misimaの最近のブログ記事

先日,とある大学の先生とメールのやりとりをした。misima について丁寧な文面でお礼をいただき,私は嬉しかった。彼は「最近の大学生はまったく本を読まない」とこぼしていた。だから旧字・旧仮名遣いの文章で少しは学生の関心を惹きたい,と。「だとしたら,そんなバカ学生は旧字・旧仮名遣いという見た目にしか目を止めませんよ」とは言えなかった。教育者としての先生の真面目な工夫に私は感心したからである。

私は会社員なので,新入社員の知力には注意を払っているが,学生の読書量については昔と比べてあんまり変わらないのではと思っていた。というか,同僚は皆,理科である。その学生時代の読書傾向にも偏りがある。そもそも,一般の学生の傾向を新入社員から推し測るには無理がある。同僚達は,本の話題はコンピュータ関連図書ばかりで,しかも強烈な飛ばし読みをする。理科の人は結論の書いてあるところを探して読む習性があり,しかも図面やグラフ,数式だけで論のだいたいを理解する能力を備えていて,文系の私は驚かされる。知識の習得を特殊なパターン認識能力でもって行っていると,私などには見受けられる。つまり「読む行為」は二次的のようなのだ。とはいえ,この行為だって,図面や数式と文章とを相互作用させて理解を確実なものにしている訳で,やはり活字のトレース要素は無視できない。

「まったく〜ない」という表現は幅がじつに広いので,私は先生のボヤキがピンと来なかったのだけど,うちのガキどもの活字ギライをみても,最近の学生はホントに纏まった文章をまったく読まないのではないかと心配になる。「本を読まない・読めないヤツが大学なんて行くんじゃねえ」と私は叱り飛ばしている。子供達は,携帯メールでブツブツ断片的なことばを送り合い,「空気を読み」合っている。そして,ふとした文言で根拠のないキレ方をする。「空気」に犯されたのである。まったく悪意が「読み取れない」のに。このように,携帯メールのこの時代,纏まった文章で論理的に意思疎通を図るようなコミュニケーション,思想の伝達は,いまの若い人には望めなくなってしまったのだろうか。「携帯をもったサル」というような表現をどこかで目にしたが,携帯電話が低能児養成ツールになってしまっている現実を認めざるを得ない。義務教育にある子供にはその所持を禁止すべきだと私は真面目に思う。

子供達は,人が何を言っているかという論理ではなく,視覚的要素で人を分類する癖がある。「この人,うちのクラブのXX先輩に似ている」云々。人物評は「〜に似ている」しか思いつかないらしいのだ。そういうとき,私は「だからなんだ。人を見た目で極め付けるな」と叱る。「極め付けてる訳じゃないよ」---「『似ている』と表現すること自体,薄っぺらい価値観を貼付けていることに,お前は自分で気づいていないだけだ。見た目で判断するなら,少なくとも『あの目つきは他人を軽んじるタイプだ』くらいの観察がほしいね」。でも,どうもこの傾向は,近頃の若者全般に及ぶような気がしてならない。ネットをうろついていても,「戸田恵梨香似の女」といった,人の素描のじつに貧しい舌足らずの表現にぶち当たらない日はない。このように,何かの論理ではなく視覚的印象で軽率に人物を類型化する傾向は,思うに,ことばの論理に鍛えられていない証拠である。

Web で伝えたいことをきちんと書いても,おそらく 3 行以上のパラグラフになると,もう読まれないのではないか。Twitter というのが流行っているそうである。「つぶやき」くらいの量でないと,もはや読んでもらえない。そういう時代だということか。

蓮實重彦著『反=日本語論』(ちくま学芸文庫, 2009 年, 1977 年初版)を読んだ。もって廻ったような文体に少々辟易しながらも,読み進むにつれ,制約から自由たろうとするこの著者の思考に惹き付けられて行った。

主旨は次のようなものと読めた。「言語の一般性」と「文法の規則性」という普遍への指向をもつ言語概念は,フランス古典主義の反映に過ぎず,じつは極めて特殊な,つまり歴史的なものである。西欧の言語学の基盤には音声中心主義があり,文字表記はそれを写す二義的位置しか占めていない。日本語は漢字・仮名という文字を持ち,文字による言語認識ともいえる実効性を有し,必ずしも西欧的言語概念で仕切れない場合がある。しかし一方で,こうした「音声」,「文字」,「意味」,「表記」が正書法,文法などの原理によって「制度化」されてあるということ。そこには,近代の言語の暴力性(方言に対する隠然とした揶揄,間違った綴りへの嘲笑と社会的・階級的優越感,占領国による言語の強制)が漲っているという観察。言語学という「学」もその「制度性」から自由ではないという指摘。制度としての言語に囚われた言語学,言語論者への批判。そういう「制度」に囚われない言語生活の諸表情への愛情。こうした言説を,己の見聞と,もっぱら身近な家族の言語生活とに対する観察から著者は導き出す。

「言語という制度」。なのに,日本語論者もまたそれを自覚することなく,西欧的観念に支配された言語アプローチに囚われてしまっている,と著者は批判する。「反=日本語論」の「反」はそこに由来する。「フランス語は明晰である」とか「日本語は美しい」とか「最近の日本語は乱れていて正すべきである」とか,そういう評価は「制度化」されたフィクションに幻惑されたものでしかないと言うのである。言語について語る場合には,それを自覚しそこから解放されそれを克服した地点に立たないと,目の前の言語の --- 制度化されていない --- 豊かなあり方,本質には至らないはずだと著者は言うのである。私にとって極めて示唆的であった。「示唆」しかされなかったのが不満ではあるが(鋭い批判分析をなす一方,どうあるべきかのポジティブな理論が帰納されない点が --- 極めて困難な仕事であるのは認めますが --- 本書に対する私の不満である。それが目的ではないと言われればそれまでであるが。「それは『正しく美しい日本語』といった抽象的虚構を追い求める従来の『日本語論』に対して,根源的な異議申し立てを行うこと」(カバー)と要約している本書の編集者は優秀である。「異議申し立て」が本書のエッセンスなのだから)。

水村美苗『日本語が亡びるとき』を読み,そのとき「日本語を保守する国民的努力がなければ日本語が亡びる」との水村の主張に感じた「胡散臭さ」のよって来る源を,私は蓮實に説明してもらえたように思う。萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』のような「歴史的仮名遣い」原理主義者に認められる「表記」の絶対化を「制度としての言語」に無自覚な独善として私は理解した。そういう眼で見ると,萩野のマナー --- 敗戦によって文化的に押し付けを受けたという一種独特の被害者意識と,そこから来る攻撃的性格(他者攻撃しないではおれない,敗者に特有の性質)と,自己の主張を学問的装いでもって正当化したがる衒学的身振り(「論理的・合理的」言語への執着)--- がいよいよ無惨である。水村や萩野など示威的に「国語を愛する」者たちに対する私の違和感は,言語の制度=虚構を他人に押し付ける者たちの「帝国主義的言語観」の横暴ゆえなのだと。

* * *

ところで,私は蓮實重彦の学者随筆風評論の「文体」が嫌いである。なにより,凝りに凝ったあの長大な書き出し。外国語の文法で謂うところの関係節・譲歩節が錯綜し,しかも論の主旨とは無関係な情報に満ちている。こういうのを「気取り」というのである。第二に,もって廻った構成。具体・経験を詳細に語り,言いたいことを意図的に伏せるように叙述しているのかと思えば,その流れから読み手が想定する命題を否定し煙に巻いた挙句に,さり気なく要点をしるす。随筆としては巧みな表現で読ませるが評論としては究極において何が主張したいのか晦渋で間怠っこしい。あたかも,奥床しい本質の周りをぐるぐる廻ってぶつぶつ独言(自分以外には理解困難な言語)を呟いている不平紳士を眺める(対話するのではなく眺める)ような気分なのである。

今日では誰もが『パンセ』と呼ばれる一冊の書物として知っているキリスト教弁証論を書いた十七世紀フランスの思想家ブレーズ・パスカル,もっとも,書いたといっても,彼はその論証体系の構造を明示することなく,未完の草稿を幾綴りもの紙片のまま残して三十九歳の若さで死ななければならなかったのだが,そのことによってかえって,天才と夭折との神話的結合ぶりを正当化しているかにみえるパスカルは,姉ジルベルトの回想によると,すでに幼少期から,「神童」にふさわしい孤独にして特権的な視線によって,世界の諸々の相貌を鋭く解読していたらしい。
蓮實重彦『反=日本語論』ちくま学芸文庫, 2009 年, p. 9(下線部は原典傍点).

