつつ,私的には,今回は前原さんか。在日韓国人による献金問題という立ちションを見られてしまいましたが,そんなことは意にせず頑張ってほしいと思います。しかし,菅首相と同じように辞める辞めないでしか話題がとれず菅首相なんぞにスルーされて泣いてしまった海江田さん(要するに,菅以下),増税なんて震災復興の今いったいナニぶっこいてんだか財務官僚の言いなりでかつA級戦犯についての発言で不必要に中国をいらだたせる野田さん(要するに,強気のポーズをとる,人の痛みのわからない,なのに人任せな奴に,碌なのはいない),このお二人だけは勘弁いただきたい。小沢さん,うまく立ち回ってこいつらを踏み台にして,無罪判決が出た暁にはあなたが総理大臣になってください。

原発事故による汚染が拡大し,株価がひでぇ落ち込みを示し日本国債の格付けが落ち,リビアやシリアがとんでもない事態になり,韓国が震災日本の弱みに付け込みやがるこのご時世に,日本の政治家はなんとも自己論理だけで動くことができるもんだと感心させられる。来年度予算一律 10% カットだと? そんな一般企業のようなやり方をするのなら,一般企業と同じように 10% 公務員をリストラしたらどうか。何も考えずに三人のチームのうちの一人をクビにして様子を見る。それで何か不都合が出たら仕事のプロセスをチェックして徹底的に残りの二人のミスを責めまくる。そう,われわれ一般企業のようにやればよいのだ。それが財政再建の最短経路である。そして,小泉さんの路線を徹底的にやっていただきたい。郵政事業も年金事業もすべて民営化! 郵貯の莫大な資金を国内企業に投資!

— なんて,できるわけがない。とまあ,愚痴しか出て来ません。マスコミはどうかというと,目下,島田紳助さんとヤクザとのお付き合いにしか興味がないようです。紳助さんは街宣右翼にイヤがらせをされていたのをヤクザの口利きで止めてもらったそうである。街宣右翼はヤクザに飼われているので,どうも紳助さんは,右手でぶん殴られて左手でなでなでされたのに恩を感じて,ヤクザに囲われてしまったようである。目を着けたタレントの催しにそれ風の若い者を観客として送り込んで騒がせる。そのあと「ヘンな奴が来るとお困りでしょう,ここはひとつわれわれが仕切ってあげますんで,今後とも宜しく」とやって繋がりをもつ。総会屋の手口。芸能界とかプロ・スポーツ界とかどうしたってヤクザにたかられてしまうわけである。気の毒である。
 

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さっきまで「伝統の」巨人・阪神戦を BS 日テレで観ていた。「伝統」に相応しいよい試合だった。つまらないプレーは,ヒットを打った金本アニキが一塁をオーバーランして刺されてしまったところくらいであった。新井選手 — チャンスに弱いと言われながら,責任感が人一倍強い,そのプレッシャーでやっぱりここぞというときに凡退してしまう新井選手が私は阪神で一番好きである — の放った右中間への素晴らしい打球を高橋選手が好捕球した場面は,しびれるくらい感銘を受けた。勝利への執念を感じた。阪神も,この前ヤクルトにボコされた福原投手が 10 回ウラをきっちり抑えてくれ,さすがベテランと思わせてくれた。

ジャイアンツは前半戦は投手陣がボロボロで,自慢の打線も湿りっぱなしだったのだけど,このところ投打ともに「締まり」が出て来た。ヤクルトとの差はまだ結構あるんだけど,いまの巨人の投手陣のレベルは極めて高く,巨人はこれからのペナントレースを面白くしてくれると思う。残念ながら阪神はやっぱりダメのようである。今年は 4 位と予想します。ま,それでも今日のような試合を観られるならよしとしましょう。阪神ファンはそういうのに慣らされているんである。

夢の中の日常

芭蕉やプーシキンの研究文献ばかり読み漁っていた。そろそろ柔らかいものをと思った。田中優子『春画のからくり』,中野美代子『中国春画論序説』を読み,それでもってエロづいてしまい安達瑶の『悪漢刑事,再び』— 官能サスペンスというかソフトボイルドというか要するに官能小説を読んだ。そして,こんなぐちゃぐちゃに柔らかいものばかりを食べていると歯が鈍るので,そのあと島尾敏雄『その夏の今は・夢の中での日常』— 夏の暑い過去の忌まわしい幻影を手に取った。どうもいま鼻血が出そうである。

『中国春画論序説』を書いた中野美代子は知る人ぞ知る中国文学者である。私の大学時代,孫悟空にまつわる面白い講義で学生たちに大いなる人気を誇った先生である。澁澤龍彦『悪魔のいる文学史』を耽読された方は多いと思うけれども,これが書かれる契機になったともいえる『悪魔のいない文学史』を書いたのは中野美代子だということを知っている人は少ない。中野は,エロ,グロ,ナンセンスのどれをとってもフランス文学の上のまた上を行ってくれる中国文学の広大な地平を渉猟し,おフランスの悪魔ぶりに見られる知的な品のよさを嗤いのめすような楽しい人間模様を解き明かしてくれるんである。『中国春画論序説』もそのひとつ。

本書の面白さはいろいろなんだけど,蘇軾の有名な詩:

春宵一刻値千金  春宵一刻 値千金,
花有淸香月有陰  花に清香有り 月に陰有り。
歌管樓臺聲細細  歌管 楼台 声細細,
鞦韆院落夜沈沈  鞦韆 院落 夜沈沈。

の「鞦韆」(ブランコ)には,子供の遊び道具というよりも,男女が乗って野外セックスを楽しむ色遊具としての意味が込めれているという分析がいたく面白かった。ついつい香港製の(といっても出演しているのは日本の AV 女優なんだけど)エロ映画『金瓶梅』(2008 年,チン・マンケイ監督作品)の鞦韆のシーンを思い出してしまった。
 

 

安達瑶『悪漢刑事,再び』は刑事サスペンスものとしても読み応えあるエロ小説である。ヤクザや警察上級官僚の痛い懐をついて私腹を肥やし,女を漁るアンチ・ヒーロー的刑事・佐脇が主人公のシリーズものである。ワルガキに輪姦されたのに青少年を誑かしたとして糾弾されながら,名誉回復を拒む謎めいた元女教師・美寿々がヒロイン。小説というものは細部が大事,そしてその集積から大きなテーマが感得されるのだ,というようなことが言われる。しかし,この作品を官能小説たらしめているエロの細部は,どうやらいかなる大きなテーマ論にも積分されそうもない。こうした男女の悦楽図は,実存をかなぐり捨てて,純粋にその言葉の想像力を楽しむに限ります。電車の中でタチ読みするときは気を付けましょう。は,恥ずかしいんだけど,ちょっとだけ引用しておきます。

 佐脇が両手で秘唇を広げると,米粒ほどの肉芽が姿を見せた。それに舌を這わせて愛撫を始めると,すぐに美寿々は反応した。
「あ,ああん……」
 舌先で秘核をころころと転がされただけで,腰をくねらせ,女壷からはとろとろと熱い蜜も溢れてきた。
 プロの女は感じる演技がうまい。客をイカせるのが仕事だが,そのたびに自分もイッていては身が持たない。
 この旅館では,「仲居」と言っても素人のままではいられまい。そして,美寿々は本気で感じていた。
安達瑶『悪漢刑事,再び』祥伝社文庫,2008,68 頁。
   

