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金正日死去その2

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金総書記は公務の途中,移動列車の車上で突然死したという。自由主義国では彼は何かにつけ戯画化されて来たわけで,知人のなかには「移動列車上で? 悦組の腹の上なんじゃないの? 突然死だなんてそれ以外考えられない!」なんて口性ないことを言うのもいた。地獄に下ったキムジョンイル・ジョークがこれから量産されること間違いなし!

 さて,キム総書記は死んですぐ,閻魔大王の前に立った。
 キム将軍:「キミかね。閻魔大王というのは。ん? ここから途が二手に分かれているな。一つは強盛大国聖地ペクトサン,もう一つは極楽浄土に繋がっているのかな? ワタシはもう神になったので,この際,極楽浄土に行くのが相応しい。どっちだ? 言え! ところで,あの二人は誰だい?」
 閻魔大王:「その通り,察しがいいね。一つは地獄への,もう一つは天国への途だ。そして,あの二人は左に立っているのが同志スターリン,右は聖ヨハネだ。二人のうち一方は必ず嘘を吐く。もう他方は必ず真実をお前に伝えてくれる。彼らは途がどちらに通じているかを知っている。どちらに行けばよいか彼らに聞くがよい。ただし,質問はイエスかノーかで答えられるものを,二人のうちのどちらかに1回限りだ。そして,二人のうちどちらが嘘吐きかは国家機密だ。わかるよな。さあ,行け」

姿からスターリン,聖ヨハネはすぐ見分けが付いた。まさか自分が瀬戸際に立たされるとは思ってもみなかった将軍様は,ビール腹を叩きながら思案した。これまで頭ではなく腹で考えて来たのだ。さてさて,その後キムさんはどうしたでしょうか?

これ,「ケネディの問題」という有名な論理学ジョーク問題を,私が焼き直したものである。元々は,死んだ J. F. ケネディが天国に行くためにヒトラーとチャーチルのどちらにどういう質問をするか悩む話である。野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公文庫,1976 年)に掲載されていた。回答はそのへんに転がっているだろうから,ここではしるしません。

北朝鮮看板アナ,姿消す 国営テレビから50日以上」なるニュース。キム・ジョンウンお披露目のニュースで「キムジョンウン」の部分を,これ見よがしに心を籠めて彼女が発音しているのを目にしてからこのかた,なんか見ないなぁと私は心配していたんだけど,とうとう騒ぎになりはじめました。あの威圧的で芝居がかった強い口調の扇動的アナウンス,偽善的ニコニコぶりあるいは洗脳的コワモテぶりで,じつは私はこのオバさんの隠れファンだったのに。リ・チュンヒという名前だというのをこの雲隠れニュースではじめて知ったんである。粛正でもされちゃったのか。YouTube で見つけたお宝映像をここにもエンベッドしておきます。何を言っているのかサッパリわからないのだが,フムフムと見入ってしまいます。

じつは,私にはもう一人,そのお方の隠れファンだといってよい,謎のドンビキ美女がいる。中国外務省報道官・姜瑜さんであります。あのウムを言わせぬ薄ら笑いをみるとぞっとするんである。心の臓を射られたように「は,はい」って感じになるわけであります。最近,スポーツ番組(と『相棒』と『深夜食堂』)以外テレビをあんまり視聴しないからか,この人の姿も目にしていない。去年,中国漁船が尖閣諸島海域を侵犯し海上保安庁の巡視船に体当たりした事件について,「日本が引き起こした重大な事態に対し,日本はすべての責任を負わなければならない」なんて,いけしゃあしゃあと,薄ら笑い半分,鬼の形相半分の,背筋が寒くなるぞっとする顔で発言しているのを目にして以来,ない。寂しい。

日本の官邸も,リ・チュンヒさんや姜瑜さんみたいな,ドンビキさせる気味の悪いコワモテ美人の広報官を採用してはどうか。切に願う。いまのように官房長官なんかにしゃべらせていては何のインパクトもない。蓮舫さんみたいな人? フツーの美人だからダメ。おまけに余計なことをしゃべり過ぎる。そうだなー,家政婦のミタみたいな,ニコリともしない無口のロボットタイプがいいな。ジャパニーズ・スマイル封印で,答えたくない質問は平気で無視し(質問にきちんと答えないのは広報官の重要な資質であるから),怒らせたら刃物が出て来そうなの。「ショウチシマシタ」じゃなくて「キョウトギテイショエンチョウニハ,ワガクニハダンジテオウジマセン。ソレガナニカ? デハツギノカタ」てな感じや(なんだかんだでテレビ見過ぎ)。日本にもそろそろ本気モードの組織的劇場政治が必要である。

サッカー北朝鮮戦。日本はあっけなく負けてしまった。残念ながら仕事の都合でテレビ観戦できなかった。本田も香川も遠藤も川島もいない布陣では,いくらランキングに大差があるといえども,ダメだったようである。五万の画一的な敵国群集に呑まれたのか。試合そのものを観てないので,ただ残念という感じ。

でも,最終予選進出という結果を出したのだし,あくまで W 杯で活躍することが最終目標なのだから,その過程でこういう悔しい思いをすることもある。じつはいちばん心配された選手のケガはなかったようだし(北朝鮮の選手は日本戦に敗れるとタダではすまされないので文字通り命を賭けている。日本が先制なんてしちゃったりなんかしたら,念力でも眼力でも腕力でも敵をつぶしにかかる。スポーツが国威発揚の道具になっているガサツ国家の常道である),また出直せばよい。がんばれ日本,なんである。

11.16 付記:
日本が超格下の北朝鮮に敗れたと思ったら,韓国もアウェイでレバノンに敗退。何やってんだよ。アジアの強豪なんだから最終予選に必ず進んでもらわないと困るんである。アジア予選のアウェイの恐ろしさ。
 

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森茉莉の『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』(ちくま文庫,1994 年)を読む。本書は,1903 年生まれの女流作家による 1979 〜1985 年の芸能エッセイである。森茉莉は,「あの」大作家・森鷗外の長女であり,... と,ま,こういう「親の七光り」的紋切型が必ず付いて回る不幸な作家である。そして結論から言ってしまえば,本書はその不幸がよくわかる本である。「これがあの森鷗外大先生の娘さん,— いやもう婆さんなんだけど,— の本?」てなもんや。

この本の面白さは皮膚感覚に基づく悪口にある。ここまで己の好き嫌いを徹底し,歯に衣着せず芸能人の悪口を堂々と書く人がいるものだろうか,という驚きだけがじつに新鮮なのである。つまるところ「あいつの顔がキライ」ということを何百頁も滔々と書くことの出来るスゴさ。

本書はきわめて「難解」な本である。何を言っているのか私は一行も理解できなかった。いや,述べられている俳優,芸人,歌手がどうも誉められている,貶されているというのだけはわかるのだけれども,でもどうして?,そういう評が何を(例えば,近年の舞台演劇の特徴とか)意味しているの?,何のために(例えば,時代劇にこれこれの要素はそれ自体の質的低下を招くことを示したいため,とか)その評が必要なの?,などといった要素がまったく示されず,ただ誉められている,貶されているだけだからである。読みを総合しようとする意志がことごとく裏切られるからである。森茉莉の「皮膚感覚」というしかないんである。要するに「あいつの顔がキライ」という生理の叙述なのである。

 タモリが私との対談を望んでいるそうだ。多分,私の年を知っているからだろう。いかに彼が臆面なしでも私が出たばかりの若くて綺麗な小説家(女)だったら,あれだけ気持ちの悪い顔だと書かれていれば,私の前に出て来る勇気があるわけない。タモリの顔が何故気持ち悪いかについてこの際明確書いておく。人間は誰でも顔の皮膚の下に皮下脂肪があるが,タモリの顔の皮下脂肪はひどく黄色くて,普通の人間の皮下脂肪を練りに練って詰めたようなところがある。顔の皮はかなり厚いのにも係らず,その練った皮下脂肪がよく透き徹って見えるのだ。なんともいえぬ感じなので私は,彼の顔が画面に出るや,スイッチを切り換える。
森茉莉『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』ちくま文庫,1994 年,p. 167。

これが小説のような芸術的散文ではなく評論文のような何かを相手に理解させたいテクストであると仮定する場合,こんな難解な文章を私は読んだことがない。何を何のために書いているのか,どうしてそんなことが言えるのか,皆目わからない。そして,昔の作家の特徴である長大なパラグラフが,そうした共有困難な感覚的「エクリチュール」(フランス文学者の好きな,わけのわからない,和臭ぷんぷんの言葉を使わせていただきますが)で満たされているんである。小説テクストと認知できるならばこの言説は「練った皮下脂肪」を「醜い顔」に結びつけることで顔の身体感覚表現ともいうべき印象を「創造する」エクリチュールになるんだろうけれども,ここではタモリという現実的表象が先に出て,書き手の「皮膚感覚」しかインプットされない。強いてここに価値感情のエクリチュールを見出そうとすると,「じつはアンタ,タモリが好きなのね」,ということになるのである。このように「醜い」が「じつは美しい」に化学反応を起こしてくれないと,「文学」じゃねぇよな,と。でも,この文章からでは,それも無理がある。

モリマリさんの評言は徹頭徹尾この調子である。これを「毒舌」という人があるかも知れない。違う。毒舌とは皆が薄々思っていることをぐさりと言うことの謂いである。モリマリさんの悪口は皆どころか彼女だけの皮膚感覚的空想なのだ。気持ちいいくらいである。も一つ行ってみよう。

 チェリッシュの二人は,白石かずことの対談でも言い,かずこも「そうね」と言ったし,前にも一度書いたと思うが,いくら男は柔しいのがよくて,女は可哀いのがいいと言ったって,チェリッシュの男のいやな柔しさと,女の方のいやな可哀らしさは,なんともかんともいえない,いやさである。
同書,p. 300。

これがテクストの全部である。チェリッシュは,ご存知の方もおられようが,男女二人組の歌手である。ま,歌手だって声の技以外に「見た目」も大切なんだけど,ここではその藝については一言も触れられず,理由のよくわからない「柔しさ」とか「可哀らしさ」が出て来たり,またなんで「いやな」それなのかも何も提示がない。これを読んで「なるほどわかった」という人がいたら,スゴい。私には前衛現代詩のように難解である。いや,エクリチュールとして読みとれることが一つある。「白石かずこも私のような人なのよ」ということである。つまり,ここで化学反応の結果出て来るのは,じつは「白石かずこもどうも理解を超えた人である」ということなんである。こういう悪口の書き方もあるのか!

