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先日,とある大学の先生とメールのやりとりをした。misima について丁寧な文面でお礼をいただき,私は嬉しかった。彼は「最近の大学生はまったく本を読まない」とこぼしていた。だから旧字・旧仮名遣いの文章で少しは学生の関心を惹きたい,と。「だとしたら,そんなバカ学生は旧字・旧仮名遣いという見た目にしか目を止めませんよ」とは言えなかった。教育者としての先生の真面目な工夫に私は感心したからである。

私は会社員なので,新入社員の知力には注意を払っているが,学生の読書量については昔と比べてあんまり変わらないのではと思っていた。というか,同僚は皆,理科である。その学生時代の読書傾向にも偏りがある。そもそも,一般の学生の傾向を新入社員から推し測るには無理がある。同僚達は,本の話題はコンピュータ関連図書ばかりで,しかも強烈な飛ばし読みをする。理科の人は結論の書いてあるところを探して読む習性があり,しかも図面やグラフ,数式だけで論のだいたいを理解する能力を備えていて,文系の私は驚かされる。知識の習得を特殊なパターン認識能力でもって行っていると,私などには見受けられる。つまり「読む行為」は二次的のようなのだ。とはいえ,この行為だって,図面や数式と文章とを相互作用させて理解を確実なものにしている訳で,やはり活字のトレース要素は無視できない。

「まったく〜ない」という表現は幅がじつに広いので,私は先生のボヤキがピンと来なかったのだけど,うちのガキどもの活字ギライをみても,最近の学生はホントに纏まった文章をまったく読まないのではないかと心配になる。「本を読まない・読めないヤツが大学なんて行くんじゃねえ」と私は叱り飛ばしている。子供達は,携帯メールでブツブツ断片的なことばを送り合い,「空気を読み」合っている。そして,ふとした文言で根拠のないキレ方をする。「空気」に犯されたのである。まったく悪意が「読み取れない」のに。このように,携帯メールのこの時代,纏まった文章で論理的に意思疎通を図るようなコミュニケーション,思想の伝達は,いまの若い人には望めなくなってしまったのだろうか。「携帯をもったサル」というような表現をどこかで目にしたが,携帯電話が低能児養成ツールになってしまっている現実を認めざるを得ない。義務教育にある子供にはその所持を禁止すべきだと私は真面目に思う。

子供達は,人が何を言っているかという論理ではなく,視覚的要素で人を分類する癖がある。「この人,うちのクラブのXX先輩に似ている」云々。人物評は「〜に似ている」しか思いつかないらしいのだ。そういうとき,私は「だからなんだ。人を見た目で極め付けるな」と叱る。「極め付けてる訳じゃないよ」---「『似ている』と表現すること自体,薄っぺらい価値観を貼付けていることに,お前は自分で気づいていないだけだ。見た目で判断するなら,少なくとも『あの目つきは他人を軽んじるタイプだ』くらいの観察がほしいね」。でも,どうもこの傾向は,近頃の若者全般に及ぶような気がしてならない。ネットをうろついていても,「戸田恵梨香似の女」といった,人の素描のじつに貧しい舌足らずの表現にぶち当たらない日はない。このように,何かの論理ではなく視覚的印象で軽率に人物を類型化する傾向は,思うに,ことばの論理に鍛えられていない証拠である。

Web で伝えたいことをきちんと書いても,おそらく 3 行以上のパラグラフになると,もう読まれないのではないか。Twitter というのが流行っているそうである。「つぶやき」くらいの量でないと,もはや読んでもらえない。そういう時代だということか。

山口椿という作家をご存知か。エロティスムの画家にして作家。チェロもよくする趣味人である。この『ロベルトは今夜』は,祥伝社文庫が「山口椿エロティシズム・コレクション」の一冊として刊行したものである。著者自身によるカバー画と挿絵で彩られ,なおかつ半透明の硼酸紙による帯にくるまれ,文庫本としてはなかなか洒落ている。

本書は,連作短編『罌粟のように Les Coquelicots』と二つの戯曲『薔薇と夜鶯 Rosent et Merleuse』,『ロベルトは今夜 Roberte ce Soir』から成る。これらは,西欧の淫微なエロスの伝統に一度は嵌ったことのある者にとっては,「ああ,これこれ!」式の紋切型であるがゆえにこそ,堪らない蠱惑を湛えた官能文学なのである。要するに「エロ文学」。そういう意味では,大衆文学の一大ジャンル・官能小説と変わりがない。

ここで直ちに,大衆官能小説と山口椿作品との違いは何か,との疑問が起こる。というのも,前者が,ほぼスケベ・オヤジで占められる読者たちが暇潰しに楽しむ,機能的にはエロ・グラビア週刊誌,アダルトビデオとさほど変わらない「興奮道具」であるのに対し,後者は,まぎれもなく「趣味と教養ある大人」のための頽廃美を装い,どうも知的で若い女性(そうそう,女子大学生など)が堂々と読むべき気品と風格とを備えている --- らしいからである。現に,この文庫本の解説を書いているのはファッション・エッセイストの光野桃である。このことこそ,若い「ファッショナブルな」女性の趣味を代表している証左といってよい。なぜ同じ「エロ」で,こんなことが起きるのか。

文庫の帯文には,光野桃の『エレ・マニ日記』からの一文が引かれている。

時代物から精神病理学,デカダンの香り高い幻想潭まで,山口椿の知識と趣味は広大な地平を持っているのである。不倫小説が流行し,貧しい官能と,肉体のない男女の絡みが横行しているこの世紀末,素人臭い性の世界にはもう,うんざりだと思う。
山口椿『ロベルトは今夜』祥伝社文庫,1999 年,光野桃による帯文より。

「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」でしかない不倫小説=大衆官能小説がコキ下ろされている訳である。でも,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」とはいったいどういうことか。この帯文からだけでは判断しようがなく,光野桃『エレ・マニ日記』そのものを読まないといけないのだけれど,どうもきちんとした定義ができるとは思われない曖昧な表現である。要するに,山口椿作品の「知識と趣味」こそが大衆官能小説との決定的な違いだ,というのが光野の意見だと読みとってよいだろう。ここがスケベ・オヤジと知的な若い女性との読者趣味を截然と分断する,という訳だ。

そう,「知識と趣味」。欧州の「香り高い」頽廃趣味と文学的・精神病理学的ハイブロウは,確かに山口椿作品に横溢している。要するに,光野は山口椿作品が「高尚なエロティスム」であり,大衆官能小説の下劣な「素人臭い性の世界」とは違う,とでも言いたいのだろう。しかしながら,山口椿作品において言及されるこれら特性 --- シャルル・ボードレール,オスカー・ワイルド,ポール・クロソウスキー,ピエール・ド・マンディアルグ,アンリ・バルビュス,マルキ・ド・サド,ジークムント・フロイトなどなどの名前は,西欧のエロティック文学の聖化されたオーソリティであり,糞尿とサディズムに充ちたポルノグラフィの嗜好も,ジョルジュ・バタイユをはじめとする「悪の文学」の論客によって理論的筋道を付けられて久しい,いまや安心できる「伝統」であり,新機軸が纏う危険性はどこにもない。

[ ... ] そして,あの性臭が,濃い霧のように,ロベルトの下半身を掩ってくる。
 それは,いささか忌まわしげな匂いだった。
 [ ... ]
 その匂いは,とても高価な香水,たとえばゲランや,コティのあるものによく似ている。
 それは,注意深く嗅いでみると,微かに糞便の匂いが入りまじったものだ ......
同書『ロベルトは今夜』,pp. 184--5.

糞便と香水という「性臭」の陰湿な取り合わせは,現実のあの匂いを現代の知性によって精密化した表現であるというよりもむしろ,バタイユによって定式化され,そのことによって解毒された,十九世紀末以来の頽廃文学の伝統的「紋切型」なのである。こうして,現代的リアリティから遠いという点では,山口椿作品のエロスは,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」たる大衆官能小説と本質的にはあまり変わらない。権威付けられた頽廃なんて,「頽廃」だろうか? 名辞矛盾というものではなかろうか? 光野さん,西欧の「高尚」な伝統の雰囲気に騙されていませんか? 権威付けられた頽廃美にただ感心しているだけではありませんか? 日本の女性は,かつて,神代辰巳監督の日活ロマンポルノには眉を顰めながら,一方でおフランス製 un cinéma pornographique『エマニュエル夫人』の上映には映画館に列をなして恥じなかった,そういう不思議な習性がある。イヤらしさの本質はどっちも同じだっちゅうの。

山口椿と大衆官能小説作家の「エロ」そのものには何の違いもない。光野のいわゆる「知識と趣味」の味付けによって山口椿作品がハイブロウにみえるだけである。山口椿作品の美点は,じつはその「権威付けられた頽廃」,すなわち西欧的エロスの紋切型が,やはり堪らない魅力を失なっていないということにこそあるのだ。ただのスケベが日本人でなく西欧人に関係しているならサマになるという美学が,西欧崇拝の伝統化した日本人にはある。山口椿はそれを意図的に操っているからこそ,一種独特の読ませる作家になっているのである。作品中にフロイトほか,先に挙げたオーソリティの名前が不必要に言及されていること --- これがパロディー的感性による構成上の意図的寄り道であることは明らかである。その西欧文学ぶりの本質はパロディーにある訳だ。

日本人が西洋の美少女の透き通るような白い肌(「白い裸身の仄青い翳だけが,記憶のなかでひりひりする」--- 同書,p. 98),碧い瞳(「人間という暖かな生きものに,鉱物質のブルーがあることに私は感動した」--- 同書,p. 83),ブロンドの髪(「琥珀の玉座に坐っている人魚の髪」--- 同書,p. 151)に憧れること。括弧のなかに入れたこれら魅力ある表現は「知識」とは無関係である。それでいいではないか。なのにそれを,光野ばりにジェンダー/フェミニスト文学評論風に --- 光野は山口椿の小説を「美しい叔母」に喩え,「女の自由な魂」の発露だと称賛している(同書,「解説」,p. 241)--- 正当化しても,山口椿文学の備えた堪らないイヤらしさは説明できません。日本のインテリは「高尚なエロティスム」を云々するのになぜか急がないではおれない。どうしてエロをエロとして肯定できないんでしょうかね。

