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misima 漢詩・詩語集拡充

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misima 漢詩作成支援の詩語検索機能で参照する詩語データベースを大幅に拡充した。ここのところ,この漢詩プログラム改造に取り組んでいた延長で,詩語のデータベース拡充のための元ネタがないか探していたら,今月 2 日,ある方から個人的に集めた詩語集をいただいた。入手した Microsoft Excel 形式のファイルを CSV に変換して行数を確認すると,なんと 8 万行もある。長年の労苦が偲ばれる素晴らしい成果をいただいた次第である。これは早速データベースにして,提供してくれた方に使ってもらわないとバチが当たる。昨夜と今日のお休み一日かけて,これに取り組んだのである。

いくつものシートに分けられた Excel データを CSV データに変換するのに,「Excel 一括 CSV」を使わせてもらった。妻の Windows 7 で変換したのち,Mac OS X にコピーして,ここからいくつかプログラムを書いて既存のデータベースにマージした。主な作業手順は以下のとおり。

  • 文字コードを UTF-8 に変換(nkf 使用)。
  • CSV データをフォーマット編集(新規作成ツール)
  • 平仄付加(既存ツール)
  • 詩語を旧字体変換して増幅(既存ツール)
  • 新旧両字体で検索してもヒットするよう韻字カラム調整(新規作成ツール)
  • 重複排除(既存ツール)
  • SQLite3 import
  • FreeBSD サーバ Tomcat 環境への辞書・プログラムのデプロイ(配備・インストール)
  • 読み,意味,出典も詩語検索の結果に出力する処理(JavaScript)も追加した。旧字体変換を入れたので,韻字の検索で新旧字体のどちらを指定してもヒットするようデータ構造,クエリを変えた。例えば,韻字が「仏」・平仄「○-●」の検索で,「銅佛」が出て来るようにした。
     

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    これまでの詩語データベースは,ネットで漁った『唐詩選』の漢詩データ 470 首程度を Perl HTML::TreeBuilder パーサで処理して二字,三字の詩語に分解し,この結果得た約 4000 語程度しか蓄積してなかった。これがいまや二字 33601 語,三字 53657 語,計 87258 語にまで拡張された。まだまだ使い勝手としては疑問が残るけれども,詩語ブラウザとしてはそれなりの規模が備わったのではないかと思う。

    今回作業で使用した「Excel 一括 CSV」ツールでは,残念ながら JIS 第三・第四水準の漢字が文字化けしてしまった。データベースにはこれらは含めなかった。これらを反映するのが次なる課題である。

    クリスマス・プレゼントで妻から貰った北村薫のシリーズ本三冊を読んだ。ベッキーさん三部作。年末から通勤電車のなかで少しずつ楽しんで,23 日にようやく読了。

    シリーズ第一集から順に『街の灯』,『玻璃の天』,『鷺と雪』という書名で,作品自体が短篇集の形式になっていて,それぞれ収録された短篇のタイトルが本の題名になっている。内容は,昭和七年から昭和十一年に至る,日本が奈落の底へ落ちて行く時代を背景とした,ミステリー風世相物語である。主人公・花村英子の一人称体による語りである。華族の令嬢である英子は,上流社会の箱入り女学生の立場にあって,新聞・ラジオ,学校の友人,たまさかの外出から,世の中の不条理な出来事に触れ,文学に培われた近代的思考能力で考え,近代的良心に照らして悩む。そんな日常において発生するちょっとした事件(多くは「事件」というほどの衝撃を欠いている。本格的殺人事件は『玻璃の天』くらいだった)に対して,花村家の女性運転手・別宮みつ子(英子は,『虚栄の市』の憧れの主人公・ベッキー・シャープと別宮の名に掛けて,彼女のことをベッキーさんと呼ぶ)の控えめな助言をヒントにしながら,英子はその謎を解決して行く。

    実際に起こった事件,事実,たとえば,放送局がブッポウソウの囀りを生放送しようとして果たせなかった,といったような事柄が鏤められている。これらは作品の不穏な時代背景の特徴描写とうまく融合して,単なる時代雰囲気の醸成だけに留まらない暗示的効果を出し得ている。とくに同時代の文学的事象もそのひとつで,山村暮鳥の『聖三稜玻璃』に収録された詩『囈語』の詩行「騒擾ゆき」の引用でもって,1936 年の二・二六事件を暗示させるくだりは,「こじつけ」という言葉では片付けたくない妙に生々しい暗合を感じた。

    作品はミステリーに属するものといえるだろうけれど,謎解きは二の次で,語りの眼目はなによりも,教養があり,しっかりした考え方を持ち,冷静に行動できる新しい時代の女性の姿にある。英子は自由思想的であり,階級的価値観に縛られず,世界を読み解くのに読書経験と論理的思考力とにものを言わせるところがある。ベッキーさんは男装の麗人,文武両道の清楚な女傑,深い教養と知性を備えたスーパーウーマンである。このあたり時代小説の人物設定としては強引な要素が否めない。でもそんなことはどうでもよい。痛快ヒーローものの面白さがあるのだ。軍国的右翼国家主義者・段倉荒雄(北一輝か大川周明あたりがモデルか?)とベッキーさんとのやりとりのくだりは,バカを暴力でなく教養でもって貶める(相手を「打ち負かす」のではなく,こっそり「嗤いの対象」に貶める)点で,たいへん印象的だった。

     ベッキーさんは,前方を見つめている。運転中の横顔を,初めて見る。影絵のようになった額や鼻,口元の線が,美しい模様を見るように心地よい。その唇が動いた。
    「生齧りの本の言葉に,《善く戦ふ者は敗れず》とありました。そうでありましょう。さらに《善く陳する者は戦はず,善く師する者は陳せず》とも書かれていました。見事に布陣出来る者は戦うまでもなく,見事に軍を動かす者は布陣するところまで事態を運ばずして,勝ちを収めるのでしょう。女の身といたしましては出来得る限り,戦さという手立てによらずに,様々なことが解決出来ればと—希望いたします」
     段倉は,ふんと鼻を鳴らした。相手は東洋思想の専門家だろうに,と,ひやりとしてしまう。ベッキーさんも,無鉄砲なことをいい出したものだ。
    「そのようなことを,偉そうにしゃべるものではないぞ。まして,お前は日本の女だ。大和撫子は,一という字も知らぬように見せてこそ奥ゆかしい。覚えておくがいい。女が生齧りの学問を振り回すほど,卑しいことはないのだ。—実に見苦しい」
    「先生。今の質問へのお答えは?」
    「う? 戦わずに—ですか。—いや,そんなことは相手次第だ。幾ら,こちらが誠意を尽くしても,向こうがいうことをきかなければ仕方ない。打ち倒すしかない」
     車はやがて,麻布の街に入って行った。段倉のいう店に寄せながら,ベッキーさんがいった。
    「先生。後学のためにお聞きしたいのです。実はわたくし,不勉強で,先程の言葉の出典を存じません。あれは,一体,何にあるのでしょう?」
     皆の注意が,段倉に集まる気配があった。段倉は不快げに,吐き捨てた。
    「『孫子』だ。『孫子』っ!」
    北村薫『玻璃の天』文春文庫,2009 年,pp. 82-3。

    議論をしているのに,テーマから逸脱し「偉そうにしゃべる」とか「見苦しい」とかの無関係の威圧的言説でもってまず相手を見下さないではおれないところ,バカ右翼のタイプだと感じるのは私だけか(議論で大事なのは論者双方の共通の結論に達することなのに,「勝つ」ことが目的になってしまうバカの典型でもある)。『孫子』には「戦わずして勝つ」なる要諦があり,これは昔から『孫子』バカの好む名言である。ベッキーさんの引用「善く陳する者は戦はず,善く師する者は陳せず」はすぐ『孫子』のこの名言と観念連合する。ところが実際は,ベッキーさんの引用は『漢書』刑法志からのもの,とあとで述べられる。段倉こそ「偉そうにしゃべる」だけのただの「生齧り」だ,というわけである。「幾ら,こちらが誠意を尽くしても,向こうがいうことをきかなければ仕方ない。打ち倒すしかない」— これに類する意見は,バカ右翼だけに限らず,ネットにも多いのではなかろうか。最近ではこのテの安易な武力行使肯定意見が多くて,この物語の時代風潮はもはや過去のものといえない事態になりつつある。やっぱりキナ臭いのはイヤである。

    このくだりは段倉をボンクラに見せるのに効果的である。そして,ベッキーさんの意見が正しいと読者に信じさせるのに効果的である。私の意見も「ベッキーさんを大いに支持する,段倉みてぇな奴は日本を滅ぼす。失せやがれ!」である。その効果は小説の藝術性とはあんまり関係ない。もしこういうことをきちんと読者に理解させたいのなら,段倉をボンクラに見せる小説ではなく,「善く陳する者は戦はず,善く師する者は陳せず」の説を現代的に証明する論説でなすべきだろう。でも,北村薫って作家は真面目なんだな。好感がもてる。

    ただ,北村薫のこの三部作を読んだ感想には,少し真面目過ぎるというのもある。吉永南央『萩を揺らす雨』を読んだときも,その生真面目さに心打たれながらも,似たような不満があった。「なんかわけわからん」というか,私にとって蠱惑ある文学作品に欠くべからざる「不明」の要素がなくて,「なるほど,そうだよな」とスッキリし過ぎるんである。贅沢だろうか。
     

    七絶・九段坂幻影

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    漢詩を書いてみた。七言絶句・仄起式平韻偏格。湯島天神初詣のとき思いついた。桜花の時候はまだまだ先だけど。ま,くだらない戯言である。ただ,平仄・押韻法は合っているはずである。

    九段坂幻影
    櫻雪蕭然昇九堽  桜雪蕭然たり。九堽(きゅうこう)を昇る。
    氣淸雀囀薄霞洸  気清く雀囀り 薄霞(はくか)洸(こう)たり。
    視靈廢卒幽跳坂  霊の廃卒の幽かに坂を跳ぶを視る。
    途上娟人仰彼蒼  途上の娟人(けんじん)彼蒼を仰ぐ。
    Sakura drifting on the wind lonely and silently. I'm going up the slope of Kyuko.
    Pure air. Sparraws twittering. Mist dim and thin.
    In my vision - transparent spirits of invalid soldiers jumping are coming down.
    At the end of road a woman stands looking up at the sky.
    (Facebook に載せたら英訳をと求められたので,通じればよいと適当に)

    「櫻雪」なんてのは和臭プンプンだろうけどかまわない。平仄その他のこじつけで,九段坂について「九堽」(きゅうこう)なんて造語を使っている。misima 漢詩平仄音韻分析・詩語検索(ただし,友人のための限定公開)をはじめて自身の実作で使ってみた。あれこれ悩むと,いろいろ機能がほしくなって来る。機能追加はそのうちということで。プログラムによるチェック結果は以下のとおり。
     

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    NHK 大河ドラマ『平清盛』

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    今年の NHK 大河ドラマ『平清盛』をちょっとだけ観た。第一話の再放送。音楽を担当しているのが吉松隆だというので,テーマ曲などを聴いたんである。曲最後の大団円はいつもながらの大河ドラマ風の大盛上がりなんだけど,そこに至るまでのピアノ,木管の扱いは吉松らしい,冷たい手の抒情とでも言うような(は?)音響になっていた。

    オープニング・テーマに骰子が出て来た。何の意味があるのかよくわからなかった。「多分,白河院が『わが意のままにならぬのは双六の賽』とか言ったからじゃないの」と妻が教えてくれた。彼女は大学で『梁塵秘抄』を研究したので,平安末期の世相や今様,白拍子の世態風俗などに滅法詳しいんである。なるほど。「歴史における偶然」というのがドラマの大きなテーマになっているわけか。

    今夜の『平清盛』にも白拍子・舞子が登場し(清盛は白河院と舞子との間に生まれた隠し子だった,という設定であった),あの有名な今様「遊びをせんとや生れけん,戯れせんとや生れけん」を彼女が口ずさむシーンが出て来た。この今様の旋律もおそらく吉松隆が付けたものだろうが,まさに「今様(モダン)」であんまり古典的な味わいはなかった。

