鏡の中の鏡の最近のブログ記事

とある知人 M は文芸書の出版社に勤めていて自費出版の編集を担当している。この版元は自費出版でもきちんと校正作業をするそうで,良心的である。いま担当している老女の俳人著者がまるで嫁いびりでもするかのように彼女を責め,これまでなんの問題もなかった編集作業の仕方にまでケチをつける。そのイビリ電話が毎日 30〜40 分にも及んで,M は心が壊れそうだという。俳句詠みだからといって,十七文字のごとく凝縮された表現で不満をぶつけるのではないらしい。逆に,ドストエフスキイ小説の登場人物のように何頁分もの言葉を一気にしゃべって疲れを知らない人だと見受けられる。「俳句は結構上手いんだけど」と M。ゲラ刷りを見て字体,紙の色,インクの色が気に入らないと言い,自分で作ったワープロ出力を送って来て,この通りにしろ,などと出版素人丸出しの要求を突きつけて来る。「だからあなたは雑だっていうのよ」だと。行間のアキ,文字色に拘りがあるのであればはじめにそのように要求仕様を提示すべきであるし,紙の色はゲラの段階では粗悪に決まっている。

出版という業界はなぜか知らぬが,私などからみると見積・契約が極めていい加減である。著者から自費出版の話があると,カネが決まらないうちに仕事をしはじめてしまう。担当者はカネを握らされておらず原価管理をせず,ひたすらよい本を出すことに注力するため,そんな手順にはおかまいなしのようである(だから作業手順の原価低減努力がまるでなされない)。著者のほうも,文化人気取りなのか,カネの話で「私の傑作句集を出すロマンが穢される」とでもいうのか,見積・契約を曖昧にしたまま仕事を依頼してしまうようである。もとより自費出版で本を出すなんてのは著者一世一代の決断なのだから,カネは十分に準備しているものなのだろうけれど,この手順の逆転は,ごく一般の企業のサラリーマンである私には信じられない。

M 担当のこの婆さんについても,やっぱりいつもの客と同様,カネの話は抜きにして原稿を送って寄越し,口絵にする写真の由来の自慢話をくどくどとはじめたようである。つまり,まずは作業がはじまったらしい。ところが初稿のゲラが出た段階になって,この俳人婆さん,「お見積もりはどうなっているのかしら」と来た。見積を送る。この時点で業者側は最悪の事態に直面したも同然だと私なら考える。案の定,婆さんからは ---「これ高過ぎじゃないの? 他の本屋よりも全然高くて,夜も眠れないじゃないの!」。

ここで婆さんが「高いので止めにした」と決断すると,出版社としては見積・契約もせずに勝手に仕事をしたということになり,それまでの作業はパー,かかった外注経費も取り損ねるはめになる。これは商法上の常識である。いくら婆さん自身も,この常識を意識せず仕事を「させた」ことに問題があるとはいえ,責任は業者が取るべく世の中はできている。私は主任になりたてのころ,見積の延長で勝手に仕事を進めてしまい,協力会社に作業をさせ,結局案件を受注できず数千万の赤字を出し,責任を取らさせられた経験がある。設計は見積のレベルを越える仕事=「作業」であるし,見積合意・契約が成立しないうちには「作業」を絶対にしない・させないがそれ以来,鉄則になっている。

さて M は困った。デザイナーにも装丁を依頼済みである。これで婆さんに止められると今までの仕事が水の泡になる。上司の M への評価も変わるかも知れない。カネを握る会社の上役が作った見積根拠文書を婆さんにまずは送ったそうである。私は第三者なのであまり立ち入ったことはわからず気の利いたことが言えない。それでも自分の経験から少し助言した ---「見積合意抜きで仕事をしたのは出版社側の非。でもじつは婆さんにとって,どうでもよいネタでウサ晴らしにただ君を責めたいだけなんだろうから,それを逆手にとって嫁いびり婆さんを少しいじってやれば? 自分から見積についてクレームを言っている訳だから,その婆さんにこう言うべきだね。『その見積根拠に対して,ご了承いただくかまたの機会とお考えになるか,ハッキリ決めていただかないうちは本作りを進められません。ついては,ご判断がついた段階でご連絡ください。それまでは仕事を止めてお待ち申し上げます』。老人は我儘でセッカチだ。時間がなにより大切で,自分の本が出る日程が延びるかも知れない,となったらただごとではない。『夜も眠れないというお話でしたし,勝手には進められません』とイヤ味のひとつも言っていい。そうしておくと,相手がババを握るのだから,見積だけに話題を集中でき,それ以外の論点をシャットアウトする根拠になる。余計なイビリをされる前に話を打ち切ることができると思うよ。『申し上げました通り,お決めいただかないうちは本のお話はできません。それでは』って言えばいい。何日かしたらこちらから先手を打って,『見積の件,どうなりましたか,早くしていただかないとデザイナーを手放さないといけなくなります。ご希望の日程で出版するのも難しくなります』ってやんわり脅すんだ。とにかくいい本を出すための正論はズバズバ言えばいい。そうすることで優位に立つことができると思うよ。理由もなく文句をたれる者には,右手が痛い,左足がお前の所為で痛む,と言われる前に,目的のためには心臓をまず治さないといけない,と論点を先に限定するんだ。そうすると相手が次に何を言って来るにせよ,あらかじめ往なし方,返し方を考えておくことができる」。

しかし,その後の数日,婆さんからなんの音沙汰もないらしい。「仕事が雑」などと相手の人間性を否定しながら,見積について「夜も眠れない」と文句を言いながら,その根拠を提示されたのに内容についてウンともスンとも応答を返さないヤツ。実際に,私が仕事で付き合う上でもっとも許せないタイプの人間のようである,このババアは。どうも俳人,歌人,詩人,小説家という奴らは自意識過剰で,本屋の担当者なんて歯牙にもかけない「文化人様」らしい。本というものが編集者,組版担当,印刷業者,製本業者,デザイナー,仲介業者など多くの人々の協同で成り立っているということをまったく考えず,自分ひとりで本が出来上がるとでも思っている。私にもここでメラメラと怒りが湧いて来た。不謹慎ながら,『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフに斧で叩き殺された悪徳金貸し婆さん・アリョーナを想像した。そうそう,これからはこの婆さんをアリョーナと呼ぼうじゃないか。

お年寄りをぞんざいに扱うなど許せない行為だけれども,社会人としてあるべき姿から逸脱し,他人を軽んずる者に対しては,相手が誰であろうと仕事の上で社会人としての正論であざ嗤ってやる,仕事の見返りを十分にふんだくってやる,というのが私の秘かな主義である。イヤな客との付き合いにおいて,そうでもして楽しまないと,「弱き業者」根性に荒んで心が病んでしまうのだ。実際に病んでしまった担当者を私は山ほど見て来た。M にも,プロなんだからいい本を出す(いい作品かどうかは知らん)とともに,社会人として徹底的に蔑んでやればよい,とけしかけた。「見積説明に対して反応がないなら,こっちから電話して,ガンガン,フォローすりゃいいじゃねえか」と私は言うのだが,M はどうにも電話がしづらいらしい。

清水義範という作家は,井上ひさしよりも若い世代のなかで,もっとも偉大なギャグ小説家のひとりだと私は思う。『蕎麦ときしめん』によりパスティーシュ・ジャンルを確立した作家として名を轟かせている。とにかく,彼の小説を読めば,その知的なパロディー,ユーモアでげらげら笑いながら最高のひとときを過ごすことができる。講談社文庫版『国語入試問題必勝法』は表題作をはじめ,七つの短編を収録している。

『猿蟹合戦とは何か』は,太宰治がなぜ『お伽草紙』で『猿蟹合戦』を採り上げなかったのかという問いから話がはじまる。この作品は丸谷才一のパロディーである。丸谷独特の旧字・旧仮名遣いと語り口を真似ていて痛快なのだ。自分の仮名遣いに関する丸谷の断り書きまでパロっていて芸が細かい。そして,この文庫本の解説を丸谷が書いているのが,なんとも笑える。

表題作『国語入試問題必勝法』は日本の受験国語問題,ひいてはマルバツ式の日本の国語教育に対する痛烈な批評である。「次の文を読んで問いに答えよ」なる問題で,その文を読まずにまず問いとその選択肢を読むべきである,とのテクニックが語られる。「まず,このことを知っておくんだ。こういう問題でたとえば選択肢が四つある場合は,大,小,展,外,の四つになっていることが多い。選択肢が五つの場合は普通これに,誤,というのが加わる。[ ... ] この種の問題の正解はこの,ちょっとピントが外れている,外,なんだ」(pp. 43--5)。国語の大学入試問題の本質的愚劣さを嗤いのめしている訳であるが,それは受験生の限界に合わせた結果ではなく,試験を作る教育者側の問題だと暗に語る:

月坂によれば,もちろん世の中には神秘的な気分や,幻想的な美を描いた詩や散文は存在するのだが,国語問題の出題者のレベルではそういう高度なものは理解できない。だから出題するはずがない,というのである。
 奴らが理解できて,喜んで出題するのは,故郷への思い,異国への憧れ,孤独の悲しみ,青春の苦み,くらいが関の山で,どちらにしても人間の心情のことばかりだという。
清水義範『国語入試問題必勝法』講談社文庫,1990 年,pp. 50--1。

