妻が会社から蘭の花を一輪,というか一首もって帰宅した。そんなのを手に通勤電車に乗るなんて,傍目からみるとシュールじゃね?なんて。冷たい仄かな紅。

会社の帰り,本屋に寄ろうと川崎駅で下車。量販店 DICE の入り口で煙草を吹かしていると,道路沿いにある保管庫かなにかのステンレス面に眼が留まった。長年の風雨やら排気ガスやらによる汚れが,独特のタッチの水墨画のように見えた。なかなか見応え(?)があったので携帯デジカメで一枚。ちょっと幻想的。

妻が会社から蘭の花を一輪,というか一首もって帰宅した。そんなのを手に通勤電車に乗るなんて,傍目からみるとシュールじゃね?なんて。冷たい仄かな紅。

会社の帰り,本屋に寄ろうと川崎駅で下車。量販店 DICE の入り口で煙草を吹かしていると,道路沿いにある保管庫かなにかのステンレス面に眼が留まった。長年の風雨やら排気ガスやらによる汚れが,独特のタッチの水墨画のように見えた。なかなか見応え(?)があったので携帯デジカメで一枚。ちょっと幻想的。

『地獄少女』ロシア語吹替え版(といっても,日本語にかぶせてナレーターがロシア語で通訳するような形態なのだけど)をロシアのアニメサイトで観た。ロシア語タイトルは "Адская девочка" あるいは "Девочка из Ада" であった。今日は『地獄少女』のロシア語ネタ。
「恨み,聞き届けたり」という古風な台詞は,"Месть будет исполнена(復讐は果たされることになる)" と訳されていた。文法的に原語の完了形ではなく未来時制なのが面白い。要するに,日本語の意味する復讐の契約が成立したことではなく,確実に恨みが晴らされることに主眼がある翻訳になっていて,ロシア人の単刀直入な国民性がこういうところにも現われているのである。「先生」,「先輩」という呼びかけが日本語のままで使われていた。日本アニメ浸透の様子が窺われて興味深かった。日本語の「ケバい」を "вызывающе" と,きくりのようなおチビちゃんな女の子のことを "малявка" と言うようだ。
閻魔あい定番のあの地獄落としの台詞と,その吹替えでのロシア語テクストをあげておく。ロシア語訳も,弱強格韻律で書かれ,かつ тьмой -- тобой,смрада -- ада という具合に脚韻を踏んでおり,日本語の七五調文語を移植したらしく,詩的テクストになっている。こんなのを暗唱してロシア語に親しむというのは,縁起が悪いのでやめたほうがよい。罰が当たっても知りません。
| 闇に惑いし哀れな影よ | О жалкий дух, ты породнился с тьмой, |
| 人を傷つけ貶めて | Жестоко жизнь других отравлена тобой |
| 罪に溺れし業の魂 | Душа твоя полна грехов и смрада... |
| 一遍,死んでみる? | Падешь на веки ты в глубины ада! |
ちなみに「人を呪わば穴二つ」は,"Мстишь --- копаешь сразу две могилы..." (恨みはいちどに二つの墓を穿つ)と訳されていた。手元にある『ロシア語ことわざ集』では,この日本の諺は "Не рой яму другому, сам в нее попадаешь (упадешь)."(他人に対して穴を掘るなかれ,自らがそれに落ち込むことになる)というロシア語になっていた(『日英仏対照 ロシア語ことわざ集』吉岡正敞編著,駿河台出版社,1986 年,87 頁)。穴に自分が落ちるというよりも,"Адская девочка" の言のほうが怖い。
あなたの恨み,晴らします。Мы отомстим за вас.