    岡田将生演ずる源頼朝が,平家滅亡の知らせを受けて清盛の業績に敬意を表するくだりがあった。岡田将生があまりに優男でもあり,「なんか頼りねえ頼朝っ!」とげんなりしてしまった。それとは対照的に,男勝りの北条政子役・杏の,武士のような装い,眉を剃った怖い顔には,ゾクっと来ました。主役級が線の細い草食系(ぽい)男優ばかりで,荒くれた時代のドラマとしては,どうもなぁ。平忠度・中井貴一と舞子(清盛の秘めた母)・吹石一恵も同じような関係である。男がMで女がSばかりってどういうこと? サムライブルーとなでしこジャパンを見せつけられているようである。ま,これからどうなるかわかりませんけど。

    私も,昔は『天と地と』などの NHK 大河ドラマを熱心に観たものだったけど,歳を取るにつれ興味を失ってしまった。サムライブルーとなでしこジャパンのような,女の強い光景はサッカーだけでよいのだが,どうも NHK 大河ドラマを含め世の中全体の趣味・傾向がそうなってしまったからか。『平清盛』なんて人名の題名は,歴史の大河的絵巻ではなく英雄個人に映像の関心がフォーカスされるようで,しかも草食系優男の情愛や優しさに感動の焦点があるとしたら,私にはどうもつまらない。『篤姫』,『龍馬伝』で NHK は味を占めたか。

    『平清盛』は開始早々,世評がいまいち。初回の視聴率が歴代ワースト三位だったという。兵庫県知事が「画面が汚い」と貶した,などというくだらないことさえ話題になっている。私は「画面が汚い」とは思わなかった。むしろ平安末期の大乱世なんだから,『羅生門』以上に,もっと汚くても,穢らわしくてもよいくらいだ。ま,大河ドラマご当地観光による地元経済効果を高めたい兵庫県知事のハラのなかとで,どっちが「汚い」かは措くとしましょう。
     

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    今年になり麻雀ゲームをはじめてやったら,四暗刻,ツモれば役満の三暗刻 12 飜三倍満をあがりました。新年そうそうツいているのか,早くも運を枯らしたのかはわかりません。家族からバカといわれております。
     

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    湯島天神に初詣。子供たちの都合が今日やっとついたので,珍しく家族皆で出かけた。御徒町・松坂屋で開催されている第 56 回現代書道二十人展も観ようということに。

    湯島天神は松の内ということもあり,まだ人出で賑わっていた。いつもなら御徒町駅から春日通りを歩いて湯島の交差点すぐの夫婦坂の門から入るんだけど,参拝客が多いこの時期だからか,わざわざお茶の水方面から大きく遠回りさせられ,銅鳥居の参道を歩かされ,おまけに長蛇の列に並ばせられた。めっぽう短気な娘が帰ると言い出すのを,「ふざけんな」と押さえ付けなければならなかった。

    本殿で拍手を打って願を掛けた。お神籤を引いたら小吉。このたびは幣もとりあえず手向山紅葉の錦神のまにまに。願望 — 後程必ず叶う。待人 — 遅けれど来る。失物 — 人の助けで出づる。商売 — 利益少なけれど確実にもうかる。方角 — 西北の方特によし云々。妻のお神籤も私とまったく同じもの。どうやらお神籤文面のバラエティは,数パターンしか用意していないようであった。また,お神籤の表記が歴史的仮名遣いでないのにちょっと違和感。神社本庁は歴史的仮名遣いに固執する数少ない団体だけど,当然ながら,参拝者に押し付けたりまではしないらしい。娘は大吉で大喜び。天神様は学問の神様であらせられるので,娘は「大学に行けますように」と干支の龍の絵馬に書いて奉納した。さすがに,合格祈願の絵馬が夥しかった。

    湯島天神は梅の名所だけど,まだ早い。我も神のひさうやあふぐ梅の花(芭蕉)— そのころに私もここで彼蒼を仰ぎ見たいと思った。『婦系図』の舞台になった縁で,泉鏡花の筆塚があった。今日も穏やかでいい天気だった。
     

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    現代書道二十人展は今年で 56 回目。時代を代表する書家の新作を新年に披露する目的で,朝日新聞主催で毎年開催されている。最近,書にも魅せられていて,朝日新聞の広告でこの現代書家の展覧会を知り,初めて訪れてみたのである。漢字,かな,篆刻のジャンルの新作が展示されていて,アヴァンギャルド書・空書はなかった。

    漢詩・経文・禅語を主体とする漢字の書では,星弘道の作品 — 嚴粲という聞いたこともない宋代の詩人の詩句「敲竹鶴聲起 弄船花影搖」(竹を打ったような鶴の声,船が波に遊ばれ花影が揺れる?)による書 — が力強く印象的だった。でも,私は国風の柔らかいかな書がどちらかというと好みである。小山やす子という女流による紫式部集の巻物,横山煌平による額田王短歌「あかねさす...」書,高木厚人による源氏物語作中歌の書,などなどが気に入った。自宅に飾りたい所有欲に駆られてしまった。展覧会カタログでガマン。実物の印象がかなり損なわれてしまってはいるけれども,カタログ掲載の上記作品のデジカメ撮影画像を掲載しておきます。
     
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    カタログ / 小山やす子作品 / 星弘道作品

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    横山煌平作品 / 高木厚人作品

    昨日は平成二十三年の御用納め。納会のあと子分と少し呑み,ラーメンを食って深夜帰宅。

    今年は仕事でもあんまりパッとしなかった。ウチの会社は,福島原発事故対応で電力事業部は損得なしで大童,コンピュータ事業においても東北地区の自治体システムの復旧で休み無し,と大震災の余波をまともに被った。気仙沼市の震災時システム対応の美談なども聞こえて来た。国難をモロに受ける会社にいると,日本を代表する企業にいるプライドが疼くものである。とはいえ,私の職場は震災の影響はあまりなく,大口顧客の仕事で坦々と稼がせていただきました。

    今日から年末・年始のお休み。昼くらいに起きて来て Facebook をボッと眺める。それから,最近顧みることのまったくなかった Web サイトを少しメンテナンス。映画・芸能関係のブログ記事を一覧するインデックスを掲載した。題して『КИНОはけふの物語』。この 6 年間で書き散らした映画評は,いまさらながら,ピンク色が目立って情けなくなる。文学関係の一覧『文学についてのあれこれ』ともどもエロ話が多くて恥ずかしくなる。おヒマなら来てよね。
     

    * * *

    アマゾン古書店から本が届く。勝見洋一『餞』,映画『終わってる』と,このところまたぞろポルノグラフィについてばかり書いているからか,妻から「またエロ本買ったの?!」と白眼の視線に晒された。違います。ロック歌手・川村カオリの自叙伝『Helter Skelter』。芸能人の本はおそらくはゴーストライターが感動的に纏め上げたものがほとんどなんだろうけど,また一方で「自伝」というものはその本性としていいことしか書かれていないわけなんだろうけど,それは別に構わない。書かれてあることから何が得られるかが問題である。

    川村カオリは 2009 年に乳癌で亡くなり,いまや伝説的ロッカーになろうとしている。本書には,片方の乳房を切除した傷跡を晒し管が体に刺さった彼女の半身写真が掲載されていて,痛々しかった。しかし,それよりも,かねてからの私の関心は,彼女が日本人とロシア人の混血であるということだった。日露戦争にはじまり,第二次大戦時の満州侵攻(国際法違反),それに続く日本人捕虜のシベリア抑留,北方領土問題,戦後の東西冷戦と,日本人の民族意識としてロシアは「伝統的敵国」となってしまった。ロシアに関係する日本人はすべからく冷たい目で見られて来た。私は自身がロシア文学を専攻する学生だったので(何かに付け「左翼」のように言われた)それがよくわかるし,その意味でロシアと関係する日本人について無関心ではおれないようになってしまった。そして,ロシア関係に関心をもつものだけが理解できる要素を,本書に認めることができたのである。

    彼女はモスクワに生まれ,ソ連の日本人学校に 6 年間通った。ここでは,図書室で伝記シリーズを読むのが好きだったし,個性的な先生から太宰治の『人間失格』を勧められた,それほど平穏な(日本では珍しいくらい文化的な)日々だった。当時のソ連社会の彼女の素描もいい面,悪い面をきちんと見据えている。私は米原万里に感じたソ連育ちの日本人の冷静な視線を,川村にも確かに認めたのである。

     この頃のソ連はこんなふうに外国の製品などあまりなかったけれども,色とりどりのケーキやら果物,洋服や家具,必要な物は全て日本の 10 分の 1 の価格で手に入った。それに社会主義国はみんな平等(軍人やお役人は別ね)だったため,競争心や猜疑心がなく,人々の心も穏やかで豊かだった。知らない人でも喜んで家に招く,そんな国だった。[ ... ]
     今思うと母は一人でどんなに悲しい思い [ 私註:川村の母もまた日本人と結婚したことでソ連官憲から謂れのない差別を受けたことがこの前にしるされている ] をしたことだろう。国への不満や思想を唄や詩にして逮捕される国である。祖父や祖母も仕事場ではいいことだけではなかったという。私の知らない話もまだあるに違いない。
     あの頃はなぜロシア人がみんなウィソツキーという唄い手を愛すのかわからなかったが,最近は日本でも買うことができるようになり,聴き直してみてやっとその理由がわかった。みんな,笑顔の下には涙を隠していたのである。
     ソ連には私服警察がいて,思想的危険分子とされる人はよく連れて行かれたらしい。だから不満があってもみんなそれを言葉にできなかった。ウィソツキーという人はそんな国民の心をギリギリの表現で唄っていた。見た目はアル・パチーノ,声はトム・ウェイツのような唄うたいだった。
    川村カオリ『Helter Skelter』宝島社,2005 年,pp. 17-9。

    ウィソツキーの名に出くわすとは思ってもいなかったので,懐かしさで溜め息が出た。このシンガーソングライターはギター一本で弾き語りをするソ連時代の魂の詩人であり,1980 年代のロシアを知る者にとっては,知らぬ者のない名前である。そしてウィソツキーをロシア人の「笑顔の下に隠した涙」に結びつける川村の感じ方に,私は数少ない同志を見つけたような感動を覚えたのである。

    1982 年に川村家が日本に移住してから,平穏だった川村カオリの人生は一変する。ロシア人のハーフであったためか,日本の子供社会(それはすなわち大人社会の縮図である)のルールに適応出来ず,激烈なイジメに晒される。その契機をこう分析する。

     [ ... ] クラスの中が細分化され,いくつかのチームがあり,みんなどこかに属さなくてはならないことを私はまるで知らなかった。教室の移動やら休み時間など,誘われるがままに付いていった。[ ... ] なんとなく一緒に遊びながらも,これまでのような自然の中ではなく,ゲームに熱中したり,誰かの悪口を言ったり,男の子の話題ばかりだったりする遊び方に違和感を感じていた。ついこの前までトム・ソーヤーのような生活をしていたのだから無理はない。[ ... ] 少しでも違う意見を言うと一瞬で空気が凍るのを感じた。違う意見を言うことは許されないと気づくと,愛想よく付き合うことにすぐに疲れを感じ始めた。しかし疲れようが合わせるほかにない。[ ... ] ところがその甲斐もむなしく,転校して数ヶ月でどうやら私はリーダーの機嫌を損ねてしまったらしい。あからさまにみんなの態度が変わり,無視されるようになった。[ ... ]
     まわりは,あぁやられてる,という顔でただ遠くから見ているだけだった。みんな先生の前では問題などないふりをするので,もちろん先生は気づかない。誰も助けてはくれない。6 クラスもあるのに誰も何も言わない。
     毎日隠される上履き。破かれる教科書,泣きたくなるような机の落書き,黒板に書かれた中傷。ロシアに帰れ。ブス。気持ち悪い。バカ。
     川村死ね。
     死んだ方がどんなに楽だったろう。
    同書,pp. 26-7。

    ま,誇張があるにせよ,よくある話である。異質な人間が日本で自分を保って生きて行くのは至難の技なのである。千葉という中途半端な「田舎」だからこんなことになる? 「先生は気づかない」— いよいよよくある話である。「イジメがあったという認識はありません」と生徒がイジメを苦に自殺してしまった学校の記者会見はいつもこうですね。1983 年のソ連による大韓航空機撃墜事件のあとは,社会の授業中に教師にまで「この外道が!」と罵られた,とある。このように,集団主義的イジメは日本の「国民性」である。イジメているのに自分ではその感覚がない。この社会科教師も,ソ連の非道ぶりを許せないとの正義感を振りかざしているわけで,なんの罪悪感もないようだ。帰国子女は耐えるしかない。川村カオリは,その反動からか,その後万引きの常習犯になり,イキがって街を歩き,逆に弱いものイジメを始めるようになる。なんか彼女は学校環境ゆえに落ちて行く人間の典型だったようである。

