一言居士の最近のブログ記事

先日,とある大学の先生とメールのやりとりをした。misima について丁寧な文面でお礼をいただき,私は嬉しかった。彼は「最近の大学生はまったく本を読まない」とこぼしていた。だから旧字・旧仮名遣いの文章で少しは学生の関心を惹きたい,と。「だとしたら,そんなバカ学生は旧字・旧仮名遣いという見た目にしか目を止めませんよ」とは言えなかった。教育者としての先生の真面目な工夫に私は感心したからである。

私は会社員なので,新入社員の知力には注意を払っているが,学生の読書量については昔と比べてあんまり変わらないのではと思っていた。というか,同僚は皆,理科である。その学生時代の読書傾向にも偏りがある。そもそも,一般の学生の傾向を新入社員から推し測るには無理がある。同僚達は,本の話題はコンピュータ関連図書ばかりで,しかも強烈な飛ばし読みをする。理科の人は結論の書いてあるところを探して読む習性があり,しかも図面やグラフ,数式だけで論のだいたいを理解する能力を備えていて,文系の私は驚かされる。知識の習得を特殊なパターン認識能力でもって行っていると,私などには見受けられる。つまり「読む行為」は二次的のようなのだ。とはいえ,この行為だって,図面や数式と文章とを相互作用させて理解を確実なものにしている訳で,やはり活字のトレース要素は無視できない。

「まったく〜ない」という表現は幅がじつに広いので,私は先生のボヤキがピンと来なかったのだけど,うちのガキどもの活字ギライをみても,最近の学生はホントに纏まった文章をまったく読まないのではないかと心配になる。「本を読まない・読めないヤツが大学なんて行くんじゃねえ」と私は叱り飛ばしている。子供達は,携帯メールでブツブツ断片的なことばを送り合い,「空気を読み」合っている。そして,ふとした文言で根拠のないキレ方をする。「空気」に犯されたのである。まったく悪意が「読み取れない」のに。このように,携帯メールのこの時代,纏まった文章で論理的に意思疎通を図るようなコミュニケーション,思想の伝達は,いまの若い人には望めなくなってしまったのだろうか。「携帯をもったサル」というような表現をどこかで目にしたが,携帯電話が低能児養成ツールになってしまっている現実を認めざるを得ない。義務教育にある子供にはその所持を禁止すべきだと私は真面目に思う。

子供達は,人が何を言っているかという論理ではなく,視覚的要素で人を分類する癖がある。「この人,うちのクラブのXX先輩に似ている」云々。人物評は「〜に似ている」しか思いつかないらしいのだ。そういうとき,私は「だからなんだ。人を見た目で極め付けるな」と叱る。「極め付けてる訳じゃないよ」---「『似ている』と表現すること自体,薄っぺらい価値観を貼付けていることに,お前は自分で気づいていないだけだ。見た目で判断するなら,少なくとも『あの目つきは他人を軽んじるタイプだ』くらいの観察がほしいね」。でも,どうもこの傾向は,近頃の若者全般に及ぶような気がしてならない。ネットをうろついていても,「戸田恵梨香似の女」といった,人の素描のじつに貧しい舌足らずの表現にぶち当たらない日はない。このように,何かの論理ではなく視覚的印象で軽率に人物を類型化する傾向は,思うに,ことばの論理に鍛えられていない証拠である。

Web で伝えたいことをきちんと書いても,おそらく 3 行以上のパラグラフになると,もう読まれないのではないか。Twitter というのが流行っているそうである。「つぶやき」くらいの量でないと,もはや読んでもらえない。そういう時代だということか。

予算シーリングにおいて「事業仕分け」がたいそうな話題。これまで官僚が奥の院で拵えていた予算編成の大振るいを民主党政治家の息のかかった仕分け担当者が,しかも公開形式で行うというものだから,これこそ前代未聞の「政治家主導」の象徴である。私もテレビで,仕分け側が省庁の担当者の説明に対し,キツイ口調で査定しているのを見た。

この光景は,まるで虐めをしているかのように,ある人には見えるようである。刑事が被疑者に対するがごとくとでもいうような(今日の朝日の夕刊の「素粒子」)。でも,一般企業の予算策定の現場でも,担当者が幹部に説明をする予算審議会風景は,まさにこれと同じであって,私などからすれば,おお,国政でもウチの会社と同じような喧々諤々の予算論議をやる訳か,と思いこそすれ,虐めにはまったく思われない。業者のことなど徹底的に蔑んでいる顧客との営業折衝などと比べたら,「事業仕分け」のやりとりはむしろ紳士的なくらいである。プレゼンテーションの悪い役人は予算が獲得できず,それこそ予算を取るのが仕事である役人として無意味な存在に貶められる訳である。

「事業仕分け」の意義はこの喧々諤々の面白さのみならず,それが公開の場でなされることにあると思う。このように予算策定の過程が国民に見える形にする,ということは今までにない試みである。そう,官僚の予算立案をそのまま国民に知らしめることこそ,政治主導以上の国民主導を形成するよい工夫ではないだろうか。

「テレビXXが選ぶ意味不明予算項目ワーストスリー!」とかいうような,テレビ局による悪ノリ特集番組を,省庁の担当部署名入りで放映なんかしてくれたら,最高に面白いと思うんだけど。でも,そんなことテレビ局がやる訳がない。なぜなら,これまでの官僚への従属は,政治家以上にマスコミこそがその張本人だからである。霞ヶ関の構造を叩く悪口を書くと,トップシークレットを握る官僚がニュースのネタを流してくれなくなり,マスコミ(大新聞社・テレビ局)にとっては死活問題になる。だから「ある経済産業省の幹部によれば」とかなんとかの触れ込みで,ただの官僚によるリークをさも自らの取材力のおかげであるかのように見せかけて,霞ヶ関の言うとおりに記事を書く訳である。こうして,意見の微妙な左右の違いはあれ,どのマスコミ報道もすべて同じ・画一的になる。これこそ自由主義・民主主義国家において素晴らしい統制を実現する仕掛けである。小沢元民主党代表の秘書逮捕騒ぎが突然静かになったり,普天間の問題が民主党政権になっていきなり大問題として浮上したり,チョー気味が悪い。

今日,9 時少し前に帰宅すると,我が家ではすでに夕食が済んでいた。この時間だとテレビを観ながら皆で晩ご飯が通常だが,今日は私ひとりでいただいた。妻が,洗物をする BGM として,ドヴォルザークの 8 番の交響曲を掛けた。第三楽章のスケルツォ,あの哀愁を帯びた優雅さがやっぱりよい。味醂で味付けした鰆の焼魚が旨かった。
 

ドヴォルザーク:交響曲第8番&第9番
ヘルベルト・フォン・カラヤン (Dir)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック (2003-10-22)