山口椿と大衆官能小説作家とは,その描写において,前者のまぎれもない自分自身の生の視線への執着と,後者の道具立ての職人的周到という違いがある。つまり,大衆官能小説のエロ描写の視線は,作家個人の直截的ビジョンというよりもむしろ,ジャンルが強制する職人的/プロフェショナルなフィルターを一枚噛ませている。わかり易くいえば,「作法」がある。だからといって,この相違は,優れた大衆官能小説作家の描写の腕前を否定するものでは決してない。大衆官能小説作家の書法は職人芸であり,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」として棄て去るには --- ヘンタイとエロスを区別できる者にとって ---,惜しい限りである。山口椿はひとえにその「作法」とは無縁で,西欧エロ文学のレミニサンスと個人の視線が分ち難く融合して,それにとって代わっている。そこが山口椿エロティスム文学の個性だと私は思う。

植物のように伸びてゆく骨格に,ついてゆかれない肉はうすい。骨格と肉とのせめぎあいを,少女は生きている。
同書『罌粟のように』,p. 62.
ベルリンは怪しい魅惑を秘めた街だ。ゲルマンというものが,表層の整正とは裏腹に,頽れたデカダンスをかくしていることを,私はデューラーや,マレーネ・ディートリッヒから嗅いでいた。いや,そうした気障ったらしい謂いかたを捨てるなら,この国のいたるところに見られる『黄金と群青』は,いったいなんだろう。現世の欲望の象徴でもある『銭』と,はてしなく昏い『絶望』を,並べなければ納得のゆかないひとびと。
同書『罌粟のように』,p. 115.

こういうミクロとマクロの --- 接視とロングショットといったほうがよいのか --- 確かな視線に支えられた描写が,彼の「権威付けられたエロ」に奥行きを与え,学生時代にバタイユや澁澤龍彦を読み過ぎた元 Romantiker の,ただのスケベ・オヤジにとってこそ,懐かしく堪らない魅力になっているのである。大衆官能小説のジャンル的作法との差異がリアリティ(の錯覚)を生み出す。それは「知識と趣味」とは何の関係もない。「通」とはそういう魅力を,余計な,「女の自由な魂」などといった根拠のない正当化なくして,冷静に --- 先行する文学との差異を認知しつつ --- 享受できる読者のことを言うのである。そして,山口椿はそのような読みに応える「通」の作家なのである。山口椿は「下品」極まりない書き方を決して厭わないし,「エロ」そのものとしては大衆官能小説と比べ,どこにも「高尚」の優越はない。「あそこ」のことを山口椿は「ラビア」(つまりラテン語 labia --- labium 「唇」の複数形)と書き,大衆官能小説作家は「ワレメ」,「オマンX」などと書く(下品ですみません),その違いのようなものである。どちらも「人畜無害」という意味では同じである。

それでも西欧の伝統的エロのレッテルは便利ではある。それを「芸術的」と茶化しても皮肉に受け取られないからだ。私が本書を読んでいるとき,娘が横から「何読んでるの?」と聞いた。「ヨーロッパの香り高い,芸術的なエロ小説だよ。エッチな挿絵も入ってる。見せないけど」と私。「だから,おまいらには読ませねぇ。大人のお父さんだけの十八禁じゃ」---「ふうん,でも『十八禁』の本って聞いたことないよ」---「なるほど」。「あ,これ読んでしまった。次,何読もうかな」と私が言うと,娘は「それに毛の生えたようなやつ読めばいいんじゃないの?」。「毛の生えた?」---「そのたぐいの本ってことよ」。陰毛を偏愛するエロ小説のススメかと私はどきりとした。それはともかく,文学は想像力であって,確かに『十八禁』ってのも笑ってしまうわいな。子供たちがこっそり読んでも別に構わないか,とヘンに納得したのでございます。

それにしても。「頽廃と倒錯,異端のサディズム文学!」との本書の帯。「[ ... ] 戦後の拝金主義と画一主義。それらに背を向け,アンダーグラウンドの世界で表現活動を続けることこそ,彼 [ 山口椿: 私註 ] の生を賭けての復讐だったのではないだろうか」(同書,「解説」,p. 240)との光野の言。日本人(とりわけインテリ)は権威付けられた安全な「異端」・「アンダーグラウンド」がなぜこうも大好きなんだろうか,と私はほとほと呆れる。それこそまさに「画一主義」。そんな「アンダーグラウンド」ってあるか? アンダーグラウンドってのは,警察に捕まるということである。ノリピーみたいに世間様から後ろ指を指されるということである。「異端」とはそれに関ると火炙りにされるような何かである。名辞矛盾というのではなかろうか? 文学を甘く見てませんか!
 

沖ノ鳥島に港建設 中国へ主権主張 政府が予算化」のニュース(産経新聞配信)。政府の予算シーリングがかしましいいま,このような政策が予算化されるとの話は興味深い。民主党政権には自民党がなかなか踏み切れなかった自己主張を清々となす体質がある。これはよいことだと思う。沖の鳥島が「岩」ではなく,周辺海域が日本の領海であるという事実の主張は,対中国安全保障シーレーンの重要地点であるだけでなく海洋資源となるこの海域を中国には渡さないという明確な意志表示なのである。日本は東シナ海で中国の好き勝手にやられてきた。沖ノ鳥島事案は,もうそうはさせないということだと思う。

沖ノ鳥島へのこれまでの政府の無策ぶりは,読売新聞政治部が纏めた『検証 国家戦略なき日本』(新潮文庫,2009 年)に詳しい。東アジア共同体構想といい,普天間基地移設問題といい,新政権は米国とも,中国とも,付き過ぎず離れ過ぎず独自路線で外交をしようとする意図を感じる(普天間基地問題対応は米国を怒らせようとする意図が見え見えである。その前にバカなマスコミを怒らせている訳である)。そう,日本の国益を考え,政治的に戦ってほしい。自民党が定着させてしまったこれまでの対米従属根性(対中国政策は嫉妬心による「嫌中」路線でしかなく,対米従属だったのである!)を「しかるべき」姿に戻してほしい。
 

先日,読売のニュースで「源氏物語、幻の続編『巣守帖』か…写本確認」という記事をみた。

どれだけのボリュームで見つかったのか,詳らかではないが,読んでみたい気がする。「『宇治十帖』で,浮舟をめぐる三角関係に敗れる薫に同情した後世の人物が,物語を対照的に書いた “外伝” だといえる」との池田和臣教授のコメントがあった。『源氏物語』そのものがどうも全編,紫式部ひとりの手になるものではないらしいので,作者論議でこの「続編」の価値を云々してもあんまり意味がなさそうである。とくに『宇治十帖』については,文体の多変量解析研究によって紫式部作者説を否定する学説を読んだことがある。もちろん,この『巣守帖』を『宇治十帖』と同列に扱ってよいというのは早とちりである。

先日,冷泉家の文庫から藤原定家筆の古文書が見つかったというニュースもあった。いまこの時代においても「発見」があるというのは面白い。

清水義範という作家は,井上ひさしよりも若い世代のなかで,もっとも偉大なギャグ小説家のひとりだと私は思う。『蕎麦ときしめん』によりパスティーシュ・ジャンルを確立した作家として名を轟かせている。とにかく,彼の小説を読めば,その知的なパロディー,ユーモアでげらげら笑いながら最高のひとときを過ごすことができる。講談社文庫版『国語入試問題必勝法』は表題作をはじめ,七つの短編を収録している。

『猿蟹合戦とは何か』は,太宰治がなぜ『お伽草紙』で『猿蟹合戦』を採り上げなかったのかという問いから話がはじまる。この作品は丸谷才一のパロディーである。丸谷独特の旧字・旧仮名遣いと語り口を真似ていて痛快なのだ。自分の仮名遣いに関する丸谷の断り書きまでパロっていて芸が細かい。そして,この文庫本の解説を丸谷が書いているのが,なんとも笑える。

表題作『国語入試問題必勝法』は日本の受験国語問題,ひいてはマルバツ式の日本の国語教育に対する痛烈な批評である。「次の文を読んで問いに答えよ」なる問題で,その文を読まずにまず問いとその選択肢を読むべきである,とのテクニックが語られる。「まず,このことを知っておくんだ。こういう問題でたとえば選択肢が四つある場合は,大,小,展,外,の四つになっていることが多い。選択肢が五つの場合は普通これに,誤,というのが加わる。[ ... ] この種の問題の正解はこの,ちょっとピントが外れている,外,なんだ」(pp. 43--5)。国語の大学入試問題の本質的愚劣さを嗤いのめしている訳であるが,それは受験生の限界に合わせた結果ではなく,試験を作る教育者側の問題だと暗に語る:

月坂によれば,もちろん世の中には神秘的な気分や,幻想的な美を描いた詩や散文は存在するのだが,国語問題の出題者のレベルではそういう高度なものは理解できない。だから出題するはずがない,というのである。
 奴らが理解できて,喜んで出題するのは,故郷への思い,異国への憧れ,孤独の悲しみ,青春の苦み,くらいが関の山で,どちらにしても人間の心情のことばかりだという。
清水義範『国語入試問題必勝法』講談社文庫,1990 年,pp. 50--1。