    そんななかでパンク・ロックに出会い,救われる。「わけのわからない服を着た彼ら [ 私註:セックスピストルズ ] は,ハーフである異端児の私と同じに見えた。でも胸張って堂々と自分のやりたいようにやっている強さを感じた。いじめられてもいいんだ。ケガしてもいいんだ。だって PUNK だもん。わけのわからない大義名分が私を守っていた」(p. 30)。

    この自伝でもっとも感動的なのは,日本人とロシア人,イジメる側とイジメられる側,どちらにも属した「ハーフ」ならではの複眼的なものの見方である。イジメる側にしか立ったことのない者は何も変わらないが,両方の立場に立った者は「人としてあるまじき行為をした場合,それは一生,自分に付いてまわる傷になる」(p. 33)との深い認識に至ること,罪を自覚することができる。その間で引き裂かれた果てに「私は自分にふるさとが 2 つあることに感謝」(p. 223)できるということ。これこそが,あらゆる尊敬すべき日露関係知識人に共通する属性なんである。日本人がロシア人を憎んでいる激しい緊張感ゆえにこそ行き着くことのできるバランス感覚だと思う。彼女はソ連で成長した方が文化的にも人間的にもおそらくずっと幸福だったろうに,閉鎖的で他人の顔色を窺わないと生きて行かれない日本という劣悪国に帰って来てしまったばっかりに不幸になった。しかし,日本に来て日本人とロシア人の両方の血筋を見つめなければ「川村カオリ」は成らなかったに違いない。
     

     

    P.S.

    本書にさらりと書いてあってびっくりしたんだけど,川村カオリの両親の国際結婚の仲人は,なんと,杉原千畝だった。父の当時の上司だったそうである。杉原千畝は第二次大戦中のドイツ大使館勤務のなかで日本本国通過ビザを発行し 6,000 人以上のユダヤ人を救った。イスラエルの英雄になっている人物である。

    日本人にも「シンドラーのリスト」のような偉人がいたのだと誇らしげに言う日本人が大勢いる。まったく,バカというか,偽善者というか,私は呆れてしまう。この行為は「日本人の優しさ」がなしたものでは決してなく,杉原個人のロシア正教徒としての魂(神の前に己の行動を問うことの出来る魂)が命じたところに依るものなのである。当時の新聞が杉原の行動を知ったとしたら,まず間違いなく同盟国ドイツへの反逆行為として彼を国賊・売国奴扱いしたはずで(「百人切り」なんて恥ずかしい「武勇伝」を何の疑問もなしに新聞記事にしていた国なのだ),杉原千畝は,川村カオリ同様,日本的な集団的イジメに晒されたであろうことは想像に難くない。つまり,日本の国民性は杉原の行動についてこれっぱかしも与り知らぬところなのである。

    日本は今年東日本大震災を経験し,被災地でもパニックが起きず略奪もなく,日本人は極めて冷静で己よりも共同体の和を尊ぶ,と世界から絶賛を浴びた。私もこれは確かに日本人の誇れる美徳であるとつくづく思ったものだった。本書を読んで,しかし,それは日本人が中で閉じているゆえの美徳であって,世界のボーダレスに晒されたとき同様の落ち着きと互助精神を発揮できるかと問うてみると,正直,心もとない。集団的弱者イジメを無意識にやる人間は,すぐに化けの皮が剥がれる。

    文化的にもニセモノだらけではないか。いきおい海外ないし過去に目を向けるしかない,てなもんや。川村カオリも「日本の音楽界もジャリタレばかり」と手厳しいことを書いていた。そう,いまの日本のメジャー文化はあらゆる面で「ジャリタレ」文化である。でも,マイナーな世界とはいえホンモノも必ずいる。川村はそれに救われたのである。

    勝見洋一『餞』

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    勝見洋一『餞』を読んだ。ひとことでいうと,私小説の味わいのある幻想的にして麗しいポルノグラフィ。

    古稀を過ぎた老人・欣哉は,若かりしころ暮らした北京を訪れ,中国に残した息子・志徳(じゆーど)の恋人だった中国人女性・麗倩(りーちん)と出会う。欣哉は彼女に,若くして死んだ妻・鳳霞(ふえんしやー)の面影を重ねてしまう。麗倩も欣哉に,文革(文化大革命)の果てに自殺してしまった志徳を見出す。こうして自然に欣哉と麗倩は交わって,麗倩は懐胎する。

    物語は,文革時以来の北京において,欣哉が北京料理や変わり果てた天橋の街並に侵され,亡き中国人妻の面影を追い求めるセンチメンタル・ジャーニーである。あっさりとした極上の清蒸桂魚(ちんじようごえいゆい:作品にも登場する桂魚の丸蒸し料理)のように,抑制の効いたポルノグラフィである。何かに囚われる心,記憶という奔放な幻想装置のみが,動きのない肉体の上を激しく駆け巡る。日中戦争と文革という暗い悲劇的背景が,登場する中国美女の肌の白さと滑りをいや増しに引き立てる,そういう凄みがあった。

    作者・勝見洋一は,本書の経歴をみると,中国料理をメインとする料理評論家のようだが,本作品が初の小説である。作品にも北京料理の数々が描かれており,しかも状況に応じた心憎い選定であることがわかる。三島由紀夫の小説では描かれる料理が作品世界のお飾りないし彼の文人的教養の披瀝でしかないのに対し,勝見洋一では,谷崎潤一郎や開高健の作品と同様,食したことのない料理の描写で,一度でよいからそれを食ってみたい強い衝動に駆られるのである。女と二人で旨い料理を食うのは性交するのと同じである。

     だから,それにつづく清蒸桂魚はさすがに見事な出来だった。ほんの少しの生姜と葱で蒸すだけで,淡いくせに口の中を切られるような鋭い桂魚の味が引き出されていた。白身の肉は締まっていたが,自分の舌よりもほんの少し柔らかかった。その白身にまとわりついているさらりとした脂は,胃からすぐに体の隅々に染みていくようで,麗倩との会話もなにかそんな不思議なものの力で押し流された。桂魚の棲んでいた深くて大きな河が,麗倩の背後に流れているようだった。今の十月の大河を疾走する緑色の水の流れを,欣哉は夢のように見た。[ ... ]
     すると欣哉の口の中に,ふと,さっき食べた大河の水と藻で育った桂魚の味がよみがえった。そんな野卑と繊細が入り混じった味が,鳳霞のくちびるの裏の柔らかな粘膜にいつもうっすらと貼りついていたのだったと思いだす。それならばいまの麗倩も,大河の水の味と臭いを満々とからだに湛えているのか。
    勝見洋一『餞』幻戯書房,2011 年,pp. 13-4, 30-1。

    親子世代の二人の男女の襷がけの一種倒錯したエロティックな関係は,残りの死した二人の存在への思慕そのものである。生まれて来る子供への呼びかけにその妄執が収斂して,作品は終わる。弦楽四重奏の入り乱れた黝い変奏がシンプルなリエゾンで楽曲を閉じられるような,明るい余韻を残す。
     

    餞
    勝見 洋一
    幻戯書房
     

    上のアマゾン・リンクでは皆目わからないのだが,本書の極上のポルノグラフィは最近では珍しい美しい本作りに支えられている。単調な白のカバー,灰色クロス装表紙に空押しで「餞」のエンボス加工。艶消しの黒い帯。この白と黒とその中間色・灰は作品の老嬾・艶容の,死臭のあるエロスに相応しい。扉は題名といやらしさを秘めた赤の古風な飾り罫。この物語性にあって,版面の 32 × 12 文字の活字は,なまめくようないやらしい手触りである(印刷は内外文字印刷)。最近では稀にみる本なんである。装丁家・間村俊一の名は覚えておくとよい。こういう装丁は日本の至芸ではないかと思う。ぜひ,手に取って,装丁ともども作品を堪能いただきたい。
     

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    勝見洋一『餞』幻戯書房,2011.8.14 初版第1刷

     

    付記:

    この作品が映画化されないか,私は秘かに期待している。そう,日中合作ポルノグラフィとして。日中戦争,文革という両国の恥辱の歴史がモチーフになっているところ,人間の過去,現在,未来が性を巡って美しく昇華しているところを,映像でもぜひ観てみたい。作者はあまり意図していないかも知れないが,中国文学伝統をいたく尊敬する私は,こういうポルノグラフィこそが日中両国の文化的近親性を共有させてくれてよい,と勝手に信じている。

    現代の中国ではポルノはタブーに近いので無理か。餞の題名は死者を送る紙銭に冥界との接点を見出す象徴になっているんであるが,現代中国なら文字通り金とセックスするニュアンスを帯びてしまうかも知れない。あと,『失楽園』みたいなどうしようもない下品な映画になる危険性もないことはない。やっぱり文藝としてひとりこっそり楽しむに限るのか。

    聖夜・ロシア料理

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    昨日は天皇誕生日にして,うちの息子の満二十歳の誕生日。可哀想に,いつもクリスマス・パーティと一緒のお祝いである。息子はバイトとクラブで忙しく,めずらしく家族でご馳走を食べ,プレゼント交換をした。いつもの通り,私は本と音楽ソフトをプレゼント。今年は息子にはいきものがかり PV コレクション DVD と,又吉直樹著『第2図書係補佐』,娘には Acid Black Cherry(ビジュアル系ロックバンド)の CD『Q.E.D』と三上延著『ビブリア古書堂の事件手帖』を買ってやった。 妻には中西進著『美しい日本語の風景』とコーヒーカップセット。月末の厳しいこの時期お小遣いが破綻寸前である。私も低反発ピロー,VANS ブーツスニーカー,北村薫著ベッキーさん三部作の本などなどを貰いました。

    そして聖夜の今宵は,神保町の富士見坂にあるロシア料理店「サラファン」。年に一度の贅沢である。ロシア料理店というのは何故どこもかしこも狭苦しいのか。熊のようにデカいロシア人の図体になった感覚もお楽しみください,ってか。暗い店内でクリスマス特製コースを食った。メニューは,鮭とサワークリームのブリヌイ他シェフお任せザクースカ,ピロシキ,ボルシチ,ビーフストロガノフ,デザート,ロシア紅茶。やっぱりボルシチがいちばん旨かった。ロシア・ビール BALTIKA 3 番も — いまいちとは承知しつつ — ついでながら注文。デザートを食い終わると腹一杯になりました。

    神保町は何ヶ月ぶりか(妻は神保町勤めなので,なんの感慨もなかろうけど)。陽が落ちてからやって来たので,古書店はみなシャッターを降ろしたあとだった。靖国通りの南側(西日の当たらない,北向きの,本に優しい側)には書店がずらりと並んでいるわけだが,ラーメン屋やコンビニに変わってしまった一画もあり,DVD・ネットカフェなんかのイルミネーションも目立つようになった。こうして一大古書店街も様変わりして行く。残念至極也。
     

    Q.E.D.【DVD[LIVE映像]】(ジャケットB)
    Acid Black Cherry
    カッティング・エッジ (2009-08-26)
     

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    金正日死去その2

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    金総書記は公務の途中,移動列車の車上で突然死したという。自由主義国では彼は何かにつけ戯画化されて来たわけで,知人のなかには「移動列車上で? 悦組の腹の上なんじゃないの? 突然死だなんてそれ以外考えられない!」なんて口性ないことを言うのもいた。地獄に下ったキムジョンイル・ジョークがこれから量産されること間違いなし!