解説者のお説を聞いてみよう。編者の中野翠氏によるものである。『たしかな好悪の精神』とのタイトル。「たしかな」ってどういう意味だったっけ? 上記のような前衛的難解さの謂いだったのだろうか。これもよくわかりません。「好悪」はまさに「皮膚感覚」ということなんだろう。中野翠氏曰く:

 また,当時の大平正芳首相をけなすのに,
「権勢の保持と利慾にしか頭が働かない人物で,顔と来たら又,農家のおやじで,(今夜は地主どんの家で酒と馳走が出るが,あまり早く行っても物欲しそうじゃから一寸遅れて行こうわい)と言って出かける感じだ」— と,こうである。私自身は大平氏の器量に関していささか違った印象を持っているが,このくだりは,何度読んでも笑ってしまう。異論はあっても,この「悪態の芸術的完成度」には唸ってしまうのだ。
同書,p. 372。

やはり前衛がわかる人らしい。「芸術的完成度」って何でもって計量しているのだろうか。突飛な空想が面白いということらしいが,現実に存在している人間を捉まえて為したこんな空想的な物語のどこに「芸術」があるというのか。フィクションで「その感じ」の化学反応を読者にまざまざと起こさせるのが芸術ではないのか。私には週刊誌的低俗(有名人に対して空想を逞しゅうするのは低俗週刊誌のエクリチュールである)としか思われない大平正芳・人物像物語を,中野氏は何故に「芸術」と勘違いできるのか。ま,「戯画」も芸術の一つではあるが,われわれの「大平正芳」の表象に一致しているのが絵のキャプションにある「大平正芳」という文字列に過ぎないとしたら,それは「戯画」だろうか? 中野氏は,私には理解不能の難解な文学がわかる,すばらしい読み手である。

私には本書はその難解ゆえにこそいたく面白かった。週刊誌のゴシップを読む感じで面白かった。そしてこれを「芸術」だと評する文学の専門家がいることが,さらにいたく面白かった。つまり「皮膚感覚」を臆面なく書き散らすことのできる個性と,「芸術」精神とに心底驚かされたのである。私なんかにはこんな難解な文章は「恥ずかしくて」とても書けないんだけど,森茉莉はどうしてそれをできるのか。そこが本書のスゴさである。ちょっと,容姿衰えた大年増女優が映画で大胆なヌードを披露してくれたときに覚えるような,「これ,どう受けとめたらイイの?」的驚き・わからなさ・前衛性がある。そう,最近の流行言葉で言えば,「ドンビキ」してしまうくらいの。

「これがあの森鷗外大先生の娘さん,— いやもう婆さんなんだけど,— の本?」— といま再び考えて,理解出来た。本書は『週刊新潮』に連載されたエッセイである。あの森鷗外大先生のおフランス至上主義的令嬢 — いやもう婆さんなんだけど — がなんといかがわしい週刊誌にお書きになったらしいざぁますよ。これが『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』のエクリチュールである。「低俗」もバックにある「権威」によって「芸術」に反転することがあるというエクリチュール。も一つ,私のホンネとして言うと,これこそ文化人の「老い」がもたらす臆面のなさだと思う。老人が死ぬ前に,他人のことを思いやることなく,いっぺん思いを吐き出しておきたい,ということだろうと。老人とはそもそも短気で身勝手でわがままではないか(「老いて悠々たり」なんてウソである)。自分の感覚が世界の抱く表象だと思って疑うことがない。

森茉莉は沢田研二,萩原健一,桃井かおりがお気に入りだったようである。忍者ハットリ君のファンでもあったらしい。私も映画のなかのこの三人の味が好きである。ジュリー,ショーケンと来りゃ,松田優作についても是非モリマリさんの皮膚感覚の前衛評が聞きたかったところである。パンと牛乳を飲み食いしながら女と性交できる,松田優作のあのぶっとんだ芸風が私は大好きなんである(「なんじゃこりゃー」ではなくて)。お,これこそ森茉莉風・松田優作評か。

P.S.
言わずともお察しだと思うが,だから私は森茉莉の『ドッキリチャンネル』が好きなのである。この人,元祖ブロガーと言ってもよい。まったく根拠無しに好き勝手なことが言えるブロガー。私自身,大いに親近感を覚えるんである(とてもモリマリさんには適わないけれども)。でも,これで彼女は金を出版社から受け取っていたわけだ。と,むずむずと怒りが込み上げて来るのは私だけか。
 

はやく人間になりたい!

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今日会社から早めに家に帰ると,子供たちがテレビを観ていた。『妖怪人間ベム』がいま実写で放映されているんである。私は,小学校に上がるか上がらないかの幼いころ,この元になったアニメを恐怖に駆られながら毎回観ていたものである。

アニメ『妖怪人間ベム』のテーマは明らかに「差別とは何か」であった。見た目に妖怪であろうが何であろうが,正しいことをするものを弾圧してよいものか。妖怪ベム・ベラ・ベロは人間以上に人間らしい心で困っている人たちを助けて,彼らから感謝される。ところが妖怪であることが判明した瞬間に,掌を返すように人間たちから疎外されてしまう。この不当な永遠の壁はいったい何か。子供心にもこの問題論はハッキリと認識できたのである。「はやく人間になりたい!」という意味が — 人間こそが人間らしくないというアイロニーとして — 切実に理解できたのである。『妖怪人間ベム』はそんな硬派のアニメであった。『ウルトラセブン』もそうだったが,1960 年代末の子供向け空想ドラマには,いま観るとドキリとする批判精神があった。いまの子供は『お坊ちゃまくん』などのレベルの低い下ネタものに晒されていて可哀相になる。

実写版では,ハゲだったはずのベムがイケメン男子(KAT-TUN の亀梨くん)になっていた。それよりも何よりも,ベラを演じているのがなんと杏。アニメのベラは,「夜の女王のアリア」を歌い出しそうな,面妖なアネゴだったのに。こんな美貌の妖怪ならフツーの人間よりもウェルカムぢや。これじゃ,「はやく妖怪になりたい!」てなもんや。

と,テレビを観ながら物理を勉強していたウチのバカ娘が「お父さん,いいでしょ!」とマトリョーシカを手に持っている。同じ高校の仲良しの女の子がアルメニアの土産に買って来てくれたんだそうである。アルメニアは昔ソ連の一部だったのでロシアの文物も豊富である。「いいねぇ,フェースブックに載せて上げよう」とデジカメで写真を撮った。オヤジは内心,マトリョーシカも好いけどな,アルメニア土産なら絶品のコニャック『アララート』がよかったな,などと独り言。アララートは,そう,ノアの箱舟が洪水を乗り切って到着した山である。アルメニアの地なんである。

娘のその友人は母親がアルメニア人である。アルメニアといえば,グルジアとともに,コーカサスくんだりの美人産出地域である(残念ながら,アルメニアとグルジアは昔から熾烈な民族紛争を繰り広げている)。さぞ美人なんだろうなと,娘に言うと曰く「うん,お母さんの昔の写真見せてもらったけど,すごい美人」。友人家族は親戚の結婚式のためにしばらくアルメニアに里帰りをしていたそうである。友人の女の子は当然一週間ばかり学校をお休み。今週から娘の学校は試験がはじまる。そういう大事な時期でも家族のイベントをより大切にするのは,日本では忘れ去られているのではないだろうか。アルメニアの人たちは日本人よりも家族を大切にしているんだろうな。一族のイベントよりも試験なんかを重要視する日本人の価値観には,行く先の不幸が見える,というものだろう。
 

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プーチン再来

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先日のニュースで,ロシアの次期大統領にプーチン現首相が事実上再選されるとの報道があった。

プーチンは親中国派との評判がある。よって,最近,尖閣諸島問題,空母等の軍拡を巡って日本にとって現実的脅威になってしまった中国に対し,いよいよロシアが肩入れするのではないか,つまりプーチンの復活は日本にとってよくない,という人がいる。私はそうは思わない。北方領土問題にしてもかつてのプーチン大統領は,メドヴェージェフみたいな強行・嫌がらせ一点張りの対日外交ではなく,きちんと日本の主張に耳を傾ける度量があった。そしてプーチンは地政学を重視する帝国主義者,裏の裏を知り尽くした諜報の元プロであるからして,ロシアにとっても脅威になりつつある中国を牽制するために,メドヴェージェフ以上に巧みに日本を利用するはずで,その戦略として日本に甘い汁も吸わせなくちゃと考えるはずである。ま,「出る杭は打たれる」なんて堂々と宣う — つまり,典型的島国根性の集団主義にどっぷり浸かった — わが国のドジョウ宰相には,まずこの古狸には太刀打ちできないだろう。利用されるばかりで,甘い汁は吸わせてもらえない可能性が高い。

もうひとつ,私のプーチン期待を支える重要な指標がある。ロシアの権力トップは,レーニン以来,ハゲとフサフサが交代するという面白い暗合がある。それはプーチン再来でまたもや踏襲される。レーニン(ハゲ),スターリン(フサフサ),フルシチョフ(ハゲ),ブレジネフ(フサフサ),チェルネンコ(ハゲ),アンドロポフ(フサフサ),ゴルバチョフ(ハゲ),エリツィン(フサフサ),プーチン(ハゲ),メドヴェージェフ(フサフサ),プーチン(やっぱりハゲ)。そして,ハゲが権力者のとき,日本とロシアの関係が改善されているという歴史的円環がある。日ソ共同宣言(フルシチョフ=ハゲ),冷戦終結(ゴルバチョフ=ハゲ)。フサフサのときはロクなことがないという印象もある。スターリンの対日参戦はその筆頭である。かくして,プーチンの大統領再任で日露関係はよい方向に進むというのが私の確信である。もちろん冗談である。もとより日本は外交無能なのであるからして。

野崎昭弘『詭弁論理学』

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月末の今日,定時になってから勤務届け等の事務処理をした。メーカー勤務なので作業票という作業実績記録も締めなくてはならなかった。メーカーでは普通,開発/製造作業の契約単位で管理番号を振ってその費目に原価を計上して収支の管理を行う。作業員は当該契約にかかわる仕事をした分だけ作業時間を作業票に記録し — これを「投入」と呼ぶ — 原価管理を行うのである。税務署もこの記録から申告が健全かどうかをチェックする。「契約納期は三末なのに作業票が何で四月にも投入されてんの? この契約,赤字だね。ん,アンタんとこ前年度苦しかったから今年度に原価ずらしたんじゃねぇの? これ,立派な税法違反だよ!」てな具合に経理部は国税に虐められるんである。作業票は当然勤務時間と整合が取れていなくてはならない。月末はそれを締めなくてはならず,私のような管理者は部下の作業票をもチェックして,変化する原価状況を把握しなくてはならない。

このブログでは私は,意識的に,仕事については触れないようにしている。ここだけの話,2011 年度下期,つまり 10 月 1 日から私は別のプロジェクトを取纏めなければならなくなった。要するに仕事が変るわけである。来期,四年レンタルで百億の官庁入札案件を抱える新プロジェクトは責任重大。久しぶりに大きな官庁の国家公務員とお付き合いするのかと思うと,少々緊張しているところなんである。だからこれまでの仕事も終わり,事務処理も完了したところで,ヒマこいた私はちょっと Web を見た。もう勤務届けを締めたのでここからは遊び。ホントは,業務にかかわりのないサイトを会社の PC で閲覧するのは禁止されているのだけれども,ま,管理職の私だって,常識の範囲ならと少しくらい社規を逸脱することはある。

Yahoo! のニュースを見てしまう。AFC チャンピオンズ・リーグ,全北現代 VS セレッソ大阪の試合で,韓国のサポータが「日本の大地震をお祝います」なる垂幕を掲げた。それが大いに騒がれている。全北現代サイドがこの行為をしたサポータを特定して法的対応を検討中とのニュース。この問題はサッカーファンなら知らないものがないと思うが,私はここまで騒がれるとは思っていなかった。ま,「バカは世界中のどの国にもいる」からである。そんなことでいちいち目くじら立てていたら市民生活は送られない。でも,震災をネタにしやがったこの悪意ある行為は,さすがに日本人の琴線に触れたようである(私の琴線には触れなかった。ただのバカが何をやらかそうがどうでもよいからだ。バカ同士,お互い,袋叩きでもやり合えばよい,くらいの受け止めだったのである)。そして韓国の普通の人たちはというと,「国の恥」だと考えたようである。これに関してまた別のニュース。今日になってこの愚かなサポータが全北現代に名乗り出て日本国民と韓国サッカーファンに謝罪したそうである。これはこれで潔い。なら,いいじゃないか。

この Yahoo! ニュースについたコメントに「だから韓国人は卑劣なんだ」みたいなのがあった。ベガルタ仙台の外国人選手に対して差別的ヤジを飛ばしたガンバ大阪日本人サポータは,じゃなんなんだ? こいつらが名乗り出て謝罪したという話は聞かない。この Yahoo! コメンタ・タイプの,論理学を超越した完全バカが多いのが,日本のネット住民の特徴である。人の不幸を喜ぶ者は卑劣である。韓国人は震災の被災者を侮辱する示威行為をした。ゆえに韓国人は卑劣である。この手のものすごい帰納法がまかり通り,便所の落書きのように書き散らされ,しかも「そう思う」の大量クリックを獲得しているのである。中国の話題についてもこれとまったく同じ。「だから中国人は民度が低い」だと。それゆえにネット・ニュースを見ていると世の中にはホントくだらない,疲れさせられるろくでなしが多いと思ってしまう。

仕事で顧客にどやされ,部下のヘマに気が狂いそうになり,私自身の管理不良で数千万の赤字を出し,社内外から締め付けを食らっても,仕事はやっぱりそれなりに面白い。知らないところで起きる事件についてあれこれ書き立てているネット・ニュースの抽象性に比べれば,仕事は「あのお客さん,オレに消えて欲しいと思っているようだな」みたいな強烈な感覚を味わうことができる現実なんだ,と私は安心してしまうんである。それでも先行きの重い仕事を想像していろいろと不安になることもある。