島尾敏雄は海軍大尉・特攻隊長であった。1945 年 8 月,特攻作戦発動命令を受けたのち出撃命令が下る直前に,要するに「ヨーイ」と「ドン」との間に,終戦を迎えた。『その夏の今は・夢の中での日常』は,そういう生と死の間の緊迫した体験の結実した作品群を収録している。敵に体当たりして死ぬことだけを考えて準備して来た特攻兵は,「ドン」がかからないまま終戦を迎えるとき,もはや生きるものでも死んだものでもない状態で投げ出される。

 その夜発進の命令を受けとれば,私はきっと勇敢な特攻戦が戦えたろう。昨夜は,一年半ものあいだその日のことを予想し心構えていたのになお動揺したので失望が心を食いあらした。不眠のあとの頭痛をのこしたまま寝ぼけまなこで搭乗服を着け,ボタンやベルトを定まった位置に定めながら中腰で兵器の艇に乗って出かけるようなくやしさがあった。生の世界の方にまだ何かいっぱい為のこしたままのうしろ向きの気持ちのずれを,戦場に着くまでのあやしげな時間の中で持ち直さなければならないたよりなさがあった。しかし今夜はちがっている。奇妙な一昼夜のあいだに,ないがしろにされた感情につかっていた。そして生きのこったとしてもこの先に生活しなければならぬ日々の,断絶に囲まれた世の中で耐えて行けそうもない気持ちの底も見たと思った。[ 中略 ] むしろ発進がはぐらかされたあとの日常の重さこそ,受けきれない。死の中にぶつかって行けば過去のすべてから解き放たれるのに,日常にとどまっている限りは過去から縁を切ることはできない。[ ... ]
『出発は遂に訪れず』,島尾敏雄『その夏の今は 夢の中の日常』講談社文藝文庫,94--5 頁。

「あ,ああん……」の官能小説のすぐあとで,死の想念に憑かれた,こうした長大なパラグラフ群を読むと,島尾の書いている通り,日常と夢との境目が確かにわからなくなって来る。死の現実を生きた兵士にとって,生の日常はまるで「断絶に囲まれた世の中」であるらしい。そういう近代的知性(「靖国で逢おう」という死のロマンチズムとは無縁の知性)をもって生き延びた兵士にとって,戦後とは夢だったのだろうか。夢の中の日常。現代に生きるわれわれの甘さは「日常の中の夢」にあることだと思い至る。ま,それでもたまには「あ,ああん……」もよいではないか。
 

東日本大震災復興支援慈善試合

昨夜,なでしこジャパン対なでしこリーグ選抜の試合があった。なでしこワールド杯凱旋試合にして,震災復興支援のチャリティーマッチ。今回も私は仕事で帰りが遅くなりテレビ中継を観られなかった。ネットやスポーツニュースでハイライト映像を見た程度である。オリンピック予選前なのだからオールスターお祭り対戦なんかじゃなく,男子のように,海外のナショナルチームとの親善/強化試合をこそやるべきだと思っていた。でも,ハイライト映像で見た限りは結構ガチにやっていて,リーグ選抜も後半相当押し込んで,スピードと突破力のあるフォワードに崩されるというなでしこ最大の弱点をついて得点した。そういう意味では,ヘタに海外チームと試合をやるよりも,かえってアジア予選のよいシミュレーションになったのかも。

じつはいまこの現在の私のもっぱらの関心事はなでしこジャパン対なでしこリーグ選抜の試合などではなかった。中国深圳で開催されているユニバーシアード競技大会に注目。サッカー日本代表(大学)が男女ともにベスト 4 に進出したんである。Yahoo! ニュースなどでスポーツ・ディレクトリをいくら探してこのテーマが見当たらないのだけれど,JFA 日本サッカー協会サイトで結果の確認ができる。男子は 18 日準々決勝で中国を逆転で下して,20 日準決勝でメダルを賭けてロシアと対戦する。女子は,同様に,昨日準決勝でフランスを下して,21 日決勝で中国と対戦する。年齢制限のない A 代表,オリンピック代表ばかりが注目されるけれども,最近のサッカー日本代表はそれ以下の世代でも上記のように素晴らしい成績を残すようになった。歳のせいか,若い世代が育っているのを目にすることができると,本当にうれしくなるんである。

へとへとどす

先日発生したシステム障害が昨日やっと解決し,今日はその報告に顧客を訪問した。某超大手電機メーカー本社ビル。長時間に及ぶ打合せで,障害に至るシステム設計要因に関する突っ込みを受け,私は胃が痛かった。申し訳ございません,かくかくしかじか再発防止策を行って参ります,云々。それでも顧客は,なんだかんだ責め立てても,「ご苦労様,ありがとう」と労いの言葉をかけてくれた。連日のこの暑さ,障害対応のストレスでもうへろへろ。で,顧客報告のあと,帰社する気にもなれず,川崎に寄り道してから家に帰ることにした。

川崎駅地下街アゼリアにある川崎市の広報コーナーで「川崎はロケのまち」なる掲示板を目にした。日テレ土曜日に放送されているドラマ『ドン・キホーテ』(松田翔太,高橋克実主演)で,川崎駅前・銀柳街が出て来たのを認めて「おー,あのドトールのとこじゃんか!」などと家族でびっくりしていたんだけれど,その『ドン・キホーテ』のポスターもこの掲示板に掲げられてあった。携帯デジカメでぱちり。

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丸善で本を買ったあと JR 南武線に乗ろうとしたら,ハラが下って来た。やべ。昼間に大手町で食った天ぷらがいけなかったか。鹿島田駅舎のトイレに駆け込んだ。セーフ。1. ブラを外す。2. パンツを降ろす。3. マンコに一礼をする。4. さしいれる。これ,便器に座って読んだ落書きのひとつである。その他楽しい同類がいっぱい。相合い傘に実名と思しき男女の名を書いたのもあった。

ふと気付く。2ちゃんねるはこれと同じ落書きなんだと。公衆便所の落書き。パソコンは公衆便所の便器である。公的トポスなのに尻を露出させることの出来る匿名的孤独に浸されるこの便器に座った瞬間に,性的欲望もしくは愛国的非常事態妄想,反社会的自己顕示欲などの恥ずかしい情念がぶりぶりとヒリ出される。ロダンの『考える人』よろしく,人間は排泄するとき,「考える」ものらしい。ただしこの際,己の境遇について悲観的になって,妄想的情念にリアリティを与えたくなるようである。2ちゃんねるを読んで「売国奴」などなどの言葉で政治的アンテナを刺激されても,「マンコに一礼をせんかっ!」くらいに受けとめたほうがよさそうである。じゃあブログは何だろうか,と考える。そう,こうした公衆便所の落書きの,形を変えた「報告」ではなかろうか。俺の「公衆便所報告」ももう少しで 6 周年,1000 発記念か。なーんか,アホみたい。と,尻を拭き,鹿島田駅舎の立派な便器をあとにしたのでありました。
 

* * *

帰宅してなでしこジャパン国民栄誉賞授与式のニュースを見た。また,宮間あや選手・千葉県民栄誉賞授与式出席の記事もネットで見た。なでしこのスポンサーになったアウディ・ジャパンによるアウディ車贈呈式では,「私にもアウディ」なる佐々木監督のオヤジギャグも聞かれた(このニュースへの Yahoo! コメント,つまり「公衆便所の落書き」に「なんで日本車じゃないのか」というのがあった。ホント,これ,便器に流されずに残ったクソみたいなナニである。トヨタやニッサンが金出さねぇからだというのがなんでわからないんだろうか)。サッカー・ワールド杯で日本が優勝するなんて生きているうちは無理だと私は思っていた。思い出すたびに幸せになる。だからこうした報償には何の異論もない。