     さて,キム総書記は死んですぐ,閻魔大王の前に立った。
     キム将軍:「キミかね。閻魔大王というのは。ん? ここから途が二手に分かれているな。一つは強盛大国聖地ペクトサン,もう一つは極楽浄土に繋がっているのかな? ワタシはもう神になったので,この際,極楽浄土に行くのが相応しい。どっちだ? 言え! ところで,あの二人は誰だい?」
     閻魔大王:「その通り,察しがいいね。一つは地獄への,もう一つは天国への途だ。そして,あの二人は左に立っているのが同志スターリン,右は聖ヨハネだ。二人のうち一方は必ず嘘を吐く。もう他方は必ず真実をお前に伝えてくれる。彼らは途がどちらに通じているかを知っている。どちらに行けばよいか彼らに聞くがよい。ただし,質問はイエスかノーかで答えられるものを,二人のうちのどちらかに1回限りだ。そして,二人のうちどちらが嘘吐きかは国家機密だ。わかるよな。さあ,行け」

    姿からスターリン,聖ヨハネはすぐ見分けが付いた。まさか自分が瀬戸際に立たされるとは思ってもみなかった将軍様は,ビール腹を叩きながら思案した。これまで頭ではなく腹で考えて来たのだ。さてさて,その後キムさんはどうしたでしょうか?

    これ,「ケネディの問題」という有名な論理学ジョーク問題を,私が焼き直したものである。元々は,死んだ J. F. ケネディが天国に行くためにヒトラーとチャーチルのどちらにどういう質問をするか悩む話である。野崎昭弘著『詭弁論理学』(中公文庫,1976 年)に掲載されていた。回答はそのへんに転がっているだろうから,ここではしるしません。

    須永朝彦『日本幻想文学史』

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    須永朝彦『日本幻想文学史』を読む。ちょっと骨のある著作に接したということもあり,今日はその「文学史」としての感想,その他もろもろ。

    結論から言ってしまうと,本書はディレッタントのディレッタントによるディレッタントのための文学目録でしかない。学問的文学史ではなく,あくまで「目録」あるいは「読書案内」の意味しかない。「文学史」と銘打たれているのは,ただの学問的身振りである。私のようなしがないサラリーマンにこう言われては須永が可哀想なんだけど,「文学史」というアカデミックなタイトルは,残念ながら,本書のディレッタンティズムからするとあまりに高潔過ぎて,失笑すら催すものである。況や,海外の,本物の,学問的厳格さにおいて徹底した文学研究者からは嗤われる。本書はそういう「文学史」である。

    「文学史」というと,大学の文学部を出た人ならわかると思うが,国文科なら日本文学史,独文科ならドイツ文学史が必修科目になっていて,当該民族・言語による「文学」の歴史的俯瞰を,一通り辿らなければならないことになっている。だいたいにおいて抽象的で退屈な授業である。ここで用いられる教科書は,たいていが複数の学者の協同によって「纏められた」ものである。あくまで「教科書」であって,その叙述文体は,高等学校の理科・社会の教科書のように,誰々の説であるなどいちいち断ることなく,あたかも確定した「真実」であるかのように書かれている。でもそれは,極めて多くの研究者の研究が最大公約数的に整理されたもので,個人による「文学史」がいかに難しいかを裏返しに示しているのである。

    「歴史」であるからには,まず第一にその対象,その分類(ジャンル,類型),時代区分についての実作考察とそこから組立てた理論があるはずである。第二に,その前提として,対象に認められる特性を文献学的に抽出する原典批判が必須となり,文献学の本性として,研究者の立場は「歴史的」でなければならない。つまり,対象テクストの範列論(言葉そのものの言語学的・歴史的位置づけ),統辞論(語接続の文法・語の繋がりによる意味の変異),テーマ論等について,当該時代に固有の表象・価値・解釈に基づかねばならない。そして「幻想文学史」と銘打つ以上,想定された読者(学究)のもっとも高い関心はこれら著者の二点のアプローチにこそ存する。何故なら,何より「幻想文学」の概念そのものが一般には明確でないからである。そして,この二点の真実らしさこそが個別作品の「文学史」的位置づけを決定する根拠となるからである。ところが本書は,「幻想文学」の対象範囲・分類規範という原点考察においてまず怠慢であって,ツヴェタン・トドロフ,ロジェ・カイヨワなど海外の理論家の説を周到に引用しているにもかかわらず,引用のしっぱなしで,その評価を半ばで放棄し,結局自らの立場の位置づけを,いよいよ理解に苦しむ「広い概念」に頼むのである。

     翻って,私をも含めた現在唯今の読者一般の<幻想文学>に対する理解はいかなるものかと申せば,相変わらず<怪奇と幻想>であり,篠田の要約に誓う「驚異」と「怪異」を含む「現実を越える想像力の文学」すなわち「広い概念」の域に在るのではなかろうか。[ ... ] 日本語としての<幻想>が未だ揺れ動き曖昧さを引き摺っている現状を考え合わせると,当面は「広い概念」に拠るのがよろしかろうと愚考する。
     [ ... ] 日本の<幻想文学>について,その原型のごときものから始めて,一通り触れてみたいと思う。<文学>というからには詩歌・戯曲の類をも視界に入れるべきであろうが,この分野に限っては読者の興味は散文とくに小説に向けられているに違いないから,自ずと小説中心の叙述となるだろう。[ ... ] 古典時代に関しては簡略ながらも通史の体を心がける所存ながら,近代現代に至っては急所重視に変ずるかと思う。おそらく自分の嗜好が相応に反映されるだろう。重要なことは<純と通俗の別>などではな<技術的達成と感銘の存否>であり,<美的至福の有無>と申すに尽きる。
    須永朝彦『日本幻想文学史』平凡社ライブラリー,2007 年,p. 15-6。

    「幻想文学」の「現在唯今の読者一般の [ ... ] 理解」が「現実を越える想像力の文学」になるその根拠こそが知りたいのに,また,何をもってテクストが「現実を越える」と判断するのかという基準をこそ聞きたいのに,それを「広い概念」で一括りにしてしまい,規範化を断念しているわけだ。規範化の試みこそが学問なのに。もし仮に「想像力」を規範の根拠とするならば,「文学一般」が「幻想文学」であるというのと何も変わらない。また,「読者の関心」を勝手に極め付けて研究対象から詩歌を除外し(日本の古典的文学観からすれば文学とは和歌と漢詩だったのに?),対象の選定においても「美的至福」という個人的恣意(「自分の嗜好」)を堂々と押し付ける。それはそれでよい。ならば,第一に,「学」・「史」という文字をタイトルに入れてはならないのである。あるいは,第二に,個人的嗜好でもよいからディレッタントならディレッタントなりの「美的至福」のメカニズムを論証・詳説してほしいのである。この二点ともに欠いているからこそ,本書を「ディレッタントによるただの文学目録」と評せざるを得ないのである。

    上記のように学問的基盤も,美的至福のメカニズムの論証も「まったくない」がために,叙述も単なる「幻想文学と思われる」事象の羅列になってしまい,時代の特徴,それに基づく時代区分,総合的判断としての「日本幻想文学」の特性の考察など,「文学史」に求められる構成要素の一切が欠落してしまっている。「ボクが読んで面白かった幻想文学と思われるものを並べてみました」— それならそれでよいのだが,曲がりなりにも「文学史」に対して「学者」のやることではない。作品評の引用も,まったく根拠がない,ほとんどが次のような「ボクもそう思う」的戯言である。

    三島由紀夫が「通俗的布置を一挙に破砕するギリシア悲劇風な唐突な大団円は,新しすぎて(!)当時の読者はおろか批評家にも理解されなかつた」と絶讃した『風流線・続風流線』の結構結末なども,実は長編合卷から摂取したものではあるまいかと思わせる。
    同書,p. 233。

    何のための引用なのかさっぱりわからない。三島由紀夫の言説の正当性に関する論証がまるでない。よって無意味に三島由紀夫を引用することで,「ギリシア悲劇風」云々という誤解を招く余計な評釈をこのくだりのテーマ・泉鏡花作品に纏い付かせるばかりになっている。だから,この引用は,三島由紀夫という「権威」を持ち出して「ボクも三島由紀夫と同じようにそう思うんだよね」と言うディレッタントの「ノボセ」,あるいは幼稚な権威主義としてしか,説明がつかないのである。

    と,ま,首を傾げつつ,失笑を覚えつつ,本書の帯をみると「通史仕立ての幻想文学目録 基準は<美的至福の有無>」とある。平凡社の編集者はさすがである。きちんと「目録」と要約してくれている。しかも個人的感想文でしかないことも「基準は」云々で暗にスッパ抜いている。恐れ入りました。

    何か真理めいたものに目覚めたとき,いきなりあらゆる事象を — 個別事象で検証するという過程を経ずに — その観点で普遍化・総合しようとする人がいる。例えば,20 世紀第一四半期の世界史においてコミンテルンによるある国での共産革命の工作の事実を知り,当時の歴史を揺るがす大事件のすべてがコミンテルンの「謀略」によるものだと主張する人がいる(田母神さんという元軍人の鼻摘み「論文」がその例である)。専門家筋から見れば「バカ」ないし「青臭い」の一言で一蹴されるわけだが,バカの間ではまことしやかに広がり,不安定な政治情勢下で一定の影響力を持つことがある。また,隣の人が死ぬほど困っていても何の手も差し伸べないのに,いきなり全世界を救いたいと考える人(ドストエフスキイ『罪と罰』のラスコーリニコフのような人)がいるものである。「文学史」と銘打たれた個人著者による著作を目にして,まず私のアタマに飛来するのは,こうした性急な普遍化・全体志向である。そして,須永朝彦『日本幻想文学史』もその手のものである。

    須永も引用しているツヴェタン・トドロフは,『幻想文学論序説』(現在邦訳が東京創元社から出ている。かつて邦題『幻想文学 — 構造と機能』として有名だった)で「幻想文学」の定義付けを試み,「テクストの奇怪な出来事について合理的,超自然的の二つのスタンスから読者を揺さぶる構造にこそその特性がある」と定式化した。具体的作品に即し,78 の参考文献を照会し,邦訳で 258 頁を費やして,たったそれだけのことを論証したのである。「序説 Introduction」というささやかな題名は,これでやっと「幻想文学」の文学史を語りはじめられる下地ができた,そういう理論的ポリシーの確立こそが目的であることを示している。そう,普通,個人でできるのはせいぜいこのような「序説」までである。加藤周一も日本文学史を試みたが,最終的に「序説」と題することに躊躇はなかった。でも,ここには — トドロフにも,加藤にも —「学問的誠実さ」がある。文学現象の記述に当り,何が「文学」であるかという対象とその類型の枠組みを設けることすらいかに難しいか,さらにそれら対象を一貫した理論的観点で俯瞰するということがどれだけ労苦に満ち,困難で,しかもフィクショナルなものか,ということをまざまざと教えてくれるからである。そして「文学史」と題された書物を手に取る学究は,この事情を知るがゆえに,「真実」というよりもまさにその理論的「フィクション」を求めているものなのである。

    須永朝彦『日本幻想文学史』も「文学史」というからには,そしてアプローチとして「幻想文学」のジャンルの考察から稿を起こしている以上,安易な普遍主義ではなく,真摯な学問的フィクションを私は期待したのだが,無駄だった。それでも,このディレッタント目録にももちろん美点はある。能等の芸能における<本地>の一覧,歌舞伎における<世界>(固定したテーマ論的背景のセット)の一覧,巻末の妖人魔人怨霊キャラクター略事典は一読に値する。そして浩瀚な作品の一覧はこれからの読書案内として役に立つ。いずれにせよ,個人的興味に基づいた「目録」であるけれど。
     

    日本幻想文学史 (平凡社ライブラリー す 9-1)
    須永 朝彦
    平凡社ライブラリー す 9-1
    幻想文学論序説 (創元ライブラリ)
    ツヴェタン・トドロフ
    三好 郁朗 訳
    東京創元社
     

    とはいえ,個人著者による「文学史」はどれもダメかというとそうではない。私がこれまで読んだなかから,これはと思う素晴らしい「文学史」— 学問性に厳しく準じたもの,あるいは,たとえ学問性において疑わしくとも,対象の美的メカニズムをきちんと論証したもの — を,何点か以下に上げておく。私はこれらと須永朝彦『日本幻想文学史』とを比較してしまい,後者もそれなりの労作であるわけだけど,どうしても辛口になってしまうのである。
     

    小西甚一の大著『日本文藝史』は全六巻。第一巻のみリンクを掲げておく。「文学史」としての基盤(対象,時代区分,研究方法)の確固たる大著である。アイヌ文藝,琉球文藝をも含めた日本文藝の「学問的」俯瞰図であるところが最大の特長になっている。小西甚一はこの業績により日本文学史そのものに名を残すことになるだろう。
     

