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ちびまる子の書き初め

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昨夜の晩ご飯のとき,録画してあった『ちびまる子』を家族で観た。娘が大好きなんである。「まる子の書き初め」の話が面白かった。

課題は「おとし玉」。お手本を学校に忘れてしまったまる子は,姉の習字道具を借りて,手本なしに書き初めに挑む。「おとし」まで書いたら余白がない。先のことをあまり考えないで大らかに出てしまう性格の現われか。やり直す。できたと思ったら「おとし王」になっていて「玉」の点が足りない。モノを落として歩く王様を思い描いて,姉は大爆笑する。まる子はもう一度筆に墨して点を書こうとするが,「と」の横に滴りが二つ落ちてしまう。「おとし王」が「おどし王」になり,姉の頭のなかで,モノを落としていた王様が今度はおどろな怖い形相で威嚇しはじめ,姉はまたもや大笑い。まる子はそんな姉が面白くない。

「やっぱりお手本がないとだめだよなぁ」と,まる子はお爺ちゃんにお手本をお願いする。お爺ちゃんの書いた半紙をみると「をとし玉」。お爺ちゃんは古い世代だから旧仮名遣いらしい。だけど,おとし玉の「お」は旧仮名遣いでも「を」ではなく「お」のはずで,これも笑いを誘う。お爺ちゃんはお年玉の袋を手本にすりゃいいと教えてくれる。

学校で書き初めが貼り出される。小さくまとまったもの,字が暴れたもの,などなどが並んでいる。「お習字には人柄が出るよねぇ」とまる子の友達が作品をみて言い合う。「おとーむ,ってなんだよ? ははははは」。まる子の作品は,お年玉袋の草書体を手本にしたため,「し」が「ー」になり「玉」が「む」のような字体になったのであった。

この話は外国語に翻訳不能である。久しぶりに古典的な文字遊びを観た気がして,大いに受けた。

乙一の長編小説に基づく映画『暗いところで待ち合わせ』を観た。天願大介の監督・脚本,田中麗奈,チェン・ボーリン,井川遥,宮地真緒,佐藤浩市ほかの出演による 2006 年ジェネオン・エンターテイメント製作作品。

事故で視神経が害され光をわずかに感じる程度の,ほぼ全盲状態となった主人公・ミチル(田中麗奈)は,窓から外をみている。彼女の家の前の駅ホームから,アキヒロ(チェン・ボーリン)はミチルをみている。そのプラットホームである男が線路に突き落とされ轢死する。駅員に呼び止められアキヒロはその場から逃走する。殺された男・松永トシオ(佐藤浩市)は,孤独で柔軟性に欠ける中国人ハーフ・アキヒロを職場でイジめ,辱める仲間のリーダーだった。アキヒロには松永への殺意があった。

警察に追われるアキヒロは,ミチルの家を訪れ呼鈴を鳴らし,隙を捉えて彼女に気付かれないようにそっと家に忍び込む。彼は,かねてから気になっていたミチルの様子を通勤時に駅ホームから観察し,彼女の目が見えないことを知っていた。こうして,物理的な闇にいるミチルと,社会的な闇(外国人に冷酷な日本社会という闇)に苦しむアキヒロとの,奇妙な同居がはじまる。

闇を抱える者は家に閉じ籠ろうとする。それが何事も起こらずいちばん安全・平穏だからだ。ミチルは一人で杖を突いて外出すると,車のクラクション,自転車が身をかすめる際のブレーキ音に脅かされる。「私が外に出ると皆が迷惑するの」。それでも,見えないはずの世界に向かって窓から外を眺めるのをミチルが日課にしているのは,その開かれた世界への彼女の無意識の憧れの現われである。他者との繋がりへの秘かな強い希求である。だから,見えない不審な侵入者が害意をあからさまにしない限りは,彼の人となり,侵入行為の理由,その背景について冷静に考えることができ,侵入者がむしろ自分を幇助してくれたことを察知した上は,侵入ということへの常識に囚われずに,彼を受け容れることができるのである。そして,ミチルは外を歩く喜びを知り,アキヒロに「ありがとう」と感謝する。そう,生きる喜びは,視ることではなく考えることによってもたらされる。

田中麗奈の視覚障害者の演技がよかった。ミチルの視線,目の表情には,目というものは「視る」ためではなく「考える」ための器官なのか,とさえ思わせる魅力があった。そう,見えないものが見える目。田中麗奈は,『姑獲鳥の夏』などの京極夏彦小説の映画化シリーズにおける中禅寺敦子のような,キュートな女の子 — 探偵の真似事,ハンチングの似合う,活発で,セクシュアリティを超越した,お茶目な女の子 — の役回りにおいて魅力的な女優なんだけど,この映画のミチルのような,謎めいた考え深い目の,男でも女でもない中性的な存在感にも,それこそ私は目を見張らされた。

本作品はミステリーである。とはいえ,真犯人を明らかにする推理に物語の核心が存する本格ものではなく,人間のこころのスリリングさにこそ面白みのある抒情的ミステリーである。殺人のシーンには少し無理が感じられたが,映像の現実性(リアリズム)は映画の本質ではない。真犯人の恐ろしくも哀しい形相は見応えがあった。この部分については,ぜひご自分の目で本作品を観ていただきたい。
  

暗いところで待ち合わせ プレミアム・エディション [DVD]
監督・脚本: 天願大介
出演: 田中麗奈,チェン・ボーリン,井川遥,宮地真緒,佐藤浩市ほか
ジェネオン エンタテインメント (2007-06-08)

NHK 大河ドラマ『平清盛』

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今年の NHK 大河ドラマ『平清盛』をちょっとだけ観た。第一話の再放送。音楽を担当しているのが吉松隆だというので,テーマ曲などを聴いたんである。曲最後の大団円はいつもながらの大河ドラマ風の大盛上がりなんだけど,そこに至るまでのピアノ,木管の扱いは吉松らしい,冷たい手の抒情とでも言うような(は?)音響になっていた。

オープニング・テーマに骰子が出て来た。何の意味があるのかよくわからなかった。「多分,白河院が『わが意のままにならぬのは双六の賽』とか言ったからじゃないの」と妻が教えてくれた。彼女は大学で『梁塵秘抄』を研究したので,平安末期の世相や今様,白拍子の世態風俗などに滅法詳しいんである。なるほど。「歴史における偶然」というのがドラマの大きなテーマになっているわけか。

今夜の『平清盛』にも白拍子・舞子が登場し(清盛は白河院と舞子との間に生まれた隠し子だった,という設定であった),あの有名な今様「遊びをせんとや生れけん,戯れせんとや生れけん」を彼女が口ずさむシーンが出て来た。この今様の旋律もおそらく吉松隆が付けたものだろうが,まさに「今様(モダン)」であんまり古典的な味わいはなかった。

岡田将生演ずる源頼朝が,平家滅亡の知らせを受けて清盛の業績に敬意を表するくだりがあった。岡田将生があまりに優男でもあり,「なんか頼りねえ頼朝っ!」とげんなりしてしまった。それとは対照的に,男勝りの北条政子役・杏の,武士のような装い,眉を剃った怖い顔には,ゾクっと来ました。主役級が線の細い草食系(ぽい)男優ばかりで,荒くれた時代のドラマとしては,どうもなぁ。平忠度・中井貴一と舞子(清盛の秘めた母)・吹石一恵も同じような関係である。男がMで女がSばかりってどういうこと? サムライブルーとなでしこジャパンを見せつけられているようである。ま,これからどうなるかわかりませんけど。

私も,昔は『天と地と』などの NHK 大河ドラマを熱心に観たものだったけど,歳を取るにつれ興味を失ってしまった。サムライブルーとなでしこジャパンのような,女の強い光景はサッカーだけでよいのだが,どうも NHK 大河ドラマを含め世の中全体の趣味・傾向がそうなってしまったからか。『平清盛』なんて人名の題名は,歴史の大河的絵巻ではなく英雄個人に映像の関心がフォーカスされるようで,しかも草食系優男の情愛や優しさに感動の焦点があるとしたら,私にはどうもつまらない。『篤姫』,『龍馬伝』で NHK は味を占めたか。

『平清盛』は開始早々,世評がいまいち。初回の視聴率が歴代ワースト三位だったという。兵庫県知事が「画面が汚い」と貶した,などというくだらないことさえ話題になっている。私は「画面が汚い」とは思わなかった。むしろ平安末期の大乱世なんだから,『羅生門』以上に,もっと汚くても,穢らわしくてもよいくらいだ。ま,大河ドラマご当地観光による地元経済効果を高めたい兵庫県知事のハラのなかとで,どっちが「汚い」かは措くとしましょう。
 

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今年になり麻雀ゲームをはじめてやったら,四暗刻,ツモれば役満の三暗刻 12 飜三倍満をあがりました。新年そうそうツいているのか,早くも運を枯らしたのかはわかりません。家族からバカといわれております。
 

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昨日は平成二十三年の御用納め。納会のあと子分と少し呑み,ラーメンを食って深夜帰宅。

今年は仕事でもあんまりパッとしなかった。ウチの会社は,福島原発事故対応で電力事業部は損得なしで大童,コンピュータ事業においても東北地区の自治体システムの復旧で休み無し,と大震災の余波をまともに被った。気仙沼市の震災時システム対応の美談なども聞こえて来た。国難をモロに受ける会社にいると,日本を代表する企業にいるプライドが疼くものである。とはいえ,私の職場は震災の影響はあまりなく,大口顧客の仕事で坦々と稼がせていただきました。

今日から年末・年始のお休み。昼くらいに起きて来て Facebook をボッと眺める。それから,最近顧みることのまったくなかった Web サイトを少しメンテナンス。映画・芸能関係のブログ記事を一覧するインデックスを掲載した。題して『КИНОはけふの物語』。この 6 年間で書き散らした映画評は,いまさらながら,ピンク色が目立って情けなくなる。文学関係の一覧『文学についてのあれこれ』ともどもエロ話が多くて恥ずかしくなる。おヒマなら来てよね。
 

* * *

アマゾン古書店から本が届く。勝見洋一『餞』,映画『終わってる』と,このところまたぞろポルノグラフィについてばかり書いているからか,妻から「またエロ本買ったの?!」と白眼の視線に晒された。違います。ロック歌手・川村カオリの自叙伝『Helter Skelter』。芸能人の本はおそらくはゴーストライターが感動的に纏め上げたものがほとんどなんだろうけど,また一方で「自伝」というものはその本性としていいことしか書かれていないわけなんだろうけど,それは別に構わない。書かれてあることから何が得られるかが問題である。

川村カオリは 2009 年に乳癌で亡くなり,いまや伝説的ロッカーになろうとしている。本書には,片方の乳房を切除した傷跡を晒し管が体に刺さった彼女の半身写真が掲載されていて,痛々しかった。しかし,それよりも,かねてからの私の関心は,彼女が日本人とロシア人の混血であるということだった。日露戦争にはじまり,第二次大戦時の満州侵攻(国際法違反),それに続く日本人捕虜のシベリア抑留,北方領土問題,戦後の東西冷戦と,日本人の民族意識としてロシアは「伝統的敵国」となってしまった。ロシアに関係する日本人はすべからく冷たい目で見られて来た。私は自身がロシア文学を専攻する学生だったので(何かに付け「左翼」のように言われた)それがよくわかるし,その意味でロシアと関係する日本人について無関心ではおれないようになってしまった。そして,ロシア関係に関心をもつものだけが理解できる要素を,本書に認めることができたのである。

彼女はモスクワに生まれ,ソ連の日本人学校に 6 年間通った。ここでは,図書室で伝記シリーズを読むのが好きだったし,個性的な先生から太宰治の『人間失格』を勧められた,それほど平穏な(日本では珍しいくらい文化的な)日々だった。当時のソ連社会の彼女の素描もいい面,悪い面をきちんと見据えている。私は米原万里に感じたソ連育ちの日本人の冷静な視線を,川村にも確かに認めたのである。