今日も帰りは霞ヶ関から新橋まで歩いた。健康のためというのもあるが,やはりラッシュの混雑から少しでも逃げ出したいという気分もある。それにしてもだな。歩きながら思い出す。Yahoo! ニュース,そのコメンタのバカぶりに疲れさせられながらも,やっぱり懲りもせず見ていたら,人権侵害救済法案,外国人参政権が可決されそうな情勢にグダグダ管を巻くコメントなども見せつけられた。「スパイ防止法がない日本は亡国の途を行く」などという,これらの法案となんの関係があるのかと思わせるようなものもあった。自分の身の周りのことをもっと心配したらどうかね。アンタ,自分の生活の周りの親戚・友人のなかに人権侵害救済法や外国人参政権のために苦しむ人が出て来そうかね? アンタの周りで「スパイ行為」とやらを目にしたのかね? 私はこういう,仕事をせず昼間からパソコンの前で平和な無為に耽りながら,常に「非常事態モード」でしか物事を見ない人,気に入らない人間を「売国奴」呼ばわりすることしかできない人(これが私の Yahoo!「ネット『右翼』」の代表的イメージである)が,ホント,哀れである。アンタの望み通りスパイ防止法とやらができたら,アンタらの英雄 sengoku38 みたいな奴が真っ先に塀の向こう側に送られるってことがなんでわからないの? 自分自身,自分の周辺で起こっている「日常」における,アンタの本当の悩みはいったい何かね? ところで,「世の中の人間は売国奴かそうでないかの二種類である」という発想は,論理学においては「二分法」という。幼児的世界観の特徴である —「イイモン」or「ワルモン」。わかりやすいというわけである。

どうしてこんなに仕事が見つからないのか。どうして仕事をする前に通勤ラッシュで身を削らなくちゃいけないのか。通勤ラッシュをなくせないか,和らげられないか,お年寄りや身体障害者でも通勤時間にラクに電車に乗れるようにできないか。そんな — つまらないかも知れないが — もっと身近な問題に目を向けられない「政治的」バカがこの国には何でこうも多いのか,とそんなことを反芻しながら歩いた。スパイ防止法制定を急げ,だって? そんな「非常事態」については公安警察官,自衛官,外務官僚などの公務員が考えることであって,われわれパンピーはわれわれの「日常」の悩みを国に訴えるべきではないか。われわれの生活が「非常事態」に晒されないように,彼ら公務員の活動を叱咤激励することのほうが大事ではないか?

とまあ,バカなことを考えながら,新橋三丁目の交差点で信号待ちをしていた。と,そこで「おい,小池!」という大声がした。振返ると,警官が走り寄って来て,私のスーツの袖をつかんで「小池だな,交番まで来い」と迫る。「えっ,またかよ!」と既視感に囚われ,私はその気もないにもかかわらず,彼を振り払って逃げ出していた。昔,十年以上前,主任だったころ,実務能力の高い二人の現場公務員を接待して豪遊させたことはある。彼らに新宿ニューアートのストリップを観せ,歌舞伎町のキャバレーで女を抱かせ触らせ浴びるくらい呑ませ,そのあとお持ち帰りもさせてやった。ハラの痛まないカネで。たしかに今なら公務員倫理法違反だ。でも,オレは小池じゃねぇ! 人殺しはやったことはねぇぞ! 石川知裕衆議院議員有罪判決のさっき見た Yahoo! ニュースを思い出していた。そうだ,この国では根も葉もないことで人が逮捕され,しかも検察の言いなりの無責任裁判官に有罪を宣告されることがある。調書にこう書いてあり被告のハンコも押されている。よって有罪!? — 前提に従う推論としては正しくても前提そのものが誤りの場合がある,とは論理学の教えるところ。この裁判官,名前は,そう,東京地裁・登石郁朗さん,だったかな,覚えておいたほうがよさそうだ。オレも同じように殺人犯に仕立て上げられるのか? ってわけで私は逃げ出していたのだ。

烏森神社入り口にある立呑屋に逃げ込んだ。やっぱり既視感があった。コユキがハイボールを差し出してくれた。角瓶ではなくトリスのハイボール。「赤ちゃんが生まれますので,もうこれっきりです。だから今日はサービスでタダにしますね」とコユキ暢気である。私はあんまり彼女の言うことを聞いていなかった。彼女の前の俎に,丸善で頸動脈を切られて殺されたあの若い女の血みどろの生首と,檸檬とが置いてあったのだ。ああ,このコはあの老害・中年女にいまや四肢からも切り離されて... 可哀相に... と,彼女の頸を掻き切った張本人である中年女が,ドギツイ若作りをして端の席で,— 立呑屋なのに — ロマネ・コンティのヴィンテージ・ワインを旨そうに飲んでいやがる。そして私のほうに目を向けて「煙草はご遠慮していただけます? ここには妊婦さんもいらっしゃるんですから」と説教をした。「ここはヤベェ」と私は千円札を血みどろ生首女の口にねじ込んで,店を抜け出た。

ニュー新橋ビルに逃げ込む。このビルはちょっと変った形をしていて,新橋駅前の目立つ建物になっている。昔,そごうデパートだったところだ。デパートが潰れ,いまや雑居商店ビルになっている。古めかしい。階段にその薄汚さがよく顕われている。電車男御用達のような鉄道マニヤの店あり,昭和四十年代かと思わせる古色蒼然とした喫茶店あり,安チケットショップあり,古銭ショップありで,なかなか昭和の風情のあるビルなんだけど,テナントの半分はシャッターが降りていて寂れ感がひどい。四階以上のフロアは雀荘ばかりなんである。「健全な麻雀を心がけています」という貼紙がビルの外側から見えたな。「健全」って何? 賭けではなくゲームを純粋に楽しむってことか? それとも,金銭的スリルのない不健康なバクチはやりませんってことか? 気が付くと私は,その昭和な雀荘のうちのひとつに逃げ込んでいた。なぜかすでに雀卓を囲んでいた。対面に袴田吉彦が座っていた。聞いてもいないのに「カイ,と呼ばれています」と自己紹介。そのとなりには元プロレスラーの高田延彦。「土偏に鬼と書いて塊だ」とひとこと。下家には — 思った通り — 下元史朗が座っていて,「にいさん,レートは2の2・6の十万ビンタでいいか?」と凄んでいた。私はそこにも長居はしなかった。東風戦一局目の第一打で私が九ピンを切ったら,塊が「御無礼!」と言ったのだ。私は一枚目の捨て牌で国士無双,しかも人和を放銃してしまったのである。塊がひとこと:「それがいまのアナタの『流れ』です」。呆れてモノが言えなかった。ここにも論理学を超越した人たちがいることに。塊に 60 万円,高田と下元にそれぞれ 11 万円を即金で支払って,入って 5 分もしないうちにその雀荘を出た。どこからカネが出て来たんだ? バクチは現行犯じゃなければ逮捕されないはずだったっけ? いかん,逃げなくちゃ。新橋駅から横須賀線に乗った。

ふっと気付いたら目の前に数式があった。

 数学的な例では,次のような式がよく知られている。[ ... ]
   y=x2+x+41
 簡単な計算でわかるように,
   x=0 とおくと,y=41
   x=1 とおくと,y=43
   x=2 とおくと,y=47
 となり,y の値はいつでも素数になる。ゆえにこの式の x に,整数値を代入すると,いつでも素数になる(!?)。
 [ ... ] 参考までに,x を 0 から 39 まで動かしたときの y の値を表 [ 省略:私註 ] にしておくが,これらは全部素数である。[ ... ]
 だからといって,さっきの式が「いつでも素数になる」という保証はない。実によくできている式ではあるが,x が 40, 41, 44, 49 などのとき,y は合成数となる。こういう例もあるのだから,絶対に誤りのない判断を下そうとすると,油断は禁物である。
野崎昭弘『詭弁論理学』中央公論社,1976 年,pp. 84--86。

どうもこのところ私はエロ本,エロ映画ばかり食べていたからか,久しぶりに硬そうな本を噛み砕いているうちに,帰りの横須賀線のなかで少しウトウトしてしまったようである。ま,世の中,バカも多いが,賢い人もたくさんいる。そういう人たちの書いた本を仕事の合間に読むことが,精神の安定を生み出す。

野崎さんの『詭弁論理学』には,このほか,「媒概念曖昧の虚偽」の例として,次のような英語の三段論法ジョークが紹介されていた。

Nothing is better than my wife.
A penny is better than nothing.
Hence a penny is better than my wife.
同書,pp. 94。
   

帰宅して Web の麻雀ゲームをしたら,国士無双を上がりました。これは何かの暗合か。
 

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おぼっちゃまくん

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私が仕事から早めに帰ると,娘がまだ制服を着たままでテレビを見ている。アニメばかり垂れ流している TOKYO MX で『キテレツ大百科』とか『おぼっちゃまくん』なんかを見ているんである。「おめぇ,高校生にもなってまだこんなガキ番組見てんのか!」と腐しながら,いっしょになって見てしまう私も,相当,愚かである。

『おぼっちゃまくん』は,財閥の御曹司・御坊茶魔の繰広げる低俗アニメである。「友だちんこ」とか「絶こうもん」とか,哀れなくらいレベルの低い駄ジャレネタだけで成立している感がある。JC テレビ広告「おはよウナギ,いただきマウスで,楽しい仲間がポポポポーン!」は,同じ低レベルの言葉遊びでも,心が和む。けれども,『おぼっちゃまくん』の場合は幼稚園児・小学生大好き下ネタばかりなんである。

ヘヲナルド・チャ・ビンチなる芸術家が出て来る。その描いた絵のなかで老婆が見栄を切っている。絵のタイトルは『最後のバアんさん』。御坊茶魔がニセ茶魔に陥れられ牢獄に幽閉されてしまう。その際,「外すと命はないぞ」と言い渡されて仮面を着せられる。男の陰部を象った「ちんかめん」を。鉄仮面伝説のパロディーだろうが,「ちんかめん」はねぇだろ! でも,こういうのを見て娘とケタケタ笑うわけである。見た後の言いようのない虚無感は,ご想像いただけると思う。『おぼっちゃまくん』は小林よしのり原作。この人,こんな低級マンガで下ネタ大好き小学生のお小遣いを掻集めるだけでは満ち足りずに,最近では『戦争論』とかの講釈でもって同じような低レベルを今度は大人を相手に発揮してくれている。語るに落ちる,というものじゃなかろうか。

『おぼっちゃまくん』に,「貧ぼ耐ぞう」なるキャラクターが出て来る。今は零落してしまった上流家庭の坊ちゃまという設定なのだが,ビンボーを理由に,前半分しかない服を着ている。前から見ると立派なスーツを着ているように見えるが,後ろから見ると背中,尻が丸出し。ビンボーで 5000 円しか予算がないとき,10000 円の服の前半分だけで済ますか? 常識的には,5000 円のきちんとした安物完全品を買うはずだろ! これはなにかの風刺に違いない。『おぼっちゃまくん』の数少ないキレ。最近,これに似たような話があった。

東北大震災では海外から多くの支援が寄せられ,規模の大小はあれ,世界の 130 余の国々から暖かいメッセージとともに支援物資・義援金を日本は頂戴した。インターネットでも「ありがとう」が様々な形で発信されている。ここまで世界の応援が貰える日本という国も捨てたもんじゃないと,私は逆説的に気が付いたくらいであった。ところがこれを受けて,日本政府が感謝広告を海外紙に掲載したのだが,それがなんと,たった 7 紙だけだった。しかも米国,英国,中国など主要国に限定。政府のこの対応は,ただちに国会で非難囂々の目に会った。130 何人からお見舞いを貰ってたった 7 人にしかお礼を言わない,なんて,フツーの常識人なら呆れ返るはずである。そういうことを日本国の政府は堂々とやるわけである。しかも,国会での追及に民主党・松本剛明外務大臣は「被災地復興支援で予算を割く必要のある状況下,感謝広告の予算がなかったから」などとウソ丸出しの言訳をしていた。松本大臣,いったいあなたどこに眼が付いてんですかね,霞ヶ関しか見えないみたいですね。不作為菅政権らしい体たらく。