「パスカルにさからって」のこの長大な書き出しの一文は,そのあとのコンテクストに照らしても,「姉の証言によればパスカルは幼少期から天才的に世界を解読していた」以上の機能を有していない。なのに何故,このようにあっちこっちに言を撒き散らさずにおかないのか。これが「命題」(真か否か)ではなく「表現」,「文学」(美しい・カッコいい・正しいか否か)を指向するものだからである。ことばに芝居をさせている。これは蓮實の文体に特徴的である。私の性格なのか,不幸な国語教育ゆえなのか,残念ながら,私はここに「テクストの快楽」などは感じない。「論文」などでは絶対に真似をしてはならないマナーである。

「論」は言語がフラットであるべきだと私は思う。なんというのか,無味無臭を指向すべきということ。凝った「表現への指向」があると,ことばに身振りをさせてしまい,煩くてしようがないと私は感じてしまうのである。「鞄」とは何たるかを説明してくれるのだが,そのために指差された鞄の説明用実物が凝りに凝った装飾の施されたエルメスのブランド品であったりすると,これ幾らするんだろうかとか,この人お洒落だなあとか,そんなことばかり植え付けられてしまい,鞄の本質がどこかへ飛んでしまうような,例えばそういうことである。そう,ここで起こっているのは「内容」と「形式」のすり替え・逆転である。鞄の「内容」を説明しているように見えるけれども,エルメス(「表現」)はその鞄を説明する「形式」のはずが,エルメスが使われることによってそれ自体が意味を持ちはじめ,鞄の本質=「内容」が逆にその表現のための形式にとって代わられてしまうのである。

話が逸れるけれども,「正字正仮名」による文章もまさにこれと同じ構造に嵌る。表記そのものが「文体」的意義を帯びて「形式」が「内容」としてでしゃばりはじめるのである。なのに,書いている人がそれをうすうす知りつつ ---「正字正仮名」は「カッコいい」と自認しているではないか --- ニュートラルな「正しい」文章を書いているつもりになっている。「文体」というものに対し無感覚の「国語を愛する」らしい者たち。「滑稽」とはこういう所作を指すのである。彼らは「正字正仮名」を用いて何かを語るのではない。「正字正仮名」を用いるために何かを利用しているというべきである。その「何か」は往々にして nothing である。もっぱら「正字正仮名」の宣伝と,その反対者への悪口ではないか。「形式」と「内容(nothing も含む。まさに「無いよー」)」の逆転の例がここにもある。

またまた横道に逸れるけれども,「論」を期待して手にとった書物が「文学」だったりすると,私はどこを読み飛ばすかの戦略を最初の数頁で立てようとしてしまう。「... だが」とか「... にせよ」とか「... ではない」という断片が現われたら,その前のテクストをすべて破棄する。主語,目的語,述語「だけ」を探して読む。これで理解できない場合は,諦めて,読まなかったことにする。そのように「点と線」で組み立てられた言説によって,ダメな本かそうでないか判断するのである。まあ,今回は蓮實作品の初物でもないので悩みは少なかった訳だけど。

でも蓮實の文体を巡る私の印象は,蓮實その人の個性に対するというよりもむしろ,学者随筆風評論一般に対する嫌悪といったほうがよいかも知れない。学者随筆風評論文体というのは,学者が学問を離れつつその学問に関る話題について専門用語を鏤め,「学問性にこだわらず」に詠嘆してみせたりする「文学的な」文章である。「正確」を志すように見えて本質から遠ざかることにしか奉仕しない --- よって知的な雰囲気を醸成する --- 凝った冗長表現に満ちた晦渋な文体。思うに,日本の有名な大学文学部先生の「有名」の根拠は,多くこのような学者随筆風評論の文学性にあるのであって,その学問的成果ではない。日本の文学研究者の評論は「文学的」独言である。学問性を問うものではないから。その専門の文学分野の「香り」を伝える「文学臭さ」が特徴である。だから「知的」にして「孤高」の随筆になる。「さすがー」と思わせる。ところが,学問的体系化への指向がないから,なにか本質とは別なものを掴ませられた,香り高い雰囲気に騙された気分になるのである。鞄の説明のために,凝りに凝ったブランド品を使っているに過ぎないのだ。

もちろん,そんな学者随筆風評論にも「文学的に」優れたものがない訳ではない。森有正の『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫,1986 年)などは私の愛読書のひとつである。私の友人の言語学者は,「森有正はデカルトやパスカルの学問的研究成果で日本の知を高めるのではなく,フランスの知的雰囲気をフランスから伝えるエッセイで人気を獲得した。『雰囲気』で勝負する日本の知識人の典型だ」と腐した。私は森有正の文章が好きなので,この批評に少し傷ついたのだが,しかし,この指摘は日本の西欧文化吸収における学者随筆風評論に現れた脆弱性の本質を突いている。この友人に私は教えられたのである。彼は上記の「文学性」を「雰囲気」と言っている訳であるが。

私にとって嫌悪すべきは蓮實重彦という著者の「文体」でしかない。本書には家族の何気ないことばをめぐって考察するくだりがたくさんある。そこには深い学識を有する観察の鋭い知識人の姿だけでなく,家族を愛しそのことばに注意深く耳を傾けるひとりの人間が浮かび上がって来るのである。

今日はもう暑くてくたくた。

* * *
昨日はヒロシマ原爆の日だった。北朝鮮やイランの核開発が問題となるなか大国が率先して核兵器の放棄を訴えようというのか,オバマ大統領がプラハで「核兵器の廃絶」にまで言及する演説を行ったり,米露首脳会談において核軍縮が合意されたり,このところ,近年にない核軍縮ムードが広がるニュースが報じられている。オバマ大統領は核兵器を使用した唯一の国としての責任があるとまで言った。本気のつもりなんだろう。ならば,広島・長崎を訪れ,自国の犯した罪悪を自分の目で見ろ,と思う。「原爆投下は早期戦争終結のための手段だった」と米国が正当化している限り,偽善的な陽動戦術としか受け取られないのではないだろうか。
* * *

昨日,ある方から私のブログ記事「歴史的仮名遣いについて」についてメッセージをもらった。その返信をそれなりにきちんと書いたつもりである。このテーマに関する私のブログ記事は,「正字正仮名」信奉者には頭に来るはずである。それゆえか時おり,イヤガラセめいた書き込みやメールを受け取ることがある。内容によってはゴミ箱行きにしている。昨日の返信を書きながら,反省もした。

考えてみれば,「正字正仮名」信奉者(長いので,以下「正信」と略する)は誰の迷惑になっている訳でなし,その考え方についてことさら論難しても詮無いなあということ。「正信」なんて「圧倒的小数派」なんだから,多数派の現代仮名遣いの立場で非難するなんて「弱い者苛め」ではないか。別にいいじゃないか。「なんちゃって旧字旧仮名遣い派」(「正信」に感染して,僕は伝統を守るんだといきまいて,間違いだらけの旧字旧仮名テキストを恥ずかし気もなく晒しているブロガーのことを,私は自分なりにこう呼んでいる。こいつも長いので,以下「な派」とする)が増殖したって多寡が知れている。「な派」が秘かに嗤われるだけなのだから。なんで「正信」の悪口をわざわざ書きたてるのか(「正信」の馬鹿さ加減については,萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』書評記事「旧字・旧仮名雑感---Wikipedia の議論について」で書いたので,そちらを参照)。「正信」同様,下劣ではありませんか?

第一の理由は,萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』についてクソミソに書いた際,ネットでその評判を検索・閲覧してみると,好意的なものが大多数だったこと。そのなかには「な派」になってしまったブロガーも結構いたこと。それで,危険な臭いを嗅いだ気がしたのだ。つまり,「正信」は小数派なのに実は大いなる影響力を持っていることを知ったのである。おまけに,それら「な派」は,ある主導的「正信」サイト(私はその「権威主義」をここで言及したことがある)の意見に唯々諾々と従う人ばかりなのだ。その主張は「正しい表記を使ふのが本當の日本人」,「正假名は合理的」,「新假名は國語の傳統を破壞した」,「新假名と憲法は敗戰のどさくさに紛れた押付けだ」,「正假名はカッコいい」,「字音假名遣ひは嚴密でなくてもよい」とまあ,判で押したように「まったく同じ」。寒気がするんである。ここまで右へ習えとなると,一種独特の宗教団体,教祖様に従う右派集団のように見えて来たのだ。

教祖様がある人の悪口を書くと,信徒君が自分のブログで同じ悪口を書く。私にイヤガラセも来る訳だ。それも,匿名なのはよいとして,違うメールアドレス(どれも gmail.com,yahoo.co.jp,hotmail.co.jp などのフリーメール・ドメインであることはいうまでもない),違うハンドルネームで「同じ IP アドレス」から。当然というか,ことごとく Windows ユーザ。なるほど。でも,別に危険ということでもないので「受け流して終わり」なんだけど。

私も歴史的仮名遣いが好きで,misima なんてツールを公開している。「正信」のひとりだと思われてもしようがない。自己撞着してませんか? そう,私自身が「正信」だと誤解されたくないための弁明 --- これがいまひとつの,大きな理由である。ただし,いくら弁明しても,実際はそれが読まれやしない訳で,「な派」の一部は,私の自己撞着めいたプログラムを使って恥を晒しているかも知れない。そう思うと,背筋に冷たいものを感じる。そのうち misima をユーザ登録しないと使えないようにするつもりである。