 この頃のソ連はこんなふうに外国の製品などあまりなかったけれども,色とりどりのケーキやら果物,洋服や家具,必要な物は全て日本の 10 分の 1 の価格で手に入った。それに社会主義国はみんな平等(軍人やお役人は別ね)だったため,競争心や猜疑心がなく,人々の心も穏やかで豊かだった。知らない人でも喜んで家に招く,そんな国だった。[ ... ]
 今思うと母は一人でどんなに悲しい思い [ 私註:川村の母もまた日本人と結婚したことでソ連官憲から謂れのない差別を受けたことがこの前にしるされている ] をしたことだろう。国への不満や思想を唄や詩にして逮捕される国である。祖父や祖母も仕事場ではいいことだけではなかったという。私の知らない話もまだあるに違いない。
 あの頃はなぜロシア人がみんなウィソツキーという唄い手を愛すのかわからなかったが,最近は日本でも買うことができるようになり,聴き直してみてやっとその理由がわかった。みんな,笑顔の下には涙を隠していたのである。
 ソ連には私服警察がいて,思想的危険分子とされる人はよく連れて行かれたらしい。だから不満があってもみんなそれを言葉にできなかった。ウィソツキーという人はそんな国民の心をギリギリの表現で唄っていた。見た目はアル・パチーノ,声はトム・ウェイツのような唄うたいだった。
川村カオリ『Helter Skelter』宝島社,2005 年,pp. 17-9。

ウィソツキーの名に出くわすとは思ってもいなかったので,懐かしさで溜め息が出た。このシンガーソングライターはギター一本で弾き語りをするソ連時代の魂の詩人であり,1980 年代のロシアを知る者にとっては,知らぬ者のない名前である。そしてウィソツキーをロシア人の「笑顔の下に隠した涙」に結びつける川村の感じ方に,私は数少ない同志を見つけたような感動を覚えたのである。

1982 年に川村家が日本に移住してから,平穏だった川村カオリの人生は一変する。ロシア人のハーフであったためか,日本の子供社会(それはすなわち大人社会の縮図である)のルールに適応出来ず,激烈なイジメに晒される。その契機をこう分析する。

 [ ... ] クラスの中が細分化され,いくつかのチームがあり,みんなどこかに属さなくてはならないことを私はまるで知らなかった。教室の移動やら休み時間など,誘われるがままに付いていった。[ ... ] なんとなく一緒に遊びながらも,これまでのような自然の中ではなく,ゲームに熱中したり,誰かの悪口を言ったり,男の子の話題ばかりだったりする遊び方に違和感を感じていた。ついこの前までトム・ソーヤーのような生活をしていたのだから無理はない。[ ... ] 少しでも違う意見を言うと一瞬で空気が凍るのを感じた。違う意見を言うことは許されないと気づくと,愛想よく付き合うことにすぐに疲れを感じ始めた。しかし疲れようが合わせるほかにない。[ ... ] ところがその甲斐もむなしく,転校して数ヶ月でどうやら私はリーダーの機嫌を損ねてしまったらしい。あからさまにみんなの態度が変わり,無視されるようになった。[ ... ]
 まわりは,あぁやられてる,という顔でただ遠くから見ているだけだった。みんな先生の前では問題などないふりをするので,もちろん先生は気づかない。誰も助けてはくれない。6 クラスもあるのに誰も何も言わない。
 毎日隠される上履き。破かれる教科書,泣きたくなるような机の落書き,黒板に書かれた中傷。ロシアに帰れ。ブス。気持ち悪い。バカ。
 川村死ね。
 死んだ方がどんなに楽だったろう。
同書,pp. 26-7。

ま,誇張があるにせよ,よくある話である。異質な人間が日本で自分を保って生きて行くのは至難の技なのである。千葉という中途半端な「田舎」だからこんなことになる? 「先生は気づかない」— いよいよよくある話である。「イジメがあったという認識はありません」と生徒がイジメを苦に自殺してしまった学校の記者会見はいつもこうですね。1983 年のソ連による大韓航空機撃墜事件のあとは,社会の授業中に教師にまで「この外道が!」と罵られた,とある。このように,集団主義的イジメは日本の「国民性」である。イジメているのに自分ではその感覚がない。この社会科教師も,ソ連の非道ぶりを許せないとの正義感を振りかざしているわけで,なんの罪悪感もないようだ。帰国子女は耐えるしかない。川村カオリは,その反動からか,その後万引きの常習犯になり,イキがって街を歩き,逆に弱いものイジメを始めるようになる。なんか彼女は学校環境ゆえに落ちて行く人間の典型だったようである。

そんななかでパンク・ロックに出会い,救われる。「わけのわからない服を着た彼ら [ 私註:セックスピストルズ ] は,ハーフである異端児の私と同じに見えた。でも胸張って堂々と自分のやりたいようにやっている強さを感じた。いじめられてもいいんだ。ケガしてもいいんだ。だって PUNK だもん。わけのわからない大義名分が私を守っていた」(p. 30)。

この自伝でもっとも感動的なのは,日本人とロシア人,イジメる側とイジメられる側,どちらにも属した「ハーフ」ならではの複眼的なものの見方である。イジメる側にしか立ったことのない者は何も変わらないが,両方の立場に立った者は「人としてあるまじき行為をした場合,それは一生,自分に付いてまわる傷になる」(p. 33)との深い認識に至ること,罪を自覚することができる。その間で引き裂かれた果てに「私は自分にふるさとが 2 つあることに感謝」(p. 223)できるということ。これこそが,あらゆる尊敬すべき日露関係知識人に共通する属性なんである。日本人がロシア人を憎んでいる激しい緊張感ゆえにこそ行き着くことのできるバランス感覚だと思う。彼女はソ連で成長した方が文化的にも人間的にもおそらくずっと幸福だったろうに,閉鎖的で他人の顔色を窺わないと生きて行かれない日本という劣悪国に帰って来てしまったばっかりに不幸になった。しかし,日本に来て日本人とロシア人の両方の血筋を見つめなければ「川村カオリ」は成らなかったに違いない。
 

 

P.S.

本書にさらりと書いてあってびっくりしたんだけど,川村カオリの両親の国際結婚の仲人は,なんと,杉原千畝だった。父の当時の上司だったそうである。杉原千畝は第二次大戦中のドイツ大使館勤務のなかで日本本国通過ビザを発行し 6,000 人以上のユダヤ人を救った。イスラエルの英雄になっている人物である。

日本人にも「シンドラーのリスト」のような偉人がいたのだと誇らしげに言う日本人が大勢いる。まったく,バカというか,偽善者というか,私は呆れてしまう。この行為は「日本人の優しさ」がなしたものでは決してなく,杉原個人のロシア正教徒としての魂(神の前に己の行動を問うことの出来る魂)が命じたところに依るものなのである。当時の新聞が杉原の行動を知ったとしたら,まず間違いなく同盟国ドイツへの反逆行為として彼を国賊・売国奴扱いしたはずで(「百人切り」なんて恥ずかしい「武勇伝」を何の疑問もなしに新聞記事にしていた国なのだ),杉原千畝は,川村カオリ同様,日本的な集団的イジメに晒されたであろうことは想像に難くない。つまり,日本の国民性は杉原の行動についてこれっぱかしも与り知らぬところなのである。

日本は今年東日本大震災を経験し,被災地でもパニックが起きず略奪もなく,日本人は極めて冷静で己よりも共同体の和を尊ぶ,と世界から絶賛を浴びた。私もこれは確かに日本人の誇れる美徳であるとつくづく思ったものだった。本書を読んで,しかし,それは日本人が中で閉じているゆえの美徳であって,世界のボーダレスに晒されたとき同様の落ち着きと互助精神を発揮できるかと問うてみると,正直,心もとない。集団的弱者イジメを無意識にやる人間は,すぐに化けの皮が剥がれる。

文化的にもニセモノだらけではないか。いきおい海外ないし過去に目を向けるしかない,てなもんや。川村カオリも「日本の音楽界もジャリタレばかり」と手厳しいことを書いていた。そう,いまの日本のメジャー文化はあらゆる面で「ジャリタレ」文化である。でも,マイナーな世界とはいえホンモノも必ずいる。川村はそれに救われたのである。

映画『終わってる』

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映画『終わってる』を DVD で観た。今泉力哉監督・脚本,2011 年,アートポート製作作品。女優・しじみ(主人公・川瀬まき役)の演技の光る,優れた青春ラブストーリーだった。ただし,あくまで成人指定のピンク映画であり,性交場面 — 描写は控えめではあるが — が何度か出て来るので,誰かと一緒に観るなら注意が必要である。本作品は今年の 3 月,映画館・ポレポレ東中野のみで公開された。今日は,少しネタバレになってしまうかも知れないが,大いに興を覚えたので,この映画についてしるす。

晋助(関口崇則)は,他の男の子供を身籠ったまき(しじみ)と結婚した。それを承知でまきを好いたゆえの決断だったが,赤子が自分の子供ではないことにだんだん嫌気がさして来て,まきとの夫婦関係に亀裂が入る。その一方でまきの親友・町子(篠原友希子)への恋心も募って来る。晋助はまきと別れる決心をして家を出る。町子は,同棲する恭介(松浦祐也)が彼女を独占したいあまり事毎に拘束的であることに耐えられなくなり,晋助へのほのかな横恋慕もあって,恭介に別れてくれと言い放って家を出る。晋助は親友・ババケン(前野朋哉)のもとに身を寄せるが,ババケンに説教された晋助は悪態をついてババケンの家からも出て行く。ババケンは,片思いのまきが晋助と一緒になってからも他の女性と恋愛することなく童貞を守って,日々悶々としている。こうして五人の登場人物は皆それぞれの形で「終わってる」事態を呈している。さて,この五人,これからどうなるのか?

この映画の見所のひとつは,この「終わってる」五人がよりを戻すあるいはその状態から抜け出す契機が,ほんのちょっとした相手の心遣いであったり,己の考えの変化であったりするところである。それは一杯の熱い紅茶であったり,死んだ友人の幻との心の対話であったり,素股セックス(いちいち説明はしません)であったり,その形の機微が心憎い。

しかしいちばんの見所は主人公・まきの人間造形である。まきは,晋助と別の男とで二股を掛けた挙句に妊娠し,そのことを正直に告白した上で晋助と結ばれる。晋助が赤子を巡って嫌気がさし別れようと迫っても,彼女は「絶対別れない」と断言する。その一方で晋助が出て行くのを強く引き止めるわけでなく,また晋助がババケンと喧嘩して戻って来た時ご飯を食べさせ「行く所が見つかるまでここに居ていいよ」とあっさりとしたことを言う。またその一方で,晋助が町子のアパートに行くと知るや,その面当てに,自分はババケンのところに泊めてもらいに行くと言い出す。晋助に見捨てられそうになった煽りで,自分に思いを寄せるババケンに色目を使い,裸で彼と抱き合っても,「ババケンは好きだけど,そんなん(一緒になりたいというわけ)じゃないの,ゴメンね」と残酷なまでに正直な文句をズバっと口にする。

ここで,執着,嫉妬,面当,誘惑,残酷を,同じような冷淡な微笑で表現し分けてしまうまきの図太さ,わからなさが,堪らなく魅力的なんである。全編翻って考えてみると,最初から最後までまったく己の立場・意思を変えずに「終わってる」状態を脱したのはまき一人であったことに,呆れてしまうんである。何でこの女はこんなに強いのかと。それこそ「終わってる」といえるかも知れないと。これこそが「子を持つ女」の強さなのかと。そして,この強さはあっと驚く打算的狡猾さでもある。それは二股を掛けたもう一人の男とまきとのやりとりのシーンで明らかになるが,ここではしるさないでおこう。ぜひ本作品を観てください。執着,嫉妬,面当,誘惑,残酷,打算,狡猾の入り混じった怪しい微笑。まき役女優・しじみのこの微笑がぞくぞくするくらい魅力的なのである。これこそがこの映画の最大の見所である。最後のシーンでまきが見せるこの微笑は,映画のカバーショットにもなっている。これこれ。二股掛けておいて,どちらが男親なのかわからない子供を軽率にも身籠っておいて,子供がありながら夫の親友・童貞男とセックスしておいて(好きでやっているんだから,「身を任せる」なんて男尊女卑はなし),さらにそのウブな男を即座にアッケラカンと振っておいて,最後に見事に己の思うところに納まる女 — こんな勝手な女には吐気がする,とアプリオリに思ってしまう人は,この微笑のぞくぞく感はわからないだろうけど。この微笑をまきが見せる晋助とのセックスシーンは,赤ちゃんがワンワン泣きわめくそのすぐそばでの営み。生活の憂愁と諧謔で痺れさせてくれるいい絵だった。願わくば,まきと晋助が将来において子供を虐待するなんてことだけはないことを。