TSUTAYA のレンタル DVD で『地獄少女』を鑑賞。地獄少女プロジェクト原作,アニプレックス,スカパー・ウェルシンク制作によるミステリー・ホラー・アニメである。
深夜0時のみアクセス可能なインターネットサイト「地獄通信」に,恨みを晴らしたい対象の人物の名を書き込み,地獄少女から与えられた藁人形の糸を解くと,対象人物が直ちに地獄に送られる,という恨み晴らし物である。一話の主要登場人物(いじめなどで恨みを抱く者)は多く中学・高校生であり,インターネットという現代性と相まって,この時代の十代の若者の心の闇がテーマになっているといえる。
勧善懲悪に徹した「必殺シリーズ」とは趣が違っていて,この作品では依頼者も死して地獄を彷徨う,代償を伴った「人を呪わば穴ふたつ」のモチーフが,ストーリーにひねりを効かせている。この物語構造は,恨む者,恨まれる者の関係が一義的ではなく,闇雲に人を呪詛することの孕む当人の愚かさ,子供じみた性格を浮き彫りにする反転ストーリーをも導き出していて,面白い。
でも,それはそれとして。私には,主人公の地獄少女・閻魔あいの華麗な花柄の黒い着物や,禊とそれに続く着替え,真っ赤な瞳,彼岸花の群生(少年のころの,墓場に燃える曼珠沙華を思い出した),冥途の河渡りの精霊流しなどの伝奇的・幻想的絵が,私の酷愛する江戸川乱歩の頽廃趣味,大正ロマンに充ちていて,なんともいえないのである。ここには竹久夢二などの美人画の確かな伝統がある。オープニングに挿入された河鍋暁斎の地獄絵図が,和風ホラーのアナクロニスティックな古典的趣を作品の現代性に添えている。この際,黒衣の美少女と彼岸花という季節感と,物語との整合性の瑕疵など,私にはどうでもよい。そういう意味では,私にはエンディングテーマ『かりぬい』の絵だけで十分なのかも知れない。オープニングテーマの「いつか光にむかう 逆さまの蝶」なんて詞も詩的ではないか。ただし,一目連,骨女,輪入道といったサブキャラクターどものヤクザ風情(「お嬢」はねえだろ)が,どうしようもなく恐怖感の品を落としてしまっているんだけど。
恨み晴らします。通俗の極みである。でも,必殺シリーズともども,私はかかる型に嵌ったドラマが大好きなんである。ワンパターンであるからこそ堪らないのだ。
斎藤環『戦闘美少女の精神分析』を読んだ。妻が著者から献本された太田出版初版本である。
「戦闘美少女」というのは,少女のあどけなさと,成熟した女性の性的・肉体的特徴とを兼ね備え,悪と戦闘する美少女のアニメ・マンガ主人公のタイプである。『セーラームーン』のうさぎ・その他の主人公たち,『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイ,『風の谷のナウシカ』の女主人公のようなキャラクターがその代表である。いうまでもなく,彼女たちは「おたく」の「萌え」の一貫した対象であり,その登場以来何年も経ているのに日本のみならず海外のおたくの関心を捉えて止むことがない。本書は,「戦闘美少女」を愛するおたくの精神分析,その生成原理を,著者の専門分野である精神医学の立場に立って,論じたものである。
「精神病理学」から出発しているが,「病理」として「戦闘美少女」の愛好を位置づけていない点が,じつは本書の価値である。おたくの「戦闘美少女」の愛好癖が仮に単なる精神病理現象,要するに「病気」だとするならば,とにかく治療しなければならない,ただそれだけだろう。そこからは,それそのものの「価値」や「人間的情念」の議論はすっ飛んでしまう。本書はそのような「診断」的行為ではない。「戦闘美少女」を日本のサブカルチャーの文化現象として真っ向から分析し,想像力における自立的リアリティの創造というその文化的意味,おたく文化の精神的「価値」を明らかにしているのである。
本書には,筆者が強い影響を受けたジャック・ラカンに特有の,難解な書法がある。とくに第六章「ファリック・ガールが生成する」には,私には文意がいまひとつ理解できないところがあった(デリダなどのポスト構造主義の文章は,残念ながら,私にはさっぱりワラカン)。それでもやはり,日本のおたく論としては気鋭の一冊だと思う。
私は著者のおたく論ともいえる第一章,第二章が個人的に面白かった。著者は,適切にも,おたくのパロディー志向を指摘している。作品・キャラクタは彼らにとって完成した芸術品として神格化すべき対象ではないとする。文学の領域には,聖化された作家・作品をいじり回して楽しむのは「冒瀆」である,とするようなクソ真面目があるのとは対照的である。ここで著者は「現実」と「虚構」という無意味な対立軸に囚われることなく,おたくの対虚構性癖を,独特の作品所有の仕方によって素描する。
彼ら〔おたく: 私註〕が好きなのは虚構を実体化することではない。よくいわれるように現実と虚構を混同することでもない。彼らはひたすら,ありものの虚構をさらに「自分だけの虚構」へとレヴェルアップすることだけを目指す。おたくのパロディ好きは偶然ではない。あるいはコスプレや同人誌も,まずこのように,虚構化の手続きとして理解されるべきではないか。〔中略〕私の考えでは「SS〔ショート・ストーリーないしサイド・ストーリー: 私註〕」こそ,まさにおたくによる作品所有の手段にほかならない。作品をみずからに憑慰させ,同一の素材から異なった物語を紡ぎ出し,共同体へ向けて発表する。この一連の過程こそが,おたくの共同体で営まれている「所有の儀式」なのではないか。