問題の本文よりも先に設問と選択肢を読む,選択肢を読むだけで正解がわかることがある --- おお,これ,俺もそうだったぞ,と納得してしまう。私も大学の国語入試問題の回答はテクニックだと割り切っていたほうなのだ。このせせこましさで大学入試を切り抜けたのは事実である。高校生の息子にもこれを読ませた。ところが,きちんと本文を先に読んで回答するタイプだった妻と,国語入試問題への取り組み方について論争になった。「やっぱり,きちんと本文を読んで理解したうえで回答すべきなのよ。だからこの本で笑われているのは,お父さんタイプの生徒だということ」。同じ大学の国文科を出た妻のほうが,国語の成績が私よりも圧倒的によかったのは言うまでもない。この論争の結果,息子がどちらの言うことを聞くのか,これもまた言うまでもない。それでも,清水の穿ったパロディーには大笑いできること請け合いである。
 

シェークスピア『ハムレット』第三幕第一場に,あまりにも有名な台詞 "To be, or not to be" が出て来る。ハムレットのディレンマというものである。「生きるべきか,死すべきか」(小田島雄志訳では「このままでいいのか,いけないのか」となっている: シェイクスピア全集『ハムレット』小田島雄志訳,白水社,1983 年,p. 110)。

これを捩ってアメリカ人学生がよく口にする,次のような半畳があるらしい: "TV, or not TV"。「テレビを観るべきか,観ざるべきか」。娯楽か,勉学か。晩ご飯のとき,この話を子供たちにしてやった。テレビではお笑いバラエティーが放映中。「うん,シェークスピア,知ってるよ」。違うよ。おまいらテレビ観過ぎってこと。「That is the question」。そしたら,すかさず娘が切り返す ---「You, father, too」。あのな。
 

Usconcord ロシア語テクスト・コンコーダンス・パッケージの説明ページを改訂した。これまでは,単語条件式の説明が少し不親切だった。例を入れて詳しくしたのである。

Usconcord は主にロシア語テクストの KWIC(keyword in context)を自動生成するための Web サーバ・ツール・キットである。解析したいコーパス(文学テクストの電子ファイル)をサーバにアップロードし,単語条件式を入力し,解析を指示すると,条件に適合する単語のコーパスにおける出現度数・前後コンテキストからなる KWIC を表示する。コンコーダンス・サイトを運用したいひとはダウンロードサービスから usconcord-1.6.tar.gz アーカイブを取得してインストールできる。コンコーダンス解析オペレーションは Windows で稼働するブラウザから可能であるが,Usconcord サーバ運用は UNIX 環境(FreeBSD,Linux 等のオペレーティングシステムとその周辺ソフトウェア)が必要である(FreeBSD で開発したが,Linux gcc 4 でもコンパイルが通るようにしてある)。Windows ではサーバ・ソフトウェアが動作しない。

もっぱらスラヴ研究者向けに 2001 年にこのプログラムを書いた。とはいえ,対象テクスト処理の内部エンコーディング前提を X11 CTEXT(X Window System Compound Text)多言語形式としている関係で,X11 CTEXT,UTF-8 でコード化されたファイルであれば,フランス語,ドイツ語,スペイン語,ポーランド語,スウェーデン語などなど,だいたいの西欧・東欧・北欧語も処理可能である。正確には国際標準文字集合 ISO 8859-1, ISO 8859-2, ISO 8859-5 で記述できる言語を取り扱うことができる。日本文の解析は未対応である(日本語形態素解析ツール「茶筌」などを用いて予め分かち書きした日本語テクストであれば,処理できないことはない)。

コンコーダンスはある作家,作品群においてことばの用例,単語,フレーズの使われ方を総覧するのに絶大な威力を発揮する。昔からシェークスピア,聖書のコンコーダンスが出版されており,近年,ロシア文学研究文献についてもプーシキン『大尉の娘』,ドストエフスキイ『罪と罰』等のインデックスが刊行されている。しかしながら,手作業で KWIC インデックスを作るのは膨大な労力が必要であり,そのような古典,大作家以外のコンコーダンスはまず入手不可能である。自分の研究する文学作品のコンコーダンス生成,しかも論理条件指定に基づく必要語彙に特化した KWIC 生成を,個人で手軽に実行できる,というのが Usconcord の目的である。

私もプーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』論を書いたとき,Usconcord の元になったツール(弊サイト「プーシキン作品コンコーダンス・サービス」)を用いて,単語の用例・頻度調査を行い,悩ましい論証でブレークスルーを得た。ことばは複数の語義を有することが多いが,作家の用例をつぶさに見ると,単語を使う傾向がわかり,テクスト解釈が争われる論点においてその語義を特定するための根拠にできることがある。私の場合,語の色彩的印影の特定のため共起分析の際に,コンコーダンスを活用した。

文学研究者には Usconcord をぜひ活用いただきたいと願っている。Usconcord はユーザーが自分の Web サーバにインストールして運用するキットである。でもそんな面倒を抜きにして使いたい方は,弊サイトの「ロシア語電子コンコーダンス・サービス」を利用することができる。

選挙の投票に行って来た。川崎市長及び参議院神奈川県補欠選挙である。民主党が勝つんだろうな。幸福実現党が性懲りも無く候補を出していた。

それにしても,思うに,自民党はもはや過去の政党に成り果ててしまったようで,無惨である。野に下った「保守」政党としての自民党に,いまやどんな役割があるのかまったくわからなくなってしまった。民主党自体,保守的な政党だからである。だから農協やら医師会やらが平然と民主党支持に鞍替えできるのである。自民党の行く道はだだのひとつ。極右政党に成り下がることだろう。「保守」ではなく「右翼」になること。「利権」を喪失したいまや,靖國万歳,特亜殲滅,アジア蔑視の排外主義などなど,これまで隠然とやっていた「美しい日本」主義を大っぴらに主張しはじめるしか生きる道がなさそうである。

ロシアの政党に Либерально-Демократическая Партия России がある。つまり「ロシア自由民主党」。ソ連崩壊とともにできた極右民族主義政党である。「北海道はロシアの固有の領土だ」と主張するロシアの反日勢力である。旧態権力の生まれ変わりにして極右勢力という意味で,日本の自民党も同じ道を行く暗合のように私には思われる。名は体を表す,という。自由をも,民主主義をも認めないという意味で,「自由民主党」という党名は,名は体を表す。

石破茂や野中広務など,自民党にもホネのある良識派がいる・いたんだけどな。

* * *

妻の誕生日プレゼントに川村湊の著した『狼疾正伝』(河出書房新社,2009 年)を注文した。今年生誕 100 周年を迎える中島敦の評伝である。妻は中島敦のファンなのである。

中島敦は昭和十七年に 33 歳の若さで逝った才能である。その漢文調の語り口は硬質,端正にして,格調高雅,意趣卓逸の気風に充ちている。近代人特有の知的憂悶を表現した文人作家を,中島敦,森鷗外,石川淳を措いて私は知らない。

誰もが高校の教科書で中島敦の『山月記』を読んだことがあるだろう。才能に恵まれた者が,その「臆病な自尊心と,尊大な羞恥心」の相克の果てに人間性を喪失し,虎と化す。虎は生存競争を強いられた暴力の象徴である。私はこの作品を改めて読み,まるで志高い高学歴の若者がワーキングプアに苦しむ様を見たような気がする。ワーキングプア問題があげつらわれる背景で話題になった小林多喜二『蟹工船』なんかよりも,この僅か 9 頁の作品のほうがよっぽど現代の若者の内向する苦悶を表現しているように私は思うのである。
 

la petite mort ということばをご存知だろうか。フランス語で petit は「小さい」,mort は「死」。つまり「小さな死」。これを含む仏文について「私はそのとき小さな死に浸っていた」という訳を読んだら,われわれはどう感じるだろうか。なにか哲学的な観照に,高尚な気分に話者が取り憑かれていると思うのではないだろうか。じつは la petite mort とはセックスにおける絶頂感,あるいはその後の虚脱状態の謂いである。日本語の「イク」,「イッちゃった」という俗語とあまり変わりない。日本語も,一線を越えて別の世界へ達する意味で,la petite mort の捉え方と酷似している。この訳は「おれはイったあとのあの脱力感を覚えていた」くらいでないと意味不明ではなかろうか。ところが,「イク」を「小さな死」と日本語に訳されることで,もとの意味が雲散霧消するのみならず,たんなる俗事が一気に詩的・哲学的なものに昇華する。フランス現代文学・批評の翻訳は,どうもこの la petite mort 直訳のようなものが多すぎるのではないかと私には思われる。これがあの難解さの一因ではないかと。

ロラン・バルト『エクリチュールの零度』の翻訳(森本和夫・林好雄訳註,ちくま学芸文庫,1999 年)を読みなおして,なにかフランス批評の翻訳には,la petite mort に類するボタンの掛け間違いがあるのではないかと忖度してしまう。それほどに,まったく意味不明なんである。それでいて哲学的な観照と高尚な気分だけはなんとなく察知される。私は先日,同じ著者による『表徴の帝国』を読み,それなりに感銘を受け,やはりバルトの批評眼は一流だと感じた。それで,いま再び新訳で『零度のエクリチュール』(かつて出ていた邦訳の題はこのように名詞がひっくり返っていたはずである)を読み返せば,学生時代に投げ出したこの高名な書物からなにかを学ぶことが出来るのではないかと期待した。果たして無駄であった。翻訳文を,--- 恥ずかしながら --- 文字通り一行も理解できなかった。

訳者も普通に読んで理解できないこの書の難解さを知っているらしく,本書の頁分量の半分以上,つまり本文以上の頁数を訳註・解説に割いて大童である(よって,フランス語で読んでもどうも晦渋な書物らしいと知れる)。しかし,その訳註を読んでも,本文がなにを言わんとしているのか,またなぜそんな註が可能なのか,ひいてはその註自体すら本文と同様,不親切な符丁で説明してくれていて,まったくもってわからない(人名解説は別として)。このわからなさの原因は,私の頭が悪いのか,翻訳が la petite mort 直訳ゆえなのか,ロラン・バルト自身の天邪鬼ぶりゆえなのか。判断できない。おそらく第一の要因が強いのだろう。でも第二の要因も相当疑わしいのである。そもそも「翻訳」なのだから,少なくとも日本語として意味が通るようにしていただけないものでしょうか。

