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湯島天神に初詣。子供たちの都合が今日やっとついたので,珍しく家族皆で出かけた。御徒町・松坂屋で開催されている第 56 回現代書道二十人展も観ようということに。

湯島天神は松の内ということもあり,まだ人出で賑わっていた。いつもなら御徒町駅から春日通りを歩いて湯島の交差点すぐの夫婦坂の門から入るんだけど,参拝客が多いこの時期だからか,わざわざお茶の水方面から大きく遠回りさせられ,銅鳥居の参道を歩かされ,おまけに長蛇の列に並ばせられた。めっぽう短気な娘が帰ると言い出すのを,「ふざけんな」と押さえ付けなければならなかった。

本殿で拍手を打って願を掛けた。お神籤を引いたら小吉。このたびは幣もとりあえず手向山紅葉の錦神のまにまに。願望 — 後程必ず叶う。待人 — 遅けれど来る。失物 — 人の助けで出づる。商売 — 利益少なけれど確実にもうかる。方角 — 西北の方特によし云々。妻のお神籤も私とまったく同じもの。どうやらお神籤文面のバラエティは,数パターンしか用意していないようであった。また,お神籤の表記が歴史的仮名遣いでないのにちょっと違和感。神社本庁は歴史的仮名遣いに固執する数少ない団体だけど,当然ながら,参拝者に押し付けたりまではしないらしい。娘は大吉で大喜び。天神様は学問の神様であらせられるので,娘は「大学に行けますように」と干支の龍の絵馬に書いて奉納した。さすがに,合格祈願の絵馬が夥しかった。

湯島天神は梅の名所だけど,まだ早い。我も神のひさうやあふぐ梅の花(芭蕉)— そのころに私もここで彼蒼を仰ぎ見たいと思った。『婦系図』の舞台になった縁で,泉鏡花の筆塚があった。今日も穏やかでいい天気だった。
 

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現代書道二十人展は今年で 56 回目。時代を代表する書家の新作を新年に披露する目的で,朝日新聞主催で毎年開催されている。最近,書にも魅せられていて,朝日新聞の広告でこの現代書家の展覧会を知り,初めて訪れてみたのである。漢字,かな,篆刻のジャンルの新作が展示されていて,アヴァンギャルド書・空書はなかった。

漢詩・経文・禅語を主体とする漢字の書では,星弘道の作品 — 嚴粲という聞いたこともない宋代の詩人の詩句「敲竹鶴聲起 弄船花影搖」(竹を打ったような鶴の声,船が波に遊ばれ花影が揺れる?)による書 — が力強く印象的だった。でも,私は国風の柔らかいかな書がどちらかというと好みである。小山やす子という女流による紫式部集の巻物,横山煌平による額田王短歌「あかねさす...」書,高木厚人による源氏物語作中歌の書,などなどが気に入った。自宅に飾りたい所有欲に駆られてしまった。展覧会カタログでガマン。実物の印象がかなり損なわれてしまってはいるけれども,カタログ掲載の上記作品のデジカメ撮影画像を掲載しておきます。
 
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カタログ / 小山やす子作品 / 星弘道作品

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横山煌平作品 / 高木厚人作品

勝見洋一『餞』

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勝見洋一『餞』を読んだ。ひとことでいうと,私小説の味わいのある幻想的にして麗しいポルノグラフィ。

古稀を過ぎた老人・欣哉は,若かりしころ暮らした北京を訪れ,中国に残した息子・志徳(じゆーど)の恋人だった中国人女性・麗倩(りーちん)と出会う。欣哉は彼女に,若くして死んだ妻・鳳霞(ふえんしやー)の面影を重ねてしまう。麗倩も欣哉に,文革(文化大革命)の果てに自殺してしまった志徳を見出す。こうして自然に欣哉と麗倩は交わって,麗倩は懐胎する。

物語は,文革時以来の北京において,欣哉が北京料理や変わり果てた天橋の街並に侵され,亡き中国人妻の面影を追い求めるセンチメンタル・ジャーニーである。あっさりとした極上の清蒸桂魚(ちんじようごえいゆい:作品にも登場する桂魚の丸蒸し料理)のように,抑制の効いたポルノグラフィである。何かに囚われる心,記憶という奔放な幻想装置のみが,動きのない肉体の上を激しく駆け巡る。日中戦争と文革という暗い悲劇的背景が,登場する中国美女の肌の白さと滑りをいや増しに引き立てる,そういう凄みがあった。

作者・勝見洋一は,本書の経歴をみると,中国料理をメインとする料理評論家のようだが,本作品が初の小説である。作品にも北京料理の数々が描かれており,しかも状況に応じた心憎い選定であることがわかる。三島由紀夫の小説では描かれる料理が作品世界のお飾りないし彼の文人的教養の披瀝でしかないのに対し,勝見洋一では,谷崎潤一郎や開高健の作品と同様,食したことのない料理の描写で,一度でよいからそれを食ってみたい強い衝動に駆られるのである。女と二人で旨い料理を食うのは性交するのと同じである。

 だから,それにつづく清蒸桂魚はさすがに見事な出来だった。ほんの少しの生姜と葱で蒸すだけで,淡いくせに口の中を切られるような鋭い桂魚の味が引き出されていた。白身の肉は締まっていたが,自分の舌よりもほんの少し柔らかかった。その白身にまとわりついているさらりとした脂は,胃からすぐに体の隅々に染みていくようで,麗倩との会話もなにかそんな不思議なものの力で押し流された。桂魚の棲んでいた深くて大きな河が,麗倩の背後に流れているようだった。今の十月の大河を疾走する緑色の水の流れを,欣哉は夢のように見た。[ ... ]
 すると欣哉の口の中に,ふと,さっき食べた大河の水と藻で育った桂魚の味がよみがえった。そんな野卑と繊細が入り混じった味が,鳳霞のくちびるの裏の柔らかな粘膜にいつもうっすらと貼りついていたのだったと思いだす。それならばいまの麗倩も,大河の水の味と臭いを満々とからだに湛えているのか。
勝見洋一『餞』幻戯書房,2011 年,pp. 13-4, 30-1。

親子世代の二人の男女の襷がけの一種倒錯したエロティックな関係は,残りの死した二人の存在への思慕そのものである。生まれて来る子供への呼びかけにその妄執が収斂して,作品は終わる。弦楽四重奏の入り乱れた黝い変奏がシンプルなリエゾンで楽曲を閉じられるような,明るい余韻を残す。
 

餞
勝見 洋一
幻戯書房
 

上のアマゾン・リンクでは皆目わからないのだが,本書の極上のポルノグラフィは最近では珍しい美しい本作りに支えられている。単調な白のカバー,灰色クロス装表紙に空押しで「餞」のエンボス加工。艶消しの黒い帯。この白と黒とその中間色・灰は作品の老嬾・艶容の,死臭のあるエロスに相応しい。扉は題名といやらしさを秘めた赤の古風な飾り罫。この物語性にあって,版面の 32 × 12 文字の活字は,なまめくようないやらしい手触りである(印刷は内外文字印刷)。最近では稀にみる本なんである。装丁家・間村俊一の名は覚えておくとよい。こういう装丁は日本の至芸ではないかと思う。ぜひ,手に取って,装丁ともども作品を堪能いただきたい。
 

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勝見洋一『餞』幻戯書房,2011.8.14 初版第1刷

 

付記:

この作品が映画化されないか,私は秘かに期待している。そう,日中合作ポルノグラフィとして。日中戦争,文革という両国の恥辱の歴史がモチーフになっているところ,人間の過去,現在,未来が性を巡って美しく昇華しているところを,映像でもぜひ観てみたい。作者はあまり意図していないかも知れないが,中国文学伝統をいたく尊敬する私は,こういうポルノグラフィこそが日中両国の文化的近親性を共有させてくれてよい,と勝手に信じている。

現代の中国ではポルノはタブーに近いので無理か。餞の題名は死者を送る紙銭に冥界との接点を見出す象徴になっているんであるが,現代中国なら文字通り金とセックスするニュアンスを帯びてしまうかも知れない。あと,『失楽園』みたいなどうしようもない下品な映画になる危険性もないことはない。やっぱり文藝としてひとりこっそり楽しむに限るのか。

空書

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空書というのをご存知だろうか。あまり書家の流派や作風には詳しくないけれども,書が好きである。見事な墨跡を見ると,漢字文化圏の文字に込めた美学に戦く。空書とはいわゆる文字というよりも書家の想像力に従った抽象的な書を謂う。YouTube で女流書家・佐々木香粋による空書動画を見つけた。これは 2010 年横浜で開かれた APEC Japan 2010 のメインビジュアル画面で放映されたものである。彼女は 1982 年生まれの俊英である。こういう若い藝術家が書という日本の伝統藝術によって新しい現代感覚を表現するのに接すると,息を呑むくらいの感動を覚える。ここにもエンベッドしておきます。