沖ノ鳥島に港建設 中国へ主権主張 政府が予算化」のニュース(産経新聞配信)。政府の予算シーリングがかしましいいま,このような政策が予算化されるとの話は興味深い。民主党政権には自民党がなかなか踏み切れなかった自己主張を清々となす体質がある。これはよいことだと思う。沖の鳥島が「岩」ではなく,周辺海域が日本の領海であるという事実の主張は,対中国安全保障シーレーンの重要地点であるだけでなく海洋資源となるこの海域を中国には渡さないという明確な意志表示なのである。日本は東シナ海で中国の好き勝手にやられてきた。沖ノ鳥島事案は,もうそうはさせないということだと思う。

沖ノ鳥島へのこれまでの政府の無策ぶりは,読売新聞政治部が纏めた『検証 国家戦略なき日本』(新潮文庫,2009 年)に詳しい。東アジア共同体構想といい,普天間基地移設問題といい,新政権は米国とも,中国とも,付き過ぎず離れ過ぎず独自路線で外交をしようとする意図を感じる(普天間基地問題対応は米国を怒らせようとする意図が見え見えである。その前にバカなマスコミを怒らせている訳である)。そう,日本の国益を考え,政治的に戦ってほしい。自民党が定着させてしまったこれまでの対米従属根性(対中国政策は嫉妬心による「嫌中」路線でしかなく,対米従属だったのである!)を「しかるべき」姿に戻してほしい。
 

17--18 世紀の英国の政治家・チェスターフィールドは「なんでもできる人もいないなら,なにもできない人もまずいない」という言を遺している。これはなにが言いたいのか? だから自信を持てと言いたいのだろうか? 自信を喪失して,オレの価値はなにかと思うことがよくある。自分のできることが大したことか,とも。

息子が新型インフルにかかってしもた。かわいそうに,40 度近い熱で唸っている。吸引タイプの薬をもらってきた。新型インフル問題では,ここのところ罹患率がきわめて高くなり,ワクチン接種運用が混乱している。半年ほど前は宝くじ当籤レベルだったのに。あの当時の大阪などの学校閉鎖騒ぎはいったいなんだったのか。いまこの季節,受験生は戦々恐々だろう。その親もしかり。ああ,俺もなんだか頭が痛くなってきた。

* * *

本を読み飽きて,退屈しのぎに LaTeX で遊んだ。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に出てくる鏡の国では,すべてがあべこべ,本の文字も反転している。その鏡の国の文字を組んでみた。
 

alice-mirror.jpg

フォントは Garamond ファミリー。文字の反転は graphicx パッケージの \reflectbox 命令を使っている。

\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{graphicx}
\usepackage[T1]{fontenc}
\pagestyle{empty}
\begin{document}
\usefont{T1}{ugm}{m}{n}% Garamond
\begin{center}
\itshape\Large%
\reflectbox{JABBERWOCKY}\\
\reflectbox{'Twas brillig, and the slithy toves}\\
\reflectbox{Did gyre and gimble in the wabe:}\\
\reflectbox{All mimsy were the borogoves,}\\
\reflectbox{And the mome raths outgrabe.}%
\end{center}
\end{document}

脱官僚

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民主党が脱官僚,「官僚依存から国民への大政奉還」などと言いながら,各省庁に「答弁メモ」作成を指示していたとの記事を読んだ(「『答弁メモは事務的慣例』 官房長官、撤回示唆」)。

官僚からブリーフィングや原稿草案を受けるのは国政に携わる政治家にとって当たり前である。それをいちいち原則に反しているとしかつめらしく話題にするのは,頭が悪いのではないかと思ってしまう。私だって,小規模集団プロジェクトの運営においてすら,手を動かしている部下の報告を受けてものごとを判断する。部下がきちんと事実を伝えているか,道をはずしていないかチェックするのは当然である。脱官僚の本質は官僚の言うがままの予算,なすがままの追認を排するということではないか。

これと同様に「官僚の天下り」についても,「杓子定規」が罷り通りはじめており,本来の問題意識が失われようとしている。この問題の源は,ポストにありつけなかった者のために,役所が必要性疑わしいポストをわざわざ外部団体に作って税金を流し込む官僚人生設計 --- そんなムダが許されてよいものか,ということのはずである。もとより職業選択の自由がある訳だから,官僚もそのキャリアにものを言わせてより条件のよい仕事につく権利がある。「禁止」できる性質のものではない。志ある官僚が政治家,雇われ社長になろうとまったく問題がない。もちろん,税金で食っている訳だから税収が落ちれば,減給,リストラだってしようがないと思う。そういう一般的社会人のルールをきちんと適用すればよいのである。

官僚(9 時 5 時の時計に合わせて仕事をするような一部地方公務員のことじゃないよ,国家公務員上級文官・技官のことだよ)は国政実務のプロであり,政権に依存しない過去を唯一蓄積している集団である。もとより知力の優れた人材が集結しているのである。彼らを尊重すべきである。政治家は,きちんと彼らのプライドを認め,よく話を聞き,その上で自分の政策の実現に向かわせるしか方策はないのである。

なのに,郵政の新社長は官僚の天下りだとか,そもそも国務大臣自体が元官僚だらけだとか,無意味なからかいに明け暮れるマスコミは,まったくバカではないかと思ってしまう(産経新聞はその代表)。テレビ局は,NHK を除く民放大手はすべて,鳩山総理の首相所信表明演説のその時間,どうでもよい芸能人麻薬犯罪裁判に血道を上げていたのである。ノリピーの反省と決意は心からのものかどうかなんて,本人の問題ではないか。朝日は今日の夕刊で,ノリピーが介護に携わりたいとコメントしたのを巡って「介護を甘くみるな」という記事を掲載していた。そんなことノリピーの決意表明なのだから,本人の意思であって,他人にはわからないではないか。これがこの国の報道のレベルである。自由な国の自由な報道がどうなっているのか,というこの現実。皆,まったく同じ。共産主義国家以上に社会主義が浸透した珍しい国である。それなのに,中国や北朝鮮の自由なき報道を嗤っている。(私は海外のマスメディアを買収して日本の報道を日本で行わせるという事業があってもよいと思う)

選挙の投票に行って来た。川崎市長及び参議院神奈川県補欠選挙である。民主党が勝つんだろうな。幸福実現党が性懲りも無く候補を出していた。

それにしても,思うに,自民党はもはや過去の政党に成り果ててしまったようで,無惨である。野に下った「保守」政党としての自民党に,いまやどんな役割があるのかまったくわからなくなってしまった。民主党自体,保守的な政党だからである。だから農協やら医師会やらが平然と民主党支持に鞍替えできるのである。自民党の行く道はだだのひとつ。極右政党に成り下がることだろう。「保守」ではなく「右翼」になること。「利権」を喪失したいまや,靖國万歳,特亜殲滅,アジア蔑視の排外主義などなど,これまで隠然とやっていた「美しい日本」主義を大っぴらに主張しはじめるしか生きる道がなさそうである。

