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Ozon から書籍が纏めて送られて来た。ロシアのインターネットマガジンサイト Ozon からの発送書籍は,служва доставки(発送手続き)に付されてから 2 ヶ月程度を経てようやく手元に届く。その間にクレジットカードの引き落としがなされ,慣れないと気掛かりでしようがない。これは,ロシアの郵便事情そのもののトロさではなく,おそらく海外発送物に対する行政による禁制品チェックで時間が掛かっているものと思われる。

今回のお買い物は, Т. Г. Цявловская «Рисунки Пушкина».(Т. ツャヴロフスカヤ『プーシキンの絵』) М.:«Искусство», 1987.; О. А. Седакова «Стихи» и «Проза». в 2-х томах.(О. セダコヴァ『詩集』と『散文集』二巻本) М:«Эн Эф Кью / Ту Принт», 2001.; «Юрий Тынянов. Писатель и ученый».(『作家・学者ユーリイ・トゥイニャーノフ』) М:«Молодая Гвардия», 1966.; А. А. Зализняк «Грамматический словарь русского языка».(А. ザリズニャク『ロシア語文法辞典』) Изд. 6-е, стер. М:«АСТ-ПРЕСС», 2009.

タチヤーナ・ツャヴロフスカヤの『プーシキンの絵』は,詩人プーシキンが詩文のマニュスクリプト余白などに描いた言わば落書き絵に関する研究書である。プーシキンは 18 世紀的教養人の教育ゆえに,絵の素養もあったのである。この本を眺めていて,興味深いことに気づいた。

プーシキンは女性の足フェチだったことがつとに知られており,『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章 32--35 節に --- 4 詩節も費やして ---,女の足を歌った有名なくだりがある。この一連の詩の「足」は緑の草を歩む白い素足の変奏だと,私はなんの理由もなくごく自然に思い込んでいた。ルネサンス風の健康的な神話的エロスの伝統もあるのだろう。ところが,本書に掲載された「女の足」の落書きを見ると,乗馬用の靴と思しきものを履いている。この絵は直接『エヴゲーニイ・オネーギン』の詩節に関係付けられたものではないけれども,こうした「履物を付けた足」に詩人が「萌え」ていたとすると,私にはちょっと驚きなのであった。『PENTHOUSE』などの海外の成人向雑誌などで,靴だけを履いた女性のヌードをよく見かける。ああ,この趣味かと。西洋人は家屋のなかでも靴を履く習慣である訳で,男と女が情欲に急き立てられて事に及ぶと,往々にして衣服ばかりを剥ぎ取って靴を履いたままとなる。これが一種独特のエロスの型になるというのも頷ける。プーシキンとの間に少し距離を感じた... でも,ちょっとした発見。
 

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足以外にも,プーシキンの好む「悪魔(デーモン)」の絵も印象的であった。
 

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オリガ・セダコヴァの二巻本の詩・散文集は,この知る人ぞ知る女流詩人の,おそらくははじめての著作集である。『野薔薇』,『トリスタンとイゾルデ』などの清らかな詩,紀行文,文学研究論文などの散文が集められている。かの高名なビザンティン文学研究者セルゲイ・アヴェリンツェフが序文を書いている。いま私は,プーシキンの『青銅の騎士』についての彼女の論文: «Медный Всадник»: композиция конфликта.(1991) 『«青銅の騎士»--- 葛藤の構成』を読んでいるところである。
 

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ユーリイ・トゥイニャーノフの書籍は,彼の友人たちによる回想録とも言える文集である。ヴィクトル・シクロフスキイ,ボリス・エイヘンバウム,リディア・ギンズブルク,セルゲイ・エイゼンシテインといった錚々たる文芸学者,映画人たちの手記から成っている。1966 年,かつて禁止されていたロシア・フォルマリズムの遺産が「雪解け」のおかげで陽の目を見つつあったころの出版である。作家・文芸学者ユーリイ・トゥイニャーノフは私にとってはなによりもプーシキニストであって,ロシアの文学研究者としてもっとも尊敬するひとりである。1920 年代にすでに「構造」という概念で --- структура ではなく конструкция という用語だった訳だけど --- 文学作品を分析していた。しかも,実証主義的・文献学的アプローチで論を固めて行く紛う方なき「学者」なのであった。こういう点に,フランスの構造主義的文芸批評家(彼らは哲学者・文学者として名を残しても,「学者」ではない)とは一線を画するロシアの文芸学の特徴があり,60 年代以降のロートマン,イヴァノフに引き継がれる伝統がある。私はトゥイニャーノフという人に,その業績のみならず人間として興味をもっている。革命前後の大いなる文化興隆の一体現のように思っている。

アンドレイ・ザリズニャクの『ロシア語文法辞典』(2009 年第 6 版,初版 1977 年)は,ロシア語語形変化パターン辞典と言ったほうが誤解が少ない。本書は,コンピュータでロシア語を解析しようとする計算機科学者にとっても重要な文献のひとつになっており,ロシア語形態素解析ソフトウェアはほぼ間違いなく本書の語形変化パターンの恩恵を受けて開発されているのである。そういう訳で私も最新版を手元に一冊。

講談社文庫から高橋克彦の自選短編集が何冊か出た。高橋克彦は,『写楽殺人事件』,『北斎殺人事件』以来,日影丈吉,中井英夫,夢野久作,小栗虫太郎,江戸川乱歩,久生十蘭,横溝正史と並んで,日本のミステリー作家のなかでもとくに私の贔屓にしているひとりである。そして恐怖小説の質の点では,これら作家のなかでもベストといってよい。

自選ということもあり,収録作品はいずれも甲乙つけがたい佳品である。『ゆきどまり』,『ねじれた記憶』,『母の死んだ家』,『うたがい』,『寝るなの座敷』,『私の骨』... 私の偏愛からすれば,いわゆるホラー小説とは違って,高橋の恐怖小説はおぞましさ・グロテスクではなく,恋愛小説の土俗的歪みにこそその本領がある。東北のどこか荒唐無稽にすらみえる怪異伝説に,母性的存在への近親相姦じみた思慕や,記憶・人間意識そのものの踏み外し・裏返しやを絡めて,ドロドロした情念を描く。歪んでいる。けれどもめちゃくちゃ甘美なんである。こういう短編を読んでいる時がいちばん私は仕合わせである。

『寝るなの座敷』には座敷童子(ざしきわらし)の話が出て来る。

不意に背中から声がかかった。振り向くとおかっぱ頭の六,七歳の少女がスケッチブックを覗きこんでいた。[ ... ] 黒い利発そうな瞳に生気が溢れている。赤いスカートから伸びた細い膝頭には擦ったかさぶたもあった。頬っぺたの赤い元気そうな子だ。
『高橋克彦自選短編集 2 恐怖小説編』講談社,2009,p. 448. 下線は私。

これは,洟垂れ小僧や頬の赤い子供が最近どうしていなくなってしまったのかとの不審感を抱かない者には,絶対に引っ掛からない描写である。つまり「わかる人にはわかる」描写 --- 高橋の唸らせる手法のひとつ。こういう白昼のさりげない筆致はあとで思い出して怖くなる。この子は主人公が宿泊する旧家の座敷童子だった。主人公はその「寝るなの座敷」で怪異に遭遇するが,座敷様の眼に叶い,美しい娘の婿として認知される。

私の妻は岩手県和賀の生まれである。ある年の冬,彼女の実家をはじめて訪れた寒い夜,私は立派な丹前を宛ってもらい,妻の祖母と炬燵で世間話をした。私は無遠慮にも手酌でひとり麦酒を呑んでいた。そのあと寝間でぼっとしていると,妻が部屋に入って来た。私には,そのときの彼女がおかっぱ頭の頬の赤い子供のように見えた。と同時に,私の着た丹前の右肩に巨大な亀虫が止っているのにふと気づいた。その悪臭をなぜか私は,心置きなく味わうように目を閉じて深く吸い込んだ。翌日,妻の両親に「娘さんをください」と申し入れた。あとで妻から聞いたところによれば,祖母 --- もう亡くなって二十年近くになる --- が私を一目見て太鼓判を押してくれたので,妻の両親はなにも言うことがなかったそうである。

昨日の夜中の三時ごろ,『寝るなの座敷』を読み終わり便所で煙草を吸っていたら,突然,その北上の夜の記憶がありありと甦って来た。私は了解した --- あれは妻ではなく座敷童子,あの部屋は『寝るなの座敷』だったのだ。ベッドでは妻が静かに眠っていた。私は布団に潜り込みながら,「さっきトイレで座敷童子に逢っちゃったよ」と冗談混じりに囁いた。すると妻は「その子,消えていなくなっちゃったんじゃないよね?」と,背を向けたままはっきりと応えてまた静かになった。私は本当に怖くなった。

座敷童子がいなくなるとその家は不幸になるそうである。
 

FreeBSD のインストールをする合間に,西鶴『好色五人女』を読んだ。

この作品は,『好色一代男』のような遊郭を舞台としたスキ者の運命ではなく,主として町人男女の姦通とその悲劇的結末を物語るものである。当時世間に騒がれた姦通スキャンダルを題材にしたものだという。要するに色事のプロではなく,パンピーが主人公であり,それだけ男女の業がより浮き彫りになっているともいえる。どこまで事実でどこからフィクションなのかがわからない醜聞話であって,おそらく当時はいまの週刊誌の芸能ネタとまさに同じように読まれたに違いない。