これ,やっていることは,5000 円しかないから 10000 円の服の前半分だけを買ったんだという「貧ぼ耐ぞう」の論理とまったく同じではなかろうか。普通の神経の持ち主なら,持っている金で,たとえ満足できる質は適わなくとも,130 余の恩人すべてにお礼をするはずである。日本政府のこの非常識のおかげで,日本国民全体が海外の人々から礼儀知らずだと思われたのはまず間違いあるまい。これも東洋の神秘かと。ところが実際は,政府が — わかり易いことに — 貧ぼ耐ぞうのように,ただ体裁だけ取り繕おうとしているに過ぎないのだ。幸い,大人の常識がわかる国会議員による追及のおかげで,その後すぐ他の国々に対しても,菅直人内閣総理大臣名義で感謝広告が出された。

Year 2038 Problem, UNIX Millenium Bug

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UNIX 2038 年問題というのがある。西暦 2000 年問題と同じような話である。伝統的な UNIX オペレーティングシステムは日付・時刻を 32 bit 整数値で管理しており,1971 年 1 月 1 日 0 時 0 分 0 秒をはじまりとして 1 秒毎に数値を 1 ずつ増加させる。これを前提としてそのときの時刻を計算している。ところがこの 32 bit データが 2038 年 1 月 19 日 3 時 14 分 07 秒を過ぎると桁溢れし,なんと 1901 年 12 月 13 日 20 時 45 分 52 秒 (UTC) にすっ飛んでしまう。2038 年問題とは,これに伴って UNIX システムでさまざまな不具合が出るであろう事態の総称である。

2038 年なんてまだまだ先だと思う人がいるだろう。でももうこの問題は現実味を帯びはじめている。私は会社で回覧されてくる他サイトの事故事例には必ず目を通すようにしているが,先日,HP-UX (ヒューレットパッカード社の UNIX) の旧版を使っているサイトでユーザ・ログインができなくなる障害報告を読んだ。ユーザ管理項目に有効期限があり,それに 9999 日みたいな大きな数値を指定したら,有効期限日時が 2038 年を飛び越えて 1901 年から折り返してしまい,有効期限はすでに超過しているとシステムが判断したがゆえの障害だった(ヒューレットパッカード社の名誉のために付け加えておくと,HP-UX 最新版では 2038 年問題は訂正されている)。2038 年問題は世間ではあんまり騒がれていないけれども,UNIX サーバに移行したクリティカルなシステムが極めて多いだけに,これ以上にマズイことも起きる可能性がないわけではない。

西暦 2000 年問題は,多くのシステムが西暦を下 2 桁で管理しているがゆえに 2000 年の判断を 1900 年と誤ってしまうことに起因した。その発現は予想が一筋縄ではなく,大陸間弾道弾が誤動作するかも知れないとか,ジェット機が操縦不能に陥るとか,大いに世間を騒がせた。おまけに 2000 年は 100 でも 400 でも割り切れるので超特例的閏年であったという事情が,計算機関係者の恐怖を煽り立てた。閏年を「4 で割り切れ,100 で割り切れない年」とする単純なロジックを使うプログラマが実際にいたのである。ふつう 400 年に一回のことを人生で突き詰めて考える人はまれである。関ヶ原の合戦以来のことが自分の人生で起こるなんて考える人はまれである。

計算機業界のことを知らない人には,2000 年なんてすぐ来るのがわかっているのになんでこんなバカな設計にしたんだろう,まったく呆れる,のようなことをホザく正論吐きがゴマンといた。現象の内在的論理を辿るよりも前に己の感じ方に満足してしまう人,進化の恩恵に無意識に浴する人の典型である。私の尊敬する米原万里も,どの本であったか忘れたが,同じことを書いていて,私は正直悲しくなったことを思い出す。もちろん西暦 1990 年代に設計され,それなりの期間使用される予定のシステムならば,2000 年を考慮していないのはただのバカである。しかし,当時問題になったのはコンピュータ黎明期から少しずつ改修されながら大規模化したシステムだからこそであった。共同体への影響がじつに大きい官庁システムがまさにこれにあたるからだった。私の顧客は,幸いにも,その事情を痛いほど知っており,2000 年対応システム改修にケチケチしなかった。

そもそも,2000 年で問題が出るのがおよそわかっていながら,なんでそういう設計になっていたのか。コンピュータ機器の進化には,3 年で性能が 2 倍になるという「ムーアの法則」と呼ばれる経験則がある。2011 年から逆算して 70 年代あたりに舞い戻ると,かつての計算機が現在と比べていかに貧相なものだったかが想像できるだろう。30 年昔の計算機の性能はいまの 210 分の 1,逆にいうと同じもののお値段はいまの 210 倍。40 年前なら 213 倍くらい。そう,その当時はメモリ 256KB の一月の借料がサラリーマン大卒初任給を越えるくらい高価だった。磁気ディスクも同じ。こういう超高価なリソースを使うとき,とにかくケチろうとするのは当然である。日付・時刻はどんな業務データの属性にも付いて回り,これを仮に short (2 byte) 整数で年,月,日,時,分,秒 12 byte 使えばデータに占めるその割合はバカにならない(まさかと思う前に 12 × 213 がどれほど重いか考えるがよい。いま日付・時刻の格納に一個あたり 12 × 213 byte 使わせてもらいます,なんて顧客に言ったら即刻クビである)。昔,私の担当したシステムでは西暦を下 2 桁だけで管理し,数字 1 桁を 4 bit に入れて 6 byte に切詰めていた。理論的にはもっと切詰められるが計算速度やわかり易さとの兼ね合いでこうしていたわけだ。それくらい記憶域が貴重だったのである。70 年代くらいのシステム設計者は,おそらく皆,計算理論の前に経済学に縛られていたのだと思う。

UNIX 2038 年問題についても,なんでたった 32 bit で管理するなんてケチったんだろうと思う人がいまならウヨウヨいるはずである。4 byte 32 bit というデータ構造は 32 bit 計算機がもっとも高速に取り扱うことのできるものなのだ。でも,それを抜きにしても,1970 年ごろの UNIX 設計者は,2038 年にはボクはもう生きていないと無意識に思ったはずだ。人生 70 古来稀なり。そのころにはボクたちのような貧しい資源制約から解放された,もっと夢のようなオペレーティングシステムが動いているさ,と。つまり計算機の世界でも,老人の感慨同様,人生はあっと言う間に過ぎたわけである。
 

* * *

ところで,西暦 2000 年問題はジョークのネタにもなっている。「2005 年のある日,アルバニア軍のコンピュータ系統が一斉にダウンした。その理由は? — 西暦 2000 年問題」。その国の時代遅れを笑う格好の題材になったんである。でも 2000 年を大きく超過して忘れ去られたころにプチ 2000 年問題が出て恥ずかしい思いをした SE/プログラマは必ずいると私は思う。

東京スカイツリー

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映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は,日本が復興ムードで元気だった昭和三十年代を描いて邦画としては異例のヒット作品となった。この映画のなかで,建設途中の東京タワーの少しずつ完成に向かって行く姿が日本の成長の象徴になっていた。三百ウン十メートルの高さになるなんて当時の人はわくわくしたはずである。私もはじめて東京に連れていってもらった小学校四年生のとき(1972 年),東京タワーを間近に仰ぎ見るのが本当に楽しみであった。

2008 年に着工され,2011 に竣工される予定の東京スカイツリーも,かつての東京タワーとまさに同じわくわく感を,おそらく日本中に伝播させているところではないだろうか。いまいちど日本を元気にしたいという暗黙の雰囲気が痛いほど伝わって来る。ところが東京スカイツリーは,東京タワー建造の復興期とは真逆で,人口減少に転じた沈み行く日本のまさに斜陽期に打ち立てられようとしている。むしろバベルの塔のような存在。それでも,東京スカイツリーの話題は最近の数少ない明るい話題であり,私も完成を楽しみにしている。
 

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讀賣配信ニュース「誰が校長を殺したか…これが中間試験?」をみた。高校の先生が「『41124』の文字を手がかりに,実在の教諭7人の中から犯人を選択するという」問題を試験に出した。「問題に登場する国枝裕校長は『不適切な設問』として,問題を作成した20歳代の男性教諭に口頭で厳重注意した」とのことである。答えは家庭科の先生。41124 をひっくり返すと「カていーカ」だとさ。暗号解読で犯人を推理する面白い問題である。

世の中の反応は「教育現場における良識の欠如」を問題視する人が多いようである。「学校は何をやっているのか」と。先生はたいへんである。こんな面白い問題を,面白半分で出して何が悪い。「殺人を肯定する行為」なんて飛躍した論評をなすバカもいる(あの NHK ですよ)。こういう受け止め方のほうがよっぽど危険であることがどうしてわからないのか。学校の先生が推理小説を書いて,そこで残虐な殺人事件を描いたとする。この小説は評判を取り,じつは学校にいる実際の先生と同じ名前の登場人物が出て来るので,クラスの皆が面白がって読んでいた。彼の行為 — 殺人の出て来る小説を書いた行為 — は殺人を肯定しているのだろうか? これと 41124 の問題と本質的に何が違うと言うのか?

子供たちに「フィクション」というものが何なのかをきちんと教えるべきではないか。頭の中なら何だって自由だということを。しかしそれを現実世界で行うことはそれとは根本的に違うことなのだということを。それをすっ飛ばしてバカな子供たちにこういう試験問題を出してしまったのだとしたら,この先生は少し脇が甘かった。その誹りは免れないかも知れない。いや,バカな子供たちに,ではなく,バカな偽善的父兄連中によって,ひいては「フィクション」というものにナイーブな,潔癖性に毒された,本を読まない低レベルの世間によって,どのように誤解されるかを想定せずに,彼がこのお茶目な推理問題を出してしまっていたとしたら。脇が甘い。でも,ただそれだけのことである。この先生,可哀相。ま,残念ながら,面白みのある人は不謹慎なことが多い。そして自己保身の気持ちが薄い。

オレが先生だったらどんな問題を出すかなぁ...
 

* * *

高校三年生のケイコは,父親がリストラされた。あんなに優しかった父が毎日酒を呑んで暴力を振るうようになった。母もそんな父に嫌気がさして失踪してしまった。仲良しだった友達とも空気が悪くなり,誰もケイコに声をかけてくれなくなった。ケイコは自分の居場所がなくなった。もう死ぬしかないと,そればかり考えるようになった。

ふと目の前に完成した東京スカイツリーが立ちはだかっている。そうだ,あの世界一の電波塔から飛び降りて私の人生を終わらせよう。

気付いたらケイコは東京スカイツリーの狭い頂に立っていた。地上 634 メートル。世の中が愚かしく見えた。富士が綺麗だった。ケイコは最後に物理の変人・ヤスダ先生にお別れの電話を掛けることにした。

- 「先生,わたし,いま東京スカイツリーのてっぺんにいるの。これから飛び降りて死にます」
- 「おい,早まるな。まだお前にはいくらでも明るい未来が開けている。少子化なんだから,二人くらい子供を産んでから死んだらどうだ。先生が手伝ってやってもいいぞ」
- 「もう遅いの」
- 「待て。何でよりによって昼ご飯の少し前に死ぬなんて考えるんだ? お前,腹減ってんだろ?... わかった。じゃあひとつだけ先生と約束してくれ。これから先生が問題を出す。それが解けたら,お前のしたいようにしなさい。そのかわり解けなかったら,そこを降りるんだ」
- 「いいわよ」
しばらく考えてケイコは言った。じつは半分呆れたのだ。
- 「よし。お前はいま 634 メートルの東京スカイツリーの頂点にいる。これは前人未到の凄いことだ。そこで問題。そこからお前が飛び降りたら,何秒後に死ぬか,求めよ。g = 9.8 とせよ。いま無風状態で自然に物体が落下すると仮定せよ。そして,お前は垂直に自由落下し,しかも東京スカイツリーの建物に遮られることはないとせよ。地面に到達した瞬間に即死するものとせよ。つまり着地から絶命までの時間,及び昇天する,もしくは地獄に堕ちるまでの時間は考慮しないものとせよ。回答は少数第三位を四捨五入して第二位まで求めよ。制限時間は 10 分。先生の時計で 11 時 58 分 32 秒までだ。では ... はじめ!」