しかし,「なでしこサッカーが世界一」というにはまだまだほど遠い。実力に加え,運に加え,恐るべき神風が吹いて,今回なでしこは杯を手にすることができた。「世界一なんだから五輪予選突破は当然」と思う人は愚かである。皆が考えているほどアジアは甘くない。それはなでしこたちがいちばん知っていることだろう。

千葉県民栄誉賞授与式で森田知事は宮間選手に対し「あとはステキな男性だけだな」などとセクハラ冗談を言ったそうである。これがなぜセクハラか。「どうせいまは恋人なんていないんでしょ」という根拠のないハラが透けて見えるからである。また,相手が男性だったら知事は「あとはステキな女性だけだな」なんて口にしただろうか。こうして,いろんな賞をもらい,いろんなところに引っ張り出され,ときには権力者にセクハラをされ,五輪予選を前にしてこの一ヶ月,彼女たちは精神のコントロールにおいて相当厳しい状況を強いられている。男子日本代表・長谷部選手の『心を整える』でも読んで,闘争心を整えてもらいたいものである。勝っても負けても私は応援します。

8.15

今日は終戦記念日だった。

一般に日本人は 8 月 15 日を日本が連合国に敗れた象徴的な日と考えているけれども,国際法上は,戦艦ミズーリ号の甲板において連合国代表米国と日本国との間で降伏調印式が行われた 9 月 2 日こそが「終戦」の日である。8.15 が日本人のカイロスになっているのは,いうまでもなく,天皇陛下が国民に対して戦争終結を宣言するとともにその後の復興への呼びかけをなされた日であるからにほかならない。一方,このいわゆる玉音放送は事前に録音されたものだったが,「徹底抗戦」に拘ってクーデターを起こした陸軍青年将校たちは,戦争終結を阻止しようとして,玉音原盤の奪取を図った(8.14 から 8.15 にかけて起こったこの一連の事件は宮城事件と言われる。映画『日本のいちばん長い日』の主題である)。終戦記念日を 9.2 ではなく 8.15 とする,一方で,国と国との関係を決するに天皇の終結宣言をなきものにすればよいと発想する,このあたり,日本人の独りよがりな国際感覚を象徴しているように思われる。

それでも,私にとってもやはり,太平洋戦争(大日本帝国において閣議決定された名称,つまり正式名称では「大東亜戦争」)の終結を記念する日は 8.15 である。このカイロスが天皇陛下の玉音放送と分ち難く結びついている以上,戦後の日本のあり方においても天皇陛下の存在抜きは語れなくなったからである(天皇の御聖断で戦争が終結したということは,天皇が戦後日本の道を拓いたということである)。また,灼けつく暑さにうだるお盆という時期は,死者に対して思いを馳せるに相応しい。

今日も例年通り,天皇・皇后両陛下ご臨席のもと,政府要人,戦没者ご遺族により全国戦没者追悼式がとり行われた。日本全国の催しにおいても,正午に黙祷が捧げられたはずである。この日だけは誰もが,平和について何かを改めて考えるのではなかろうかと私は思う(本当か?)。

靖国神社にお参りした人も多いはずである。超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の人たちもそろって参拝したとのニュースを見た。一方,天皇陛下は靖国神社にはご参拝なされず,全国戦没者追悼式にだけご臨席される。私も何度も靖国神社にお参りし,戦没した軍属に敬意を表して来た。それでも,天皇陛下のお振舞いには感銘を受けずにはおれない。徒党を組んで靖国参拝の政治的パフォーマンスをなす人たちをみるにつけ,やはり天皇陛下こそが恐るべき国際感覚をもって自覚的に行動されている,ということがしみじみとわかるからである。なぜか? そんなこと,ここで書きたくない。「心の問題」ということである。(ところで,靖国神社を参拝した文学者知事が菅総理をはじめ閣僚のひとりも靖国参拝しなかったことについて,「あいつらは日本人ではない」と自信満々に宣っておりました。1975 年を最後に靖国御親拝がなされていないのを何と心得るのか!)

昨日,戦争終結とその後の日本の復興をテーマとした特番を見た。池上彰さんがわかりやすく当時の事情を解説していた。壊滅的打撃・国難の受容とそこからの劇的復興という点で,8.15 を東日本大震災の 3.11 と重ね合わせる意図にも,たいへん共感を覚えた。

暑い暑い

暑いですね。お休みの今日,芭蕉研究をし,中野の美代ちゃんの書いた中国春画研究本を読み,高校野球を観,ネットでプロ野球をチェックし,と,ノホホンとした一日だった。

贔屓の阪神タイガースが面白い試合をしてさきほど勝利したところである。なんだかんだいっても勝ったのがうれしい。今夜の試合では,プロの世界でも面白いように打たれる投手というのもあるもんだなぁと,久々に感心した。このところタイガースは,好調なのかよくわからないけれど,負けつつも中日相手に結構よい投手戦を繰広げていて「さすが最高給軍団!」と思っていたところに,今夜のような,投手が釣瓶打ちアンド草野球的満塁走者一掃タイムリーエラーの被害者になってしまうという,高校野球の延長のような,楽しい野球も見せてくれ,ファンに対するエンターテーメント魂で感服させてくれた(プロにだってこういうこともある)。城島選手がケガで長期離脱してしまいリハビリ中であるが,早く復帰してほしいものである。このクソ暑いなか,金本選手も頑張っている(老害などと叩かれているが,そんなこと気にしないで!)。今年も優勝は無理だろうけれども,それでも私は阪神タイガースを応援します。

でも,野球への熱い興味も 8 月いっぱいまで。9 月からブラジル・ワールド杯,ロンドン・オリンピックに向けたサッカーの予選がはじまる。サッカー日本代表は男子も女子も好調なのでまたまた楽しみである。これまでの成果はいったん忘れて目の前の目標に注力してほしいと思う。

でも,菅総理も 8 月いっぱいまで。なでしこジャパンが決して諦めない美徳をこれでもかこれでもかと発揮してくれたので,菅総理もそれにあやかって「諦めない」とばかりに居座り続けるのかと思っていたところだったのに。3 月に震災があって,なんと 5 ヶ月以上もかかってやっと特例公債法案が可決する運び。改めて,この政権はいったい何をやってたんだろうかという感じ。震災時枝野さんの原発事故状況会見しか記憶にない。菅総理ってまだ被災地を視察中なんだっけ? ま,それでも私は民主党を応援します。なぜなら今の自民党が政権を再奪取するよりずっとマシだと思うから。

ポスト菅の話題も出てはいるけれども,何の興味も惹かないのは何故なのか。誰がやっても「無難に」やってくれそうだからか。私個人では,前原さんあたりを期待していたんだけど。彼は今回は出馬しないらしい。前原さんは,メール事件のころはまだ脇の甘いお子ちゃま政治家だったのだけど,もういい加減経験を積んでくれたんじゃないだろうか。そろそろ本当に若い(そして,自民・安倍クンみたいな二世モノではない)宰相に出て来てほしいものである。尖閣問題でも北方領土問題でも威勢だけはよかったので,不満たらたらの最近の若者(「伝統」や「美しい日本」といった具体的に何を意味しているのかサッパリわからない言葉が大好きな若者)の人気も取れそうではないか。