休日に映画『エゴン・シーレ』(原題: Egon Schiele - Exzeß und Bestrafung)を久々に鑑賞。私は大学時代の 1983 年に,公開されてすぐ映画館で観た。今回はツタヤの DVD で何度目かの鑑賞なんである。じつは私は VHS ビデオでこのソフトを所有しているのだが,ビデオデッキが壊れてそのまんまなのだった。主演は,マテュー・カリエール(エゴン・シーレ),ジェーン・バーキン(ヴァリ),ニーナ・ファレンシュタイン(タチアナ),クリスティーネ・カウフマン(エディット)ほか。1980 年,墺・西独・仏合作,ヘルベルト・フェーゼリー監督作品。

エゴン・シーレはいまでこそ日本でも人気のある画家になったが,1983 年当時はウィーン世紀末美術の専門家でなければ知らない存在だったのではないか。私は会社に入ってから,1989 年に渋谷のセゾン美術館で開かれた展覧会『ウィーン世紀末 クリムト,シーレとその時代』展で,シーレのタブローをはじめてみた。ごつごつしたタッチの,陰毛も汚らわしい,彼のエロティック画は,グロテスクで,不吉で,陰湿で,印象派の画なんかが好きな人は恐らく眉を顰めるような部類に入る。ギュスターヴ・モローやフランツ・フォン・シュトゥック,グスタフ・クリムト,フェルナン・クノップフなど,象徴派の描くエロティック画のもつ陶酔した耽美趣味,ロマンティシズムがまるでない。彼の画を視ていると,生きること・性そのものの暗黒を見せられているような暗い病的な気分に襲われる。「頽廃」というより「病気」である。いま「病み」という「闇」に掛けた言葉が日本の青少年のあいだで使われていて,この「病み」こそがシーレ画の印象に相応しいかも知れない。でも,これこそが二十世紀の命のあり方なんだと感じさせる不思議な吸引力がある。シーレの藝術は現代ではドイツ表現主義思潮の流れにあると評されている。

映画は,少女を誘惑しモデルにして裸体画を描いたという容疑で当局に逮捕・勾留された藝術家の,滅び行く半生を描いている。シーレはクリムトの弟子で,師匠のモデルだったヴァリと同棲していた。無罪になり釈放された後,ヴァリと別れ,エディットと出会って妻とするが,夫婦ともに若くしてスペイン風邪で亡くなる。作品は,生活力に乏しい繊細な画家が,己の藝術への社会の偏見・無理解ゆえに投獄され,己のよき理解者(ヴァリ)を捨て,自滅して行く,というシンプルな物語である。邦題は『愛欲と陶酔の日々』となっているが,原題は『行過ぎと罰』であり,そんなロマンティシズムとは無縁であって,エロティック画に対する社会的側面が強調されている。映画ポスターに Pornographie というドイツ語が印字されているポルノであり,エロティックな映像がたびたび出て来るのだけれども(私が映画館で観たときは陰毛にぼかしが入っていたが,DVD では無修正だった),俗悪な印象はない。グスタフ・クリムトの『ベートーヴェンフリーズ』の痩せぎすの裸体画とパラレルに映るジェーン・バーキンの痛々しい裸体が,病的なウィーン世紀末を感じさせてよかった。彼女はロンドン生まれなのにフランス映画でしか私は見たことがなかった。ドイツ語の役も演じるなんて,ちょっとびっくり。マルチリンガルは欧州の俳優にとっては当たり前らしい。彼女が歌手として来日し東日本大震災復興支援コンサートに出演してくれたのは記憶に新しい。
 

 

『エゴン・シーレ』を最初に観たとき,私は映像のみならず,それ以上に音楽に打ちのめされた。本作品ではシーレと同時代のウィーンの作曲家アントン・ウェーベルンの音楽が映像を支えている(その他,ブライアン・イーノ,メンデルスゾーンも使われていた)。映画では『弦楽四重奏のための五つの楽章作品 5』(Fünf Sätze für Streichquartett, Op. 5, 1909)がシーレの不安,激情,抑圧,エロティックな幻想を伴奏するに効果的に用いられていた。彼の音楽はモンドリアンの絵画にも喩えられ,高い抽象性で知られているけれども,私はこの映画でウェーベルンの音楽に触れ,いきなり過剰なエロティシズムの伴奏としてくらってしまったからか,「抽象的音楽」などという批評はまったく無意味に思われた(尊敬する詩人・鷲巣繁男は評論『エウメニデス』のなかで「抽象的殉教者ウェーベルンの詩的結晶の不幸と聖化」と書いているけれども — 『鷲巣繁男詩集』思潮社,現代詩文庫 51,1972 年,p. 146)。ウェーベルンの音楽は私にとって二十世紀精神の不安,生の血脈,病んだエロスの具体的表現になった。そしていまだに映画『エゴン・シーレ』と結びついて離れない。映画でウェーベルンの室内楽に魅せられて以降,アルバン・ベルク四重奏団やピエール・ブレーズの演奏レコードを買い込んで,オーストリアのウニフェルザール・エディツィオーンから出ていた Philharmonia スコアを眺めながら繰返し繰返し聴くようになった。この映画が日本で公開された 1983 年はウェーベルン生誕 100 年という節目でもあった。このころウェーベルンのほか,シェーンベルク,ベルクの第二次ウィーン楽派の音楽作品,シュテファン・ゲオルゲやフーゴー・フォン・ホフマンスタール,ライナー・マリア・リルケの文学作品に夢中になっていたものである。

ウェーベルンの室内楽はどれも点描的,断片的でごく短い。ひとことでいうとミクロコスモスである。すべての弦楽四重奏曲,弦楽三重奏曲が一枚の CD に収まってしまう。彼は,思うに,音楽表現において短形式とそれを支える間・無音の意義に覚醒した西欧最初の作曲家である。どこか墨絵ないし書を思わせる。もちろん日本的とはとても言えないけれども,この点に「前衛的」という表現では片付けたくない共感を覚えるのである。私はアナログ・レコード時代からジュリアード四重奏団,ラサール四重奏団,とりわけアルバン・ベルク四重奏団の演奏を聴いて来たが,CD の比較的新しい録音としては,アルディッティ四重奏団によるものがお勧めである。
 

Webern;Comp String Trios/Quart
Arditti String Quartet:
I. Arditti, D. Alberman (Vln),
L. Andrade (Vla), R. de Saram (Vlc).
Disques Montaigne (2000-11-14)
 

ヴァリオリンとチェロのための小品も堪らなくよい。アイダ・カヴァフィアンのヴァイオリン,フレッド・シェリーのチェロ,ピーター・ゼルキンのピアノによる盤が,私のいままで耳にしたもののなかで最高の名演である。
 

タッシ・プレイズ・ウェーベルン(紙ジャケット仕様)
タッシ:
P. Serkin (Pf), I. Kavafian (Vln),
F. Sherry (Vlc), R. Stoltman (Cl).
M. Krystall (T-Sax)
BMG JAPAN (2006-11-22)
 

ウェーベルンの作品全集は,ピエール・ブレーズが監修・指揮した盤が新旧二つある。1978 年 CBS 盤と,2000 年 Deutsche Grammophon 盤である。私の好みとしてはアナログ・レコードでずっと聴いて来た旧盤である。いまでは,新しいデジタル録音のグラモフォン盤のほうを推す人が多いかも知れない。
 

Complete Works, Opus 1-31
P. Boulez (Dir), I. Stern (Vln),
Julliard Quartet, London Symphony Orchestra, et ali.
Sbme Import (1991-03-26)
Complete Webern
P. Boulez (Dir), Ensemble InterContemporain,
Berliner Philharmoniker,
Emerson Quartet, G. Kremer (Vln), et ali.
Deutsche Grammophon (2000-05-09)
 

いまやウェーベルンの楽曲スコアがインターネットから PDF でダウンロードできる。IMSLP Petrucci Music Library サイトの Category:Webern, Anton から,弦楽四重奏曲も,弦楽三重奏曲も,ヴァイオリン小品集も,出版物からスキャンした総譜が得られるんである。嬉しい時代になったものである。以下は,ヴァイオリンとピアノのための四つの小品作品 7(Vier Stück für Violine und Klavier, Op. 7, 1910)から第二曲出だしの譜面である。
 

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エゴン・シーレやグスタフ・クリムトの実物のタブローをまた観たいものである。1989 年の展覧会『ウィーン世紀末 クリムト,シーレとその時代』で観た,クリムトの有名な『接吻』は,そのきらびやかな幻想的装飾で息を呑むほどに素晴らしかった。ウィーン世紀末展では,絵画のほかにウィーン世紀末の工芸品,建築模型も展示されていた。映画にも出て来た『ベートーヴェンフリーズ』(コンサートホールの壁画)の同寸コピーもあった。展覧会カタログだけがそのときの感銘のよすがとなっている。
 