問題の本文よりも先に設問と選択肢を読む,選択肢を読むだけで正解がわかることがある --- おお,これ,俺もそうだったぞ,と納得してしまう。私も大学の国語入試問題の回答はテクニックだと割り切っていたほうなのだ。このせせこましさで大学入試を切り抜けたのは事実である。高校生の息子にもこれを読ませた。ところが,きちんと本文を先に読んで回答するタイプだった妻と,国語入試問題への取り組み方について論争になった。「やっぱり,きちんと本文を読んで理解したうえで回答すべきなのよ。だからこの本で笑われているのは,お父さんタイプの生徒だということ」。同じ大学の国文科を出た妻のほうが,国語の成績が私よりも圧倒的によかったのは言うまでもない。この論争の結果,息子がどちらの言うことを聞くのか,これもまた言うまでもない。それでも,清水の穿ったパロディーには大笑いできること請け合いである。
 

シェークスピア『ハムレット』第三幕第一場に,あまりにも有名な台詞 "To be, or not to be" が出て来る。ハムレットのディレンマというものである。「生きるべきか,死すべきか」(小田島雄志訳では「このままでいいのか,いけないのか」となっている: シェイクスピア全集『ハムレット』小田島雄志訳,白水社,1983 年,p. 110)。

これを捩ってアメリカ人学生がよく口にする,次のような半畳があるらしい: "TV, or not TV"。「テレビを観るべきか,観ざるべきか」。娯楽か,勉学か。晩ご飯のとき,この話を子供たちにしてやった。テレビではお笑いバラエティーが放映中。「うん,シェークスピア,知ってるよ」。違うよ。おまいらテレビ観過ぎってこと。「That is the question」。そしたら,すかさず娘が切り返す ---「You, father, too」。あのな。
 

息子が新型インフルにかかってしもた。かわいそうに,40 度近い熱で唸っている。吸引タイプの薬をもらってきた。新型インフル問題では,ここのところ罹患率がきわめて高くなり,ワクチン接種運用が混乱している。半年ほど前は宝くじ当籤レベルだったのに。あの当時の大阪などの学校閉鎖騒ぎはいったいなんだったのか。いまこの季節,受験生は戦々恐々だろう。その親もしかり。ああ,俺もなんだか頭が痛くなってきた。

* * *

本を読み飽きて,退屈しのぎに LaTeX で遊んだ。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に出てくる鏡の国では,すべてがあべこべ,本の文字も反転している。その鏡の国の文字を組んでみた。
 

alice-mirror.jpg

フォントは Garamond ファミリー。文字の反転は graphicx パッケージの \reflectbox 命令を使っている。

\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{graphicx}
\usepackage[T1]{fontenc}
\pagestyle{empty}
\begin{document}
\usefont{T1}{ugm}{m}{n}% Garamond
\begin{center}
\itshape\Large%
\reflectbox{JABBERWOCKY}\\
\reflectbox{'Twas brillig, and the slithy toves}\\
\reflectbox{Did gyre and gimble in the wabe:}\\
\reflectbox{All mimsy were the borogoves,}\\
\reflectbox{And the mome raths outgrabe.}%
\end{center}
\end{document}

Windows 7 が発売された。Windows ファンの皆さん,おめでとうございます。

秋葉原のパソコン量販店では,夜中の 0 時にカウントダウンセール・イベントが催され,平日深夜にもかかわらずたくさんの人が集まったとか(まあ,パソコン・オタク達なんだろうけど)。Vista があまりにもひどい OS だったためか(私の感想ではありません),かえってコンピュータ・オタクたちの期待感を刺激しているようである。とはいえ,Windows 95 発売のときはこれ以上の大フィーバーであった。「Windows 知らぬ人から窓際族(ウィンドウズ)」なる川柳が詠まれた時代である。

Windows 95 は,マルチタスキングという装備を,IBM System 360 から 30 年以上,UNIX から 20 年以上も遅れて,やっと実装したに過ぎないにもかかわらず,パーソナル向けということから,さも画期的でもあるかのようにもてはやされ,その発売が一大事件として取り扱われた。「プリエンプティブ」だとか,訳のわからない新コンピュータ用語が大流行りになった。「先買権のあるマルチタスク」ってどういうことか。タイムシェアリング・マルチタスキング(古典的時分割多重処理方式)と何が違うのか。いまもってさっぱりわからない。マイクロソフトは,ごく当たり前の計算機ソフトウェア処理方式に対し別の比喩的英語を当てることで,なにかすごい発明をしたように見せるのがじつに巧妙なのである(どこかの文芸批評理論とそっくりなんである)。私もかつて Windows 95 が話題となったとき,顧客に自社 PC を売り込む際,マイクロソフトの尻馬に乗って「プリエンプティブなマルチタスクが実現されている」と説明したことがある。大型汎用機運用のプロであったその顧客は「TSS(タイムシェアリング・システム)とどう違うの?」と正鵠を射た突っ込みをした。「言葉が違います」と私。一同大笑いしたことが懐かしい。確かに,「コンピュータの大衆化」ゆえに,遅ればせながら TCP/IP を実装した Windows 95 はインターネットを爆発的に普及させた。その功績は否めません。

今回も,Windows 7 の何がそんなにありがたいのか,私はさっぱりわからない。いま勉強中である(というより Windows サーバーが 64 bit オンリーになるとき,何が起こるかを死活問題として考えているといったほうがよい)。Windows 95 以降,私は計算機商売にありながら,私的には世の中に取り残された感が否めない。

でも全然気にならない。その時代の流れには利用者にとって何も新しいものがないからである(その間のソフトウェアの進化はことごとく開発者向けである)。ハードの進化はさておき,パーソナル計算機でできることはこの 20 年ほど,本質的には何も変わっていない。ソフトウェアとしては,そう,辞書の収録語数が増えたような進化である。Web,メールによるコミュニケーション・情報収集,ワープロ,スプレッドシート,プレゼンテーション,テキストエディタによる文書作成,息抜きのゲーム,エッチな画像・動画閲覧 --- これがほぼ不変のすべて。しかも,動画などの画像系アプリケーションは,ユーザーサイドからみると,従来の映画,写真集の品質の足下にも及ばない。オーディオ・アプリしかり(進化しているのは「作る」ためのものである)。私の愛する LaTeX アプリケーションも出版技術の後追いである。使う側の大半は少しも進化していないのである。怠惰で自己中心的な「教えて君」や,一事が万事の頭の悪い「ネット右翼」,礼儀知らずの匿名2ちゃんねらーが蔓延って,むしろコンピュータ・リテラシーは退化しているといってよい。

その一方で,パソコンの普及により,ソフトウェアのブラックボックスを甘受しつつ表層的な事象に意味を見出したがる文科系コンピュータ・ユーザーが増えたおかげで,HTML の書き方のような些末なことにうるさい人々が増えつつある。パソコンの活用が何かしらしかつめらしいイデオロギーを纏いつつある。「そんな使い方は冒瀆だ」テキな。手段でしかない計算機技術の何かが,ロラン・バルトのいわゆる「エクリチュール」(ある時代や集団に特有の価値観・世界観に裏付けられた,表現・言語マナーの体系)になりつつあるのである。馬鹿みたい。計算機とは「汎用的ソフトウェアを利用する」ためではなく,「自分の個別目的のためのソフトウェアを作る」ためのものだ,という原初的計算機観に取り憑かれてしまっている私にとっては,「しかるべき利用方法」なんてのは畢竟どうでもよい。

自分だけの課題は出回っているソフトでは解決できないことのほうが多い。例えば,あるロシア詩人の詩の脚韻パターンの正確な統計を調べたいといった特殊な要請が,独自研究をなす者にとっては課題の多くを占めている。特殊であるからこそ研究に値するのだ。そういうとき,自分でその調査のためのソフトウェアを「作る」しか解決の手立てがないのである。そして計算機はそのためにこそ無限の可能性を秘めているのである。そういう意味で,ソフトウェアの「利用」ではなく「開発」こそが計算機という機械の目的の核心だと私は考えている。ソフトウェアを「作る」ことなく既成の汎用ソフトウェアで満足していると,それでできる範囲で「作法」が成立することがある。私には,そんなのは己の通じた「手段」を神格化しているだけの自己満足に思われてしようがない。

思うに,そもそも「利用方法=コンテンツ」と「HTML=手段」をごっちゃにしている HTML リゴリスト達は --- HTML が「高級」言語であるだけいっそう --- なんともレベルが低い。原稿用紙の使い方ばかりに執着する物書きと同じだからだ。「正しい HTML」,「HTML の思想」,「HTML の資格」云々。ホント,バカじゃなかろうか。いやはや,これをフェティシズムと呼ばずしてなんと言うのであろう。だから「文科系」は「理科系」に嗤われるのである。

私は計算機言語の古典ギリシア語のようなアセンブラにはじまり,HTML,XML などの超高級言語に至るさまざまな計算機言語を学んで来た。その過程で機能実現以外にもそのプログラミング所作・癖そのものが一種の美学になる様も職場で何度も経験して来た。計算機言語にも日本語や英語のようないわゆる一般言語と同じような「文体」・「マナー」論議があることにほんとうに驚いたものである(昔その一端を駄文『鏡の中の鏡』にも書いた)。計算機ハード技術の進化には 3 年で 2 倍になるという「ムーアの法則」と呼ばれる経験則がある。この破滅的進化において計算機言語にまつわる考え方が,人類の一般言語(文字,表記,文法などなど)との関わり方の悠久の歴史をごく短期間でシミュレーションしているようで,極めて興味深い。「計算機言語のエクリチュール」とでも題して,何か面白い文化論ができそうな予感がある。

la petite mort ということばをご存知だろうか。フランス語で petit は「小さい」,mort は「死」。つまり「小さな死」。これを含む仏文について「私はそのとき小さな死に浸っていた」という訳を読んだら,われわれはどう感じるだろうか。なにか哲学的な観照に,高尚な気分に話者が取り憑かれていると思うのではないだろうか。じつは la petite mort とはセックスにおける絶頂感,あるいはその後の虚脱状態の謂いである。日本語の「イク」,「イッちゃった」という俗語とあまり変わりない。日本語も,一線を越えて別の世界へ達する意味で,la petite mort の捉え方と酷似している。この訳は「おれはイったあとのあの脱力感を覚えていた」くらいでないと意味不明ではなかろうか。ところが,「イク」を「小さな死」と日本語に訳されることで,もとの意味が雲散霧消するのみならず,たんなる俗事が一気に詩的・哲学的なものに昇華する。フランス現代文学・批評の翻訳は,どうもこの la petite mort 直訳のようなものが多すぎるのではないかと私には思われる。これがあの難解さの一因ではないかと。