こんな徹頭徹尾理解できない文章を書くことができるとは素晴らしい。称賛に値する(私は皮肉抜きで正直に言っているのだ)。insomnia 眠れない夜に格好の道具になる。でも,この「翻訳」でバルトを理解した人がいるのだろうか。「実際,同時代の著作家たちに共通の規則や慣習の集合体である《言語体(ラング)》や,著作家の身体や過去の個人的神話から生じる《文体(スティル)》とは独立した,文学の第三の形式的現実としての《エクリチュール》は,その後のバルトによって放棄されたかのようにみえる」など,これまた訳のわからない符丁(下線部分)に満ちた日本語文を,なんの前置きなくして気軽に書いてくれるフランス文学者がゴマンといる。こういう隠語だらけの文章を書くことのできる地点を「理解」だというのだろうか。

本書はおそらく文学論ではなく,聖書やコーランの神妙な説話や仏教経典にも似た壮大なメタファーなのである。事実の観察,分析,その総合としての「論」ではなく,いきなり「悟り」が比喩をもって繰り広げられる「神話」である。威厳と象徴に満ちた語り口に対して,たくさんの研究者が --- 親切にも --- 膨大な注釈を行う活動そのものに意味があるような。そしてまたその注釈そのものが他ならぬメタファーになっているとはどういうことか。まるで「啓示文学」である。こういう「論」にわれわれパンピーがこれら研究者と同じように付き合うのはやめたほうがよさそうである。なぜなら,どうもこれを「理解」しても,先に引用した日本のフランス文学者のような訳のわからない啓示的比喩に満ちた文章を書くことにしか資しないようであるからだ。本書のアマゾンの評価は最高点の五つ星である。その評もぜひ読んでみてください。比喩の素晴らしさを同じ比喩でもって称賛しているに過ぎない。比喩の連鎖は「論」ではない。

海外アニメのファンは,日本アニメ・オタクたちの使う「ツンデレ」,「ヤオイ」,「ショタ」などの隠語について,自国語のことばで咀嚼した訳語を使わず(だから「定義されない」状態のまま),日本語のままで流通させている。でもそれは,アニメ文化を彼らが自らの文化に受容し消化したというよりもむしろ,アニメ・オタク・ジャポネーを真似してその雰囲気を楽しんでいるに過ぎない。本書において「アンガジェする」だの,「シニャレする」だの,「シニフィエする」だの,フランス語がそのまま翻訳文に紛れ込んでいる姿は,この海外アニメ・オタクたちの楽しみ方とまさに同じである。日本語訳としてのあまりの支離滅裂さに,どうも雰囲気を楽しんでいるとしか私には「理解」しようがない。確かに,日本語として「理解」せずともその雰囲気を「真似」することはできそうである。「三島由紀夫の『金閣寺』は,かれの豊饒なる空虚としてのエクリチュールをもって --- それはほかでもない,文化という残酷な標章(「シーニュ」とのルビが振られている)の一系列にも近似した金色の楼閣を,戦後覆されてしまった『語られる言語(「ランガージュ・パルレ」とのルビ)』に偏在する虚無(「リアン」とのルビ)として描くことによって ---,あたかも文学の小さな死(「プティット・モール」とのルビ)を宣告したともいえよう」--- これはいま私がテキトーに「真似」してみせただけである。まあよい。文学者には暇人が多いものである。でも,la petite mort がただの「イク」なのに「小さな死」の形而上学的ニュアンスに読み替えられているとしたら,こんな滑稽はない。

もちろん,私にはフランス語原典とこの翻訳とを見比べて評価する能力がない。上記は私の頭の悪さを露呈しているに過ぎないかも知れない。訳のわからぬ翻訳を読んでいて,その内容とはまったく関係のない la petite mort がつい頭をよぎってしまった。まともな --- つまり,翻訳文が日本語であることをまず第一に考える --- フランス文学翻訳者の意見をぜひ聴いてみたい。
 

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)
ロラン・バルト著
森本和夫・林好雄訳註
筑摩書房

今日から3連休。なにもやることがない。午まで寝んねして,ぼけっとしてます。戦前の自由主義的ジャーナリスト・清沢洌の『暗黒日記』を読んでいる。精神論と暴力で国を仕切る頭の悪い(つまり世界情勢・現実を見ようとしない)軍人,鬼畜米英一色の報復に燃える国民,軍国主義に追従する曲学阿世の知識人・マスコミ。本書は,そのなかで米国の実情を知る憂国者として,特高の摘発を恐れながらも「現代史」のために世情をしるした記録である。

予日記をつけつつありというと,嶋中君危ないぞという。[ ... ] ただ予の場合は「現代史」を後日,書くために記録を止め置かんとするに過ぎず。
清沢洌『暗黒日記』岩波書店,1990 年,p. 71.

戦争に突入してしまうと,勝つことがなによりも重要になる訳で,彼が日記で批判している国民のバカさ加減はいまの私たちが一笑に付すことのできる性質のものではない。ましてや,当時の軍国主義的国家権力による暴力に対し個人は無力だった。それでも,どうしようもないいま眼の前のこの現実のためではなく,「現代史」,歴史のために記録する,という清沢の姿が心を打つ。自分が歴史に関与しているという責任感が凄い。行動において自己の無力を自覚したとき,「記録」という営みによって時代との関わりを果たす手段もある。
 

* * *

Yahoo! ニュースで,大阪府の橋下知事が職員の失礼な態度に怒ってその職員を処分したという記事を読んだ。「会見で橋下知事は,トップへの態度に問題のある職員が『100人ぐらいはいる』と指摘。知事を『お前』呼ばわりする職員がいる」とあるので,この処分された女性職員が特別なのではないらしい。まったく公務員(「地方公務員」というのが正しい)という人達はお気楽なものだと感心してしまった。普通のサラリーマンである私には信じられない。こんな人達を税金で食わしているのか...。

知事は自治体行政のトップであり,普通の会社なら社長,軍隊なら総司令官であって,その自治体の公務員は彼の意思を実現する組織構成員である訳だから,構成員がトップに対しそれに応じた礼節・敬意をもって接するのが当たり前ではないか。この処分された女性公務員はどうもそういう基本的組織構造を気にもしない人らしく,橋下知事を自分の属する組織の長としてではなく,タレント,芸能人と同列に,普通名詞の「政治家」とみなしていたようである。私がこのバカブログで政治家を愚弄するような無責任な駄文を書いているのとまさに同じように。私にとって政治家とは税金を払って活動してもらっている存在である訳で,私のこんなバカ・たわ言もその活動への「批判」として許されるのである。それに対し,政治家を組織長とする公務員による同じ行動は風紀紊乱・服務規律違反でしかない。税金で養われている公務員は,選挙で選ばれた政治家の目標実現のために法律に従って仕事をすべきなのだ。政治家を「批判」するならすればよい。しかし,この公務員の「愚痴はご自身のブログ等で行ってください」というのは,「批判」にもなっていないただの「不敬」であって,組織の構成員としての自覚のなさを示すに過ぎない。それこそ匿名ブログでやっておればよいようなものである。軍隊なら軍法会議において風紀紊乱でどんな処罰が下るか知れない(目隠しをされ壁の前に立たされるに違いない)。

サラリーマンは査定する上長,人事権をもつ管理職の言うことしか聞かない。査定権をもたない人の言うことを聞いてなにになる。忙しいのだ。でもこれはあらゆる組織に共通の原理である。ここではトップダウンの連鎖によって組織が機能する。この際,上長命令を絶対視する軍隊式がもっとも機能する。

公務員,官僚が政治家を軽んずるのは,政治家に人事権・査定権がないからである。私が知事で人事権をもっていれば,法律に照らして根拠を見いだした上でこいつをクビにするだろう。一罰百戒。なのに,日本では政治家が公務員の人事を掌握できたためしがない。だから官僚が国益よりもむしろ自身の出世と自己の所属する組織のためだけに奔走する「官僚的」お役人になるのである。民主党の脱官僚のスローガンがおそらくうまく行かないだろうと思われるその根本原因もここにある。

でも,政治家が人事権を乱用できるようになると独裁が生まれやすくなる。難しい。

フランスの批評家・ロラン・バルトが日本文化をめぐって著した『表徴の帝国』(ちくま学芸文庫版。原典は 1970 年初版)を読了。これは日本料理,パチンコ,生花,俳句,文楽,都市,日本建築,包装,書,顔,全学連,などなど,日本的現象について広範に採り上げてしるしている訳だけど,日本文化論というよりも,日本で得たさまざまな見聞によって彼のいわゆる「表現体(エクリチュール)」概念の例題を語っている,と考えたほうがよさそうである。

本書はさっと読んだだけではわかりにくい屈折した喩えに満ちている。いつものスピードで読み進むレベルでは,本書のおそらく七割は私の知力を越えるもので,私にはよく理解できなかった。何回か,丹念に読まないとダメである。また,それに値する書物である(それで報われる翻訳かどうかは知らない)。それでも,生花,文楽,俳句の素描には,日本人自らがうまく説明できない日本文化の特徴を魅惑的な求心力をもって言表わしていると思った。バルトは日本文化のエクリチュールの特徴を,「意味の廃絶」,「言葉の無化」,「悟り=認識と主体を激動させる強烈な地震」と要約している。感銘を受けたくだりを,少し長いが,いくつか引用したい。味わい深い指摘である。引用中私が下線を施した部分は,なんと美しい表現だろうか。

