七末に早めの夏期休暇を取って大阪に帰省した。父の様子伺いと大叔母の墓参りのためである。大阪も暑かったが,新潟・福島の大雨による地獄絵からは遠いところにあった。
病院に付き添い,主治医から父の病状を聴いたりした。父は何十年もの間,町工場の粉塵と騒音とのなかで仕事をした関係で,肺蔵には粉塵が溜りまくり耳が遠くなってしまった。そのくせ補聴器を付けるのを嫌がり,世の中の音を涼しい顔で無視して,ケロリとしている。医師との会話で私は大声で意思疎通の仲介をしなければならなかった。車の運転も長年の経験のおかげでまだ達者なもので,親戚の家に行く際も,中央環状線で頻繁に車線変更を行いスイスイ目的地に近づいて行く。昔の父には美人が道を歩いていると運転中でも目で追う習性があり,危なくてしようがなかったが,いまはさすがにそれはなくなったようである。
帰省中,病院,墓参,親戚への挨拶以外はほとんど何もせず,麦酒をカックらって,タイガースの野球中継などテレビばかりを観ていた。甲子園での中日戦で,なでしこジャパンの川澄・海堀両選手が始球式に登場して盛り上がっていた。神戸は彼女たちの所属するクラブ INAC の地元である。関西では CM などこちら東京・横浜地域とはまるで違っていて面白い。こちらではもうまったく流れなくなったウナジェル(「♪魅せたい肌の虫さされケア・ウナジェ〜ル」)の CF が関西ではいまうるさいくらいに押し寄せて来る。また,『アホやねん!すきやねん!』なる NHK 大阪のローカル番組 — ガリガリガリクソン,桜 稲垣早希のオタク臭ぷんぷんのタレントが司会する NHK としては珍しいバラエティ番組 — が放映されていた。NMB48 が出て来るところもカンサイなんである。
* * *
そんなわけでまるで「痴」的な数日を過ごしたんだけど,往復の新幹線のなかで一冊だけ本を読んだ。ルース・タトロー著,森夏樹訳『バッハの暗号 — 数と創造の秘密』(青土社,2011 年刊)。
バッハが作品のなかで数のアルファベットを使用したことは知られている。数のアルファベットとは,アルファベットに数値を対応付けて言葉や音階の数値に意味を見出す様式である。『フーガの技法』のなかで B-A-C-H という自身の名を音階のシ・フラット—ラ—ド—シに読み込んだことは有名だけれども,音階や小節に結びついた数 3, 7, 12 などの象徴性について論じられることも多い。フリードリッヒ・スメントが 1947 年に発表した論文は,その後のバッハの数の象徴性についての権威的存在になっている。本書はこのスメントの論理を批判しつつ,バッハの数のアルファベットが 17, 18 世紀ドイツ詩の文化状況に基づいていたことを文献学的に論証するものである。
スメントがまったく疑念なくユダヤのカバラに数象徴を求めたのに対して,タトローは丹念に文献学的連接を追い,バッハの数のアルファベットの使用の源を探り当てている。本書の美点は,なにより,カバラとルター派神学(バッハは信仰厚いルター派プロテスタントであった)との相容れない神学的性質の解決を文献学的になしたところである。ドイツ・バロック期文学の一特徴の素描にもなっている。ただ残念なのは,遊び的要素の大きい「詩のパラグラム」にバッハのマナーの根源を求めるに際して,ではそれがいったいどのような音楽的あるいは文化的な思潮を意味しているのかという美学的問題論が,きちんと追究されていない。カバラの神秘主義的象徴はたしかにバッハに相応しくないのは理解できたけれども,パラグラムがバッハあるいは時代の美学的思想とどのような有機的意義をもって繋がっていたのか,という私にとって最大の関心ははぐらかされたような気がした。
本書にはゲマトリア(文字と数値との対応付けによる数の象徴化),ノタリコン(頭文字・末尾文字による暗号的意味の読み込み),テムラー(アナグラム),クロノグラム(言葉からローマ数字を抽出することで数値を導く方法)などが詳細に記述されている。このパラグラムを成り立たせる数のアルファベット表が付録に整理されている。本書のもうひとつの価値である。挙げられている例がとても面白い。
Johannes Baptista
Hic Elias secundus
このラテン語は「バプテスマのヨハネ // ここにいるのは第二のエリヤ」という意味。固有名詞を短い格言のようなものに結びつけるパラグラムの例である。二つの行は,数のアルファベット変換表に従って文字列の数値の総和を求めると,ともに 165 になるというもの。
テムラーの例として次のようなものがあげられている。ヘブライ語 מלאכי (私の天使) は語順を変えると מיכאל (ミカエル) と読まれる。ギリシア語の例では Ἰησοῦς (イエス) を読み変えて οὺ ἡ ὀίς (あなたは子羊) となる。
カバラでは神秘的啓示としての意味が追究されたのに対し,ドイツ・バロック期文学では,このような隠されたテクストの意味論は「言葉遊び」として盛んだったようである。暗号の面白さと同様,テクストの外的ルールが言語素材に豊かさをもたらす例でもある。この面白さは充分に理解できる。それでもやはり,バッハがどのような思想をこうしたパラグラムの音楽的表現に込めていたのかをもっと体系的に知りたいものである。