アニメ,マンガの面白さはパロディー性にあると私も思う。パロディーの本質は差異の認識が齎す想像力ではないだろうか。それは必ずしも,下敷きになった原作の問題を抉り出し,それを嗤うだけには留まらない。下敷きになっている作品・タイプの認識がパロディーの発信者と受信者の相互にあって,原作との差異を楽しむ訳である。これによって,ワンパターンの有する豊かさも説明される。ワンパターンにある個別属性の微妙な差異こそが楽しみの源泉になる。ここではパターン化していることなどどうでもよい。これこそ「通」の芸術受容形態ではないだろうか。
ネットの海外おたく談義でフランス人が発した言葉が私の印象に残っている:「俺たちがキャラやストーリーで盛り上がっているとき,同じ作品で彼ら(日本のおたく)はキャラの視線,爆風,ゴミの動きで盛り上がっているんだぜ」。アニメ,マンガのキャラやストーリーそのものはワンパターンであって,だからこそ「ツンデレ」,「やおい」などの類型化が直ちになされるのである。よって,その人物像,筋書きそのものをあげつらっても面白くない。「そんなこと知ってるよ」である。その類型にあって,綾波レイ(『新世紀エヴァンゲリオン』)と長門有希(『涼宮ハルヒの憂鬱』)の千載一遇の微笑の差異,主人公の属性の細部(例えば,長門有希がエピソード 3 の図書館の場面で読んでいた本は,作品社刊,G. W. F. ヘーゲル著,長谷川宏訳の『精神現象学』であるなど)への徹底的こだわりこそが,おたくの意味あるリアリティなのである。そこでは,作者や作品の思想などものともせず,その差異を意図的に取り替えてパロディーを楽しむことができる(例えば YouTube に投稿された「エヴァ涼宮ハルヒの憂鬱」posted by ogahiro1987 をご覧あれ)。
こうしたサブカルチャーの受容様式は,文学伝統,とくに古典作品の読み方にも示唆を与えてくれると私は思う。文学研究では作者と読者との関係に,無意識のうちに高級な共謀を設定することによって,作品の価値を捉えるところがない訳ではない。要するに作者の高尚な思想,文体経験が読者によっても共有される,ないしは逆に拒否されるであろうことに眼目がある。でも,アニメ,マンガのように,読者が作品・作者から自律して勝手に想像力を発展させるような受容形態があるという事実は,作品の時代によっては新しい視点を提供すると思われる。作者の意図と読者の楽しみ方が相互に影響し合いながらも,それぞれが独立性・自立性を保っている --- そんな関係は,作家・作品の意義のみならず,文化的環境そのものの斬新な特質を考えさせてくれるのだから。
これは筑摩書房から出た文庫版である。しかし,本書の初版単行本(2000 年 4 月)で装丁を担当したのは,米 Time 誌において「世界で最も影響力のある 100 人 -- 2008 年度版」に選ばれた「現代美術家」村上隆である。本書は,彼がはじめて装丁を担当した書籍としても,秘かな価値がある。

「アマゾン、販売自粛 『ジュニアアイドル』過激作品」(産経新聞配信 5.18 付)という記事を見た。
児童ポルノ風アニメやレイプ・ゲームなど販売サイドで自粛する動きはいまにはじまった訳ではない。一般に,日本のアニメやマンガ,ゲームは少女とエロス,暴力が結合した表現に溢れており,とくに海外では日本のエロティックなサブカルチャーの不道徳性を手厳しく非難する意見が支配的である。ここからポルノグラフィックを規制すべきという意見が出て来る。
その批判の多くは,性的・暴力的表現がレイプなどの性犯罪を助長するというものではないだろうか。一見妥当性をもっているかにみえるこの見解は,しかし,考えてみればその理屈には根拠がない。イヤらしい写真を見てイヤらしい気分になるかどうか,さらにイヤらしい気分になったとしてイヤらしい犯罪を犯すかどうか,原因と結果の線は出て来そうもない。イヤらしいものを作ったり,好んで閲覧したりする者は「イヤらしい人間だ」という考え方もこれと同じである。
性的・暴力的表現はレイプなどの性犯罪を助長するのか? 端的にいえばそれは否である。日本はこうした「危険なポルノグラフィー」が海外と比較にならないくらい一般に浸透しているのにもかかわらず,日本の性犯罪発生率(ひいては犯罪率一般)は他の国々と比較して著しく低いことが統計的にわかっている。統計というものは個別の性質を解明しなくても,全体の傾向を科学的に説明するものであり,ポルノグラフィーと性犯罪との因果関係をありありと否定している訳である。要するに犯罪の因子が別のところにあることを示唆しているのである。ひとりでもポルノグラフィーの影響を受けて犯罪を犯したひとがいれば,やはり「危険」として規制すべきと主張するバカがいる。ひとりでも餅で喉を詰まらせて死ぬひとがいれば餅の製造・販売を禁止すべきだろうか?