作品公式サイトによれば,主演女優・しじみは「元AV女優」とある(貝のしじみを芸名に使うそのエロさが理解できる)。何でこれほどの絵,これほどの演技力をもつ女優が,おそらくは予算一千万円に満たない「低俗」なピンク映画でしか観られないのか。これは現代日本の劇場映画・テレビ事情の根本問題であって,「低俗」が好きな私にはどうでもよいことである。トヨタや東電に気を遣っているお行儀のよいメディアには,こんなにもいやらしくはつらつとした魅力的な青春・恋愛映画は撮れないってこと。子供は,草食男女たちの感傷的恋愛ドラマ,陳腐なお笑いバラエティ,古くさい純愛韓流ドラマを観ておればよい。ロードショーやテレビの嘔吐を催させるバカな恋愛ドラマに呆れ果てた大人は,すべからくピンク映画を観るべし。
 

 

製作のアートポートは,もっぱらピンク映画製作会社であるけれども,いわゆる成人映画の,何分間かに一回必ず濡れ場を挿入しなければならない強迫観念から解放された,ストーリー主体のポルノグラフィを提供している。青春Hシリーズと題し,現代の若者の姿を描く作品群を公開中である。『終わってる』はそのシリーズの第 8 作目に当たる。
 

2011.1.13 付記

その後女優・しじみについてちょっとネットで調べてみた。Wikipedia にも記事があった。彼女が 50 本以上もの映画(ほとんどすべてエロ映画)に出ていたなんてことは知らなかった。私はこれまでゴマンとエロ映画を観て来た。記事の一覧には「あ,これ観たなぁ」というのもあった。なのに,まったく彼女には気づかなかった。

ピンク映画は,ストーリーも,絵も,つまらないのが多い。エロシーンだけで成り立っているものがほとんどである。アダルトビデオに毛の生えたような部類に属する。予算が厳しくて充分な作品構想・設計ができないし,観ている方もたいがいはエロを求めているに過ぎないのが,その背景にある。それはそれで私は好きなんであるが。そんなピンク映画でも,たま〜にこの『終わってる』のような,監督の意志を感じさせる,びびっと来る作品がある。しかも,絵や感情表現,俳優の匂いのような点で,ジャリタレによるロードショー・クズ映画,テレビドラマを凌駕していることが多い。前にも書いた『煙が目にしみる』もそのようなものだった。

このしじみさんという女優,「平成不況にみまわれた映画界で予算一千万以内の作品では既になくてはならない存在」(Wikipedia 記事)だそうである。ちょっとこれから注目したい。

クリスマスツリーを飾る頃合い。私の書斎の机にも,灯りの付かない使い古しを飾った。今夜は皆既月蝕が綺麗に見えるということで,先ほどベランダに出て眺めた。十五夜の月がぼっと橙色に霞んで欠けた姿は少し禍々しい。

1 年ぶりくらいに,アニメ『地獄少女』を DVD で観た。この作品は,いわゆる「恨み晴らしもの」なんだけど,美人画の伝統を引く美少女・閻魔あいの和装束や,紅葉,菊,彼岸花,蜘蛛の巣など,日本古来の怪異潭の属性を美しく映像化した。そういうところこそが,大正浪漫好きの私なんかに無条件の支持をさせるんである。

今回は Vol. 7。三話収録されているうち,『花嫁人形』がとくに面白かった。日本人形制作の女流老大家・氏家鏡月にその美貌を気に入られ嫁入りした女主人公・氏家祈里は,鏡月から「人形のようにしておれ」と命ぜられ,人間として扱ってもらえず,使用人の監視のもとに行動を著しく制限され,逆らうと仕置きに晒される。鏡月の息子・祈里の夫・幸雄は妻に優しいが,そんな悩みを聞き入れようとしない。絶望にかられて祈里は義母の地獄流しを地獄少女に依頼する。鏡月は地獄に流された。ところが祈里は今度は夫から「きみの心などは必要ではない」と言われ,物語は終わる。

「人形に比べれば人間など,浅はかで醜い外道に過ぎない」と鏡月は言う。現実の人間はくだらない存在で,藝術作品に描かれた姿こそが美しい。このような考えの藝術家は珍しくないのではなかろうか。しかし彼女は,現実の人間を人形のような存在にしたいという倒錯した考えに憑かれたために地獄へ送られる。藝術家の狂気の表現として,いたく面白かった。こういうテーマ論は最近では,アニメに限らず極めて珍しいのではないか。

地獄流しの舟の上で鏡月は閻魔あいに言う:「きれいね。まるでお人形さんみたい。作りたいわ,あなたのようなお人形を。さぞ死装束が似合うでしょうね」。それに対する,あいの冷たいひとこと:「永遠にあの世で作らせて上げる。ただし,モデルはあなた自身の死様よ」。地獄では己を見つめ続けなければならない,というのか。藝術作品のうち,死を美しく連想させるものこそ至上のもの。この藝術観はモダニズム以外の何ものでもない。ああ,私の慰め。
 

地獄少女 7 [DVD]
アニプレックス (2006-07-26)
 

クリスマスツリーと,地獄少女と,皆既月蝕。うちのド安モンのデジカメ CASIO Exilim EX-S12 では,月のまともな撮影はとうてい無理ですな。何か,ユーフォーが飛んでいるようにしか見えません。
 

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今日の国会参議院予算審議会で磯崎陽輔議員が山岡消費者担当相のマルチ商法業界との関係を追及した。例の田中レイプ発言で渦中にある一川防衛相とともに,山岡消費者担当相についても,問責決議案が 9 日にも提出されるそうである。

でも,マルチ商法業界との繋がりは「犯罪」なんだろうか。そこに犯罪性があるとしたら,磯崎さん,素人のアンタじゃなく,プロの警察が捜査しその結果で検察が立件すべきかどうかを考えるのではないでしょうか。こんなの国会審議のネタなのだろうか。いろいろ攻撃の材料を集めてご苦労様です。それにしても,自民党の議員さん,ヒマなんですね。民主党の野党時代そっくり。もっと国民のためにやるべきことがあるでしょう。議員定数削減大賛成。
 

* * *

日曜日,NHK でドラマ『坂の上の雲』を少し観た。戦史小説が映像化されると,何で安っぽい戦争賛美になってしまうのだろうか。呆れてしまった。これじゃ作家・司馬遼太郎が可哀想である。私も戦争ドラマは嫌いではないが,それはあくまで限界状況における個別具体的な人間模様についてであって,明らかに感動の焦点を「お国のために死ぬ」ことに合わせているのは,わざとらしくてならない。口に出して言うと白けてしまうことがある。私は靖國神社にお参りすることを当然と考える一人であるが,政治家や評論家の「靖國神社に参拝するのは日本人として当然だ」などという示威行為には虫酸が走るのである。

ところで,ドラマのなかでロシア皇帝ニコライ二世(けっこうニコライ二世に似ていた。メドヴェージェフ大統領にもちょっと似ているのが笑えた)の口に日本人のことを「猿」と言わせていた。これは司馬遼太郎の小説に準拠したのだろうが,たとえ日露戦争を扱ったドラマでかつ「原作に忠実」との理由があろうとも,こういう政治的判断を左右する差別的台詞をロシアの皇帝に言わしめるのは問題ではないかと思う。ニコライ二世がはっきりとそう言ったという史実はないのである。原作に忠実でも映像化した瞬間に新しい責任が生ずるのだ。「表現の自由」というのかも知れないが,これに類することを外国の戦争映画が天皇陛下の役に言わせている,なんてことを想像すると,日本人なら「この監督を誅すべし」と怒るはずである。さらに,一事が万事のバカ右翼なら「この露助野郎どもめ,お前ら皆殺しだ」とさえ思うかもしれない。つまり NHK のドラマがいかに失礼かつ軽卒なのかがわかる。皇室を尊崇するなら,他国の王室・帝室にも相当の敬意を払うべきである。NHK もいい加減である。

深夜食堂

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TBS 火曜日の深夜 0 時半過ぎから放送される『深夜食堂』は,数少ない愛着のあるテレビ・ドラマのひとつである。映像が通常のテレビ・ドラマのビデオ画質ではなく,映画のようなフィルム画質である。そこが懐かしいのである。毎回,世の中に疲れた人物が主人公になり,小林薫扮する「めしや」のマスターの作る深夜の料理で癒される。ドラマ最後で,配役が料理の簡単なレシピまで説明する。この深夜番組を観ると,出て来た料理が無性に喰いたくなる。この前観た回ではクリームシチューだった。寒い深夜のクリームシチュー。食べたい食べたい。

家に帰らぬ小説家・鈴木(吹越満)とその娘・花(朝倉あき)の物語は身につまされた。花はこの就職難のなかキャバクラでバイトをしながら就職活動をしている。せっかく決った企業にキャバクラ稼業がバレて内定は取り消し(でも,そんなことで内定取消されるかなー?)。デリヘル嬢などの仕事をするしか手がない。家族を棄てたような執筆生活の気晴らしに,鈴木はあるときデリヘルを依頼する。ところがやって来たデリヘル嬢はなんと娘の花だった。こんな残酷な話があるか? そのときの鈴木の歪んだ顔に,胸をえぐられるくらい哀しくなってしまった。生活のためにこういう仕事を女性がしなければならないことがある。そしてそれが自分の家族だったらどうか。桃色遊びをする世の男性は,自分の娘,妻と対峙する覚悟を持つべし。最後は鈴木親子 3 人,深夜食堂でクリームシチューを食べるシーン。これが救いである。

それにしても,小説家役の吹越満がいい味を出していた。この人,性格俳優として定評がありいまでは人気俳優になっているけれども,20 年近く昔,喜劇的少女戦隊もの『有言実行三姉妹シュシュトリアン』で,フライドチキン男なる脇役を演じていた。おそらく東映の大部屋俳優だったのだろう。それで私の記憶に残った。こんなことを知っているのは,当時幼い子供のいた私のようなオヤジだけだろう。『有言実行三姉妹シュシュトリアン』は,思うに,単なるヒーローものではなく,世相を見事に反映・風刺した名作である。矢野顕子の『あなたには言えない』がエンディング・テーマに使われているのもよかった。DVD でも観られるようなのでぜひ御覧あれ。
 

付記

『あなたには言えない』を収録した矢野顕子のアルバムをリンクしておきます。私のお気に入りの一枚。
 

LOVE IS HERE
矢野顕子
エピックレコードジャパン (1993-06-02)

休日に映画『エゴン・シーレ』(原題: Egon Schiele - Exzeß und Bestrafung)を久々に鑑賞。私は大学時代の 1983 年に,公開されてすぐ映画館で観た。今回はツタヤの DVD で何度目かの鑑賞なんである。じつは私は VHS ビデオでこのソフトを所有しているのだが,ビデオデッキが壊れてそのまんまなのだった。主演は,マテュー・カリエール(エゴン・シーレ),ジェーン・バーキン(ヴァリ),ニーナ・ファレンシュタイン(タチアナ),クリスティーネ・カウフマン(エディット)ほか。1980 年,墺・西独・仏合作,ヘルベルト・フェーゼリー監督作品。

エゴン・シーレはいまでこそ日本でも人気のある画家になったが,1983 年当時はウィーン世紀末美術の専門家でなければ知らない存在だったのではないか。私は会社に入ってから,1989 年に渋谷のセゾン美術館で開かれた展覧会『ウィーン世紀末 クリムト,シーレとその時代』展で,シーレのタブローをはじめてみた。ごつごつしたタッチの,陰毛も汚らわしい,彼のエロティック画は,グロテスクで,不吉で,陰湿で,印象派の画なんかが好きな人は恐らく眉を顰めるような部類に入る。ギュスターヴ・モローやフランツ・フォン・シュトゥック,グスタフ・クリムト,フェルナン・クノップフなど,象徴派の描くエロティック画のもつ陶酔した耽美趣味,ロマンティシズムがまるでない。彼の画を視ていると,生きること・性そのものの暗黒を見せられているような暗い病的な気分に襲われる。「頽廃」というより「病気」である。いま「病み」という「闇」に掛けた言葉が日本の青少年のあいだで使われていて,この「病み」こそがシーレ画の印象に相応しいかも知れない。でも,これこそが二十世紀の命のあり方なんだと感じさせる不思議な吸引力がある。シーレの藝術は現代ではドイツ表現主義思潮の流れにあると評されている。