ロラン・バルト『エクリチュールの零度』の翻訳(森本和夫・林好雄訳註,ちくま学芸文庫,1999 年)を読みなおして,なにかフランス批評の翻訳には,la petite mort に類するボタンの掛け間違いがあるのではないかと忖度してしまう。それほどに,まったく意味不明なんである。それでいて哲学的な観照と高尚な気分だけはなんとなく察知される。私は先日,同じ著者による『表徴の帝国』を読み,それなりに感銘を受け,やはりバルトの批評眼は一流だと感じた。それで,いま再び新訳で『零度のエクリチュール』(かつて出ていた邦訳の題はこのように名詞がひっくり返っていたはずである)を読み返せば,学生時代に投げ出したこの高名な書物からなにかを学ぶことが出来るのではないかと期待した。果たして無駄であった。翻訳文を,--- 恥ずかしながら --- 文字通り一行も理解できなかった。

訳者も普通に読んで理解できないこの書の難解さを知っているらしく,本書の頁分量の半分以上,つまり本文以上の頁数を訳註・解説に割いて大童である(よって,フランス語で読んでもどうも晦渋な書物らしいと知れる)。しかし,その訳註を読んでも,本文がなにを言わんとしているのか,またなぜそんな註が可能なのか,ひいてはその註自体すら本文と同様,不親切な符丁で説明してくれていて,まったくもってわからない(人名解説は別として)。このわからなさの原因は,私の頭が悪いのか,翻訳が la petite mort 直訳ゆえなのか,ロラン・バルト自身の天邪鬼ぶりゆえなのか。判断できない。おそらく第一の要因が強いのだろう。でも第二の要因も相当疑わしいのである。そもそも「翻訳」なのだから,少なくとも日本語として意味が通るようにしていただけないものでしょうか。

こんな徹頭徹尾理解できない文章を書くことができるとは素晴らしい。称賛に値する(私は皮肉抜きで正直に言っているのだ)。insomnia 眠れない夜に格好の道具になる。でも,この「翻訳」でバルトを理解した人がいるのだろうか。「実際,同時代の著作家たちに共通の規則や慣習の集合体である《言語体(ラング)》や,著作家の身体や過去の個人的神話から生じる《文体(スティル)》とは独立した,文学の第三の形式的現実としての《エクリチュール》は,その後のバルトによって放棄されたかのようにみえる」など,これまた訳のわからない符丁(下線部分)に満ちた日本語文を,なんの前置きなくして気軽に書いてくれるフランス文学者がゴマンといる。こういう隠語だらけの文章を書くことのできる地点を「理解」だというのだろうか。

本書はおそらく文学論ではなく,聖書やコーランの神妙な説話や仏教経典にも似た壮大なメタファーなのである。事実の観察,分析,その総合としての「論」ではなく,いきなり「悟り」が比喩をもって繰り広げられる「神話」である。威厳と象徴に満ちた語り口に対して,たくさんの研究者が --- 親切にも --- 膨大な注釈を行う活動そのものに意味があるような。そしてまたその注釈そのものが他ならぬメタファーになっているとはどういうことか。まるで「啓示文学」である。こういう「論」にわれわれパンピーがこれら研究者と同じように付き合うのはやめたほうがよさそうである。なぜなら,どうもこれを「理解」しても,先に引用した日本のフランス文学者のような訳のわからない啓示的比喩に満ちた文章を書くことにしか資しないようであるからだ。本書のアマゾンの評価は最高点の五つ星である。その評もぜひ読んでみてください。比喩の素晴らしさを同じ比喩でもって称賛しているに過ぎない。比喩の連鎖は「論」ではない。

海外アニメのファンは,日本アニメ・オタクたちの使う「ツンデレ」,「ヤオイ」,「ショタ」などの隠語について,自国語のことばで咀嚼した訳語を使わず(だから「定義されない」状態のまま),日本語のままで流通させている。でもそれは,アニメ文化を彼らが自らの文化に受容し消化したというよりもむしろ,アニメ・オタク・ジャポネーを真似してその雰囲気を楽しんでいるに過ぎない。本書において「アンガジェする」だの,「シニャレする」だの,「シニフィエする」だの,フランス語がそのまま翻訳文に紛れ込んでいる姿は,この海外アニメ・オタクたちの楽しみ方とまさに同じである。日本語訳としてのあまりの支離滅裂さに,どうも雰囲気を楽しんでいるとしか私には「理解」しようがない。確かに,日本語として「理解」せずともその雰囲気を「真似」することはできそうである。「三島由紀夫の『金閣寺』は,かれの豊饒なる空虚としてのエクリチュールをもって --- それはほかでもない,文化という残酷な標章(「シーニュ」とのルビが振られている)の一系列にも近似した金色の楼閣を,戦後覆されてしまった『語られる言語(「ランガージュ・パルレ」とのルビ)』に偏在する虚無(「リアン」とのルビ)として描くことによって ---,あたかも文学の小さな死(「プティット・モール」とのルビ)を宣告したともいえよう」--- これはいま私がテキトーに「真似」してみせただけである。まあよい。文学者には暇人が多いものである。でも,la petite mort がただの「イク」なのに「小さな死」の形而上学的ニュアンスに読み替えられているとしたら,こんな滑稽はない。

もちろん,私にはフランス語原典とこの翻訳とを見比べて評価する能力がない。上記は私の頭の悪さを露呈しているに過ぎないかも知れない。訳のわからぬ翻訳を読んでいて,その内容とはまったく関係のない la petite mort がつい頭をよぎってしまった。まともな --- つまり,翻訳文が日本語であることをまず第一に考える --- フランス文学翻訳者の意見をぜひ聴いてみたい。
 

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)
ロラン・バルト著
森本和夫・林好雄訳註
筑摩書房

うちの中学三年になる娘は『ポップティーン』などのギャル雑誌が大好きである。「ギャル」というのは「流行には敏感な(ちょっとおつむの弱い)娘さん」のことではなく,最近ではもう少し限定的に用いるようである。つまり,髪を「盛」ったように飾りつけ,ツケマ(付睫毛)をしたちょっとケバイ女の子のことである。「くみっきぃ,ちょー盛れてる」と浜崎あゆみ風の鼻にかかったしわがれ甘え声で言う。オヤジ・私は呆れるばかりである。私の趣味に合わないから。でも,まあ許せる。私の趣味に合わないだけだから。そういうスタイルがあってもよい。

娘の話では,先日『めざましテレビ』で外国人ギャルが採り上げられ,そのなかでフランス人ギャルがとくに多かったらしい。アニメ・マンガの受容もフランスが過激でもあり,日本のギャル文化に捕まるのもフランス人が多いということか。フランス人は個人主義が徹底していて,好きになったものはそれを誰がなんと言おうと貫いて憚らない潔さがある(そういう意味で,「皆がやってるから」式日本的女子高校生の集団的軽薄さとは相容れない喜悲劇を,私はこれらミニョン・ギャルたちの行く末に想像してしまう)。

娘の学校のとある友人宅は外国人留学生のホームステイを受入れている。いまポルトガルから来た女子高校生が滞在しているというので,娘たちは好奇心で会いに行ったらしい。なんとその子も他ならぬ「ギャル」であって,日本の「ジョシコーセー」スタイルを謳歌していたらしい。自己紹介を頼んだところ ---「え? 自己紹介? えー,なーんかちょー恥ずぃんだけど!」とそのアンジェラちゃんだか,ガブリエラちゃんは,日本人の女子高校生とまったく変わりない抑揚,発音でもって流暢なタメ口をききまくって,恥ずかしがったそうである。

このようにいまや日本は海外の若者(極々一部ではあろうけれども)にとって神秘的でも何でもなく,心から共感できるスタイルを持つ国になったようである。私などからすれば,このポルトガルの娘さんももう少し「まともな日本語」を覚えて帰国してほしいと願わない訳ではない。だけど,娘の伝える「ちょー流暢な」日本語だって「パロール」に他ならず,別に「正しい,礼節ある」日本語でなくても日本のナマの姿を彼女は歓喜をもって吸収しているようである。そう思うと,微笑ましい。少なくとも,武士道,禅,生花,能,などの,日本人の一般的生活からかけ離れた「高尚な」芸術・哲学のみに関心を向ける海外のエキゾチスム愛好文化人の話題なんかよりも,よっぽど日本が海外に受入れられていることを実感するのである。

それにしても,「難しい」とされる日本語の習得において,こういう十代の若者たちがアニメやギャル文化を通して日本人と変わりない言語マナーを早々に身につける姿を知ると,外国語の習得にはその国の生活・文化スタイルとそれに付随するオーラルな言語所作への共感がなにものにも優るということが改めてわかる。「秋葉いつき」なるペンネームをもつロシア人アキバおたく・ジェーニャ嬢(いつきたん〔註:「いつ来たん?」ではない。言うまでもなく「いつきさん」のオタ訛り〕)も,日本アニメの声優に憧れて来日し,瞬く間に日本語を我が物とした。おそらく彼女は日本語の文字,ことばの意味などよりも先に,愛するアニメ・キャラクタの声の所作を寸分違わずコピーしようとしたに違いない。