ロシアの政党に Либерально-Демократическая Партия России がある。つまり「ロシア自由民主党」。ソ連崩壊とともにできた極右民族主義政党である。「北海道はロシアの固有の領土だ」と主張するロシアの反日勢力である。旧態権力の生まれ変わりにして極右勢力という意味で,日本の自民党も同じ道を行く暗合のように私には思われる。名は体を表す,という。自由をも,民主主義をも認めないという意味で,「自由民主党」という党名は,名は体を表す。

石破茂や野中広務など,自民党にもホネのある良識派がいる・いたんだけどな。

* * *

妻の誕生日プレゼントに川村湊の著した『狼疾正伝』(河出書房新社,2009 年)を注文した。今年生誕 100 周年を迎える中島敦の評伝である。妻は中島敦のファンなのである。

中島敦は昭和十七年に 33 歳の若さで逝った才能である。その漢文調の語り口は硬質,端正にして,格調高雅,意趣卓逸の気風に充ちている。近代人特有の知的憂悶を表現した文人作家を,中島敦,森鷗外,石川淳を措いて私は知らない。

誰もが高校の教科書で中島敦の『山月記』を読んだことがあるだろう。才能に恵まれた者が,その「臆病な自尊心と,尊大な羞恥心」の相克の果てに人間性を喪失し,虎と化す。虎は生存競争を強いられた暴力の象徴である。私はこの作品を改めて読み,まるで志高い高学歴の若者がワーキングプアに苦しむ様を見たような気がする。ワーキングプア問題があげつらわれる背景で話題になった小林多喜二『蟹工船』なんかよりも,この僅か 9 頁の作品のほうがよっぽど現代の若者の内向する苦悶を表現しているように私は思うのである。
 

今日,娘と高校の学校説明会に行って来た。JR 南武線・宿河原駅近くの高校である。川崎市の県立高校のなかでも古い名門であり,広い敷地に校舎がすべて二階層以下という贅沢な環境。裏手には多摩川の河川敷。大きな銀杏並木の接する広いグラウンドではサッカー部員が練習していた。旧き良き高等学校。校舎は老朽化が進み,校内の大きな庭は荒れ(整備の予算が付かないのだろう),寂れた印象が強かった。

学校の歴史・校風,進学実績,考査方法の方針などの先生の話は,私には「ふぅん」で終わった。それよりもなによりも,吹奏楽部が素晴らしい演奏を披露してくれた。司会の放送部女生徒の話す日本語が,明らかに放送向け発音訓練によって鍛え抜かれていて,端正この上なかった。びっくりした。おお,昔の NHK 女性アナウンサーはこんなしゃべり方をしたぞ。高校のクラブ活動では基本が徹底されていて,もはや大人にも侮れない。説明会のあと校内を少しぶらついた。女生徒のトランペット練習の音にいい知れぬ郷愁を覚えた。先生の話はそっちのけで,こういうことばかりに感心して帰って来た。

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* * *

ロシアのヴラジヴォストークで,日本製中古車販売に高関税を課しいずれこれを禁止するというロシア政府の政策に対し,中古車販売業者を中心とした反政府デモがあった。今日テレビのニュースで,その様子を見た。ケンカの強そうないかにものロシア人が「プーチンに死を」なんて過激なシュプレヒコールをしていた。

ロシアのこの政策は,日本車によって国内の自動車産業がホネヌキになっていることを受けており,国内産業保護の観点に立った,いわゆる保護貿易主義の現われである。日本政府がこのロシアの政策に今後どう対応するか注目される。とはいえ,昨年来の金融不況のおかげで,最近,世界的に保護貿易主義的話題が目立つ。ロシアに限らないのである。つい先日も,米国が中国製タイヤへの 35% の高い追加関税措置に踏み切り,中国から保護主義だと批判されている。これは,かつての日本バッシングを今度は中国製品に対して大々的にやりはじめたという徴候だと思う。米中は今後厳しく対立するように思われる。日本と違い中国は「ハイそうですか」と唯々諾々と米国に頭を垂れる国ではない。保護主義は相手国から対抗策をお見舞いされる。その連鎖が起きると両国の関係が見る見る悪化する。ミサイルを配備したというような安全保障危機意識よりも,産業,ひいては生活に直結するだけに,ある意味で対外的国民感情を左右しやすい。

また同じニュース番組によれば,鳩山首相が ASEAN 首脳会議で「東アジア共同体構想」を各国首脳に呼びかけたという。これは地域経済ブロック圏の確立への提案と考えられる。欧米の保護主義に対抗するための,中国と日本を中心とした経済ブロック圏構想。岡田外相が米国を参加させない,と言っているのが印象的である。

経済不況,保護貿易,ブロック経済圏と来ると,第二次世界大戦前夜の帝国主義諸国による覇権争いに酷似して来たと思わないではいられない。こんな提案が日本から出るのは,自民党政権による長い対米従属政策に慣らされた者には信じられない。普天間の問題よりも私はこちらのほうが心配である。もしかすると,上海条約機構のような軍事同盟にも,そのうち日本が絡んで来るのではと思ってしまう。冷戦構造を前提とした日米同盟がいま揺らぎかけているのではないかという見方と相まって,日本が日英同盟を解消した結果 --- 老獪な英国に見放されて --- 外交力を喪失し国際的に孤立して行った歴史的前夜を私は連想してしまう。民主党政権の外交力の真価がいま問われている。舵取りを誤らないようお願いしたいものである。

Windows 7 が発売された。Windows ファンの皆さん,おめでとうございます。

秋葉原のパソコン量販店では,夜中の 0 時にカウントダウンセール・イベントが催され,平日深夜にもかかわらずたくさんの人が集まったとか(まあ,パソコン・オタク達なんだろうけど)。Vista があまりにもひどい OS だったためか(私の感想ではありません),かえってコンピュータ・オタクたちの期待感を刺激しているようである。とはいえ,Windows 95 発売のときはこれ以上の大フィーバーであった。「Windows 知らぬ人から窓際族(ウィンドウズ)」なる川柳が詠まれた時代である。