映画は,少女を誘惑しモデルにして裸体画を描いたという容疑で当局に逮捕・勾留された藝術家の,滅び行く半生を描いている。シーレはクリムトの弟子で,師匠のモデルだったヴァリと同棲していた。無罪になり釈放された後,ヴァリと別れ,エディットと出会って妻とするが,夫婦ともに若くしてスペイン風邪で亡くなる。作品は,生活力に乏しい繊細な画家が,己の藝術への社会の偏見・無理解ゆえに投獄され,己のよき理解者(ヴァリ)を捨て,自滅して行く,というシンプルな物語である。邦題は『愛欲と陶酔の日々』となっているが,原題は『行過ぎと罰』であり,そんなロマンティシズムとは無縁であって,エロティック画に対する社会的側面が強調されている。映画ポスターに Pornographie というドイツ語が印字されているポルノであり,エロティックな映像がたびたび出て来るのだけれども(私が映画館で観たときは陰毛にぼかしが入っていたが,DVD では無修正だった),俗悪な印象はない。グスタフ・クリムトの『ベートーヴェンフリーズ』の痩せぎすの裸体画とパラレルに映るジェーン・バーキンの痛々しい裸体が,病的なウィーン世紀末を感じさせてよかった。彼女はロンドン生まれなのにフランス映画でしか私は見たことがなかった。ドイツ語の役も演じるなんて,ちょっとびっくり。マルチリンガルは欧州の俳優にとっては当たり前らしい。彼女が歌手として来日し東日本大震災復興支援コンサートに出演してくれたのは記憶に新しい。
 

 

『エゴン・シーレ』を最初に観たとき,私は映像のみならず,それ以上に音楽に打ちのめされた。本作品ではシーレと同時代のウィーンの作曲家アントン・ウェーベルンの音楽が映像を支えている(その他,ブライアン・イーノ,メンデルスゾーンも使われていた)。映画では『弦楽四重奏のための五つの楽章作品 5』(Fünf Sätze für Streichquartett, Op. 5, 1909)がシーレの不安,激情,抑圧,エロティックな幻想を伴奏するに効果的に用いられていた。彼の音楽はモンドリアンの絵画にも喩えられ,高い抽象性で知られているけれども,私はこの映画でウェーベルンの音楽に触れ,いきなり過剰なエロティシズムの伴奏としてくらってしまったからか,「抽象的音楽」などという批評はまったく無意味に思われた(尊敬する詩人・鷲巣繁男は評論『エウメニデス』のなかで「抽象的殉教者ウェーベルンの詩的結晶の不幸と聖化」と書いているけれども — 『鷲巣繁男詩集』思潮社,現代詩文庫 51,1972 年,p. 146)。ウェーベルンの音楽は私にとって二十世紀精神の不安,生の血脈,病んだエロスの具体的表現になった。そしていまだに映画『エゴン・シーレ』と結びついて離れない。映画でウェーベルンの室内楽に魅せられて以降,アルバン・ベルク四重奏団やピエール・ブレーズの演奏レコードを買い込んで,オーストリアのウニフェルザール・エディツィオーンから出ていた Philharmonia スコアを眺めながら繰返し繰返し聴くようになった。この映画が日本で公開された 1983 年はウェーベルン生誕 100 年という節目でもあった。このころウェーベルンのほか,シェーンベルク,ベルクの第二次ウィーン楽派の音楽作品,シュテファン・ゲオルゲやフーゴー・フォン・ホフマンスタール,ライナー・マリア・リルケの文学作品に夢中になっていたものである。

ウェーベルンの室内楽はどれも点描的,断片的でごく短い。ひとことでいうとミクロコスモスである。すべての弦楽四重奏曲,弦楽三重奏曲が一枚の CD に収まってしまう。彼は,思うに,音楽表現において短形式とそれを支える間・無音の意義に覚醒した西欧最初の作曲家である。どこか墨絵ないし書を思わせる。もちろん日本的とはとても言えないけれども,この点に「前衛的」という表現では片付けたくない共感を覚えるのである。私はアナログ・レコード時代からジュリアード四重奏団,ラサール四重奏団,とりわけアルバン・ベルク四重奏団の演奏を聴いて来たが,CD の比較的新しい録音としては,アルディッティ四重奏団によるものがお勧めである。
 

Webern;Comp String Trios/Quart
Arditti String Quartet:
I. Arditti, D. Alberman (Vln),
L. Andrade (Vla), R. de Saram (Vlc).
Disques Montaigne (2000-11-14)
 

ヴァリオリンとチェロのための小品も堪らなくよい。アイダ・カヴァフィアンのヴァイオリン,フレッド・シェリーのチェロ,ピーター・ゼルキンのピアノによる盤が,私のいままで耳にしたもののなかで最高の名演である。
 

タッシ・プレイズ・ウェーベルン(紙ジャケット仕様)
タッシ:
P. Serkin (Pf), I. Kavafian (Vln),
F. Sherry (Vlc), R. Stoltman (Cl).
M. Krystall (T-Sax)
BMG JAPAN (2006-11-22)
 

ウェーベルンの作品全集は,ピエール・ブレーズが監修・指揮した盤が新旧二つある。1978 年 CBS 盤と,2000 年 Deutsche Grammophon 盤である。私の好みとしてはアナログ・レコードでずっと聴いて来た旧盤である。いまでは,新しいデジタル録音のグラモフォン盤のほうを推す人が多いかも知れない。
 

Complete Works, Opus 1-31
P. Boulez (Dir), I. Stern (Vln),
Julliard Quartet, London Symphony Orchestra, et ali.
Sbme Import (1991-03-26)
Complete Webern
P. Boulez (Dir), Ensemble InterContemporain,
Berliner Philharmoniker,
Emerson Quartet, G. Kremer (Vln), et ali.
Deutsche Grammophon (2000-05-09)
 

いまやウェーベルンの楽曲スコアがインターネットから PDF でダウンロードできる。IMSLP Petrucci Music Library サイトの Category:Webern, Anton から,弦楽四重奏曲も,弦楽三重奏曲も,ヴァイオリン小品集も,出版物からスキャンした総譜が得られるんである。嬉しい時代になったものである。以下は,ヴァイオリンとピアノのための四つの小品作品 7(Vier Stück für Violine und Klavier, Op. 7, 1910)から第二曲出だしの譜面である。
 

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エゴン・シーレやグスタフ・クリムトの実物のタブローをまた観たいものである。1989 年の展覧会『ウィーン世紀末 クリムト,シーレとその時代』で観た,クリムトの有名な『接吻』は,そのきらびやかな幻想的装飾で息を呑むほどに素晴らしかった。ウィーン世紀末展では,絵画のほかにウィーン世紀末の工芸品,建築模型も展示されていた。映画にも出て来た『ベートーヴェンフリーズ』(コンサートホールの壁画)の同寸コピーもあった。展覧会カタログだけがそのときの感銘のよすがとなっている。
 

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はやく人間になりたい!

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今日会社から早めに家に帰ると,子供たちがテレビを観ていた。『妖怪人間ベム』がいま実写で放映されているんである。私は,小学校に上がるか上がらないかの幼いころ,この元になったアニメを恐怖に駆られながら毎回観ていたものである。

アニメ『妖怪人間ベム』のテーマは明らかに「差別とは何か」であった。見た目に妖怪であろうが何であろうが,正しいことをするものを弾圧してよいものか。妖怪ベム・ベラ・ベロは人間以上に人間らしい心で困っている人たちを助けて,彼らから感謝される。ところが妖怪であることが判明した瞬間に,掌を返すように人間たちから疎外されてしまう。この不当な永遠の壁はいったい何か。子供心にもこの問題論はハッキリと認識できたのである。「はやく人間になりたい!」という意味が — 人間こそが人間らしくないというアイロニーとして — 切実に理解できたのである。『妖怪人間ベム』はそんな硬派のアニメであった。『ウルトラセブン』もそうだったが,1960 年代末の子供向け空想ドラマには,いま観るとドキリとする批判精神があった。いまの子供は『お坊ちゃまくん』などのレベルの低い下ネタものに晒されていて可哀相になる。

実写版では,ハゲだったはずのベムがイケメン男子(KAT-TUN の亀梨くん)になっていた。それよりも何よりも,ベラを演じているのがなんと杏。アニメのベラは,「夜の女王のアリア」を歌い出しそうな,面妖なアネゴだったのに。こんな美貌の妖怪ならフツーの人間よりもウェルカムぢや。これじゃ,「はやく妖怪になりたい!」てなもんや。

と,テレビを観ながら物理を勉強していたウチのバカ娘が「お父さん,いいでしょ!」とマトリョーシカを手に持っている。同じ高校の仲良しの女の子がアルメニアの土産に買って来てくれたんだそうである。アルメニアは昔ソ連の一部だったのでロシアの文物も豊富である。「いいねぇ,フェースブックに載せて上げよう」とデジカメで写真を撮った。オヤジは内心,マトリョーシカも好いけどな,アルメニア土産なら絶品のコニャック『アララート』がよかったな,などと独り言。アララートは,そう,ノアの箱舟が洪水を乗り切って到着した山である。アルメニアの地なんである。

娘のその友人は母親がアルメニア人である。アルメニアといえば,グルジアとともに,コーカサスくんだりの美人産出地域である(残念ながら,アルメニアとグルジアは昔から熾烈な民族紛争を繰り広げている)。さぞ美人なんだろうなと,娘に言うと曰く「うん,お母さんの昔の写真見せてもらったけど,すごい美人」。友人家族は親戚の結婚式のためにしばらくアルメニアに里帰りをしていたそうである。友人の女の子は当然一週間ばかり学校をお休み。今週から娘の学校は試験がはじまる。そういう大事な時期でも家族のイベントをより大切にするのは,日本では忘れ去られているのではないだろうか。アルメニアの人たちは日本人よりも家族を大切にしているんだろうな。一族のイベントよりも試験なんかを重要視する日本人の価値観には,行く先の不幸が見える,というものだろう。
 

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先日,俳優の原田芳雄が亡くなった。彼を偲んで,映画『ツィゴイネルワイゼン』を,所有するパイオニア配給 DVD ソフトで久しぶりに観た。この作品を私はこれまで何回観ただろう。鈴木清順・1980 年監督作品。原田芳雄,大谷直子,藤田敏八,大楠道代,真喜志きさ子ほかの出演。『ツィゴイネルワイゼン』は,私の確信するに,邦画ファンにとって忘れられない記念碑的一作である。というのも,この作品ののち,1980 年代以降,日本の映画はどうしようもないただの優等生作品,あるいは — 言い換えれば,と言った方が妥当かも知れないが — 不良ですらない下等作品(そういう藝術作品をクズという)ばかりになってしまったからである。というか,本作品をもって日本の輝かしい映画史が終わりを告げ,暗黒時代に入ったとさえ私には思われるからである。まだピンク映画のほうがマシ,ってなもんや。

『おくりびと』などはアカデミー賞・外国映画賞を取るくらいの実力があるじゃないか。日本の映画も捨てたもんじゃない。それは私も否定しない。確かに観て面白い映画はたくさんある。けれども,これらは素材こそ日本的かも知れないが,テーマやモチーフの扱い自体は「リアリズム」という意味で誰が観ても「ああ,あれか」とすぐに理解できる。底の浅いハリウッド映画と何も変らない。だからこそ海外の権威ある賞を受賞できたのだ,と考えたほうがよい。それでよいと思う映画ファンもいるだろう。でも 1970 年代までの邦画に打ちのめされたことのある者は,どうしても苦笑いしてしまう状況なんである。言わばいまの日本映画は,韓国や香港,台湾,インドなどの「映画後進国」の作品とまったく同じレベル — 同じようにヒューマンであり,同じように心温まり,同じように哀しく,同じように泪に咽び,同じように楽しく,同じように面白い,ということ。韓流がなぜいまの日本で流行るのか — それは映像に対する感じ方,見方において,日本映画が韓国の,ないしはグローバル(つまり米国)のフィクション感覚と同じレベル — むしろ先を越されたというのが正しいかも知れない — になったからである。かつてのフランスのフィルム・ノワール,ヌーヴェル・ヴァーグ,ドイツの表現主義に匹敵する,日本人の手になる映像の記憶は失われてしまった。日本人でなければ撮れない映像がロードショーにかかるなんてもはや一縷の期待もできなくなって久しいのである。わずかに北野武,大林宣彦,あと誰がいるか,ってな感じなんである。「何を偉そうに」とお思いになるかも知れないが,黒澤,小津,市川,大島,鈴木などなどのかつての邦画作品の狂気を知る者には,いまの邦画はホントつまらない。私はただの時代遅れか?