    村松剛の書は,「死」という観念への立場を巡って,柿本人麻呂から終戦までの主だった文学作品をモノグラフ風に辿ったものである。学問的志向は薄く「文学史」というよりも「文学の系譜」と呼ぶほうが相応しい。しかし,作品そのものへの確かな凝視に基づき,「死」の文学的表象を追う求心力に心打たれる。「感動」が学問的身振りの瑕疵を埋めて余りある,そういう批評作品になっているのである。
     

    本書は,それまでの「ロシア文学史」がソヴィエト体制の社会的リアリズム中心主義に偏重したものだったことへのアンチテーゼとして書かれた(1986 年刊)。その目的の設定と,各国のロシア文学研究者の新しい学説の整理とに基づいて,ロシア文学の新しい俯瞰図を再構成してくれたところに,個の日本人学究による文学史としての意義がある。複数の研究者の共著による川端香男里先生編の『ロシア文学史』(1986 年)が東京大学出版会からも出ている。これも優れた概説であり,ロシア文学研究者たちのもっとも信頼する教科書になっている。ただし,同時期に同じ著者が関与する「ロシア文学史」が二冊もあることについて,私の尊敬するある学者は「学問的良心を疑う」と洩らしておられた。この批判もある意味で正当だけれども,川端先生の仕事が現時点のロシア文学研究学徒の指針になっていることは疑いがない。東京大学出版会から出た『ロシア文学史』のリンクも上げておく。残念ながらこれら二冊ともいまは品切れで,古書でしか入手できないようである。ちょうどこの二冊が出たあたりに川端先生の講義を直接聞いた私には,懐かしさが先に立つ。
     

    ロシア文学史


     
    川端香男里 編
    栗原成郎,森安達也,佐藤純一,島田陽,米川哲夫,
    望月哲男,安藤厚,金沢美知子,沼野充義,諫早勇一 他
    東京大学出版会

    帰宅して Yahoo! スポーツ報知配信ニュースを見たら「今年の漢字」が「絆」に決定したそうである。「激」か「絆」かと,先日思いを巡らせたが,やはり「絆」であった。

    このニュースについた Yahoo! コメントをみるといつものとおり面白い。曰く「嘘くさい」,「今の日本は民主・経団連はじめ売国奴ばかりだ!」,「美談に変えたいのか」云々。「絆」の決定に対して否定的な人ばかりである。ま,この人たちは世の中にコミットできないヒマ人・スネ齧りであろう。俺たちが通勤電車のなかでもみくちゃになっている,もしくは顧客の理不尽な要求にひとつひとつ丁寧に申し開きをさせられている時間帯に,揃いも揃ってこのようなバカコメントを悠々とタイプしていやがる。学生か,無職者か,さもなければ孤独な年寄りってわけだ。被災地の人たちがどれだけ日本全国あるいは世界中の人たちの「絆」を必要としているのかを考えないではおれなかった今年の差し迫った状況とは,まったく無縁の人たち。他人の不幸は対岸のなんとやらでしかないらしい。TPP についても産業保護をどうすべきかを考えるよりも前に,外国人が入って来るのが許せないという chauvinism が先に立つシアワセ者である(TPP 関連ニュースに付いたバカコメントを見るがよい)。お前達こそ皇国日本に相応しくない輩だ。

    Yahoo! コメント欄は,コメント上位がいつもこんなバカどもの書き込みに占有されていて,Yahoo! のゴミ溜めになっている(マトモなのが読めそうなのが,唯一スポーツ欄だけなのだ)。2ちゃんねるともども潰してしまったほうが日本国の国益や皇国の品格維持に適うと私は思っているけれども,ま,バカの形振りを見るのは最上の娯楽でもある。そしてもうひとつ。狂言などではバカ役・太郎冠者の登場の仕方が決っている。ここで登場したからにはバカ役だということがわかるように仕立てられている。ま,シャーロック・ホームズに対するワトソン君みたいなものである。Yahoo! コメント欄はまさにこれと同じバカのトポスである。ゆえに,世の中の事象でどう向き合うのが適切なのか迷ったとき,Yahoo! コメントを見て,その逆の方向を模索すればよいと知れるんである。

    古人曰く「バカは死ななきゃ治らない」。
     

    * * *

    妻が角川書店から出ている俳句と短歌の年鑑を買って来た。今年彼女が編集を担当した句集,歌集が「今年の 10 冊」みたいな特集で採用されたらしい。角川書店は俳句・短歌関係ではいま日本でいちばん権威のある出版社である。でも,私なんかは,名が轟いていなくても実のある本を少しずつでも出し続ける小さな出版社が好きである。

    さてさて

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    柏レイソル VS セレッソ大阪の試合を NHK-BS1 で観戦。終盤レイソルは,水野選手(かつては日本代表として期待されたのに,いまやレギュラーですらないのは何でだ?)が右サイドに入って活性化し,同点に追付いてから圧倒的に試合を支配したのに,どうもフォワードがいまいちで決めきれず。柏フォワードの林・田中選手,途中出場なのにゴール前でボーっと突っ立っているばかりで,まったく動きが悪い。結局,1-1 ドローで J1 優勝争いは最終節に持ち越された。レイソル,ホームで勝っておかなけりゃ最終節での優勝はきついぞ。ま,今日のようにドミンゲスとワグネルがなんとかしてくれるさ。柏は,残念ながら,ここぞというときの外国人頼みなんである。優勝してくれよ!
     

    * * *

    出版社に勤務する妻が,いま担当している編集作業で,新字体を旧字体に変えないといけないという。俳句・短歌の世界ではいまだに旧仮名遣いが主流だけど,旧字体にこだわる人は少なくなっているようである。

    そこで「オレのツール使えよ」と misima の ID とパスワードを教えてやった。趣味で拵えたこのツールは,新字体・新仮名遣いテキストを旧字体・旧仮名遣いのそれに機械変換するもので,いまは基本的に自分のためだけのものであり,私は基本的に使わないので,要するにいまは誰も使っていない。妻の実務で役に立つなら,それこそ意味があったというべきである。

    妻は俳句・短歌の本を担当している。原稿はたいてい手書きであって,電子データによる入稿なんてほとんどないようだ。だから私のツールを使うにも,著者からの電子データを期待できず,自分で入力して文字を確認するだけの用途になる。電子入稿の場合は,計算機で文言の統一や文章の校正ができるし,組版スピードもおそらくケタ違いにアップでき,出版経費を落とすことができる。私が LaTeX 本の出版をお手伝いしたとき,訂正稿 LaTeX ファイルをメール送付したら,すぐさま出版社から,イメージセッタに掛けられるトンボ付版下 PDF が確認用に送付されて来て,それを見た妻はびっくりしていた。私なら電子入稿と紙入稿とで著者への支払いに大いなる差別をつけてやるんだけど,この出版社のように短歌・俳句の場合じゃそうもいかないようである。
     

    * * *

    朱川湊人の小説を二冊読む。『わくらば追慕抄』(角川書店,2011 年)と『本日,サービスデー』(光文社,2011 年)。ほぼ一年ぶりの朱川読み。残念ながら,最初に読んだ『かたみ歌』,『わくらば日記』ほどのインパクトはなかった。でも,『本日,サービスデー』のコミカルで心温まる物語は,いつ読んでも退屈しない部類に入る。
     

    わくらば追慕抄 (角川文庫)
    朱川 湊人
    角川書店(角川グループパブリッシング) (2011-09-23)
    * * *

    明日 27 日は大阪府知事・大阪市長ダブル選挙,サッカー W 杯アジア予選ホーム・シリア戦がある。「Yahoo! みんなの政治」の大阪都構想への賛否に関するインターネット投票結果(11.26 17 時ころ)をみると,賛成が他を圧倒している。
     

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    回答者の都道府県がわかっているのなら,大阪府の回答だけによる集計結果も提示すべきではなかろうか,という気がする。そういう集計上の不満は措くとして,この結果が選挙を占う根拠となるなら,橋下さんの維新の会の圧勝ということになる。もちろん,ネット住民には大いなる偏向があるので,選挙結果と見比べてみたいという思いの方が私には強いんだけど。

    それにしても,この投票者の内訳は面白い。支持政党に関して,無党派層が半数以上であり,日本の政党のだらしなさが否応なく読みとれてしまう。日本の政党がいったい誰の利害や思想を代表しているのかまったくわからないのである。また,「正社員」という職業分けには笑ってしまう。「正社員」+「派遣・契約社員」がいわゆる一般の会社員・サラリーマンとすると 36% であり,「会社役員・経営者」+「自営業・自由業」の 34% とほぼ同じ。この数字は果たして日本の社会構造を反映しているのだろうか? 「10 代」の回答者が 0 なのに,「無職」+「その他」が 17% もいる。「自営業・自由業」なんてのも「自称」が多そうであって,そのじつ「無職」に近いのではと私なんかは思ってしまう(それくらい 18% という数値は大き過ぎるように思われるんである)。なんかいびつな回答者層という感じである。ここにも「ネット住民の大いなる偏向」が現われているように思われる。

    さて,選挙結果やいかに。ま,都道府県中で幸福度も,子供の学力も最低の大阪。生活保護者数最多の大阪。なのに,「いまの大阪を壊していいのか」なんてホント暢気なことを言っている現職・平松さんが仮に当選するとなると,私なんかには「世も末」に思われる。一方,橋下さんは「独裁者」と言われ,彼のやり方はファシズムに掛けて「ハシズム」などと揶揄されている。地方自治の独裁なんてなんぼのもんじゃ。警察・軍事権力と結びつかない独裁なら大いに結構である。私は公務員に厳しい政治家が好きである。何でも民営化したがる政治家が好きである。

    吉永南央『萩を揺らす雨』

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    吉永南央『萩を揺らす雨 — 紅雲町珈琲屋こよみ』(文春文庫,2011 年)という,美しい表題の短篇集を読んだ。これは妻が朝日新聞書評で見出した本。

    主人公・杉浦草(そう)が人生最後の事業としてはじめた珈琲と和食器の店「小蔵屋」の日常で起こる物語である。老人の視点から物語が語られ,老い,連れ子への虐待,親子の絆,老いらくの恋心など,現代日本にあって身につまされる問題がテーマになっている。テーマが真面目なんだけど,文章もまた生真面目なのである。吉永南央は私より二つ年下なだけで,決して若い作家というのではないけれども,私は何故か,バブル崩壊後にハッと覚醒しもう一度地道にやり直しはじめたというような,そんな新生日本の若い生真面目さを感じた。衒いや気取りがまったく,どこにもない。ちょっと生真面目過ぎるのもどうかな,なんて思ってしまうくらいである。

    五篇収められているが,表題作の『萩を揺らす雨』が,雨に濡れる老人を視るように,切なくて切なくて,哀しい好篇だった。老いた政治家・大谷が,亡くなったかつての愛人・鈴子の葬儀に幼なじみ・草を遣わし,彼女から鈴子の骨を受けとる。すると彼はそれを食ってしまう。

     大谷の手のひらの白いハンカチに,鈴子の骨片があらわれた。たぶん箸で拾い上げたのと同じ,手の指だろう。[ ... ]
    「かえってそばに置くのが辛ければ,わたしがお寺さんに供養してもらう。どうしようか」
     大谷は強く首を横に振った。そして,誰にも取られまいとするように,鈴子の骨片を口に含んだ。束の間,口元を軽く緩ませると,こもった鈍い音を立ててゆっくりと骨を噛み砕き,飲み込んでしまった。飲み下しきれないのか,数回,たるんだ皮膚をのせた喉仏が上下する。
     一瞬眉をひそめはしても,草はそんな大谷に微笑むしかなかった。骨はどんな味なのだろう。苦い後悔の味か,鈴子の優しさに似た味なのか。草にはわかりようもなかった。
     松葉に雨が滴り,萩の葉には銀色の水滴が散っていた。ジジッと鳴いた蟬が,木から木へ飛び移る。
    「これで,ずっと一緒だ」
    吉永南央『萩を揺らす雨 — 紅雲町珈琲屋こよみ』文春文庫,2011 年,pp. 258-9。

    このくだりはビビッと来る。骨になった鈴子。忘れられない鈴子の骨を食う大谷。秘かに大谷を好いている草。この三者の思いはそれぞれ交わることがないが,この雨の風景のように静かに響き合う。萩は秋の花。なのに銀の雨が潤す夏の嫩い葉に焦点を当てた微妙な季節感のズレが,骨を噛み砕く老人と彼を思う老女を,いよいよものあわれにする。

    作品は老女・草の和装描写でも心憎いものがある。老いてなおも抱く恋心で,着て行く着物を草が選ぶくだりを引用しておく。なんとも味がある。こういう細部の描写を的確にして心憎いと思ってしまう俺ももう年か?