以上のような問題はどうでしょうか。自由落下する物体の t 秒後の位置(9.8/2t2)の問題だ。「先生,問題文長過ぎ。最後のヤスダ先生の台詞だけでいいじゃんか」と生徒が文句を言う。その後ケイコがどうなったかって? 日本標準時刻 2012 年 9 月 1 日・午前 11 時 58 分 32 秒には何も起こらなかった。馬鹿なケイコは問題が解けなかった。それで約束通り地上に舞い戻って来た。めでたし,めでたし。

大学の友人

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昨日,大学時代の友人 T から電話をもらった。私の名前を奥村先生の『pLaTeX2e 美文書作成入門』で見つけて「まさか」と思ったという。彼の声を聞くのは,長期入院した私を彼が病院に見舞ってくれて以来であった。電話では私も忘れてしまっていたような学生時代の話が彼から出て来て,私もついつい夢中になって一時間以上の男らしからぬ長電話となってしまった。

T は青森県出身,函館ラ・サールから北大理学部数学科を出てドイツに留学したのち,東京電機大学の教員となった。早稲田でも教えているという。私の専攻はロシア文学だったので,T とはまったく畑違いなのだが,音楽という趣味を通して彼と知り合うことになり,長い付き合いになった。私の恥ずかしい過去を妻以上に知っているひとりである。彼はヘタなチェロを弾いた。トスカニーニのベートーヴェンに心酔していた彼は,私とは音楽の趣味がまったく合わなかった。彼の私との共通点といえば,クラシック音楽という枠組みを除くと,何の役にも立たない学問をしているところだけだった。解析(微分・積分)の教科書を目下執筆中という。その文房具である TeX についても,いろいろ調べていて,それで『美文書』を手に取った次第だという。数学関係の出版社は TeX 入稿が当たり前である。

彼は数学を先攻していることもあり,学生時代から TeX を使っていたという。いまでこそ LaTeX に親しむ私も,大学時代は電子計算機とはまったく無縁で,理科の友人たちの計算機話はチンプンカンプンでそのあたりのことが記憶から欠落している。T によれば,北大では 1980 年代後半には HTeX (Hokudai-TeX の略であろうか) なる独自のフォーマットファイル(AMS-TeX の独自改造版だったらしい)が学内で普及していて,理科学生の一部はこれを使って論文を書いていた。この HTeX は,Leslie Lamport によるいま主流の LaTeX ではなく,Knuth 教授による TeX82 に近いプリミティブなものであっただろうと想像すると,私など足下にも及ばない TeX 道を T は歩んでいたのだと,いまさらながらびっくりした。

学生時代の私の友人で計算機を学んだ者たちは,いまより遥かに性能の劣る計算機を使っていたわけだが,やっていることはいまよりずっと高度だったのではないかと思う。いまの学生は論文作成は Microsoft Word, Excel でこと足りるので,TeX なんてよほどのことがない限り選択肢とならない。私が二年前東大に論文を提出したときも Word 形式でないと受け付けてもらえなかった。いまでは PC で動作する研究者向け科学技術関連ソフトがいくつも出回っているが,当時は大型計算機のソフトウェアはコンパイラ以外は DB / DC,ソート・マージなどのファイルユーティリティ,数値計算ライブラリなどがあるばかりで,自分の研究のために必要なすべてのアプリケーション・ソフトウェアを自分で書かなければならなかった。さらに,その研究成果である論文を,TeX で「プログラミング」して書いた。Word が TeX よりも低級だというわけではないけれども,私がここで「高度だった」というのは,使う者よりもそれを作る者の方が技術的に高い位置にいる,くらいの意味である。さらに言うと,Word よりも TeX の出力のほうが遥かに美しいということである。しち面倒くさいことを原理から学んで身につけないとならないことがらがコンピュータリテラシーに付いてまわるだけに,Fortran とアセンブラのプログラミング素養がコンピュータと付き合う第一条件であり,計算機を使うことがプログラミングに直結した時代だったのである。

T とは違うが,私の理科の友人のひとりに,理学部の恐るべきハッカー A がいて,こんなことがあった。当時,北大大型計算機センターでは日立の HITAC S-810 というスーパコンピュータが稼働していた。A は通常はフラクタルだかなんだかの解析計算をこのマシンで走らせていたが,たまに遊びのプログラムを動かしていた。EBCDIC (ASCII のような英数字だけの IBM 汎用機コード) 文字だけでアスキーアートを描画するコードを書いて,大型計算機の 133 文字 30 行の文字しか打てないラインプリンターにアスキーアートを打ち出してくれた。ラインプリンターの出力した NIP 紙(連続紙)を一定の長さで切って貼り合わせると, 3 m × 3 m くらいはあっただろう,6 畳間の壁一面のどでかい中森明菜の美しいグレースケール写真が立ち現われて,皆で「おー」と拍手喝采した。大型計算機用の画像スキャナなんてとても望める時代ではなかったのである。どういうコード・テクニックで A がこれを実現したのか,私は計算機システムの専門家となったいまでも想像できない。

T と久しぶりに話をして,そういった往時の計算機事情にいまあらためて驚きを甦らせてしまった。

昨夜,日本を代表するメーカー M 社顧客に納めたシステムがダウンし,子分に復旧処置をさせた。今朝はその対策会議を実施した。取得した情報からは何もわからない。再発の可能性大。処理の重いシステムトレースを本番運用に入れ込むのにも抵抗があり,次に再現したときはメモリ・ダンプを取得するよう顧客にお願いするくらいしか手だてがなかった。M 社情報システム部長 T 氏の瞋恚の形相が目に浮かぶ。憂鬱。ユーウツ。U-utu...

最近,会社から帰宅の際は,健康のため赤坂溜池山王から新橋まで歩くことにしている。17, 8 分のウォーキングだが,これで一日 8,000 歩くらいは積み上がる。新橋三丁目交番前で信号待ちしていたら,「おい,小池!」と叫んで警官が追って来た。「え? 俺か? 銀座で顧客にホステスを抱かせて豪遊したり,タクシー券を無闇に振る舞った記憶はあるが,人を殺した覚えはないぞ。フロッピーディスクの改竄もしてねぇ」と思いながら,我知らず逃走しはじめていた。

烏森神社の入り口にある薄汚い立呑屋に逃げ込んだ。「どうぞ」という声に目を向けると,なんとコユキがハイボールを差し出してくれた。そしてそっとこう耳打ちした:「隣のニュー新橋ビルの宝くじ売り場に『余裕のユウちゃん』がいます。彼女に相談してみてはいかがですか」。

宝くじ売り場にはたしかにヤマダユウがいた。勇気を振り絞る。「あの,警察に追われています。コユキさんがあなたのことを教えてくれたんですが...」としどろもどろに言うと,「アタシはお金を貸すだけ」と「余裕のユウちゃん」はけんもほろろ。しようがなく,スタスタ新橋駅舎に入った。

まっすぐ帰宅するとヤバいかもと考え,通勤経路の横須賀線ではなく東海道線に乗り込んだ。川崎駅で下車して,LAZONA 川崎にある丸善に入った。中公新書の新刊を適当に漁る。左方向 2 メートルくらいの場所で,老いた母親が車椅子の娘に芸能雑誌を開いて見せている。娘さんは人気グループ「嵐」のマツジュンのグラビアを幸せそうに視ていた。こっちまで幸せな気分になって,私は中公新書の書架に目を移す。ふと『マタグラのマリア』に目が止まる。マタグラ? マグダラじゃないのか? と,そのとき,ねっとりとした液体が目の前を真っ赤にした。首筋に生温かい飛沫を感じ,振り返ると,刮目した若い女が岩波文庫の書架に凭れて座り込んでいた。斬り裂かれた頸動脈から血液を迸らせ,絶命していた。平積みの文庫本の上には血糊も鮮やかな檸檬がひとつ。その傍らに上品な身なりをした醜い中年の女が刃物を持って呆然と佇んでいた。岩波文庫は赤帯以外の本も動脈血の鮮紅色に染まっていた。返り血に汚れた中年女と目が合った。世界に静寂が訪れた。「ハ」と叫んで女は逃げ去った。場は騒然。

わけもわからぬうちに帰宅していた。私は血塗れになっていた。「どうしたの?」と妻。「『おい,小池!』と間違えられて,処女と一発やったら,バージン・ブラッドをシコタマ浴びちゃった ... コ,コユキのハイボールはサントリー角瓶じゃなく,トリスだった。『余裕のユウちゃん』から金は借りちゃいねぇ。丸善の檸檬を処女のあそこに突っ込んだりなんかしてねぇ」と我知らず言いわけを私ははじめていた。妻の瞋恚の形相。と,彼女はコンピュータ画像処理のモーフィングのように見る見る若返り,無言のまま台所から出刃包丁を持って玄関に舞い戻って来た。
 

* * *

今朝,目が覚めると寒かった。私は少し風邪を引いてしまったようだ。色付の夢を見た。へんにリアルだったな。『荘子』に曰く「其の夢みるに方りては,其の夢なることを知らず,夢の中に又た其の夢を占い,覚めて後に其の夢なることを知る。且つ大覚ありて,而る後に此れ其の大夢なるを知る」(『荘子』内篇・斉物論篇・第二,岩波文庫,p. 81)。

ぼっとしたまま会社に出た。昨夜,日本を代表するメーカー M 社顧客に納めたシステムがダウンし,子分に復旧処置をさせた。今朝はその対策会議を実施することになっていた。
 

川崎市のおもしろ本

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先日,シャガール展に行った帰り,川崎 BE の有隣堂でマイクロマガジン社から出た『これでいいのか川崎市 日本の特別地域・特別編集』なる雑誌のような本を買って来た。表紙にはデカデカと「東西冷戦激化中!」との見出しが。私はこの手の地元情報誌が大好きである。

私は川崎市幸区民になってちょうど二十年になる。メーカーに就職し,結婚して,築四十年のオンボロ 2K 社宅(窓から自社情報システム部門のビルが見えた)に詰め込まれて以来,この界隈に住み付いてしまった。いまは再開発から取り残され,細い道が曲がりくねった古い住宅街に居を構えている。川崎は,旧東海道の宿場町にして,ドヤ街あり,一大風俗街あり,やるせないくらいの古い団地群あり,大工場あり,で昔から「穢い,危ない,怖い」町として見られて来た。「あしたのジョー」の荒んだイメージの町である。もちろん私が川崎に住みはじめたあたりから,東芝や明治製菓などの工場が次々と移転し,その跡地の再開発が進み,ミューザ川崎・超豪華クラシックコンサートホールなどもできて一大文化都市に生まれ変わりつつあり,もはや川崎は「危険な」感じはしなくなっている。それでも川崎は,ちょうど東京都と横浜市の間にあり,この二つの都市が日本を代表するハイソな地域であってみれば,川崎市のレベルがいよいよ低く見えてしまうわけである。大洋ホエールズも讀賣ヴェルディもイメージの悪い川崎からそれぞれ横浜,東京へ逃げ出した。よってもって川崎市民は東京都民,横浜市民に対して尋常でないコンプレックスをもっている。

本書『これでいいのか川崎市』は,川崎市のこうしたせつない側面を面白おかしく捉えた,地元民でないと appreciate 不可能な細部に拘ってまとめられた地域コラム集といってよい。「東西冷戦」という表現は,川崎市に住む者ならすぐピンと来る。つまり,川崎市は東京都・横浜市と対照的な荒んだ都市イメージがあるのだが,川崎市そのものも,東西(見方によっては南北)に長い地勢にあって,内部の東西格差が極めて激しいという特徴がある。すなわち,川崎区,私の住まいである幸区のある東側と,麻生区,多摩区,宮前区のある西側とを比べると,上記川崎の一大イメージ「穢い,危ない,怖い」はことごとく東側の地帯に集中しており,東部地帯こそが荒んだ印象を川崎市全体のものとして全国にまき散らしているわけである。川崎区には京浜工業地帯の大工場群があり,川崎区・幸区はいまだに光化学スモッグ注意報が出るくらいなのである。それに対し,西側は小田急や東急の沿線でもあり,東京の大企業のエリートサラリーマンのベッドタウンであり,田園地帯も広がり,町も清潔そのもの,主婦もハイソな雰囲気を漂わせている。西のハイソ,お受験,お金持ち。東の風俗,団地,工場,ビンボー,風俗,やくざ,競馬場・ギャンブラー,ホームレス,外国人労務者。日本の平均乗車人口において五本指に入る一大ターミナルがあるかと思えば,浜川崎線のような無人駅地帯がある。川崎市にはこうした極端な分裂がある。