井上陽水は私の好きなアーティストのひとり。1972 年にデビューし,1973 年『氷の世界』がヒットして有名になった。小学校 6 年のころ「心もよう」を耳にして,その歌詞にあるように「青い便箋」のようなうら悲しい歌に惹かれた。

学生運動の熱気が去って孤独に打ち拉がれた若者が世界に悪意を抱きつつ自分の弱さに苛立つ時代だったと思う。弱さは安易な集団的暴力と結びつくことがある。その当時,浅間山荘事件,三菱重工爆破事件など不穏なテロが頻発していたのである。陽水はそんな 1970 年代の荒んだ世代の敗北者精神を代表していたと私は勝手に思っている。

テレビでは我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をしてしゃべっている
だけども問題は今日の雨 傘がない
井上陽水「傘がない」

1981 年,大学に入ったころ,「ジェラシー」がヒットした。「ワンピースを重ね着する君の心は ...」というような歌詞が,陽水らしいあの暗いわからなさを引き継いでいた。この曲を聞くと,国文学科に行った友人 M を思い出す。いつも坊主頭にしていて,ちょっと偏執狂的なところがあった。深夜に私の下宿をぶらっと訪ねて来ては「藤村の詩を読むと泣いてしまうんや」と金沢訛りで独言しながら,大真面目な顔で畳に座っていたものである。私の聞いたこともない 19 世紀ドイツ作家作品の,M による翻訳をよく読ませられた。そのころの私はビーダーマイヤー時代のドイツ小説は日本の私小説と同様つまらないものと誤解していたのだ。かと思うと彼は「裸の女二人が温泉に入るテレビ番組,あれ好きなんや」という一面も持ち合わせていた。私はこの深夜番組を見せてもらいに,よく同じ下宿の友人部屋に行った。私も大好きだったのだ。M はこういうところでへんに気が合う友であった。ドイツ人のように冗談を解さずまったく笑わない彼は,よく衿付シャツを重ね着していたのだ。彼は「不思議な世界を彷徨い歩いていた」のだと私はいまでも思う。

後輩の T は,露文研究室で学生同士話をしていると,ふといきなりギターを手に取って --- そのころは誰のものか知れないギターがどの研究室にも転がっていたのである ---「甘いくちづけ ... 遠い思い出 ...」とろうろうと歌い出すことがよくあった。ドストエフスキイに身も心も捧げた T の歌う陽水には凄みがあった。こいつ女にもてたのだ。いい男だった。そのころはギターで井上陽水や河島英五の弾き語りをする者が多かったのである。もうひとつ。農作業の手伝いをしたりその家の子供たちと遊んだりして,1週間ほど十勝で過ごしたことがある。そのとき一緒に行った同級生(三浪で大学に入った,風来坊のような男だった)は,宿泊施設(町の公会所みたいな掘建て小屋であった)で農家の子供たちとゲームをしたあとで,ギター片手に「心もよう」を歌って子供たちを神妙にさせた。

学生時代の思い出のなかでは,このように陽水の曲が流れていることが少なくない。井上陽水について語ることは感情のお里が丸出しになるような恥ずかしさがある。しかし,陽水的 70 年代の残骸のような者たちが暗い生き方をする(「ネクラ」と言われた)一方で,1980 年代は脇目も振らずバカ明るくてお金をもっている者たち(「ネアカ」と言われた)が我が物顔になった時代である。高校野球のような,皆が一律坊主にしてひとつの目標に向かって努力する集団的営みが鼻で嗤われる時代になったのである。努力,真面目はダサイものとなった。貧乏は恥となった。この「ネアカ」たちに圧倒的に支持されたのがサザンオールスターズである。ご存知のとおり,サザンはいまだにヒットを飛ばし,要するに JPOP の「勝ち組」であり,つまりは 1980 年代以降の日本人の趣味をある意味で決定づけたともいえる。

私はいまだにサザンより陽水を高く買っている(私は桑田佳祐も好きなんだけど)。あのサザンの時代・80 年代にこそいまこの現代の病巣があるとさえ思っている。ゆえに,私はいわゆる「負け組」である。
 

GOLDEN BEST
井上陽水
フォーライフ ミュージックエンタテイメント (1999-07-28)

午過ぎに起きてきて,ひとり遅い食事をとり,少し本を読み,FreeBSD で Emacs をいじくりまわす。今日もそんないつもの休日であった。夕方,バッハのマタイ受難曲,ブルックナーの 9 番を聴く。「マタイ受難曲を聴いた」と妻に言うと,--- 娘が横から「え? ママの体重が何キロか聞いたって?」。「信長殿も信長殿だがねね殿もねね殿じゃ --- お父さん,早口で言ってみて」。妻が掃除中,私の灰皿のチェブラーシカの首を折ってしまう。晩ごはんのあと,iPod で日本の旧き良き歌謡曲を聴きながら,食器洗いをする。山口百恵,上田正樹,南こうせつ,バンバンなどなど。学生運動潰えた世代の暗い曲の数々。ヒット江夏のケンケン,否「ひと夏の経験」に感じいって「モモエちゃん...」と独り言を漏らすベートーヴェン。そんな CM が昔あったな。訳わからん。

* * *

鳩山次期首相の組閣の話題でもちきり。半世紀ぶりの政権交代ということもあり,当然ながら,どんな体制になるか皆興味津々である。社民党と国民新党の両党首が入閣するそうである。参議院での協力を得たいため,大臣席でもって懐柔しようとしているらしい。民主党はあれだけ大勝したのだから,他の野党の顔色を窺う必要などないのではないだろうか。意見が合わなければ論戦すればよいのだ。選挙の結果からすれば社民党と国民新党が有権者の支持を得たとは言えない。そんな政党と連立政権を組むなんてナンセンスではないか。

* * *

陸上=南アのスポーツ担当相,『セメンヤ報道』に激怒」なる記事を見た。かの圧倒的強さを見せたセメンヤを「両性具有者」だとするオーストラリアのマスコミ報道に南アフリカの大臣が激怒したそうな。「第三次世界大戦もの」だなんて,そんな大げさな。

オーストラリアは日本にとって大事な国である。日本人の行きたい国のなかでも上位に入るのではないだろうか。しかし一方で,オーストラリアは昔から人種差別の酷い,つい先日まで白豪主義なる人種差別に囚われていた,思想的に遅れた国だ,というのが私の正直な認識である。オーストラリアでは,2005 年 12 月にも,シドニーにおいて中東やレバノン系の住民に対する白人暴動が発生している。いまだにこうなんである。米国の KKK などはもっと陰湿だが公的には徹底的に批判されているのと比較すると,人種差別が大規模化するところがオーストラリアの国情を物語っていると思う。また一方で,米国の反捕鯨団体・シー・シェパードの活動などを見ていると,オーストラリアという国は,環境問題にかこつけて人種差別をするこういうとんでもない愚連隊を政府が野放しにする国だとつくづく思ってしまう。捕鯨を生活の糧としてきた国は日本以外にもロシア,カナダ,ノルウェーなど数多くあるにもかかわらず,シー・シェパードが目の仇としているのは日本だけなのである(シー・シェパードの行為の対象がロシアだったらどうだろう。間違いなくロシア海軍によって直ちに太平洋に沈められてしまうはずである)。それは何故か。日本だけが黄色人種だからである。鯨の肉をかっ食らう日本人は土人と同じという訳か。鯨とカンガルーはどちらが旨いだろうか。

「セメンヤ報道」にも同じ人種的偏見を嗅ぎ取るのは私だけだろうか。中国や韓国という同族の意図的反日行動に怒りを覚える前に,こういうのをもっと叩いたらどうかね。

* * *

昨日は映画『キサラギ』を観て夜更かし。2007 年,佐藤祐市監督作品。主演は小栗旬,ユースケ・サンタマリア,小出恵介,塚地武雅,香川照之。アイドルおたく5人が彼女の死の一周忌に集まる。マンションで焼身自殺した彼女の死はじつは殺人だったというひとりの主張を巡って,5人の記憶をたどりつつ謎解き,ファン同士の掴み合いの喧嘩がはじまる。部屋のなかだけで進む謎解きストーリーは,『十二人の怒れる男たち』のような --- 登場人物はそれとはまったく対極にあるようなアイドル・オタクなんだけど --- 演劇風の緊張感に満ちていて,意外なくらい面白かった。

* * *

おっとそこへ最新ニュース。わが阪神タイガースが3位に浮上したらしい。このところヤクルトが絶不調。そのおかげでヤクルト,阪神,広島の三つ巴で「熾烈な3位争い」になっているらしい。今年の阪神の要約 ---「09 年は熾烈な3位争いを演じた」。レベル低。

* * *

瞬間接着剤でチェブラーシカ復活!

cheburashka.jpg

息子に小言を言った。彼は大学の推薦入学の志望理由書がうまく書けず悩んでいた。ぶつぶつ独り言を言い,半分切れかけていた。お前バカか。

相手に点数を付けようとする人達は,その観点を決めているものである。私だって部下の査定基準を決めていて,それが上がるように「あれやれ,これやれ」とうるさく指示するのである。大学の入試担当者なら次の一点にしか興味はないはずだ:自分の将来の夢がどのようなものであり,その実現のための準備において当学のカリキュラムがどのようにマッチするのかを,具体的に説明しているか