別にどうでもいいじゃないか。今日は疲れた。仕事もうまくいきません。愚痴も出ます。

今日,自宅の Windows XP に JIS X 0213:2004(所謂 JIS 2004)対応のMS明朝,MSゴシックのフォント,さらにメイリオ・フォントを導入した。ずいぶん前に,JIS X 0213 について書いたとき,なによりもこの規格でなされた 168 字の字体変更をこき下ろした。けれども,Utf82TeX CJK 統合漢字拡張 B 対応を行ったこともあり,「標準」に追随して行かざるをえないなあという気持ちが強くなったのである。たとえ愚かな君主の決めた愚かな法律・標準であっても,発効すれば文句を言いながらも従うしかありません。「標準」とはそのようなものである。

IE 7 で葛原妙子の「葛」は,もと 葛 だったのが 葛正字体 になった。これはこれで正しい。

しかし,考えれば考えるほど,この JIS 2004 の字体変更の理屈が理解できない。この変更は,国語審議会の答申「表外漢字字体表」に示されている「印刷標準字体」に合わせたものである。それはそれで立派な理由かも知れないが,いまさら国語審議会の尻馬に乗ってどうする,という疑問も否めないのである。この表外漢字字体で「印刷標準字体」として認定された文字は新聞等の出現度数調査に基づいているとのことである。でも,文字の構成要素を度外視した原理・原則(一貫性)がいまひとつよくわからないのである。でもって JIS 2004 字体変更の「必然性」がどうも納得できないのだ。

「疼」は 疼疼正字体 に変えたのに,「冬」はなぜ 冬 のままで 冬正字体 にしないのか。「辻」について,辻 さんは結構いるのに 辻正字体 が標準というのは常識的に解せない。「辻」,「逢」を二点しんにょうにするなら,「道」,「遠」なども正字体にしたらどうかね。などなど。

「冬」,「道」,「遠」はこれが「印刷標準字体」ということなので変更しない訳である。でも,上例のとおり一貫性に欠ける。確かに,「標準」に一貫性が必要であるという訳ではない。だとしても,いままでの文字形を否定する(「変更」は過去の否定なのである)ほどの必然性があるとはとても思われない。

通常,ものごとの取り決めというものは,いったん決定されると,それ自体に不良(目的とする仕様に適合しない事象)が見いだされない限り,なかなか「変更」されないものである。新しい要請に対しては,「追加・拡張」がなされるのが通例だろう。JIS もこれらの変更後の字体を「追加」すればよかったのではないだろうか。なぜなら,「変更」は過去の規範に則っていた者が自らの資産も「変更」を強いられる一方,「追加・拡張」ならば己の事情によってそれを無視できるからである。

この JIS の愚かな自己否定のおかげで企業・官公庁・自治体のシステムは,本当は別のサービス向上の機能追加をしなければならないのに,文字の取り扱いについて「本当に」余計な改修を強いられているのである。この不況のなか全国津々浦々で進行中のこういう「塵も積もれば山となる」調達は,誰からも税金のムダ遣いと言われないのが面白い。しかも、このシステム改造は,JIS 2004 の恩恵を活かすというのではなく,JIS 2004 文字(文字コードなんかになんの頓着もないユーザは Windows Vista の新 IME で知らず知らず入力してしまうのである)がシステムに入って来ないようにブロックするものが大半である。笑ってしまう。JIS が足を引っ張っているのは明らかなのだ。「どうする? 企業情報システムの『JIS X 0213:2004』対応:ITpro」などを参照のこと。

JIS の字体変更は JIS 2004 にはじまった訳ではなく,JIS 83 においてすでに前例がある。どうも JIS は自己否定が好きなようである。これを見ていると,戦後間もないころの国語・国字改革の自己否定(現代仮名遣い,漢字制限)を連想させ,ほんと,日本国の標準策定というものの懲りない性格に呆れてしまうのである(私は現代仮名遣いを否定している訳ではありません)。そのうち,4 年くらいしたら,JIS はまた面白い改訂をしてくれるだろう。こんなことをしていたら,Unicode コンソーシアムが独自に CJK 漢字標準を整備し,日本国の JIS 標準が置いて行かれる --- これがいちばん起こりそうなことだと思う。

自己否定 --- これは,地震ですべてが崩壊し,すべてを一から作り直そうとしてしまう,地震国のお国柄なのだろうか。

私は個人的には文書作成を LaTeX で行う。LaTeX では,JIS X 0208(所謂 JIS 第一・第二水準)で足りない文字を Adobe_Japan1 コードに準拠して出力する方式が,広く浸透している。JIS 2004 の字体変更も Adobe_Japan1 の CID コードのおかげで cmap をちょちょいと変えて対応できる。JIS などの多様な意見を取りまとめなければならないお役所仕事よりも,Adobe という企業が印刷現場の要請に基づき一貫したポリシー(商業印刷の現場でほしいと思う文字を「追加」して行くポリシーだと思う)で作り上げた「標準」のほうが,よっぽど有用だと思う次第である。

※ 以上のとおり,さんざんぱら,JIS 2004 を批判しているのだけど,そうはいっても JIS の活動全般に懐疑を示すものではもちろんない。JIS はわが国のインダストリアル・スタンダードを決める責任ある機関である。上記のような問題は,その功績に比べると誠に微々たる話である。JIS で活動している研究者,企業人はわが国の斯界の権威であり,真に尊敬に値する人達である。私の軽口を大目に見てください。

* * *

上記字体変更の例で使用した文字の画像は LaTeX で出力した文字を,dvips, Ghostscript で png に変換したものである。コマンドラインから文字画像を生成するシェルスクリプトを書いた。以下に掲載しておくので,同じような課題がある場合にお使いください。OTF パッケージが必要。

#!/bin/sh
# tex2image: convert LaTeX command to image file
# コマンドラインの LaTeX 命令を画像(png, eps)出力する。
#                         coded by isao yasuda, July 27 2009.
 
if [ $# -lt 3 ]; then
    echo "usage: `basename $0` -e|-p out-file-base 'LaTeX fragment'"
    exit 1
fi
 
case $1 in
    # アウトライン EPS
    -e) CONV="gs -dNOPAUSE -dBATCH -dSAFER -sDEVICE=epswrite \
              -r9600 -sOutputFile=$2.eps $2-wk.eps"
        echo "Outlined EPS file genetation to $2.eps"
        break;;
    # PNG 
    -p) CONV="gs -q -dSAFER -dNOPAUSE -dBATCH -sDEVICE=pngalpha \
              -dEPSCrop -r72 -dTextAlphaBits=4 -dGraphicsAlphaBits=4 \
              -sOutputFile=$2.png $2-wk.eps"
        echo "PNG file genetation to $2.png"
        break;;
    # それ以外はエラー
     *) echo "$1 unknown option."
        exit 1;;
esac
 
echo "% 文字画像生成テンプレート
\documentclass[12pt]{jsarticle}
\usepackage[dvips]{graphicx,color}
\usepackage[multi,deluxe,expert]{otf}
\pagestyle{empty}
\begin{document}
\parindent=0pt
$3% こいつを LaTeX 処理
\end{document}" > $2.tex
 
# pLaTeX UTF-8 処理
platex --kanji=utf8 $2.tex
if [ $? -ne 0 ]; then
    echo "LaTeX error $2.tex."
    exit 1
fi
 
# dvips でまず普通の EPS にする
dvips -E -D 9600 $2.dvi -o $2-wk.eps
if [ $? -ne 0 ]; then
    echo "dvips error $2.dvi."
    exit 1
fi
 
# 画像変換
$CONV
 
# 後始末
rm -f $2-wk.eps $2.dvi $2.log $2.aux $2.tex
echo "done."

これを例えば tex2image というファイル名で,パスの通ったことろに UTF-8 エンコードで格納し,実行属性を付与する(chmod +x tex2image)。

tex2image -p ファイルベース名 'LaTeXコマンド'

とすると,LaTeXコマンド を処理した文字列が ファイルベース名.png という名の png 画像で生成される。LaTeXコマンド に前後のアポストロフィを付加しないと,特殊文字,空白文字を記述できないので注意。

png 画像はアルファ・チャンネルをもつ透過画像なので,背景色に追従可能である。文字そのものを着色したければ,LaTeX コマンドに "\textcolor{色名}{文字}" を指定すればよい。オプションを -e とすると文字のアウトラインを取った EPS 画像で出力する。ベクトル画像なので,Illustrator などで拡大編集してもギザギザで汚れはしないはずである。独自に必要な LaTeX スタイルがあれば,テンプレートに \usepackage 命令などを追加してほしい。dvips,Ghostscript がアウトラインフォントを拾える環境でないと動作しない(要するに,PK ビットマップフォントが混入しているとエラーになる)ので注意。

「葛」の JIS 2004 字体の画像: 葛正字体 の出力は,次のとおりとした。

tex2image -p 1kuzu '\LARGE\CID{7652}'

Utf82TeX 0906 をリリースした。Unicode CJK Unified Ideographs Extension B(CJK 統合漢字拡張 B)をサポートし,Unicode 漢字の \UTFx, \CIDx 命令変換を改善した。漢字についてはほぼ遺漏なく処理できるようになったはずである。本サイトのダウンロード頁から取得できる。ドキュメントも改訂した。

Windows Vista がリリースされてから入力文字の範囲が拡張され,CJK 統合漢字拡張 B の文字も IME から普通に入力できるようになった。例えば,吉野屋の吉(つちよし):牛丼の吉野家の「吉」=「つちよし」もこのエリアに定義されている。従来の Utf82TeX だとそのまま出力されてしまい,コンパイルでエラーとなっていた。Utf82TeX 0906 は「つちよし」(U+20BB7)を \CID{13706} に変換する。