サッカー日韓戦

昨日の日本 VS 韓国のサッカー親善試合は 3-0 で日本が圧勝した。私は楽しみにしていたのだけれど,顧客システムでトラブルがありその対応で夜中まで仕事だったため,中継を観ることは適わなかった。それでもスコアが動くつど妻が携帯メールで経過を入れてくれていた。

3-0 は完勝である。ここ数年,韓国には勝てていなかったので,日本のサッカーファンは因縁の対決での勝利でやっと素直に喜ぶことができた。それでも,ま,去年 10 月の親善試合,アジア杯での闘いぶりから,今回の結果はある程度想像できた。録っておいてもらった録画を帰宅してから早送りしながら観たんだけれど,俗にいうシステムの連動性において,韓国はいまや日本の敵ではないようである(韓国サッカーファンの方には申し訳ないけれども)。今回,韓国はパク・チソンが抜けてしまい主力フォワードも欠場だったので,いわゆる最高のコンディションではなかったのだけれども,3 失点というのはそれが理由にはならない結果と受けとめないといけない状況である。韓国にもチャンスがかなりあって,微妙な決定力の違いでこの差になったと見る向きもあるかも知れないが,日本もあと 3 点くらい入っていてもおかしくない試合運びだった。3-0 のスコアは,もうまったく一方的に日本が試合を制した結果である。

いや,こんなレベルの高い面白い(これが大事)パスサッカーを観られていまの日本サポーターは幸せなんじゃなかろうか。ま,日本の目標は韓国に勝利することではない。もっと上にあるはずである。今回は世界ランキングの差が確認されただけである。確かに本田,香川の素晴らしい才能に舌を巻いたし,新しい戦力の発掘においても実りある親善試合だったんだけど,遠藤が抜けたとたんに攻守のバランスを崩してしまうところはまだまだだなぁという気がした。私の個人的思いからすれば,家長選手にがんばってもらいたいところなんだけど,どうも守備はいまひとつのようである。2014 年を考えると,ポスト遠藤選手の育成とセンターバックのレベルアップという課題がどうしても高いハードルに見えてしまう(今野選手,今回の韓国戦はカッコ良かった!)。

それでも。日本代表は強くなりましたね。昨年のワールド杯よりも数段よくなっているんじゃないでしょうか。頼もしい。ホント,「面白い」サッカーを見せてくれる。ザッケローニ監督の「コンパクト」という指導のおかげか,選手の距離感が絶妙で,凄いパスワークで魅了してくれます。これを続けて,オーストラリアや韓国などのやるフィジカル偏重の「つまらない」サッカーをこれからもあざ笑ってほしい。そして,なでしこにぜひとも続いてほしい,と思います。
 

P.S.

今日,帰宅してこの試合の分析をネットで漁ったのだけれど,当然ながら韓国メディアの落胆ぶりが印象的だった。「独島問題で勝手なことを言っている日本を叩き潰せなかった」などというのが,韓国のマスメディアの論調である。サッカーというスポーツの試合についてであるにもかかわらず。しかも,これを言っているのは,マスメディアという「良識を代表すべき人たち」なんである。まさに韓国ではスポーツが国威発揚に使われていることがわかる。どうも韓国は植民地根性が抜けないようである。こういうのを耳にすると,右翼が「日本は韓国に対しては旧宗主国らしく余裕をもって優しく接してあげなくては」なんて思ってしまうわけである。

これじゃ韓国の選手たちがホント可哀相である。敗れた選手たちは廃兵と同じく「捨てられる」運命にある,なんて想像してしまうんである。だからこそ,ピークを過ぎた選手は生き延びるために八百長に手を染めたりするのではなかろうか。韓国がもっとおおらかにスポーツを文化として盛り上げようとするなら,潜在力の高い国民なのだから,世界においてもっと名誉ある地位を築くことができると思うのだけど。

こういう点でも,日本の勝ち。私はナショナリズムで言っているのではない(私はただの「敵愾心」に過ぎないこの言葉が大嫌いなんである)。

英国ロンドンで暴動

4 日ロンドンで暴動が発生し,バーミンガム,リヴァプールにまで拡大したという。暴徒によって商店が破壊・略奪・放火されるなど大きな被害がでているらしい。産經新聞配信のニュースによれば,「英国では金融・経済危機の後遺症で失業者は245万人を数える。しかし,失業給付など財政支出が切り詰められ,低所得者層に不満がたまっている。その上薬物密売など黒人居住区の治安が悪化し,警察の取り締まりが強化されたことも『黒人を犯罪者扱いしている』として黒人社会と警察の緊張を高めていた」。

こういう見方を聞くと,サッチャー首相以降の新自由主義がこう言う姿で破綻を見た感が強い。2008 年のリーマンショック以降,イギリスでは失業率が跳ね上がり,2011 年現在 7.83% になっている。ちなみに日本は 4.88%(いずれも『世界経済のネタ帳』データによる)。9% 前後で推移している米国も同じ危険因子を抱えているように思われる。日本でも,ワーキングプア問題など若者が厳しい労働環境におかれていて,不満が蓄積されているに違いない。日本では人種問題が起きにくいのであまり差し迫った感じはしないんだけれども。

震災・原発問題で危機的状況にあるというのに,円高が進み株価が下がり,これで「米国債務でデフォルト」なんてことが起きたら,ホント,わが国の経済もアウトになるんじゃなかろうか。
 

付記:

日本でも小売業・派遣業などでは日本人が中国人の安価な労働力に仕事を奪われている状況が露になっていて,中国政府の首を傾げさせる政策への嫌悪感とあいまって,危険なナショナリズムが鬱屈している。中国人をターゲットにした若者の暴動が起きてもおかしくないと私は畏れる。関東大震災で在日朝鮮人大虐殺なぞというおぞましい事件が起きた歴史もある。いまの日本人,むかしの日本人という違いは,この際あんまり関係ないように思う。

高岡蒼甫さんツイッター発言問題も,つまるところ「韓流に視聴率取られて日本人タレントの仕事が減っている,奴らを追い出せ」というプチ反乱であるからこそ,気になる事件なんである。さらに,高岡発言の余波として,「ただの韓国嫌い」たちがフジテレビに押し寄せて「反・売国フジ」のデモをしたというではないか。そしてフジテレビに遊びに来ていた観客を捕まえて「こんなところに来てヒマこいてんじゃねぇ」などと — 己を棚に上げて — 因縁をつけていたというではないか。これ,一歩間違えると喧嘩が起こって暴動に発展してもおかしくない。そう思うのは考え過ぎか。

田中優子『春画のからくり』

大阪に帰省して蟬の声にはじめて気付いてなにか安堵を覚えた。やっと鳴いたかと。川崎に帰って来て,自宅周辺でも蟬のわしゃわしゃ騒ぐ音が聞かれるようになった。やっぱり梅雨明けは蟬の声と入道雲こそがそのしるしではなかろうか。

暑い夏,スポーツざんまい。高校野球を観,女子バレーを観,プロ野球を観,と飽きない。ドイツでもブンデスリーガが開幕し,注目の香川選手擁するドルトムントは開幕ゲームで快勝した。ホームで 8 万人の大観衆のなか圧倒的強さを見せつけたらしい。「8 万人の大観衆」!— これだからドイツ代表は強くならないはずはない,と羨ましくなった。

今日の朝日新聞の朝刊が,米国債の格下げを報じていた。ドル安も留まる様子がない。震災復興で生産性を高めなければならないこの時期に,円高は日本経済をさらに悪化させるような不安を掻立てている。でも,この円高のメリットを活かし米国から集中的にいっぱいモノを買って,いっぱいモノを作り,震災復興のために役立てればどうかと,私なんかは思う。海外へ売りに出るには不都合だけど,破壊された被災地の復興では,買うことが主体となるはずではないか。
 