[ ... ] 日本の花束,その構成の象徴の意図が,日本案内書や《生け花》芸術論書にどう描かれているにせよ,この日本の花束のなかに生みだされているのは,大気の循環なのである。[ ... ] 西洋人なら,豊饒だけが自然らしさを証しうる,とでもいわんばかりに,花と葉と枝を自然から分離する。だが,《生け花》にあっては,花と葉と枝を《稀薄化》の理念にしたがって繊細に位置づける。日本の花束は空間(ヴォリューム)をもつ。
ロラン・バルト『表徴の帝国』宗左近訳,ちくま学芸文庫,1996 年,pp. 71--2.
[ 文楽の ] 主遣いの大夫は,頭になにもかぶっていない。すべすべした,むきだしのままのその顔は,[ ... ] 客から読まれるようにと,そこにある。だが,[ ... ] それは読解可能なものはなにもないということ,なのである。人はここにふたたび,意味の廃絶を見いだす。[ ... ] 西欧人にあっては,意味を追いつめるということは,意味をかくすことか,あるいは意味を逆転することか,であって,決して意味を空無化することではない [ ... ]。《文楽》との対比において,演劇の源泉はその空無のすがたをさらけだす。《文楽》の舞台から追放されているもの,それはヒステリー,つまり,演劇そのものである。
同書,pp. 96--7.
[ ... ] 主体と神のない形而上学にのっとってつくられる俳句が対応するものは,仏教の「無」,禅の「悟り」であって,その無も悟りも,神がその場に啓示されることでは決してなく,実体としてではなく,偶発事として事物を把握する働き,冒険 [ ... ] の輝きのなさ [ ... ] に冒された言語のこれまでの外縁を持つ主体を打ちやぶること,すなわち,《事実を前にしての覚醒》にほかならない。
同書,p. 123.

それにしてもフランスを代表とする現代のヨーロッパ的知性は「無」,「否定」という概念が好きである。「私の目指すものは〜でも,〜でもない何か」という発想が大好きなのである。それは西欧の反省でもあると私は思う。

カールハインツ・シュトックハウゼン(1928 年生まれ)の証言は奇妙にないないづくしである。以下に引用するけれども,こんな短いスペースにこれほどないを羅列した文章もないだろう。
そんなわけで再現部もないし,変奏もない。また展開部もないのである。「正式な手続き」の前提となるすべてのもの --- くり返され,変奏され,展開され,対照され,昇華さるべきテーマとモティーフ …... がすべてない,最初の純粋な点描主義的作品を作曲したときいらい棄ててしまったのだ。
ドナルド・ミッチェル『現代音楽の言葉』工藤政司訳,音楽之友社,1976 年,pp. 118--9(下線部は傍点).
 
表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)
ロラン バルト著・宗左近訳
筑摩書房

ミッシャ・マイスキイの演奏によるバッハの無伴奏チェロ組曲を本当に久しぶりに聴いた。私は第二番と第五番が好きである。この曲の演奏はいくつも名演がある。私はムスチスラフ・ロストロポーヴィチ,ピエール・フルニエ,ミッシャ・マイスキイの盤がお気に入りである。なかでもマイスキイ盤には,ある特別な思い出がまつわりついている。

1985 年の春先,ソ連の最高権力者・共産党書記長コンスタンチン・チェルネンコが亡くなった。テレビを持たず新聞も購読できない貧乏学生であった私は,そのニュースを知らずにいた。札幌のまだ凍てつく下宿で,ロシアの文芸学者・文学史家ボリス・トマシェフスキイの詩論集 «О стихе»(『詩について』)を読んでいた。コーヒーをドリップする間に,NHK-FM を付けた。バッハの無伴奏チェロ組曲が流れていた。私は直感でミッシャ・マイスキイの出たばかりの盤だとわかった。一曲が終わったら,別の組曲が開始された。なにかおかしい。DJ なりアナウンサーなりの語りがなく,曲の演奏だけが延々と続く。なんの説明もない。すぐに,私は誰か貴人が亡くなったのだと悟った。ソ連では権力者が亡くなるとクラシック音楽をひたすらラジオで流すという話を思い出したのだ。そうか,書記長が死んだのだ。え,なんで? 就任してまだ少しじゃないか,本当か? でも,それは正しい判断だった。しばらくしてニュースがはじまり,チェルネンコ死去が報じられたのである。

異常な気分になり,トマシェフスキイどころではなくなったのを鮮明に覚えている。いま思うと,NHK はそういう放送局だったのだとへんな感銘を覚える。国際的最重要人物が亡くなろうと,このような放送は現在ではしないと思う。NHK にロシアの伝統を知る者がいたのだろう。それに合わせて哀悼の意を表したのだろう。「不可解」が国際情勢の緊張感を異様に高めるということが身に沁みた。「臨時ニュースを申し上げます」なんかより,観念させるようななにかがあった。

ソ連共産党書記長の死を告げるマイスキイのバッハ。もうひとつ強烈なのは,ミッシャ・マイスキイがソ連官憲によって投獄された経験を持つユダヤ系亡命ロシア人であったこと。そんなマイスキイの演奏でソ連の権力者の死を哀悼するなんて,NHK は端倪すべからざる意図を秘めた放送局だと思ったものである。そして,こういう歴史的事件の黎明の伴奏にはやはりバッハが相応しいと。チェルネンコを襲ったゴルバチョフはやがてソ連を解体させてしまい,冷戦は終局を迎えることになったのである。
 

バッハ:無伴奏チェロ組曲 全曲
マイスキー(ミッシャ)
ポリドール (1994-08-01)

"sator arepo tenet opera rotas" というラテン語の格言がある。いくつかの古代遺跡の壁面に刻印されているそうである。「種蒔く人は収穫を保有し収穫は種蒔く人を保有す」という意味である。これだけだとなんということもなさそうに思われるが,次のようにしるすとその驚くべき姿が見えて来る。

S A T O R
A R E P O
T E N E T
O P E R A
R O T A S

左上から右横,下方へ読んでも,右下から左横,上方へ読んでも(つまり逆から読んでも),さらに,左上から縦下に,右方へ読んでも,右下から縦上に,左方へ読んでも,同じ。しかも真ん中の TENET は上下・左右で回文をなし,十字架を形成する。

これは「魔法陣」と呼ばれるものである。クロード・ロスタンによれば,その起源,言語学的・宗教的意義について,学者の意見が一致していないという。それにしても,精巧にして不思議。くらくらして来る。

作曲家アントン・ウェーベルンはこの魔法陣に霊感を得て,12 音列を展開した曲を書いた。九つの独奏楽器のための協奏曲作品 24(1934 年)。音による点描のような断片的な無調音楽に聞こえるが,現代音楽好きは簡素な美しさに魅せられる。その枯淡の音像のなかにじつはこの魔法陣のような精巧な規則性があると思うと,くらくらして来る。

「種蒔く人は収穫を保有し収穫は種蒔く人を保有す」--- 私はこの格言を,クロード・ロスタンによるウェーベルンの作品論(クロード・ロスタン『ウェーベルン』店村新次訳, 音楽之友社, 1975 年)によって知った。ウェーベルンの短く緻密な音楽様式を象徴するに相応しい言ではないだろうか。しかし,上記のごとき魔法陣の神秘性を取り除いても,含蓄あることばである。私は仕事の上での座右の銘にしている。仕事とその成果との循環性を鼓舞しないと,日常性に耐えきれなくなってしまうのである。私はまた,この格言で弊 Web サイト・トップページを飾らせてもらっている。
 

Complete Webern [Box Set]

P. Boulez (Dir)
Berliner Philharmoniker
Ensemble InterContemporain
Emerson String Quartet, et al.
Deutsche Grammophon (2000-05-09)

蓮實重彦著『反=日本語論』(ちくま学芸文庫, 2009 年, 1977 年初版)を読んだ。もって廻ったような文体に少々辟易しながらも,読み進むにつれ,制約から自由たろうとするこの著者の思考に惹き付けられて行った。

主旨は次のようなものと読めた。「言語の一般性」と「文法の規則性」という普遍への指向をもつ言語概念は,フランス古典主義の反映に過ぎず,じつは極めて特殊な,つまり歴史的なものである。西欧の言語学の基盤には音声中心主義があり,文字表記はそれを写す二義的位置しか占めていない。日本語は漢字・仮名という文字を持ち,文字による言語認識ともいえる実効性を有し,必ずしも西欧的言語概念で仕切れない場合がある。しかし一方で,こうした「音声」,「文字」,「意味」,「表記」が正書法,文法などの原理によって「制度化」されてあるということ。そこには,近代の言語の暴力性(方言に対する隠然とした揶揄,間違った綴りへの嘲笑と社会的・階級的優越感,占領国による言語の強制)が漲っているという観察。言語学という「学」もその「制度性」から自由ではないという指摘。制度としての言語に囚われた言語学,言語論者への批判。そういう「制度」に囚われない言語生活の諸表情への愛情。こうした言説を,己の見聞と,もっぱら身近な家族の言語生活とに対する観察から著者は導き出す。

「言語という制度」。なのに,日本語論者もまたそれを自覚することなく,西欧的観念に支配された言語アプローチに囚われてしまっている,と著者は批判する。「反=日本語論」の「反」はそこに由来する。「フランス語は明晰である」とか「日本語は美しい」とか「最近の日本語は乱れていて正すべきである」とか,そういう評価は「制度化」されたフィクションに幻惑されたものでしかないと言うのである。言語について語る場合には,それを自覚しそこから解放されそれを克服した地点に立たないと,目の前の言語の --- 制度化されていない --- 豊かなあり方,本質には至らないはずだと著者は言うのである。私にとって極めて示唆的であった。「示唆」しかされなかったのが不満ではあるが(鋭い批判分析をなす一方,どうあるべきかのポジティブな理論が帰納されない点が --- 極めて困難な仕事であるのは認めますが --- 本書に対する私の不満である。それが目的ではないと言われればそれまでであるが。「それは『正しく美しい日本語』といった抽象的虚構を追い求める従来の『日本語論』に対して,根源的な異議申し立てを行うこと」(カバー)と要約している本書の編集者は優秀である。「異議申し立て」が本書のエッセンスなのだから)。