艶笑と滑稽,そしてその残酷なまでの哄笑に支えられた悲哀。これがこの物語の魅力である。安価な正義観や倫理観抜きに,色恋をここまで笑い倒すのは痛快であり,また狂ったような残酷さがその笑いになんともいえない悲哀を滲ませる。唸らさせられるのである。

巻一『姿姫路清十郎物語』では,清十郎とお夏は駆け落ちに失敗して連れ戻されてしまう。引き離された挙句,清十郎はあらぬ罪で処刑されてしまう。それを知らぬお夏は,口性ないガキどもの歌う世の風聞囃子を耳にする。

何事も知らぬが仏,お夏,清十郎がはかなくなりしとは知らず,とやかくもの思ふ折節,里の童子の袖引き連れて,「清十郎殺さばお夏も殺せ」とうたひける。聞けば心にかかりて,お夏育てし姥に尋ねければ,返事しかねて涙をこぼす。「さては」と,狂乱になつて,「生けて思ひをさしやうよりも」と,子供の中にまじはり,音頭とって歌ひける。
新版『好色五人女』谷脇理史訳注,角川文庫,2008 年,185--6 頁。下線は私。

主人公をスキャンダルで物見高い世間の食い物にしつつ,ヒロイン自らにその面白半分の歌の音頭をとらせるなんて,残酷としかいいようのない狂い方をさせている。巻五『恋の山源五兵衛物語』は形式的にはハッピーエンドとなっているが,落ちぶれ,食うに困った主人公・源五兵衛とおまんに,我が身の上をパロディにするヘタな芝居事を子供相手にさせている。

「思へばいやのならぬ陥し穴,釈迦も片足踏ん込み給ふべし」--- 誰も拒めない女のあそこの落とし穴には,お釈迦様だってきっと片足を踏み込んでしまいなさる(296 頁)。「ほんにおれは,生まれ付き横ぶとれ,口小さく,髪も少しは縮みしに」--- あたしは,生まれ付き太めだけど,あそこは締まって毛も縮れているんだから(176 頁)。このようなあけすけでいきいきとした下ネタがわんさかとあり,もう笑いが止まらない。
 

近所のお婆さんが亡くなって,プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』の一節を思い出した。第二章,三十六詩節,ドミートリイ・ラーリン(女主人公タチヤーナの父)が亡くなったときの場面である。ドミートリイは典型的な田舎貴族で,女房の尻に敷かれながらも「何事もしごくのんきに信用しつつ/飲み食いも部屋着のままで済ませていた」憎めない善良な人物として描かれている。その死の描写は次のとおり。

昼食の前の刻限 隣りの地主や
子供らや忠実な妻などの 普通(なみ)よりは
真心のこもる涙に送られて
彼はあの世の人とはなった。
木村彰一訳,講談社文芸文庫,1998 年,97 頁。

この件を読んで凄いと思うかどうかが,プーシキンのファンとドストエフスキイのファンとの分かれ目だと私は勝手に思っている。ここには,人間の死の呆れるばかりの皮肉な日常性と,それでも死に対する厳粛極まりない人間感情が,渾然と「表現」されている。ここでは,人間の死が「昼食」の時間を基準に計られているのである。昼飯のまへにあるじは逝きにけり。「なみよりは」という第三者的な眼差し。このような諧謔と同時に,「忠実な妻」(尻に敷かれていたことを読者がいやというほど知っているからこそなおさら),「真心のこもる涙」というウラのない表現が,日常性で貶められた現実に笑えない厳粛さを帯びさせる。なにか「真実」を悟った気持ちになる。ロシア詩の研究者・バエフスキイは,この昼食時の言及には牧歌の伝統が下敷きにある,と分析している。私は,このような何の変哲もない日常風景の描写に諧謔と厳粛,さらには文学伝統まで詠み込む重層性こそが,プーシキンという天才の面白さだと思う。これは --- 文学伝統のレミニサンスは別として --- ロシア語原典に当たらなくても読み取れるものである。

歳をとったせいか,最近,この手の深い日常的表現に出会うと,感極まって涙が出て来てしまうようになった。正岡子規の「甁にさす藤の花房みじかければ疊の上にとゞかざりけり」という短歌に肝をつぶすのである。人間の生の静けさは軽やかで,動かず,そしてどこか狂気が籠っている。だから美しい。

私はプーシキン,正岡子規の逝った年齢をとうに通り越してしまった。天才的文学者のことばに人生を教えられ,生きることの密度の違いを思い知らされる今日このごろである。

御用納めとなり,2009 年も残すところ二日となってしまった。先頃,今年を象徴する漢字は「新」ということが清水の舞台から公にされたが,それぞれ皆,各々の今年の一文字があるかと思う。私の場合,不況でまったくつまらない今日この頃,「暇」であった。また死ぬほど顧客に虐められ,トラブルで火を噴く現場の喧噪に包まれたい,という思いも無い訳ではない。

妻にせっつかれてやっと年賀状を作った。娘の描いた虎の画をスキャンして,Mac OS,Adobe Photoshop で加工し,Illustrator で文字周りをぺぺっとレイアウトして 30 分で完了。とりあえず 50 枚印刷。

公開したばかりの OldSlav について,奥村先生のサイト TeX フォーラムにおいて,観点鋭くかつ学術性にも配慮した指摘をいただいた。自分の用途に足りるレベルで作ったものを公開しているに過ぎないのだけれど,ハイレベルな反応をもらうとなんともうれしくてたまらなくなる。教会スラヴ語日付様式の典拠,韓国語 inputenc との共存など,重い課題が多くて,システマチックにその指摘に対応するのは難しいところがあり,いま手元にある文献や試験環境でできる範囲で設計を見直し,訂正して,今日公開した。SlavTeX オリジナル CP866 コード入力での互換性は inputenc との絡みで今回犠牲にした。だいたい今や誰も使わないエンコードに拘っても意味がない。ダウンロード頁から oldslav-1.1.{tar.gz, zip} を落としてお使いください。

明日は我が家の大掃除。ここのところ仕事から帰宅したあと OldSlav の改造に夢中になってしまい,妻から家事を手伝わないと責めまくられている。

* * *

アンナ・アフマートワの詩集『ヴェーチェル(夕べ)』を工藤正廣訳(未知谷刊)で読む。ロシア詩のスタンザ毎に短歌として訳した珍しい翻訳である。工藤先生も健在だなあ,という思いがこの書を手にしたそもそもの理由である。

アンナ・アフマートワは 20 世紀ソヴィエトの女流詩人。彼女の詩は,至る所に死の匂いが染み付いている。己の死後の現実の感触を透視し聞きとろうとする心の闇がある。「あまりにも生を望みしそのわれの冷たき屍手おくひとなし」(p. 115)。スターリンの大粛正で夫(第一級の詩人ニコライ・グミリョフ)が銃殺され,わが子がシベリヤ送りとなったこの天才にあって,死の日常性が事物に取り憑いてさりげなく漂うのは,文学的衒いでもなんでもないのである。

夢おそく不眠の窓にまた白くご機嫌ようと白きカーテン(p. 15)
氷結し狭き運河の流れずにおゝ新しきこともなき地よ(p. 49)
太陽の記憶こころに弱まれば闇のこの夜にまさに冬来る(p. 50)
日没に針葉の森消えゆくを見つつ聞きおりきみに似し声(p. 110)
酩酊の葡萄匂える遠景にわれ惜むなしきみ虚無の声(p. 164)
 
夕べ―ヴェーチェル
アンナ・アフマートワ
工藤正廣・短歌訳
未知谷

OldSlav 1.1 を開発したところであるが,1 点致命的なバグを見つけた。OldSlav は \< という気息記号アクセント命令を定義している。ところが,ptetex UTF-8 対応のためにこれを \DeclareTextAccent で登録したため,グローバルに \< を書き換えてしまい,通常このコントロール・シーケンスに割り当てられている \inhibitglue を上書きしてしまっていたのだった。訂正版(同じアーカイブ名なんだけど)をアップしたので差し替えていただけると幸いである。oldchurchslavonic 環境外では \inhibitglue\< で機能するようになるはずである。

ところで,教会スラヴ語訳聖書を眺めていて,その組み方を LaTeX の環境命令として実現するマクロがあると便利だと思った。聖書の組み方は次のようなものである。章の第一節・第一文字をインデントなしでドロッピングする,つまり,文頭の一文字だけを大きな文字で飾り組みする(古い文献によくあるマナーである)。二節目以降はインデントして教会スラヴ語様式で節番号を表示し,本文を続ける。その実際の教会スラヴ語聖書での姿をここに掲載したので,関心のある方は確かめてみてほしい。

ocsbiblija 環境マクロを作成してみた。ドロッピングは第一文字を \LARGE にし,\lower 命令で文字を下にずらすことによりレイアウトする。改段落のつどカウンタを回して,それが 2 以上の場合,自動的に教会スラヴ語の節番号を先頭に出力する。これは \everypar を再定義して実現する。第一節の 1 行目をインデントしないよう,\setbox0=\lastbox でインデントのボックスを取り除く。 一方,2 行目だけはドロッピング文字とのバランスを考慮し,所定サイズの字下げを付け,3 行目以降はインデントしないよう,\parshape 命令で調整する。設計はこのようなものである。以下にそのコードを示す。
 