Windows 95 は,マルチタスキングという装備を,IBM System 360 から 30 年以上,UNIX から 20 年以上も遅れて,やっと実装したに過ぎないにもかかわらず,パーソナル向けということから,さも画期的でもあるかのようにもてはやされ,その発売が一大事件として取り扱われた。「プリエンプティブ」だとか,訳のわからない新コンピュータ用語が大流行りになった。「先買権のあるマルチタスク」ってどういうことか。タイムシェアリング・マルチタスキング(古典的時分割多重処理方式)と何が違うのか。いまもってさっぱりわからない。マイクロソフトは,ごく当たり前の計算機ソフトウェア処理方式に対し別の比喩的英語を当てることで,なにかすごい発明をしたように見せるのがじつに巧妙なのである(どこかの文芸批評理論とそっくりなんである)。私もかつて Windows 95 が話題となったとき,顧客に自社 PC を売り込む際,マイクロソフトの尻馬に乗って「プリエンプティブなマルチタスクが実現されている」と説明したことがある。大型汎用機運用のプロであったその顧客は「TSS(タイムシェアリング・システム)とどう違うの?」と正鵠を射た突っ込みをした。「言葉が違います」と私。一同大笑いしたことが懐かしい。確かに,「コンピュータの大衆化」ゆえに,遅ればせながら TCP/IP を実装した Windows 95 はインターネットを爆発的に普及させた。その功績は否めません。

今回も,Windows 7 の何がそんなにありがたいのか,私はさっぱりわからない。いま勉強中である(というより Windows サーバーが 64 bit オンリーになるとき,何が起こるかを死活問題として考えているといったほうがよい)。Windows 95 以降,私は計算機商売にありながら,私的には世の中に取り残された感が否めない。

でも全然気にならない。その時代の流れには利用者にとって何も新しいものがないからである(その間のソフトウェアの進化はことごとく開発者向けである)。ハードの進化はさておき,パーソナル計算機でできることはこの 20 年ほど,本質的には何も変わっていない。ソフトウェアとしては,そう,辞書の収録語数が増えたような進化である。Web,メールによるコミュニケーション・情報収集,ワープロ,スプレッドシート,プレゼンテーション,テキストエディタによる文書作成,息抜きのゲーム,エッチな画像・動画閲覧 --- これがほぼ不変のすべて。しかも,動画などの画像系アプリケーションは,ユーザーサイドからみると,従来の映画,写真集の品質の足下にも及ばない。オーディオ・アプリしかり(進化しているのは「作る」ためのものである)。私の愛する LaTeX アプリケーションも出版技術の後追いである。使う側の大半は少しも進化していないのである。怠惰で自己中心的な「教えて君」や,一事が万事の頭の悪い「ネット右翼」,礼儀知らずの匿名2ちゃんねらーが蔓延って,むしろコンピュータ・リテラシーは退化しているといってよい。

その一方で,パソコンの普及により,ソフトウェアのブラックボックスを甘受しつつ表層的な事象に意味を見出したがる文科系コンピュータ・ユーザーが増えたおかげで,HTML の書き方のような些末なことにうるさい人々が増えつつある。パソコンの活用が何かしらしかつめらしいイデオロギーを纏いつつある。「そんな使い方は冒瀆だ」テキな。手段でしかない計算機技術の何かが,ロラン・バルトのいわゆる「エクリチュール」(ある時代や集団に特有の価値観・世界観に裏付けられた,表現・言語マナーの体系)になりつつあるのである。馬鹿みたい。計算機とは「汎用的ソフトウェアを利用する」ためではなく,「自分の個別目的のためのソフトウェアを作る」ためのものだ,という原初的計算機観に取り憑かれてしまっている私にとっては,「しかるべき利用方法」なんてのは畢竟どうでもよい。

自分だけの課題は出回っているソフトでは解決できないことのほうが多い。例えば,あるロシア詩人の詩の脚韻パターンの正確な統計を調べたいといった特殊な要請が,独自研究をなす者にとっては課題の多くを占めている。特殊であるからこそ研究に値するのだ。そういうとき,自分でその調査のためのソフトウェアを「作る」しか解決の手立てがないのである。そして計算機はそのためにこそ無限の可能性を秘めているのである。そういう意味で,ソフトウェアの「利用」ではなく「開発」こそが計算機という機械の目的の核心だと私は考えている。ソフトウェアを「作る」ことなく既成の汎用ソフトウェアで満足していると,それでできる範囲で「作法」が成立することがある。私には,そんなのは己の通じた「手段」を神格化しているだけの自己満足に思われてしようがない。

思うに,そもそも「利用方法=コンテンツ」と「HTML=手段」をごっちゃにしている HTML リゴリスト達は --- HTML が「高級」言語であるだけいっそう --- なんともレベルが低い。原稿用紙の使い方ばかりに執着する物書きと同じだからだ。「正しい HTML」,「HTML の思想」,「HTML の資格」云々。ホント,バカじゃなかろうか。いやはや,これをフェティシズムと呼ばずしてなんと言うのであろう。だから「文科系」は「理科系」に嗤われるのである。

私は計算機言語の古典ギリシア語のようなアセンブラにはじまり,HTML,XML などの超高級言語に至るさまざまな計算機言語を学んで来た。その過程で機能実現以外にもそのプログラミング所作・癖そのものが一種の美学になる様も職場で何度も経験して来た。計算機言語にも日本語や英語のようないわゆる一般言語と同じような「文体」・「マナー」論議があることにほんとうに驚いたものである(昔その一端を駄文『鏡の中の鏡』にも書いた)。計算機ハード技術の進化には 3 年で 2 倍になるという「ムーアの法則」と呼ばれる経験則がある。この破滅的進化において計算機言語にまつわる考え方が,人類の一般言語(文字,表記,文法などなど)との関わり方の悠久の歴史をごく短期間でシミュレーションしているようで,極めて興味深い。「計算機言語のエクリチュール」とでも題して,何か面白い文化論ができそうな予感がある。

la petite mort ということばをご存知だろうか。フランス語で petit は「小さい」,mort は「死」。つまり「小さな死」。これを含む仏文について「私はそのとき小さな死に浸っていた」という訳を読んだら,われわれはどう感じるだろうか。なにか哲学的な観照に,高尚な気分に話者が取り憑かれていると思うのではないだろうか。じつは la petite mort とはセックスにおける絶頂感,あるいはその後の虚脱状態の謂いである。日本語の「イク」,「イッちゃった」という俗語とあまり変わりない。日本語も,一線を越えて別の世界へ達する意味で,la petite mort の捉え方と酷似している。この訳は「おれはイったあとのあの脱力感を覚えていた」くらいでないと意味不明ではなかろうか。ところが,「イク」を「小さな死」と日本語に訳されることで,もとの意味が雲散霧消するのみならず,たんなる俗事が一気に詩的・哲学的なものに昇華する。フランス現代文学・批評の翻訳は,どうもこの la petite mort 直訳のようなものが多すぎるのではないかと私には思われる。これがあの難解さの一因ではないかと。