学校なども,西は優等生の多い学園らしい学校が多いのに対し,東は学級崩壊は当たり前の荒んだスラム的学校が多いと聞く。私の娘は高校になって多摩区にある進学校に通うようになったが,生徒の多くが西部の中学校出身であって,デキがまるで違う(成績の話ではなく生活態度,考え方)のにびっくりしたらしい。幼いころの娘の友達には母子家庭の子や,親が離婚寸前で寂しそうな子が多くて,いとおしかった。娘が中学校時代の友達と撮ったプリクラを高校の同級生に見せたところ「東の学校だってすぐわかる」と言われたらしい。西部地区の人たちは,こういうところからも,東部地区を蔑んでいると知れるのである。

それでも,私はこのせつない都市・川崎,そう,私の住む東部地区こそが好きである。このガラの悪さ,不潔感,寂れ感は,私の生まれた大阪を思わせるものがある。天王寺,新世界,鶴橋あたりの雰囲気である。まさに日本の近代化のハキ溜めのようなトポスであって,私などはそこに強い郷愁を覚えてしまうんである。川崎駅東口の砂子(いさご)町,南町の商店街・風俗街のゴミゴミ感には人生の哀愁がある。私は南町にある川崎ロック座(言わずと知れた浅草ロック座の姉妹劇場である)にストリップを観に行きたいと思っているが,まだ果たせないでいる。夜の 9 時を過ぎ,37 番街付近を歩いていると,その筋の女によく声をかけられる。キャバクラやソープの勧誘員がウジャウジャいる。新川通り沿いでは,ホームレスが頬杖ついてカップ酒を呑みながらダンボールで横になっている。『これでいいのか川崎市』にも,これこそ日本の高度経済成長を支えた成れの果てとして愛着を感じるとの記事があった。

J1 川崎フロンターレは川崎を愛し,川崎市民から熱烈に支持されている。私は富士通も東芝も商売敵であるが,サッカー J リーグ,都市対抗野球ではやはり地元川崎のフロンターレ,東芝野球部を応援してしまう。フロンターレにいた FW チョン・テセも,コリアンタウンのある川崎の象徴のようでもあり,どこのチームに行こうが応援したくなる。一方,ホエールズ,ヴェルディはというと,川崎を去ってからそれぞれリーグのお荷物チームに成り下がった。ヴェルディに至ってはハイソぶりの徹底した讀賣から見放されてハイソぶりでも自滅したわけだ。ざまぁ見やがれ。俳優の東山紀之は,わが幸区の出身であり,最近,著書『カワサキ・キッド』を出版した。これは彼の少年時代の思い出のようだけど,タイトルからしてこの悲しい川崎という町に生まれ育ったことへのこだわりがひしひしと伝わって来て,私はこれをぜひ読んでみたいと思っている。
 

2ちゃんねるアクセス不能 韓国から大規模サイバー攻撃?」によれば,今日 1 日午后,2ちゃんねるが韓国からのサイバー攻撃でダウンしたらしい。どんなリソースも Dos 攻撃にはガマンの限界がある。いくら大きなデパートでも,一度に 50,000 人の客が訪れれば,混雑でサービスが紛糾するのは当たり前である。もっとも現実世界では交通手段等の前提リソース制約がある関係で,こんな状況を発生させるのは困難なわけだけど。

韓国にも下品なユーザーが多いわけである。日本に劣らずというか。とはいえ,日本の嫌韓ネットワーカーならこんな集団的ガサツはしない。その理由は,孤独な日本人は大勢で呼びかけ合って「サイト攻撃」などするなんて思いつかないだろうからである。そもそも,「ダウンさせてやる!」と思わせるような韓国のサイトがないだけかも知れない。

まあ,2ちゃんねるがコケるくらいなら何の迷惑もない。私は昔2ちゃんねるで仕事周りの悪どい書き込みをされたことがあり,2ちゃんねるには恨みがある。それ以来,2ちゃんねる裏サイト情報に書き込みをする奴を会社で見つけたら,騒いで即刻クビにしてやると思っているくらいである。だから,今回の2ちゃんねるダウン事件については「下品なサイトは下品な奴らから下品な攻撃を受けるものかしらん」くらいにしか思われない。どうでもよいことである。

* * *

Dos 攻撃といえば,「『女性の声に癒されたかった‥』 フリーダイヤルに無言電話200回の男逮捕」なるニュースを先日見た。現実世界で Dos 攻撃めいたことをやると,「偽計業務妨害」ということになる。なんとも寂しい犯罪である。

ところで,マックでメニューに「スマイル 0円」なんて掲げている店があった。お茶の水の店舗でこれを目にした時は,空いた口が塞がらなかった。ここで「スマイルを百万個ください,タダなんでしょ」とやったら,どんな反応に出会うだろうかと考えてしまった。まさに Dos 攻撃的イヤがらせといえる。「偽計業務妨害」で警察に訴えられるのだろうか。でも,メニューに並んでいるわけだ。いや,マクドナルドは賢いはずである。そんなおバカをしても,おそらく店員はゆっくりと一回「スマイル」をよこして,こう言うのではないだろうか。「いまのが百万回のスマイルです」と。当店の「スマイル」は不可算名詞であり一個も百万個も区別がございません。そもそも「一回,一個 0 円」とは書いておりません。

だからといって,実際に「スマイルを百万個ください」なんてやっちゃいけない。訴えられてもおかしくない(何でも警察にお願いするご時世なのだ)。明らかにイヤがらせだからだ。それでも,「スマイル 0円」は下品極まりない。なんかこの店舗の経営者は店員や客の人格というものを無視しているのではないか,と思うからである。

仕事のはなし

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システムエンジニアは仕事柄システム障害に見舞われることが絶えない。その復旧対応がひと段落するとただちに文書で顧客に報告しなければならない。先日も,とある顧客システムでエラーが出た。情報収集・リカバリ対応作業に引き続き,私は子分に「お客の定時までのあと 3 時間で報告書を書いてオレに見せろ」と要求した。障害が顧客の上層部に伝わっていることを知り,その日のうちになんらかの形で報告書を出しておかないとまずいことが起こると判断したからである。「そんな短時間ではきちんとした報告書を書くのは無理です」と若い担当者の反抗に遇った。「お前なあ,3 時間といったら 3 時間で持って来い」。これをパワハラだ,上司の無茶苦茶な要求だ,などと考える者は,仕事をなすべき企業には不要である。3 時間で作らなければならないときは 3 時間で可能な範囲で形にする,というのが仕事でいちばん大切なことなのである。

仕事の成果を構成するパラメータはいろいろあるが,「納期」・「金額」・「仕様」の三つが一般的である。そしてこの三要素こそがモノ作り神学における三位一体,「技術」の核心であって,これが具体的案件について定義できる — すなわち見積りができる — 者のことを「技術者」と呼ぶ。それゆえに企業の見積り取纏回答責任部署を — それが実際は実務をせず仕事の具体的な中味を知らない集団であっても —「技術部」と称したりするのである(こうした部署は,現場の社員から皮肉に眺められることがあるが,現場が見落としがちの法制度 — 輸出管理関連法,PL 法,特許法等々 — との整合性をきちんとチェックするという崇高な役割をも担っている)。そのうち「納期」=時間がもっとも大事なものであると私は思う。もちろん三位一体なのだから金額・仕様とセットで捉えられた時間である。なぜなら,時間は後戻り修正できないからである。期限を超過してしまったその先に何が起こるか,人間には予測できないからである。

でも,この反抗的な私の部下のように「いいもの,満足できるもの」を求めるがゆえに,その時間では無理という人が結構いる。「いいもの」とは何か。納得できるものか。なら誰が納得するものなのか。顧客か。お前か。オレか。そういうことを突き詰めてゆくと,その「無理」の理屈にひとりよがりの欺瞞があることがわかる。「顧客に満足できるもの」だとしても,しかしそれがどんなものであれ 3 時間後に「必要」なのである。そのタイミングをはずすと顧客にとって致命的な,取り返しのつかない事態になるかも知れないのだ(社長報告に間に合わず顧客担当者がクビになる,地位が落ちる等々)。この理屈は医者のようなシビアな仕事をしている人ならよくわかるはずである。どんなに「いい治療」を思案していても,その間に患者が死んでしまったら何の意味もない。

だから,あと半年で「まともな」論文なんてできない,と思う学生は研究職にも就けないし,企業にも採用されない。半年でできる範囲で審査基準に合致するレベルの論文を設計し形にできるか,が大事なのである。時間は決められた制約であるという意味で,ボリューム制約と密接に関わる。原稿用紙 100 枚以内,とあればその範囲で論文を書かなければ「失格」である。「101 枚なら,だいたい 100 枚じゃないか」— こういうのをモラルハザードというのである。999 円しかないとき 1000 円のものは買えない。もちろん「割引してもらえる」かも知れないが,それは「まったく別の論理」から来る事情に依存するものである。「課題」をはき違えてはならない。

神は存在するか,15 字以内でその考えを述べよ。そんなこと 15 字では無理だよ,という人は他人を幸せにはできない。「課題」というものが何かを知らない。「存在する。目に見えないから。」,「存在しない。目に見えないから。」— そうやって「課題」・「要請」に応える結果を導くことが大事。「国語の問題で何々を 50 字以内でしるせ,とか形式的に過ぎるようなのがあるだろ? それは,そういうシビアな対課題姿勢を植え付けようとする教育的配慮なんだ」— とまあ,仕事で痛い思いをしてやっとわかった私は,したり顔でわが子供たちに説教しているんである。

困った客---婆さん俳人

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とある知人 M は文芸書の出版社に勤めていて自費出版の編集を担当している。この版元は自費出版でもきちんと校正作業をするそうで,良心的である。いま担当している老女の俳人著者がまるで嫁いびりでもするかのように彼女を責め,これまでなんの問題もなかった編集作業の仕方にまでケチをつける。そのイビリ電話が毎日 30〜40 分にも及んで,M は心が壊れそうだという。俳句詠みだからといって,十七文字のごとく凝縮された表現で不満をぶつけるのではないらしい。逆に,ドストエフスキイ小説の登場人物のように何頁分もの言葉を一気にしゃべって疲れを知らない人だと見受けられる。「俳句は結構上手いんだけど」と M。ゲラ刷りを見て字体,紙の色,インクの色が気に入らないと言い,自分で作ったワープロ出力を送って来て,この通りにしろ,などと出版素人丸出しの要求を突きつけて来る。「だからあなたは雑だっていうのよ」だと。行間のアキ,文字色に拘りがあるのであればはじめにそのように要求仕様を提示すべきであるし,紙の色はゲラの段階では粗悪に決まっている。

出版という業界はなぜか知らぬが,私などからみると見積・契約が極めていい加減である。著者から自費出版の話があると,カネが決まらないうちに仕事をしはじめてしまう。担当者はカネを握らされておらず原価管理をせず,ひたすらよい本を出すことに注力するため,そんな手順にはおかまいなしのようである(だから作業手順の原価低減努力がまるでなされない)。著者のほうも,文化人気取りなのか,カネの話で「私の傑作句集を出すロマンが穢される」とでもいうのか,見積・契約を曖昧にしたまま仕事を依頼してしまうようである。もとより自費出版で本を出すなんてのは著者一世一代の決断なのだから,カネは十分に準備しているものなのだろうけれど,この手順の逆転は,ごく一般の企業のサラリーマンである私には信じられない。

M 担当のこの婆さんについても,やっぱりいつもの客と同様,カネの話は抜きにして原稿を送って寄越し,口絵にする写真の由来の自慢話をくどくどとはじめたようである。つまり,まずは作業がはじまったらしい。ところが初稿のゲラが出た段階になって,この俳人婆さん,「お見積もりはどうなっているのかしら」と来た。見積を送る。この時点で業者側は最悪の事態に直面したも同然だと私なら考える。案の定,婆さんからは —「これ高過ぎじゃないの? 他の本屋よりも全然高くて,夜も眠れないじゃないの!」。