齋藤さんの OTF パッケージを前提としている。CJK 統合漢字拡張 B 領域文字を OTF パッケージで出力するには,安定版(stable)ではだめで,開発版(devel)を導入する必要があることに注意いただきたい。

今回いちばん苦労したのが,変換テーブル。Unicode コードポイントとそれに対応する CID 番号の対である。TeX コミュニティの権威者・角藤先生の utf8toutf 変換ツールがこのテーブルを持っていることを知った。先生にメールを書いて,流用許諾をお願いした。先生は快く了承してくださった。

テーブル構築用のプログラムを何本も書いた。UCS コードとビット列との相互変換などのコードを書くうちに,UTF-8 や UTF-16BE の符号化方式についても勉強になった。

Unicode Home Page にある Unihan database: Unihan.txt をダウンロードし,UCS と Adobe_Japan1_6 コード(つまり CID 番号)の対を抽出し,プログラムで加工した。Adobe Reader に添付されている CMap(日本語用 UniJIS-UTF16-H,中国語簡体字用 UniGB-UTF16-H,中国語繁体字用 UniCNS-UTF16-H,韓国語用 UniKS-UTF16-H)と突き合わせして,UCS --- CID JP, CID CS, CID CT, CID KR のレコードを生成した。これでできたテーブルを角藤先生のテーブルデータとマッチングして不足,不正をチェックした。最終的に 15,790 字のテーブルとなった。このうち CJK 統合漢字拡張 B 領域の変換可能文字は日本語,中国語合わせ(韓国語のハンチャはそもそもこの領域には定義されていない)1,939 文字となっている。

0906 の改修で少し Perl コードを整理した。strict でないし,余計な処理の残骸もこれまで野ざらしにしていたのだ。まだ misima にはこの変更を反映していない。もうしばらく時間がかかりそうである。

昨日,セダコヴァの著書の引用で教会スラヴ語を組版するのに Utf82TeX を使用したところ,バグを見つけた。

アーカイブそのものを修正すべきなんだろうけど,面倒なので本体訂正版だけ utf82tex-090613.zip としてサイトに置いた。ユーザの方は古い版をこれに差換えていただきたい。もちろん OldSlav 教会スラヴ語を使用しない場合はその必要はない。misima の TeX 変換の同様処理についても訂正済みである。

upLaTeX を使うようになったいま,たいていの欧文を UTF-8 で直接 TeX 原稿に記述できるので,Utf82TeX をほとんど使わない。教会スラヴ語,ギリシア語を用いるときくらいである(タイ語についても,upLaTeX ではまだ直接入力はダメで,Utf82TeX があると便利だと思う)。ほとんど存在意義を喪失しており,もうメンテナンスの必要性をまったく感じなくなってしまった。

misima 旧仮名遣い・旧字変換支援ソフトウェアをようやく復旧した。ドライブする HTML をちょっと古いバックアップから戻して,最新版に手直ししたつもりだけど,完全ではないかも知れない。プログラムそのものはまったく無傷だったので,デグレードはない。復旧ついでに,ウ音便変換バグ訂正,旧仮名遣い辞書訂正もした。

先日壊してしまった Web 環境の復旧がほぼ完了した。misima 関連コンテンツも一部を除きファイルを再登録した。バックアップデータと最新バージョンの整合性を確認するのに手間取ってしまった。misima.html はまだですが,とりあえず misimaservlet/​misima.html もしくは misima SOAP Web-Service をお使いください。

BSD で動作するロシア語形態素解析ソフトウェアをかねてから探していた。二つの目的がある。ひとつは,プーシキンのコンコーダンス・プログラムの単語集計において,現行の出現形ではなく lemmatized な見出語でまとめること。いまひとつは,現時点の私の関心事であるロシア語旧正字法について,misima のような新・旧正字法変換のプログラムを書くこと。ロシア語旧正字法も語彙に依存する複雑な特性をもっており,そのためには misima 旧仮名遣い変換における「茶筌」と同じように,ロシア語形態素解析器が必要なのである。さらにその正字法変換ツールの用途としては,LaTeX T2D 旧正字法ロシア語用ハイフネーションパターンの作成を考えている。ここまで成せば,ロシア人にも果たせなかった LaTeX contribution となるはずだ。

FreeBSD russian ports にはそれらしいのが見当たらなかった。"Russian tagset and Russian statistical taggers" サイト(Serge Sharoff 氏による)によれば,インターネットリソースには TreeTagger, SVMTagger などのいわゆる tagger プログラムがいくつか公開されている。でも,残念ながら,私の愛用する FreeBSD,Mac OS X においてコマンドラインから使用できるツールがなかったのである。

ところが昨日,ロシアのサイトを探し回っていて lemmatizer(http://www.aot.ru/)を見つけた。ウクライナ・キエフ大学の Алексей Сокирко(アレクセイ・ソキルコ)によるプログラムである。このサイトでは,Graphematics 書記素解析ツール GraphmatThick,Syntax 統辞解析ツール TestSynan も公開されていて,私はしばらく勉強させてもらおうと思っているところである。lemmatizer は外部データを切り替えることで英語,ロシア語,ドイツ語の解析が可能な形態素解析ツールである。ライブラリとして使用することを主たる目的に書かれたものだが,TestLem という簡易試験ツールも添付している。ロシア語については,かの有名なザリズニャクの文法辞書の考え方に準拠している。Windows 及び Linux 用のアーカイブが用意されている。FreeBSD にもじつは textproc 分類で ports が存在することも判明。そこで早速 FreeBSD と Mac OS X Tiger にインストールしてみた。それぞれ,動作させるのにかなり苦労した。このソフトについて紹介・説明している日本語サイトは皆無のようである。通常の手順では組込みできないので,ここでインストール手順と使い方とを紹介する。

【FreeBSD インストール】

ports が用意されているが,通常の make install clean 発行だけではダメである(ports のバグなのか,説明が足りないのか)。スーパーユーザ権限で以下のオペレーションによってインストールする。これにより,ロシア語,英語,ドイツ語の形態素解析辞書も同時にインストールされる。

# cd /usr/ports/textproc/lemmatizer2
# make
# make install generatemorph installmorph
# cd /var/db/lemmatizer/Dicts/Morph
# chmod a+rx Eng Ger Rus

FreeBSD では lemmatizer の付属プログラムを使用するに先立って,環境変数 RML に辞書の組込みディレクトリ名をセットしておく。.tcshrc にも記述しておくとよい。

% setenv RML /var/db/lemmatizer

【Mac OS X インストール】

Mac OS X については lemmatizer 本体とロシア語辞書のみのインストール方法に留める。もちろん,英語,ドイツ語用の辞書も取り寄せて組込むことができる。詳細は Docs/Morph_UNIX.txt に記載されている。

  1. インストールするディレクトリ(ここでは $HOME/pkg/lemmatizer とする)を作成し,そこに http://www.aot.ru/download.php から lemmatizer.tar.gz と rus-src-morph.tar.gz をダウンロード格納する。
  2. lemmatizer は PCRE(Perl Compatible Regular Expressions)ライブラリを使用する。http://www.pcre.org/ からアーカイブをダウンロードし,これをインストールする。展開したディレクトリにおいて,./configure, make, make install とごく一般的な手順で組込むことができるが,UTF-8 でも使う可能性があるなら configure のオプションに "--enable-utf8 --enable-unicode-properties" を追加してビルドすることをお勧めする(FreeBSD ports は UTF-8 オプション付きで自動的に組込まれる)。
  3. % ./configure --enable-utf8 --enable-unicode-properties
    % make
    % sudo make install
    

  4. 環境変数をセットする。これはインストールのみならず,lemmatizer 利用の際にも必要である。
  5. % setenv RML /Users/isao/pkg/lemmatizer
    % setenv RML_PCRE_LIB /usr/local/lib
    % setenv RML_RCRE_INCLUDE /usr/local/include
    

  6. lemmatizer の C++ コンパイル,リンク用インストーラに定義されたオプションは,そのままでは Mac OS X Tiger ではエラーとなるので,次にこれに訂正を施す。Source/common/common_exe_mak ファイルを以下のように書き換える。
  7. 〔前〕:

    libs_argument := -Wl,--start-group $(pcre_libs) $(subst .$(lib_ext),,$(lib_pathes)) -Wl,--end-group
     
    ifeq ($(libmode), static)
        lib_mode_switch := -static
    endif
    

    〔後〕: -Wl,--start(end)-group, -static オプションを削除

    libs_argument :=  $(pcre_libs) $(subst .$(lib_ext),,$(lib_pathes))
     
    #ifeq ($(libmode), static)
    #    lib_mode_switch := -static
    #endif
    
  8. コンパイル,リンク,辞書生成をスクリプトによって実行する。
  9. % ./compile_morph.sh
    % ./generate_morph_bin.sh Russian
    

  10. $HOME/pkg/lemmatizer/Bin にパスを通しておく。

【使い方】

lemmatizer 付属の TestLem は,lemmatizer ライブラリを用いたテストプログラムである。これで手軽にロシア語テキストの形態素解析を行うことができる。ただし,解析対象ロシア語テキストファイルの作成に際しては,以下の2点に注意する。

  1. ロシア語は Windows cp1251 エンコードで記述する。iconv などのコード変換プログラムを用いて UTF-8 などから変換すればよい。Emacs なら以下のコードを .emacs に記述すれば,cp1251 キリルエンコーディングを直接扱うことができるようになる。
  2. (codepage-setup 1251)
    (define-coding-system-alias 'windows-1251 'cp1251)
    

  3. 1行1単語の形にしておく。このため,通常のテキストファイルを扱う場合は,適当な tokenizer ツールを用いて前処理する形態となるだろう。

試しに,次のようなテキストファイル r.txt を準備するとしよう。

Я
люблю
вас
,
Надя
!