ロラン・バルト『エクリチュールの零度』の翻訳(森本和夫・林好雄訳註,ちくま学芸文庫,1999 年)を読みなおして,なにかフランス批評の翻訳には,la petite mort に類するボタンの掛け間違いがあるのではないかと忖度してしまう。それほどに,まったく意味不明なんである。それでいて哲学的な観照と高尚な気分だけはなんとなく察知される。私は先日,同じ著者による『表徴の帝国』を読み,それなりに感銘を受け,やはりバルトの批評眼は一流だと感じた。それで,いま再び新訳で『零度のエクリチュール』(かつて出ていた邦訳の題はこのように名詞がひっくり返っていたはずである)を読み返せば,学生時代に投げ出したこの高名な書物からなにかを学ぶことが出来るのではないかと期待した。果たして無駄であった。翻訳文を,--- 恥ずかしながら --- 文字通り一行も理解できなかった。

訳者も普通に読んで理解できないこの書の難解さを知っているらしく,本書の頁分量の半分以上,つまり本文以上の頁数を訳註・解説に割いて大童である(よって,フランス語で読んでもどうも晦渋な書物らしいと知れる)。しかし,その訳註を読んでも,本文がなにを言わんとしているのか,またなぜそんな註が可能なのか,ひいてはその註自体すら本文と同様,不親切な符丁で説明してくれていて,まったくもってわからない(人名解説は別として)。このわからなさの原因は,私の頭が悪いのか,翻訳が la petite mort 直訳ゆえなのか,ロラン・バルト自身の天邪鬼ぶりゆえなのか。判断できない。おそらく第一の要因が強いのだろう。でも第二の要因も相当疑わしいのである。そもそも「翻訳」なのだから,少なくとも日本語として意味が通るようにしていただけないものでしょうか。

こんな徹頭徹尾理解できない文章を書くことができるとは素晴らしい。称賛に値する(私は皮肉抜きで正直に言っているのだ)。insomnia 眠れない夜に格好の道具になる。でも,この「翻訳」でバルトを理解した人がいるのだろうか。「実際,同時代の著作家たちに共通の規則や慣習の集合体である《言語体(ラング)》や,著作家の身体や過去の個人的神話から生じる《文体(スティル)》とは独立した,文学の第三の形式的現実としての《エクリチュール》は,その後のバルトによって放棄されたかのようにみえる」など,これまた訳のわからない符丁(下線部分)に満ちた日本語文を,なんの前置きなくして気軽に書いてくれるフランス文学者がゴマンといる。こういう隠語だらけの文章を書くことのできる地点を「理解」だというのだろうか。

本書はおそらく文学論ではなく,聖書やコーランの神妙な説話や仏教経典にも似た壮大なメタファーなのである。事実の観察,分析,その総合としての「論」ではなく,いきなり「悟り」が比喩をもって繰り広げられる「神話」である。威厳と象徴に満ちた語り口に対して,たくさんの研究者が --- 親切にも --- 膨大な注釈を行う活動そのものに意味があるような。そしてまたその注釈そのものが他ならぬメタファーになっているとはどういうことか。まるで「啓示文学」である。こういう「論」にわれわれパンピーがこれら研究者と同じように付き合うのはやめたほうがよさそうである。なぜなら,どうもこれを「理解」しても,先に引用した日本のフランス文学者のような訳のわからない啓示的比喩に満ちた文章を書くことにしか資しないようであるからだ。本書のアマゾンの評価は最高点の五つ星である。その評もぜひ読んでみてください。比喩の素晴らしさを同じ比喩でもって称賛しているに過ぎない。比喩の連鎖は「論」ではない。

海外アニメのファンは,日本アニメ・オタクたちの使う「ツンデレ」,「ヤオイ」,「ショタ」などの隠語について,自国語のことばで咀嚼した訳語を使わず(だから「定義されない」状態のまま),日本語のままで流通させている。でもそれは,アニメ文化を彼らが自らの文化に受容し消化したというよりもむしろ,アニメ・オタク・ジャポネーを真似してその雰囲気を楽しんでいるに過ぎない。本書において「アンガジェする」だの,「シニャレする」だの,「シニフィエする」だの,フランス語がそのまま翻訳文に紛れ込んでいる姿は,この海外アニメ・オタクたちの楽しみ方とまさに同じである。日本語訳としてのあまりの支離滅裂さに,どうも雰囲気を楽しんでいるとしか私には「理解」しようがない。確かに,日本語として「理解」せずともその雰囲気を「真似」することはできそうである。「三島由紀夫の『金閣寺』は,かれの豊饒なる空虚としてのエクリチュールをもって --- それはほかでもない,文化という残酷な標章(「シーニュ」とのルビが振られている)の一系列にも近似した金色の楼閣を,戦後覆されてしまった『語られる言語(「ランガージュ・パルレ」とのルビ)』に偏在する虚無(「リアン」とのルビ)として描くことによって ---,あたかも文学の小さな死(「プティット・モール」とのルビ)を宣告したともいえよう」--- これはいま私がテキトーに「真似」してみせただけである。まあよい。文学者には暇人が多いものである。でも,la petite mort がただの「イク」なのに「小さな死」の形而上学的ニュアンスに読み替えられているとしたら,こんな滑稽はない。

もちろん,私にはフランス語原典とこの翻訳とを見比べて評価する能力がない。上記は私の頭の悪さを露呈しているに過ぎないかも知れない。訳のわからぬ翻訳を読んでいて,その内容とはまったく関係のない la petite mort がつい頭をよぎってしまった。まともな --- つまり,翻訳文が日本語であることをまず第一に考える --- フランス文学翻訳者の意見をぜひ聴いてみたい。
 

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)
ロラン・バルト著
森本和夫・林好雄訳註
筑摩書房

今日のニュースで,羽田空港を 24 時間就航のハブ空港にするとの前原国交相の発言で,千葉県知事が口角泡を飛ばす勢いで怒っている姿を見た。

韓国インチョン国際空港にもっていかれている収益を日本に還元できるのなら,国益に適うではないか。私は森田さんがなんでそんなに怒るのかまったく理解できなかった。千葉県にある成田空港こそをハブ空港にすべきなのに,ということか。でも,成田よりも羽田のほうが,羽田に国内線で来て成田に移動しそこから海外に出る地方の旅行者にとっても,神奈川県民である私個人にとっても,絶対に便利であり,私の個人的エゴからすれば国交相の決断のほうがありがたい。国が羽田ハブ空港構想を,たくさんいる知事をさしおいて森田さんに「ひとこと断る」べき理由などそもそもない。それを言いはじめると,ハブ化はなんで北海道の千歳空港でないのかと北海道知事が言い出すかも知れず,訳がわからなくなるからである。成田こそが国際空港なのだから,という理屈は,現在の国際線運用がそうなっているに過ぎず,利用者の立場からすれば関係ないではないか。羽田ハブ空港が千葉県の収入を減らしてしまうのだとしたら確かにお気の毒であるけれども,そのような説明もないし,いまそんな理解はできない。