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国芳

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歌川国芳の画集を古書で入手した。古書といっても,今夏に没後 150 周年を記念して開催された回顧展のカタログ『破天荒の浮世絵師 歌川国芳』(NHK プロモーション制作,2011 年)である。

国芳は幕末の動乱期を生きた。洋の東西を問わず動乱期の藝術は,既成の価値観が動揺し,文化史的にマニエリスム的な傾向を帯びるものだが,国芳の場合も,アルチンボルド風騙し絵あり,オランダ絵画に倣った風景画あり,と伝統的な浮世絵師の概念から大きく逸脱する作品も残している。絵の題材の厳しい制約 — 当時,天保の改革以降,芝居役者を描くことは禁じられていた — をかい潜るために,落書き風に描いた変った絵もあり,現代ならさしづめ「ヘタウマ」路線のような試みまでしている。それゆえに「破天荒」なる形容が相応しい絵師のひとりになっている。彼は猫をたいそう可愛がったそうで,猫が登場する戯画をたくさん描いている。

彼の作品の最高峰は武者絵と妖怪画だろう。伝奇物語に取材したダイナミックな構図と色彩は,現代クリエイターの関心をも惹き付けて止まないものがある。侍が巨大な骸骨と対決する妖怪画『相馬の古内裏』はなかでも有名で,私も江戸絵画でもっとも好きな作品のひとつである。国芳展の情報がアンテナに引っかからず,実物を拝めなかったのがつくづく残念である。さしあたりこの画集を眺めて楽しもう。
 

20111026-kuniyosi-1.jpg国芳画集カバー
20111026-kuniyosi-2.jpg相馬の古内裏
20111026-kuniyosi-3.jpg見立東海道五拾三次 岡部 猫石の由来
20111026-kuniyosi-4.jpg荷宝蔵壁のむだ書
20111026-kuniyosi-5.jpg二尾の猫絵

先日,俳優の原田芳雄が亡くなった。彼を偲んで,映画『ツィゴイネルワイゼン』を,所有するパイオニア配給 DVD ソフトで久しぶりに観た。この作品を私はこれまで何回観ただろう。鈴木清順・1980 年監督作品。原田芳雄,大谷直子,藤田敏八,大楠道代,真喜志きさ子ほかの出演。『ツィゴイネルワイゼン』は,私の確信するに,邦画ファンにとって忘れられない記念碑的一作である。というのも,この作品ののち,1980 年代以降,日本の映画はどうしようもないただの優等生作品,あるいは — 言い換えれば,と言った方が妥当かも知れないが — 不良ですらない下等作品(そういう藝術作品をクズという)ばかりになってしまったからである。というか,本作品をもって日本の輝かしい映画史が終わりを告げ,暗黒時代に入ったとさえ私には思われるからである。まだピンク映画のほうがマシ,ってなもんや。

『おくりびと』などはアカデミー賞・外国映画賞を取るくらいの実力があるじゃないか。日本の映画も捨てたもんじゃない。それは私も否定しない。確かに観て面白い映画はたくさんある。けれども,これらは素材こそ日本的かも知れないが,テーマやモチーフの扱い自体は「リアリズム」という意味で誰が観ても「ああ,あれか」とすぐに理解できる。底の浅いハリウッド映画と何も変らない。だからこそ海外の権威ある賞を受賞できたのだ,と考えたほうがよい。それでよいと思う映画ファンもいるだろう。でも 1970 年代までの邦画に打ちのめされたことのある者は,どうしても苦笑いしてしまう状況なんである。言わばいまの日本映画は,韓国や香港,台湾,インドなどの「映画後進国」の作品とまったく同じレベル — 同じようにヒューマンであり,同じように心温まり,同じように哀しく,同じように泪に咽び,同じように楽しく,同じように面白い,ということ。韓流がなぜいまの日本で流行るのか — それは映像に対する感じ方,見方において,日本映画が韓国の,ないしはグローバル(つまり米国)のフィクション感覚と同じレベル — むしろ先を越されたというのが正しいかも知れない — になったからである。かつてのフランスのフィルム・ノワール,ヌーヴェル・ヴァーグ,ドイツの表現主義に匹敵する,日本人の手になる映像の記憶は失われてしまった。日本人でなければ撮れない映像がロードショーにかかるなんてもはや一縷の期待もできなくなって久しいのである。わずかに北野武,大林宣彦,あと誰がいるか,ってな感じなんである。「何を偉そうに」とお思いになるかも知れないが,黒澤,小津,市川,大島,鈴木などなどのかつての邦画作品の狂気を知る者には,いまの邦画はホントつまらない。私はただの時代遅れか?

『ツィゴイネルワイゼン』のどこがそんなに凄いのか。わからない人(いまの若い人たち)にいくら説明しても無駄である。映画は,思うに,「心温まる人間性」や「正義感」,「真実の愛」なんぞの表現ではなく,絵,ビジョンそのものが命である。『ツィゴイネルワイゼン』の物語は,音楽のように手に掴めもしなければ,匂いのように言葉で表せない何かである。ここでは,映像も台詞も,現実のつまらない人間が見せる表情,発する言葉と共通するところが何もない。これは注意して視るとよい。だから「ああ,あれか」式の日常性モドキから何とも潔く解放してくれるのである。よって「迫真の演技」なんていうホントにくだらないドラマの見方(「リアリズム」と呼ばれている幻想的審美観)からも自由になる。本作品の,訳の分らない,失笑すら催すところも多い,ハッキリ言って荒唐無稽のくっだらないストーリー。やたらとモノを食うシーンが出て来る。なのに,シーンひとつひとつに色気があり,あたかも四人の登場人物たちの絡みが,一種独特の映像による弦楽四重奏とでもいうような美しい狂躁で,脳髄を侵してしまう。映画ではストーリーなんて二次なんである。物語と同様どちらが狂っているのかわからないと束の間納得してすぐ我に返るのだが,映画の台詞にあるように,「もう後戻りはできない」ところにいる感じがするのである。

「きみ,何か言ったかね」,「そのあと,兄さんも同じ夢をごらんになったでしょう... わたくしと,同じ,こわぁーい,夢... 不思議ですわ,わたくしの夢を,兄さんが,途中から,お盗りになってしまった」,「レコオドが一枚,こちら様に来ているのですけれど... サラサーテが演奏している,ツィゴイネルワイゼンでございます... 左様でございますか,グラモフォンの十吋盤なのでございますけれど」— こうした台詞はすべて,まったく迫真性のない — 騒々しいテレビドラマのリアリズムに毒された目にはヘタクソにすら思われるような — 非日常的抑揚を担わされている。それゆえに小説のなかの台詞のように,肉の剥ぎ取られた他ならぬ言葉の骨のようなものが露出して却って頭の中で艶っぽく美しく響くのである。ああ,大正の昔の純粋な美しい日本語とはこうだったに違いない,というような — まったく根拠のない — ヘンな幻想に駆られるんである。歌舞伎や浄瑠璃と同じく,映画のなかでしか聞かれない美しい台詞回しというものがあるのだ。

私はこの映画を三十年の昔,大学生のころ札幌のジャブ70という札幌映画フリーク御用達の渋いハコで観た(当然ながらこの映画館はいまは潰れてしまった)。この映画を観て,大正のころの大學獨逸語教授(「ドイツ語」じゃないよ)というものにほのかな憧れを抱いた記憶がある。『ツィゴイネルワイゼン』に登場する,衒学的で,Erotik で,狂気にあふれたインテリ。フラスコのウィスキーを呷りながらドイツ語の法学なり歴史学の書物を読む姿は,なんとカッコいいものかと思ったものである。私はロシア語の学徒であったわけで,その後もドイツ語はまったくわからないんだけど,日本のインテリにはドイツ語がよく似合うと思ってしまったのである。映画で,中砂(原田芳雄)の本を返してもらいに青地(藤田敏八)宅を訪問した小稲(大谷直子)が,「ゾルダン,ヘッペのヘキセンプロツェッセがこちら様に参っているはずでございます」と,ドイツ語の本の名を語るくだりがある。「ヘッペ」というのが無茶苦茶印象に残ったので — 北海道方言を知る人なら何故かはすぐわかるはずだ —,同じ大学の独文科の友人(Nietzschean であった)に聞いてみた。Hexenprozeß というのは魔女裁判のことらしい。
 
 

大阪に帰省して蟬の声にはじめて気付いてなにか安堵を覚えた。やっと鳴いたかと。川崎に帰って来て,自宅周辺でも蟬のわしゃわしゃ騒ぐ音が聞かれるようになった。やっぱり梅雨明けは蟬の声と入道雲こそがそのしるしではなかろうか。