これをコマンドラインにおいて TestLem プログラムで処理する。

% TestLem Russian r.txt
Loading..
read r.txt
process r.txt
Count of words = 6
Time = 0 seconds; 0 ticks
too few words to measure the speed
writing to r.lem

Russian という第一引数はロシア語形態素辞書を指示するものである。English,German とすれば,それぞれ英語,ドイツ語の形態素解析が可能である。ファイル名(r.txt)を省略すると標準入力からテキストを読む。処理結果は,この場合 r.lem というファイル名で生成される。その出力は次のようなものである。

Я -> Я ча#
ЛЮБЛЮ -> ЛЮБИТЬ кб#
ВАС -> ВЫ чучхчч#
, -> , яя#
НАДЯ -> НАДЯ до#
! -> ! яя#

出力結果例においては,ЛЮБЛЮ は ЛЮБИТЬ という不定形の動詞で,一人称・単数・現在形であるということが,"ЛЮБИТЬ кб#" という形式で示されている。"ВЫ чучхчч" は,ВАС という出現形が二人称複数代名詞 ВЫ の生格,対格もしくは前置格であることを示す。このように,文法解析結果は "->" の先に「見出語 xx..#」で示され,文法構造は "кб","чу","до" など二文字からなるニモニックの組合せで示される。語として複数解がある場合は "xx...#" が複数出力される。こうして,語の出現形の lemmatize された見出語と文法構造が得られるのである。コンコーダンスにおいて見出語で出現度数を分析する等の処理が可能となる。

ロシア語文法構造ニモニック,文法略号の意味は Dicts/Morph/rgramtab.tab 及び http://www.aot.ru/technology.html に解説がある。詳細はそちらを参照。

昨日,サイト・メンテナンスでちょんぼって,Web 環境を壊してしまった。misima やら FreeBSD 関連のページ,このブログが失われてしまった。幸いにも私にとって最も重要な TeX・コンコーダンス関連のアーカイブは無事だった。今日なんとかブログだけは復旧させた。あとは残骸から復旧できるか不明である。時間をかけて少しずつやるしかないか。

kubekarazu.jpg

misima 辞書,Servlet フォーム,Utf82TeX テーブルの訂正をした。

misima の旧字辞書から,奇,却,脚の3文字に対応する旧字エントリを削除した。要するに,従来は異体字に変換していたのをしないようにした訳である。ある方から指摘をいただき,再考した結果である。

misima Servlet 版では,サーバ側 Servlet / JSP コンテナ Tomcat の POST テキスト最大長を 8,000 バイトに制限している。不用意なユーザから長大なテキスト変換を要求され,サーバがその処理で占有されたら堪ったものではないからだ。従来,これを越える入力を行うとプログラムに渡ったとき 8,000 バイトで切り落とされるため UTF-8 符号化において欠落が生じて文字化けしてしまっていた。今回,ユーザ入力段階で JavaScript でチェックして,上限値を越えた場合はエラーを出力するように改善した。

Utf82TeX については,ロシア語変換における合字抑止命令挿入のバグを訂正した。例えば,"становится" というような "тс" という綴りがあるロシア語文字列では,"stanovit\-sya" のように "t" に続く "s" の前に "\-" (合字抑止命令) を挿入して変換してやらないと,LaTeX OT2 キリルフォントエンコーディングで組版した時に "ts" の合字が拾われて "становиця" となってしまう。"тс" が "ц" に化けてしまうのである。昨年ドイツ語・BibTeX オプションをサポートした時,この処理にデグレードを作り込んでしまい,"\-s" のあとに空白文字を挿入するようになってしまっていたのだった。プログラムを直してもよかったのだが,テーブルエントリを "\-s\empty" に訂正することによって,空白を命令の区切りとして機能させるようにして,ごまかした。utf82tex-0902 としてアーカイブを改訂して公開した。misima の TeX 変換にも同じ処理があるので,こちらも訂正した。

『ロシアン・ジョーク』とともに,もう一冊,新書を読んだ。萩野貞樹著『旧かなづかひで書く日本語』。本書は,熱烈な旧字・旧仮名遣い信奉者による入門書である。私も歴史的仮名遣いにはたいへんな愛着がある。

私の長たらしい文章を読みたくないひとのために,結論から言っておく。この本はただの煽動本である。なぜか。根拠のないことをさも真実であるかの如く何も知らない読者に吹き込んで,彼を踊らせるだけでなく,世の中の標準を独善的に嗤いたがるエセ学者本の典型だからである。

本書は問題点が多い。まずなにより,著者による他者攻撃は不愉快である。旧字・旧仮名遣いはカッコいいとか,字音仮名遣いは厳密でなくてもよいとか,主観的主張のみならず,出典明示・引用もなく人をこき下ろすやり方に,私はところどころ引っ掛かった。現代仮名遣いで書かれた,長い年月を掛けて成った良心的な学術出版物を,けんもほろろに著者は腐す。西欧との相克における日本の知的立国に対し,死にものぐるいで悩み・努力してきた往時の人々を,表記方法の伝統という名分において,バカ・無知無能呼ばわりする萩野の態度。実のところ,萩野の主張内容についてくどくど批判したいというよりも,その失礼さ・自信満々の浅はかさ・尊大さに,私は道義的怒りを覚えた。

そういう点で,まじめに取り扱う価値を私は本書に認めない。ここでは,萩野の口性ないところでなく,その学問性において,私が問題と考える点をしるしておく。国語学の専門家ならば萩野の論をどう評価するのだろうか,私は知りたいものである。

旧仮名遣いで書くことの必要性・正当性を主張するにあたり,萩野がその根拠としているのは,次の言説に尽きる ---

あれこれしつこく言つてゐるのは,そもそも文語と現代口語を分けるなどといふことはできないことをここでは言ひたいためです。文語・現代語を分けることができないならば「現代仮名遣い」といふものはあり得ない,あつてはならない,といふことになる。
萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』幻冬社新書, 2007, p. 42.

このあと「現代かなづかい」内閣告示にある「主として現代文のうち口語体のものに適用する」との一文を捉えて,「文語」にこれを適用する違法性を述べ,文語と口語体の境界線の曖昧さに基づいて,口語体にも現代仮名遣いを適用するのはおかしい,と著者は指摘する。要するに古典は歴史的仮名遣いで書かれているのだから,現代口語もそれに則るべきという単純極まりない理屈である。萩野は,しかし一方で,なぜ「文語」を歴史的仮名遣いでしるすのが「正しい」のか,ということをまったく追究していない。それは彼にとって自明のことだからである。ところが,「文語」が本当に「歴史的仮名遣い」で書かれている,書かれるべきかどうか,は自明ではないはずである。「現代かなづかい」内閣告示の一貫しない点を捕まえて,「だから歴史的仮名遣いが正しい」とどうして短絡できるのか。

歴史的仮名遣いに関するきちんとした国語学の本を調べたことのある者ならば,知っているはずである --- 歴史的仮名遣いというものが,江戸時代契沖以降に整理された学問的なものであることを。学問的な成果である以上,いまだに歴史的仮名遣いの確定していない単語だってあるということを。歴史的仮名遣いが皆の則るべき規範(つまり「正しい書き方」)として社会的に意識されたのは明治以降であることを。それを,あたかもはるかな古代から伝わる「確立」された伝統であるかのように萩野は説くのである。 ---

ところが日本にはそれ [固有の文字を持つ言語:註] があつた。しかもそれは,千数百年以上昔のはるかな古代に,固有の文字を持たないままに自国語を精密に観察しようといふ巨大な意志が存在したことによつて実現し得たものでした。その果実を体得し伝統として,西暦九百年頃にはかな文字による国語の正書法が確立してゐました。
 例へば『土佐日記』などの用字法は,発音とは相当のずれが生じてゐたにもかかはらず現在の歴史的仮名遣とほとんど全く一致してゐます。
同書, p. 140--1.