民主党の「地方分権」の主旨は,私の理解では,地方が地方独自の施策で活性化できるよう交付税使途の制約を減らします(要するに,国は口出ししないので自分で知恵を出してうまくやりなさい)ということだ。政府は国益をまず考えます,地方に利権を回す(私はそれでもよいけど)というのとは違います,ということだと思う。森田さんがあんなにいきり立つのがやっぱり理解できません。羽田ハブ空港化によって千葉県の県益がどのように損なわれ,国の施策・国益とどう兼ね合いをもたせてゆくべきかという視点で問題提起してくれないと,あるいは成田をハブ化したほうがこれだけよいことがあると提言する立場でないと,千葉県民でない国民には理解されないのではないだろうか。成田空港の開港にどれだけ血が流れたかなどというセンチメンタリズムでは誰も納得しない(そんなの,そもそも成田に空港を作ろうなんて推進した奴が悪い,で終わってしまう)。

民主党政権,自民党の地方利権政治のツケをしばらくは払わされるということなんだろう。もともと成田と羽田とを国際・国内線運用で棲み分けさせようなんて発想が,利用者不在の地方利権政治の現れではないか。そもそも,そのおかげであれほど血が流れたのではないのでしょうか。

今日から3連休。なにもやることがない。午まで寝んねして,ぼけっとしてます。戦前の自由主義的ジャーナリスト・清沢洌の『暗黒日記』を読んでいる。精神論と暴力で国を仕切る頭の悪い(つまり世界情勢・現実を見ようとしない)軍人,鬼畜米英一色の報復に燃える国民,軍国主義に追従する曲学阿世の知識人・マスコミ。本書は,そのなかで米国の実情を知る憂国者として,特高の摘発を恐れながらも「現代史」のために世情をしるした記録である。

予日記をつけつつありというと,嶋中君危ないぞという。[ ... ] ただ予の場合は「現代史」を後日,書くために記録を止め置かんとするに過ぎず。
清沢洌『暗黒日記』岩波書店,1990 年,p. 71.

戦争に突入してしまうと,勝つことがなによりも重要になる訳で,彼が日記で批判している国民のバカさ加減はいまの私たちが一笑に付すことのできる性質のものではない。ましてや,当時の軍国主義的国家権力による暴力に対し個人は無力だった。それでも,どうしようもないいま眼の前のこの現実のためではなく,「現代史」,歴史のために記録する,という清沢の姿が心を打つ。自分が歴史に関与しているという責任感が凄い。行動において自己の無力を自覚したとき,「記録」という営みによって時代との関わりを果たす手段もある。
 

* * *

Yahoo! ニュースで,大阪府の橋下知事が職員の失礼な態度に怒ってその職員を処分したという記事を読んだ。「会見で橋下知事は,トップへの態度に問題のある職員が『100人ぐらいはいる』と指摘。知事を『お前』呼ばわりする職員がいる」とあるので,この処分された女性職員が特別なのではないらしい。まったく公務員(「地方公務員」というのが正しい)という人達はお気楽なものだと感心してしまった。普通のサラリーマンである私には信じられない。こんな人達を税金で食わしているのか...。

知事は自治体行政のトップであり,普通の会社なら社長,軍隊なら総司令官であって,その自治体の公務員は彼の意思を実現する組織構成員である訳だから,構成員がトップに対しそれに応じた礼節・敬意をもって接するのが当たり前ではないか。この処分された女性公務員はどうもそういう基本的組織構造を気にもしない人らしく,橋下知事を自分の属する組織の長としてではなく,タレント,芸能人と同列に,普通名詞の「政治家」とみなしていたようである。私がこのバカブログで政治家を愚弄するような無責任な駄文を書いているのとまさに同じように。私にとって政治家とは税金を払って活動してもらっている存在である訳で,私のこんなバカ・たわ言もその活動への「批判」として許されるのである。それに対し,政治家を組織長とする公務員による同じ行動は風紀紊乱・服務規律違反でしかない。税金で養われている公務員は,選挙で選ばれた政治家の目標実現のために法律に従って仕事をすべきなのだ。政治家を「批判」するならすればよい。しかし,この公務員の「愚痴はご自身のブログ等で行ってください」というのは,「批判」にもなっていないただの「不敬」であって,組織の構成員としての自覚のなさを示すに過ぎない。それこそ匿名ブログでやっておればよいようなものである。軍隊なら軍法会議において風紀紊乱でどんな処罰が下るか知れない(目隠しをされ壁の前に立たされるに違いない)。

サラリーマンは査定する上長,人事権をもつ管理職の言うことしか聞かない。査定権をもたない人の言うことを聞いてなにになる。忙しいのだ。でもこれはあらゆる組織に共通の原理である。ここではトップダウンの連鎖によって組織が機能する。この際,上長命令を絶対視する軍隊式がもっとも機能する。

公務員,官僚が政治家を軽んずるのは,政治家に人事権・査定権がないからである。私が知事で人事権をもっていれば,法律に照らして根拠を見いだした上でこいつをクビにするだろう。一罰百戒。なのに,日本では政治家が公務員の人事を掌握できたためしがない。だから官僚が国益よりもむしろ自身の出世と自己の所属する組織のためだけに奔走する「官僚的」お役人になるのである。民主党の脱官僚のスローガンがおそらくうまく行かないだろうと思われるその根本原因もここにある。

でも,政治家が人事権を乱用できるようになると独裁が生まれやすくなる。難しい。

すごいですね。ノーベル平和賞というのは業績ではなく,今後の期待感で選ぶのでしょうか。確かに,チェコで行った核兵器廃絶の「演説」は素晴らしいものだったし,対露核兵器削減交渉が具体的に進展している訳である。この受賞を疑問に思っている人は,しかしながら,間違っている。かつて,わが国の佐藤栄作という元総理大臣がノーベル平和賞を受けており,当時理解不能だったのみならずいまだにまったく理解不能であることを思い出そう。

うちの中学三年になる娘は『ポップティーン』などのギャル雑誌が大好きである。「ギャル」というのは「流行には敏感な(ちょっとおつむの弱い)娘さん」のことではなく,最近ではもう少し限定的に用いるようである。つまり,髪を「盛」ったように飾りつけ,ツケマ(付睫毛)をしたちょっとケバイ女の子のことである。「くみっきぃ,ちょー盛れてる」と浜崎あゆみ風の鼻にかかったしわがれ甘え声で言う。オヤジ・私は呆れるばかりである。私の趣味に合わないから。でも,まあ許せる。私の趣味に合わないだけだから。そういうスタイルがあってもよい。