* * *
先日,Yahoo! コメンターによる「韓流垂れ流しフジは売国奴」なる書き込みをからかった。そのあと俳優の高岡蒼甫さんがツイッターで「正直,お世話になった事も多々あるけど 8 は今マジで見ない。韓国のTV局かと思う事もしばしば。しーばしーば。うちら日本人は日本の伝統番組求めてますけど」 と書き込んで大騒ぎ。結局,彼は事務所を退社した。別に好き勝手なことをツブヤイても罪はない。こんなことで,辞めることはないだろうと思う。社会人なら,雇主・スポンサーに対し根拠ない(なぜなら「韓国のTV局かと思う」くらい「韓流」垂れ流しでも,視聴率の上がらない「日本の伝統番組」とやらよりも総じて視聴者にとってありがたいわけなのだ。「日本の伝統番組」って何? 批判する一方で「つまんねぇ」と秘かに思う「日本の」番組にもアンタ出てたんじゃないの?)批判をするなら,辞めてからすべき。だから彼も事務所を辞めるしかなかったのだろう。
でも一方で,この人,誰のおかげでメシ食えてんのかどうも認識が足りない人物のようである。作家・詩人には,本というものが読者の求めに応じて出版されその過程で,編集者・校正・組版担当・印刷業者など様々な無名の人たちによる共同作業があることを無視して,自分の才能だけで本が出来上がり売れて行くと勘違いしている人がいる。高岡さんもどうも自分のエラさだけでテレビに出られていると思っていたようである。そうでなきゃ,ただ単に「韓流が嫌いだ」といえば済むのに,わざわざ雇主たるテレビ局の批判にまで飛躍しないではおれない,このような愚かな「強がり」ないし「自信満々」は出て来ない。頭を冷やしたあと彼が世間知らずの拭い難い後悔に苛まれることは間違いなさそうである。ま,世間知らずが仕事をホされていよいよ世間に悪意を抱こうが,俺にはどうでもいいけど。
雇う側と雇われる側との協調ということで,思い出した。九州電力が原発のシンポジウムかなんかで社員に原発賛成意見のサクラをやらせた — そういう「ヤラセ」が問題になっている。たしかにセコいやり方だとは思うけれども,原発を止めたくない九州電力,ひいてはその社員にとってこのような行動に出るのは,ある意味で当然である。社員も組織的な指示である以上,原発で食っている以上,反対意見に「民主的に」反対しようとしても(だって誰が応じてもよい意見募集なんでしょ?),どこにも悪はないと思う。
そもそもこれが「ヤラセ」になるような意見の収集手段を採った「佐賀県民向け説明会」の運営方針こそまずいように思う。普通なら,多くの意見を正しく評価しようとすれば,無作為に選んだ電話番号に掛けて意見を問うなどの「作為が入りにくい,ヤラセの起きにくい」手段(新聞社が世論調査でよく行う手法)を採用するはずではないか。ということを考えると,この問題の首謀者は説明会の主催者にほかならないということになる。つまり,実行者の九州電力ではなく経産省,及びこれと結託した佐賀県こそが悪の元締めである。なのに,九州電力ばかりが槍玉に挙がっていて,海江田経産相は「九州電力はけしからん」としか考えていないというわけだ(笑わせてくれる)。ま,俺は原発推進には反対だから,この「ヤラセ」問題で推進勢力が叩かれるのは,悪くない。
※ 8.3 付記
高岡蒼甫さんが Twitter 発言で結果的に事務所を辞めるハメになった件について,「言論弾圧」だと息巻いている人たちがいる。彼は己の軽率な発言の責任をとらさせられただけで,弾圧なんて受けていない。顧客をバカにしたかどで会社をクビになる。これは「弾圧」だろうか。これは単純に「社会常識」なんじゃなかろうか。こんなバカみたいなことで「言論弾圧」を持ち出すなんて,ロシアや中国で本当に弾圧されている — 要するに命の危険にさらされている — ジャーナリスト・活動家の目からは,日本は笑いたくなるくらい傷つきやすく健康的ないい国だと思われるに違いない。
単に「韓流が嫌いだ」というに過ぎないのに,そこに「日本の伝統」がどうのこうのと持ち出してマスコミを叩く姿は,ネット「右翼」(本物の右翼に失礼であるから括弧書き)とまったく変わるところがない。「日本の伝統」って何でしょう?(高岡さんは「日本の伝統番組」っておっしゃっていますが)能や歌舞伎,茶の湯の特集番組でしょうか? では,高岡さんはいったいどのような「伝統番組」に出演されていたんでしょうか? — 「伝統」という言葉,ここではまったく抽象的で現実味がない。そういうところがこの高岡 Twitter 問題の唾棄したくなる点なのである。中国や韓国に対しては,何にせよ「伝統」や「民度」を持ち出して攻撃的になる — これは最近の若いネット住民の特性になっている。「オレは韓国人や中国人に仕事を取られて困っている。だから奴らを追い出せ」— 私には高岡発言はこのようにしか聞こえない。「伝統」を持ち出すなんてクソくらえである。