暑い夏,スポーツざんまい。高校野球を観,女子バレーを観,プロ野球を観,と飽きない。ドイツでもブンデスリーガが開幕し,注目の香川選手擁するドルトムントは開幕ゲームで快勝した。ホームで 8 万人の大観衆のなか圧倒的強さを見せつけたらしい。「8 万人の大観衆」!— これだからドイツ代表は強くならないはずはない,と羨ましくなった。

今日の朝日新聞の朝刊が,米国債の格下げを報じていた。ドル安も留まる様子がない。震災復興で生産性を高めなければならないこの時期に,円高は日本経済をさらに悪化させるような不安を掻立てている。でも,この円高のメリットを活かし米国から集中的にいっぱいモノを買って,いっぱいモノを作り,震災復興のために役立てればどうかと,私なんかは思う。海外へ売りに出るには不都合だけど,破壊された被災地の復興では,買うことが主体となるはずではないか。
 

* * *

そうはいってもやっぱりテレビでスポーツ観戦ばかりも,子供たちにバカにされてしまうので,本も一冊読みました。田中優子『春画のからくり』ちくま文庫,2009 年。「お父さん,エッチ」と言われても,私はまったく気にしない。著者は江戸学の専門家。女性なのにこんなテーマも的確に論じていて頼もしい(こんなことを言うことこそセクハラか)。

「春画」とはいうまでもなくポルノグラフィである。江戸の文化遺産であるからには,春画はもっぱら名のある知識人によって文化的視点で論じられるわけであるけれども,やっぱりアダルトビデオ,ピンク映画,エロ写真集,ビニ本(古っ!)などと何も変わるところがない。日本人は幸せなことにこれら現代のポルノグラフィック・メディアが世界的にオープンな環境で(いや,あのモザイクには我慢ならねぇという方もまだまだいるだろうけど)観られるので,わざわざ「古典」に目を向けようという気持ちにはならないかも知れない。一方で,アダルトビデオ等々の性交描写に目を背けたくなるリアリズムを感じて,「不潔!」と思う真面目な人たちもいる。日本の江戸時代の春画は,面白いことに,「目を背けたくなるような誇張された醜悪なリアリズム」としては,現代のポルノグラフィを凌駕しているのである。江戸春画が現代の日本映画で引用されるシーンで,性器にボカシが入っていたという笑い話が本書にあった。

田中が指摘するように,江戸春画は男女の性器をことさら巨大に描くのが常であり,しかも絢爛たる衣裳,閨房小道具が描き込まれることでフレーミングされ,性器がいよいよ際立つようになっている。ポルノグラフィをゴマンと観て来た私も,正直,恥ずかしくなるくらい凄い。河童や犬と女がいたすような獣姦ものあり,何組もの男女が絡む乱交ものあり,望遠鏡による覗見ものあり,豆ゑもんなる数センチの小人が男女の性交を見物して巡るシリーズものあり,とモチーフ,テーマも多岐にわたっていて,その懲りない性分は現代のサブカル的エロ・メディアとどこも変わらない。

田中は適切にも,江戸春画の読者による受容の中心を,絵の分析から「笑い」であると指摘している。部屋でひとりコソコソ観てマスターベーションする,というのではなく,何人かでゲラゲラ笑いながら「この覗見センズリ野郎のバカな顔見ろよオイ」みたいなノリで見ていたに違いないと言っている。

エロティック・アートを見ながら,そこに感情移入して追体験をはかり,性的興奮を得てマスターベーションにふけるという,西欧的なポルノグラフィーに比して,春画を幾人かで眺めて笑いに興じるという江戸時代の鑑賞方法が,遠眼鏡による覗きを描いたこれらの図〔歌川国貞『春情妓談水揚帳』:私註〕からも如実にわかる。
田中優子『春画のからくり』ちくま文庫,2009年,184 頁。

春画に書き込まれたセリフも大笑いさせてくれる。

(男)「おめへのよふなうつくしい,やせもせづふとりもせづ,そのうへ此やふにぼゞがよくて,させやふがでふづ(上手)で,じんばりでよくよがる女ハ,此日本にたつたひとりだ。太極上開,たこぼゞのうまにぼゞで,たまらぬ\/〔繰返しを示すくの字点:私註〕。よこにして二三てふとぼしたら,またほんどりにして壱てふ,茶うすにして壱てふとぼしたら,まちつとやすもふ」
(女)「アレさ,やすまづと,つゞけてたんのふするほどしてくんなよ。サア\/,モウ\/,いんすいのさるがまたがきれたそうだ。アレサ,モツトぐつときつく,ねまでづうと引といれてくんなよ。アヽ\/」
喜多川歌麿『ねがひの糸ぐち』より。同書,91--2 頁。

現代のアダルトビデオや官能小説以上にアケスケで,まさに大笑いするしかない。仮名遣いも,福田恆存大先生への面当てみたいに,痛快なくらいなんのこだわりもないようにみえる。もちろん仮に岩波古典文学大系本にこのくだりが収録されることになれば,「歴史的仮名遣い」にしかるべく「改竄」されるだろう。

性的興奮と「笑い」を結合するのは,江戸の小説の魅力でもある。でもこれは,神代辰巳の日活ロマンポルノの特徴でもあり,江戸に限らない日本の「伝統」のひとつなんだと思い至るんである。日本の「伝統」には過剰な装飾も究極のグロも大哄笑もあるんである。日本の伝統的文化の特徴を「清楚で奥ゆかしい」みたいなことを自信満々で語る人がけっこういるんだけど,私はそんな独善を耳にするたびに「こいついったいどんな『古典』を読んでいるのか。多分,高校で『源氏』の一節をよくわからないなりに読んだ程度に違いない」と鼻で嗤うようになってしまった(この独善は「伝統主義者」に多いのがまた笑えるんである)。

江戸の春画を描いたのは,当代一流の絵師だった。菱川師宣,喜多川歌麿,葛飾北斎,エトセトラ,エトセトラ。これ,いまふうに言えば,— こんなこと考えられないけれども — 黒澤明,小津安二郎,溝口健二なんかがじつはブルーフィルムも撮ってたんだよというくらいのインパクトがある。藝術のディアパゾンがおそろしく広大なのが江戸の文化なんだ,と改めて感心してしまう。

けふもいつぱいかいたので,まちつとやすもふ。
 

川崎大師薪能

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今日,仕事を早めに切り上げて,川崎大師薪能を観に行った。毎年,この時期に行われる川崎大師・平間寺恒例の行事である。薪能とは通常の演能・五番仕立てとは異なり,能本来の神事的役割をもった興行であって,はじめに法楽の儀式が大導師によって執り行われる。般若心経のありがたいお経を戴いて,舞台を清めるのである。螺貝の音とともにお坊さんが登場するところ,そして,声明と,奇しき倍音を引く鈴(リン)の音は,なんとも厳かであった。

ところが,残念ながら,今日から入梅。雨もよいのおかげで本堂横のアウトドアでの興行は取りやめとなった。体育館のような平間寺信徒会館での観能となり,篝火の火入れもなく,お坊様の法会の荘厳さも少し殺がれた感があった。

演目は,舞囃子『弱法師(よろぼし)』,狂言『柿山伏』,仕舞『難波』及び『邯鄲』,そして最後に能『巻絹(まきぎぬ)』神楽留。あらかじめ謡曲集で詞章を読んでおきたかったのだが,私の手元にある新潮,岩波の『謡曲集』には『巻絹』は収録されていなかった。でも実際は,狂言も,能も,セリフがハッキリと聞き取れ,意外とわかり易かった。

『巻絹』はいわゆる四番目・狂乱物の曲で,あらましは次のとおり。帝の命により千疋の巻絹を三熊野に奉納することになったが,その巻絹を運ぶ使者(ツレ)が途中,音無天神で寒梅を賞でていたために遅参してしまう。怒りに駆られた勅使(ワキ)は使者を縛める。そこに神が憑いた熊野の巫女(シテ)が現われ,音無天神に和歌を手向けた使者の徳を讃えて縛めを解き,神楽舞を舞う。

私は能の舞や所作の素晴らしさを正しく理解できるクチではないが,象徴に満ちた簡素な舞台の結構や,梅枝を手にしたシテの豪華な小袖,空間を切り裂く笛の蕭条とした音響に魅せられた。使者(ツレ)の歌「音無にかつ咲き初むる梅の花・匂はざりせば誰か知るべき」の上の句と下の句とを,使者と巫女がそれぞれ掛合いで吟ずることで,巫女の神がかりが勅使(ワキ)のなかで正当化されるくだりは,能の作者(観阿弥)の古典的芸術観 — やまとうたはちからをもいれずしてあめつちをうごかし云々という古今集以来の詩精神 — の現れかと面白かった。