だいたい,日本のサブカルチャーを語るとき,なぜその不道徳を危険視するのか。それは少年少女が好んで享受するメディアであるからである。確かに他人の言動に動かされ易い子供には積極的に与えるのは問題があるかも知れない。教育上より優先すべき事項がある。ならば「18禁」のように年齢制限を設ければよいだけである。「規制」を叫ぶひとは,根も葉もない犯罪因子に拘って「作ることそのもの」,「販売することそのもの」を否定しているのである。
しかし,犯罪の原因・動機の本質をはずした規制は,周縁的性質のものを本質だと見誤らせるだけで,一種の魔女狩りを生むだけである。芸術一般によって齎される想像的情念と現実の行動様式とは --- 少なくとも成熟した人間にとっては --- 異なるものである。想像力の活動を現実的行動に直接的に結びつける考え方は,その主体の芸術受容レベルの低さを示すばかりである。それは,表現活動を疎外するだけでなく,犯罪抑止にも利するところがない。
アニメ・マンガの性・暴力表現が「不快」ならば,批判すればよいのだ。見たくなければ見なければよいのだ。お行儀の悪いものから眼を背けてお行儀よくしておればよい。エッチな映像の悪影響を心配するなら,それを子供には見せなければよいのだ。私はエロティックな映像が挿入されるテレビ番組(例えば『特命係長 只野仁』)は子供には観せない。「お前たちはガキだから観せない。お父さんは大人なのでエッチなものを観ていいのだ」と威張る訳である。
法制度に訴え,国家権力によって,アニメ・マンガの「危険な」表現行為を止めさせる必要はない。規制・禁止は,イヤらしいだけで価値のない作品を創造の段階で潰すことができるかも知れないが,想像力を豊かにしてくれる素晴らしい「イヤらしさ」をも抹殺してしまうはずである。性犯罪も減らないだろう。規制だらけの米国製の,「萌えない」アニメを見るがよい。なのに高い,米国の性犯罪率を確かめるがよい。
今日はお休み。齋藤環『戦闘美少女の精神分析』を読んでいる。ここのところ,『NEON GENESIS EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン』や『Меланхолия Харухи Судзумии 涼宮ハルヒの憂鬱(ロシア語版)』といったアニメの傑作を観て,オタク文化というものに少し興味をそそられているのである。「戦闘美少女」に絡んでネットのニュースを見ていたら,産総研が開発したロボット HRP-4C の記事が眼に留まった(「人間に近い外観と動作性能を備えたロボットの開発に成功」産業技術総合研究所 2009.3.16 付)。
このロボットは二足歩行する人間型タイプのヒューマノイドとして,あっと驚かせるものがある。「人間に近い動作や音声認識にもとづく応答を実現」する点が特長とのこと。しかし,ロボットとしてここまで人間,しかも若い女性のリアリティにこだわる必要があるのかという疑問が起こる。もちろん,人間的所作のメカニカルな追究が高度な技術革新を惹起するのだ。それにしても,女性的なものへのその独特のこだわりは私には常規を逸しているように思われた。セクハラとまでは言わないけど(開発者が仮に「肌が白いので『ユキ』と名付けました」などと悪ノリした説明をしていたら,私はセクハラだと思ったかも知れない)。