娘の話では,先日『めざましテレビ』で外国人ギャルが採り上げられ,そのなかでフランス人ギャルがとくに多かったらしい。アニメ・マンガの受容もフランスが過激でもあり,日本のギャル文化に捕まるのもフランス人が多いということか。フランス人は個人主義が徹底していて,好きになったものはそれを誰がなんと言おうと貫いて憚らない潔さがある(そういう意味で,「皆がやってるから」式日本的女子高校生の集団的軽薄さとは相容れない喜悲劇を,私はこれらミニョン・ギャルたちの行く末に想像してしまう)。

娘の学校のとある友人宅は外国人留学生のホームステイを受入れている。いまポルトガルから来た女子高校生が滞在しているというので,娘たちは好奇心で会いに行ったらしい。なんとその子も他ならぬ「ギャル」であって,日本の「ジョシコーセー」スタイルを謳歌していたらしい。自己紹介を頼んだところ ---「え? 自己紹介? えー,なーんかちょー恥ずぃんだけど!」とそのアンジェラちゃんだか,ガブリエラちゃんは,日本人の女子高校生とまったく変わりない抑揚,発音でもって流暢なタメ口をききまくって,恥ずかしがったそうである。

このようにいまや日本は海外の若者(極々一部ではあろうけれども)にとって神秘的でも何でもなく,心から共感できるスタイルを持つ国になったようである。私などからすれば,このポルトガルの娘さんももう少し「まともな日本語」を覚えて帰国してほしいと願わない訳ではない。だけど,娘の伝える「ちょー流暢な」日本語だって「パロール」に他ならず,別に「正しい,礼節ある」日本語でなくても日本のナマの姿を彼女は歓喜をもって吸収しているようである。そう思うと,微笑ましい。少なくとも,武士道,禅,生花,能,などの,日本人の一般的生活からかけ離れた「高尚な」芸術・哲学のみに関心を向ける海外のエキゾチスム愛好文化人の話題なんかよりも,よっぽど日本が海外に受入れられていることを実感するのである。

それにしても,「難しい」とされる日本語の習得において,こういう十代の若者たちがアニメやギャル文化を通して日本人と変わりない言語マナーを早々に身につける姿を知ると,外国語の習得にはその国の生活・文化スタイルとそれに付随するオーラルな言語所作への共感がなにものにも優るということが改めてわかる。「秋葉いつき」なるペンネームをもつロシア人アキバおたく・ジェーニャ嬢(いつきたん〔註:「いつ来たん?」ではない。言うまでもなく「いつきさん」のオタ訛り〕)も,日本アニメの声優に憧れて来日し,瞬く間に日本語を我が物とした。おそらく彼女は日本語の文字,ことばの意味などよりも先に,愛するアニメ・キャラクタの声の所作を寸分違わずコピーしようとしたに違いない。

Winny 開発者が著作権法違反幇助罪に問われた控訴審で,逆転無罪を勝ち取った(時事ドットコムを参照。朝日新聞 10 月 8 日夕刊の一面でも報じられた)。彼が起訴され,一審で有罪とされたとき,私はこの国の裁判はなんと愚かなのか,検察の言いなりの茶番でしかないと思ったものであった。これは,あるレイプ犯被告人があるレイプ小説の影響を受けたと陳述したと仮定するとき,レイプ犯罪を「幇助する」として,その小説を書いた作家にも罪を問うのと同じである。裁かれるべきなのはレイプ犯であって,小説家は犯罪そのものとは何の関与もない。こと IT が絡むととたんに常識がマヒするらしい。「幇助」ということばがいかに便利なものか呆れたのである。逆転無罪? こんな当たり前の判決がニュースになるのは,法治国家の恥である。

でも Winny を使うのはやめましょう。「著作権法違反」を問われるだけでなく,個人情報保護法にも抵触する可能性がある訳だから。Winny をインストールしているだけで会社をクビになっても文句言えません。そういう世の中になってしまいました。

今夜のご飯に妻が秋刀魚を焼いてくれた。脂がのって旨かった。

* * *

2016 年オリンピック開催地はリオデジャネイロに決定。未開催の南米なのだから至極理にかなっている。ペレがうれし泣きしていたのが印象的だった。石原さん,残念でした。ここで「日本,残念でした」とならないところがそもそもの敗因か。なんのためにオリンピックを日本で,しかも東京でやらなければならないのか,もとより疑問だった(儲かる,というのが本音だろう)。そう思うのは私だけではないと思う。「敗因は IOC の政治力学」なる石原知事のコメント。昔の自民党総裁選に喩えるなんて「利権の絡む出来レース」と言わんばかりである。世界から嗤われますよ。事実,すでにブラジル国民から嗤われたようである。最後の最後でケツをまくるような恥ずかしい発言をしてくれるんである。もしそんな敗因を挙げるのなら,どうしてあと 50 億くらい使ってでも票を買わなかったのか。150 億の都税を使って最後は国際的な侮蔑の視線に晒されて ... 確かに日本の国際的認知度を上げていただきました。

日本ハム・ファイターズが今夜パ・リーグ優勝を決めた。ホームの札幌ドームだったので,ファンの喜びも一入だったはずである。夜 NHK テレビを点けると,日本ハムと西武の試合が放映されていた。NHK は抜け目ない。札幌ドームはレフト・スタンドもファイターズ・ファン一色だった。そう,こうでなくっちゃ。ちょうど,9番打者金子選手がツーランホームランをかっとばしたところだった。安定した投手力と,打線のどこからでもチャンスを作ることの出来る卒のなさとで,文句のない優勝であった。

札幌で学生時代を過ごしたころ(1980 年代)は,北海道の人々は皆ジャイアンツのファンであった。札幌の大学生は日本全国から集まって来る関係で,阪神,中日,西武,ヤクルト,大洋,南海などのファンが百家争鳴だったのに対し,地元の人はまず間違いなく巨人ファンであった。もう千篇一律。なにせ地元の球団はなし,テレビ中継といえば巨人戦しかなかった。可哀相なくらい。弱くても地元球団があることは野球ファンにとって仕合わせなことだと,私はしみじみと感じたのだった。私のような生まれも育ちも大阪で,幼いころから地元・阪神タイガースを応援してきた者からすれば,札幌にいて東京の強い球団を応援しているなんて,占領軍の言いなりになっているような屈辱に見えたのである。バイトでお客が「今日は巨人が負けたから,『プロ野球ニュース』(そういうテレビのスポーツ番組があったのである)の時間を気にしないで呑むぞ」と言うのを聞くにつけ,「可哀相な人達 ...」と思ったものである。事実,そのころの札幌は文化的にも東京の卑屈な追従者だったと思う(私の大学もそうではなかったか)。ニュースで漏れ聞こえる最近の北海道は,新自由主義による地域格差のあおりで,東京を呪詛しているのではないかと思う。そうそう,それでよいのである。