% ocsbiblija 環境の定義
% - \begin{ocsbiblija}[<d|other>]{第一文字}本文 \end{ocsbiblija}
% - オプション d なら第一文字をドロッピング(デフォルト),それ以外はそのまま
% - 第一文字はグルーピングが必要
\makeatletter
% ocsbiblija 環境の設定パラメータ初期値
\newdimen\ocsbibindent \ocsbibindent=0.65em\relax% 節番号前のインデント
\newdimen\ocsbibskip \ocsbibskip=0.3em\relax% 節番号と本文のアキ
\newdimen\ocsdropsize \ocsdropsize=0.45em\relax% 開始文字の下げ寸法
\newdimen\ocshangsize \ocshangsize=1.65em\relax% 第一節 2 行目のインデント
\def\ocsbiblija{\@ifnextchar[\@ocsbiblija{\@ocsbiblija[d]}}%
\def\@ocsbiblija[#1]#2{% #1 最初の文字; #2 ドロッピング対象文字;
  % 第一段落の定義
  \dimen0=\linewidth \advance\dimen0 by-\ocshangsize
  \if#1d% dropping の場合 2 行目だけを \oocshangsize 分インデント
    \parshape 3 0pt \linewidth \ocshangsize \dimen0 0pt \linewidth
  \else% そうでない場合インデントしない
    \parshape 1 0pt \linewidth
  \fi%
  \leavevmode\setbox0=\lastbox% \parindent>0でもインデントを除去
  \if#1d\lower\ocsdropsize\hbox{\LARGE#2}\else#2\fi% dropping
  % 第二段落以降の定義
  \@tempcnta=1\relax
  \everypar{%
    \advance\@tempcnta by1\relax
    \ifnum\@tempcnta<1\relax% 第一節は節番号を振らない
    \else% 第二節以降は教会スラヴ語様式で節番号を振る
      \makebox[1em][c]{\slnum(\the\@tempcnta).}%
      \hskip\ocsbibskip\relax
    \fi%
  }%
  \parindent=\ocsbibindent\relax% 第二節目以降は \ocsbibindent 分インデント
}%
\def\endocsbiblija{\par}%
\makeatother

\begin{ocsbiblija}[オプション]\end{ocsbiblija} の間に本文を記述する。オプションに d 以外を指定すると,ドロッピングせずノーマルサイズで第一文字を組む。各種アキ,インデント幅,字下げ量はパラメータ初期値にあるコントロール・シーケンスを再設定すれば調整できる。本文の第一文字はグルーピングしなければならない。節毎に空行を入れて本文を記述してゆくと,第二節以降,自動的に節番号が教会スラヴ語様式で段落冒頭に出力される。

このマクロをプリアンブルに記述し,upLaTeX で組んだ画像を以下に示す。LaTeX 原稿: ocsbiblija.tex と PDF: ocsbiblija.pdf も掲載しておく。multicol.sty で二段組みにし,段組み線を入れると,まさに教会スラヴ語聖書らしくなった。
 

ocsbiblija.jpg

このマクロを OldSlav にも入れようかと思ったが,その他の教会スラヴ語マナーを含めもう少し総合的なマクロ集ができた段階にすることにした。

今回,\parshape\everypar,インデントの仕組み等々の解説で Victor Eijkhout の著書『TeX by Topic』がとても役に立った。LaTeX マクロを自作したい方は必携の文献である。
 

Ozon から本が届いた。«Библія, сирѣчь книги Священнаго Писанія Ветхаго и Новаго Завѣта на церковнославянскомъ языкѣ съ параллельными мѣстами, СПб.: Синод. типогр., 1900»--- 教会スラヴ語訳旧約・新約聖書,Сѷнодальнаѧ Тѷпографїѧ シノダーリナヤ・ティポグラーフィヤ(ロシア宗務院印刷所)による 1900 年刊行本の復刻版(Российское Библейское Общество, М. 2005. ロシア聖書協会,モスクワ,2005 年刊)である。教会スラヴ語関連の学術文献目録の筆頭にしるされるべき権威ある版である。長らく探し回ってやっとの思いで手に入れた古書。768.6 ルーブリ,日本円にして 約 2,400 円也。

正教会の八端十字架がカバーに押されている。クラシックな教会スラヴ語文字による二段組み。総 1,660 頁のノンブルはすべて教会スラヴ語の数様式で振られている(アラビア数字のない教会スラヴ語文献では,例えば 2009 を "oldchurchslavonic numeric style 2009" と表現する。ローマ数字で 2009 を "MMIX" と表現するのと同様である)。惚れ惚れしてしまう美しい版である。洋書は紙質に対しておよそ拘りがないけれども,本書には,日本の辞書で用いられるような薄く,かつ勁い上製紙が用いられている。装丁も皮クロスで立派である。聖書だけは別格らしい。私の所有している現代ロシア語訳新約聖書,ギリシア語コイネー原典新約聖書も,同じ上製紙が使われていた。

教会スラヴ語訳聖書カバー・扉・ヨハネ黙示録冒頭

教会スラヴ語訳旧約・新約聖書は,本国ロシアの Ozon でも本当にめったに売りに出ないので,私は今回の掘り出し物が嬉しくて堪らない。入手してすぐ,奥村先生著『改訂第4版 LaTeX2e 美文書作成入門』の多言語の章において Babel 組版例にあげられている『ヨハネ福音書』の冒頭(J 章, p. 357)を,この教会スラヴ語訳聖書からの引用により,拙作教会スラヴ語 LaTeX パッケージ OldSlav を用いて組んでみた。実際は節番号が教会スラヴ語様式でしるされているが,これは省略した。

ヨハネ福音書冒頭LaTeX組版
ヨハネ福音書 1.1--1.10 教会スラヴ語訳 LaTeX 組版
ヨハネ福音書冒頭(書籍の該当部分)
ヨハネ福音書 1.1--1.7 教会スラヴ語訳 書籍の該当部分(節番号付)

LaTeX 原稿は以下のとおり。これは OldSlav SlavTeX オリジナル記法でコーディングしているので,このままではコンパイルできず,拙作 Utf82TeX で変換する必要がある。ulatex evangelie_ioanna.tex でコンパイル,PDF 生成を行った。いちおう,LaTeX ファイル: evangelie_ioanna.tex組版結果 pdf: evangelie_ioanna.pdf もリンクしておく。

% -*- coding: utf-8; -*-
% ヨハネ福音書より 1.1--1.10
% ЕѴА'НГЕЛїЕ Ѿ ІѠА'ННА.
%                2009 (c) isao yasuda, All Rights Reserved.
\documentclass[11pt,b5paper]{jsarticle}
\usepackage[dvips]{color}
\usepackage[T2A,T1]{fontenc}
\usepackage[oldchurchslavonic]{babel}
\pagestyle{empty}
\renewcommand{\baselinestretch}{0,8}
\begin{document}
\selectlanguage{oldchurchslavonic}%
\parindent=0pt\relax%
%<utf82tex_s>
\begin{minipage}[t]{70mm}%
  \hfil{\color{red}^ЕV'АНГЕЛIЕ Q ^IW'АННА.}\hfil\par
  \vspace{0.5em}%
  Въ нач'алэ б`э сл'ово, ^и сл'ово б`э къ б_гу, ^и б_гъ б`э сл'ово.
  С'ей б`э ^искон`и къ б_гу:
  вс^я т'эмъ б'ыша, ^и без\ъ нег`w ничт'оже б'ысть, "eже б'ысть.
  Въ т'омъ жив'отъ б`э, ^и жив'отъ б`э св'этъ челов'экwмъ:
  ^и св'этъ во тм`э св'этится, ^и тм`а >eг`w не >wб\ъ'ятъ.
  Б'ысть челов'экъ п'осланъ q б_га, "имя >eм`у ^iw'аннъ:
  с'ей прi'иде во свид'этелство, да свид'этелствуетъ ^w св'этэ, 
  да вс`и в'эру "имутъ >eм`у.
  Не б`э т'ой св'этъ, но да свид'этелствуетъ ^w св'етэ:
  б`э св'этъ "истинный, "иже просвэщ'аетъ вс'якаго челов'эка 
  гряд'ущаго въ м'iръ:
  въ м'iрэ б`э, ^и м'iръ т'эмъ б'ысть, ^и м'iръ >eг`w не позн`а:
%</utf82tex_s>
\end{minipage}
\end{document}

先日,とある大学の先生とメールのやりとりをした。misima について丁寧な文面でお礼をいただき,私は嬉しかった。彼は「最近の大学生はまったく本を読まない」とこぼしていた。だから旧字・旧仮名遣いの文章で少しは学生の関心を惹きたい,と。「だとしたら,そんなバカ学生は旧字・旧仮名遣いという見た目にしか目を止めませんよ」などといった冷や水は言えなかった。教育者としての先生の真面目な工夫に私は感心したからである。

私は会社員なので,新入社員の知力には注意を払っている。学生の読書量については昔と比べてあんまり変わらないのではと思っていた。というか,同僚は皆,理科である。その学生時代の読書傾向にも偏りがある。そもそも,一般の学生の傾向を新入社員から推し測るには無理がある。同僚達は,本の話題はコンピュータ関連図書ばかりで,しかも強烈な飛ばし読みをする。理科の人は結論の書いてあるところを探して読む習性があり,しかも図面やグラフ,数式だけで論のだいたいを理解する能力を備えていて,文系の私は驚かされる。知識の習得を特殊なパターン認識能力でもって行っていると,私などには見受けられる。つまり「読む行為」は二次的のようなのだ。とはいえ,この行為だって,図面や数式と文章とを相互作用させて理解を確実なものにしている訳で,やはり活字のトレース要素は無視できない。