* * *

そうはいってもやっぱりテレビでスポーツ観戦ばかりも,子供たちにバカにされてしまうので,本も一冊読みました。田中優子『春画のからくり』ちくま文庫,2009 年。「お父さん,エッチ」と言われても,私はまったく気にしない。著者は江戸学の専門家。女性なのにこんなテーマも的確に論じていて頼もしい(こんなことを言うことこそセクハラか)。

「春画」とはいうまでもなくポルノグラフィである。江戸の文化遺産であるからには,春画はもっぱら名のある知識人によって文化的視点で論じられるわけであるけれども,やっぱりアダルトビデオ,ピンク映画,エロ写真集,ビニ本(古っ!)などと何も変わるところがない。日本人は幸せなことにこれら現代のポルノグラフィック・メディアが世界的にオープンな環境で(いや,あのモザイクには我慢ならねぇという方もまだまだいるだろうけど)観られるので,わざわざ「古典」に目を向けようという気持ちにはならないかも知れない。一方で,アダルトビデオ等々の性交描写に目を背けたくなるリアリズムを感じて,「不潔!」と思う真面目な人たちもいる。日本の江戸時代の春画は,面白いことに,「目を背けたくなるような誇張された醜悪なリアリズム」としては,現代のポルノグラフィを凌駕しているのである。江戸春画が現代の日本映画で引用されるシーンで,性器にボカシが入っていたという笑い話が本書にあった。

田中が指摘するように,江戸春画は男女の性器をことさら巨大に描くのが常であり,しかも絢爛たる衣裳,閨房小道具が描き込まれることでフレーミングされ,性器がいよいよ際立つようになっている。ポルノグラフィをゴマンと観て来た私も,正直,恥ずかしくなるくらい凄い。河童や犬と女がいたすような獣姦ものあり,何組もの男女が絡む乱交ものあり,望遠鏡による覗見ものあり,豆ゑもんなる数センチの小人が男女の性交を見物して巡るシリーズものあり,とモチーフ,テーマも多岐にわたっていて,その懲りない性分は現代のサブカル的エロ・メディアとどこも変わらない。

田中は適切にも,江戸春画の読者による受容の中心を,絵の分析から「笑い」であると指摘している。部屋でひとりコソコソ観てマスターベーションする,というのではなく,何人かでゲラゲラ笑いながら「この覗見センズリ野郎のバカな顔見ろよオイ」みたいなノリで見ていたに違いないと言っている。

エロティック・アートを見ながら,そこに感情移入して追体験をはかり,性的興奮を得てマスターベーションにふけるという,西欧的なポルノグラフィーに比して,春画を幾人かで眺めて笑いに興じるという江戸時代の鑑賞方法が,遠眼鏡による覗きを描いたこれらの図〔歌川国貞『春情妓談水揚帳』:私註〕からも如実にわかる。
田中優子『春画のからくり』ちくま文庫,2009年,184 頁。

春画に書き込まれたセリフも大笑いさせてくれる。

(男)「おめへのよふなうつくしい,やせもせづふとりもせづ,そのうへ此やふにぼゞがよくて,させやふがでふづ(上手)で,じんばりでよくよがる女ハ,此日本にたつたひとりだ。太極上開,たこぼゞのうまにぼゞで,たまらぬ\/〔繰返しを示すくの字点:私註〕。よこにして二三てふとぼしたら,またほんどりにして壱てふ,茶うすにして壱てふとぼしたら,まちつとやすもふ」
(女)「アレさ,やすまづと,つゞけてたんのふするほどしてくんなよ。サア\/,モウ\/,いんすいのさるがまたがきれたそうだ。アレサ,モツトぐつときつく,ねまでづうと引といれてくんなよ。アヽ\/」
喜多川歌麿『ねがひの糸ぐち』より。同書,91--2 頁。

現代のアダルトビデオや官能小説以上にアケスケで,まさに大笑いするしかない。仮名遣いも,福田恆存大先生への面当てみたいに,痛快なくらいなんのこだわりもないようにみえる。もちろん仮に岩波古典文学大系本にこのくだりが収録されることになれば,「歴史的仮名遣い」にしかるべく「改竄」されるだろう。

性的興奮と「笑い」を結合するのは,江戸の小説の魅力でもある。でもこれは,神代辰巳の日活ロマンポルノの特徴でもあり,江戸に限らない日本の「伝統」のひとつなんだと思い至るんである。日本の「伝統」には過剰な装飾も究極のグロも大哄笑もあるんである。日本の伝統的文化の特徴を「清楚で奥ゆかしい」みたいなことを自信満々で語る人がけっこういるんだけど,私はそんな独善を耳にするたびに「こいついったいどんな『古典』を読んでいるのか。多分,高校で『源氏』の一節をよくわからないなりに読んだ程度に違いない」と鼻で嗤うようになってしまった(この独善は「伝統主義者」に多いのがまた笑えるんである)。

江戸の春画を描いたのは,当代一流の絵師だった。菱川師宣,喜多川歌麿,葛飾北斎,エトセトラ,エトセトラ。これ,いまふうに言えば,— こんなこと考えられないけれども — 黒澤明,小津安二郎,溝口健二なんかがじつはブルーフィルムも撮ってたんだよというくらいのインパクトがある。藝術のディアパゾンがおそろしく広大なのが江戸の文化なんだ,と改めて感心してしまう。

けふもいつぱいかいたので,まちつとやすもふ。
 

8.6,夏の甲子園開幕

夏の高校野球大会が開幕した。宮崎・日南学園と福島・聖光学院の試合は白熱したよい試合だった。聖光学院が 5-4 でサヨナラ勝ちを収めた。スコアの割には,投手の投げ合いが見所の,緊迫した好ゲームであった。

私は神奈川県大会からテレビで観ていたんだけど,高校野球は,スタンドの応援も観ていて楽しい。ブラスバンドやチアガール,ベンチ入りできなかった部員たち。百人前後の部員がいる伝統校などでは,三年間スタンドから応援するしかなかった子もいるんだろう。それでもやめずに三年間野球に打ち込んで来たんだなぁ,と思うと胸が熱くなって来る。それは無駄じゃない。こういう子供たちは社会に出てからも,目立たないことで子供じみた敗北感に陥ることなく,ある目標を目指して世の中のためにきちんと仕事をするはずだ。

昨日,新人が二名,私の職場に配属された。一時期は年に七,八人配属されることもあったのだが,ここ数年,二,三人。きびしい就職難(現場のわれわれからすれば,ノドから手が出るくらい新人に来て欲しいので「採用難」)が続いている。私も昔は就活生の面接官をやらさせられたものだが,一時期あまりの多忙ゆえにお断りしたせいか,最近はお呼びがとんとかからなくなってしまった。いま面接官をやるとなれば,おそらくはもう学歴・学業成績なんかはまったく配慮しないだろう(「学歴だけ」の人間にこれまで何度も痛い目に遇わさせられている)。勤労採用担当からの指針もそのようなものになっているはずである。応募者のなかの,目的に向かって準備し問題に立ち向かう姿勢こそを,見極めようとするはずである。「高校・大学で野球を一所懸命やったけれども,一度もレギュラーになれませんでした」— こういう自己アピールをされたら,私なんかコロっと来るかも知れない。

高校野球とはまったく関係ない話になってしまいました...