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* * *

川崎大師は何年ぶりか。大学生になる上の息子がまだベビーカーに乗っていたころの初詣以来のような気がする。開演までに余裕のあるころあいに京急・川崎大師に降り立ったので,近隣を少し散歩することにした。表参道に沿ってずっと歩いた。初詣のときは人出が凄いが,この時期,この時間帯はまったく人がいない。商店街もなかばシャッターが降り閑散としていた。絶滅危機に晒されている業種・昔ながらの米屋があってちょっとびっくりした。なのに今を時めく AKB48 の米食広告が店先に掲げてあっておかしかった。昔ながらの八百屋・魚屋の並ぶ横町があった。「昭和マーケット」とその名も凄まじい八百屋のおやじは,銜え煙草で野菜を売っていた。なんとも懐かしい風景だった。その横町からさらに小路に入ると居酒屋の仕舞屋が並んでいた。新宿のゴールデン街のような風情だった。寂れ感ばかりが漂っていた。昔は一階で酒を呑ませ二階で客を取っていたのかもなんて下びたことを考えてしまった。

観能の前に少し腹ごしらえをしたかった。だけど,なかなか飲食店が見つからず。しようがなく「昭和マーケット」の近くの総菜屋でコロッケを二個買って,歩きながらむしゃむしゃ食った。スーツを来たサラリーマンが「よーッ」と口走りながら(謡曲のマネをしながら),コロッケを食いながら歩く様はみっともないに違いない。道ですれ違った小学生にクスクス笑われてしまった。この男爵芋コロッケ,一個 120 円と少し高かったけれども,芋がしっかり詰まってバターがよく効いていて旨かった。

今年の秋は,妻と近所の夢見ヶ崎での薪能を観ようか。来年の川崎大師薪能では,晴れてくれるだろうか。

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The One Ring, Tengwar fonts

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J. R. R. トールキンの『指輪物語』にテングワールという謎めいた文字が出て来る。架空の言語は謎めいたファンタスティックな世界の完結性をこの上もなく表わしている。あの恐ろしい力を持つ The One Ring にモルドール語で刻印された火文字を,LaTeX tengwarscript パッケージで組んでみた。

20110418-mordor.jpg

One ring to rule them all, one ring to find them,
One ring to bring them all and in the darkness bind them.
一つの指輪は,すべてを統べ,一つの指輪は,すべてを見つけ,
一つの指輪は,すべてを捕えて,くらやみのなかにつなぎとめる。
J. R. R. トールキン『指輪物語1』瀬田貞二・田中明子 訳,評論社,1992年,p. 112.

tengwarscript は CTAN: macros/latex/contrib/tengwarscript/ にある。バージョンは 1.3。フォントは何種類も出回っているが,私は AnnatarFormal だけを組込んで試してみた。上の画像は Annatar Italic である。流麗でなんとも美しい。原稿は以下のとおり。このモルドール語テクストはパッケージ添付 tengtest.tex にサンプルとして掲載されている。これを pdflatex で処理した。

% -*- coding: utf-8; -*-
% Tengwar on The One Ring from "The Load of the Ring" 
\documentclass[12pt]{article}
\usepackage[pdftex]{color}
\usepackage[T1]{fontenc}
\usepackage[all]{tengwarscript}
\definecolor{charc}{cmyk}{0,0.77,0.87,0}%
\begin{document}
\pagestyle{empty}
\color{charc}
\begin{center}
\tengwarannataritalic[2.0]
\tengwa{254}
\Textendedcalma\TTthreedots\Tnuumen\Tessenuquerna\TTthreedots%
\Tungwe\Tando\Toore\TTrightcurl\Tumbar\Ttinco\TTthreedots%
\Tlambealt\TTrightcurl\Tquesse\TTdoublerightcurl
\Tromanperiod\Ts
\Textendedcalma\TTthreedots\Tnuumen\Tessenuquerna\TTthreedots%
\Tungwe\Tungwe\Tumbar\TTnasalizer\TTdot\Ttinco\TTthreedots%
\Tlambe\TTrightcurl
\tengwa{255}\\
\Textendedcalma\TTthreedots\Tnuumen\Tessenuquerna\TTthreedots%
\Tungwe\Tthuule\Troomen\Tquesse\TTthreedots\Ttinco\TTthreedots%
\Tlambealt\TTrightcurl\Tquesse\TTdoublerightcurl
\Tromanperiod\Ts
\Textendedungwe\TTthreedots\Tumbar\Toore\TTrightcurl%
\Tesse\Tkern{-0.2}\Tmalta\TTrightcurl%
\Textendedcalma\TTdot\Ttelco\TTdot\Tquesse\Troomen\Tparma%
\TTnasalizer\TTdot\Ttinco\TTthreedots\Tlambe\TTrightcurl
\end{center}
\end{document}

tengwarscript のインストールは通常の LaTeX パッケージ組込となにも変わらない。ダウンロードした tengwarscript リソースを TDS に準拠して TeX ツリーに格納し,tengwarscript.mapupdmap-sys で登録する。フォントもほぼ同じだけれど,Formal については TrueType フォントファイル名を tengwarscript.map の記載に合わせてリネームする必要がある(もちろん map を訂正してもよい)。テングワール文字の出力命令については,ドキュメント tengwarscript.pdf を参照。
 

※ 4.20 付記

一応,端末上のインストール・オペレーションもメモっておく。端末操作は tcsh シェルである。TeX ツリーはローカル texmf とし,そのトップ・ディレクトリ名称を /usr/local/texlive/texmf-local としている。

まず,作業ディレクトリ(ここでは ~/tmp/tengwar)で tengwarscript パッケージをダウンロード,展開し,dtx, ins ファイルを latex 処理する。dtx はドキュメントでもあり,以下の操作ではリファレンス解決のため 2 回実行している。もとより PDF はすでに添付されているのできちんとした dvi ファイルが不要ならば,1 回の処理でもよい。

% mkdir -p ~/tmp/tengwar
% cd ~/tmp/tengwar
% set WGET="wget -nH -nd"
% set TEXDIR="/usr/local/texlive/texmf-local"
% $WGET http://mirror.ctan.org/macros/latex/contrib/tengwarscript.zip
% unzip tengwarscript.zip
% cd tengwartscript
% latex tengwarscript.dtx
% latex tengwarscript.dtx
% latex tengwarscript.ins

次に,Annatar 及び Formal フォントをダウンロード,解凍する。Formal フォントについては,map の記述に合うようにファイル名を変更する。

% $WGET http://home.student.uu.se/j/jowi4905/fonts/tngan120.zip
% unzip tngan120.zip
% $WGET http://tengwarformal.limes.com.pl/fonts/TengwarFormal-12c-ttf-pc.zip
% unzip TengwarFormal-12c-ttf-pc.zip
% cd TengwarFormal-12c-ttf-pc/fonts/
% mv TengwarFormal12b.ttf TengwarFormal12.ttf
% mv TengwarFormalA12b.ttf TengwarFormalA12.ttf

su -m で特権ユーザとなり,上で展開したリソースを TeX ツリーに格納し,フォントマップ登録を行う。

% cd ~/tmp/tengwar/tengwarscript
% su -m
# mkdir -p $TEXDIR/{doc/latex,tex/latex,fonts/{tfm,vf,type1,truetype,map/dvips,enc/dvips}}/
tengwarscript
# cp -p *.pdf $TEXDIR/doc/latex/tengwarscript/
# cp -p *.cfg *.sty $TEXDIR/tex/latex/tengwarscript/
# cp -p tfm/* #$TEXDIR/fonts/tfm/tengwarscript/
# cp -p vf/* $TEXDIR/fonts/vf/tengwarscript/
# cp -p map/* $TEXDIR/fonts/map/dvips/tengwarscript/
# cp -p enc/* $TEXDIR/fonts/enc/dvips/tengwarscript/
# cp -p *.ttf $TEXDIR/fonts/truetype/tengwarscript/
# cp -p TengwarFormal-12c-ttf-pc/fonts/*.ttf $TEXDIR/fonts/truetype/tengwarscript/
# mktexlsr
# updmap-sys --enable Map=tengwarscript.map

以上。

川崎に寄り道

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今日,会社からの帰り,川崎駅前に寄り道した。娘が試験最終日で,憂さ晴らしに妻と娘はカラオケに行く予定だった。今夜のご飯は外で食べて帰ってね,ってわけで,私は川崎駅周辺でメシを食い,本屋に寄って帰宅した。

久しぶりにあっさりした喜多方ラーメンが食いたくなって,坂内食堂に行った。ネギ焼豚ラーメンと半炒飯を注文。てんこ盛りのネギ,10 枚超の蜂蜜の甘みの効いた焼豚で腹一杯になってしまった。坂内は三十七番街をちょっと抜けたあたりにある。ここは夜 9 時を過ぎると,異様な雰囲気が漂う界隈となり,隣の仲見世通りとともに,なにやらいかがわしい客引きがウロウロしはじめる。

丸善で浮世絵の図説本を二冊購入。そのあと,喫茶店でフレンチコーヒーを飲んだ。お店で守屋毅著『元禄文化』を読了。日本の活気ある大衆文化の魁は元禄にあり。遊芸(習い事)が町人のブームだった元禄は,まさにカルチャーセンターの流行る現代と同じだと思った。西鶴や当時の文献の引用で,芝居小屋,吉原の「悪所」の雰囲気をうまく伝えてくれる良書だった。
 

図説 浮世絵に見る江戸の一日 (ふくろうの本/日本の文化)
佐藤要人・高橋雅夫 監修
藤原千恵子 編
河出書房新社

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Michael Jackcho

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どこ押さえとんねん。

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drawn by Fumio, pen, 12 Feb. 2011.