「まったく〜ない」という表現は主観の幅がじつに広い。私はわが新入社員の印象からしても先生のボヤキがピンと来なかった。だけど,うちのガキどもの活字ギライをみると,最近の学生は文字通り,ホントに,纏まった文章をまったく読まないのではないかと心配になる。「本を読まない・読めないヤツが大学なんて行くんじゃねえ」と私は我が子を叱り飛ばしている。子供達は,携帯メールでブツブツ断片的なことばを送り合い,「空気を読み」合っている。そして,ふとした文言で根拠のないキレ方をする。「空気」に侵されたのである。まったく悪意が「読み取れない」のに。ことばの論理にいい加減なゆえに「空気」を読もうとして勝手に気分を左右する。このように,携帯メールのこの時代,纏まった文章で論理的に意思疎通を図るようなコミュニケーション,思想の伝達は,いまの若い人には望めなくなってしまったのだろうか。「携帯をもったサル」というような表現をどこかで目にしたが,携帯電話が低能児養成ツールになってしまっている現実を認めざるを得ない。義務教育にある子供にはその所持を禁止すべきだと私は真面目に思う。

その一方で,子供達は,人が何を言っているかという論理ではなく,視覚的要素で人を分類する癖がある。「うちのクラブのXX先輩,このタレントに似ている」云々。人物評は「〜に似ている」しか思いつかないらしいのだ。そういうとき,私は「だからなんだ。人を見た目で極め付けるな」と叱る。「極め付けてる訳じゃないよ」---「『似ている』と表現すること自体,外見に薄っぺらい価値観を貼付けていることに,お前は自分で気づいていないだけだ。見た目で判断するなら,少なくとも『あの目つきは他人を軽んじるタイプだ』くらいの観察がほしいね」。でも,どうもこの傾向は,近頃の若者全般に及ぶような気がしてならない。ネットをうろついていても,「戸田恵梨香似の女」といった,人の素描のじつに貧しい舌足らずの表現にぶち当たらない日はない。

何かの論理ではなく視覚的印象で軽率に人物を類型化する傾向は,思うに,ことばの論理に鍛えられていない証拠である。もとより,ことばの論理と見た目判断とは直線的に結びつくはずはなく,私の意見には少し飛躍があるだろう。それでも,ことばは行為や事物の,視覚に依存しない本質を指向する発言者の論理を表す。ことばを尊重する者は,視覚的印象よりもことばで示しうる特性・内容(「〜に似ている」などという包括的印象ではなく「〜と言っている,〜を身につけている」等々の具体的属性)に,より判断の重点をおくものだと私は考えている。見た目で判断する者がことばに鍛えられていないというのも,ここにその理由がある。逆もまた真なりだと思っている。

Web で伝えたいことをきちんと書いても,おそらく 3 行以上のパラグラフになると,もう読まれないのではないか。Twitter というのが流行っているそうである。「つぶやき」くらいの量でないと,もはや読んでもらえない。若者は「つぶやき」を見て「空気を読」み,それでパソコンの前で勝手にキレている。そういう時代だということか。

山口椿という作家をご存知か。エロティスムの画家にして作家。チェロもよくする趣味人である。この『ロベルトは今夜』は,祥伝社文庫が「山口椿エロティシズム・コレクション」の一冊として刊行したものである。著者自身によるカバー画と挿絵で彩られ,なおかつ半透明の硼酸紙による帯にくるまれ,文庫本としてはなかなか洒落ている。

本書は,連作短編『罌粟のように Les Coquelicots』と二つの戯曲『薔薇と夜鶯 Rosent et Merleuse』,『ロベルトは今夜 Roberte ce Soir』から成る。これらは,西欧の淫微なエロスの伝統に一度は嵌ったことのある者にとっては,「ああ,これこれ!」式の紋切型であるがゆえにこそ,堪らない蠱惑を湛えた官能文学なのである。要するに「エロ文学」。そういう意味では,大衆文学の一大ジャンル・官能小説と変わりがない。

ここで直ちに,大衆官能小説と山口椿作品との違いは何か,との疑問が起こる。というのも,前者が,ほぼスケベ・オヤジで占められる読者たちが暇潰しに楽しむ,機能的にはエロ・グラビア週刊誌,アダルトビデオとさほど変わらない「興奮道具」であるのに対し,後者は,まぎれもなく「趣味と教養ある大人」のための頽廃美を装い,どうも知的で若い女性(そうそう,女子大学生など)が堂々と読むべき気品と風格とを備えている --- らしいからである。現に,この文庫本の解説を書いているのはファッション・エッセイストの光野桃である。このことこそ,若い「ファッショナブルな」女性の趣味を代表している証左といってよい。なぜ同じ「エロ」で,こんなことが起きるのか。

文庫の帯文には,光野桃の『エレ・マニ日記』からの一文が引かれている。

時代物から精神病理学,デカダンの香り高い幻想潭まで,山口椿の知識と趣味は広大な地平を持っているのである。不倫小説が流行し,貧しい官能と,肉体のない男女の絡みが横行しているこの世紀末,素人臭い性の世界にはもう,うんざりだと思う。
山口椿『ロベルトは今夜』祥伝社文庫,1999 年,光野桃による帯文より。

「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」でしかない不倫小説=大衆官能小説がコキ下ろされている訳である。でも,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」とはいったいどういうことか。この帯文からだけでは判断しようがなく,光野桃『エレ・マニ日記』そのものを読まないといけないのだけれど,どうもきちんとした定義ができるとは思われない曖昧な表現である。要するに,山口椿作品の「知識と趣味」こそが大衆官能小説との決定的な違いだ,というのが光野の意見だと読みとってよいだろう。ここがスケベ・オヤジと知的な若い女性との読者趣味を截然と分断する,という訳だ。

そう,「知識と趣味」。欧州の「香り高い」頽廃趣味と文学的・精神病理学的ハイブロウは,確かに山口椿作品に横溢している。要するに,光野は山口椿作品が「高尚なエロティスム」であり,大衆官能小説の下劣な「素人臭い性の世界」とは違う,とでも言いたいのだろう。しかしながら,山口椿作品において言及される,それを象徴する属性 --- シャルル・ボードレール,オスカー・ワイルド,ポール・クロソウスキー,ピエール・ド・マンディアルグ,アンリ・バルビュス,マルキ・ド・サド,ジークムント・フロイトなどなどの名前は,西欧のエロティック文学の聖化されたオーソリティであり,糞尿とサディズムに充ちたポルノグラフィの嗜好も,ジョルジュ・バタイユをはじめとする「悪の文学」の論客によって理論的筋道を付けられて久しい,いまや安心できる「伝統」であり,新機軸が纏う危険性はどこにもない。

[ ... ] そして,あの性臭が,濃い霧のように,ロベルトの下半身を掩ってくる。
 それは,いささか忌まわしげな匂いだった。
 [ ... ]
 その匂いは,とても高価な香水,たとえばゲランや,コティのあるものによく似ている。
 それは,注意深く嗅いでみると,微かに糞便の匂いが入りまじったものだ ......
同書『ロベルトは今夜』,pp. 184--5.

糞便と香水という「性臭」の陰湿な取り合わせは,現実のあの匂いを現代の知性によって精密化した表現であるというよりもむしろ,バタイユによって定式化され,そのことによって解毒された,十九世紀末以来の頽廃文学の伝統的「紋切型」なのである。こうして,現代的リアリティから遠いという点では,山口椿作品のエロスは,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」たる大衆官能小説と本質的にはあまり変わらない。権威付けられた頽廃なんて,「頽廃」だろうか? 名辞矛盾というものではなかろうか? 光野さん,西欧の「高尚」な伝統の雰囲気に騙されていませんか? 権威付けられた頽廃美にただ感心しているだけではありませんか? 日本の女性は,かつて,神代辰巳監督の日活ロマンポルノには眉を顰めながら,一方でおフランス製 un cinéma pornographique『エマニュエル夫人』の上映には映画館に列をなして恥じなかった,そういう不思議な習性がある。イヤらしさの本質はどっちも同じだっちゅうの。

山口椿と大衆官能小説作家の「エロ」そのものには何の違いもない。型があるという意味で本質は同じである。光野のいわゆる「知識と趣味」の味付けによって --- 西洋起源であることが明らかなゆえに! --- 山口椿作品がハイブロウにみえるだけである。山口椿作品の美点は,じつはその「権威付けられた頽廃」,すなわち西欧的エロスの紋切型が,やはり堪らない魅力を失なっていないということにこそあるのだ。ただのスケベが日本人でなく西欧人に関係しているならサマになるという美学が,西欧崇拝の伝統化した日本人にはある。光野の論理はまさにその美学に幻惑されている。ところが,山口椿はそれを意図的に操っているからこそ,一種独特の読ませる作家になっているのである。作品中にフロイトほか,先に挙げたオーソリティの名前が不必要に言及されていること --- これがパロディー的感性による構成上の意図的寄り道であることは明らかである。その西欧文学ぶりの本質はパロディーにある訳だ。