水村美苗『日本語が亡びるとき』を読み,そのとき「日本語を保守する国民的努力がなければ日本語が亡びる」との水村の主張に感じた「胡散臭さ」のよって来る源を,私は蓮實に説明してもらえたように思う。萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』のような「歴史的仮名遣い」原理主義者に認められる「表記」の絶対化を「制度としての言語」に無自覚な独善として私は理解した。そういう眼で見ると,萩野のマナー --- 敗戦によって文化的に押し付けを受けたという一種独特の被害者意識と,そこから来る攻撃的性格(他者攻撃しないではおれない,敗者に特有の性質)と,自己の主張を学問的装いでもって正当化したがる衒学的身振り(「論理的・合理的」言語への執着)--- がいよいよ無惨である。水村や萩野など示威的に「国語を愛する」者たちに対する私の違和感は,言語の制度=虚構を他人に押し付ける者たちの「帝国主義的言語観」の横暴ゆえなのだと。

* * *

ところで,私は蓮實重彦の学者随筆風評論の「文体」が嫌いである。なにより,凝りに凝ったあの長大な書き出し。外国語の文法で謂うところの関係節・譲歩節が錯綜し,しかも論の主旨とは無関係な情報に満ちている。こういうのを「気取り」というのである。第二に,もって廻った構成。具体・経験を詳細に語り,言いたいことを意図的に伏せるように叙述しているのかと思えば,その流れから読み手が想定する命題を否定し煙に巻いた挙句に,さり気なく要点をしるす。随筆としては巧みな表現で読ませるが評論としては究極において何が主張したいのか晦渋で間怠っこしい。あたかも,奥床しい本質の周りをぐるぐる廻ってぶつぶつ独言(自分以外には理解困難な言語)を呟いている不平紳士を眺める(対話するのではなく眺める)ような気分なのである。

今日では誰もが『パンセ』と呼ばれる一冊の書物として知っているキリスト教弁証論を書いた十七世紀フランスの思想家ブレーズ・パスカル,もっとも,書いたといっても,彼はその論証体系の構造を明示することなく,未完の草稿を幾綴りもの紙片のまま残して三十九歳の若さで死ななければならなかったのだが,そのことによってかえって,天才と夭折との神話的結合ぶりを正当化しているかにみえるパスカルは,姉ジルベルトの回想によると,すでに幼少期から,「神童」にふさわしい孤独にして特権的な視線によって,世界の諸々の相貌を鋭く解読していたらしい。
蓮實重彦『反=日本語論』ちくま学芸文庫, 2009 年, p. 9(下線部は原典傍点).

「パスカルにさからって」のこの長大な書き出しの一文は,そのあとのコンテクストに照らしても,「姉の証言によればパスカルは幼少期から天才的に世界を解読していた」以上の機能を有していない。なのに何故,このようにあっちこっちに言を撒き散らさずにおかないのか。これが「命題」(真か否か)ではなく「表現」,「文学」(美しい・カッコいい・正しいか否か)を指向するものだからである。ことばに芝居をさせている。これは蓮實の文体に特徴的である。私の性格なのか,不幸な国語教育ゆえなのか,残念ながら,私はここに「テクストの快楽」などは感じない。「論文」などでは絶対に真似をしてはならないマナーである。

「論」は言語がフラットであるべきだと私は思う。なんというのか,無味無臭を指向すべきということ。凝った「表現への指向」があると,ことばに身振りをさせてしまい,煩くてしようがないと私は感じてしまうのである。「鞄」とは何たるかを説明してくれるのだが,そのために指差された鞄の説明用実物が凝りに凝った装飾の施されたエルメスのブランド品であったりすると,これ幾らするんだろうかとか,この人お洒落だなあとか,そんなことばかり植え付けられてしまい,鞄の本質がどこかへ飛んでしまうような,例えばそういうことである。そう,ここで起こっているのは「内容」と「形式」のすり替え・逆転である。鞄の「内容」を説明しているように見えるけれども,エルメス(「表現」)はその鞄を説明する「形式」のはずが,エルメスが使われることによってそれ自体が意味を持ちはじめ,鞄の本質=「内容」が逆にその表現のための形式にとって代わられてしまうのである。

話が逸れるけれども,「正字正仮名」による文章もまさにこれと同じ構造に嵌る。表記そのものが「文体」的意義を帯びて「形式」が「内容」としてでしゃばりはじめるのである。なのに,書いている人がそれをうすうす知りつつ ---「正字正仮名」は「カッコいい」と自認しているではないか --- ニュートラルな「正しい」文章を書いているつもりになっている。「文体」というものに対し無感覚の「国語を愛する」らしい者たち。「滑稽」とはこういう所作を指すのである。彼らは「正字正仮名」を用いて何かを語るのではない。「正字正仮名」を用いるために何かを利用しているというべきである。その「何か」は往々にして nothing である。もっぱら「正字正仮名」の宣伝と,その反対者への悪口ではないか。「形式」と「内容(nothing も含む。まさに「無いよー」)」の逆転の例がここにもある。

またまた横道に逸れるけれども,「論」を期待して手にとった書物が「文学」だったりすると,私はどこを読み飛ばすかの戦略を最初の数頁で立てようとしてしまう。「... だが」とか「... にせよ」とか「... ではない」という断片が現われたら,その前のテクストをすべて破棄する。主語,目的語,述語「だけ」を探して読む。これで理解できない場合は,諦めて,読まなかったことにする。そのように「点と線」で組み立てられた言説によって,ダメな本かそうでないか判断するのである。まあ,今回は蓮實作品の初物でもないので悩みは少なかった訳だけど。

でも蓮實の文体を巡る私の印象は,蓮實その人の個性に対するというよりもむしろ,学者随筆風評論一般に対する嫌悪といったほうがよいかも知れない。学者随筆風評論文体というのは,学者が学問を離れつつその学問に関る話題について専門用語を鏤め,「学問性にこだわらず」に詠嘆してみせたりする「文学的な」文章である。「正確」を志すように見えて本質から遠ざかることにしか奉仕しない --- よって知的な雰囲気を醸成する --- 凝った冗長表現に満ちた晦渋な文体。思うに,日本の有名な大学文学部先生の「有名」の根拠は,多くこのような学者随筆風評論の文学性にあるのであって,その学問的成果ではない。日本の文学研究者の評論は「文学的」独言である。学問性を問うものではないから。その専門の文学分野の「香り」を伝える「文学臭さ」が特徴である。だから「知的」にして「孤高」の随筆になる。「さすがー」と思わせる。ところが,学問的体系化への指向がないから,なにか本質とは別なものを掴ませられた,香り高い雰囲気に騙された気分になるのである。鞄の説明のために,凝りに凝ったブランド品を使っているに過ぎないのだ。

もちろん,そんな学者随筆風評論にも「文学的に」優れたものがない訳ではない。森有正の『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫,1986 年)などは私の愛読書のひとつである。私の友人の言語学者は,「森有正はデカルトやパスカルの学問的研究成果で日本の知を高めるのではなく,フランスの知的雰囲気をフランスから伝えるエッセイで人気を獲得した。『雰囲気』で勝負する日本の知識人の典型だ」と腐した。私は森有正の文章が好きなので,この批評に少し傷ついたのだが,しかし,この指摘は日本の西欧文化吸収における学者随筆風評論に現れた脆弱性の本質を突いている。この友人に私は教えられたのである。彼は上記の「文学性」を「雰囲気」と言っている訳であるが。

私にとって嫌悪すべきは蓮實重彦という著者の「文体」でしかない。本書には家族の何気ないことばをめぐって考察するくだりがたくさんある。そこには深い学識を有する観察の鋭い知識人の姿だけでなく,家族を愛しそのことばに注意深く耳を傾けるひとりの人間が浮かび上がって来るのである。

先日の朝日新聞(9 月 9 日)神奈川ローカル面に「KAWASAKI しんゆり映画祭」の記事が掲載されていた。この映画祭は毎年この季節に開催される市民映画祭である。15 回目を迎える今年は,川崎市麻生区ゆかりの映画監督・神代辰巳の特集である。ちょっと驚き。神代辰巳といえば日活ロマンポルノの巨匠。こんなポルノ映画監督もその「芸術的価値」によって映画祭のテーマとなりうる時代なのである。いいんだか悪いんだか。私としては大歓迎だけど。

私は彼の作品をいくつも観て来た。黒澤明,鈴木清順などと並んで指を折りたいひとりである。『一条さゆり 濡れた欲情』(1973 年),『赫い髪の女』(1979 年),『赤い帽子の女』(1982 年),『もどり川』(1983 年)などなど。とくに『もどり川』は私の観た邦画のなかでも最良の作品である(なのに DVD が発売されないのが悲しい)。いずれも存在の最終的な砦であるかのように性を激しく生きる女性と,彼女たちを巡るヒモ的ダメ男たちを描いている。私はここに性「愛」というようなものは感じなかった。もっと直接的で,それこそ体を張る凄みがあった。男は本質的に女のヒモだという思想に徹したニヒリスティックな作品に見えた。「愛情」なんてかけらもない非情なところが私にとっての神代ポルノグラフィの凄い点である。それゆえにストリッパーや娼婦という職業は落ちるところまで落ちた女の恥ずべき境遇である,という視線はこなごなにされた。それでもやはり秘めやかであることをやめない。彼の映画によって,樋口可南子や原田美枝子,伊佐山ひろ子といった「体を張った」女優たちが私にとって忘れられないものとなった。

KAWASAKI しんゆり映画祭」は 9 月 19 日から 27 日まで,小田急線新百合ケ丘駅周辺で開かれる。でも,私には神代辰巳作品の「芸術性」をあんまり云々したくない。あの「イヤらしさ」に共感できることはある意味で恥ずかしい。昔の日本のポルノは今のアダルトビデオなんかよりも何倍もイヤらしく,陰湿で,残酷で,非情で,そして危険だったのだ。魂を鷲掴みにしてしまったのである。