頭で考え悶々とする前に手を使え。100 点をとろうとする前に自分の将来の希望が説明できているかを検証しろ。お前はじっと座ったまま,「個性的」に,「立派」に書こうとして,文章をいじり回すことしか考えていない。そんな態度だと,いかに立派なことが述べてあっても,美辞を用い文章が流れるように巧みでも,入試担当者は読み飛ばすだけだ。逆に鼻先で嗤うかも知れない。そんなのは口先だけだとわかっているからである。「具体的」ではないからだ。そういうのを,関西では「ええカッコしぃ」というのだ。

「具体的」というのは,自分の手を動かしてなにかを調べたかどうかということだ。「田中一郎先生の新書『イスラム法』を読んで,現地の人々との共同生活に根ざして理解しようとする態度に共感した。A大学では田中先生がイスラム法講座を開いており,日本とイスラム諸国との民間友好に関わりたいという私の願いを...」云々という感じ。その本を読んでいないと,田中教授の講座の存在を調べて知っていないと書けないようなこと。「具体的」というのは,例えばそのようなものである。「具体」を目指せば,カッコなんてつけなくても,それが「個性」を十二分に規定する訳で,自ずと入試担当者の目に留まるはずである。

え? 「将来の希望」なんてない? そんなの知ってるよ。お父さんだって大学に入る段階で「将来」なんていうほどの立派なイメージは何もなかった。だから志望校に合わせて「将来の希望」を作るのだ。いいの。割り切って。手を動かすというのはそういうことでもある。「正直に書け」なんて誰も言ってない。

息子も娘も受験生である。「いいなあお前等,受験生なんて青春そのものじゃ」みたいな他人事をいう私。でも,若い人がいちばん美しく見えるのは勉強している姿である。茶髪でピアスをした,それだけだと軽んじてしまうかも知れないような「とっぽ」い男が,真剣な眼差しで『経営学概論』なんて本に取り組んでいるのをスターバックスなどで時おり目にすると,人は服装や外見では判断できないという思いを新たにする。こっそり応援したくなってくる。

本屋に行くと,受験生向けの学習参考書コーナーなぞも覗くようになった。原仙作先生の『英文長文問題精講』(旺文社刊)など,私の受験生時代にお世話になった本がまだ並んでいるのをみるのは懐かしい。科学新興社の数学本『解法のテクニック』は,私が読んでいたのは矢野健太郎先生の著書だったのに,いま並んでいるのは別の先生による改訂になっていて,ちょっと残念だったりする。ふーん,いまの高校生は微分方程式を教わらないんだ。私は旺文社ラジオ講座というもので大学受験勉強をしたラジオ世代だが,いまや DVD 動画付きの英語学習書などもあり,さすがーと感心する。数学,国語,英語,社会,理科のそれらの学習書を眺め歩くと,3年あればこんなに知識が広がるのだったと,いまさらながらびっくりしてしまう。日本史 B・世界史 B の現代史記述が簡潔かつ「まとも」なのに本当に驚く(丸善で手に取って読んだのは山川出版社のものである。「新しい歴史教科書をつくる会」主導のものではないので誤解なきよう)。ああ,もっと勉強しときゃあよかった。

子供たちにも私が読んで面白かった学参ものを与えている。今日はそのなかから牧野剛『河合塾マキノ流!国語トレーニング』(講談社現代新書)について少し。著者は長年,河合塾で受験生を指導して来た名物講師である。我流かも知れないが率直なポリシー・方法論が面白い。建前ばかりの公務員的学校教員にはないものだ。

本書によれば,受験国語というものはパロディー的批評性と醒めた類型学だと知らされる。著者は文章を読み解くためのとっておきの方法として「コード読み」を説いている。「コード」には「流行の論理コード」と「作家コード」の二つある。それぞれを「反科学論」・「文化の否定性」・「言語論」等,「中村雄二郎 -- 多義性」・「山崎正和 -- 逆説」等,いくつかのコード・パターンに分類する。要するに,そのパターンに照らせば,眼の前の現代文を読むにあたって,視点の論理的一貫性をもつことができ,論を噛み砕くことができるとする(pp. 78--81)。こうしたパターンとの差異を読み分けることが理解だというのである。醒めてます。試験問題で採用される現代文はワンパターンだというのだから。このナメた観点は,長年の蘊蓄に支えられたパロディ的発想以外ではありえない。そもそも試験問題なんて「解けるようにできている」んだから,当然か。

本書の面白いところは巻末のささやかな読書論である。受験国語指南の書にそぐわず,ちょっととってつけた感が否めない。けれども,やはり本を読むことを愛する者でないと他人に「書かれたもの」の面白さを教えられないということがひしひしとわかる。竹国康友著『ある日韓歴史の旅』など,取上げられている本が個性的である。そのなかで,私が衝撃を受けたのはヘーゲル著『精神現象学』のくだりである。牧野はあまり言葉を費やさず,長谷川宏と金子武蔵の二つの訳を並べてみせる。それをここにも引用させていただく。

《まっさきにわたしたちの目に飛びこんでくる知は,直接の知,直接目の前にあるものを知ること以外にはありえない。この知を前にして,わたしたちは,目の前の事態をそのまま受けとる以外にはなく,示された対象になんの変更も加えず,そこに概念をもちこんだりしてはならない。》
長谷川宏訳。牧野剛『河合塾マキノ流!国語トレーニング』講談社現代新書,2002 年,p. 222。
《最初に或は直接的に「我々」の問題であるところの「知」とは,それ自身直接的な知であるところの知,即ち直接的なもの或は存在するもの以外のものではありえない。そこで「我々」のほうでもやはり同じように直接的な或は受け取る態度をとらなくてはならないから,現われてくるがままのこの知に少しも変更を加えてはならず,補足すること Auffassen から概念的理解 Begreifen を遠ざけなくてはならない。》
金子武蔵訳。下線部は傍点。同書,同ページ。

著者は金子訳を批判している訳ではない。でも,こう並べて見せつけられると同じヘーゲルでも,金子訳で読まさせられた人の不幸がありありとわかる。正真正銘の実在する翻訳なのに,強烈なパロディーをお見舞いされた気分になる。エラい大学教授による難しい訳本を前にして,私はいつも牧野のこの二つの引用を思い出す。そして次のチャーチルの言を。

次のような言い方はやめよう:「次の諸点を心に留めておくことも重要である」,「...... を実行する可能性も考慮すべきである」。この種のもってまわった言い廻しは埋草にすぎない。省くか,一語で言い切れ。[...] 思い切って,短い,パッと意味の通じる言い方を使え。くだけすぎた言い方でもかまわない。
木下是雄『理科系の作文技術』中央公論社。p. 2--3 からの孫引き。

最近,息子が受験生らしくなって来た。どうもガールフレンドに振られたらしい。時折,ぶつぶつこぼしている。気にするなと妻が慰める(私が学生のころ,ガールフレンドの話題が出ると,母には「孕ませたらアカンで」みたいなことばかり言われたものだが)。その一方で,お笑い番組を観てはバカ笑いをし,タレントや祖父母の物まねをやって家族を笑わせている性格は,誰に似たのか。その明るさには我が子ながら感心してしまう。

いつのまにか,子供も大きくなってしまった。なんて感傷に浸っていると,子供たちがまだ幼児だったころ,会社に行く前に『ひらけポンキッキ(ポンキッキーズ?)』や『おはスタ』などの朝の子供向けテレビ番組を,子供たちといっしょによく観てたなあとふいに思い出した。十四,五年前か。

『ポンキッキ』ではブレークする前の鈴木蘭蘭と安室奈美恵とが,ふたりしてうさぎの着ぐるみを着て,「まーさかり・かーついだ・きーんたろおー」と歌っていて愛くるしかった。バックダンサーを引き連れて「Body Feels EXIT!」とカッコ良く歌う安室を観たときは,「あれ? ポンキッキのお姉さんじゃんかー」というのが我が家の反応だったのである。その後,いろんなことが変わってしまった。

『おはスタ』はいまもまだ続いているようである。私の記憶にある『おはスタ』では,司会の山ちゃん(『新世紀エヴァンゲリオン』加持リョウジ役の,しかし加持リョウジにはまったく似ていない声優・山寺宏一)が,「レイモンドだよー」なる黒人タレントとともに,朝に相応しい元気なしゃべりでかしましかった。ポケモンが大流行したころである。「おはガール」という看板娘が日替わりで登場し,そのなかには『スポルト』のフジテレビ人気女子アナ・平井理央もいたことを知っているひとはどれだけいるだろうか。「おっはー」というチョー軽い挨拶が番組の合い言葉であった。『学級王ヤマザキ』という短篇アニメのコーナーがあって,この王様ヤマザキは「おはよう」のことを「おっぱいよー」といっていた。まあ,そのくだらなさが想像できると思うが,私は子供とおもしろがって観ていたのだ。おっはー。おっぱいよー。あぁあ。

最近,テレビで AKB48 なる大勢の若い娘さんたちが歌って踊っているのを観て,「エーケービー・シジュウハチ?」という私は,子供たちに失笑される始末である。「フォーティーエイト!」--- でも 48 人もいないじゃないか。なんかの四十八手をもっているのか(と,下品な口がちょっと滑ってしまう)。「じゃなくて,いろんな女の子がいるってことだよ!」--- あぁあ。なんだ昔のオニャン子か,というのは呑込んだ。

今日は中学三年になる娘のバレーボールの試合だった。市のベストエイトが決まる日だった。浜川崎にある中学校の体育館。顧問の先生にご挨拶した。自身母親の身でありながら,休日,夏休み関係なくクラブで子供たちを指導している。私には,まったく頭の下がるタイプの先生である。