ここで婆さんが「高いので止めにした」と決断すると,出版社としては見積・契約もせずに勝手に仕事をしたということになり,それまでの作業はパー,かかった外注経費も取り損ねるはめになる。これは商法上の常識である。いくら婆さん自身も,この常識を意識せず仕事を「させた」ことに問題があるとはいえ,責任は業者が取るべく世の中はできている。私は主任になりたてのころ,見積の延長で勝手に仕事を進めてしまい,協力会社に作業をさせ,結局案件を受注できず数千万の赤字を出し,責任を取らさせられた経験がある。設計は見積のレベルを越える仕事=「作業」であるし,見積合意・契約が成立しないうちには「作業」を絶対にしない・させないがそれ以来,鉄則になっている。

さて M は困った。デザイナーにも装丁を依頼済みである。これで婆さんに止められると今までの仕事が水の泡になる。上司の M への評価も変わるかも知れない。カネを握る会社の上役が作った見積根拠文書を婆さんにまずは送ったそうである。私は第三者なのであまり立ち入ったことはわからず気の利いたことが言えない。それでも自分の経験から少し助言した —「見積合意抜きで仕事をしたのは出版社側の非。でもじつは婆さんにとって,どうでもよいネタでウサ晴らしにただ君を責めたいだけなんだろうから,それを逆手にとって嫁いびり婆さんを少しいじってやれば? 自分から見積についてクレームを言っているわけだから,その婆さんにこう言うべきだね。『その見積根拠に対して,ご了承いただくかまたの機会とお考えになるか,ハッキリ決めていただかないうちは本作りを進められません。ついては,ご判断がついた段階でご連絡ください。それまでは仕事を止めてお待ち申し上げます』。老人は我儘でセッカチだ。時間がなにより大切で,自分の本が出る日程が延びるかも知れない,となったらただごとではない。『夜も眠れないというお話でしたし,勝手には進められません』とイヤ味のひとつも言っていい。そうしておくと,相手がババを握るのだから,見積だけに話題を集中でき,それ以外の論点をシャットアウトする根拠になる。余計なイビリをされる前に話を打ち切ることができると思うよ。『申し上げました通り,お決めいただかないうちは本のお話はできません。それでは』って言えばいい。何日かしたらこちらから先手を打って,『見積の件,どうなりましたか,早くしていただかないとデザイナーを手放さないといけなくなります。ご希望の日程で出版するのも難しくなります』ってやんわり脅すんだ。とにかくいい本を出すための正論はズバズバ言えばいい。そうすることで優位に立つことができると思うよ。理由もなく文句をたれる者には,右手が痛い,左足がお前の所為で痛む,と言われる前に,目的のためには心臓をまず治さないといけない,と論点を先に限定するんだ。そうすると相手が次に何を言って来るにせよ,あらかじめ往なし方,返し方を考えておくことができる」。

しかし,その後の数日,婆さんからなんの音沙汰もないらしい。「仕事が雑」などと相手の人間性を否定しながら,見積について「夜も眠れない」と文句を言いながら,その根拠を提示されたのに内容についてウンともスンとも応答を返さないヤツ。実際に,私が仕事で付き合う上でもっとも許せないタイプの人間のようである,このババアは。どうも俳人,歌人,詩人,小説家という奴らは自意識過剰で,本屋の担当者なんて歯牙にもかけない「文化人様」らしい。本というものが編集者,組版担当,印刷業者,製本業者,デザイナー,仲介業者など多くの人々の協同で成り立っているということをまったく考えず,自分ひとりで本が出来上がるとでも思っている。私にもここでメラメラと怒りが湧いて来た。不謹慎ながら,『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフに斧で叩き殺された悪徳金貸し婆さん・アリョーナを想像した。そうそう,これからはこの婆さんをアリョーナと呼ぼうじゃないか。

お年寄りをぞんざいに扱うなど許せない行為だけれども,社会人としてあるべき姿から逸脱し,他人を軽んずる者に対しては,相手が誰であろうと仕事の上で社会人としての正論であざ嗤ってやる,仕事の見返りを十分にふんだくってやる,というのが私の秘かな主義である。イヤな客との付き合いにおいて,そうでもして楽しまないと,「弱き業者」根性に荒んで心が病んでしまうのだ。実際に病んでしまった担当者を私は山ほど見て来た。M にも,プロなんだからいい本を出す(いい作品かどうかは知らん)とともに,社会人として徹底的に蔑んでやればよい,とけしかけた。「見積説明に対して反応がないなら,こっちから電話して,ガンガン,フォローすりゃいいじゃねえか」と私は言うのだが,M はどうにも電話がしづらいらしい。

清水義範という作家は,井上ひさしよりも若い世代のなかで,もっとも偉大なギャグ小説家のひとりだと私は思う。『蕎麦ときしめん』によりパスティーシュ・ジャンルを確立した作家として名を轟かせている。とにかく,彼の小説を読めば,その知的なパロディー,ユーモアでげらげら笑いながら最高のひとときを過ごすことができる。講談社文庫版『国語入試問題必勝法』は表題作をはじめ,七つの短編を収録している。

『猿蟹合戦とは何か』は,太宰治がなぜ『お伽草紙』で『猿蟹合戦』を採り上げなかったのかという問いから話がはじまる。この作品は丸谷才一のパロディーである。丸谷独特の旧字・旧仮名遣いと語り口を真似ていて痛快なのだ。自分の仮名遣いに関する丸谷の断り書きまでパロっていて芸が細かい。そして,この文庫本の解説を丸谷が書いているのが,なんとも笑える。

表題作『国語入試問題必勝法』は日本の受験国語問題,ひいてはマルバツ式の日本の国語教育に対する痛烈な批評である。「次の文を読んで問いに答えよ」なる問題で,その文を読まずにまず問いとその選択肢を読むべきである,とのテクニックが語られる。「まず,このことを知っておくんだ。こういう問題でたとえば選択肢が四つある場合は,大,小,展,外,の四つになっていることが多い。選択肢が五つの場合は普通これに,誤,というのが加わる。[ ... ] この種の問題の正解はこの,ちょっとピントが外れている,外,なんだ」(pp. 43--5)。国語の大学入試問題の本質的愚劣さを嗤いのめしているわけであるが,それは受験生の限界に合わせた結果ではなく,試験を作る教育者側の問題だと暗に語る:

月坂によれば,もちろん世の中には神秘的な気分や,幻想的な美を描いた詩や散文は存在するのだが,国語問題の出題者のレベルではそういう高度なものは理解できない。だから出題するはずがない,というのである。
 奴らが理解できて,喜んで出題するのは,故郷への思い,異国への憧れ,孤独の悲しみ,青春の苦み,くらいが関の山で,どちらにしても人間の心情のことばかりだという。
清水義範『国語入試問題必勝法』講談社文庫,1990 年,pp. 50--1。

問題の本文よりも先に設問と選択肢を読む,選択肢を読むだけで正解がわかることがある — おお,これ,俺もそうだったぞ,と納得してしまう。私も大学の国語入試問題の回答はテクニックだと割り切っていたほうなのだ。このせせこましさで大学入試を切り抜けたのは事実である。高校生の息子にもこれを読ませた。ところが,きちんと本文を先に読んで回答するタイプだった妻と,国語入試問題への取り組み方について論争になった。「やっぱり,きちんと本文を読んで理解したうえで回答すべきなのよ。だからこの本で笑われているのは,お父さんタイプの生徒だということ」。同じ大学の国文科を出た妻のほうが,国語の成績が私よりも圧倒的によかったのは言うまでもない。この論争の結果,息子がどちらの言うことを聞くのか,これもまた言うまでもない。それでも,清水の穿ったパロディーには大笑いできること請け合いである。
 

ハムレットのディレンマ

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シェークスピア『ハムレット』第三幕第一場に,あまりにも有名な台詞 "To be, or not to be" が出て来る。ハムレットのディレンマというものである。「生きるべきか,死すべきか」(小田島雄志訳では「このままでいいのか,いけないのか」となっている: シェイクスピア全集『ハムレット』小田島雄志訳,白水社,1983 年,p. 110)。

これを捩ってアメリカ人学生がよく口にする,次のような半畳があるらしい: "TV, or not TV"。「テレビを観るべきか,観ざるべきか」。娯楽か,勉学か。晩ご飯のとき,この話を子供たちにしてやった。テレビではお笑いバラエティーが放映中。「うん,シェークスピア,知ってるよ」。違うよ。おまいらテレビ観過ぎってこと。「That is the question」。そしたら,すかさず娘が切り返す —「You, father, too」。あのな。
 

新型インフル,鏡の国の文字

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息子が新型インフルにかかってしもた。かわいそうに,40 度近い熱で唸っている。吸引タイプの薬をもらってきた。新型インフル問題では,ここのところ罹患率がきわめて高くなり,ワクチン接種運用が混乱している。半年ほど前は宝くじ当籤レベルだったのに。あの当時の大阪などの学校閉鎖騒ぎはいったいなんだったのか。いまこの季節,受験生は戦々恐々だろう。その親もしかり。ああ,俺もなんだか頭が痛くなってきた。

* * *

本を読み飽きて,退屈しのぎに LaTeX で遊んだ。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に出てくる鏡の国では,すべてがあべこべ,本の文字も反転している。その鏡の国の文字を組んでみた。
 

alice-mirror.jpg

フォントは Garamond ファミリー。文字の反転は graphicx パッケージの \reflectbox 命令を使っている。

\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{graphicx}
\usepackage[T1]{fontenc}
\pagestyle{empty}
\begin{document}
\usefont{T1}{ugm}{m}{n}% Garamond
\begin{center}
\itshape\Large%
\reflectbox{JABBERWOCKY}\\
\reflectbox{'Twas brillig, and the slithy toves}\\
\reflectbox{Did gyre and gimble in the wabe:}\\
\reflectbox{All mimsy were the borogoves,}\\
\reflectbox{And the mome raths outgrabe.}%
\end{center}
\end{document}

Windows 7 が発売された。Windows ファンの皆さん,おめでとうございます。

秋葉原のパソコン量販店では,夜中の 0 時にカウントダウンセール・イベントが催され,平日深夜にもかかわらずたくさんの人が集まったとか(まあ,パソコン・オタク達なんだろうけど)。Vista があまりにもひどい OS だったためか(私の感想ではありません),かえってコンピュータ・オタクたちの期待感を刺激しているようである。とはいえ,Windows 95 発売のときはこれ以上の大フィーバーであった。「Windows 知らぬ人から窓際族(ウィンドウズ)」なる川柳が詠まれた時代である。

Windows 95 は,マルチタスキングという装備を,IBM System 360 から 30 年以上,UNIX から 20 年以上も遅れて,やっと実装したに過ぎないにもかかわらず,パーソナル向けということから,さも画期的でもあるかのようにもてはやされ,その発売が一大事件として取り扱われた。「プリエンプティブ」だとか,わけのわからない新コンピュータ用語が大流行りになった。「先買権のあるマルチタスク」ってどういうことか。タイムシェアリング・マルチタスキング(古典的時分割多重処理方式)と何が違うのか。いまもってさっぱりわからない。マイクロソフトは,ごく当たり前の計算機ソフトウェア処理方式に対し別の比喩的英語を当てることで,なにかすごい発明をしたように見せるのがじつに巧妙なのである(どこかの文芸批評理論とそっくりなんである)。私もかつて Windows 95 が話題となったとき,顧客に自社 PC を売り込む際,マイクロソフトの尻馬に乗って「プリエンプティブなマルチタスクが実現されている」と説明したことがある。大型汎用機運用のプロであったその顧客は「TSS(タイムシェアリング・システム)とどう違うの?」と正鵠を射た突っ込みをした。「言葉が違います」と私。一同大笑いしたことが懐かしい。確かに,「コンピュータの大衆化」ゆえに,遅ればせながら TCP/IP を実装した Windows 95 はインターネットを爆発的に普及させた。その功績は否めません。

今回も,Windows 7 の何がそんなにありがたいのか,私はさっぱりわからない。いま勉強中である(というより Windows サーバーが 64 bit オンリーになるとき,何が起こるかを死活問題として考えているといったほうがよい)。Windows 95 以降,私は計算機商売にありながら,私的には世の中に取り残された感が否めない。