日本人が西洋の美少女の透き通るような白い肌(「白い裸身の仄青い翳だけが,記憶のなかでひりひりする」--- 同書,p. 98),碧い瞳(「人間という暖かな生きものに,鉱物質のブルーがあることに私は感動した」--- 同書,p. 83),ブロンドの髪(「琥珀の玉座に坐っている人魚の髪」--- 同書,p. 151)に憧れること。括弧のなかに入れたこれら魅力ある表現は「知識」とは無関係である。それでいいではないか。なのにそれを,光野ばりにジェンダー/フェミニスト文学評論風に --- 光野は山口椿の小説を「美しい叔母」に喩え,「女の自由な魂」の発露だと称賛している(同書,「解説」,p. 241)--- 正当化しても,山口椿文学の備えた堪らないイヤらしさは説明できません。日本のインテリは「高尚なエロティスム」を云々するのになぜか急がないではおれない。どうしてエロをエロとして肯定できないんでしょうかね。

山口椿と大衆官能小説作家とは,その描写において,前者のまぎれもない自分自身の生の視線への執着と,後者の道具立ての職人的周到という違いがある。つまり,大衆官能小説のエロ描写の視線は,作家個人の直截的ビジョンというよりもむしろ,ジャンルが強制する職人的/プロフェショナルなフィルターを一枚噛ませている。わかり易くいえば,「作法」がある。だからといって,この相違は,優れた大衆官能小説作家の描写の腕前を否定するものでは決してない。大衆官能小説作家の書法は職人芸であり,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」として棄て去るには --- ヘンタイとエロスを区別できる者にとって ---,惜しい限りである。山口椿はひとえにその「作法」とは無縁で,西欧エロ文学の紋切型レミニサンス(読書記憶による有形・無形の影響)と個人の視線が分ち難く融合して,それにとって代わっている。そこが山口椿エロティスム文学の個性だと私は思う。

植物のように伸びてゆく骨格に,ついてゆかれない肉はうすい。骨格と肉とのせめぎあいを,少女は生きている。
同書『罌粟のように』,p. 62.
ベルリンは怪しい魅惑を秘めた街だ。ゲルマンというものが,表層の整正とは裏腹に,頽れたデカダンスをかくしていることを,私はデューラーや,マレーネ・ディートリッヒから嗅いでいた。いや,そうした気障ったらしい謂いかたを捨てるなら,この国のいたるところに見られる『黄金と群青』は,いったいなんだろう。現世の欲望の象徴でもある『銭』と,はてしなく昏い『絶望』を,並べなければ納得のゆかないひとびと。
同書『罌粟のように』,p. 115.

こういうミクロとマクロの --- 接視とロングショットといったほうがよいのか --- 確かな視線に支えられた,触覚のある描写が,彼の「権威付けられたエロ」に奥行きを与え,学生時代にバタイユや澁澤龍彦を読み過ぎた元 Romantiker の,ただのスケベ・オヤジにとってこそ,懐かしく堪らない魅力になっているのである。大衆官能小説のジャンル的作法との差異がリアリティ(の錯覚)を生み出す。それは「知識と趣味」とは何の関係もない。「通」とはそういう魅力を,余計な,「女の自由な魂」などといった根拠のない正当化なくして,冷静に --- 先行する文学との差異を認知しつつ --- 享受できる読者のことを言うのである。そして,山口椿はそのような読みに応える「通」の作家なのである。山口椿は「下品」極まりない書き方を決して厭わないし,「エロ」そのものとしては大衆官能小説と比べ,どこにも「高尚」の優越はない。「あそこ」のことを山口椿は「ラビア」(つまりラテン語 labia --- labium 「唇」の複数形)と書き,大衆官能小説作家は「ワレメ」,「オマンX」などと書く(下品ですみません),その違いのようなものである。どちらも「人畜無害」という意味では同じである。

それでも西欧の伝統的エロのレッテルは便利ではある。それを「芸術的」と茶化しても皮肉に受け取られないからだ。私が本書を読んでいるとき,娘が横から「何読んでるの?」と聞いた。「ヨーロッパの香り高い,芸術的なエロ小説だよ。エッチな挿絵も入ってる。見せないけど」と私。「だから,おまいらには読ませねぇ。大人のお父さんだけの十八禁じゃ」---「ふうん,でも『十八禁』の本って聞いたことないよ」---「なるほど」。「あ,これ読んでしまった。次,何読もうかな」と私が言うと,娘は「それに毛の生えたようなやつ読めばいいんじゃないの?」。「毛の生えた?」---「そのたぐいの本ってことよ」。陰毛を偏愛するエロ小説のススメかと私はどきりとした。それはともかく,文学は想像力であって,確かに『十八禁』ってのも笑ってしまうわいな。子供たちがこっそり読んでも別に構わないか,とヘンに納得したのでございます。

それにしても。「頽廃と倒錯,異端のサディズム文学!」との本書の帯。「[ ... ] 戦後の拝金主義と画一主義。それらに背を向け,アンダーグラウンドの世界で表現活動を続けることこそ,彼 [ 山口椿: 私註 ] の生を賭けての復讐だったのではないだろうか」(同書,「解説」,p. 240)との光野の言。日本人(とりわけインテリ)は権威付けられた安全な「異端」・「アンダーグラウンド」がなぜこうも大好きなんだろうか,と私はほとほと呆れる。それこそまさに「画一主義」。そんな「アンダーグラウンド」ってあるか? アンダーグラウンドってのは,警察に捕まるということである。ノリピーみたいに世間様から後ろ指を指されるということである。「異端」とはそれに関ると火炙りにされるような何かである。名辞矛盾というのではなかろうか? 文学を甘く見てませんか!
 

沖ノ鳥島に港建設 中国へ主権主張 政府が予算化」のニュース(産経新聞配信)。政府の予算シーリングがかしましいいま,このような政策が予算化されるとの話は興味深い。民主党政権には自民党がなかなか踏み切れなかった自己主張を清々となす体質がある。これはよいことだと思う。沖の鳥島が「岩」ではなく,周辺海域が日本の領海であるという事実の主張は,対中国安全保障シーレーンの重要地点であるだけでなく海洋資源となるこの海域を中国には渡さないという明確な意志表示なのである。日本は東シナ海で中国の好き勝手にやられてきた。沖ノ鳥島事案は,もうそうはさせないということだと思う。

沖ノ鳥島へのこれまでの政府の無策ぶりは,読売新聞政治部が纏めた『検証 国家戦略なき日本』(新潮文庫,2009 年)に詳しい。東アジア共同体構想といい,普天間基地移設問題といい,新政権は米国とも,中国とも,付き過ぎず離れ過ぎず独自路線で外交をしようとする意図を感じる(普天間基地問題対応は米国を怒らせようとする意図が見え見えである。その前にバカなマスコミを怒らせている訳である)。そう,日本の国益を考え,政治的に戦ってほしい。自民党が定着させてしまったこれまでの対米従属根性(対中国政策は嫉妬心による「嫌中」路線でしかなく,対米従属だったのである!)を「しかるべき」姿に戻してほしい。
 

先日,読売のニュースで「源氏物語、幻の続編『巣守帖』か…写本確認」という記事をみた。

どれだけのボリュームで見つかったのか,詳らかではないが,読んでみたい気がする。「『宇治十帖』で,浮舟をめぐる三角関係に敗れる薫に同情した後世の人物が,物語を対照的に書いた “外伝” だといえる」との池田和臣教授のコメントがあった。『源氏物語』そのものがどうも全編,紫式部ひとりの手になるものではないらしいので,作者論議でこの「続編」の価値を云々してもあんまり意味がなさそうである。とくに『宇治十帖』については,文体の多変量解析研究によって紫式部作者説を否定する学説を読んだことがある。もちろん,この『巣守帖』を『宇治十帖』と同列に扱ってよいというのは早とちりである。

先日,冷泉家の文庫から藤原定家筆の古文書が見つかったというニュースもあった。いまこの時代においても「発見」があるというのは面白い。

清水義範という作家は,井上ひさしよりも若い世代のなかで,もっとも偉大なギャグ小説家のひとりだと私は思う。『蕎麦ときしめん』によりパスティーシュ・ジャンルを確立した作家として名を轟かせている。とにかく,彼の小説を読めば,その知的なパロディー,ユーモアでげらげら笑いながら最高のひとときを過ごすことができる。講談社文庫版『国語入試問題必勝法』は表題作をはじめ,七つの短編を収録している。

『猿蟹合戦とは何か』は,太宰治がなぜ『お伽草紙』で『猿蟹合戦』を採り上げなかったのかという問いから話がはじまる。この作品は丸谷才一のパロディーである。丸谷独特の旧字・旧仮名遣いと語り口を真似ていて痛快なのだ。自分の仮名遣いに関する丸谷の断り書きまでパロっていて芸が細かい。そして,この文庫本の解説を丸谷が書いているのが,なんとも笑える。

表題作『国語入試問題必勝法』は日本の受験国語問題,ひいてはマルバツ式の日本の国語教育に対する痛烈な批評である。「次の文を読んで問いに答えよ」なる問題で,その文を読まずにまず問いとその選択肢を読むべきである,とのテクニックが語られる。「まず,このことを知っておくんだ。こういう問題でたとえば選択肢が四つある場合は,大,小,展,外,の四つになっていることが多い。選択肢が五つの場合は普通これに,誤,というのが加わる。[ ... ] この種の問題の正解はこの,ちょっとピントが外れている,外,なんだ」(pp. 43--5)。国語の大学入試問題の本質的愚劣さを嗤いのめしている訳であるが,それは受験生の限界に合わせた結果ではなく,試験を作る教育者側の問題だと暗に語る:

月坂によれば,もちろん世の中には神秘的な気分や,幻想的な美を描いた詩や散文は存在するのだが,国語問題の出題者のレベルではそういう高度なものは理解できない。だから出題するはずがない,というのである。
 奴らが理解できて,喜んで出題するのは,故郷への思い,異国への憧れ,孤独の悲しみ,青春の苦み,くらいが関の山で,どちらにしても人間の心情のことばかりだという。
清水義範『国語入試問題必勝法』講談社文庫,1990 年,pp. 50--1。

問題の本文よりも先に設問と選択肢を読む,選択肢を読むだけで正解がわかることがある --- おお,これ,俺もそうだったぞ,と納得してしまう。私も大学の国語入試問題の回答はテクニックだと割り切っていたほうなのだ。このせせこましさで大学入試を切り抜けたのは事実である。高校生の息子にもこれを読ませた。ところが,きちんと本文を先に読んで回答するタイプだった妻と,国語入試問題への取り組み方について論争になった。「やっぱり,きちんと本文を読んで理解したうえで回答すべきなのよ。だからこの本で笑われているのは,お父さんタイプの生徒だということ」。同じ大学の国文科を出た妻のほうが,国語の成績が私よりも圧倒的によかったのは言うまでもない。この論争の結果,息子がどちらの言うことを聞くのか,これもまた言うまでもない。それでも,清水の穿ったパロディーには大笑いできること請け合いである。
 

シェークスピア『ハムレット』第三幕第一場に,あまりにも有名な台詞 "To be, or not to be" が出て来る。ハムレットのディレンマというものである。「生きるべきか,死すべきか」(小田島雄志訳では「このままでいいのか,いけないのか」となっている: シェイクスピア全集『ハムレット』小田島雄志訳,白水社,1983 年,p. 110)。

これを捩ってアメリカ人学生がよく口にする,次のような半畳があるらしい: "TV, or not TV"。「テレビを観るべきか,観ざるべきか」。娯楽か,勉学か。晩ご飯のとき,この話を子供たちにしてやった。テレビではお笑いバラエティーが放映中。「うん,シェークスピア,知ってるよ」。違うよ。おまいらテレビ観過ぎってこと。「That is the question」。そしたら,すかさず娘が切り返す ---「You, father, too」。あのな。
 

Usconcord ロシア語テクスト・コンコーダンス・パッケージの説明ページを改訂した。これまでは,単語条件式の説明が少し不親切だった。例を入れて詳しくしたのである。

Usconcord は主にロシア語テクストの KWIC(keyword in context)を自動生成するための Web サーバ・ツール・キットである。解析したいコーパス(文学テクストの電子ファイル)をサーバにアップロードし,単語条件式を入力し,解析を指示すると,条件に適合する単語のコーパスにおける出現度数・前後コンテキストからなる KWIC を表示する。コンコーダンス・サイトを運用したいひとはダウンロードサービスから usconcord-1.6.tar.gz アーカイブを取得してインストールできる。コンコーダンス解析オペレーションは Windows で稼働するブラウザから可能であるが,Usconcord サーバ運用は UNIX 環境(FreeBSD,Linux 等のオペレーティングシステムとその周辺ソフトウェア)が必要である(FreeBSD で開発したが,Linux gcc 4 でもコンパイルが通るようにしてある)。Windows ではサーバ・ソフトウェアが動作しない。

もっぱらスラヴ研究者向けに 2001 年にこのプログラムを書いた。とはいえ,対象テクスト処理の内部エンコーディング前提を X11 CTEXT(X Window System Compound Text)多言語形式としている関係で,X11 CTEXT,UTF-8 でコード化されたファイルであれば,フランス語,ドイツ語,スペイン語,ポーランド語,スウェーデン語などなど,だいたいの西欧・東欧・北欧語も処理可能である。正確には国際標準文字集合 ISO 8859-1, ISO 8859-2, ISO 8859-5 で記述できる言語を取り扱うことができる。日本文の解析は未対応である(日本語形態素解析ツール「茶筌」などを用いて予め分かち書きした日本語テクストであれば,処理できないことはない)。

コンコーダンスはある作家,作品群においてことばの用例,単語,フレーズの使われ方を総覧するのに絶大な威力を発揮する。昔からシェークスピア,聖書のコンコーダンスが出版されており,近年,ロシア文学研究文献についてもプーシキン『大尉の娘』,ドストエフスキイ『罪と罰』等のインデックスが刊行されている。しかしながら,手作業で KWIC インデックスを作るのは膨大な労力が必要であり,そのような古典,大作家以外のコンコーダンスはまず入手不可能である。自分の研究する文学作品のコンコーダンス生成,しかも論理条件指定に基づく必要語彙に特化した KWIC 生成を,個人で手軽に実行できる,というのが Usconcord の目的である。

私もプーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』論を書いたとき,Usconcord の元になったツール(弊サイト「プーシキン作品コンコーダンス・サービス」)を用いて,単語の用例・頻度調査を行い,悩ましい論証でブレークスルーを得た。ことばは複数の語義を有することが多いが,作家の用例をつぶさに見ると,単語を使う傾向がわかり,テクスト解釈が争われる論点においてその語義を特定するための根拠にできることがある。私の場合,語の色彩的印影の特定のため共起分析の際に,コンコーダンスを活用した。

文学研究者には Usconcord をぜひ活用いただきたいと願っている。Usconcord はユーザーが自分の Web サーバにインストールして運用するキットである。でもそんな面倒を抜きにして使いたい方は,弊サイトの「ロシア語電子コンコーダンス・サービス」を利用することができる。

選挙の投票に行って来た。川崎市長及び参議院神奈川県補欠選挙である。民主党が勝つんだろうな。幸福実現党が性懲りも無く候補を出していた。

それにしても,思うに,自民党はもはや過去の政党に成り果ててしまったようで,無惨である。野に下った「保守」政党としての自民党に,いまやどんな役割があるのかまったくわからなくなってしまった。民主党自体,保守的な政党だからである。だから農協やら医師会やらが平然と民主党支持に鞍替えできるのである。自民党の行く道はだだのひとつ。極右政党に成り下がることだろう。「保守」ではなく「右翼」になること。「利権」を喪失したいまや,靖國万歳,特亜殲滅,アジア蔑視の排外主義などなど,これまで隠然とやっていた「美しい日本」主義を大っぴらに主張しはじめるしか生きる道がなさそうである。

ロシアの政党に Либерально-Демократическая Партия России がある。つまり「ロシア自由民主党」。ソ連崩壊とともにできた極右民族主義政党である。「北海道はロシアの固有の領土だ」と主張するロシアの反日勢力である。旧態権力の生まれ変わりにして極右勢力という意味で,日本の自民党も同じ道を行く暗合のように私には思われる。名は体を表す,という。自由をも,民主主義をも認めないという意味で,「自由民主党」という党名は,名は体を表す。

石破茂や野中広務など,自民党にもホネのある良識派がいる・いたんだけどな。

* * *

妻の誕生日プレゼントに川村湊の著した『狼疾正伝』(河出書房新社,2009 年)を注文した。今年生誕 100 周年を迎える中島敦の評伝である。妻は中島敦のファンなのである。

中島敦は昭和十七年に 33 歳の若さで逝った才能である。その漢文調の語り口は硬質,端正にして,格調高雅,意趣卓逸の気風に充ちている。近代人特有の知的憂悶を表現した文人作家を,中島敦,森鷗外,石川淳を措いて私は知らない。

誰もが高校の教科書で中島敦の『山月記』を読んだことがあるだろう。才能に恵まれた者が,その「臆病な自尊心と,尊大な羞恥心」の相克の果てに人間性を喪失し,虎と化す。虎は生存競争を強いられた暴力の象徴である。私はこの作品を改めて読み,まるで志高い高学歴の若者がワーキングプアに苦しむ様を見たような気がする。ワーキングプア問題があげつらわれる背景で話題になった小林多喜二『蟹工船』なんかよりも,この僅か 9 頁の作品のほうがよっぽど現代の若者の内向する苦悶を表現しているように私は思うのである。
 

la petite mort ということばをご存知だろうか。フランス語で petit は「小さい」,mort は「死」。つまり「小さな死」。これを含む仏文について「私はそのとき小さな死に浸っていた」という訳を読んだら,われわれはどう感じるだろうか。なにか哲学的な観照に,高尚な気分に話者が取り憑かれていると思うのではないだろうか。じつは la petite mort とはセックスにおける絶頂感,あるいはその後の虚脱状態の謂いである。日本語の「イク」,「イッちゃった」という俗語とあまり変わりない。日本語も,一線を越えて別の世界へ達する意味で,la petite mort の捉え方と酷似している。この訳は「おれはイったあとのあの脱力感を覚えていた」くらいでないと意味不明ではなかろうか。ところが,「イク」を「小さな死」と日本語に訳されることで,もとの意味が雲散霧消するのみならず,たんなる俗事が一気に詩的・哲学的なものに昇華する。フランス現代文学・批評の翻訳は,どうもこの la petite mort 直訳のようなものが多すぎるのではないかと私には思われる。これがあの難解さの一因ではないかと。