私は久しぶりに iPod を持参し,音楽を聴きながら,他の学校の試合含めバレーボール観戦を楽しんだ。バルトークの弦,打楽器とチェレスタのための音楽,ヴァイオリン協奏曲,弦楽四重奏曲全六曲を聴き通した。意外とノリがよかった。レシーブに秀でた娘のチームは三戦全勝で,見事ベストエイト進出を果たした。私にはセッター選手のプレーが光った。

そのあと,浜川崎まで来たついでに,海が見たくなった。川崎に移り住んでからもう二十年近くなる。そのうち一度は行ってみたいとかねがね思いつつ,果たせなかった臨海地区の散策を思いついた。

浜川崎駅は JR 南部支線の終着であり,JFE(東日本製鉄所,すなわち,かつての川崎製鉄)の工場に接していて,JR 貨物列車も入って来る。しかし,なんと無人駅であった。Suica の簡易改札をはじめて目にした。この大都会の,なんというか,陥穽に入った気分。自宅からの往路は南部支線駅で下車したが,臨海方面に行くには,道路を隔てた JR 鶴見線に乗り換えなければならない。駅舎のそばの植え込みに猫親子がいた。

1-hamakawasaki-1.jpg

ところが,鶴見線の無人のホームに立ち,次の列車の時刻を確認したら,50 分後。なぬ! 夕方少し前の時間帯は 1 時間に 1,2 本なのである。JR 東日本はこの 4 月から全面禁煙になったはずだが,この駅はまだホームの端に喫煙コーナーがあった。ベンチに座って狭いホームでひとり煙草を吹かす。持参した C++ 言語の本を読む。すぐ目の前に東日本製鉄所の錆び付いた工場が広がっている。

このあたりは,昭和二十年代〜四十年代くらいは破竹の勢いで鉄鋼・重化学工業が躍進し,労働者で溢れ返っていたはずだ。中学を卒業した少年が田舎から出て来て,ただひたすら働きに働く姿。周囲には,煤煙凄まじい工場のほかはなにもない。若者は月に一度,週末,女を買いに川崎の歓楽街まで足を運ぶくらいしか,楽しみがなかったかも知れない。そんなことを想像した。『あしたのジョー』の川崎。

1-hamakawasaki-2.jpg

目指すは海に臨む海芝浦駅。車内はほとんど客がいなかった。元気な中国語が聞こえて来る。鶴見線・浅野駅。ここで,もう一度乗り換えが必要である。浅野駅もやはり無人駅。次の電車は 1 時間後である。駅の佇まいはまるで,かつて見た北海道の赤字ローカル線のようであった。十勝・士幌は周りにジャガイモ畑,ビート畑,麦畑,広大な林が広がっていたのに対し,こちらは工場,倉庫,高圧電線が錯綜している。なのに,のどかな雰囲気はなぜか共通している。潮の香りがする。青緑の見事な揚羽蝶が舞っている。黒猫が二匹いた。振り返るとクロネコヤマトの倉庫のロゴ。吹き出してしまう。白い服のお婆ちゃんが突然現われて猫達に水をやり,毛並みを整えはじめた。いつも世話をしているひとらしい。

2-asano.jpg

終着・海芝浦駅に到着。海に面した珍しい駅舎ではないだろうか。東京湾に開けた運河。向かいに首都高速湾岸線のベイブリッジが見えた。海の饐えた臭いはあまり快適ではなかった。手すりのすぐ下の海面は濁りに濁り,灰汁のようなものが縞模様に集まり,そのあわいをクラゲがたくさん漂っていた。欄干に凭れ,煙草を吹かし(この駅にも喫煙場所があった),しばらく海を眺めた。誰もいない。来てよかった。バッハのイタリア協奏曲 BWV 971 とコラール前奏曲 "Ich ruf'zu dir, Herr Jesu Christ" BWV 639 をちょうど聴き終えたころ,東芝の社員と思われる人達がぞろぞろ現われた(この駅は東芝敷地内にあり,社員でないと出ることができないらしい)。時計を見ると鶴見行き出発時刻にあと少しだった。

3-umisibaura.jpg

帰り,鶴見から川崎に出た。買い物客で溢れ返るメガストア・川崎 LAZONA に立ち寄り,丸善で二冊本を買った。汗だくになり,腹が減ってどうしようもなかったので,惣菜屋でコロッケを二個,買食いした。約 8,000 歩の散歩だったが,これでダイエットのためのカロリー消費はすべて無意味となった。


より大きな地図で 川崎臨海地区 を表示
* * *
Béla Bartók: The Miraculous Mandarin; Music for Strings, Percussion & Celesta
P. Boulez (Dir), Chicago Symphony Orchestra.
Deutsche Grammophon (1996-04-09)
Béla Bartók: Violin Concerto No. 2; Rhapsodies Nos. 1 & 2
Kyung-Wha Chung (Vln), S. Rattle (Dir),
City of Birmingham Symphony Orchestra.
EMI (1994-05-24)

「マニュアル人間」という言葉がある。マニュアルがない,あるいはマニュアルに書かれていない場合,主体的に考え状況を察知した行動を,とることができないような人物について使われるようである。だいたいにおいて,否定的なニュアンスがある。

例えば,ハンバーガー 50 個を注文する客に対して,「店内でお召し上がりですか,それともお持ち帰りですか」と確認するファーストフードの店員。50 個も注文する客がひとり「店内でお召し上がり」になるとは常識では考えにくい。「接客マニュアル」に書かれてある手順に機械的に従っていることがあまりに露骨に出てしまい,常識的な客からすると「バカかこいつ」というように受け取られてしまうことになる。そんな店員をあざ嗤うブログを私は読んだことがある。

私は「マニュアル人間」をダメな人格だとは少しも思わない。むしろ,逆。マニュアルをひたすら学びその実現の精度を上げようと努力する人を尊敬する。少しくらい気が利かなくともよい。というのも,自分の主体的行動を尊ぶにせよ機転が利くにせよ,マニュアルあるいは先人の知恵を定着させたものを軽んじて,自分勝手なことをなす輩 --- たとえそれがたまに天才的なできだったにせよ --- よりも,実際の仕事においては,私の個人的経験からして何倍も有用だからである。「有用」とは計画・設計が可能という意味だ。プロの基本的特質である。

ブログ主に「バカ」にされた件のファーストフード店員だって,大半の客には全うなサービスだと評価されているのである。50 個も注文するほうが極めて稀な事象であって,例外ケースで,首を傾げさせるおかしな対応にケチをつけるほうがどうかしていると私なんかは思う。親子丼の金しか払わないくせに,フランス料理のフルコースでも頼んだ気分になっていないか。それこそ「バカ」としか思われないのだ。

企業の品質管理というものは製品のごくわずかに不良が混入していることを前提と看做す。その不良率を一定範囲内に収めることが生産技術の骨子である。ファーストフードの品質管理者からみれば,ひとり 50 個の注文はその不良発現の許容範囲にある僅少事象なのかも知れないのである(そもそも,常識は別として,50 個の注文でも「店内でお召し上がり」がありえないと誰が断言できるだろうか)。それが僅少でなく経営に影響を与えると判断されれば,店員ではなくマニュアルが問題視され,改訂されるはずである。そうして,経営資源の許す範囲でサービス品質が向上してゆく。このような仕事の背景を抜きにしてこの店員を「マニュアル人間」とバカにしているほうが,仕事の質を属人的な「機転」にフォーカスすることで人に依存した仕事のムラを許容することにつながり,じつは進歩を生まないのだ。

いまのこのご時世,気が利かない,仕事のできない若者ばかりで困る,と嘆くオジサンも多いのではないだろうか(件のブログ主と同様に)。それはその若者が「マニュアル人間」だからではない。逆に,その若者がマニュアルを読みもせず,多寡の知れた己の経験・才能に頼むか自分勝手な思い込みで仕事をしているだけだからである。だいたいそんな愚痴をこぼすこのオジサン自身,きちんと若者を指導しているか怪しいものである。「仕事の技は先輩から盗むものだ」なんてカッコつけているに決まっている(「技は秘められたもの」などと己を神秘的に見せたがる,考えの古い寿司屋は,機械握りのクルクル寿司チェーン店によって間違いなく絶滅させられるはめになる)。

仕事で必要なのは天才ではない。マニュアルに書かれたことを必要なときに運用して確実に遂行できる人間である。普通の技術者なら3日かかる仕事を超絶技巧で10分でやってしまうウン万人にひとりの天才よりも,文書で習得した知識をもとにその仕事には3日かかると見積りができ,仕事の計画・設計ができ,3日で確実に目標品質でそれを果たせる者が必要である。仕事で大事なのは,期待・スリリングよりも確実さだからである。個性でうまく事をなす者よりも,実務の具体的経験から準拠すべき文書の問題点を指摘・改善して組織に伝えることのできる者が必要である。この場合,そういう人間を育てることが出来るからである。それが「技術」というものである(世の中には「技術」を「超絶技巧」と勘違いしている者がいるから質が悪い)。「技術」は退屈極まりないものなのだ。

「なぜか機転の利く仕事のできる奴」よりも「書かれた通りに確実にやる奴」のほうが絶対にありがたい。たまに天才的なひらめきで凄い仕事を100に1回やってのける者より,一生懸命マニュアルを勉強しつつもなかなか身に付かないが,100に99回同じ成果をあげ,確実に成長するマニュアル人間のほうが,社会人らしくて私は大好きである。仕事は芸術ではないのだ。