彼女(HRP-4C のこと)はうまいタイミングで瞬きをし,いわくありげに首を傾げて後ろ下方を見返りする。身長 158cm,体重 58kg --- 女性としては重いが,これは生身の女性が鎧兜(というより,エヴァのような戦闘ロボットに搭乗するための超合金スーツ)を纏ったと思えば自然である。あどけない容貌。荻野目慶子に似ているとの意見をネットで読んだ。私は菅野美穂に似ていると思う。こんなことどうでもよいが,それくらい自己の経験を投入できる顔つきの自然な仕上がり。その顔にそぐわない,大きな形のよいバスト。残念ながら,スリーサイズは明らかにされていない。そう,HRP-4C は明らかにロリ趣味なんである。
このように,ロボットとしては不必要な,しかし高度な技術を要するディティールが,一種独特のセクシュアリティを発散して HRP-4C に付加されている訳である。彼女を見たひとたちがどのような印象を覚えたのか,ちょっとググってみた。こういうとき,ブログの意見は表裏がないので参考になる。想像どおりというか,いちいち出所をあげませんが,「ツンデレ」,「ドリ系」,「(顔,髪型の)オタ偏差値低い」,「すごい,一目見て抜けると思った」など,オタク的視線からのものが多い。「ちょっと怖い」というのが一般的な受け止め方と思う。海外でも「このロボットとファックできるのか」というのが非常に多かった。一方で,海外の意見には「ターミネーターの始まり」,「日本人はこいつらに戦争させようとしているんだ」といった軍事的関心の多いのが特徴である。海外の意見はこことここをご覧あれ。
私も HRP-4C は研究者の秘かなオタク的情熱に動機付けられていると認める。彼女にはじつは本当に膣が実装されているかも知れない。しかし,その情熱には海外の反応にあるような軍事的ニュアンスは ---「戦闘美少女」のセクシュアリティは否定できないが --- ない。私がこのロボットに注目したのは,日本のオタク的衝動 --- 究極の想像力を実世界でパロディー的に実体化しようとする趣向 --- が恐るべき技術革新を支えている,そういう一端を見た気がしたからである。ただし,これは「想像したことを現実世界でもやりたい」という子供じみた欲求とは,紙一重にしてどえらい違いがあることを強調しておく。
彼女はファッションショーの挨拶で「実戦」デビューしたそうである。日本のオタク精神は平和そのものなのだ。
しばらく PC 環境のバックアップを取得していなかった。自作のプログラムや文書などがディスクの故障とともに失われてしまうと,これまでの苦労がパーになる訳でシャレにならない。中二になる娘が Mac でグラフィックデザインの勉強をする傍ら,私は久しぶりに FreeBSD (7.0-RELEASE) でバックアップ DVD-R を焼くことにした。
円盤に書く方法をまったく思い出せず,Web リソースの力を借りた。ここにも焼き方を備忘録としてしるしておく。DVD-R デバイスは ATAPI インタフェースである。tcsh 前提でコマンドラインを示す。すべてスーパーユーザ権限で実行する。