『ツィゴイネルワイゼン』のどこがそんなに凄いのか。わからない人(いまの若い人たち)にいくら説明しても無駄である。映画は,思うに,「心温まる人間性」や「正義感」,「真実の愛」なんぞの表現ではなく,絵,ビジョンそのものが命である。『ツィゴイネルワイゼン』の物語は,音楽のように手に掴めもしなければ,匂いのように言葉で表せない何かである。ここでは,映像も台詞も,現実のつまらない人間が見せる表情,発する言葉と共通するところが何もない。これは注意して視るとよい。だから「ああ,あれか」式の日常性モドキから何とも潔く解放してくれるのである。よって「迫真の演技」なんていうホントにくだらないドラマの見方(「リアリズム」と呼ばれている幻想的審美観)からも自由になる。本作品の,訳の分らない,失笑すら催すところも多い,ハッキリ言って荒唐無稽のくっだらないストーリー。やたらとモノを食うシーンが出て来る。なのに,シーンひとつひとつに色気があり,あたかも四人の登場人物たちの絡みが,一種独特の映像による弦楽四重奏とでもいうような美しい狂躁で,脳髄を侵してしまう。映画ではストーリーなんて二次なんである。物語と同様どちらが狂っているのかわからないと束の間納得してすぐ我に返るのだが,映画の台詞にあるように,「もう後戻りはできない」ところにいる感じがするのである。

「きみ,何か言ったかね」,「そのあと,兄さんも同じ夢をごらんになったでしょう... わたくしと,同じ,こわぁーい,夢... 不思議ですわ,わたくしの夢を,兄さんが,途中から,お盗りになってしまった」,「レコオドが一枚,こちら様に来ているのですけれど... サラサーテが演奏している,ツィゴイネルワイゼンでございます... 左様でございますか,グラモフォンの十吋盤なのでございますけれど」— こうした台詞はすべて,まったく迫真性のない — 騒々しいテレビドラマのリアリズムに毒された目にはヘタクソにすら思われるような — 非日常的抑揚を担わされている。それゆえに小説のなかの台詞のように,肉の剥ぎ取られた他ならぬ言葉の骨のようなものが露出して却って頭の中で艶っぽく美しく響くのである。ああ,大正の昔の純粋な美しい日本語とはこうだったに違いない,というような — まったく根拠のない — ヘンな幻想に駆られるんである。歌舞伎や浄瑠璃と同じく,映画のなかでしか聞かれない美しい台詞回しというものがあるのだ。

私はこの映画を三十年の昔,大学生のころ札幌のジャブ70という札幌映画フリーク御用達の渋いハコで観た(当然ながらこの映画館はいまは潰れてしまった)。この映画を観て,大正のころの大學獨逸語教授(「ドイツ語」じゃないよ)というものにほのかな憧れを抱いた記憶がある。『ツィゴイネルワイゼン』に登場する,衒学的で,Erotik で,狂気にあふれたインテリ。フラスコのウィスキーを呷りながらドイツ語の法学なり歴史学の書物を読む姿は,なんとカッコいいものかと思ったものである。私はロシア語の学徒であったわけで,その後もドイツ語はまったくわからないんだけど,日本のインテリにはドイツ語がよく似合うと思ってしまったのである。映画で,中砂(原田芳雄)の本を返してもらいに青地(藤田敏八)宅を訪問した小稲(大谷直子)が,「ゾルダン,ヘッペのヘキセンプロツェッセがこちら様に参っているはずでございます」と,ドイツ語の本の名を語るくだりがある。「ヘッペ」というのが無茶苦茶印象に残ったので — 北海道方言を知る人なら何故かはすぐわかるはずだ —,同じ大学の独文科の友人(Nietzschean であった)に聞いてみた。Hexenprozeß というのは魔女裁判のことらしい。
 
 

谷崎潤一郎『卍』

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谷崎潤一郎の『卍』を再読。もの思ふ秋なんてカッコつけたところへ,またもやエロ戻り。

『卍』は昭和三年に雑誌『改造』に連載された。当時ではこのような同性愛をテーマにした作品はかなりヘンタイ的嗜好で読まれた,と想像する。「卍」の字訓は縦横に入り乱れるさまである。谷崎の本作品のおかげで「卍」という漢字には — 仏教的漢語に使われることが多かったにもかかわらず — 肉体が乱れ絡むさまの性愛的イメージが定着してしまったのではなかろうか。でも性的嗜好何でもありのこの現代,この作品はもはやテーマのショッキング性を喪失してしまっている。イケメン男性の同性愛ネタのマンガ・アニメはひとつのジャンルをなしており,それを好む女性を「腐女子」と称する。こういう名称がひろく行きわたることは,それこそ「腐女子」がヘンタイでもなんでもなく,藝術作品愛好のひとつの類型として「健康的に」定着している証左である。「腐女子」といわれる女性も普通の市民生活を送り,普通に男性と恋をしている。「腐」っているのはアタマの中だけだ,というわけである。私はこれはとてもよいことだと思っている。それにしても,女性の同性愛物語を愛好する男の謂として「腐男子」なるコトバがないのはどうしてか。昔からその愛好があまりにもありきたりだからだろう。

それでも谷崎の『卍』はいま読んでも背徳的想像力を充分に刺激してくれる。何より本作品の魅力になっているのは,大阪弁によって一大長編を滔々と語り尽くしているところである。小説などで出て来る関西弁は大阪出身の私からみると不自然なものが多いのだけれど,谷崎は言葉そのものへの凝視が徹底していて,大正期の大阪船場あたりのハイソな家庭のヌラヌラ,ニョロニョロした頽廃的大阪弁を,擬音語でも使うように,ごく自然に写している。しかし,このヌラヌラ,ニョロニョロが,大阪の言語的日常性を超越してしまい,同性愛の陰湿と滑稽と真面目とがブレンドされた哀しさを表現している。唸らさせられるんである。

夫・柿内孝太郎と妻・柿内園子は徳光光子を巡る三角関係に陥り,光子を自宅に住まわせて夫婦で取り合いをする。「僕ら死んだら,此の觀音樣『光子觀音』云ふ名アつけて,みんなして拜んでくれたら浮かばれるやろ」(p. 169)などという孝太郎の台詞とともに,三人は薬を飲んで心中を図る。園子は光子の自称婚約者・綿貫榮次郞から光子を共有する契約書に血判を押させられる。結局,綿貫は同性愛三角関係の秘密を世間に暴露し,新聞がその醜聞を書き立てる。これらはみな,その荒唐無稽さでエロティシズムというよりは笑いをこそ催す。異常性がある一線を超えると日常的風景のなかでは,滑稽感を顕に浮き彫りにする。

その一方で,生き残った園子は,光子に騙されたと思いながらも「今でも光子さんのこと考へたら『憎い』『口惜しい』思ふより戀しいて\/ [ くの字点:私註 ],......... あゝ,どうぞ,どうぞ,こない泣いたりしまして堪忍してください」(谷崎潤一郎全集,巻十七,p. 169)と拭いきれない未練を洩らす。このハイカラな「パツシヨン」は笑うべきものではない。

こういう荒唐無稽の笑いと狂った情熱との混淆が中期谷崎エロティック・ワールドなんだと私は思う。ラブシーンの描写そのものは,いまのエロ小説では考えられないくらいに抑制が効いている。

さう云ふと光子さんもやつぱり默つてわたしの顏じーツと視つめたまゝ,ふるてなさつたやうでしたが,ついさつきまでの氣高い楊柳觀音のポーズ崩れて,羞かしさうに兩方の肩おさへて,一方の足の先を一方の上に重ねて,片膝を「く」の字なりにすぼめながら立つてなさるのが,哀れにも美しう思へました。わたしはちよつといたいたしい氣イしましてんけど,シーツの破れ目から堆く盛り上つた肩の肉が白い肌をのぞかせてるのを見ますと,いつそ殘酷に引きちぎつてやりたうなつて,夢中で飛びついて荒々しうシーツ剝がしました。[ ... ] — 冷やゝかな,意地の惡いほゝゑみを口もとに浮かべて,體に卷きついてゐるものをだんだんに解いて行きましたが,次第に神聖な處女の彫像が現れて來ますと,勝利の感じがいつのまにやら驚嘆の聲に變つて行きました。「あゝ,憎たらしい,こんな綺麗な體してゝ! うちあんたを殺してやりたい」わたしはさう云うて光子さんのふるてる手頸しつかり握りしめたまゝ,一方の手エで顏引き寄せて,唇持つて行きました。
谷崎潤一郎全集,第十七巻,中央公論社,1959 年,pp. 27--28。傍線は原典傍点。

「羞かしさうに兩方の肩おさへて,一方の足の先を一方の上に重ねて,片膝を『く』の字なりにすぼめながら立つ」,「シーツの破れ目から堆く盛り上つた肩の肉が白い肌をのぞかせてる」などの描写は,おそらく往時では読者のエロティックな想像力を掻き乱したに違いない。現代のわれわれはおそらくもっと露骨な想像を働かせるだろうけど。
 

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谷崎の小説を読んですぐ,映画『卍』も観た。2005 年,アートポート制作,井口昇監督作品。主演は秋桜子(柿内園子),不二子(徳光光子),野村宏信(柿内孝太郎),荒川良々(綿貫榮次郞)ほか。

いうまでもなくピンク映画である。谷崎作品の映像解釈としては当然,ピンク映画なので露骨な濡れ場が出て来る。東宝映画などで見られるお高く止まったエロティシズムではなく,現代人の欲望を正直に,気取りなく映像化することのできる「ピンク映画」の視線で,谷崎ワールドを再現している。登場人物の造形の子供っぽさに原作本来の荒唐無稽感がよく出ていて,笑いを誘う。俳優の大阪弁は不自然な感じが強い。だけれども,映画・演劇における台詞の迫真性はリアリズムではないのであって,私はこの映画の「作ったっぽい」台詞は少しクレージーなテーマに合っていてよいと思うほうである。

だいたいにおいて原作のストーリーに忠実たろうとした映画だろうけど,上記で引用したシーンは,原作と違って,園子ではなく光子が積極的に相手を貪るような解釈になっていて,面白かった。映画では光子は確信犯的「悪女」のタイプに作られていた。映画ではやはり現代の日本人が観ることを想定してコトバなどが微妙に現代風になっているのもおかしかった。原作では,光子は園子の夫を「姉ちやんのハズ」(ハズバンドの略)と呼ぶのだが,映画では「パパさん」になっていた。

「映画ファン」,「谷崎ファン」はこの映画を酷評するだろう。大阪弁の台詞がわざとらしくて無茶苦茶だの,谷崎のエロスを通俗化し過ぎているだの。谷崎の「荒唐無稽」「子供っぽさ」にある笑いの要素が多分理解できないのだろう。谷崎ファンの所謂「日本の伝統美」なんてクソくらえである。人間の裸体の美を無条件に肯定することが谷崎の魅力だと私は思っている。谷崎の真骨頂は「吐き捨てたくなるからこそのエロ」なのだ。なんてバカバカしくて,なんて哀しいのか。深みがなさそうなピンク映画,エロ小説のどこが悪い。私はこの映画を支持します。
 

* * *

今回再読したのは,中央公論が 1959 年に刊行した谷崎潤一郎全集第十七巻(全三十巻)である。私は谷崎源氏もこのシリーズで全巻持っている。棟方志功デザインの新書判クロス装丁は味がある。本文も谷崎のオリジナルに合わせた旧字・旧仮名遣いである。活字の手触りがたまらなくよい。
 

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以下のアマゾンリンクには,手近に入手できる新潮文庫版を挙げておく。旧字・旧仮名遣いが例によって新字体・現代仮名遣いに改められている。作品のヌルヌル,ニョロニョロ感は息づいている。新潮文庫版における表記の変更など,まったく気にしなくてよい。
 