今日,息子の学校の体育祭だった。これで高校最後の大会だということもあり,私はどうしても外せない会議を終わらせたあと,仕事を早退して途中から参観した。心配された雨も降らず,幸いだった。場所は大井町のスポーツの森陸上競技場。東京モノレール・大井競馬場前駅から徒歩数分であった。

羽田空港を飛び立つジェット機が競技場の向こうをひきもきらず旋回していた。海の臭いがした。たとえ人工的な東京のベイエリアでも,体育祭の喧噪と潮風は郷愁をそそるものである。体育委員長の役目を負った息子は,壇上から大声で全校生徒を指揮していた。やるじゃんか。私とはまるで違って,体育会系の気質にどっぷり浸っているのだ。

2009-taiikusai.jpg

日本アニメ好きのイスラエル人がネットで書いていたのを思い出した。曰く「俺の国では空からロケット弾が飛んで来るのに,日本では空からいろんな女の子が降って来る」。また別のイスラエル人の曰く「日本では,水と安全と moe が,タダ同然と聞いていたが本当らしいな。こっちでは考えられん」。ソドムとゴモラの街のように神の劫火によって世界が焼き尽くされるかも知れない,一抹の終末の予感。そんななかで,幸いにも,活発な少年・少女の gymnastics を,とりあえずはまだ眺めていられる。

虛空より美少女たちの降り來たり濕り濕れる賴もしき梅雨。

* * *

Mac OS X Safari 4.0 beta が評判になっているので,インストールしてみた。Safari はシンプルかつ洗練されたデザインと美しい描画で私の愛用のブラウザである。一方でつまらないバグの多い,困ったアプリでもある。4.0 では JavaScript を劇的に高速化したとの話である。確かに少し軽快になった感じがする。タブを開いたときに現われる Top Sites は履歴からスナップショットを一覧してくれて,私はおっと驚いた。

ここのところ会社の PC の調子が悪かった。ブレードサーバのモジュールをセキュア PC から操作する形態で使っている。何年分ものメールが溜まり,ディスク C ドライブの残容量が少なくなり,とうとうウィルス・スキャンソフトのパターンファイル更新のための作業エリアすら確保できない状況になった。このままだと,さらに状況が深刻になる。なにしろ,私は毎日 100 通以上の電子メールを受け取っているのだ。そこで,使っていないソフトを片っ端から消去したり,一時ファイル削除ツールで掃除したりしたが,だめ。いろいろテキトーにファイルを消しまくっていたら,再起動の瞬間に Windows XP システムがおかしくなってしまったのだった。

タスクバー左端の「スタート」ボタンが消えた。タスクバーにあったショートカットアイコンが全滅。起動中のタスクが表示されない。IME のメニューも出ない。IE 6(いまどき!)は動くけどメニューバーが消え,テキストエリアで仮名漢字変換ができない。Office 2000(いまどき!)は動くのに,メモ帳や Adobe Reader,そしてなにより業務上最重要の自社製メールソフトが起動しなくなってしまった。「このアプリケーションの構成が正しくないため、アプリケーションを開始できませんでした。アプリケーションを再度インストールすることにより問題が解決する場合があります」と Windows からおしかりを受ける。ところが,インストーラそのものを起動しても,同じようにしかられるのだ。いったいなんのためのエラーメッセージなのか。

こんな状態では,根本的に手を打つ必要があるのだけど,やるべき本業の仕事もある訳である。自社製メールソフトには統合クライアント版と Light 版が用意されていて,普段使っている Light 版ではなく,余計な機能ゆえ重たい統合版だと動いた。アプリの切替えも Alt + Tab で可能である。IE でのテキスト入力も,Microsoft Word 上で作成した日本語テキストをコピペすれば,なんとかなった。「スタート」ボタンがなくても,Alt + Ctrl + Del からシャットダウンを選択できる。こうしてこの一週間,かかるオペレーションで仕事をしたのである。うん,確かに Microsoft Windows ってよくできている。ささいなミスにつけ込みひとをどん底に落としておいて(そもそもファイルを消しまくってたのは誰?),最後に少し親切にすることで気を引くタイプのようである(まさにアメリカ人の行動様式ではないか)。

今日,金曜日の定時後,ようやく時間が取れたので,リカバリに取りかかった。でも,現象からして,なにかしら必須のファイルを削除したからには再インストールしか手がなさそうに思われた。しかし,眼の前にあるのは Thin クライアントでしかなく,実際に命令が走行するマシンはセンターにあり,OS のメディアをおいそれと利用できる訳ではない。我が社の情報セキュリティは完璧なのだ。情管(情報管理部署)に話を持ちかけるとなると,余計な交渉や事務手続きが必要になり,来週さらに余計な労力を使わさせられそうである。ああ,さらにその先に業務に必要な大量のアプリの再組込み・再設定,地獄のデータ移行が待っている... ってな思い煩いをしつつ,まずはやはりエリアを空けるため,最後手段として腹を決め,2年経過した古いメールを別ドライブにエクスポートして削除することにした。4万通以上あるメールを処理するのに1時間。これで5GBの余裕ができた。

その間に,情管の関与なしにとりあえずできそうなことを考える。消した記憶のあるフォルダを,子分の PC からいただいて来るか。これは私の個人ファイルを上書きして二次災害を起こし,さらに酷い事態に陥れるかも知れない。却下。部下がいい加減な見積書を持って来る。叩いて,見直しを命ずる。却下。お前,ひでえ見積のバツとしてこの PC も月曜日までに ... などとパワハラめいた誘惑に駆られたが,抑え込む。そもそもこれは私自身の自業自得というものである。IE でググってみたがこれという解決策が見当たらない。トルストイが言ったように,不幸はそれぞれの姿で不幸な訳であって,計算機環境の壊し方は千差万別,そう簡単に対処法が見つかるはずはなさそうであった。

結局,Service Pack をもう一度適用してみることを思いつき,Microsoft のサイトからダウンロード。350MB の大容量通信もいまや煙草を吸う間に終わってしまう。これがバッチリだったようで,見事に回復した。ウィルス・パターンファイル更新も無事終了。その後,なんかイヤな予感がして情管の掲示板をみていたら,「Service Pack 3 の適用は沙汰あるまで禁止」との通達を見つけた。自動配信ソフトウェアが未対応だからというのである。しまった,Service Pack 2 にしておけばよかった。いまさらやり直す気力は失せていた。まあ,仕事に必要なソフトは完全に動くようになったのでいいや。

それにしても,我ながら軽率に過ぎる。同じ軽はずみで自宅サーバの Web 環境を壊したばかりであった。呆れる。こういうことは続けて起こるものである。溜息が出る。本業の作業環境はおまんXに直結するだけに MUST の意気込みで取り組むのだが,一方,自宅サーバについては日頃の作りっぱなしのごちゃこちゃ,ノーコントロール,足場の残骸を思うにつけ,何十年も散らかした部屋の後片付けのように,面倒でやる気がなかなか出て来ないんである。喝!

午過ぎ,仕事の都合で地下鉄に乗っていたら,若い母親が聞き分けなく泣きじゃくる我が子に困り果てる様を見た。公共の場で,しかも電車やバスなどの閉鎖された環境でこの状況になると,親は周囲への迷惑を思ってバツが悪い。私にも経験がある。

そんなとき「ったく,うるせーガキ」と本当に迷惑がっているひともいるはずだ。「たいへんっすよね,母親って」と私の部下。でも,私はもっともっと好きなだけ泣いていいぞ!と元気付けられるほうである。昔,高校生のころだったと思う。その時観たある邦画(タイトルは忘れてしまった)の恐ろしい場面が頭にこびり付いている。その場面が,公衆の面前で泣き叫ぶ子供とその母親を目にする度に,ありありと甦って来るからである。

その映画は太平洋戦争・沖縄戦を描いていた。米軍が,日本兵や民間人が逃げ隠れている洞窟の付近を,火炎放射器を手にして警戒している。洞窟では敵に感づかれないよう皆,息を殺している。その殺気立った雰囲気に怖じけたのか,赤子が突然大声で泣き出す。若い母親は,生涯賭けてのお願いとばかりに,あやして鎮めようとする。周囲の兵隊,民間人たちはもはやこれまでと恐怖に戦いている。「こんなときに大声で泣かれたらあの鬼畜どもに気づかれてしまう。なんとかしろ!」と兵隊さん。母親は乳を含ませたり手を尽くすが,どうしても赤子を鎮めることができない。震えに震える。とうとう我が子を絞め殺してしまう。「ケケ」という最後の声。母親は発狂した。

戦争とは現在の皆のためにもの言わぬ未来を圧殺することだと私は悟ったのである。暗にそそのかした兵隊が悪いのでも,この母親が悪い訳でもなさそうである。いったい誰が悪いのか。いいじゃないか,泣きたいだけ泣いていいぞ。それができるのは,ありがたい世界にいる証拠なのだ。近くにいた,母子とは他人と思しきおばあちゃんがニコニコして,その泣きじゃくる子供に話しかけていた。

今日はお休み。齋藤環『戦闘美少女の精神分析』を読んでいる。ここのところ,『NEON GENESIS EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン』や『Меланхолия Харухи Судзумии 涼宮ハルヒの憂鬱(ロシア語版)』といったアニメの傑作を観て,オタク文化というものに少し興味をそそられているのである。「戦闘美少女」に絡んでネットのニュースを見ていたら,産総研が開発したロボット HRP-4C の記事が眼に留まった(「人間に近い外観と動作性能を備えたロボットの開発に成功」産業技術総合研究所 2009.3.16 付)。