「正書法が確立してゐ」たとは,なにをもって断定できるのだろうか。「確立された正書法」とはいったいどういう条件を根拠にしているのか。それについては説明がない。何も知らない読者は,このくだりを読んで,日本ではなんと「正書法」すなわちルールとしての歴史的仮名遣いが西暦九百年頃にはすでに「確立」していたと,教えられたつもりになるはずである。新書だからか,読者を馬鹿にしていい加減なことを言っているとしか思われない。それが学問的根拠に基づく言説でないことは,築島裕著『歴史的仮名遣い』など --- きちんと一次資料(まさに「原文」)を調べた上で書かれた「国語学的な」論考 --- を読んだことのある者なら知っている。「確立してゐ」たことを示す例として『土佐日記』を上げる時,萩野は「原文」(変体仮名を含む草書体写本)のテクストクリティークを踏まえているのだろうか? そこから「確立」されたとまで断言できる,原理としての表記の実態を観察し得たのだろうか? おそらく萩野は『土佐日記』の「原文」など見たこともないのに違いない。築島裕を読んだあとでは,萩野の言説が事実に反することが明らかだからである。「やるべきこともやらないで,このウソツキ」と呟いてしまうのは,私だけではないはずである。それなのに,萩野は一方で,岩波日本古典文学大系本などの一流の学者たちによる労苦の成果を,徹底的に腐しているのだ。

こういう論旨に不信感をもつと,著者が展開している,旧仮名遣いによる文学の現代仮名遣いへの「改竄」に対する批判についても,学者としての姿勢を怪しんでしまう(私も,谷崎潤一郎など旧仮名遣いによる作品の文庫本が現代仮名遣いに改められて出版されるのはオリジナル尊重という意味では問題だと認める。でも,普及という観点では,失われるものと得られるものとのバランスにおいて,そのほうがよいと考える向きである)。ところが,『土佐日記』や『源氏物語』だって,「原文」の仮名遣いは,その変体仮名の多様な表記が現代の仮名文字に包摂され,歴史的仮名遣いに「改竄」されて出版されているではないか。そこでは,あの美しい運筆の流れがことごとく捨象されてしまっているではないか。萩野の「原文」の理屈からすれば,古典は草書体の印影本形式だけで出版されるべき,ということになるのだ。要するに伝統というもの,古典というものが校訂者による「改竄」を通して現代人に親しいものになっているというあり方を無視して,「原文」主義を誇大に主張するのは,空理空論である。著者は,本当に「原文」に当たってから持論を展開しているのか,こういうところからも極めて疑わしくなるのである。著者が原文,原文,とうるさく拘っている引用例は明治以降の文学ばかりである。それで,現代仮名遣いによって千年以上の伝統がおしなべて破壊されるなどと誇りかに説いてくれるのだ。ただの大言壮語である。

私は歴史的仮名遣いそのものを否定するのではない。私がことさらに萩野の意見に反駁すべき必要を覚えるのは,要約すれば次の理由による。「傳統的・正統たる歴史的假名遣ひ」などというドグマを押し付ける言説は,日本語表記というものが「古代」から整備されているかのような錯覚を植え付け,「千年の伝統」などという偽りの概念を歴史的假名遣いに纏わり付かせることによって,戦後の教育者の努力を反伝統と極め付けて無に帰せしめ,現代仮名遣いのルールとしての性格を貶めるだけでなく,一方で,古典そのものの実態を見誤らせることにつながるからである。

きちんとした古典文学全集を開いて,校訂者序文を自分の目でよく読んでみるがよい。そして古典本文の実態をよく観察するがよい。そこには必ず「表記は歴史的仮名遣いに改めた」との断り書きを見出すはずである。古典表記の実態は,多く仮名遣いの混乱が見られ,それは「誤り」などではなく,正書法(つまりルール)が整備されていないだけのことなのである。例えば手元にある『神皇正統記』(十四世紀)はどうか。

或は累世の臣して其君をしのぎ,つゐに讓をえたるもあり。[...] 一種姓の中にをきてもをのづから傍より傳給ひしすら猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。
『神皇正統記』岩佐正校注, 岩波文庫, 1975, p. 24.

萩野に歴史的仮名遣いは簡単だと教わった者ならここにある「原文」の「誤り」はすぐわかるはずである。「つゐに」は「つひに」,「...にをきてもをのづから」は「...におきてもおのづから」が正しい歴史的仮名遣いである。この手の「誤り」は『神皇正統記』の開いたどの頁からも拾うことができる。また,さらに時代の下った十七世紀の例,かの俳聖・松尾芭蕉の次の句はどうか。

木曾の瘦もまだなをらぬに後の月
『芭蕉俳句集』中村俊定校注, 岩波文庫, 1970, p. 148.

「なをらぬ」は「なほらぬ」が正しい。北畠親房も松尾芭蕉も当代一級の文化人であった。なのにこの種の「誤り」がぼろぼろあるのである。彼らは太古から「確立されてゐた正書法」に無知だったのだろうか? 違う。歴史的仮名遣いを「確立された伝統だ」などと宣って,絶対視することのほうに誤りがあるのである。

彼ら古典作家の表記の実態に認められる言語は,萩野に言わせれば,「意味不明」になるはずである。文学の意義を形式ではなく内容によって考える者には,この萩野の言説は,古典というものを誹謗しているとしか受け取られない。萩野は,愚かにも,仮名遣いによって文学作品が「意味不明」になると自信満々で書いているのである。

これ [「朝日歌壇」の短歌作品:私註] が歴史的仮名遣で書かれてゐたら,「入る」の意味なら「いる」,「居る」の意味なら「ゐる」と書き分けられることになる。一見して意味明瞭です。ところが新かなで「いる」とあるために,この作品は決定的に「解釈不能」なのです。
 今引いた俳人の言葉からすれば,このやうに「意味不明」であることによつて「詩」となつたといふことなのかもしれませんが,それは通常人には通じない話でせう。
萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』幻冬舎新書, 2007, p. 124.

どうも私だけでなく,北畠親房も,松尾芭蕉も,「通常人」ではないらしい。こうして,萩野のこの根拠薄弱の偉そうな言説によれば,古典はみな「意味不明」と貶められることになる。萩野はどうしてこのような古典の実態をねじ曲げるのか? 彼の学者としての姿勢に私が疑問を投げかけてしまう次第である。己の主義主張のために自信満々に,偉そうに伝統を騙る者。私がもっとも忌み嫌う滑稽な日本人のタイプなのだ。

萩野の言う伝統とはただの形式主義ではないだろうか。「舊字・舊假名遣はカッコいい」,「舊字で書くと氣持ちいい」などという言葉は,見た目・カタチへの主観的偏愛を示して余ある。いずれにせよ,彼のような事実を踏まえないウソツキ伝統擁護論者よりも,ずっと深く日本文学・古典を愛し,その本質を理解し,その伝統の素晴らしさを明らかにしてくれる研究者・現代仮名遣いの書き手を,私はたくさん知っている。表記は伝統の本質ではないのだ。

もちろん,ある単語・表現の本来の使い方など,さすがに「大学教授」だっただけあって,本書には教えられるところもたくさんある。古語の活用を丁寧に教えてくれ,高校のころを懐かしむこともできる。しかし,本書は,学問的根拠において判断するに,俗流国語学者による駄本である。

本書は半年で三刷出た。売れているといってよい。つまりは「傳統」という魔法のような言葉によって,いま「舊字・舊假名遣ひ」は大流行なのだ。ネットでも,本書の書評を見てみると,好意的なものが多い。「目からウロコが落ちた」,「我が意を得たり」なんて感激している評者もいた。そんな「幸せな」旧字・旧仮名遣いフリークには,是非とも本棚に一冊。そしてこの自信満々の学者先生による理論書で,歴史的仮名遣いの勝利を言祝いでもらいたい。こうして「なんちやつて舊字・舊假名遣ひ派」(間違いだらけの旧字・旧仮名遣いの文章をネットで見るにつけ,私が勝手にそう呼んでいるだけなのだが)が出来上がって行くということか。「なんちやつて舊字・舊假名遣ひ派」はいま増殖中なのである(嗤われているのがわからないらしい)。

ネットには,萩野のような独善的押し付けなしに,旧字・旧仮名遣いを愛するがゆえにそれで個人的に文章を発表している方もいらっしゃる。私はそれ自体を悪いことだとは思わない。ただ,旧字・旧仮名遣いこそが「正しい」表記であり,現代仮名遣いに従うことは愚かである,伝統というものを貶めている,とでもいうような萩野風言説に出くわすと,俄然反発したくなるだけなのだ。

それにしても,現代仮名遣いという現代人の書記ルールを高みから見くだして,舊假名遣ヒニ復古セザレバ傳統ハ死ス,みたいな事実に依らぬ滑稽な大言壮語でもってメシが食えるのも,象牙の塔に籠ればこそ。私みたいな,社会の下層でひとの顔色を伺いながら文書を書いている者には,「ほんたうに」羨ましい。

今日は,Perl で misima SOAP クライアントを簡単に作成する方法について述べる。

misima 旧字・旧仮名遣い変換支援は Web 版を数多くの方に使っていただいている。しかし,misima SOAP Web Service を利用しているひとはほとんどいない。misima SOAP Web Service パッケージには,Emacs / Meadow 用,Microsoft Word 用,Jedit X 用,TeXShop 用,秀丸用のクライアント,Java API クラスライブラリが添付されている。これによって,まるで自分の PC で misima が動いているかのような使い方ができるのに。作者としては残念である。