     店の奥が草の自宅になっている。麻の日傘を居間の上がり端に用意して,隣の和室に行く。少しよそゆきにしたくて,さっと紗の博多八寸帯に替えようと,草は姿見の覆いをはね上げ,帯締めを外し,動きやすいヤの字に締めた縞の半幅帯をほどき始めた。長襦袢は着ているので,帯をお太鼓にすればきちんとした印象になる。
     しかし,伊達締めだけになったところで,はたと草は手を止めた。
     — 馬鹿馬鹿しい。
    同書,pp. 209-10。

    このように,本書には和装,和食器の渋い描写が鏤められている。しかもまったくこれ見よがしなところがない。そうはいっても,森茉莉の『ドッキリチャンネル』を読んだあとだからか,ひとつだけひっかかったところがある。蕎麦猪口の「猪口」に「ちょこ」とのルビ(p. 13)。モリマリさんの堅苦しいイビリ声が聞こえる:「最近の若い人は蕎麦猪口を『そばちょこ』なんてしたり顔して読むんだけど,これは『そばぢょく』。将棋は打つのではなく『差す』,弁当は食べるのではなく『使う』。日本語のプロならきちんとしなさい」。
     

     

    お草さんの物語を読んだら,和食器を愛でたくなった。久しぶりに和風創作カップで珈琲をいただく。これは 20 年くらい前に,京都河原町の和食器ショップで見つけて 2 脚買求めたもののひとつ。素焼きのごつごつした手触りに暖かみがあるんである。
     

    20111120-wacup.jpg

    D. Smirnov - Kubla Khan

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    D. Smirnov から,"Kubla Khan, or A Vision in a Dream" を YouTube に公開したとのメールをもらった。『クーブラ・ハーン,あるいは夢の幻影』は S. T. コールリッジの詩。コールリッジは夢で幻影とともに詩が湧き起こり,目覚めたのちにこれを書き取った。その作品がこれという。プレロマン主義時代,詩人はフィクションを生きたようである。詩人は「霊感」に突き動かされていなければならない。詩のテクストとは何の関係もない創作物語がテクストに意味を与えている。

    さてビデオの音楽。作品はヴォーカル,ヴァイオリン,チェロとバヤン(ロシア式アコーディオン)のための室内歌曲である。ドミトリー・スミルノフ,エレーナ・フィルソヴァ,アリッサ・フィルソヴァの三人による共作となっている。 11 月 12 日,ハノーヴァー現代音楽協会コンサートでの初演である。ソフィヤ・グバイドゥーリナに献呈されている。演奏は Simon Bode (Tenor), Elsbeth Moser (Bajan), Grzegorz Kotow (Vln), Reynard Rott (Vlc)。フィリップ・フィルソフによる東洋風絵画がフィーチャされている。

    現代音楽としてはわかり易い,夢幻的な旋律・音響の作品である。アコーディオンとヴァイオリンの重奏部が東洋風の神韻とした雰囲気を醸し出していて,コールリッジの風景があたかもタタールのくびきにあるロシアに変じたような幻を感じる。

    1. The Brocken Vision (D. Smirnov)
    2. The Pleasure Dom (E. Firsova)

    © D. Smirnov

     

    3. Down the Green Hill (D. Smirnov)
    4. The Shadow of the Dome of Pleasure (E. Firsova)
    5. A Damsel with a Dulcimer (A. Filsova)

    © D. Smirnov

    サッカー北朝鮮戦。日本はあっけなく負けてしまった。残念ながら仕事の都合でテレビ観戦できなかった。本田も香川も遠藤も川島もいない布陣では,いくらランキングに大差があるといえども,ダメだったようである。五万の画一的な敵国群集に呑まれたのか。試合そのものを観てないので,ただ残念という感じ。

    でも,最終予選進出という結果を出したのだし,あくまで W 杯で活躍することが最終目標なのだから,その過程でこういう悔しい思いをすることもある。じつはいちばん心配された選手のケガはなかったようだし(北朝鮮の選手は日本戦に敗れるとタダではすまされないので文字通り命を賭けている。日本が先制なんてしちゃったりなんかしたら,念力でも眼力でも腕力でも敵をつぶしにかかる。スポーツが国威発揚の道具になっているガサツ国家の常道である),また出直せばよい。がんばれ日本,なんである。

    11.16 付記:
    日本が超格下の北朝鮮に敗れたと思ったら,韓国もアウェイでレバノンに敗退。何やってんだよ。アジアの強豪なんだから最終予選に必ず進んでもらわないと困るんである。アジア予選のアウェイの恐ろしさ。
     

    * * *

    森茉莉の『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』(ちくま文庫,1994 年)を読む。本書は,1903 年生まれの女流作家による 1979 〜1985 年の芸能エッセイである。森茉莉は,「あの」大作家・森鷗外の長女であり,... と,ま,こういう「親の七光り」的紋切型が必ず付いて回る不幸な作家である。そして結論から言ってしまえば,本書はその不幸がよくわかる本である。「これがあの森鷗外大先生の娘さん,— いやもう婆さんなんだけど,— の本?」てなもんや。

    この本の面白さは皮膚感覚に基づく悪口にある。ここまで己の好き嫌いを徹底し,歯に衣着せず芸能人の悪口を堂々と書く人がいるものだろうか,という驚きだけがじつに新鮮なのである。つまるところ「あいつの顔がキライ」ということを何百頁も滔々と書くことの出来るスゴさ。

    本書はきわめて「難解」な本である。何を言っているのか私は一行も理解できなかった。いや,述べられている俳優,芸人,歌手がどうも誉められている,貶されているというのだけはわかるのだけれども,でもどうして?,そういう評が何を(例えば,近年の舞台演劇の特徴とか)意味しているの?,何のために(例えば,時代劇にこれこれの要素はそれ自体の質的低下を招くことを示したいため,とか)その評が必要なの?,などといった要素がまったく示されず,ただ誉められている,貶されているだけだからである。読みを総合しようとする意志がことごとく裏切られるからである。森茉莉の「皮膚感覚」というしかないんである。要するに「あいつの顔がキライ」という生理の叙述なのである。

     タモリが私との対談を望んでいるそうだ。多分,私の年を知っているからだろう。いかに彼が臆面なしでも私が出たばかりの若くて綺麗な小説家(女)だったら,あれだけ気持ちの悪い顔だと書かれていれば,私の前に出て来る勇気があるわけない。タモリの顔が何故気持ち悪いかについてこの際明確書いておく。人間は誰でも顔の皮膚の下に皮下脂肪があるが,タモリの顔の皮下脂肪はひどく黄色くて,普通の人間の皮下脂肪を練りに練って詰めたようなところがある。顔の皮はかなり厚いのにも係らず,その練った皮下脂肪がよく透き徹って見えるのだ。なんともいえぬ感じなので私は,彼の顔が画面に出るや,スイッチを切り換える。
    森茉莉『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』ちくま文庫,1994 年,p. 167。

    これが小説のような芸術的散文ではなく評論文のような何かを相手に理解させたいテクストであると仮定する場合,こんな難解な文章を私は読んだことがない。何を何のために書いているのか,どうしてそんなことが言えるのか,皆目わからない。そして,昔の作家の特徴である長大なパラグラフが,そうした共有困難な感覚的「エクリチュール」(フランス文学者の好きな,わけのわからない,和臭ぷんぷんの言葉を使わせていただきますが)で満たされているんである。小説テクストと認知できるならばこの言説は「練った皮下脂肪」を「醜い顔」に結びつけることで顔の身体感覚表現ともいうべき印象を「創造する」エクリチュールになるんだろうけれども,ここではタモリという現実的表象が先に出て,書き手の「皮膚感覚」しかインプットされない。強いてここに価値感情のエクリチュールを見出そうとすると,「じつはアンタ,タモリが好きなのね」,ということになるのである。このように「醜い」が「じつは美しい」に化学反応を起こしてくれないと,「文学」じゃねぇよな,と。でも,この文章からでは,それも無理がある。

    モリマリさんの評言は徹頭徹尾この調子である。これを「毒舌」という人があるかも知れない。違う。毒舌とは皆が薄々思っていることをぐさりと言うことの謂いである。モリマリさんの悪口は皆どころか彼女だけの皮膚感覚的空想なのだ。気持ちいいくらいである。も一つ行ってみよう。

     チェリッシュの二人は,白石かずことの対談でも言い,かずこも「そうね」と言ったし,前にも一度書いたと思うが,いくら男は柔しいのがよくて,女は可哀いのがいいと言ったって,チェリッシュの男のいやな柔しさと,女の方のいやな可哀らしさは,なんともかんともいえない,いやさである。
    同書,p. 300。

    これがテクストの全部である。チェリッシュは,ご存知の方もおられようが,男女二人組の歌手である。ま,歌手だって声の技以外に「見た目」も大切なんだけど,ここではその藝については一言も触れられず,理由のよくわからない「柔しさ」とか「可哀らしさ」が出て来たり,またなんで「いやな」それなのかも何も提示がない。これを読んで「なるほどわかった」という人がいたら,スゴい。私には前衛現代詩のように難解である。いや,エクリチュールとして読みとれることが一つある。「白石かずこも私のような人なのよ」ということである。つまり,ここで化学反応の結果出て来るのは,じつは「白石かずこもどうも理解を超えた人である」ということなんである。こういう悪口の書き方もあるのか!

    解説者のお説を聞いてみよう。編者の中野翠氏によるものである。『たしかな好悪の精神』とのタイトル。「たしかな」ってどういう意味だったっけ? 上記のような前衛的難解さの謂いだったのだろうか。これもよくわかりません。「好悪」はまさに「皮膚感覚」ということなんだろう。中野翠氏曰く:

     また,当時の大平正芳首相をけなすのに,
    「権勢の保持と利慾にしか頭が働かない人物で,顔と来たら又,農家のおやじで,(今夜は地主どんの家で酒と馳走が出るが,あまり早く行っても物欲しそうじゃから一寸遅れて行こうわい)と言って出かける感じだ」— と,こうである。私自身は大平氏の器量に関していささか違った印象を持っているが,このくだりは,何度読んでも笑ってしまう。異論はあっても,この「悪態の芸術的完成度」には唸ってしまうのだ。
    同書,p. 372。

    やはり前衛がわかる人らしい。「芸術的完成度」って何でもって計量しているのだろうか。突飛な空想が面白いということらしいが,現実に存在している人間を捉まえて為したこんな空想的な物語のどこに「芸術」があるというのか。フィクションで「その感じ」の化学反応を読者にまざまざと起こさせるのが芸術ではないのか。私には週刊誌的低俗(有名人に対して空想を逞しゅうするのは低俗週刊誌のエクリチュールである)としか思われない大平正芳・人物像物語を,中野氏は何故に「芸術」と勘違いできるのか。ま,「戯画」も芸術の一つではあるが,われわれの「大平正芳」の表象に一致しているのが絵のキャプションにある「大平正芳」という文字列に過ぎないとしたら,それは「戯画」だろうか? 中野氏は,私には理解不能の難解な文学がわかる,すばらしい読み手である。

    私には本書はその難解ゆえにこそいたく面白かった。週刊誌のゴシップを読む感じで面白かった。そしてこれを「芸術」だと評する文学の専門家がいることが,さらにいたく面白かった。つまり「皮膚感覚」を臆面なく書き散らすことのできる個性と,「芸術」精神とに心底驚かされたのである。私なんかにはこんな難解な文章は「恥ずかしくて」とても書けないんだけど,森茉莉はどうしてそれをできるのか。そこが本書のスゴさである。ちょっと,容姿衰えた大年増女優が映画で大胆なヌードを披露してくれたときに覚えるような,「これ,どう受けとめたらイイの?」的驚き・わからなさ・前衛性がある。そう,最近の流行言葉で言えば,「ドンビキ」してしまうくらいの。