映画『屋根裏の散歩者』はいうまでもなく江戸川乱歩の同名短篇の映画化である。1994 年,乱歩生誕百周年記念作品。監督は実相寺昭雄,主演は三上博史,嶋田久作,宮崎ますみほか。

乱歩の倒錯した耽美趣味をいかんなく発揮した映画である。1920 年代が舞台。私の酷愛する大正浪漫。演劇風の室内的陰湿さが,乱歩特有のあの狂った耽美趣味に相応しい。私は原作を高校生のときに読んだ。屋根裏から他人の生活を覗き見るという行為は文学の楽しみにほかならないこと,誰にも見られていないという安心感のなかでの人間のなすこの上ない楽しみは黝い淫らな趣味に耽ることにほかならないこと,そして私的な範囲ならそれはべつに悪でも異常でもないこと — そんなことをこの作品からつらつら感得したように記憶する。

本作品のエロティック映像にはただのピンク映画と変わらない卑俗感がある。でも,大正の風俗様式がその卑俗感を異化してくれ,それゆえに楽しむことができる絵になっている。しかしながら,私の思うに,この映画のなによりの美点は,橋下功による音楽・『屋根裏の散歩者のための五重奏曲』にある。不協和音と九度進行旋律を特色とする現代音楽風の病的な音響はこれだけで堪能できる。サウンドトラック CD を探しているのだが残念ながら入手できないでいる。

作品のストーリーが倒錯した性のモチーフに満ちた異常なものであるのに対し,主人公・明智小五郎はそういった狂の物語性を「真実だけが知りたい」という醒めたキャラクターで相対化してしまう。ちょっと白けた捉えどころのない俳優・嶋田久作は,そうした明智役として嵌っていた。精神に異常を来したバイオリニスト役で登場する女優・宮崎ますみは,この『屋根裏の散歩者』あたりから清純派を脱却し,『奇妙なサーカス』(2005 年)における性的狂女のような危ない役所もこなす女優に成長したのではないだろうか。
 

屋根裏の散歩者〈完全版〉 [DVD]
ジェネオン エンタテインメント (2005-02-25)

学習性無力感

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「学習性無力感」という心理学用語がある。Wikipedia によれば「長期にわたって,ストレス回避の困難な環境に置かれた人は,その状況から逃れようとする努力すら行わなくなる」という心理学説である。

私はこのコトバを何年か前に観た邦画(ピンク映画である。あまりにもたくさん観て来たので,タイトルはもう忘れてしまった)で知った。映画では,ある女子大生・主人公がチンピラに犯され,その際盗撮されたビデオをもとに強請られ,詐欺の片棒を担がされ,不断の性的/肉体的暴力にさらされる。チンピラへの倒錯した一縷の愛情と握られた弱みとのために,彼女はそこから逃げたくてもできず,半ば絶望的にチンピラの言いなりの生活を悶々と送っている。もうそんな生活を清算する気力も失せてしまっている。こうした境遇を象徴するように映画のなかで「学習性無力感」というコトバが発せられる。女子大生は,結局,チンピラを殺害してバラバラにし山中に埋めるという,もっとも極端な暴力的手段によって,「学習性無力感」から解放される。

就任したばかりの鉢呂吉雄経済産業相が,福島原発事故被災者を逆なでするような失言をしたとして,話題になっている。たしかに「死のまち」,「放射能つけてやる」なんて言草は大人げない。原発事故,被災者をナめているのかと映る。でも,これ,わざわざ国民に知らしめて,「とんでもない,許せない」と騒ぎ立てるような話だろうか? 誰でも口が滑ることがある。「大臣ともあろうお人が」という気持ちもわからないではないけれども,やっぱり「失言」に過ぎない。こんなことより,目下の政策実行状況を直接示すような,国民に知らしめるべきもっと大事なことがほかにあるのではないだろうか。マスメディアがたかる話題がどうも腐っている。そしてこういう腐ったような騒動で政治家が振り回されている。じつはマスメディアこそがいまの政治的閉塞感を隠然と煽っているのではないか,という思いに私は駆られてしまう。政治家は選挙で首をすげ替えることができるのに対し,マスメディアや官僚機構は国民の意思でもってこれができない。よって変えたくても変えられない。おそらく日本の現在の政治的閉塞感は,このような状況から来る「学習性無力感」に近いのではなかろうか。

この政治的「学習性無力感」から解放されるにはどうすべきか。そんなこと私が知る由もない。ただ,上記映画の主人公が殺人という暴力的手段に訴えたのと同様に,ヒトラーやスターリンといった,強烈なリーダーシップを発揮する超過激なカリスマ政治家・独裁者(官僚もマスコミも震え上がる,人権などに拘泥しない指導者)の登場を期待するような世情になってしまうとすれば,これこそ危惧すべき不幸ではなかろうか。小泉さんはカリスマ性を備えていたためにきわめて人気が高かったが,彼は幸いにも独裁的権力欲よりも良識のほうが強かった。もとより,強力なリーダーシップは常に求められている。狂人的リーダーが熱狂的に迎えられる風潮は起こりえないことではない。ま,その意味では野田さんは,目立たないミッドフィルダー志向の「どじょう」であらせられるようなので,あんまり心配はなさそうである。よって,まだまだ政治的「学習性無力感」は続くというわけである。
 

2011/09/22 付記

私の上記ブログ記事に対し,ある真面目な友人から「それなら新聞を買わない,テレビを見ない,そういうキャンペーンを Facebook あたりで張ってみてはどうか」という意見をもらった。

いや,私はマスメディアを否定しているのではない。新聞やテレビ/ネットは,いかにくだらない話題にフォーカスしているとしても,一方でまともなニュースも流してくれるわけである。普段バカばっかり言っていて呆れさせてくれるんだけど希に愛すべき好いことを言う友人がいて,そのために付き合いを止められない,そういうことがある。マスメディアもこれと同じ。だから,概して信用していないといいながら私は新聞を読むのをやめたくない。むしろ,マスコミのことを「マスゴミ」などと腐してその不要論をかざす奴を,それこそ「バカ」だと私は思っている。

映画『煙が目にしみる』

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映画『煙が目にしみる — 重松清「愛妻日記」より』を観た。2006 年アルチンボルド制作,亀井亨監督作品。不二子,木下ほうか主演。重松清の小説が原作である。R-18 指定のいわゆる成人映画,要するにエロ映画である。私はピンク映画が好きで,この系統の女優・不二子の狂なる演技にもかねてから魅せられていたので,この DVD を借りたんである。しかし私は断言する。シネコンでロードショーに掛かる最近の邦画は — 観る前と後とで世の中に対する見方が寸毫も変わることがないという意味で — どれもみなクズのような作品であるのに対し,一部の好き者たちが集まるユーロスペースのような映画館で公開されるピンク映画にこそ,現代日本の病んだ人間性を認識させる好篇が多い。『煙が目にしみる』は,傑作というにはあまりに作りが小さいのだけれど,そんなインパクトのある作品である。

リストラされた高橋(木下ほうか)は止めていた煙草を妻・千穂(不二子)の前で吸う。ショートピース。その臭いを千穂は狂ったように拒絶する。そしてその後彼女は夫と性交ができなくなり,家出してしまう。千穂の告白から,煙が燻るショートピースを女陰に差し込まれるという,高校生のころにホームレスのおじいさんから受けた性的イタズラに,その原因があるとわかる。夫は夫婦関係を繋ぎ止めたいと願い,妻からときおり掛かって来る電話越しにテレフォンセックスのようなことも試みる。高橋は,あるとき千穂の姉を通してそのイタズラは実は千穂ではなく姉が受けたものだったことを知り,千穂のトラウマはイタズラが性的嗜好になってしまった姉に対する倒錯した羨望であるということに思い至る。高橋はホームレスの姿で妻を呼び出し,死んだヘンタイおじいさんと同じように,ショートピースに火を点けて妻の女陰に差し込んでは吸い,吸ってはまた差し込んで言う:「煙草がおいしいよ。あんたのまんこの味がする。きれいだよ。そのまんこは結婚するまで大事にしなくちゃいけないよ」。千穂は再びエクスタシーを獲得する。

何のことはない,ただのヘンタイ映画か,と思われるかも知れない。また,トラウマによる性的嗜好の障害はその原因となった事象を見つめそれを追体験することで救われるのかとも読めるのだが,この映画はそんな説教がしたいわけではもちろんない。もとより未成年女性にこんなヘンタイをするのは「犯罪」である。けれども,被害者女性が後年になってその追体験で性的絶頂に至るのは,病んでこそいるが,「悪」ではない。それくらい人間の性には奥行きがある。ヘンタイはヘンタイなんだけど,この映画は美しいってこと。

モノクロームのような樟んだ色調が荒んだ超時代性を感じさせて独特の美しさがある。千穂がショートピースを自販で買いまくってそのまま捨て置いて行くシーンで,地面スレスレのアングルから彼女の脚だけを映す。病的行動の何気ない不気味さを印象づけていい絵だった。超時代性は,築 40 年くらい経っていそうな古風な洋風マンションや,夫婦が室内でも靴を履いている,日本では稀な生活様式や,公衆電話とダイヤル式黒電話とのテレフォンセックスや,などなどに現われている。超時代性において何より強烈なのが,千穂がイタズラされる場所が人間生活から吐き出された大量のゴミ,ガラクタが山のように集積した廃棄物処理場であり,その背景にあるのが巨大コンビナート・工場の煙突・配管の入り組んだ構造建築群,そこから吹き出す煤煙・炎である,ということである。豊かな生活財を生産・廃棄するむき出しの機械性,醜怪さは現代的風景というよりも,時代を超えた物質社会的側面の象徴である。何か機械的人間存在の入出力の姿のようでもある。これは人間の排泄したウンコが脂ぎった鉄の塊になって四方八方に撒き散らされている世界である。生まれながらのホームレスを懐胎する子宮である。なのに、醜怪にしてなんと美しいのか。このピンク映画は,テレビドラマやシネコン・ロードショーが逆立ちしても造形できない美しい映像を,さらっと見せてくれるのだ。最近,こうした風景を愛する「工場萌え」という趣味が認知されており,クルージングが企画されるくらいであるという。私も少しその気があるからか,「工場萌え」の人にとってはこの映画の風景は堪らない魅力になると確信する。

出勤を装うリストラされた主人公・高橋は駅舎のベンチで女子高校生が喫煙しているのを咎める。その次の映像で彼はその高校生に男根をシゴかれている。手に付いた精液を汚らしげに拭いながら女子高生は掌を上にして高橋に突き付ける。彼は財布から躊躇いがちに二枚紙幣を抜いて差し出す。「オジサン,女子高生に手コキさせといて何? ケタがひとつ足んないよ!」と彼女。なのに「いいよ千円で」と言って彼女は立ち去る。— パンピーが一大決心をしてパンピーらしい薄っぺらい正義感を発揮し,その直後にパンピーらしく簡単に性的誘惑に屈してしまう,悲哀と失笑を催すシーンである。女子高校生も不良には見えないまったく普通の風情であり,しかも性的サービスを施した相手に対し過剰な妥協をしてしまうところが,パンピー的ヘンタイぶりを強調している。ところで,この場面の場所は川崎 JR 鶴見線・浅野駅舎である。浅野駅以外にも JR 鶴見線の海芝浦駅(海に接した珍しい駅舎である)も出て来た(以前,この両駅舎の散策記をここに書いた)。川崎市民である私は,この映画の荒涼たる風景が地元・川崎の臨海地区であることがすぐにわかった。そういう点でもこの作品に愛着を覚えた次第である。
 

重松清「愛妻日記」より 煙が目にしみる [DVD]
監督:亀井亨
主演:不二子,木下ほうか
2006 年アルチンボルド制作
松竹 (2007-01-27)

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夢の中の日常

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芭蕉やプーシキンの研究文献ばかり読み漁っていた。そろそろ柔らかいものをと思った。田中優子『春画のからくり』,中野美代子『中国春画論序説』を読み,それでもってエロづいてしまい安達瑶の『悪漢刑事,再び』— 官能サスペンスというかソフトボイルドというか要するに官能小説を読んだ。そして,こんなぐちゃぐちゃに柔らかいものばかりを食べていると歯が鈍るので,そのあと島尾敏雄『その夏の今は・夢の中での日常』— 夏の暑い過去の忌まわしい幻影を手に取った。どうもいま鼻血が出そうである。