延宝期・芭蕉句

延宝 (1673–1681) 期までの芭蕉の初期俳句は,識者の間ではいまひとつ評価されない。初期芭蕉の作風は,談林俳諧の影響のもとに,古典の捩り,掛詞・縁語を多用する技巧と機智,伝統的テーマと滑稽な日常性との落差の面白みを志向した。この時期の句は深みに欠ける,というのが識者の大枠の評価ではないだろうか。いわゆる蕉風俳諧は,深川芭蕉庵に移住した天和 (1681–1683) あるいは貞享 (1684–1687) あたりの作品から花開いたとされ,芭蕉論で個別に取り上げられ鑑賞される不朽の名句が滾々と湧き出て来るようになる。私も,芭蕉をそんなに知るわけではないけれども,だいたいにおいてこうした一般と同じ意見であった。「夜ル竊ニ虫は月下の栗を穿ツ」(1861) あたりの句から狂気・凄みを覚える。

それでも,D. Smirnov による芭蕉ロシア語訳句集 Wikilivres Хайку Басё への注解のために,加藤楸邨『芭蕉全句』,岩波文庫『芭蕉俳句集』,新潮古典集成『芭蕉句集』,岩波日本古典文学大系『芭蕉文集』などで,芭蕉句をひとつひとつ読んでいると,初期の句もなかなか面白いと思うようになった。そういうもののなかからとくに選んで私なりに記しておきたい。句のあとの括弧内は,岩波文庫版『芭蕉句集』の句番号と成立年を示している。句の表記も岩波文庫に依った。

我も神のひさうやあふぐ梅の花 (57, 1676)

菅原道真『菅家文草』に収録された流謫詩を踏まえている。

離家三四月 家を離れて三四月
落涙百千行 落つる涙や百千行
萬事皆如夢 万事皆夢の如し
時々仰彼蒼 時々彼蒼を仰ぐ

道真にあっては流罪の境遇に彼蒼 (ひさう=碧空) を仰いだという述懐なのだが,芭蕉にあっては眺める対象は彼蒼ではなく,いまを盛りの梅の花である。梅花こそ大事に眺めたいひさう (秘蔵) のものだというひねりが俳句の中心にある。いにしえの失意の詩人の重い境遇を,梅花の賞揚で軽やかに詠みなしたところが俳味になっている。

命なりわづかの笠の下涼み (60, 1676)

西行の和歌「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山」を踏まえている。「命なりけり」と詠う西行の生の絶頂に思いを馳せながら,旅の笠のつくるわずかの陰に涼む軽やかさを対比する。そのさり気なさ,静けさに味がある。「我も神の...」句に似た古典的詩人の運命的厳粛と己の軽やかな日常の対比が魅力。

盃の下ゆく菊や朽木盆 (66, 1676)

重陽節には長寿を祈って盃に菊の花瓣を浮かべて酒をいただく。朽木盆は近江名産のお盆で菊の絵柄が表面に描かれているのが特徴だった。この句は,朽木盆の酒が溢れ,まるで菊花が酒の下を漂うようだと見立てた。

古来,日本人は,ふと桜や梅の花弁が落ちて酒の盃に浮かぶ,という趣向が好きである(すでに『日本書紀』に,盃に狂咲の桜の花瓣が落ちる美しいくだりがある。「三年の冬十一月の丙寅の朔辛未に,天皇,兩枝船を磐余市磯池に泛べたまふ。皇妃と各分ち乗りて遊宴びたまふ。膳臣余磯,酒獻る。時に櫻の花,御盞に落れり」岩波日本古典文学大系『日本書紀・卷十二』)。芭蕉の句はこれを逆転して酒の下に菊花が流れるという趣向にしたてた。

五月雨や龍燈揚る番太郎 (74, 1677)

龍燈 (りゅうとう) はここでは二つの意味をもっている。ひとつは現実的視界のなかで番太郎 (見張り小僧) がかざす灯であり,いまひとつは海に現れるという伝説的な怪火である。龍の燈というのがいかにも幻のような光の明滅を連想させて,怪しい魅力がある。梅雨時の長雨に塗り籠められてまるで海中にいるようだという誇張,ファンタスティックな幻影が私は好きである。「龍燈揚る」という番太郎の仕草の一瞬を捉えたところに,江戸の少年の物語性を感じてしまう。ディッケンズのオリバー・ツイストのようなたくましさも感じられるけれども,やはりいわゆる若衆・美少年を想像しているのであろう。

近江蚊屋汗やさゞ波夜の床 (75, 1677)

蚊帳は江戸春画の定番道具である。句は,近江名産の蚊帳の床にあって,暑苦しい夜に汗がどっと出て,それがまるでさざ波のようだ,という。他愛無い比喩なんだけど,近江・琵琶湖の湖面と,夏の夜の朧な蚊帳越しの好色な汗に溺れる様とを,二重映しにする。

梢よりあだに落けり蟬のから (76, 1677)

「から」に唐衣が掛けてある。謡曲『杜若』: 「こずゑに鳴くは蟬のからころもの袖白妙の...」を踏まえている。つまり,唐衣を纏って踊る杜若の精と蝉の殻とを重ね合わせた句になっていて,「杜若の精のように踊りもせずにいたずらに梢から落ちた」という心が「あだに」という詞姿になっている。梢から落ちる蝉の殻という日常生活の一瞬間に古典的幻影を結びつけたところに面白みがある。

あやめ生り軒の鰯のされかうべ (93, 1678)

句の表面をなぞっても句意はわからない。「あやめ生ひけり」と「されかうべ」の取り合わせで,謡曲『通小町』のモチーフが響いて来ないと感興が欠落してしまう。『通小町』に「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ,をのとは言はじ薄生ひけりとあり...」とある。秋風が吹くにつけても私の眼窩を貫く薄が揺れる,それで目が痛い痛い,こんな姿の私を人は小野小町だとは思わず薄が生えるだけと言うだろう。かつての絶世の美女・小町も死して白骨化し,骸骨の眼窩に薄が生えている光景は無残である。

「鰯のされかうべ」とは,節分に魔除として軒に飾る柊挿しの鰯の頭が,時が過ぎ白骨化していることを表している。そのそばに端午の菖蒲花が咲いている。鰯のされこうべと小町のおどろな姿とが二重写しとなる一方でそれだけいよいよ菖蒲の可憐な姿が艶かしい。「あやめ」に『通小町』の台詞「あなめ」(目が痛い) がパロディー的に掛けてある。謡曲の「薄生ひけり」が芭蕉句で「あやめ生ひけり」に転生しているところ,ひねりが効いている。

木をきりて本口みるやけふの月 (96, 1678)

今宵の月は木を挽いた滑らかな切り口を見るようだという。他愛ない句にみえる。しかしながら,譬喩というものが未知なるものを既知なるもので印象把握することだとするならば,ここではこの関係が逆転している。月と断ち切った木の見事な断面との譬喩関係が逆転しているのである。この転移により,月を句の中心に据えながらも,木の断面の瑞々しい映像をも印象付けられる。

見渡せば詠むれば見れば須磨の秋 (98, 1678)

眺めるという意味の詞を三様に畳み掛けて,眺めれば眺めるほどに須磨の秋の深まりが感じ取られるというのだろう。「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という藤原定家の名歌があるが,句は,「眺めても眺めても眺めてもやっぱり何もない」という俳諧的誇張でもって古典的な空なる秋感を把握したのかも知れない。

雨の日や世間の秋を堺町 (100, 1678)