    「これがあの森鷗外大先生の娘さん,— いやもう婆さんなんだけど,— の本?」— といま再び考えて,理解出来た。本書は『週刊新潮』に連載されたエッセイである。あの森鷗外大先生のおフランス至上主義的令嬢 — いやもう婆さんなんだけど — がなんといかがわしい週刊誌にお書きになったらしいざぁますよ。これが『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』のエクリチュールである。「低俗」もバックにある「権威」によって「芸術」に反転することがあるというエクリチュール。も一つ,私のホンネとして言うと,これこそ文化人の「老い」がもたらす臆面のなさだと思う。老人が死ぬ前に,他人のことを思いやることなく,いっぺん思いを吐き出しておきたい,ということだろうと。老人とはそもそも短気で身勝手でわがままではないか(「老いて悠々たり」なんてウソである)。自分の感覚が世界の抱く表象だと思って疑うことがない。

    森茉莉は沢田研二,萩原健一,桃井かおりがお気に入りだったようである。忍者ハットリ君のファンでもあったらしい。私も映画のなかのこの三人の味が好きである。ジュリー,ショーケンと来りゃ,松田優作についても是非モリマリさんの皮膚感覚の前衛評が聞きたかったところである。パンと牛乳を飲み食いしながら女と性交できる,松田優作のあのぶっとんだ芸風が私は大好きなんである(「なんじゃこりゃー」ではなくて)。お,これこそ森茉莉風・松田優作評か。

    P.S.
    言わずともお察しだと思うが,だから私は森茉莉の『ドッキリチャンネル』が好きなのである。この人,元祖ブロガーと言ってもよい。まったく根拠無しに好き勝手なことが言えるブロガー。私自身,大いに親近感を覚えるんである(とてもモリマリさんには適わないけれども)。でも,これで彼女は金を出版社から受け取っていたわけだ。と,むずむずと怒りが込み上げて来るのは私だけか。
     

    佐藤優『はじめての宗教論』

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    佐藤優は目下のジャーナリズムの寵児である。彼は元外務省分析官で,もっぱらロシア外交に携わり鈴木宗男とともに北方領土問題の解決に尽力した。それよりもなによりも,彼は 2002 年に背任容疑で逮捕され,先頃有罪が確定した人として世間に知られている。佐藤優は,本を読まずにテレビばかり観ている人にはただの「犯罪者」でしかないが,マスコミ報道に疑問を持つ者,世界を理解しようとするにまずは書籍を頼む者にとっては,日本人に数少ない最高の行動的知識人のひとりである。

    私はかつて彼の『国家の罠』,『自壊する帝国』について記事を書いた。宗教論について書かれた『はじめての宗教論』二冊(右巻:2009,左巻:2011)こそ,思うに,佐藤の人となりの深いところを示し,かつその人間精神のあり方でもって感動を与える書物になっている。私は 2009 年末に右巻が出版されてすぐ読んだ。左巻がその後なかなか出て来ないので,どうしたのかと思っていたら今年の 1 月にようやく出た。ちょっと思うところがあり,遅まきながら本書をここでも取上げたい。

    宗教論のみならず,佐藤の哲学・文学についての言説の特徴は,これらが生きて行く上で「役に立つ」ということを誰憚りなく主張し,現代の日本・世界の政治情勢の分析において具体的に適用している点である。私は大学でロシア文学を先攻した。これについては自分が世の中の余計者の系譜にあると自認している。卒業後は喰うために情報処理技術者となった。仕事は他人と生活との役に立つ社会的行動(公),文学はまったく役に立たない,他人の知らない私の内面世界(私) — こういう相互関係のない公私の割り切りをして来た。文学のブの字も出ない職場に 20 年以上いるとこうなる。世の中には人文科学を無用の長物と見下すバカがゴマンといる。よってもって,文学・哲学・宗教学について「役に立つ」などと人前で本気で語る人をはじめて見て,非常に驚いたのである。

    本書は「見えない世界」について考察する宗教学が何故に生き続けているのか,それが現代においてどういう意味を持つのかを,「学」としての基礎知識とともに,示してくれる。彼の宗旨であるプロテスタント神学の観点からという前置きがあるにせよ,これによって,「見えない世界」を見えるようにするための基礎訓練とでもいうような仕上がりになっている。右巻は,宗教と人間社会・政治・国家との関わり,罪,霊魂の問題について,左巻は,宗教とナショナリズムについて述べている。

    本書で私がもっとも感銘を受けたのが「道徳」と「倫理」の問題である。「殺す勿れ」は道徳の範疇である。末期ガンで苦しむ患者を,もはや尽くす手がなくなったとき安楽死させるべきかどうかについて悩むとき,人は倫理の問題に踏み込む。「殺す勿れ」の道徳はこういう当の抜差しならない状況において問題解決の役に立たない。道徳は善悪の一般的基準である。そして,倫理とは個別具体的な状況での決断である,というようなことが書かれている。私はそこで述べられたエピソードにいたく感銘を受けたので,長文ではあるが引用しておきたい。

     こんな例があります。私はかつてロシアで外交官として大使館に勤務するかたわら,週一回,モスクワ国立大学哲学部宗教史宗教哲学科(旧科学的無神論学科)で宗教論の講義をしていました。あるとき,アフガニスタンへの従軍経験がある学生アルベルト君から,次のような質問を受けたことがあります。
    「アフガニスタンのゲリラにソ連兵が捕まると,目をくりぬかれ,鼻をそぎ落とされ,両手両足を切り取られ,芋虫のようにされて放置され,殺されます。山岳部でソ連兵がゲリラに拘束されそうになり,救出できる見込みがないときには武装ヘリコプターを飛ばして,友軍傷兵を皆殺しにしました。それが戦友を苦しみから救う唯一の手段だと思ったからです。サトウ先生,キリスト教神学倫理の立場からこの対応は正しいと言えますか?」
     アルベルト君は私を困らせようとしてこの質問をしたわけではありません。この質問に対して,「アフガニスタンに侵攻したソ連軍が悪い」と非難しても問題の解決にはなりません。アルベルト君は自ら手を上げてアフガニスタンへ行ったのではなく,徴兵されて戦地に送られたに過ぎないからです。ソ連がアフガニスタンから撤退した後,帰還兵には大学の特別枠が設けられ,アルベルト君は戦場での体験を心の中で整理するために宗教を学ぶことにしたのだといいます。
     私は「戦友をヘリコプターで射殺したのは状況倫理として認められる」と答えた上で,こう質問しました。
    「その後,君たちは何をやったのか」
    「ソ連兵を拘束しようとした者がいた村に掃討作戦を行いました」[ 後略 ]
    佐藤優『はじめての宗教論』右巻,NHK 出版,2009, pp. 243--4。

    「殺す勿れ」は原則であるが,個別具体的状況に直面すると苦しい決断の果てに「殺さなければならないときがある」。これが正しいかどうかはわからない。「倫理として認められる」のみである。しかし,ここには「道徳」と「倫理」について誠実に考える姿がある。タローとジローを生きたまま地獄の南極に置き去りにした『南極物語』の隊員の行動は正しかったのだろうか。そもそもこの処置は悩み抜いた末の「決断」だったのだろうか? しばらくして隊員が南極を再度訪れたとき信じられないことにタローとジローが生きていた,ということに感動の焦点を置くわれわれ日本人は,この観点が欠如しているのではないか。これが「優しい日本人」ということなのだろうか? おそらく『南極物語』を「美談」と捉えるのは,日本人だけではないだろうか。政治学者・丸山眞男は,福沢諭吉を高く評価し,ある既成観念に応じた判断(福沢の言う「惑溺」)ではなく,具体的事案の状況に即してその都度善し悪しを評価し次の行動を決して行く動的な態度を主張した。佐藤優の「道徳」と「倫理」の問題は,丸山の「既成観念に応じた判断」と「状況に即した動的態度」との関係に似ている。いずれにせよ,私は一般論(道徳,既成観念)にしがみつく奴の言うことは信じないことにしている。個別的事情の凝視とその都度の動的判断 — 丸山と佐藤の教えるところだと思っている。

    佐藤はこの倫理の問題から多様性と寛容の立場を抽象して来る。

    個別的な出来事には必ず差異があります。そこで,自分とは異なるものをいかに認めるかという,寛容・非寛容の問題とつながってくるわけです。類型的な見方とは多元主義なので,必然的に寛容性が出てくる。それに対して,具体的な実体から離れたところに抽象的な絶対の真理を立てることはキリスト教では禁じられています。絶対の真理は神にしか立てられません。
    同書, pp. 245。

    世の中にはいろんな考え方があり(多様性),場合によっては鋭く対立し共存が相容れないように思われることがある。それでも,お互いを尊重し(寛容性),「正しい/正しくない」に固執せず(何故ならその絶対的真理は「神のみぞ知る」だからだ),「個別倫理として認める」姿勢が必要だ — と佐藤は述べているのである。日本人は「二分法」的(「売国奴」かそうでないか云々というような)あるいは,個的特性を全体に適用する「十把一絡・一事が万事」的(ある韓国人によるレイプ殺人報道をみて韓国人全体が性嗜好の欠陥を持っているとするような)超絶論理学を主張する奴があまりに多い。そういう意味で,ユニバーサルな(グローバルではない)立場をリベラリズムではなく宗教論に基づいて説いてくれる佐藤のような知識人は,たいへん奇特な存在である。
     

    * * *

    TPP 問題がいま大きく取上げられ,民主党,自民党のそれぞれの党内でも統一的立場を決めかねている。JA など農業関連団体はモーレツに反対運動を繰り広げている。極めて考え深い韓国政府は,あらゆる製品において制限が撤廃されるであろう TPP を嫌って,保護すべき製品を除外できる余地のある米韓 FTA に踏み切ろうとしている。もし韓国が米韓 FTA を批准したとしたら,日本は米国との貿易において決定的に韓国に敗北し,日本製品の国際競争力はさらに角度を増して低下するのは目に見えている。ここで,日本は大きな決断を迫られている。日米安保条約批准と同じくらいの。菅首相が「第二の開国」と評したのも充分納得できる,それくらいのインパクトがある。野田首相は TPP 参加に前向きである。

    この状況に対して,佐藤優はラジオで面白いことを言っていた。TPP は中国包囲網としての環太平洋諸国による「経済ブロック」の実現であるというのだ。なぜなら,自由貿易の枠組み自体は WTO というものがすでにあり,それに各国が準拠してゆけばよいからである。またぞろわざわざ自由貿易圏を環太平洋諸国間で作ろうというのには,ブロック経済という帝国主義的思惑がある。これで中国を圏外に追い出して貿易の国益を中国以外の国々で山分けしようという魂胆。野田首相の前向き発言のおかげで,プーチンが同じ中国包囲網であるユーラシア経済圏をぶち上げた,北朝鮮が中国偏重をやめロシアに目を向けるとともに日本にラブコールを送りはじめた,という佐藤の指摘は意味深長である。へえ,というしかない。こんな見方があるんだと感心した。日米安保条約が軍事的安全保障上の戦略だとすれば,TPP は米国との経済的同盟関係,つまり保護主義的にツルむということ。日本国民は関税の掛かった中国製品と,無関税の安い米国製品とでどちらを買うか。米国国民は関税の掛かった中国製品と,無関税で比較的安くなった質の高い日本製品とでどちらを買うか。少なくとも中国製品の魅力はいまよりも確実に低下する。

    TPP で関税のみならず資本・人的資源の往来も自由化されれば,競争力の弱い産業はたちどころに壊滅するのは当たり前である。その筆頭である農業団体はもとより,外国資本・労働者がより日本に入って来やすくなるとして,排外主義的右翼は猛反発している。医療サービスそのものも対象になるとなると既得権益を確保できなくなるので,医療団体も猛反対している。しかし,この経済圏から日本が締め出されたら,これこそ日本全体の首が締まる。私個人は TPP に前向きな野田総理を支持します。ま,例によって小田原評定の政府だから,当分は決まらないだろう。こうして日本の国際競争力は知らないうちにいつの間にやら「お前はもう死んでいる」ということになりそうである。