# cd / # tar zcvf /shared/dvd/www-200901.tar.gz ./usr/local/www/apache22 ... etc., etc. ...
# cd /shared # mkisofs -U -R -o dvdimage.iso ./dvd
# cd /usr/ports/sysutils/dvd+rw-tools # make install clean # rehash
# kldload atapicam
# cd /shared # growisofs -dvd-compat -speed=4 -Z /dev/cd0=dvdimage.iso
私のバックアップ作業が終わる前に,娘が一枚絵を描き上げた。紙にスケッチして,これをスキャンし,Adobe Photoshop で加工した。グラフィックデザインの入門書を見ながら,Mac のオペレーションを私に聞きながら,製作したものにしては上出来である。悩める女性を描いたそうである。感心した。

国書刊行会『ロシア・アヴァンギャルド』全 8 巻を手に入れた。この叢書は私の大学時代に刊行されはじめ,当時私は『フォルマリズム --- 詩的言語論』のみを読んだだけだった。その後,全巻完結するも,買わずじまいのまま,今ではほぼ品切れ状態となってしまっていた。全巻揃いが 35,000 円で古書店に並んでいるのを,指をくわえて見過ごすばかりであった。今回その半値でネット・オークションで競り落としたのである。
ロシア・アヴァンギャルドの活動については,美術を中心としてかなりの日本語文献がある。しかし絵画のみならず,映画,演劇,詩,文芸評論などの芸術現象を全般的に取上げ,芸術作品・評論の翻訳と編者による注釈とにより俯瞰したのは,日本では本叢書を措いて他に類を見ないと思う (音楽への配慮が足りないのが欠点ではあるが)。タイトルにもそれが現れている --- 1:『テアトル I --- 未来派の実験』,2:『テアトル II --- 演劇の十月』,3:『キノ --- 映像言語の創造』,4:『コンストルクツィア --- 構成主義の展開』,5:『ポエジア --- 言葉の復活』,6:『フォルマリズム --- 詩的言語論』,7:『レフ --- 芸術左翼戦線』,8:『ファクト --- 事実の文学』。これらは亀山郁夫や大石雅彦,桑野隆,浦雅春といった現在,第一線で活躍するロシア文化の専門家たちが --- 当時まだあまりその名を知られていたとはいえないが,--- 新進気鋭の先取的インパクトをもってなした,素晴らしい仕事である。高価な叢書であるわりに装丁に品がないところも,ロシア・アヴァンギャルドらしくてよい。
とりあえずはネット・オークションで見いだしたゆえの衝動買いに近い。この手の本は腰を落ち着けて取り組むべきものなので,学者や学生でもない限りなかなか読み通すのは難しい。『ポエジア』あたりから拾い読みするとしよう。

12 月 23 日はわが家のクリスマス・パーティであった。上の息子が天皇陛下と誕生日が同じで,いつもクリスマスとバースディとを一緒に祝うことになっている。ちょっと可哀相な気もするが,息子は文句を言わない。私は障害対策のため休日出勤したあと,かろうじてお祝いに間に合った。
娘が作った式次第に従って,妻の作ったご馳走を食べ,ハッピバースデートゥーユーと,なぜか賛美歌312番 --- いーつくしみふかーきー,とーもなるイェスはー --- を皆で歌い,ケーキを食べ,プレゼントを交換した。今年はクリスマスツリーではなく,娘の作った小さなサンタクロースをリビングの扉に飾り付けた。

私は妻から水村美苗と中沢新一の本を,息子から加湿器を,娘からは子ブタの灰皿,ブックカバーなどの小物,自筆のクレヨン絵をもらった。娘の絵のタイトルは『父と娘と月』。ちょっとムンク風。
いま仕事が大ピンチである。ある顧客のシステム変更でとんでもない性能問題が発生し,連日対策に追いまくられている。この年の瀬にお客様にはたいへんなご迷惑をお掛けしている。クリスマス・イブもどっちらけで,お詫びのしようがない。
つい先日,別の顧客の性能問題を解決してほっとしたところなのに。明日仕事納めであるにもかかわらず,まだまだ対策作業が続く。今日もハードウェア工場,ソフトウェア工場の設計者を集めて対策会議。年末と年始のスケジュールを立てた。
年末,はまりまくるこの習性はなんの因果か。でも胸に手を当ててよく考えるまでもなく,これは「身から出た錆」。部下ともども戦闘モードで,目が血走ってカリカリなんである。
今日,娘の通っている絵画教室「アリス」の展覧会に行ってきた。JR 鶴見駅から歩いて 7, 8 分のところ。商店街から山の手のほうに折れて,裏道をゆく。道すがら,時おり金木犀の香りがふっとすり抜ける。