最近,芭蕉関係の本を読み漁っているからか,「和」の雰囲気にどっぷり浸っており,浮世絵サイトを眺めたり,音楽も日本の現代作曲家・吉松隆のピアノ曲・プレイアデス舞曲集,— なぜか — 中森明菜の 1995 年に出たリアレンジ・ベスト曲集 TRUE ALBUM AKINA 95 BEST を繰返し聴いていた。芭蕉ロシア語訳を進めている D. Smirnov のために,今日も芭蕉真蹟イメージをせっせと Facebook にアップロードしたりしていた。

芭蕉も歌麿も当時の大衆的超人気アーティストだった。風雅,風狂のみならず日常性,ユーモア,諧謔,卑俗,ときおり漂うエロチズムの豊かな芭蕉俳句に親しみ,浮世絵の極彩色の色調・独特のデフォルマシオンに感嘆していると,芸術の大衆的・世俗的側面が皮肉に眺められる現代的芸術観はどうもお高く止り過ぎているように思われて来る。

私はこのところ,浮世絵はいまのマンガ,アニメに他ならない,と思うようになった。マンガ,アニメは,素早く仕上げられ大量生産を可能とするシンプルな様式と,絵であるがゆえの非現実的描写・デフォルマシオンと,享受者を「萌え」させるに足る独特のリアリズムとを,見事に統合し作品として血肉させている。この特徴は,浮世絵,さらには文楽の人形様式,歌舞伎のどぎつい化粧様式とまったく共通する。様式素材が非現実的であるからこそのリアリティ。ヘンタイ,ヤオイなどのジャンル(米国などでやり玉に上がっている日本アニメの,恥部とまでいわれるジャンル)に認められるエロだって,北斎,歌麿などがいくつも描いたモロ出し春画とまったく同じじゃないか。そしてようやく私は,海外のオタクのみならず絵画・映画の識者にも日本のマンガ,アニメが評価されている理由が理解できたのである。かつて北斎などの浮世絵にゴッホやフランス印象派の画家たちが血道を上げたのとまさに同じだったのである。かつて浮世絵が日本では二束三文だったのに西欧で高く売れるとなったらいきなり国内でも真面目に研究されはじめた,そういう日本人自身が「芸術性・高尚さ」を認めていなかった事情もマンガ,アニメと共通である。これからは,浮世絵を芸術だと称揚する一方でマンガ,アニメというメディアをバカにする批評家を見たら嗤ってやろう。

とまあ,「和」に浸たりきっていた。そういうわけで,今夜はヨーロッパの古楽をしみじみと聴くことにした。英国 17 世紀の,芭蕉とほぼ同時代に生きた大作曲家ヘンリー・パーセルの Fantasias for viols ヴィオールのためのファンタジア集。パーセルはバッハ,ヴィヴァルディ,テレマンの次に名前をあげたいバロック作曲家なんである。演奏は Ulsamer-Collegium。独 Archiv 1977 年録音のアナログレコード。第 7 番 4 声のファンタジア・ハ短調,第 8 番 同・ニ短調は,時代を先取りするようなシャープな旋律と対位法で(こんな言葉で言ったって意味がないんだけど)私のもっとも好きな古楽のひとつである。ああ,ヨーロッパの文化もやはり最高である。
 

20110206-purcel.jpg

上記の盤はアナログであり,もはや廃盤となり,入手不可能のようである。CD なら,次のロンドン・バロックの演奏による盤が私のお勧めである。
 

Fantasias for Viols
London Baroque Orchestra
Capitol (1993-01-12)

今日は今上陛下の御誕生日。うちの大学一年になる息子も今日が誕生日。可哀相に,誕生日とクリスマスが近接しているために,お祝いはいつも同時になってしまい,本人は少し損をした気になっているのかも知れない。

とういうわけで今夜は,これからお祝い,プレゼント交換をすることになっている。ところが,肝心の息子はこれからアルバイト。妻,娘と私の三人だけで川崎駅近くで焼き肉を食いに行くことになった。明日か明後日に家族皆でケーキでも食うか。

昨日,仕事の帰りに家族へのプレゼントを仕入れた。いつものように本,レコード。芸がないが,子供たちが自分ではまず買わないだろうものを選んだ。ラッピングは昨年買ったものが残っているはずだと思ったが,今日午,包装しようと探したけどどこにしまったのかまったく思い出せず。探すのをあきらめて,仕入れた Tower Records と丸善の袋を使うという体たらく。自作ロゴを印刷したシールを貼って取り繕った。

妻が来年のカレンダーを買って来てくれた。勤務先出版社のすぐ近くにあるナウカ神保町店で,Русская Икона (『ロシアのイコン』) を見つけて来たんである。Благовещение, XVII в. (『受胎告知』, 17 世紀),Андрей Рублев の描いた Сретение (『ハリストス迎接』, 1399 頃) など,美しいイコンを集めた 2011 カレンダーである。ロシアの祝日やロシア正教の聖日が載っている。

そんなわけで,友人の皆様,クリスマス,来る新年をお喜び申し上げます。イコンにちなんで教会スラヴ語風メッセージをお送りします。LaTeX OldSlav 教会スラヴ語パッケージで組んで,Ghostscript で EPS アウトラインを取ってから Adobe Illustrator CS で jpeg にしました。

% eplatex xmas.tex
% pdvips -Ppdf -E -D 10000 xmas.dvi -o tmp.eps
% gs -dNOPAUSE -dBATCH -sDEVICE=epswrite -r10000 -sOutputFile=xmas.eps tmp.eps
 

2010-xmas.jpg
 

20101223-xmas.jpg

もう公開を止めてしまった misima のユーザーの方から CD をいただいた。作詞家・歌手・声優の江幡育子さん。『停電少女と羽蟲のオーケストラ』のテーマ曲等,彼女が製作に関った関連作品 4 枚。詞の旧字・旧仮名遣いのために misima を使ったそうである。詩歌の表記変換で misima をお使いの方からよくメールをいただき,それを機にいろいろと興味深いニーズ,旧字・旧仮名遣い事情を知るところとなり,ときおり,このようにお仕事の成果をいただく機会もある。misima 作者として冥利に尽きる。

『停電少女と羽蟲のオーケストラ』を私は寡聞にして知らなかった。ググってみると,ドラマ CD として人気を博しているようである。IM プロデュース,二宮愛原作・脚本,竹内順子,櫻井孝宏,平田広明ほかの声優,ZIZZ STUDIO の音楽による作品。ジャケットにある田倉トヲルによるイラストは,椿や薔薇の花,蝶,菊の紋章などが特徴的にあしらわれ,和風アールデコというべき魅力がある。

イラスト・キャラクターデザインで視聴者にアニメのイメージを動機付け,ラジオドラマのような声だけの芝居で楽しませてくれるこのような新しいメディアもあるんだと知り,興味深かった。盲目の主人公・灰羽(はいばね)のように音だけで世界を想像しながら物語に聴き入る — テレビよりラジオにこそ論理的想像力を刺激されその面白みを理解できる人にはお勧めである。「アニメを観ないでアニメに萌える」ことのできる,一段高度な時代に突入したということか。

「停電少女」— アニメによくある「電気ブラン」風造語である。昔はハイカラなものに「電気」何々と命名したそうだが,アニメでも,「電気・電波」系が一種独特の意味で使われることが多い。この「停電少女」は,蛍の化身的存在,主人公・ネムの発光能力を失った姿を意味するようである。こういう欠落感を主人公に纏わせるところが,私には現代的に思われる。
 

停電少女と羽蟲のオーケストラ 「一輪花」
寺島拓篤(柩)/下野紘(橘):Vo
IM (2010-01-09)
停電少女と羽蟲のオーケストラ 第一楽章:蛍
竹内順子,櫻井孝宏,平田広明ほか
IM (2009-07-24)

伊勢功治詩・柳智之画による『天空の結晶』という詩画集(思潮社,2010 年)。仕事の縁で妻が著者から直接いただいたものである。面白そうなので,私も借りて読んだ。詩人・野村喜和夫による短評が,セルロイドの透明カバーに印字されてある。