『中国春画論序説』を書いた中野美代子は知る人ぞ知る中国文学者である。私の大学時代,孫悟空にまつわる面白い講義で学生たちに大いなる人気を誇った先生である。澁澤龍彦『悪魔のいる文学史』を耽読された方は多いと思うけれども,これが書かれる契機になったともいえる『悪魔のいない文学史』を書いたのは中野美代子だということを知っている人は少ない。中野は,エロ,グロ,ナンセンスのどれをとってもフランス文学の上のまた上を行ってくれる中国文学の広大な地平を渉猟し,おフランスの悪魔ぶりに見られる知的な品のよさを嗤いのめすような楽しい人間模様を解き明かしてくれるんである。『中国春画論序説』もそのひとつ。

本書の面白さはいろいろなんだけど,蘇軾の有名な詩:

春宵一刻値千金  春宵一刻 値千金,
花有淸香月有陰  花に清香有り 月に陰有り。
歌管樓臺聲細細  歌管 楼台 声細細,
鞦韆院落夜沈沈  鞦韆 院落 夜沈沈。

の「鞦韆」(ブランコ)には,子供の遊び道具というよりも,男女が乗って野外セックスを楽しむ色遊具としての意味が込めれているという分析がいたく面白かった。ついつい香港製の(といっても出演しているのは日本の AV 女優なんだけど)エロ映画『金瓶梅』(2008 年,チン・マンケイ監督作品)の鞦韆のシーンを思い出してしまった。
 

 

安達瑶『悪漢刑事,再び』は刑事サスペンスものとしても読み応えあるエロ小説である。ヤクザや警察上級官僚の痛い懐をついて私腹を肥やし,女を漁るアンチ・ヒーロー的刑事・佐脇が主人公のシリーズものである。ワルガキに輪姦されたのに青少年を誑かしたとして糾弾されながら,名誉回復を拒む謎めいた元女教師・美寿々がヒロイン。小説というものは細部が大事,そしてその集積から大きなテーマが感得されるのだ,というようなことが言われる。しかし,この作品を官能小説たらしめているエロの細部は,どうやらいかなる大きなテーマ論にも積分されそうもない。こうした男女の悦楽図は,実存をかなぐり捨てて,純粋にその言葉の想像力を楽しむに限ります。電車の中でタチ読みするときは気を付けましょう。は,恥ずかしいんだけど,ちょっとだけ引用しておきます。

 佐脇が両手で秘唇を広げると,米粒ほどの肉芽が姿を見せた。それに舌を這わせて愛撫を始めると,すぐに美寿々は反応した。
「あ,ああん……」
 舌先で秘核をころころと転がされただけで,腰をくねらせ,女壷からはとろとろと熱い蜜も溢れてきた。
 プロの女は感じる演技がうまい。客をイカせるのが仕事だが,そのたびに自分もイッていては身が持たない。
 この旅館では,「仲居」と言っても素人のままではいられまい。そして,美寿々は本気で感じていた。
安達瑶『悪漢刑事,再び』祥伝社文庫,2008,68 頁。
   

島尾敏雄は海軍大尉・特攻隊長であった。1945 年 8 月,特攻作戦発動命令を受けたのち出撃命令が下る直前に,要するに「ヨーイ」と「ドン」との間に,終戦を迎えた。『その夏の今は・夢の中での日常』は,そういう生と死の間の緊迫した体験の結実した作品群を収録している。敵に体当たりして死ぬことだけを考えて準備して来た特攻兵は,「ドン」がかからないまま終戦を迎えるとき,もはや生きるものでも死んだものでもない状態で投げ出される。

 その夜発進の命令を受けとれば,私はきっと勇敢な特攻戦が戦えたろう。昨夜は,一年半ものあいだその日のことを予想し心構えていたのになお動揺したので失望が心を食いあらした。不眠のあとの頭痛をのこしたまま寝ぼけまなこで搭乗服を着け,ボタンやベルトを定まった位置に定めながら中腰で兵器の艇に乗って出かけるようなくやしさがあった。生の世界の方にまだ何かいっぱい為のこしたままのうしろ向きの気持ちのずれを,戦場に着くまでのあやしげな時間の中で持ち直さなければならないたよりなさがあった。しかし今夜はちがっている。奇妙な一昼夜のあいだに,ないがしろにされた感情につかっていた。そして生きのこったとしてもこの先に生活しなければならぬ日々の,断絶に囲まれた世の中で耐えて行けそうもない気持ちの底も見たと思った。[ 中略 ] むしろ発進がはぐらかされたあとの日常の重さこそ,受けきれない。死の中にぶつかって行けば過去のすべてから解き放たれるのに,日常にとどまっている限りは過去から縁を切ることはできない。[ ... ]
『出発は遂に訪れず』,島尾敏雄『その夏の今は 夢の中の日常』講談社文藝文庫,94--5 頁。

「あ,ああん……」の官能小説のすぐあとで,死の想念に憑かれた,こうした長大なパラグラフ群を読むと,島尾の書いている通り,日常と夢との境目が確かにわからなくなって来る。死の現実を生きた兵士にとって,生の日常はまるで「断絶に囲まれた世の中」であるらしい。そういう近代的知性(「靖国で逢おう」という死のロマンチズムとは無縁の知性)をもって生き延びた兵士にとって,戦後とは夢だったのだろうか。夢の中の日常。現代に生きるわれわれの甘さは「日常の中の夢」にあることだと思い至る。ま,それでもたまには「あ,ああん……」もよいではないか。
 

頭が熱い

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また暑い夏が復活。夜,猫の額(我が家の庭のこと)の草花に水をやるのが最近の習慣になっている。水を撒くと涼気が漂う。蚊に喰われパンパン手足を叩きながら,煙草を吸い,涼むんである。
 

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中国高速鉄道の事故で大騒ぎである。客車の残骸のなかにはまだ遺体が隠れているかも知れないのに,客車ごと土に埋めたというではないか。こんなダイナミックな埋葬は見たことがない。なんと人命の安い国か。原因調査もほとんどせずに運行を再開したというではないか。中国政府のいつもの隠蔽体質に,ここまで「おおっぴらに隠せ」るものかと感心させられる体質に,びっくり。中国出張に行ったとしてもこの中国版新幹線に乗るのは絶対にやめましょう。これがこの事故から得られる教訓のすべてである。

この事件は中国の「技術」に対する考え方を端的に表している。速い超特急が国力を世界に示す,よって高速であればよい --- そういう単細胞的技術観を何にも増して露呈した。そう私には思われた。超特急は列車そのものの「高速」ということ以前に,システムが「安全」でなければならない。また,数分に一本という超過密な運行計画にあっても混乱するこのとない運行管理という周縁技術が確立されていなければならない。万一事故が発生した場合は,原因を徹底的に究明し,今後の改善に活かされなければならない。どうも,中国高速鉄道では「速さ」以外のこうした技術・運用設計に関して相当手を抜いたようである。

この点で,中国製のハイテク製品はダメだね。いま空母を作ってるっていうけど,大丈夫? 日立から新幹線システムを導入した英国は,こういうところをよくわかっていたわけだ。私は中国人が大好きですが,この件については譲れません。
 

付記:

そうはいっても,福島原発事故とその影響に対する日本政府による隠蔽ぶりを考えると,中国政府とどちらが悪の度合いが凄まじいか,わかったものではない。牛肉,野菜などへの放射線汚染は福島県に留まらないいまのこの状況は,今後さらなる悪化を引き起こしそうである。気がついたら最悪の事態になっていて,それが既成事実化して皆開き直る,なんてことは勘弁してほしい。なのに政局はポスト菅一色。マスコミも相当この問題放置・ゴマカシに加担していると思わずにはおれない。日本のマスメディアはもはや信頼できない。海外の反応をよくウォッチしたほうがよさそうである。
 

* * *

大韓航空機が 6 月 16 日に竹島上空でデモ飛行を行ったことを受け,外務省は抗議の意味で公務での大韓航空機利用自粛を決めた。竹島問題では一歩も譲ってはいけません。私は韓国人が大好きですが,この件については譲れません。外務省さん,もっと過激におやりなさい。

関係ありませんが,このニュースをネットで見ているとき,フジテレビが韓流ドラマ,韓流ポップス(K-POP って言うんだよ!)を垂れ流しているのに対し,Yahoo! コメンターがいつものとおり「売国奴」呼ばわりしていた。私には実感がなかったのだけれど,新聞のテレビ欄で確認すると確かに「垂れ流して」いるようである。でも,これは視聴者の好みの反映なのであって,なんで「日本人は日本人による番組を流し,そして見るべきだ,この売国奴め!」という論理になるのかサッパリわかりません。ひとりのバカな日本人とひとりの賢い韓国人が目の前にいたとして,やっぱり俺は「賢い」方を褒めて上げたいと思う。それのどこが「売国奴」なんだ? 韓流の魅力(というか「人気」)の秘密がどこにあり,和製ドラマがなぜに韓流に対して魅力がないのかを考えるべきではないか? 私はというと,韓流の魅力がどこにあるのか,サッパリわかりませんが(「今の」韓国の映画は結構面白いですよ。黒澤明などの「昔の」日本映画には敵いませんけど)。同様に,和製ドラマも,J-POP も,AKB も,どこがよいのかサッパリわかりません。
 

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俳優の原田芳雄が亡くなった。『ツィゴイネルワイゼン』,『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』などの ATG 映画。私はニヒリスティックな役回りの嵌るこの俳優が好きだった。『ツィゴイネルワイゼン』で原田芳雄演ずる中砂にこんな台詞があった:「俺が死んだら俺の骨を君にあげるよ,そのかわり君が先に死んだら君のを俺が戴く」。骨を戴きたいものである。彼を回顧し,彼のご冥福を祈って,サラサーテを聴くとしよう。

運命じゃない人・監禁逃亡3

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ツタヤから DVD が届くと娘が「何? 何?」とうるさい。私は「お父さんがいない間に勝手に開封すんじゃねぇぞ」と娘にいつも釘をさしている。というのも,エロ DVD を借りているのを子供に知られるのはまずいからである。このエロ親父,娘から「エッチな映画でしょ。アタシにも見せてよ」と,じつは見透かされているんだけど。「大人だけが観ていいの! お兄ちゃんはもう大学生だからいいけど,おめぇはまだバカな高校生だからダメ」と断固お断り。じつは今回郵送されて来たツタヤ DVD 映画のうち,一本はピンク映画であった。もう一本は喜劇の邦画。

昔はピンク映画を映画館で観たものである。ところが,アダルトビデオが全盛となってこのかた,名画座だけでなくピンク映画館も片っ端から潰れてしまい,いまや絶滅寸前の状況である。暗闇のなかでパブリックビューイングでエロ映像に見入るというのは,一種独特の共犯幻想体験にも似てなかなか味があったのに。残念である。学生時代,札幌の大学周辺にはいくつもピンク映画館があった。北二十四条に「シネマ24」,北十八条に「みゆき座」,東何条だったかにもひとつ。名画座も「ジャブ70」,「シネマ23」など事欠かず,いまから思えば映画ファンには夢のような時代だった。「シネマ24」はピンク映画メインなのにときおりアンドレイ・タルコフスキイの『アンドレイ・ルブリョーフ』など渋い名作を掛けてくれたりした。500 円も払えば 3 本立てでエロ映画が観れ,煙草も吸い放題,しかも何時間居座ってもよいので,冬寒くても灯油の買い足しもままならない手元不如意の月末,授業のない日なんかには,一日中ピンク映画館にいて,映画を観,眠くなったら寝,ちょっと飽きたらロビーで文庫本を読み,なんてアホみたいなことをしていたものである。