教室に着いてまずは娘の先生にご挨拶をした。東京藝大で研鑽を積んだこのジャージ姿の女流はどんな絵を描くのか,私はいたく興味があるのだがいまだかつて見たことがない。
絵画教室の展示会なので,だいたいは生徒さんの作品。オリジナルがほとんどだけど,ミュシャのモシャもあった... 美大受験科の生徒の手になるものにはなかなか優れたものがあった。某詩織さんの個性的なイラスト絵はがき,佐藤某さんの幻想的な抽象画など,ちょっと食指の動くものもあった。娘も挿絵を付けた本など5点ほど出展していた。
小学一年生の作った七宝アクセサリに面白いものがあった。その名も「世界のナベアツ」。アフリカ原住民の芸術のような大らかな意匠。たしかに世界のナベアツがあの「サ〜ン,... ロクっ」というときの顔の顰め様を髣髴とさせて楽しい。

8 月 12 日,妻と上野の東京国立博物館に行った。『対決---巨匠たちの日本美術』と銘打った展覧会。狩野永徳と長谷川等伯,雪舟と雪村,写楽と歌麿など,日本を代表する画家,工芸家の,それぞれ作風を異とする作品を対で展示する個性的な催しであった。地下鉄銀座線の広告で『青春のロシア・アヴァンギャルド展』とともに知るところとなり,夏休みを利用して出かけたのである。
雪舟の『秋冬山水図』,写楽の歌舞伎役者の浮世絵など,日本史の教科書の図版くらいでしか知らなかった国宝級の名作を間近に見ることができ感動した。長谷川等伯の『松林図屏風』の実物をいちどこの目でしかと見たかったのだけど,展示期間を過ぎてしまっていたらしく,果たせなかった。残念。
閉館時刻に会場を出て,自販機のジュースを呑みながら煙草を吸っていたら,夕立に襲われた。驟雨でちょっと涼やかになった上野公園を歩いた。

今日,娘を連れて,東急 Bunkamura で開催されている「青春のロシア・アヴァンギャルド」展覧会に行った。久しぶりの渋谷。最寄りの駅から直通でおよそ 15 分。JR 湘南新宿ラインの開通でこんなにも短時間になったのに,渋谷はもう何年ぶりだろうか。この暑さのうえ,相も変わらぬ人,人,人に少し酔ってしまった。
ロシア・アヴァンギャルドには「激動の時代の若者の好き勝手」というか,意思をもって過去に唾する血走った充溢感があって,いまなお「青春」という言葉が相応しいと私は思う。私は地下鉄銀座線の吊り広告でこの展覧会を知ってから,カジミール・マレーヴィチの絵を楽しみにしていた。『収穫』や『冬のモティーフ』などの作品を目の当たりにして感動した。この展覧会で,ボリス・アニスフェルドの『シェラミの娘』と『東洋の幻想』,アレクサンドラ・エクステルの『魚を持つ女』,ヴラディーミル・バラーノフ=ロシネーの『キュビズム風の裸婦』といった,これまでその名を知らなかった画家の素晴らしい作品を知るところとなった。『シェラミの娘』は現代日本のアニメの異次元ファンタジーに通じる幻想的な物語性でつよい印象を残した。娘は若きシャガールの『ヴァイオリン弾き』がお気に入りだったようだ。
娘は 109 に行きたがったが,やはり腹の鳴るのに耐えかねた。二人で安ステーキを食って帰宅した。汗だくになった私には,渋谷駅ホームにビルを吹き抜けて来る風が意外にも心地よかった。

今日,妻は知り合いのライブを聴きに門前仲町にゆき,私と子供たちはお留守番。晩ご飯のあと,私が iPod で音楽を聴きながら食器洗いをする間,娘はリビングでお勉強。絵心のある娘は気が向いたら,ノートにスケッチをする。「洗い物してるお父さんがなんかさびしそうだったから」とかなんとか言って,私の働く姿をスケッチしていた。なんかメタボなダサイ格好!

東大スラヴ文学研究室からメール。論文集 SLAVISTIKA の執筆者紹介欄にどう載せるかの話題。「電機メーカー勤務」でお願いしますと回答した。これでは,大学院の研究者の方々に混じってどこの馬の骨かと思われるに違いなく,恥ずかしいのだけど。編集委員の先生は「プーシキン研究者」でもよいと思うとおっしゃってくれたが,それではあまりにカッコ良すぎて,あまりにおこがましいのでやめにした。
娘が講談社のフェイマススクールに絵を応募して,一次選考に引っ掛かったというわけで,講評会に行ってきた.日々書き貯めたスケッチブックをもって,横浜の鶴屋町まで出かけた.娘にフェイマススクールを受講させようなんてつもりはもとよりない.せっかくなので娘と散歩がてら話を聞く程度の目的であった.髭を蓄えた「アート」の雰囲気をもった担当の方と娘は30分ほどおしゃべりして,記念品として絵はがき大のスケッチブックをいただいた.講談社のような大出版社がその売り上げの7割を漫画で占めていると知って,漫画王国日本を思い知った.日本の出版文化は漫画に支えられている,というのは悪いことではない.