ロラン・バルト『エクリチュールの零度』の翻訳(森本和夫・林好雄訳註,ちくま学芸文庫,1999 年)を読みなおして,なにかフランス批評の翻訳には,la petite mort に類するボタンの掛け間違いがあるのではないかと忖度してしまう。それほどに,まったく意味不明なんである。それでいて哲学的な観照と高尚な気分だけはなんとなく察知される。私は先日,同じ著者による『表徴の帝国』を読み,それなりに感銘を受け,やはりバルトの批評眼は一流だと感じた。それで,いま再び新訳で『零度のエクリチュール』(かつて出ていた邦訳の題はこのように名詞がひっくり返っていたはずである)を読み返せば,学生時代に投げ出したこの高名な書物からなにかを学ぶことが出来るのではないかと期待した。果たして無駄であった。翻訳文を,--- 恥ずかしながら --- 文字通り一行も理解できなかった。

訳者も普通に読んで理解できないこの書の難解さを知っているらしく,本書の頁分量の半分以上,つまり本文以上の頁数を訳註・解説に割いて大童である(よって,フランス語で読んでもどうも晦渋な書物らしいと知れる)。しかし,その訳註を読んでも,本文がなにを言わんとしているのか,またなぜそんな註が可能なのか,ひいてはその註自体すら本文と同様,不親切な符丁で説明してくれていて,まったくもってわからない(人名解説は別として)。このわからなさの原因は,私の頭が悪いのか,翻訳が la petite mort 直訳ゆえなのか,ロラン・バルト自身の天邪鬼ぶりゆえなのか。判断できない。おそらく第一の要因が強いのだろう。でも第二の要因も相当疑わしいのである。そもそも「翻訳」なのだから,少なくとも日本語として意味が通るようにしていただけないものでしょうか。

こんな徹頭徹尾理解できない文章を書くことができるとは素晴らしい。称賛に値する(私は皮肉抜きで正直に言っているのだ)。insomnia 眠れない夜に格好の道具になる。でも,この「翻訳」でバルトを理解した人がいるのだろうか。「実際,同時代の著作家たちに共通の規則や慣習の集合体である《言語体(ラング)》や,著作家の身体や過去の個人的神話から生じる《文体(スティル)》とは独立した,文学の第三の形式的現実としての《エクリチュール》は,その後のバルトによって放棄されたかのようにみえる」など,これまた訳のわからない符丁(下線部分)に満ちた日本語文を,なんの前置きなくして気軽に書いてくれるフランス文学者がゴマンといる。こういう隠語だらけの文章を書くことのできる地点を「理解」だというのだろうか。

本書はおそらく文学論ではなく,聖書やコーランの神妙な説話や仏教経典にも似た壮大なメタファーなのである。事実の観察,分析,その総合としての「論」ではなく,いきなり「悟り」が比喩をもって繰り広げられる「神話」である。威厳と象徴に満ちた語り口に対して,たくさんの研究者が --- 親切にも --- 膨大な注釈を行う活動そのものに意味があるような。そしてまたその注釈そのものが他ならぬメタファーになっているとはどういうことか。まるで「啓示文学」である。こういう「論」にわれわれパンピーがこれら研究者と同じように付き合うのはやめたほうがよさそうである。なぜなら,どうもこれを「理解」しても,先に引用した日本のフランス文学者のような訳のわからない啓示的比喩に満ちた文章を書くことにしか資しないようであるからだ。本書のアマゾンの評価は最高点の五つ星である。その評もぜひ読んでみてください。比喩の素晴らしさを同じ比喩でもって称賛しているに過ぎない。比喩の連鎖は「論」ではない。

海外アニメのファンは,日本アニメ・オタクたちの使う「ツンデレ」,「ヤオイ」,「ショタ」などの隠語について,自国語のことばで咀嚼した訳語を使わず(だから「定義されない」状態のまま),日本語のままで流通させている。でもそれは,アニメ文化を彼らが自らの文化に受容し消化したというよりもむしろ,アニメ・オタク・ジャポネーを真似してその雰囲気を楽しんでいるに過ぎない。本書において「アンガジェする」だの,「シニャレする」だの,「シニフィエする」だの,フランス語がそのまま翻訳文に紛れ込んでいる姿は,この海外アニメ・オタクたちの楽しみ方とまさに同じである。日本語訳としてのあまりの支離滅裂さに,どうも雰囲気を楽しんでいるとしか私には「理解」しようがない。確かに,日本語として「理解」せずともその雰囲気を「真似」することはできそうである。「三島由紀夫の『金閣寺』は,かれの豊饒なる空虚としてのエクリチュールをもって --- それはほかでもない,文化という残酷な標章(「シーニュ」とのルビが振られている)の一系列にも近似した金色の楼閣を,戦後覆されてしまった『語られる言語(「ランガージュ・パルレ」とのルビ)』に偏在する虚無(「リアン」とのルビ)として描くことによって ---,あたかも文学の小さな死(「プティット・モール」とのルビ)を宣告したともいえよう」--- これはいま私がテキトーに「真似」してみせただけである。まあよい。文学者には暇人が多いものである。でも,la petite mort がただの「イク」なのに「小さな死」の形而上学的ニュアンスに読み替えられているとしたら,こんな滑稽はない。

もちろん,私にはフランス語原典とこの翻訳とを見比べて評価する能力がない。上記は私の頭の悪さを露呈しているに過ぎないかも知れない。訳のわからぬ翻訳を読んでいて,その内容とはまったく関係のない la petite mort がつい頭をよぎってしまった。まともな --- つまり,翻訳文が日本語であることをまず第一に考える --- フランス文学翻訳者の意見をぜひ聴いてみたい。
 

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)
ロラン・バルト著
森本和夫・林好雄訳註
筑摩書房

今日から3連休。なにもやることがない。午まで寝んねして,ぼけっとしてます。戦前の自由主義的ジャーナリスト・清沢洌の『暗黒日記』を読んでいる。精神論と暴力で国を仕切る頭の悪い(つまり世界情勢・現実を見ようとしない)軍人,鬼畜米英一色の報復に燃える国民,軍国主義に追従する曲学阿世の知識人・マスコミ。本書は,そのなかで米国の実情を知る憂国者として,特高の摘発を恐れながらも「現代史」のために世情をしるした記録である。

予日記をつけつつありというと,嶋中君危ないぞという。[ ... ] ただ予の場合は「現代史」を後日,書くために記録を止め置かんとするに過ぎず。
清沢洌『暗黒日記』岩波書店,1990 年,p. 71.

戦争に突入してしまうと,勝つことがなによりも重要になる訳で,彼が日記で批判している国民のバカさ加減はいまの私たちが一笑に付すことのできる性質のものではない。ましてや,当時の軍国主義的国家権力による暴力に対し個人は無力だった。それでも,どうしようもないいま眼の前のこの現実のためではなく,「現代史」,歴史のために記録する,という清沢の姿が心を打つ。自分が歴史に関与しているという責任感が凄い。行動において自己の無力を自覚したとき,「記録」という営みによって時代との関わりを果たす手段もある。
 

* * *

Yahoo! ニュースで,大阪府の橋下知事が職員の失礼な態度に怒ってその職員を処分したという記事を読んだ。「会見で橋下知事は,トップへの態度に問題のある職員が『100人ぐらいはいる』と指摘。知事を『お前』呼ばわりする職員がいる」とあるので,この処分された女性職員が特別なのではないらしい。まったく公務員(「地方公務員」というのが正しい)という人達はお気楽なものだと感心してしまった。普通のサラリーマンである私には信じられない。こんな人達を税金で食わしているのか...。

知事は自治体行政のトップであり,普通の会社なら社長,軍隊なら総司令官であって,その自治体の公務員は彼の意思を実現する組織構成員である訳だから,構成員がトップに対しそれに応じた礼節・敬意をもって接するのが当たり前ではないか。この処分された女性公務員はどうもそういう基本的組織構造を気にもしない人らしく,橋下知事を自分の属する組織の長としてではなく,タレント,芸能人と同列に,普通名詞の「政治家」とみなしていたようである。私がこのバカブログで政治家を愚弄するような無責任な駄文を書いているのとまさに同じように。私にとって政治家とは税金を払って活動してもらっている存在である訳で,私のこんなバカ・たわ言もその活動への「批判」として許されるのである。それに対し,政治家を組織長とする公務員による同じ行動は風紀紊乱・服務規律違反でしかない。税金で養われている公務員は,選挙で選ばれた政治家の目標実現のために法律に従って仕事をすべきなのだ。政治家を「批判」するならすればよい。しかし,この公務員の「愚痴はご自身のブログ等で行ってください」というのは,「批判」にもなっていないただの「不敬」であって,組織の構成員としての自覚のなさを示すに過ぎない。それこそ匿名ブログでやっておればよいようなものである。軍隊なら軍法会議において風紀紊乱でどんな処罰が下るか知れない(目隠しをされ壁の前に立たされるに違いない)。

サラリーマンは査定する上長,人事権をもつ管理職の言うことしか聞かない。査定権をもたない人の言うことを聞いてなにになる。忙しいのだ。でもこれはあらゆる組織に共通の原理である。ここではトップダウンの連鎖によって組織が機能する。この際,上長命令を絶対視する軍隊式がもっとも機能する。

公務員,官僚が政治家を軽んずるのは,政治家に人事権・査定権がないからである。私が知事で人事権をもっていれば,法律に照らして根拠を見いだした上でこいつをクビにするだろう。一罰百戒。なのに,日本では政治家が公務員の人事を掌握できたためしがない。だから官僚が国益よりもむしろ自身の出世と自己の所属する組織のためだけに奔走する「官僚的」お役人になるのである。民主党の脱官僚のスローガンがおそらくうまく行かないだろうと思われるその根本原因もここにある。