シンプルなモノトーンのペン画と現代詩 19 編からなる。今風にいえばコラボレーションというのか。テクストを辿って面白く,眺めて楽しい。読書というよりも画集を眺めるような体験。詩集にはもともとこのような工芸的要素がある。

詩は,「六角形の螺旋階段」,「八十歳の洋館」,「十両編成の寝台車」,「九十六色の色鉛筆」といった数の形象に特徴がある。このテクストにあっては,「五月」という言葉もこの流れで組み立て直された印影を帯びている。私の感覚からすると,北川冬彦,安西冬衛などの昭和初期のモダニストが医学,化学,物理学などの世界から「三半規管」,「磁性体」などといった言葉を詩語にはじめて取り込んだときの新鮮味を,いままたふたたび味わったような面白さがある。そんな少し古風なモダニズム,そう,雪の結晶に静かな抽象美を感じるような趣きがある。モダニズムといっても,吉岡実のような触ると切れそうな危ない頽廃,前衛性,難解さはなく,明るく,清潔な透明感が漂っている。

私が好きな詩「冬のエフェメラル」を引用しておく。春に慎ましく咲く花の冬ごもりの果ての想像なのか。エフェメラルという植物名を巡ってラテン中世と大雪山系の北方イメージとを取り合わせたところがよい。

冬のはかなきものに誘われ雪の館に入る
六角形の螺旋階段を昇り
氷の回廊をめぐると
天女ケ原の舞姫が投げた
天からの手紙が舞い降りた
描かれていたのは
ウプサラの大僧正オラウス・マグヌスの
雪華のスケッチ
樹枝状六花の白い結晶
「冬のエフェメラル」 — 伊勢功治詩・柳智之画『天空の結晶』 思潮社,2010 年

伊勢功治さんは『写真の孤独』という写真批評の本も,最近,この詩画集とほぼ同時に出版なさった。読んだ妻の話だとこちらも面白いという。いつも読んでいる本とはちょっと毛色が違うので,私もぜひ。
 

天空の結晶
伊勢功治:詩
柳智之:画
思潮社

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展覧会「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い — 交錯する夢と前衛 ポンピドー・センター所蔵作品展」に行って来た。上野,東京藝術大学美術館。娘はシャガールが大好きで,この夏休みに必ず行こうと約束していたのである。お盆のためか,思った以上に空いていて,目を近づけて絵具の具合をゆっくりと丹念に確かめたりしても,周りの迷惑にならないくらいであった。

私はシャガールの 1930--40 年代の作品の暗い郷愁が好きであるが,「ロシアとロバとその他のものに」(1911 年)など革命前のキュビズム風時代の作品も魅力的であった。戦後の仕事では,彼が手がけたモーツァルト作曲・歌劇『魔笛』の舞台美術(1966--67 年)に強い印象を覚えた。タミーノやパパゲーノなど登場人物の衣装デザインや,背景幕,場面演出のスケッチの数々。こんな『魔笛』をぜひ観てみたい強い思いに駆られた。

同時に展示されていたナターリヤ・ゴンチャローワの「アレクセイ・クルチョーヌィフ『隠者たち,詩』のための挿絵版画」(1912 年),ミハイル・ラリオーノフの「タトリンの肖像」(1913 年)など,見応えのあるアヴァンギャルド絵画が多かった。
 

* * *

展覧会のあと,藝大アートプラザでスケッチブックや庄司さやかデザインによるクリアファイルなどを買い,上野広小路でハンバーガーを食い,アメ横を御徒町まで歩き,川崎に戻って娘の買い物に付き合い,お次は映画『インセプション』を観た。夢とうつつ,意識と無意識を等価に扱うところに,倒錯した面白みのある映画だった。

13,000 歩近く歩いた。疲れた。

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Ozon から書籍が纏めて送られて来た。ロシアのインターネットマガジンサイト Ozon からの発送書籍は,служба доставки(発送手続き)に付されてから 2 ヶ月程度を経てようやく手元に届く。その間にクレジットカードの引き落としがなされ,慣れないと気掛かりでしようがない。これは,ロシアの郵便事情そのもののトロさではなく,おそらく海外発送物に対する行政による禁制品チェックで時間が掛かっているものと思われる。

今回のお買い物は, Т. Г. Цявловская «Рисунки Пушкина».(Т. ツャヴロフスカヤ『プーシキンの絵』) М.:«Искусство», 1987.; О. А. Седакова «Стихи» и «Проза». в 2-х томах.(О. セダコヴァ『詩集』と『散文集』二巻本) М:«Эн Эф Кью / Ту Принт», 2001.; «Юрий Тынянов. Писатель и ученый».(『作家・学者ユーリイ・トゥイニャーノフ』) М:«Молодая Гвардия», 1966.; А. А. Зализняк «Грамматический словарь русского языка».(А. ザリズニャク『ロシア語文法辞典』) Изд. 6-е, стер. М:«АСТ-ПРЕСС», 2009.

タチヤーナ・ツャヴロフスカヤの『プーシキンの絵』は,詩人プーシキンが詩文のマニュスクリプト余白などに描いた言わば落書き絵に関する研究書である。プーシキンは 18 世紀的教養人の教育ゆえに,絵の素養もあったのである。この本を眺めていて,興味深いことに気づいた。

プーシキンは女性の足フェチだったことがつとに知られており,『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章 32--35 節に — 4 詩節も費やして —,女の足を歌った有名なくだりがある。この一連の詩の「足」は緑の草を歩む白い素足の変奏だと,私はなんの理由もなくごく自然に思い込んでいた。ルネサンス風の健康的な神話的エロスの伝統もあるのだろう。ところが,本書に掲載された「女の足」の落書きを見ると,乗馬用の靴と思しきものを履いている。この絵は直接『エヴゲーニイ・オネーギン』の詩節に関係付けられたものではないけれども,こうした「履物を付けた足」に詩人が「萌え」ていたとすると,私にはちょっと驚きなのであった。『PENTHOUSE』などの海外の成人向雑誌などで,靴だけを履いた女性のヌードをよく見かける。ああ,この趣味かと。西洋人は家屋のなかでも靴を履く習慣であるわけで,男と女が情欲に急き立てられて事に及ぶと,往々にして衣服ばかりを剥ぎ取って靴を履いたままとなる。これが一種独特のエロスの型になるというのも頷ける。プーシキンとの間に少し距離を感じた... でも,ちょっとした発見。
 

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足以外にも,プーシキンの好む「悪鬼(ベスィ)」の絵も印象的であった。
 

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オリガ・セダコヴァの二巻本の詩・散文集は,この知る人ぞ知る女流詩人の,おそらくははじめての著作集である。『野薔薇』,『トリスタンとイゾルデ』などの清らかな詩,紀行文,文学研究論文などの散文が集められている。かの高名なビザンティン文学研究者セルゲイ・アヴェリンツェフが序文を書いている。いま私は,プーシキンの『青銅の騎士』についての彼女の論文: «Медный Всадник»: композиция конфликта.(1991) 『«青銅の騎士»— 葛藤の構成』を読んでいるところである。
 

sedakova_stihi.jpg

ユーリイ・トゥイニャーノフの書籍は,彼の友人たちによる回想録とも言える文集である。ヴィクトル・シクロフスキイ,ボリス・エイヘンバウム,リディア・ギンズブルク,セルゲイ・エイゼンシテインといった錚々たる文芸学者,映画人たちの手記から成っている。1966 年,かつて禁止されていたロシア・フォルマリズムの遺産が「雪解け」のおかげで陽の目を見つつあったころの出版である。作家・文芸学者ユーリイ・トゥイニャーノフは私にとってはなによりもプーシキニストであって,ロシアの文学研究者としてもっとも尊敬するひとりである。1920 年代にすでに「構造」という概念で — структура ではなく конструкция という用語だったわけだけど — 文学作品を分析していた。しかも,実証主義的・文献学的アプローチで論を固めて行く紛う方なき「学者」なのであった。こういう点に,フランスの構造主義的文芸批評家(彼らは哲学者・文学者として名を残しても,「学者」ではない)とは一線を画するロシアの文芸学の特徴があり,60 年代以降のロートマン,イヴァノフに引き継がれる伝統がある。私はトゥイニャーノフという人に,その業績のみならず人間として興味をもっている。革命前後の大いなる文化興隆の一体現のように思っている。

アンドレイ・ザリズニャクの『ロシア語文法辞典』(2009 年第 6 版,初版 1977 年)は,ロシア語語形変化パターン辞典と言ったほうが誤解が少ない。本書は,コンピュータでロシア語を解析しようとする計算機科学者にとっても重要な文献のひとつになっており,ロシア語形態素解析ソフトウェアはほぼ間違いなく本書の語形変化パターンの恩恵を受けて開発されているのである。そういうわけで私も最新版を手元に一冊。