その北海道にも球団ができ,見事リーグ優勝を果たすまでになった。いまや北海道の人達は名実共に地元球団を応援でき,美酒に酔うことが出来る。札幌で青春時代を過ごした私にも感無量である(大学時代にも札幌へのプロ野球団招致の話があったように思う。当時はもしできるのなら,是非ホクレンがスポンサーとなってチーム名を「ホクレン北海道ベアーズ」にして欲しい,阪神ファンをやめてでも絶対応援する!と思ったものである)。おめでとうございます。

今年は日本ハムがリーグを制した訳だが,面白さからいってもパ・リーグのほうがセを圧倒していた。夢の 100 敗かと負の期待ばかりだった楽天が 2 位と健闘したし,1 位と最下位のゲーム差が 20 数ゲームしかなく全体として熾烈だったことがわかる。それに引き換え,セ・リーグでは,金でプレイヤーを集めた巨人の一人勝ち。2 位の中日はというと,CS 進出が確定するととたんにやる気なし,消化試合モードがありありと判って,球場に足を運んだファンをバカにした最低の球団ぶりを発揮している(WBC に選手を出さなかった,ある意味で尊敬に値する行動をとった中日に対し,ことファンを軽んじる試合をなすのは私は絶対に許せない。合理主義の徹底した名古屋人には気にならないのかも知れないけれど)。現在 3 位の阪神は首位との差がなんと 25 ゲームもあって,「熾烈な 3 位争い」。その 3 位も不調ヤクルトが自滅したおかげであって,復調したヤクルトに今週末ボコされて 4 位でシーズンを終えるはずである。パ・リーグにいたらオリックスと「熾烈な最下位争い」ではなかったか。だいたい負け越しておきながら CS 進出なんてお笑いぐさではないだろうか。そういう意味で私は CS ルールには大反対である。プロ野球にも,サッカーにおける J2 落ちのように実業団落ちなどがあっても面白いとすら思う。

そんなこんなで,やっぱり,日本ハム・ファイターズ,北海道の皆さん,優勝おめでとうございます。日本シリーズに駒を進めたとしても,金に糸目をつけなかった新自由主義的読売ジャイアンツにはおそらく敗れると思いますが,頑張って欲しいと思います。

金婚式

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今日は妻の両親の金婚式祝いをした。義兄夫人の親御さんも同じく結婚五十周年であり,共催ということになった。義兄が主催し,目黒の雅叙園・渡風亭に宴を設けた。義母が薄緑の地に簪の柄をあしらった流麗な和服を着こなしているのをみると,妻に和服を着る機会を与えていない自分が少し不甲斐ない。五十年。半端ではない。堪え難きを堪え偲び難きを偲んだ世代の人々がこうした金婚の日を迎えられることを思うにつけても,ようやく二十年に過ぎない私は三十年先を想像すらできず気が遠くなる。

日本画が壁,天上に螺鈿によって描かれた豪華な和室で,松茸など旬の食材に彩られた懐石料理をいただいた。私にとってはこれも五十年に一度かと貧乏臭いことを考えてしまった。料理を食しつつ,義父が生い立ち,結婚生活,子育ての思い出を語った。義父には家長の風格があり,こういうときいつも堂々たる話をする。義父の,やはり教員であった父親が,昭和十年代,軍国主義的風潮の支配的であったころ,軍の批判めいた発言をして当時の教育委員会から迫害された,という。義父母の昔話を子供たちといっしょによく聞かされたけれども,これははじめて聞く話だった。この妻の祖父は平成四年初頭に亡くなった。臨終直前の老翁に,私は前年末に同じ病院で生まれたばかりの息子(彼にとっては曾孫)の名を墨で大書した半紙を掲げ見せた。老翁は厳しい顔で無言のまま何度か頷いた。

目黒は某顧客の本拠地であり,私は何度も足を運んでいて,駅周辺の風景に辟易さえする。ところが,今日は目黒への移動の途中,「山手線命名 100 周年」なる車両に乗り合わせた。これも何かの縁か。

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家族の決め事がある。一週間に一度体重を測り,増えていたら休日にウォーキングなりランニングをすることにしている。厳密なところはなにもない。ダイエットのため,私のメタボ解消のため,娘が提案したのである。妻が先週で少し増えたので,今日,娘,妻と三人で川崎駅まで歩くということになった。約 6 キロくらいの行程か。

自宅から府中街道(国道 409 号)に出てこれに沿って歩き,JR 鹿島田駅商店街の入り口交差点で古市場の方へ折れ多摩川に出る。途中,二本立ての美しい日立ビル,古市場商店街にある昔ながらの食料品店をデジカメでパチリ。

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多摩川の堤をひたすら河口めがけて進む。河川敷にあるゴルフの練習場は雨あがりなのか閑散としていた。野球場では少年たちが練習をしていた。雨が降ってもできることはやるんだ。いつも夜中にタクシーでしか通ったことのない第二京浜(国道 1 号)を潜る。ガキどもが段ボールで橋下に隠れ家を拵えているところだった。

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国道を過ぎると,大きな馬場がある。川崎競馬場の関連施設かと思われる。早朝にはサラブレッドが見られるそうである。馬場の横にゲートボール場があり,雨あがりで状態のよくないはずだが,お爺さんがひとりで練習をしていた。このあたりになると川崎駅周辺の企業ビル群,高層マンションが望まれる。

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幸町のあたり。こんな時間にこんなところで釣りをする人がいた。多摩川は意外と綺麗なんである。向こう側の中州にはホームレスのバラックがたくさん並んでいた。JR 東海道・京浜東北線の鉄橋が見える。ここから多摩川沿いを離れる。再び府中街道を横断。もう車のライトも煌煌としはじめる黄昏。バス通りをしばらく歩いてラゾーナ川崎に着いた。

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ここで妻・娘と別れ,私は別行動。喫茶店でブレンドコーヒーを飲みながら,ドナルド・キーンを読んだ。そのあと,ラゾーナ・ビッグカメラの酒コーナーで,あの高名な日本酒の銘柄・越乃寒梅を発見。懐かしさのあまり,720ml 瓶をゲット。学生時代,バイト先の居酒屋で,お客さんが「めったに入らない幻の酒だ」と言いながら私に1杯冷やを恵んでくれた。その時はあっさりした嫌みのないお酒という印象しかなく,そもそも酒の味なんて私にはわからないのであった。それから 25, 6 年,越乃寒梅ももはやありがたい銘柄ではないのかも知れない。

今日は私の誕生日。家族と焼き肉を食べて帰宅した。子供たちからプレゼントをもらった。ロシア人のメール友達からハッピーバースデーメッセージが届いていた。私自身は誕生日をなんとも思わなくなってしまったけれども,周囲の気遣いに感謝。

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ISAO。システムエンジニア。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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