このロボットは二足歩行する人間型タイプのヒューマノイドとして,あっと驚かせるものがある。「人間に近い動作や音声認識にもとづく応答を実現」する点が特長とのこと。しかし,ロボットとしてここまで人間,しかも若い女性のリアリティにこだわる必要があるのかという疑問が起こる。もちろん,人間的所作のメカニカルな追究が高度な技術革新を惹起するのだ。それにしても,女性的なものへのその独特のこだわりは私には常規を逸しているように思われた。セクハラとまでは言わないけど(開発者が仮に「肌が白いので『ユキ』と名付けました」などと悪ノリした説明をしていたら,私はセクハラだと思ったかも知れない)。

彼女(HRP-4C のこと)はうまいタイミングで瞬きをし,いわくありげに首を傾げて後ろ下方を見返りする。身長 158cm,体重 58kg --- 女性としては重いが,これは生身の女性が鎧兜(というより,エヴァのような戦闘ロボットに搭乗するための超合金スーツ)を纏ったと思えば自然である。あどけない容貌。荻野目慶子に似ているとの意見をネットで読んだ。私は菅野美穂に似ていると思う。こんなことどうでもよいが,それくらい自己の経験を投入できる顔つきの自然な仕上がり。その顔にそぐわない,大きな形のよいバスト。残念ながら,スリーサイズは明らかにされていない。そう,HRP-4C は明らかにロリ趣味なんである。

このように,ロボットとしては不必要な,しかし高度な技術を要するディティールが,一種独特のセクシュアリティを発散して HRP-4C に付加されている訳である。彼女を見たひとたちがどのような印象を覚えたのか,ちょっとググってみた。こういうとき,ブログの意見は表裏がないので参考になる。想像どおりというか,いちいち出所をあげませんが,「ツンデレ」,「ドリ系」,「(顔,髪型の)オタ偏差値低い」,「すごい,一目見て抜けると思った」など,オタク的視線からのものが多い。「ちょっと怖い」というのが一般的な受け止め方と思う。海外でも「このロボットとファックできるのか」というのが非常に多かった。一方で,海外の意見には「ターミネーターの始まり」,「日本人はこいつらに戦争させようとしているんだ」といった軍事的関心の多いのが特徴である。海外の意見はここここをご覧あれ。

私も HRP-4C は研究者の秘かなオタク的情熱に動機付けられていると認める。彼女にはじつは本当に膣が実装されているかも知れない。しかし,その情熱には海外の反応にあるような軍事的ニュアンスは ---「戦闘美少女」のセクシュアリティは否定できないが --- ない。私がこのロボットに注目したのは,日本のオタク的衝動 --- 究極の想像力を実世界でパロディー的に実体化しようとする趣向 --- が恐るべき技術革新を支えている,そういう一端を見た気がしたからである。ただし,これは「想像したことを現実世界でもやりたい」という子供じみた欲求とは,紙一重にしてどえらい違いがあることを強調しておく。

彼女はファッションショーの挨拶で「実戦」デビューしたそうである。日本のオタク精神は平和そのものなのだ。

ロシアの,日本について広いテーマで記事を掲載しているあるサイト(Занимательная Япония おもしろニッポン)を閲覧していたら,浜崎あゆみの話題があった。もちろん,あゆを支持する記事だったのだが,書き込みには「あゆ,ロシア人の耳にはほとんど卑猥に響く名字の,すごい女の子」との修飾句が付いていた。下品な私は俄然興味を覚えて,コメント・スレッドをたどる。

そのこころは,次のとおり。ロシア文字表記でハマサキは Хамасаки に転写される。ロシア語には H の音価に相応しい文字がないため,日本語のハ行は Х(英字のエックスではなく,ドイツ語の CH,バッハ Bach のハの音に近い)あるいは Г(G の音)で表記される(このためハインリッヒ・ハイネは Генрих Гейне ゲンリヒ・ゲイネに転写される)。ところが,Х と Г とはこれを力点のない音節としてやんわりと発音するとロシア人には同じように聞こえるので,Хамасаки は гомосеки(ガマスィェキ)とほぼ同じ,つまり「ホモ,同性愛者」に聞こえるそうだ。

ロシアでは可哀相なあゆ。ロシアに行くなら,あゆはハマザキで通した方がよいかも。

Ozon からロシアのエロ詩集が届いた。Эротические стихи Золотого и Серебряного века. М.: «Милена», 2006(『金と銀の時代のエロティック詩』)。320 頁のハードカバーだけど,200 ルーブリ(約 600 円)しなかったと思う。「金と銀の時代」とは,ロシア詩のふたつの黄金期のことで,19 世紀第一三半期のプーシキンを代表とする金の時代と,19 世紀末から 20 世紀第一四半期にかけてロシア象徴派・アクメイスト・未来派が活躍した「ロシア・ルネサンス」(ピエール・パスカル),銀の時代を指す。ポケモンの「金と銀」と同じ発想である。

詩人は常に色を好むものだし,ロシアの詩人も例外ではない。もっとも,プーシキンなどその最たる大詩人でも,数あるエロティック詩は全集に収録されず,ロシアではこのテの詩は秘めやかな取り扱いを受けている。日本と違い,出版を含め公的な場での "неприличие(猥褻,無作法,indecency)" に対し極めて厳しい。当然,書かれた当時は発禁ものだった。昔は西側の亡命ロシア系出版社がごくまれにロシアの古典ポルノ詩集成を刊行する程度だった。ソ連時代には絶対手に入らなかったこの種の艶本も,いまはいくらでも出版されるようになった。

本書にはプーシキンを筆頭に,レールモントフ,バラティンスキイ,ネクラーソフ,フェート,アンネンスキイ,ブリューソフ,ブローク,クズミン,マヤコフスキイ,エセーニン,ツヴェターエヴァなどなど,ロシアの巨星たちの淫微な詩が集められている。ちょっと引用しようか,私の愚訳も付けて。

世界文学史上に燦然と輝くアレクサンドル・プーシキンの詩(「輝く」は「詩」に掛かるのではありません):

Час приходит настоящий,
Села дева наконец
На огромный, на стоящий,
На торчащий на конец.
そのときが來たぁ〜
をなごはたうたうお座りに
おほきな おつ立つた
そそり立つた ソレに
               (с. 24)

"огромный"(巨大な)だなんて,しょってるね。конец は「端,末端,尖端」という意味の頻出単語。詩のなかでこの語と韻を踏む наконец は,「とうとう,しまいに」という意味の副詞である。この語が на конец と分割された瞬間に,隠語としての конец の意味(チンチン)がムクムクと起き出して来て痛快である。いけない。наконец に出会うと「チンチンに」を連想するようになってしまうじゃないか。

ちなみに,プーシキンは『ガヴリーリアーダ(天使ガヴリエルの物語)』というエロティックな物語詩を書いている。天使ガヴリエルが処女懐胎を告げに地上に降り立ったとき,マリヤに一目惚れしてしまう。この作品は 1821 年創作当時に発禁となっただけでなく,この現代においてもキリスト教国では翻訳されない冒瀆的な問題作である。プーシキンが皇帝ニコライ一世じきじきの徹底的な監視にさらされる根本原因となったほどである。幸いなことに(あるいは不幸なことに),キリスト教禁忌に無感覚なるわが日本では,河出書房新社から出た『プーシキン全集』第一巻でその翻訳を読むことが出来る(キリスト教禁忌に無感覚なるがゆえに,詩人の人生を左右したその破戒的芸術性も素通しになってしまう訳だけど)。この作品に認められるように,プーシキンは,『エヴゲーニイ・オネーギン』などでもそうだが(タチヤーナの夢などリビドーの巣窟なんである。翻訳で読んでもいまひとつピンと来ないけれども。プーシキンの翻訳はある意味でもっと不真面目なものが出てもよいと私は思う),真面目,厳粛,高尚,清純,悲哀と,エロス,下品,卑猥,諧謔,哄笑とを絶妙に混淆させることにおいて,シェークスピア,ジョン・ダン以上の才覚を発揮した天才なのだ。

次は未来派の巨匠ヴラジーミル・マヤコフスキイの詩:

Я в Париже.
Живу, как денди.
Женщин имею
       до ста.
Мой член,
     как сюжет в легенде,
Переходит
     из уст
        в уста.
オレはいま巴里
ダンディみたく暮らしてる
女の數は
    百もある
オレのアレは
      語り傳へみたく
うつろひゆくのさ
       口から
          口へと
               (с. 208)

член は「項,メンバー,構成部位」という意味だが,隠語では「チンチン」を指す。伝説が口伝えで広まるようにオイラの член が 100 人の女の口から口へと渡り歩いてオイラは有名 --- その発想に大爆笑。

なんとも他愛なく下品ですみませんが,命を賭けて真実を謳い上げたロシアの詩人は,一方で心からなる愉快を子供のように露にし,大笑いさせてくれる訳です。一面的になってはいけない,クソ真面目なだけではダメ,真面目な本ばかり読んでいてはダメだと教えられます。

russian_erotic_poesy.jpg

プーシキン全集第一巻 --- 抒情詩・物語詩1(1973年)


 
アレクサンドル・プーシキン著
川端香男里,福岡星児ほか訳
河出書房新社

Profile

ISAO。システムエンジニア。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
[more], [About our site]

Notice

この文書はフィクションであり,実在する個人,団体等とは一切関係ありません。

文書の記述内容は無保証です。不適切な表現があればコメントにてご指摘ください。

管理者が公序良俗に反すると判断したコメント,トラックバックは,断りなく削除される場合があります。

Links

About this archive

All Entries of Category 鏡の中の鏡

Previous: 日曜大工

Next: 静かな隕石

Recent Entries in Main Index.
All Entries in Archive Index.

Web Pages

Powered by Movable Type 4.1