SOAP といえば Java という印象があるけれども,一方,Perl の世界でも,SOAP 通信基盤モジュール SOAP::Lite が提供されており,CPAN (Comprehensive Perl Archive Network) から入手できる。これを使うと,いとも簡単に misima SOAP クライアントが書けてしまう。misima 変換オプションと対象文字列を二つのパラメータにセットし,SOAP サービスオブジェクトを生成し,パラメータを引数にして misimaConvert メソッドを実行すると,misima 変換結果が返却される。

#!/usr/bin/perl
use utf8;
use SOAP::Lite;
binmode STDOUT, ":utf8";
my $p1 = "-kyitq -s a -x fki"; # 旧字旧仮名TeX変換指定
my $p2 = "鴎外は団扇であおいだ。Я люблю вас. Ça, déjeunons!"; # 変換対象 text
my $uri = "http://yasuda.homeip.net/axis/services/misimaSoapConnector";
my $svc = SOAP::Lite->service("$uri?wsdl");
print $svc->misimaConvert($p1, $p2);

以上のような Perl コードを misimaconvert とでも名前を付けて格納する。コマンドラインでこれを実行すると「\CID{7646}外は團\CID{13883}であふいだ。YA lyublyu vas. \c Ca, d\'ejeunons!」(旧字・旧仮名遣い・多言語 TeX 変換)と出力される。

もちろん,これは核心部分だけのコードなので,実用的なプログラムには,パラメータの組立て,変換対象文字列の取得,結果の編集・加工など,その前段,後段が必要なのは言うまでもない。でも,misima の遠隔変換オペレーションはこれだけでできてしまうのである。SOAP はいかに簡単なのかということが分かると思う。misima サーバが Java で記述されているなんてことはまったく意識しないでよい。XML による標準化というものがいかに強力なのかが分かるというものである。

おそらく SOAP::Lite モジュールの組込みの方がよっぽど面倒だろう。MIME-Lite, MIME-Tools, XML-Parser, Compress-Zlib など,いくつかの前提モジュールを別途インストールしておく必要があるからである。FreeBSD ならば ports: net/p5-SOAP-Lite が用意されているので,cd /usr/ports/net/p5-SOAP-Lite && make install clean 一発でインストールできる。私の場合,前提 Perl モジュールの版が古かったためか,「.../Base64.so: Undefined symbol "Perl_Tstack_sp_ptr"」などのエラーが出て make が失敗するという問題があった。エラーになっているライブラリ(例では BASE64.so)の Perl モジュールを再インストール(make deinstall reinstall)すればうまくいった。

ユーザでもし独自に misima アクセスクライアントを作成し運用する場合は,私に連絡いただきたい。

友人から Facebook へのお誘いを受け,アカウント登録を行った。Facebook は米国の学生が作った SNS だそうである。SNS というと日本ではミクシィ Mixi が多くのひとの支持を得ているが,Facebook の進出で競争が激しくなっているのではないだろうか。

「友人」とだけ共有できる写真をアップロードしたりした。Facebook ではアルバム機能やイベント登録ができるようになっている。友人はロンドン在住のロシア人なので,書き込みはもっぱら英語。英辞郎が大いに役立っている。いま,ロシア語辞書もしこしこ作ろうかと考えている。

私の Web ページ,ブログも,口性ないこと,大人げない不用意なことをぽんぽん書いてしまい,一般的に顰蹙を買いかねないところもあり,この際,クローズドな Facebook に移行してしまおうかとも考えている。友人なら指摘してくれればすぐに訂正できる。

* * *

misima を訂正した。終止形が「う」で終わるワ行ウ音便活用動詞の旧仮名遣い変換に不正があった。「彷徨うて死ぬ」はこれでよいが,「彷徨うひと」は「彷徨ふひと」でなければならない。連用形の語尾のみ「う」にしなければならないのに,無条件に「う」にしてしまっていた。

旧仮名遣い・旧字変換支援ソフトウェア misima はたくさんのひとにご利用いただいている。ありがたいことである。私自身の課題解決のために作ったソフトウェアが他のひとの役にも立っていると思うと,甲斐があったというべきである。

しかしながら,デバッグ目的でごくたまにログの入力内容の変換試験を行って気づくことだが,旧仮名遣い・旧字体で入力される例が結構ある。旧仮名遣い・旧字体で入力するのが困難であるという事情からこのソフトウェアを開発したのに,これはいったいどういうことだろうか? はじめから旧仮名遣い・旧字体で書くことの出来るひとなら,misima は必要ないはずである。

こうした旧仮名遣い・旧字体による入力テキストを調べてみると,それが不完全な「旧仮名遣い・旧字体」であることがわかる。例えば「ありがとうと云い,戰いをなすであらう」のような文に類するものである。これは旧仮名遣い・旧字体テキストとしては「ありがたうと云ひ,戰ひをなすであらう」が正しいと思われる。ところが「あらう」だけが「あろう」の旧仮名遣いになっていてあとは現代仮名遣いであり,また「戰」が旧字体になっている。

この中途半端な旧仮名遣い・旧字体テキストを misima に処理させるとどうなるか。「ありがたうと云ひ,戰ゐをなすであらふ」---「戰ひ」となるべきが「戰ゐ」に,「あらう」と入力したのに「あらふ」に誤変換されてしまっている (もともと「戰居を茄で洗う」のつもりだとすればこれでよい...)。これは misima が日本語解析に使用している日本語形態素解析ソフトウェア茶筌が現代仮名遣い,当用漢字テキストで最適化されているにもかかわらず,中途半端な旧仮名遣い・旧字体テキストで語の区切り,語の解釈を誤ってしまったためである。misima のデバッグ機能で確認するとわかるが,「戰い」は「戰」と「い」(「いる」の連用形) に,「あらう」は「洗う」に解釈されている。こうしてもともと正しかった旧仮名遣いテキストをも改悪してしまう訳である。

ユーザはなぜ中途半端な旧仮名遣い・旧字体テキストを入力するのか? 私にはよくわからない。敢えてその真意を忖度すると,「不完全かも知れないテキストを misima によって正しい旧仮名遣い・旧字体にしたい」ということなのだろう。しかし misima は現代仮名遣い・新字の旧仮名遣い・旧字へのテキスト変換機能は備えているが,「半完成の旧仮名遣い・旧字体テキストを訂正する」ことができるなどとはひとことも主張していない。

旧仮名遣い・旧字体で書きたいと思うのは結構であるが,中途半端なことはしないほうがよい。そういう方は辞書をこまめに引いて正しい歴史的仮名遣い,旧字体を特定したうえで書くべきである。misima のようなツールで変換しなおかつ結果が正しいかを見直さないなどという態度では,上記のような誤変換で恥を晒すだけである。それは「misima について」にも,misima 仕様書にも,変換フォーム特記事項にも,口酸っぱく書いたことである。私のツールを愛用してくれるのはありがたいけれども,これを使って誤った日本語テキストを公開して当該ユーザが密かに笑い者になるような結果になるのは,作者として憂うべきことである。私はある程度旧仮名遣い入力を判断できるように misima システムを可能な限り調整してはいる。そうはいっても,文脈の判断をアルゴリズムに組込むことは現実的に不可能である。ドキュメントに記載した注意事項をよく理解いただきたいと思う。

misima は「日常的に旧仮名遣い・旧字体で書きたいけれどもよくわからない」と思うひとのためのお勉強ツールではない。逆に,現代仮名遣い・当用漢字で普段は書いているが,論文等で古い文書を引用しなければならないひと,なおかつ歴史的仮名遣い・字体変更をきちんと理解していて自動変換の結果を見直すことのできるひと。そういうひとがラクをするためのツールである。学術的な課題をもつ者こそが misima のターゲットユーザである。そんな利用者がいるのだろうか,と不審に思う方は misima を使うべきではない。いるのである。それは国文学の研究者や俳句・短歌の伝統文芸家など,特殊な課題をもつ少数派である。だから私のささやかなサイトのなかで misima がダントツのアクセスを誇る理由が私にはまったく理解できないのである。

misima の旧仮名遣い辞書のエントリで間違いを見つけたので訂正した。

「たじろぐ」は歴史的仮名遣いでも「たじろぐ」だと思っていた。府川充男・小池和夫『旧字旧かな入門』(柏書房, 2001) でも「たじろぐ」となっていたので misima もこれに従っていた。しかし今般『改訂新潮国語辞典---現代語・古語---』(1980年改訂第7刷) で確かめると,「たぢろぐ」としるされていて,さらに「歴史的かなづかいで「たじろぐ」とするは非」とまで解説が付されていた。おそらく「たじろぐ」という表記は戦前でも広く行われていた誤りなのだと思う。たしかに『言海』では「たじろく」(「し」は「志」の変体仮名) という見出しで出ていた。今回 misima では「たぢろぐ」を採用することにした。

あと「じっと」という副詞が「ぢっと」と誤変換されてしまうのを訂正した。misima の辞書を作成する際,茶筌辞書で「じ」「ず」を含む語をすべてチェックしたつもりなんだけど。なんで漏れていたのか。

misima は旧仮名遣い変換において原則的に「じ」・「ず」を「ぢ」・「づ」に変換する。「じ」「ず」としなければならない語は辞書に登録しておく必要がある。「たじろぐ」はエントリの削除,「じっと」はエントリの追加で対処した訳である。