でも全然気にならない。その時代の流れには利用者にとって何も新しいものがないからである(その間のソフトウェアの進化はことごとく開発者向けである)。ハードの進化はさておき,パーソナル計算機でできることはこの 20 年ほど,本質的には何も変わっていない。ソフトウェアとしては,そう,辞書の収録語数が増えたような進化である。Web,メールによるコミュニケーション・情報収集,ワープロ,スプレッドシート,プレゼンテーション,テキストエディタによる文書作成,息抜きのゲーム,エッチな画像・動画閲覧 — これがほぼ不変のすべて。しかも,動画などの画像系アプリケーションは,ユーザーサイドからみると,従来の映画,写真集の品質の足下にも及ばない。オーディオ・アプリしかり(進化しているのは「作る」ためのものである)。私の愛する LaTeX アプリケーションも出版技術の後追いである。使う側の大半は少しも進化していないのである。怠惰で自己中心的な「教えて君」や,一事が万事の頭の悪い「ネット右翼」,礼儀知らずの匿名2ちゃんねらーが蔓延って,むしろコンピュータ・リテラシーは退化しているといってよい。

その一方で,パソコンの普及により,ソフトウェアのブラックボックスを甘受しつつ表層的な事象に意味を見出したがる文科系コンピュータ・ユーザーが増えたおかげで,HTML の書き方のような些末なことにうるさい人々が増えつつある。パソコンの活用が何かしらしかつめらしいイデオロギーを纏いつつある。「そんな使い方は冒瀆だ」テキな。手段でしかない計算機技術の何かが,ロラン・バルトのいわゆる「エクリチュール」(ある時代や集団に特有の価値観・世界観に裏付けられた,表現・言語マナーの体系)になりつつあるのである。馬鹿みたい。計算機とは「汎用的ソフトウェアを利用する」ためではなく,「自分の個別目的のためのソフトウェアを作る」ためのものだ,という原初的計算機観に取り憑かれてしまっている私にとっては,「しかるべき利用方法」なんてのは畢竟どうでもよい。

自分だけの課題は出回っているソフトでは解決できないことのほうが多い。例えば,あるロシア詩人の詩の脚韻パターンの正確な統計を調べたいといった特殊な要請が,独自研究をなす者にとっては課題の多くを占めている。特殊であるからこそ研究に値するのだ。そういうとき,自分でその調査のためのソフトウェアを「作る」しか解決の手立てがないのである。そして計算機はそのためにこそ無限の可能性を秘めているのである。そういう意味で,ソフトウェアの「利用」ではなく「開発」こそが計算機という機械の目的の核心だと私は考えている。ソフトウェアを「作る」ことなく既成の汎用ソフトウェアで満足していると,それでできる範囲で「作法」が成立することがある。私には,そんなのは己の通じた「手段」を神格化しているだけの自己満足に思われてしようがない。

思うに,そもそも「利用方法=コンテンツ」と「HTML=手段」をごっちゃにしている HTML リゴリスト達は — HTML が「高級」言語であるだけいっそう — なんともレベルが低い。原稿用紙の使い方ばかりに執着する物書きと同じだからだ。「正しい HTML」,「HTML の思想」,「HTML の資格」云々。ホント,バカじゃなかろうか。いやはや,これをフェティシズムと呼ばずしてなんと言うのであろう。だから「文科系」は「理科系」に嗤われるのである。

私は計算機言語の古典ギリシア語のようなアセンブラにはじまり,HTML,XML などの超高級言語に至るさまざまな計算機言語を学んで来た。その過程で機能実現以外にもそのプログラミング所作・癖そのものが一種の美学になる様も職場で何度も経験して来た。計算機言語にも日本語や英語のようないわゆる一般言語と同じような「文体」・「マナー」論議があることにほんとうに驚いたものである(昔その一端を駄文『鏡の中の鏡』にも書いた)。計算機ハード技術の進化には 3 年で 2 倍になるという「ムーアの法則」と呼ばれる経験則がある。この破滅的進化において計算機言語にまつわる考え方が,人類の一般言語(文字,表記,文法などなど)との関わり方の悠久の歴史をごく短期間でシミュレーションしているようで,極めて興味深い。「計算機言語のエクリチュール」とでも題して,何か面白い文化論ができそうな予感がある。

la petite mort ということばをご存知だろうか。フランス語で petit は「小さい」,mort は「死」。つまり「小さな死」。これを含む仏文について「私はそのとき小さな死に浸っていた」という訳を読んだら,われわれはどう感じるだろうか。なにか哲学的な観照に,高尚な気分に話者が取り憑かれていると思うのではないだろうか。じつは la petite mort とはセックスにおける絶頂感,あるいはその後の虚脱状態の謂いである。日本語の「イク」,「イッちゃった」という俗語とあまり変わりない。日本語も,一線を越えて別の世界へ達する意味で,la petite mort の捉え方と酷似している。この訳は「おれはイったあとのあの脱力感を覚えていた」くらいでないと意味不明ではなかろうか。ところが,「イク」を「小さな死」と日本語に訳されることで,もとの意味が雲散霧消するのみならず,たんなる俗事が一気に詩的・哲学的なものに昇華する。フランス現代文学・批評の翻訳は,どうもこの la petite mort 直訳のようなものが多すぎるのではないかと私には思われる。これがあの難解さの一因ではないかと。

ロラン・バルト『エクリチュールの零度』の翻訳(森本和夫・林好雄訳註,ちくま学芸文庫,1999 年)を読みなおして,なにかフランス批評の翻訳には,la petite mort に類するボタンの掛け間違いがあるのではないかと忖度してしまう。それほどに,まったく意味不明なんである。それでいて哲学的な観照と高尚な気分だけはなんとなく察知される。私は先日,同じ著者による『表徴の帝国』を読み,それなりに感銘を受け,やはりバルトの批評眼は一流だと感じた。それで,いま再び新訳で『零度のエクリチュール』(かつて出ていた邦訳の題はこのように名詞がひっくり返っていたはずである)を読み返せば,学生時代に投げ出したこの高名な書物からなにかを学ぶことが出来るのではないかと期待した。果たして無駄であった。翻訳文を,— 恥ずかしながら — 文字通り一行も理解できなかった。

訳者も普通に読んで理解できないこの書の難解さを知っているらしく,本書の頁分量の半分以上,つまり本文以上の頁数を訳註・解説に割いて大童である(よって,フランス語で読んでもどうも晦渋な書物らしいと知れる)。しかし,その訳註を読んでも,本文がなにを言わんとしているのか,またなぜそんな註が可能なのか,ひいてはその註自体すら本文と同様,不親切な符丁で説明してくれていて,まったくもってわからない(人名解説は別として)。このわからなさの原因は,私の頭が悪いのか,翻訳が la petite mort 直訳ゆえなのか,ロラン・バルト自身の天邪鬼ぶりゆえなのか。判断できない。おそらく第一の要因が強いのだろう。でも第二の要因も相当疑わしいのである。そもそも「翻訳」なのだから,少なくとも日本語として意味が通るようにしていただけないものでしょうか。

こんな徹頭徹尾理解できない文章を書くことができるとは素晴らしい。称賛に値する(私は皮肉抜きで正直に言っているのだ)。insomnia 眠れない夜に格好の道具になる。でも,この「翻訳」でバルトを理解した人がいるのだろうか。「実際,同時代の著作家たちに共通の規則や慣習の集合体である《言語体(ラング)》や,著作家の身体や過去の個人的神話から生じる《文体(スティル)》とは独立した,文学の第三の形式的現実としての《エクリチュール》は,その後のバルトによって放棄されたかのようにみえる」など,これまたわけのわからない符丁(下線部分)に満ちた日本語文を,なんの前置きなくして気軽に書いてくれるフランス文学者がゴマンといる。こういう隠語だらけの文章を書くことのできる地点を「理解」だというのだろうか。

本書はおそらく文学論ではなく,聖書やコーランの神妙な説話や仏教経典にも似た壮大なメタファーなのである。事実の観察,分析,その総合としての「論」ではなく,いきなり「悟り」が比喩をもって繰り広げられる「神話」である。威厳と象徴に満ちた語り口に対して,たくさんの研究者が — 親切にも — 膨大な注釈を行う活動そのものに意味があるような。そしてまたその注釈そのものが他ならぬメタファーになっているとはどういうことか。まるで「啓示文学」である。こういう「論」にわれわれパンピーがこれら研究者と同じように付き合うのはやめたほうがよさそうである。なぜなら,どうもこれを「理解」しても,先に引用した日本のフランス文学者のようなわけのわからない啓示的比喩に満ちた文章を書くことにしか資しないようであるからだ。本書のアマゾンの評価は最高点の五つ星である。その評もぜひ読んでみてください。比喩の素晴らしさを同じ比喩でもって称賛しているに過ぎない。比喩の連鎖は「論」ではない。

海外アニメのファンは,日本アニメ・オタクたちの使う「ツンデレ」,「ヤオイ」,「ショタ」などの隠語について,自国語のことばで咀嚼した訳語を使わず(だから「定義されない」状態のまま),日本語のままで流通させている。でもそれは,アニメ文化を彼らが自らの文化に受容し消化したというよりもむしろ,アニメ・オタク・ジャポネーを真似してその雰囲気を楽しんでいるに過ぎない。本書において「アンガジェする」だの,「シニャレする」だの,「シニフィエする」だの,フランス語がそのまま翻訳文に紛れ込んでいる姿は,この海外アニメ・オタクたちの楽しみ方とまさに同じである。日本語訳としてのあまりの支離滅裂さに,どうも雰囲気を楽しんでいるとしか私には「理解」しようがない。確かに,日本語として「理解」せずともその雰囲気を「真似」することはできそうである。「三島由紀夫の『金閣寺』は,かれの豊饒なる空虚としてのエクリチュールをもって — それはほかでもない,文化という残酷な標章(「シーニュ」とのルビが振られている)の一系列にも近似した金色の楼閣を,戦後覆されてしまった『語られる言語(「ランガージュ・パルレ」とのルビ)』に偏在する虚無(「リアン」とのルビ)として描くことによって —,あたかも文学の小さな死(「プティット・モール」とのルビ)を宣告したともいえよう」— これはいま私がテキトーに「真似」してみせただけである。まあよい。文学者には暇人が多いものである。でも,la petite mort がただの「イク」なのに「小さな死」の形而上学的ニュアンスに読み替えられているとしたら,こんな滑稽はない。

もちろん,私にはフランス語原典とこの翻訳とを見比べて評価する能力がない。上記は私の頭の悪さを露呈しているに過ぎないかも知れない。わけのわからぬ翻訳を読んでいて,その内容とはまったく関係のない la petite mort がつい頭をよぎってしまった。まともな — つまり,翻訳文が日本語であることをまず第一に考える — フランス文学翻訳者の意見をぜひ聴いてみたい。
 

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)
ロラン・バルト著
森本和夫・林好雄訳註
筑摩書房

※ 2010.7.17 付記

上記は本書そのものについては何も書いていないので付記しておく。

本書は,書かれたものにある言語要素に対して,書き手個人や社会集団,歴史等に特有の価値観・情念・概念がどのように担わされているのか,文学・政治評論等におけるそうした諸相の姿を「エクリチュールの度数」で喩えたものである。「エクリチュール」という概念を広めた重要な書物のひとつである。そのおかげで — もちろん酷い翻訳にも後押しされて —,流行に敏感なわが国のインテリ(フランス文学思想ヲタ)は勝手気ままにまさしくお飾りで「エクリチュール」という語を使うようになってしまっている。

零度のエクリチュールというものが個人,社会集団,歴史の価値観・感じ方から絶対的に自由な理想的状態と仮定するならば,じゃあ,10 度の,150 度の,等々のエクリチュールとは何か,それはどうしてそう「測れるのか」についての定式を,ロラン・バルトはどうして示さないのだろうか? 「抒情詩は 1000 〜 2000 度の範囲にある」— 例えば,こういうような理論(もちろんこのような一次スカラー的な単純なものにはなりそうもないのだけど)を導き出そうとしないで,「零度の」とはいったいどういうことなのだろうか。科学的表現がただの「比喩」で終わってしまっている。私は,まさにこうしたロラン・バルトの方法論にいたく不満であって,それゆえに本書は科学的たろうとして果たせなかった文学理論の敗北の書である,と考えている。

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