* * *

神代辰巳監督による映画『もどり川』は,萩原健一,樋口可南子,藤真利子,原田美枝子,蜷川有紀主演,1983 年東宝作品。残念ながら「KAWASAKI しんゆり映画祭」では放映されない。

原作は連城三紀彦の『戻り川心中』である。神代映画を観たあと,私は時を置かずこちらも読んで心を動かされた。主人公・苑田岳葉は女を変えながら心中未遂事件を起こし,そのたびに優れた歌集を出す短歌界の異端児である。彼の心中スキャンダルは厭世ゆえか,それとも作歌のためのフィクションなのか。そのどちらでもあり,どちらでもないのだろう。そういう芸術家の危うい性(さが)を描いた美しいミステリーである。『宵待草夜情』,『変調二人羽織』とともに,これが連城三紀彦作品のなかでもっとも私の好きなものである。最近どうしてこのような「浪漫的な」ミステリーにお目にかかれないのか。

今夏も例年のように終戦記念日のあたりには,第二次世界大戦を振り返る特番,ニュース,新聞記事,反戦映画等々が流れ,戦争とは何だったのかという問題論が反復された。風物詩のような観がある。

私もそんな折り,丸善で飯田進著『魂鎮への道』を見つけた。これは 1997 年不二出版初版を岩波書店が文庫版として再編したものである。このように,岩波現代文庫は 21 世紀の新時代において新たに見直すべきテーマをきちんと見据えて,啓蒙的なモノグラフの力作を提供してくれる。豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008 年),古関彰一著『日本国憲法の誕生』(2009 年)には,終戦直後と憲法制定のような戦後日本の原点について,教えられるところが多かった。

最近,安全保障問題,領土問題,靖国問題,田母神論文等に現われた歴史認識問題等々を巡って,日本はかつてないほどに右傾化している。小林よしのりの『戦争論』がバカ売れし,その安価な軍国的ヒロイズムに傾倒する若者が増殖している。YouTube には反韓・反中の煽動動画が溢れている。総じて,昭和の中国・東南アジア侵略・太平洋戦争を正義の戦いだったと大真面目に信ずる若者が急増しているように思われる。ネット・ニュースについても韓国・北朝鮮・中国に関る記事は,よいこと悪いこと重大事,社会面おしなべてどんなものでも,悪し様の軽薄で低レベルなコメントがすぐさま行列を成すのである。

私が彼らの言説にまったく真実性・現実性・思想性を見いだせないのは,ひとえに次の理由による。戦争に参加しその過酷な試練にさらされた人々の意見にまったく耳を傾けず,欧米列強の非道,東京裁判などの敗戦による屈辱,そこから来る被害者意識と安価な正義感,「武士道」を誤って理解した美学的・倫理的センチメンタリズム,「強い日本」のイメージを,ただひたすら誇張するばかりだからである。私は平和論・戦争論について戦争を体験した人の言うことしか信じない。戦争を知らぬ者に「突撃セヨ」と言われて誰が真に受けるだろうか。小林よしのり,田母神俊雄,潮匤人,渡部昇一 --- こういう者たちがただの「煽動者」にしか見えないのは,究極,そういうことである。なぜもっと経験者のことばに耳を傾け,想像力を働かせることができないのか。

飯田進は帝国海軍の兵士としてニューギニアに送られ,戦後いわゆる BC 戦犯としてスガモ・プリズンに収容されていた太平洋戦争の生き証人である。本書はその体験,戦友の辿った悲惨な運命について,美化することなく,真摯に顧みた手記である。加害者としての非道を自問すると同時に,連合国軍側の非人道性(日本軍と同様の残虐行為,捕虜の虐殺,無差別絨毯爆撃,原爆投下)をも糾弾し,戦争というものの無惨を語る。

『魂鎮への道』についてあまりここで多くを語りたくない。是非読んでほしいということ。兵站を無視した大本営の無策によって戦友が大量に餓死する様を見,「殺すか殺されるか」の狂気のなかで自らは無実の非戦闘員を虐殺し,戦犯として死刑宣告を受け,焦土と化した日本を目の当たりにし,そうして当の大本営の責任者が戦後のうのうと生き延びた様を目にしたその人が,いまこの時代に何を思い,何を訴えようとしているのかを。思想とはそういうものである。

私は理解した。あの東京裁判とは,実際は戦争の現場を知らずに司令部で愚策を推進した軍事官僚(この現代に敷衍すれば,田母神俊雄のような幕僚たち)ではなく,責任者・閣僚トップ(石破茂のような防衛大臣)と眼に見える現場の兵卒とを死刑にすることで,戦争責任を問うたようなものである。日本は戦前から無責任な官僚に主導される国家だったのである。その構造はいまも同じ。許せますか?(小沢元民主党代表秘書逮捕事件でも,公設秘書や小沢さんの名前ばかりが世に叫ばれ,検察官僚という権力側にある者たちの固有名詞はまったく取りざたされない。この逮捕が横暴だったとしても検察官僚は国民によって裁かれることはない。「無責任」構造とはそういうことである。)

東京裁判が政府閣僚を A 級戦犯として,現場の兵士を BC 級戦犯として死刑台に送ったことで日本の戦争責任追及としたこと。これが戦後日本人の無責任体質を生み出したと著者は主張する。英霊のおかげで戦後の経済発展があるとするロマンチズムを著者は批判する。日本兵は多くがただ無惨に餓死したに過ぎず,経済発展も朝鮮戦争・ヴェトナム戦争という冷戦構造の特需の恩恵であって,日本兵のイヌ死とはなんの関係もない,と。そして大東亜共栄圏などは,アジアの人々に対する優越感のなせる自己中心的発想でしかなく,さらに戦後の経済発展を通してそのアジア人蔑視を引き継ぎ,戦犯裁判によって逆説的に責任なしとされた戦後日本人は,あの戦争は軍部による愚策だと他人事のように語り,一方では 2,000 万人以上とも言われる日本軍によるアジア人虐殺の事実を軽く受け流している,と著者は憤る。飢えて死んで行った兵士の無念,虐殺された現地の非戦闘員の無念,空爆で焼け死んだ一般市民の無念を,戦後 60 年たったいまも誰も晴らそうとしていないと訴える。

現代日本人ひとりひとりがあの戦争の責任を己のなかに問うこと。これなくして,自衛隊も改憲論もクソもないと著者は主張する。これこそが無駄死した戦友への真の鎮魂だというのである。
 

木曜日朝,目黒の顧客との打合せの前に,目黒駅東口のマックでコーヒーを飲みつつ,会議に向けて気合いを入れる。それが私の習慣になっている。

昨日そのマックでちょっとしたトラブルに遭遇した。若い男ふたりが言い争っていた。店員が仲裁に入っていたが収まらない。そのうち,警官がやって来た。店員の証言からかひとりは解放されてもうひとりのほうが残された。短く刈り込んだ髪を茶色に染め,サングラスをかけ,乱暴な口のきき方をする 30 前後の男であった。チンピラもマックなんかに来るんだと意外であった。チンピラですらないのかも知れない。

警官が「ちょっと話を聞きたいので交番まで同行してもらえる?」と穏やかに要請するが,男はあと一時間待てと聞かない。「おまわりさん,オレ被害者だよ。なんで損害賠償の相手を逃がしておいて,オレにいちゃもんをつける訳? あ,そうそう,オレ,一時間後に衆議院議員・佐藤XXX(あの有名な小泉チルドレンのことだろう)と会う約束になってんだけどな。おまわりさん,こんなんじゃあ,遅れちまうじゃねえか。佐藤さんに電話してよ。あんたの所為で遅れるって」。警官はというと顔色一つ変えない。「わかった。なら交番でゆっくり聞こうじゃないか」。

さてその先がどうなったかは知らない。残念ながら,打合せの時間が近づいたのだ。世の中には本当にこういう愚にもつかないワルがいるもんだと久々に納得した。相手を脅かしたいのだろうが,自分の印象を悪化させることにしかならない見え透いた嘘をつく。警官もこんなのを扱い慣れているようであった。国家権力が取り締まるべきなのはこういう連中なのである。(横道にそれますが,ノリピーも悪いけれども,彼らにヤクを回して金を儲けている奴らを潰すことこそが,国家権力の第一に考えるべき使命というものである。)

世の中の犯罪者には少なくとも二種類いると思われる。ひとつは悪いと思いつつ何らかの事情で犯罪に手を染めてしまった者。もうひとつは生い立ちの過程で犯罪になんの抵抗も覚えなくなった者。そう,ヤクザのような人達。この男は後者の部類に入るようである。こういう奴らはもはや救いようがない。塀の向こう側で税金を費やしてでも三食食わしてやったほうが国益に適う。

* * *

8 月 15 日土曜日の朝日新聞・文化欄に「日本人の戦争観 多様」なる記事が掲載されていた。『日本人の戦争 作家の日記を読む』を巡って著者ドナルド・キーンに取材したコラムである。「わかったことは,日本人特有の戦争観といったものはない,ということです。戦中,米国の軍人の大半は日本人を狂信的だと思っていたが,日記を読むと実に多様だったことがわかる。現在,単一的にみえるイスラムや北朝鮮などの人々もみなが同じではない,ということを伝えたい」とキーンは語っている。

「良識」とはこういう態度のことをいうのだ。広く資料を読んで対象を理解しようとする姿勢。戦時中の日本人は一律に狂った民族だと欧米から思われていた。いま,核開発問題,ミサイル問題,拉致問題等々,北朝鮮の国民は日本人に同様の目で見られている。しかしこれらの問題の責任は北朝鮮政府・権力者にある。ネットで「北朝鮮を空爆しろ」と騒いでいる奴らは,マスコミの偏った報道・政府のプロパガンダに乗せられているだけなのに,自分の目で確かめようなどとはこれっぱかしも思わず,自分が正しいと思い込んでいる。そういう良識のない衆愚性こそが,民間人に対する無差別な空爆や原爆投下を正当化するのである。