帰りにアイスクリームを買って行こうと,いつもの帰路とは違う,猫道とよばれる細い道を通った.キックスケーターに乗った少女が前を進んでいた.ぽかぽか陽気で思わず携帯で写真を一枚.
アイスクリームと赤ワインを買った.5〜600円の安ワインをと,いつもの安ワインの籠から取り出してレジに持って行ったら,2,500円もするボージョレであった.やっぱり別のにしますとも言えず,代金を支払った.


上野,東京国立博物館で開催中のレオナルド・ダ・ヴィンチ展を観る.『受胎告知』が日本に来る,というので必ずいかなくちゃと決めていたのだ.妻は昨日映画を観たというのでお留守番,上の息子は部活.ということで娘と二人で出かけた.ゴッホ展の時に比べると,意外に待ち時間が少なかった.
天使ガブリエルの衣の紅が凄かった.書見台の文様,髪の毛などの絵具の肉感には,ああレオナルドを観たぞという感動を覚えた.絵を習っている娘が,「なんか壁が歪んでない?」という.私は「まあそんなもんじゃないの?」とテキトーなことをいっていたら,そのあと第二会場で観た解説フィルムによれば,この絵はカンバスに向かって斜め右下から観るのに最適化された遠近法で描かれていて,それに応じたデフォルメを施されており,正面から観ると歪んでいるという.「本当だね,ふみ,よく視てるね.」
黒田清輝の展覧会も同時に開催されていた.有名な『湖畔』を観ることができた.法隆寺の仏像展もやっていて,なんかいっぺんにもったいないなと思いつつ,縄文,弥生時代の出土品,蒔絵,日本刀の常設展ともども足速く観て回りくたくたになった.
国立博物館の前の公園の入り口で,ホームレス風のひとたちが長蛇の列をなしていた.どうも炊きだしのようである.上野って,味のあるところである.
妻は有元利夫の絵が好きで,展覧会があると必ず出かける.何年か前,ふとしたことで有元利夫の本物のリトグラフが売り場に出ているのを私は見つけた.結構値が張ったが,どうしてもこれを手に入れたかった.それは 1981 年 9 月から 10 月にかけて有元ゆかりの弥生ギャラリーで催された個展のために制作したポスターである.有元本人が 1981 部刷ったもののうちの 444 枚目のものである.私の所有する数少ない美術品である.
ずっとこのリトグラフは寝室に立てかけていたのだが,子供がその前をずかずか,いそいそ通るのを見るうち,そのうちに引っ掛けて表面のガラスを割るのではと心配になり,私の屋根裏部屋に移すことにした.本やレコード,PC で雑然とした部屋が少し華やかになった.
今日はお休み.問題システムが5日に本番稼動して,その日その日の問題対策に追われつつも,緊急度を要するものが収束方向にあり,ちょっと一息つける状況になったのだ.
12時間いぎたなく寝た.起きて朝日新聞を手に取ると,いま連載の『ロストジェネレーション』の記事が目に入る.働き過ぎで鬱病になり自殺する若者たち.他人事ではない.メンタルで出社しなくなった社員の例を私自身ゴマンと見てきた.いまのプロジェクトにも私の部下に,心を病んで壊れてしまった経験をもつものがいる.彼らは真面目で,仕事の精度も高い優秀な若者である.メンタルの病いを回避する努力も重要だけど,そこから舞い戻ってきた者にいかにハッピーに仕事をさせるかが,これからはもっと大事になってくると思う.私だってどちらかというとポンコツの部類であって,いつ壊れるかも知れないのだ.壊れたら終わりというのはそれこそやり切れない.
misima パッケージを更新した.JIS 第一・第二水準範囲内での変換のサポート,辞書の追加,バグ訂正を公開アーカイブにも反映して,misima-2.3c.tar.gz を公開した.
SQL の勉強を少し.
夕方,『ロシア・アヴァンギャルド作品集』が届く.古書で入手したもの.ロシア文化が異様に元気だった 1920 年代ころの絵画が集められている.ロシア語の解説付き.革命前後のロシアのインテリは旧套を嗤い,バケツを蹴っ飛ばして意気揚々と街路を闊歩したそうな.一種独特の知性と繊細と混沌とガサツとが刺激的.