    国芳

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    歌川国芳の画集を古書で入手した。古書といっても,今夏に没後 150 周年を記念して開催された回顧展のカタログ『破天荒の浮世絵師 歌川国芳』(NHK プロモーション制作,2011 年)である。

    国芳は幕末の動乱期を生きた。洋の東西を問わず動乱期の藝術は,既成の価値観が動揺し,文化史的にマニエリスム的な傾向を帯びるものだが,国芳の場合も,アルチンボルド風騙し絵あり,オランダ絵画に倣った風景画あり,と伝統的な浮世絵師の概念から大きく逸脱する作品も残している。絵の題材の厳しい制約 — 当時,天保の改革以降,芝居役者を描くことは禁じられていた — をかい潜るために,落書き風に描いた変った絵もあり,現代ならさしづめ「ヘタウマ」路線のような試みまでしている。それゆえに「破天荒」なる形容が相応しい絵師のひとりになっている。彼は猫をたいそう可愛がったそうで,猫が登場する戯画をたくさん描いている。

    彼の作品の最高峰は武者絵と妖怪画だろう。伝奇物語に取材したダイナミックな構図と色彩は,現代クリエイターの関心をも惹き付けて止まないものがある。侍が巨大な骸骨と対決する妖怪画『相馬の古内裏』はなかでも有名で,私も江戸絵画でもっとも好きな作品のひとつである。国芳展の情報がアンテナに引っかからず,実物を拝めなかったのがつくづく残念である。さしあたりこの画集を眺めて楽しもう。
     

    20111026-kuniyosi-1.jpg国芳画集カバー
    20111026-kuniyosi-2.jpg相馬の古内裏
    20111026-kuniyosi-3.jpg見立東海道五拾三次 岡部 猫石の由来
    20111026-kuniyosi-4.jpg荷宝蔵壁のむだ書
    20111026-kuniyosi-5.jpg二尾の猫絵

    Kurt Weill, Arnold Schönberg - Lieder

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    Dmitri Smirnov による芭蕉句ロシア語翻訳のための註解作業をしながら,クルト・ワイルとアーノルト・シェーンベルクの声楽を聴いた。フランスのシャンソンのあとは,ドイツの 20 世紀のリートが聴きたくなったのである。どちらも大学のころから聴いて来たアナログ・レコードである。

    1982 年に米国ノンサッチ・レーベルから出たクルト・ワイル歌曲集 "The Unkown Kurt Weill"(『知られざるクルト・ワイル』)は 1920 – 40 年代に作曲された 14 の歌曲を収録している。ソプラノは,ベルクのオペラ『ルル』などのエキセントリックな役所で一級の演技を披露した歌手,テレサ・ストラータスである。

    ワイルは,なによりベルトルト・ブレヒトと組んだ音楽劇『三文オペラ』(1928 年)で有名である。クラシック音楽の作曲家というよりも,ミュージカルや大衆的歌曲こそが本領であった。もちろんチェロ・ソナタなどの佳作も残している。1930 年代を生きた優れたユダヤ人藝術家の運命の多くの例に漏れず,彼も 1933 年パリに亡命,その後米国に渡り 1950 年ニューヨークで没した。

    この歌曲集のレコードは,「クラシック音楽」のジャンル付けをされているけれども,大衆音楽というほうがよい。第一次大戦による荒廃,共産主義と民族主義との闘争,ナチスの台頭という騒擾時代の,一般大衆の手の届く音楽。思うに,20 世紀音楽の大きな特徴は,高級なクラシック音楽と大衆音楽との境界が著しく掻き乱されたところにあり,クルト・ワイルはちょうど両者を激しく往来した作曲家である。「正直に言うわ,あの夜 あたしは進んであなたに身をまかせた [...] わたしの顔を見て,ねえ見てってば!」(ワルター・メーリング詞『もうあとどれだけ?』)のような壊れた愛のラブソングあり,「俺が食卓で坐ってミートボールを食っていると 突然ノックの音がした [...] そとに立ってたのは誰だと思う? 俺だ,俺だ,この俺だったよ」(ベルリン民謡『ミートボールの歌』。言わずともわかるだろうけど,ミートボールってのはキンタマのことである)のような笑劇的怪奇民謡あり,「セーヌの川底には金が沈んでいる,[...] セーヌの川底には死が横たわっている......」(モーリス・マーグル詞『セーヌ河哀歌』)のような都市文明の慨嘆あり,大衆的趣味とともに鋭い時代批判精神も認められる。声もベルカントというよりも,絶叫まで繰り出して来て音楽劇に近い趣きがあり,新しいリートの試みともいえるんである。このどこかガサツさ漂う大衆性が私には堪らない魅力なのである。

    第一曲目の『ナナの歌』はブレヒトの作詞。ワイルはこの曲を妻・レーニャへのクリスマス・プレゼントとして書いたそうである。

    紳士の皆さん,私は十七の時
    愛を売る市場に出るようになり
    そこからいろんな経験を積みました
    悪いことも沢山知ったけど
    それはみんなゲームだったわ


    それにしても,妻への捧げものが娼婦の歌だなんて,ワイルは相当にこだわりのない人だったようである。
     

    Unknown Songs
    T. Stratas (Soprano)
    R. Woitach (Pf)
    Nonesuch (1995-11-10)
     

    シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』は,20 世紀音楽の傑作のひとつに数えられている。声楽パートは「シュプレッヒシュティンメ」というしゃべるような歌唱によって歌われる。アルベール・ジローによる夜の狂気と死臭に満ちた歌詞と相俟って,第一次世界大戦前後の頽廃的時代の最高の音楽的表現になっている。このドイツ表現主義と言われる藝術思潮は,思うに,世紀末の耽美的ロマン趣味が戦争の銃弾に打ち抜かれ火傷を負い,その傷が腐敗したような病んだ姿をした,そんな頽廃である。これこそが現代人に相応しい頽廃である。

    今日はイヴォンヌ・ミントンのシュプレッヒシュティンメ,ピエール・ブレーズの指揮,ピンカス・ズーカーマン,ダニエル・バレンボイムほかの名手たちによる盤を聴いた。これは,流れるように麗しく,端正な造形で,この曲の名盤のひとつになっていると思う。一方でドイツ表現主義の腐ったような頽廃の味は少し殺がれている。こちらの味を求めたい方には,ヘルガ・ピラルツィクの朗唱とドメーヌ・ミュジカル・アンサンブルの演奏による盤を強くお勧めする。ベルリンの場末のキャバレーで娼婦に,耳元で卑猥な冗談を囁かれ,耳を咬まれる,そんな気分に浸ることが出来る。もう廃盤のはずなので,中古レコード屋で探してください。
     

    Schoenberg: Pierrot lunaire - Lied der Waldtaube
    J. Norman, I. Minton (Soprano)
    P. Boulez (Dir), BBC, et al
    Sony (1993-07-15)
     

    20111023-weill-schoenberg.jpg

    Cora Vaucaire, Récital en Japon, 1980.

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    会社から帰宅して,コラ・ヴォケールを聴いて,先日亡くなった彼女を偲ぶ。1980 年に初来日した際の,草月ホールでのリサイタルのライヴ録音。Cora Vaucaire, Récital - Enregistrement Public à Sogetsu-Hall。彼女による枯葉こそオリジナルといえる,ジャック・プレヴェールの詞になる名曲『枯葉 Les Feuilles mortes』,『桜んぼの実る頃 Le Temps des cerises』など,彼女の定番の 12 曲を収録している。レシタルのすぐあとにフィリップスから出たアナログ・レコードである。残念ながら廃盤で CD の再発売もならず,もう入手することは適わない。これは彼女のファンである妻が大学のころに買ったもの。伴奏をジャン・ピエール・レミ(ピアノ),鈴木秀美(チェロ)が担当している。鈴木秀美はいまやバロック・チェロのエキスパートですね。

    いまの日本には,シャンソンのファンは数少なくなったんだろうけど,確実に,したたかに存在しているはずである。30 年前のこの盤に耳を傾けると,米国ポップスのふやけた輸入品のような JPOP の浅ましさ・見かけ倒しとは無縁の,粋な知性と衷心さが,いまにして身に沁みる。1980 年当時にしてコラ・ヴォケールはすでに 62 歳。それでも,「人生の数だけドラマがあり,愛の数だけシャンソンがある」なんてことを心の底から謳うのである。

    C'est une chanson
    Qui nous ressemble
    Toi tu m'aimais
    Et je t'aimais
    Les Feuilles mortes
      それは私たちふたりに
      似た歌
      あなたは私を愛し
      私はあなたを愛した
    『枯葉』中村敬子訳

    こんなシンプルな愛の表現はいまやリアリティを失い,もはや「時代遅れ」としか理解されない。ところが老いたコラ・ヴォケールの声にかかると,セピアな恋の時代に心地よく逆行できる。年とともに藝に磨きがかかるという真実。越路吹雪や加藤登紀子によるコラ・ヴォケール・ナンバーのカバーも忘れられない味があった。

    モンマルトル。サン・ジェルマン・デ・プレ。恋する詩人たち。「ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ / われらの戀が流れる / わたしは思ひ出す / 惱みのあとには樂しみが來ると / 日も暮れよ 鐘も鳴れ / 月日は流れ わたしは殘る」(アポリネール,堀口大學訳)。場末のシャンソン。「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と朔太郎が歌った憧れのフランス。
     

    20111020-vaucaire.jpg
     

    * * *

    注文していた『公式フェラーリ F1 コレクション 2011年 10/26号』が届いた。F1 グランプリの思い出に浸ったはずみで,ネット発注してしまったのである。このシリーズはアシェット・コレクションズ・ジャパンが隔週で発行する歴代フェラーリ F1 のコレクションで,先頃創刊されたばかりである。1/43 スケールのミニチュアが付いている。この号は,1990 年にアラン・プロストがドライブした Ferrari 641/F1-90 である。詳細な解説付で 1990 円というこのコレクションの価格は,1/43 ミニカーが通常 4 〜 6 千円することを鑑みると,魅力的ではなかろうか。とはいえ,シリーズ全部を取り寄せるとお金がいくらあっても足りないので,私はこれはと思う 1970 年代のフェラーリの号だけを選択的に集めようと目論んでいる。

    書斎机のマックの横にミニカーを飾ったら,「子供みたい」と妻に笑われた。「いいでしょ,子供なんだから」。ホント,そうなんだから仕方ない。なかなか精巧である。Ferrari 641/F1-90 を,これだけはと思って購入した Ferrari 312T4(ジョディ・シェクターが運転して優勝した 1979 年モナコ・グランプリ仕様)と並べて,いま子供のようなプチ喜びに浸っております。でも,これが 3 台,4 台と増えて行くと置き場所に困るなあ,なんてふと思うくらいだから,後の号は買い忘れてしまうかも知れない。
     

    20111020-minicars.jpg
     

    公式フェラーリF1コレクション 2011年 10/26号 [分冊百科]
    Ferrari 641/F1-90, A. Prost, 1990.
    アシェット・コレクションズ・ジャパン (2011-10-12)

    デニス・リッチー死去

    |

    先日スティーブ・ジョブズの死去がトップニュースで報道され,大きな話題になった。確かに,アップルの今後の動向は IT 業界に大きな影響を与えるので,当然の扱いである。今日,デニス・リッチー死去のニュースがひっそりと掲載されていた

    でも,私のような 1980 年代に計算機の素養を身に付けた者にとっては,デニス・リッチーのほうがスティーブ・ジョブズよりも,遥かに,何倍も,圧倒的に,ネームバリューが高いのではないだろうか。ブライアン・カーニハン,ケン・トンプソンなどとともに,デニス・リッチーの業績は,Programming language C,UNIX という,現代の計算機基盤の創造と直接に結びついているからである。スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツが「ビジネス」にして大成功した,その礎を築いたのが彼らだからである。

    私にとって,デニス・リッチーは計算機「文化」の生けるレジェンドであった。彼の名著『プログラミング言語 C』に,どれだけ多くの人が C の文法のみならず「プログラミング書法」というものを教えられただろうか。私はこの本を読んで,プログラミングは間違いなく文化表現たりうるという確信をもったものだった(この本についてはここに記した)。そのレジェンドがとうとう歴史のなかに移行しようとしている。私には,敬愛する大作家が亡くなったような,そんな感慨がある。

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