北園克衛詩のロシア語訳について先日メールのやりとりをしたニューヨーク在住のロシア詩人から,今日,連絡があった。掲載される予定の文芸雑誌 «Новая Кожа, 2009 No. 2»(日本語にすれば『新たなる皮膚』というのか。ニューヨークで発行されている independent なロシア語系雑誌のようである。米国に移住しても母国言語で創作活動の場を興そうというロシア人たちがいるのだと感心してしまった)の,彼の北園翻訳頁を PDF 版で送ってくれたのである。

冒頭に北園克衛のごくごく簡単な紹介文があった。伊勢で生まれたこと,エズラ・パウンドと文通をしていたこと,アヴァンギャルド雑誌 VOU 編集に携わったことが触れられていた。「モダニズムの古典的詩人」と評されていた。

訳は私がはじめに読んだものから少し変更が加えられていた。うれしいことに,頁の最後に私への謝辞が述べられていた。私の名が "литератураведа Исао Ясуду" と対格形でしるされ,しかも「文学研究者」なる肩書きが付されているのに,照れてしまった。Web サイトを公開していると時おりこういう貴重な経験ができる。

«Новая Кожа» の Web サイトはこちら。そのうち,Игорь Сатановский さんの北園詩翻訳がここにも掲載されるのではないかと思う。

kitasono_novaja_kozha_2009_.jpg

* * *

今週会社の夏期休暇を取った。それで昨日,妻と川崎駅周辺に買い物・食事に出た。Tower Records を何気なくぶらついていたら,前から欲しかった CD を 2 セット見つけ購入した。

ひとつはセルジウ・チェリビダッケがミュンヘン・フィルを指揮したブルックナー交響曲第 8 番ハ短調 1890 年ノヴァク版のライブ録音。私は彼の指揮によるブルックナーの CD を何枚も所有し愛聴している。EMI から 1998 年に出たシリーズが特に好みである。7 番と 9 番を発売当時すぐ手に入れたのだが,この 8 番は買いそびれてその後なかなか入手する機会がなかったのである。

ブルックナーのシンフォニーは一時期,ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによるドイツ・グラモフォン盤をよく聴いていた。ところが学生時代 NHK-FM でチェリビダッケ,ミュンヘン・フィルのライブを聴きその集中力の高さと深い音場に心底感激して以来,チェリビダッケ録音ディスクを待望するようになった。彼は音楽の演奏を「一期一会」と見なしていたようである。録音を毛嫌いした。でも愛好家がそんな演奏を偲ぶ記録を手元に置きたい,というのも人情である。彼の死後,発売されたブルックナーの盤はその感動をもう一度再現してくれた。そのためか,私はもうカラヤン盤をまったく聴かないようになってしまった。

(カラヤンは 20 世紀の大指揮者である。けれども,私にとっては彼の録音は「どれもこれも」優れていて好みの演奏であるにせよ,そのうち個別曲の演奏において彼を圧倒的に凌駕する指揮者の盤が登場し,私にとって最高の盤といえるものがほとんどなくなってしまう,そういうタイプの名演奏家である。モーツァルト,ベートーヴェン,ブラームス,チャイコフスキイ,マーラー,ブルックナー,等々どれも一流であるが「私にとって最高」と言えるのものが残念ながらほとんどない。リヒテルと組んだチャイコフスキイのピアノ協奏曲くらいか。)

Bruckner 8
S. Celibidache(Dir), Münchner Philharmoniker
(Live recording: 12 & 13 Sept. 1993)
EMI Classics (1998-09-30)
 

もう一枚は巌本真理弦楽四重奏団による待望のシェーンベルク室内楽 CD 化である。私はこれまでずっとこの録音をアナログ LP で聴いて来た。Tower Records が企画し,復活させてくれたらしいのだ。1972 年の録音。

この盤ほど気合いの入ったシェーンベルクを私は聴いたことがない。少し解釈の重く生真面目すぎるきらいがあるが,長野羊奈子のソプラノの迫力は凄い。ジュリアード,ラサール,アルディッティよりも私はこの盤を上に置いているのである。このカルテットがシェーンベルクの全集を録音していてくれたらと残念である。

シェーンベルク:浄夜 & 弦楽四重奏曲第2番
巌本真理弦楽四重奏団,
江戸純子(Vla),藤田隆雄(Vlc),長野羊奈子(S)
TOWER RECORDS EMI CLASSIC (2009-03-04)

私は麻雀をしない。点数計算などの細則について不案内である。けれども,上がり役の序列と難易度については,阿佐田哲也の麻雀小説の傑作『麻雀放浪記』を読んでよく知っている。このようなギャンブル青春小説が一大ジャンルとして成立しているのは現代日本大衆文学の特徴なのではないだろうか。競技のルールを熟知せずとも,寝食を忘れてのめり込んでしまう面白さがある。

ふとしたことでツタヤ・レンタル DVD で麻雀映画『むこうぶち』を観た。これは,天獅子悦也作画によるマンガ(雑誌『近代麻雀』連載中)に基づく DVD 作品(封切りはされていないはずである)。Vol.1 は 2007 年発売で現在もシリーズが続いている。主人公・傀を袴田吉彦が演じている。その他出演者に高田延彦,ガダルカナル・タカ,及川奈央。1980 年代のバブル時代が舞台になっており,一晩で数千万が動く高レート麻雀を巡る悲喜劇である。

博打麻雀は,企業経営者もサラリーマンもヤクザもホステスも皆,ルールに則って勝負を行い,狡智と運を競う。優勢だった者が一瞬にして奈落に突き落とされる。まあ,フィクション,作られたスジとして,当然のごとく主人公・傀(人に鬼と書いてカイ)がひとり勝ちする。彼は,四暗刻を聴牌した敵の安全牌を切って逃げる振りをしながら(四暗刻シャボ待ちはどう考えても当り牌を読めないと思うんだけど),九連宝燈をツモってしまう神のような存在である。「御無礼。ツモりました」。いくら低姿勢とはいえ,全能の神を観ていても面白くない。よってもって,作品の関心事は周辺の人々の業(ゴウ)にある。

風間トオル扮する大学の統計学教員がその確率センスを恃んで傀に勝負を挑む。果たして積み込みのごとき神の筋書きでもって,アタッシュケース一杯の万札をすべて傀に負け取られてしまう。紙袋に無造作に金を放り込んで去って行く傀のひと言:あなたは 99 パーセントまで勝ちを収めたが,残りの 1 パーセントのために敗れた。その 1 パーセントとはあなたの「過信」です --- ちょっと笑ってしまうけれども,読みと同時に流れ・運に支配される麻雀という博打,ひいては不確実な世の中の一真理には違いない。かくして,横暴なヤクザや狡賢い成り上がり,自信過剰の大学教授から全財産を巻き上げ,観客の鬱憤を晴らす訳である。

主演の袴田吉彦はそのニヒリスティックな風貌でどんな役回りにも嵌る俳優だと思う。この作品は彼の謎めいたイメージによく合っていた。いつまでたっても二番手のプロ麻雀士・高田延彦とナンバーワン・ホステス役の及川奈央との対比・麻雀を通しての交感,雀荘のオヤジ・ガダルカナル・タカの下町風人情味など,脇役のキャラクターもなかなかよかった。粗末なストーリー性ゆえに C 級にも達しない通俗娯楽映画といえるけれども,麻雀映画として楽しめました。これを観て思い出した。大学時代,友人がひとり雀荘に打ちに行き,ヤクザ風情に大負けして帰って来たのだった。彼は私などの与り知らぬ人生の勉強をした訳か。

雑小説というか「軽い」読み物を立て続けに三冊読んだ。梓林太郎『奥能登・幻の女』(光文社文庫),南英男『覆面猟犬・私憤』(徳間文庫),睦月影郎ほか官能怪異短編集成『妖炎奇譚』(祥伝社文庫)。

いずれも,サラリーマンが出張で長距離移動をする間に,まずスポーツ新聞,週刊誌を処理したあと,持て余した時間を潰すために最後に手に取るような,そして読んだあとは座席ポケットかゴミ箱に捨ててしまって顧みない,そういう娯楽小説である。読む前と後とで己の立ち位置が 1 ミリも変わることのない,そういう人畜無害の文学である。

それぞれ,旅情ミステリ,犯罪サスペンス,官能ホラーである。『幻の女』はなにが書いてあったかもう忘れました。ぬぼーっとした主人公刑事の印象だけが残る,まさに幻のような作品でした。『私憤』には「北朝鮮を空爆しろ,日本も核武装しろ」的右派を侮蔑するような痛快がありました。『妖炎奇譚』は珍しいエロ怪異譚集で,異界の女との濃密なセックス(それらが「夢のような」ではなく,事細かな現実的描写であるのは論を俟たない)によって 18 歳に若返り,人生を生き直すスキ男の話など,なんとも仕合わせで毒・浪漫のない物語ばかり。不満が残りました。エロスは地獄落ちと結合しないとやっぱダメですよね。

この手の小説はどれも,陰に陽にエロティックな描写に事欠かない訳で,まるでお化け屋敷で出て来るいつもの出し物のように結構が決まっている。だからなんの不安もなく楽しむことが出来る。十代前半の少年少女なら鼻血が出てもよさそうな数頁もあるにはあるけれど,オジサンには3本目の低カロリー発泡酒みたいなものである。哀しい。

最後にひと言。それでも,それなりに面白いんだからしようがない。作者はいずれもプロなんである。ワンコインにせよ野口英世一枚にせよ,それに見合う楽しみを与えてくれる。それだけの力量には感服。いずれまた,これらの作家のカストリにほんのり酔わせていただきます。

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ISAO。システムエンジニア。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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