堺町は,江戸でもっとも繁華な町のひとつにして,歌舞伎小屋で有名になった界隈である。秋の雨が振り濡っている。こんな陰鬱な日でさえ,世間の沈んだ気分に逆らうように,堺町だけは別世界のように賑わっている。「堺」に「境」の意が掛けてあり,町がなにか見えない境界で雨の物憂い秋の世界から隔絶されているのか,そういう都市幻想がある。こういう句を読むと,芭蕉句の近代的な都市文学的側面を感じてしまう。

蒼海の波酒臭しけふの月 (105, 1679)

句は,宴会の丸い赤の酒盃を月に,それを洗う盃洗 (はいせん: 宴会で酒盃を洗う水を湛えた容器) を蒼暗い海に喩えている。ここから波が酒臭いという俳諧的滑稽が出て来る。暗い大海原の蒼と,幻のような月の赤。取り合わせがいたく印象的である。

この句の海と酒,赤い幻影という構図から,まったく関係ないのだけれど,私はポール・ヴァレリーの『失はれた美酒』を想起してしまう。

一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん,今は覚えず)
美酒少し海へ流しぬ
「虚無」にする供物の為に。
(堀口大學訳)

もちろん,芭蕉は己の風景のなかに「虚無」(néant) など認めてはいないだろう。大海原の彼方に見えるのは,ヴァレリーにあっては「いと深きものの姿」(Les figures les plus profondes) であるのに対し,芭蕉にあっては真っ赤な月である。当然と言えば当然の違い。それでも面白い。


 

芭蕉俳句集 (岩波文庫)
松尾芭蕉
中村俊定 校注
岩波書店

なでしこ国民栄誉賞!

ワールド杯を制覇したなでしこジャパンが団体としてはじめて国民栄誉賞を受賞した。いや,おめでとうございます。チームとしての受賞ということが国民的団結への希求を象徴している。ここが素晴らしい。

世の中には,これは政権の人気取りだとか,これくらいで受賞できるのはちょっと問題ではないか,とか — 物事の現実的意義を見つめないという意味で — 間抜けなことを言う人もいる。全世界的に国民の血を滾らせるサッカーというスポーツにおいてワールド杯のチャンピオンになるということが,このガラパゴス化日本にとってどれだけ国際的なインパクトを有するのかを,これらの人たちはおそらく考えもしないのだ。この「日本,ワールド杯制覇」という事実,勝っても負けても試合の後で「世界の友人たちに感謝!」という横断幕を掲げた光景が,サッカーの盛んな国で日本への尊敬・好感度をどれだけ高めたことか,測り知れないのである。しかも,東日本大震災後の厳しい国内状況にあって「諦めない心と希望」をタイムリーに,目に見える形で示した偉業は,過去のどのような国民栄誉賞に比べても見劣りはしない。「東日本大震災など大変困難な中に日本国民がいる中で,諦めずに立ち向かう勇気を与えた」と枝野官房長官が語ったのは,政治利用でもなんでもなく,きちんとその意義を認めたからこそである。

これがオリンピック予選に向けて彼女たちにとって余計なプレッシャーの要因となる虞れも否定できないけれども,それはそれ,これはこれで,これからものびのびとプレーして欲しいものである。
 

* * *

自民党の代議士三名が韓国・鬱陵島視察の目的で韓国・金浦空港に到着した際に入国を拒否された。それで日韓両国で罵倒合戦になっている。

韓国政府(あくまで「政府」ですよ)も「バカ」ですね。竹島が自分の領土だと主張するなら,「わが国へようこそ」と言って「入国手続きを通して」堂々と受入れたほうが,「このとおり竹島はなんのこだわりもなく韓国の領土ですよ」という既成事実になるはずなのに。おまけに「日本国の議員の身の安全が憂慮される」なんてホント尋常ならざる愚かな理由を付けて入国拒否をしたことで,「韓国は好ましからざる外国人の身の安全が保証されない危険な国である」と自分の口で言ってしまった形になった。

しかしながら,これを見越して自民党代議士がこの行動に出たのだとしたら,大した胆力である。最近,竹島を巡っては日本国政府ないし議員の姿勢は結構強気である。強気がよいかどうかは状況次第なんだけど,それに対して韓国は上記の通り子供じみた感情的対応をしてしまっていているところを見ると,日本にとってよい方向にあるようである。この「領土問題」に関しては,韓国を怒らせるような行動を涼しい顔で冷静に行う陰険さがとにかく必要だと思う。感情的な対応をすれば韓国が国際的にどう映るかは今回のとおり明白であり,日本の国際的立場をよくすると思う。韓国が軍事力行使をちらつかせたりなんかすれば,国際的に大ニュースになって,それこそ日本の思うツボ。でもケンカは絶対しないでくださいね。

七末に早めの夏期休暇を取って大阪に帰省した。父の様子伺いと大叔母の墓参りのためである。大阪も暑かったが,新潟・福島の大雨による地獄絵からは遠いところにあった。

病院に付き添い,主治医から父の病状を聴いたりした。父は何十年もの間,町工場の粉塵と騒音とのなかで仕事をした関係で,肺蔵には粉塵が溜りまくり耳が遠くなってしまった。そのくせ補聴器を付けるのを嫌がり,世の中の音を涼しい顔で無視して,ケロリとしている。医師との会話で私は大声で意思疎通の仲介をしなければならなかった。車の運転も長年の経験のおかげでまだ達者なもので,親戚の家に行く際も,中央環状線で頻繁に車線変更を行いスイスイ目的地に近づいて行く。昔の父には美人が道を歩いていると運転中でも目で追う習性があり,危なくてしようがなかったが,いまはさすがにそれはなくなったようである。

帰省中,病院,墓参,親戚への挨拶以外はほとんど何もせず,麦酒をカックらって,タイガースの野球中継などテレビばかりを観ていた。甲子園での中日戦で,なでしこジャパンの川澄・海堀両選手が始球式に登場して盛り上がっていた。神戸は彼女たちの所属するクラブ INAC の地元である。関西では CM などこちら東京・横浜地域とはまるで違っていて面白い。こちらではもうまったく流れなくなったウナジェル(「♪魅せたい肌の虫さされケア・ウナジェ〜ル」)の CF が関西ではいまうるさいくらいに押し寄せて来る。また,『アホやねん!すきやねん!』なる NHK 大阪のローカル番組 — ガリガリガリクソン,桜 稲垣早希のオタク臭ぷんぷんのタレントが司会する NHK としては珍しいバラエティ番組 — が放映されていた。NMB48 が出て来るところもカンサイなんである。
 

* * *

そんなわけでまるで「痴」的な数日を過ごしたんだけど,往復の新幹線のなかで一冊だけ本を読んだ。ルース・タトロー著,森夏樹訳『バッハの暗号 — 数と創造の秘密』(青土社,2011 年刊)。

バッハが作品のなかで数のアルファベットを使用したことは知られている。数のアルファベットとは,アルファベットに数値を対応付けて言葉や音階の数値に意味を見出す様式である。『フーガの技法』のなかで B-A-C-H という自身の名を音階のシ・フラット—ラ—ド—シに読み込んだことは有名だけれども,音階や小節に結びついた数 3, 7, 12 などの象徴性について論じられることも多い。フリードリッヒ・スメントが 1947 年に発表した論文は,その後のバッハの数の象徴性についての権威的存在になっている。本書はこのスメントの論理を批判しつつ,バッハの数のアルファベットが 17, 18 世紀ドイツ詩の文化状況に基づいていたことを文献学的に論証するものである。