妻が録画してあったテレビ番組を観た。『日曜美術館・若沖特集』,『祝女』。

日曜美術館は,ナビゲータ・姜尚中のファンである妻のお気に入りである。あの声がイイのよ。一昨年,上野で『仙人掌群鶏図襖』,『旭日鳳凰図』など若沖の傑作を観て度肝を抜かれたので,若沖その人にも興味がなかったわけではないのだが,今日は義兄がちょっと出演しているというので早送りしてそこだけ観た。彼は精神科医なのに,文学,美術などの領域でも専門的意見を求められるほどの有名人なのである。

そのあと引き続き『祝女』を観る。最近,NHK もユーモアたっぷりの世相バラエティを放送するようになった。『サラリーマン NEO』や『祝女』はなかなか面白い。今回は,友近とYOUが韓流スターにハマったアラ X を演じていて,愉快だった。YOUが,はじめはバカにしていた韓流スター「無限男子」の虜になってゆく過程をリアルに,コミカルに表現していて,笑いと悲哀を感じさせてよかった。うちの息子は「これだから中年オバサンはキモい」と酷薄である。「あたしが韓流にハマって追っかけをはじめたらどうする?」と妻。「うーん,じゃあお父さんはマン流にでもハメる,いやハマるかな」。鉄拳が飛んで来た。下品なオヤジですみません。

* * *

今日は,神奈川県立高校入学試験 2 日目。面接である。娘は早めに学校に行った。何度も練習をした甲斐があってか,卒なく応じられたらしい。昨日の小論文のとき,娘の前と横の席にいた男子 3 人組 — 「ユーフォー」と呼ばれる男子,五角形,すなわちゴカクの「合格鉛筆」と「合格消しゴム」を机から落としてしまい「合格鉛筆も消しゴムも落ちちゃしょうがねぇ」とうるさい男子,そして,やたらと緊張して思い出したように頭を抱えて「あああ」と繰り返す男子から成る 3 人組 — が,受験番号が近いからか,今日も娘と同じグループ枠にいて,待ち時間にコントまがいの会話をやっていたらしい。

本番で「将来の夢はなんですか」と予想どおりの質問が出た。練習のとき,私は娘に提言してあった — 挿絵画家になりたい,という受答えは正直なところでよいけど,「じゃあ好きな作家はいますか」と突っ込みが絶対次に来るので,ちゃんと画家の名前を挙げて具体的に話ができるようにしといたほうがいいよ,と。今日,やっぱり「どんな挿絵画家になりたいか」と面接官が踏み込んで来た。「『ふたりはともだち』という絵本で見たアーノルド・ローベルのような,動物をユーモラスに表現する画家です」のようなことを娘は言ったらしい。な,お父さんの言ったとおりだろ?

一応試験が終わったので,夕方,妻と娘は近所のカラオケ屋に憂さを晴らしに行った。その間に私が煮込んだカレーは,旨かった。

Ozon から本が届いた。«Библія, сирѣчь книги Священнаго Писанія Ветхаго и Новаго Завѣта на церковнославянскомъ языкѣ съ параллельными мѣстами, СПб.: Синод. типогр., 1900»— 教会スラヴ語訳旧約・新約聖書,Сѷнодальнаѧ Тѷпографїѧ シノダーリナヤ・ティポグラーフィヤ(ロシア宗務院印刷所)による 1900 年刊行本の復刻版(Российское Библейское Общество, М. 2005. ロシア聖書協会,モスクワ,2005 年刊)である。教会スラヴ語関連の学術文献目録の筆頭にしるされるべき権威ある版である。長らく探し回ってやっとの思いで手に入れた古書。768.6 ルーブリ,日本円にして 約 2,400 円也。

正教会の八端十字架がカバーに押されている。クラシックな教会スラヴ語文字による二段組み。総 1,660 頁のノンブルはすべて教会スラヴ語の数様式で振られている(アラビア数字のない教会スラヴ語文献では,例えば 2009 を "oldchurchslavonic numeric style 2009" と表現する。ローマ数字で 2009 を "MMIX" と表現するのと同様である)。惚れ惚れしてしまう美しい版である。洋書は紙質に対しておよそ拘りがないけれども,本書には,日本の辞書で用いられるような薄く,かつ勁い上製紙が用いられている。装丁も皮クロスで立派である。聖書だけは別格らしい。私の所有している現代ロシア語訳新約聖書,ギリシア語コイネー原典新約聖書も,同じ上製紙が使われていた。

教会スラヴ語訳聖書カバー・扉・ヨハネ黙示録冒頭

教会スラヴ語訳旧約・新約聖書は,本国ロシアの Ozon でも本当にめったに売りに出ないので,私は今回の掘り出し物が嬉しくて堪らない。入手してすぐ,奥村先生著『改訂第4版 LaTeX2e 美文書作成入門』の多言語の章において Babel 組版例にあげられている『ヨハネ福音書』の冒頭(J 章, p. 357)に相当する本文を,この教会スラヴ語訳聖書からの引用により,拙作教会スラヴ語 LaTeX パッケージ OldSlav で組んでみた。実際は節番号が教会スラヴ語様式でしるされ,引照(聖書中の語句のクロスリファレンス)が付加されているが,これらは省略した。

ヨハネ福音書冒頭LaTeX組版
ヨハネ福音書 1.1--1.10 教会スラヴ語訳 LaTeX 組版
ヨハネ福音書冒頭(書籍の該当部分)
ヨハネ福音書 1.1--1.7 教会スラヴ語訳 書籍の該当部分(節番号付)

LaTeX 原稿は以下のとおり。これは OldSlav SlavTeX オリジナル記法でコーディングしているので,このままではコンパイルできず,拙作 Utf82TeX で変換する必要がある。ulatex evangelie_ioanna.tex でコンパイル,PDF 生成を行った。いちおう,LaTeX ファイル: evangelie_ioanna.tex組版結果 pdf: evangelie_ioanna.pdf もリンクしておく。

% -*- coding: utf-8; -*-
% ヨハネ福音書より 1.1--1.10
% ЕѴА'НГЕЛїЕ Ѿ ІѠА'ННА.
%                2009 (c) isao yasuda, All Rights Reserved.
\documentclass[11pt,b5paper]{jsarticle}
\usepackage[dvips]{color}
\usepackage[T2A,T1]{fontenc}
\usepackage[oldchurchslavonic]{babel}
\pagestyle{empty}
\renewcommand{\baselinestretch}{0,8}
\begin{document}
\selectlanguage{oldchurchslavonic}%
\parindent=0pt\relax%
%<utf82tex_s>
\begin{minipage}[t]{70mm}%
  \hfil{\color{red}^ЕV'АНГЕЛIЕ Q ^IW'АННА.}\hfil\par
  \vspace{0.5em}%
  Въ нач'алэ б`э сл'ово, ^и сл'ово б`э къ б_гу, ^и б_гъ б`э сл'ово.
  С'ей б`э ^искон`и къ б_гу:
  вс^я т'эмъ б'ыша, ^и без\ъ нег`w ничт'оже б'ысть, "eже б'ысть.
  Въ т'омъ жив'отъ б`э, ^и жив'отъ б`э св'этъ челов'экwмъ:
  ^и св'этъ во тм`э св'этится, ^и тм`а >eг`w не >wб\ъ'ятъ.
  Б'ысть челов'экъ п'осланъ q б_га, "имя >eм`у ^iw'аннъ:
  с'ей прi'иде во свид'этелство, да свид'этелствуетъ ^w св'этэ, 
  да вс`и в'эру "имутъ >eм`у.
  Не б`э т'ой св'этъ, но да свид'этелствуетъ ^w св'етэ:
  б`э св'этъ "истинный, "иже просвэщ'аетъ вс'якаго челов'эка 
  гряд'ущаго въ м'iръ:
  въ м'iрэ б`э, ^и м'iръ т'эмъ б'ысть, ^и м'iръ >eг`w не позн`а:
%</utf82tex_s>
\end{minipage}
\end{document}

蘭,都市の一隅

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妻が会社から蘭の花を一輪,というか一首もって帰宅した。そんなのを手に通勤電車に乗るなんて,傍目からみるとシュールじゃね?なんて。冷たい仄かな紅。

090702ran.jpg

* * *

会社の帰り,本屋に寄ろうと川崎駅で下車。量販店 DICE の入り口で煙草を吹かしていると,道路沿いにある保管庫かなにかのステンレス面に眼が留まった。長年の風雨やら排気ガスやらによる汚れが,独特のタッチの水墨画のように見えた。なかなか見応え(?)があったので携帯デジカメで一枚。ちょっと幻想的。

suibokuga.jpg

Moon Calendar

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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