でも,政治家が人事権を乱用できるようになると独裁が生まれやすくなる。難しい。

フランスの批評家・ロラン・バルトが日本文化をめぐって著した『表徴の帝国』(ちくま学芸文庫版。原典は 1970 年初版)を読了。これは日本料理,パチンコ,生花,俳句,文楽,都市,日本建築,包装,書,顔,全学連,などなど,日本的現象について広範に採り上げてしるしている訳だけど,日本文化論というよりも,日本で得たさまざまな見聞によって彼のいわゆる「表現体(エクリチュール)」概念の例題を語っている,と考えたほうがよさそうである。

本書はさっと読んだだけではわかりにくい屈折した喩えに満ちている。いつものスピードで読み進むレベルでは,本書のおそらく七割は私の知力を越えるもので,私にはよく理解できなかった。何回か,丹念に読まないとダメである。また,それに値する書物である(それで報われる翻訳かどうかは知らない)。それでも,生花,文楽,俳句の素描には,日本人自らがうまく説明できない日本文化の特徴を魅惑的な求心力をもって言表わしていると思った。バルトは日本文化のエクリチュールの特徴を,「意味の廃絶」,「言葉の無化」,「悟り=認識と主体を激動させる強烈な地震」と要約している。感銘を受けたくだりを,少し長いが,いくつか引用したい。味わい深い指摘である。引用中私が下線を施した部分は,なんと美しい表現だろうか。

[ ... ] 日本の花束,その構成の象徴の意図が,日本案内書や《生け花》芸術論書にどう描かれているにせよ,この日本の花束のなかに生みだされているのは,大気の循環なのである。[ ... ] 西洋人なら,豊饒だけが自然らしさを証しうる,とでもいわんばかりに,花と葉と枝を自然から分離する。だが,《生け花》にあっては,花と葉と枝を《稀薄化》の理念にしたがって繊細に位置づける。日本の花束は空間(ヴォリューム)をもつ。
ロラン・バルト『表徴の帝国』宗左近訳,ちくま学芸文庫,1996 年,pp. 71--2.
[ 文楽の ] 主遣いの大夫は,頭になにもかぶっていない。すべすべした,むきだしのままのその顔は,[ ... ] 客から読まれるようにと,そこにある。だが,[ ... ] それは読解可能なものはなにもないということ,なのである。人はここにふたたび,意味の廃絶を見いだす。[ ... ] 西欧人にあっては,意味を追いつめるということは,意味をかくすことか,あるいは意味を逆転することか,であって,決して意味を空無化することではない [ ... ]。《文楽》との対比において,演劇の源泉はその空無のすがたをさらけだす。《文楽》の舞台から追放されているもの,それはヒステリー,つまり,演劇そのものである。
同書,pp. 96--7.
[ ... ] 主体と神のない形而上学にのっとってつくられる俳句が対応するものは,仏教の「無」,禅の「悟り」であって,その無も悟りも,神がその場に啓示されることでは決してなく,実体としてではなく,偶発事として事物を把握する働き,冒険 [ ... ] の輝きのなさ [ ... ] に冒された言語のこれまでの外縁を持つ主体を打ちやぶること,すなわち,《事実を前にしての覚醒》にほかならない。
同書,p. 123.

それにしてもフランスを代表とする現代のヨーロッパ的知性は「無」,「否定」という概念が好きである。「私の目指すものは〜でも,〜でもない何か」という発想が大好きなのである。それは西欧の反省でもあると私は思う。

カールハインツ・シュトックハウゼン(1928 年生まれ)の証言は奇妙にないないづくしである。以下に引用するけれども,こんな短いスペースにこれほどないを羅列した文章もないだろう。
そんなわけで再現部もないし,変奏もない。また展開部もないのである。「正式な手続き」の前提となるすべてのもの --- くり返され,変奏され,展開され,対照され,昇華さるべきテーマとモティーフ …... がすべてない,最初の純粋な点描主義的作品を作曲したときいらい棄ててしまったのだ。
ドナルド・ミッチェル『現代音楽の言葉』工藤政司訳,音楽之友社,1976 年,pp. 118--9(下線部は傍点).
 
表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)
ロラン バルト著・宗左近訳
筑摩書房

ミッシャ・マイスキイの演奏によるバッハの無伴奏チェロ組曲を本当に久しぶりに聴いた。私は第二番と第五番が好きである。この曲の演奏はいくつも名演がある。私はムスチスラフ・ロストロポーヴィチ,ピエール・フルニエ,ミッシャ・マイスキイの盤がお気に入りである。なかでもマイスキイ盤には,ある特別な思い出がまつわりついている。

1985 年の春先,ソ連の最高権力者・共産党書記長コンスタンチン・チェルネンコが亡くなった。テレビを持たず新聞も購読できない貧乏学生であった私は,そのニュースを知らずにいた。札幌のまだ凍てつく下宿で,ロシアの文芸学者・文学史家ボリス・トマシェフスキイの詩論集 «О стихе»(『詩について』)を読んでいた。コーヒーをドリップする間に,NHK-FM を付けた。バッハの無伴奏チェロ組曲が流れていた。私は直感でミッシャ・マイスキイの出たばかりの盤だとわかった。一曲が終わったら,別の組曲が開始された。なにかおかしい。DJ なりアナウンサーなりの語りがなく,曲の演奏だけが延々と続く。なんの説明もない。すぐに,私は誰か貴人が亡くなったのだと悟った。ソ連では権力者が亡くなるとクラシック音楽をひたすらラジオで流すという話を思い出したのだ。そうか,書記長が死んだのだ。え,なんで? 就任してまだ少しじゃないか,本当か? でも,それは正しい判断だった。しばらくしてニュースがはじまり,チェルネンコ死去が報じられたのである。

異常な気分になり,トマシェフスキイどころではなくなったのを鮮明に覚えている。いま思うと,NHK はそういう放送局だったのだとへんな感銘を覚える。国際的最重要人物が亡くなろうと,このような放送は現在ではしないと思う。NHK にロシアの伝統を知る者がいたのだろう。それに合わせて哀悼の意を表したのだろう。「不可解」が国際情勢の緊張感を異様に高めるということが身に沁みた。「臨時ニュースを申し上げます」なんかより,観念させるようななにかがあった。

ソ連共産党書記長の死を告げるマイスキイのバッハ。もうひとつ強烈なのは,ミッシャ・マイスキイがソ連官憲によって投獄された経験を持つユダヤ系亡命ロシア人であったこと。そんなマイスキイの演奏でソ連の権力者の死を哀悼するなんて,NHK は端倪すべからざる意図を秘めた放送局だと思ったものである。そして,こういう歴史的事件の黎明の伴奏にはやはりバッハが相応しいと。チェルネンコを襲ったゴルバチョフはやがてソ連を解体させてしまい,冷戦は終局を迎えることになったのである。
 

バッハ:無伴奏チェロ組曲 全曲
マイスキー(ミッシャ)
ポリドール (1994-08-01)

"sator arepo tenet opera rotas" というラテン語の格言がある。いくつかの古代遺跡の壁面に刻印されているそうである。「種蒔く人は収穫を保有し収穫は種蒔く人を保有す」という意味である。これだけだとなんということもなさそうに思われるが,次のようにしるすとその驚くべき姿が見えて来る。

S A T O R
A R E P O
T E N E T
O P E R A
R O T A S

左上から右横,下方へ読んでも,右下から左横,上方へ読んでも(つまり逆から読んでも),さらに,左上から縦下に,右方へ読んでも,右下から縦上に,左方へ読んでも,同じ。しかも真ん中の TENET は上下・左右で回文をなし,十字架を形成する。

これは「魔法陣」と呼ばれるものである。クロード・ロスタンによれば,その起源,言語学的・宗教的意義について,学者の意見が一致していないという。それにしても,精巧にして不思議。くらくらして来る。

作曲家アントン・ウェーベルンはこの魔法陣に霊感を得て,12 音列を展開した曲を書いた。九つの独奏楽器のための協奏曲作品 24(1934 年)。音による点描のような断片的な無調音楽に聞こえるが,現代音楽好きは簡素な美しさに魅せられる。その枯淡の音像のなかにじつはこの魔法陣のような精巧な規則性があると思うと,くらくらして来る。

「種蒔く人は収穫を保有し収穫は種蒔く人を保有す」--- 私はこの格言を,クロード・ロスタンによるウェーベルンの作品論(クロード・ロスタン『ウェーベルン』店村新次訳, 音楽之友社, 1975 年)によって知った。ウェーベルンの短く緻密な音楽様式を象徴するに相応しい言ではないだろうか。しかし,上記のごとき魔法陣の神秘性を取り除いても,含蓄あることばである。私は仕事の上での座右の銘にしている。仕事とその成果との循環性を鼓舞しないと,日常性に耐えきれなくなってしまうのである。私はまた,この格言で弊 Web サイト・トップページを飾らせてもらっている。
 

Complete Webern [Box Set]

P. Boulez (Dir)
Berliner Philharmoniker
Ensemble InterContemporain
Emerson String Quartet, et al.
Deutsche Grammophon (2000-05-09)

Profile

ISAO。システムエンジニア。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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