スメントがまったく疑念なくユダヤのカバラに数象徴を求めたのに対して,タトローは丹念に文献学的連接を追い,バッハの数のアルファベットの使用の源を探り当てている。本書の美点は,なにより,カバラとルター派神学(バッハは信仰厚いルター派プロテスタントであった)との相容れない神学的性質の解決を文献学的になしたところである。ドイツ・バロック期文学の一特徴の素描にもなっている。ただ残念なのは,遊び的要素の大きい「詩のパラグラム」にバッハのマナーの根源を求めるに際して,ではそれがいったいどのような音楽的あるいは文化的な思潮を意味しているのかという美学的問題論が,きちんと追究されていない。カバラの神秘主義的象徴はたしかにバッハに相応しくないのは理解できたけれども,パラグラムがバッハあるいは時代の美学的思想とどのような有機的意義をもって繋がっていたのか,という私にとって最大の関心ははぐらかされたような気がした。

本書にはゲマトリア(文字と数値との対応付けによる数の象徴化),ノタリコン(頭文字・末尾文字による暗号的意味の読み込み),テムラー(アナグラム),クロノグラム(言葉からローマ数字を抽出することで数値を導く方法)などが詳細に記述されている。このパラグラムを成り立たせる数のアルファベット表が付録に整理されている。本書のもうひとつの価値である。挙げられている例がとても面白い。

Johannes Baptista
Hic Elias secundus

このラテン語は「バプテスマのヨハネ // ここにいるのは第二のエリヤ」という意味。固有名詞を短い格言のようなものに結びつけるパラグラムの例である。二つの行は,数のアルファベット変換表に従って文字列の数値の総和を求めると,ともに 165 になるというもの。

テムラーの例として次のようなものがあげられている。ヘブライ語 מלאכי (私の天使) は語順を変えると מיכאל (ミカエル) と読まれる。ギリシア語の例では Ἰησοῦς (イエス) を読み変えて οὺ ἡ ὀίς (あなたは子羊) となる。

カバラでは神秘的啓示としての意味が追究されたのに対し,ドイツ・バロック期文学では,このような隠されたテクストの意味論は「言葉遊び」として盛んだったようである。暗号の面白さと同様,テクストの外的ルールが言語素材に豊かさをもたらす例でもある。この面白さは充分に理解できる。それでもやはり,バッハがどのような思想をこうしたパラグラムの音楽的表現に込めていたのかをもっと体系的に知りたいものである。
 

 
* * *

先日,Yahoo! コメンターによる「韓流垂れ流しフジは売国奴」なる書き込みをからかった。そのあと俳優の高岡蒼甫さんがツイッターで「正直,お世話になった事も多々あるけど 8 は今マジで見ない。韓国のTV局かと思う事もしばしば。しーばしーば。うちら日本人は日本の伝統番組求めてますけど」 と書き込んで大騒ぎ。結局,彼は事務所を退社した。別に好き勝手なことをツブヤイても罪はない。こんなことで,辞めることはないだろうと思う。社会人なら,雇主・スポンサーに対し根拠ない(なぜなら「韓国のTV局かと思う」くらい「韓流」垂れ流しでも,視聴率の上がらない「日本の伝統番組」とやらよりも総じて視聴者にとってありがたいわけなのだ。「日本の伝統番組」って何? 批判する一方で「つまんねぇ」と秘かに思う「日本の」番組にもアンタ出てたんじゃないの?)批判をするなら,辞めてからすべき。だから彼も事務所を辞めるしかなかったのだろう。

でも一方で,この人,誰のおかげでメシ食えてんのかどうも認識が足りない人物のようである。作家・詩人には,本というものが読者の求めに応じて出版されその過程で,編集者・校正・組版担当・印刷業者など様々な無名の人たちによる共同作業があることを無視して,自分の才能だけで本が出来上がり売れて行くと勘違いしている人がいる。高岡さんもどうも自分のエラさだけでテレビに出られていると思っていたようである。そうでなきゃ,ただ単に「韓流が嫌いだ」といえば済むのに,わざわざ雇主たるテレビ局の批判にまで飛躍しないではおれない,このような愚かな「強がり」ないし「自信満々」は出て来ない。頭を冷やしたあと彼が世間知らずの拭い難い後悔に苛まれることは間違いなさそうである。ま,世間知らずが仕事をホされていよいよ世間に悪意を抱こうが,俺にはどうでもいいけど。

雇う側と雇われる側との協調ということで,思い出した。九州電力が原発のシンポジウムかなんかで社員に原発賛成意見のサクラをやらせた — そういう「ヤラセ」が問題になっている。たしかにセコいやり方だとは思うけれども,原発を止めたくない九州電力,ひいてはその社員にとってこのような行動に出るのは,ある意味で当然である。社員も組織的な指示である以上,原発で食っている以上,反対意見に「民主的に」反対しようとしても(だって誰が応じてもよい意見募集なんでしょ?),どこにも悪はないと思う。

そもそもこれが「ヤラセ」になるような意見の収集手段を採った「佐賀県民向け説明会」の運営方針こそまずいように思う。普通なら,多くの意見を正しく評価しようとすれば,無作為に選んだ電話番号に掛けて意見を問うなどの「作為が入りにくい,ヤラセの起きにくい」手段(新聞社が世論調査でよく行う手法)を採用するはずではないか。ということを考えると,この問題の首謀者は説明会の主催者にほかならないということになる。つまり,実行者の九州電力ではなく経産省,及びこれと結託した佐賀県こそが悪の元締めである。なのに,九州電力ばかりが槍玉に挙がっていて,海江田経産相は「九州電力はけしからん」としか考えていないというわけだ(笑わせてくれる)。ま,俺は原発推進には反対だから,この「ヤラセ」問題で推進勢力が叩かれるのは,悪くない。
 

※ 8.3 付記

高岡蒼甫さんが Twitter 発言で結果的に事務所を辞めるハメになった件について,「言論弾圧」だと息巻いている人たちがいる。彼は己の軽率な発言の責任をとらさせられただけで,弾圧なんて受けていない。顧客をバカにしたかどで会社をクビになる。これは「弾圧」だろうか。これは単純に「社会常識」なんじゃなかろうか。こんなバカみたいなことで「言論弾圧」を持ち出すなんて,ロシアや中国で本当に弾圧されている — 要するに命の危険にさらされている — ジャーナリスト・活動家の目からは,日本は笑いたくなるくらい傷つきやすく健康的ないい国だと思われるに違いない。

単に「韓流が嫌いだ」というに過ぎないのに,そこに「日本の伝統」がどうのこうのと持ち出してマスコミを叩く姿は,ネット「右翼」(本物の右翼に失礼であるから括弧書き)とまったく変わるところがない。「日本の伝統」って何でしょう?(高岡さんは「日本の伝統番組」っておっしゃっていますが)能や歌舞伎,茶の湯の特集番組でしょうか? では,高岡さんはいったいどのような「伝統番組」に出演されていたんでしょうか? — 「伝統」という言葉,ここではまったく抽象的で現実味がない。そういうところがこの高岡 Twitter 問題の唾棄したくなる点なのである。中国や韓国に対しては,何にせよ「伝統」や「民度」を持ち出して攻撃的になる — これは最近の若いネット住民の特性になっている。「オレは韓国人や中国人に仕事を取られて困っている。だから奴らを追い出せ」— 私には高岡発言はこのようにしか聞こえない。「伝統」を持ち出すなんてクソくらえである。

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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