首都圏のピンク映画館にはイヤな思い出がある。私が就職して東京に出て来たころ,川崎駅周辺の繁華街にもピンク映画館があった。南町のストリップ劇場・川崎ロック座のすぐ近くだ。いまはもうご多分に漏れず潰れてしまった。私は結婚する直前,会社の総務部の手違いのおかげで,社宅に入居できる2日前に蒲田の独身寮を追い出され,帰る場所を失って夜中に川崎駅周辺を彷徨したことがある。バブル崩壊前夜,1990 年のことである。そのとき,何時間いても追い出されないので,そのピンク映画館で時間を潰そうと思った。ところが,そこは,汚く,酒臭くて空気の重い,繁華街の歓楽と欲望の吹きだまりのような空間だった。札幌では見るからに学生っぽい客が目立ったが,ここの客は年寄りばかりであった。おまけに真夜中だからか,ヘンな奴らが暗闇に蠢いていた。ある列を独り占めできるくらい席に余裕があったのだが,私が眠気にうつらうつらしていたら,いつのまにやらすぐ横の席に男が座っていて私の体に触ってくる。ホモの痴漢のようだ。私は「何すんだ!」と小声でどなりつけて,すかさずハコの最後尾に逃げた。そこでしばらくぼっとスクリーンを眺めていると,今度はすぐうしろの雰囲気の異常に気付いた。ふっと振り返ると,女装したオカマが 3 人くらいのオヤジにお触りをさせていた。「ヘンタイがエロ映画館に来てエロ映画を観もせずにヘンタイしてどうすんだ?」といよいよ私も呆れ果てて,その映画館を出てしまった。首都圏のピンク映画館のヘンタイぶりに驚いた。やっぱりピンク映画館は学生街に限る,などとへんな認識を深めてしまった。というか,1990 年当時にはピンク映画館は,もうエロ映画を観るところではなく,特殊な社交場と変わり果てていたのかも知れない。そのあと,しようがないので,サウナ — いまのチネチッタのある界隈にあった — に行って寝た。体に極彩色の絵をお描きになった方々がたくさんおいでであった。

なんでこんなこと書いてんだ? そうそう,ツタヤでピンク映画を借りました。作品は『新・監禁逃亡 3 ~美姉妹・服従の掟』。2010年,できたてのホヤホヤ。カワノゴウシ監督作品。出演は,伊東遥,水元ゆうな,石川ゆうや,幸将司ほか。ピンク映画はかつての日活ロマンポルノとはビミョーに違っていて,エロシーンを何分かに一回入れなければならない脅迫観念に支配されている。 ストーリー性において過酷な作品設計を強いられている。それだけに,この極めて高いハードルをクリアしつつ少しでも物語性に興味を覚えさせる作品に出会うと,意外性の感銘を覚えてしまうわけである。そうして,この『新・監禁逃亡 3』は,ピンク映画にあって,ストーリーになかなか出色なところがあったんである。こんな恥ずかしい話題をここで書き記すのもそれゆえなのだ。

普通の映画ならネタバレをここで書く気にはならないんだけど,ピンク映画は本来的に興奮道具のようなシロモノでもあり,観に行く人はおそらく物語性をまったく期待しないだろうから,敢えて書いておく。主人公・琴美(伊東遥)は,姉(水元ゆうな)の娘の死が癒せぬ心の傷になっている。琴美は,自分が誘拐を警察に通報したために娘が殺されてしまったと思い込んでいるのだ。あるとき琴美と姉とは,眠っている間に,閉鎖工場に拉致・監禁されてしまう。そこで二人は覆面男のなすがままにされる(ピンク映画の本領発揮)。香水の匂いから琴美はこの覆面ヘンタイ男が自分の夫ではないかと疑う。じつはこの監禁は,娘を殺された姉夫婦による復讐劇だったことが明らかになる。常規を逸した(というより,その動機・背景にどうしようもない無理がある)監禁強姦・虐待は,琴美の夫をして「こいつら狂ってる」と言わしめる。しかし,物語の最後で,娘殺しの真相は不妊症だった琴美の病める嫉妬心によるものだった ... というもうひとつのウラのオチが暗示される。少子化が問題となる一方で,子供を産みたくても産めない夫婦も話題になる昨今の,笑えない世相の一端が窺われる。スケベの制約のなかでただのスケベだけで終わらないウラのウラがあって,面白かった。近藤将人による音楽 — ピアノの不気味なモノローグもなかなかよかった。
 


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もう一本は『運命じゃない人』。2004 年,内田けんじ監督・脚本作品。主演は中村靖日, 霧島れいか,山中聡,山下規介,板谷由夏。映画の冒頭を見てすぐわかるんだけど,これ,インディーズ系のむちゃくちゃ低予算の挑発的な作品である。しかし,めちゃくちゃ面白い。 渋谷ユーロスペース(JR 渋谷駅西口を出た桜丘町にある,マイナー映画を見せてくれる知る人ぞ知る貴重な映画館)風と思っていたら,ホントにユーロスペースで封切られたそうである。

婚約者に裏切られた宮田(中村靖日)は,親友の神田(山中聡)に呼び出された深夜のレストランで,やはり婚約者に裏切られた桑田真紀(霧島れいか)と知り合う。宮田を騙し彼が金を持っていないと知ってドロンした女詐欺師・倉田あゆみ(板谷由夏)は,目下の詐欺のターゲットであるヤクザの親分・浅井(山下規介)から大金を奪って逃走し,宮田のマンションにそれを隠す。それを知った神田は,ヤクザのヤキ入れを怖れてあゆみに金だけは返させようと目論む。ところがあゆみは金を下着にすり替えた上,神田の名刺をアタッシュケースに入れて返却し,罪を神田になすり付けようとする。浅井は名刺から神田の事務所を特定して侵入し,神田のファイルからあゆみの素性とともに金の隠し場所の目星をつける。ところが,宮田のマンションのベッドの下に隠れた浅井が見守るなか,真紀がダンボールのなかの金を見つけ,ついついネコババしてしまう...。こうした一連の主人公たちの行動において,まったく同じ場面が登場人物の視点を変えてコミカルに描かれる。ある登場人物の視点においては何気ない絵が,あとで別の登場人物の視点による同じ場面では抜き差しならないディテールに変貌する様が,人生の数奇を如実に浮き彫りにするのだ。また凄いことに,ドラマはわずか一晩の間の事件から成り立っている。

ぜひご覧あれ。低予算でも工夫次第で凄い映画が撮れることがわかる。豪華キャストでいくら使ったのかわからないようなロードショー作品を嘲笑うような挑発的作品である。しかも,『新・監禁逃亡 3 ~美姉妹・服従の掟』はエロオヤジにお勧めできるに過ぎないけれども,『運命じゃない人』はこれよりもっと楽しく面白く,万人が楽しむことの出来る傑作である。普通のつまらない人の出会いは,「運命的」とはまったく思われないかも知れない,しかしそれだけに人知れぬ数奇さが滲み出る,そういう感動があった。「知り合って電話番号を聞いておかなきゃ,二度と逢えないじゃねぇか!」— こういう通俗的真理が妙に心に突き刺さる,そんなドラマである。主演・中村靖日のあのどうしようもないパンピーぶりがいい。コミカルな悪女役・板谷由夏もキュートであった。こんな映画は定期的に観たいものである。
 

運命じゃない人 [DVD]
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ (2006-01-27)

展覧会「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い — 交錯する夢と前衛 ポンピドー・センター所蔵作品展」に行って来た。上野,東京藝術大学美術館。娘はシャガールが大好きで,この夏休みに必ず行こうと約束していたのである。お盆のためか,思った以上に空いていて,目を近づけて絵具の具合をゆっくりと丹念に確かめたりしても,周りの迷惑にならないくらいであった。

私はシャガールの 1930--40 年代の作品の暗い郷愁が好きであるが,「ロシアとロバとその他のものに」(1911 年)など革命前のキュビズム風時代の作品も魅力的であった。戦後の仕事では,彼が手がけたモーツァルト作曲・歌劇『魔笛』の舞台美術(1966--67 年)に強い印象を覚えた。タミーノやパパゲーノなど登場人物の衣装デザインや,背景幕,場面演出のスケッチの数々。こんな『魔笛』をぜひ観てみたい強い思いに駆られた。

同時に展示されていたナターリヤ・ゴンチャローワの「アレクセイ・クルチョーヌィフ『隠者たち,詩』のための挿絵版画」(1912 年),ミハイル・ラリオーノフの「タトリンの肖像」(1913 年)など,見応えのあるアヴァンギャルド絵画が多かった。
 

* * *

展覧会のあと,藝大アートプラザでスケッチブックや庄司さやかデザインによるクリアファイルなどを買い,上野広小路でハンバーガーを食い,アメ横を御徒町まで歩き,川崎に戻って娘の買い物に付き合い,お次は映画『インセプション』を観た。夢とうつつ,意識と無意識を等価に扱うところに,倒錯した面白みのある映画だった。

13,000 歩近く歩いた。疲れた。

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映画『告白』

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高校野球,読書ばかりにも飽いて,今日は川崎チネチッタに独り映画を観に行った。『告白』,2010 年,中島哲也監督作品。主演は松たか子,木村佳乃,岡田将生ほか。まずひとことだけ感想を述べると,観るに値する作品である。

先日読んだ少年犯罪ミステリー『天使のナイフ』と比べると,ある意味で真逆に被害者の論理を描いた作品である。どちらも加害者と被害者の双方の視点を対比させたフェアなアプローチであるが,少年犯罪の罪と罰,「更正」のあり方の帰結としては,『告白』は遥かに酷薄である。罪を犯した少年に復讐することこそが彼を「更正」させる最良の方法だとこの作品は主張しているからである。つまらない見方ではあるが,少年法厳罰化に賛同する向きは,『告白』のほうによりカタルシスを覚えると思う。その行き着くところは「関係者すべてが己の不幸をさらに加速させること」である。「爆発させて終わり」の安易さが少し不快であったし,それゆえにエンターテーメントとしての落としどころにもなっていた。

「告白」という形態で少年犯罪の加害者/被害者のそれぞれの視点から物語が語られる。それはその人の徹底的に自己中心的な論理の表明である。でも,人間はそうはいってもここまで自己中心的になれない。だからこそ犯罪の裁定が難しいのではないか。誰をも満足させえない結果になるのもそれゆえではないか。— と思う私が幸せなだけか。日本人の確信犯的絶対悪はそれ自体,マユツバに見えてしまう。絶対悪ならこれを誅して終わりじゃないか。

私はこのように作品の描く主人公の性格に現実性をあまり感じなかった以上,その「主張」らしきものも,フィクションとしてしか消化できなかった。「マザコン少年の犯罪」なんて,私は吹き出しておしまい。犯罪心理の型にハマり過ぎているんである。「なんだマザコンか」である。崖で足を滑らせたら,それあ奈落に落ちてもしようがない。そして,その崖が「マザコン」というのは付き過ぎじゃありませんか? 現実の悲劇は,歩道で足を滑らせたら死んじゃったってことではないだろうか?

それでも,面白かった。まず第一に,復讐の手口の陰険さが最高(おまけに松たか子がやってくれると来ている。ネタバレなのでこれ以上はやめ)。そして,狡くて卑怯で愚かな子供たちがよく描かれていた。このガキぶりの醜悪を支えているのが匿名メールや,インターネットの民主制である(ガキでも意見をバラまくことができる)ということもよく理解できる。ガキどもが AKB48 のテレビを観ているのには笑ってしまった。個人で目立ちたいくせに均質の徒党をなすそのざまが象徴的なのである。「殺す相手は誰でもよかった」との動機にある,そのじつただの集団主義の裏返しでしかない自己顕示欲(私はこれを「AKB 症候群」と呼びたい)が,哀れなくらいわかり易いように描かれていた。原作も読んでみたいと思った。
 

* * *

チネチッタで映画の時間が来るまで,同じ建物内にある Tower Records で CD を漁った。Arcanto Quartett によるフランスの弦楽四重奏曲集を買った。Claude Debussy: Quatuor à cordes en sol mineur op.10; Henri Dutilleux: “Ainsi la nuit” pour quatuor à codes; Maurice Ravel: Quatuor à codes en Fa majeur; harmonia mundi s.a, HMC-902067. デュティーユの『夜はかくの如く』という作品をはじめて聴いた。なにか悪夢のようなものである。寝ながら聴くと,苦しめられるかも知れない。ラヴェルがよかった。
 
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* * *

府中街道沿いの,川崎市街地へ行く最寄りのバス停留所でバスを待っていると,ふと目の前の電信柱が傾いているのに気付いた。こんなんで大丈夫かな,倒れやしないか。と,その隣の電信柱に目をやると二本が支え合っている。古い町なのでこんなダイナミックな普請もあるんだと,へんに感心した。ヒマだとくだらないことが目に付いてしまう。このあたりは操業を止めた町工場がいくつもあって,ちょっと寂しい町並みである。
 

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ISAO YASUDA。システムエンジニア。神奈川県在住。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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