先日,森鷗外の『仮名遣意見』をめぐって歴史的仮名遣いの保守主義云々について書いた。「正字正假名」なるものを信奉するひとの主張には,その「國語の保守主義」,「合理的」,「カッコいい」なる馬鹿げた理屈において,私はどうしても与しかねるからである。私は日本語に関心を持つ者は歴史的仮名遣いを知っておかねばならないし,読み慣れておく必要があると認める。 misima 旧仮名遣い・旧字変換支援を公開しているのも,歴史的仮名遣いへの関心と愛着から来ている。 misima に取り組むに際して,何冊もの歴史的仮名遣いに関する書籍やインターネット・リソースを参照して研究して来たし,その過程で仮名遣い変更の功罪についても少しは考えるようになった。最近多く見られるようになった,歴史的仮名遣いで文章を書くひとに対しても,私はある程度の理解をもっているつもりである。でも,歴史的仮名遣いを尊重したいと思う気持ちとそれを使わなければならないということとは違う。

「正字正假名」派は言葉にうるさいと自認するひとが多いようである。古い日本の文化を愛し,本人のプライベートや仲間内の営みにおいて「正字正假名」で文章を発表しているのは悪いことではない。しかし,「正字正假名は日本の伝統である一方,現代仮名遣いは敗戦のどさくさにまぎれて断行された愚策だ,すべからく正統表記に戻すべきだ」との彼らの意見には私はまったく承服しかねる。「愚策」がこんなに広く受容されかつ長く続くものだろうか? 歴史的仮名遣いに回帰するなんてことが現実にできるのだろうか? 「難しそうに見える歴史的仮名遣いは実は易しい」なんてことを平気で宣う「正字正假名」派がいる。「現代仮名遣いのほうが合理性に乏しくて書くのがたいへん!」なんて心にもない浅はかな衒学を弄するものさえいる (彼は学校でいったいなにを習って来たのか?)。ところが,歴史的仮名遣いは本当に難しいのである。

歴史的仮名遣いの本当にやっかいな点は字音仮名遣いにあると私は思う。字音仮名遣いとは漢字音の歴史的表記のことである。これだけは misima のプログラミングにおいて溜め息とともに実装を諦めなければならなかった歴史的仮名遣いの奥義である。「正字正假名」一派が「実は易しい」なんて言い草ができるのは,彼らが字音仮名遣いの難しさを無視しているからだと思われる。

字音仮名遣いについては漢字で書けばよいので気にしなくてよい,などと愚かなことを言う「正字正假名」派がいる。和語になった漢語 (例えば和語「さようなら」の元になった漢語「左様」) の存在は,漢語と和語の表記の境界を明確化できずこれらを連続的に捉えなければならないことを示しており,よって字音仮名遣いを無視できないことは明らかなのである。「さやうなら」の歴史的仮名遣い表記は「左様」の表記が「さやう」であるという字音仮名遣いに準拠してはじめて成立するのである。字音の表記については音の原則に準じてよいと「気にしない」派が言うとすれば,「さようなら」は「正字正假名」でも「さようなら」と表記してよいということになる。漢字で書くことで字音仮名遣いを無視できると言うのなら,「さやうなら」は「左様なら」としか表記してはならぬということになる。字音仮名遣いを「気にしなくてよい」などというのは歴史的仮名遣いの考え方として一貫性がないどころか矛盾しているのである。そしてもし逆に字音仮名遣いも考慮しなければならないと言うのであれば,「正字正假名」はとても習得できる代物ではなくなるであろう。

「正字正假名」に国語表記を戻すとする。辞書はどうなるか? ここに仮に「正字正假名國語辭典」があるとする。「妾」(ショウ=めかけ,そばめ) をそれで引こうとするとまず現代人には引かれないであろう。「ショウ」と読むのは知っている。ところがこの「辭典」には「セフ」の見出しで出ている。「シ」--「ヨ」--「ウ」と辿っても出て来ない。「妾婦」は「セフフ」で引かないといけない。まず漢字字典で画数なり「女」の部首なりで「妾」を探し出し,それが「セフ」と表記されることを突き止め,やおら「正字正假名國語辭典」の「セフ」のインデックスを引き当ててはじめて「妾」や「妾婦」の語義説明に到達できる訳である。こういう漢字がさらに複合している熟語になると忙しい現代人はもういやになってしまうはずである。嘘だと思うなら,ちくま学芸文庫から出ている明治時代の国語辞典『言海』で「キョウ」・「ギョウ」・「ショウ」・「ジョウ」・「コウ」・「ゴウ」・「ソウ」・「ゾウ」等の音を含んだ漢語を,思いつくまま試しに検索してみるがよい。スローフード,スローセックスならぬスローランゲージが満喫できるはずである。

歴史的仮名遣いは和語だけでなく漢語の表記にも準拠してこそ「歴史的」なのである。「正字正假名」に戻すならこの字音仮名遣いをも引き取らないといけない。「実は易しい」などと宣う教養ある「正字正假名」派の尻馬に乗ってよいものだろうか? 

「私はこゝにゐると言はう」程度の歴史的仮名遣いなど,「実は易しい」派の宣うとおり,それこそ子供でも習得できる易しいものである。福田恆存『私の國語敎室』などの俗流国語学本を読めばすぐにでも実践できる。それで「カッコいい」気分になれるかも知れない。しかし上記のとおり,字音仮名遣いをも習得する,あるいは受け容れる必要性に思い至ると,もはや歴史的仮名遣いに戻せなどという軽はずみにして大それた発言はできなくなるはずだと私は思う。歴史的仮名遣いに回帰するような国語政策は,現代仮名遣いへの切替えにおける往時の混乱とは桁違いの世の反発に迎えられるに違いない。それこそ亡国の愚策であると。

障害対応で疲れた。身から出た錆。

* * *

昨夜,森鷗外について書いたついでに。

歴史的仮名遣い・旧字を国語の「正統表記」として復活させるべきだと主張する某サイトで,森鷗外の『仮名遣意見』をめぐって,あたかも歴史的仮名遣い・旧字表記そのものの擁護に鷗外の保守主義を直線的に関連付けるかのような論に出くわした (管理者に少し失礼なのでどこのサイトかは明記したくないし,当然リンクも貼りません。このサイトは非常に有名で「正字正仮名」信奉者たちのオピニオンリーダーのようである)。どうも保守主義と復古主義を勘違いしているひとがいるらしい。鷗外はたしかに保守的であったと思う。しかし「昔に戻せ」式の復古主義者ではなかったように思われる。いまでいう「歴史的仮名遣い・旧字表記」は彼の時代ではアクチュアルな表記ルールであって,その当時「現在している」ことにこだわるからこその保守主義なのであって,過去のものとなってしまったものを再興すべき「復古主義」ではなかったのだから。

だいたい鷗外の『仮名遣意見』をきちんと読むと「歴史的仮名遣い・旧字表記」そのものを「擁護」しているようには思われない。軽はずみに表記を変えることはよろしくないとしか言っていない。当時の「歴史的仮名遣い・旧字表記」はこんなによいものだからそれを守るべき,などという論理ではない。逆に当時の仮名遣いにはいろいろ問題がある一方,書かれたものに準拠するよい面もあって,Orthographie 正書法としてこれを整備し教育普及してゆくことが大事,くらいの立場である。表音的仮名遣いの考え方を否定しているのでも推奨するのでもなく,それを採用する方針をとるとすれば徹底して音韻を考究したうえでやるべきだとさえ言っている。少なくとも当時の仮名遣いの問題点を共有し,よりよい政策の実現を目指す立場であることが読みとれる。

なのに,某サイトの管理者にとって森鷗外とは「『仮名遣意見』で有名」な作家である。『渋江抽斎』などの物語作家・西欧との相克の思想家としての側面よりも,「歴史的仮名遣い・旧字」の「正当性・正統性」を擁護した作家としての価値を上に置くかのような謂いである。「『仮名遣意見』で有名」ね。鷗外が可哀相になってしまった。要するにこの管理者にとって鷗外とは,なにより歴史的仮名遣いを擁護した「権威ある偉い先生」でしかないということか。歴史的仮名遣い・旧字表記に国語を戻すべきだ,なんとなればあの鷗外大先生もそれを擁護したからだ,という訳である。可哀相な鷗外。

ひと昔前,京都や大阪は共産党,社会党が強かった。知事はそうした革新政党の後押しするひとが多かった。そのころ京都のある老女が選挙にまつわるテレビの街頭インタビューに応えて「うちは保守やから」と語るのを見たことがある。彼女の支持政党は共産党であった。どうもここには「政治的主張」ゆえの支持表明の意図は露ほどにもなく,彼女がただ周りに合わせたノンポリ丸出しのはんなり京女であって「アカ」とは無縁に思われたのであってみれば,「保守主義」とはまさにその時代の身近にある主流のことであるといえそうだ。これからすると,保守=自民党と考えるのは「先入観」というものである。「歴史的仮名遣い・旧字=保守」などという図式はそれ以上の独りよがりな理屈ではないだろうか。某サイトの管理者はひそかに「歴史的仮名遣い・旧字=保守」が真であるかのような前提をもって論じているに過ぎない。さらに「森鷗外=保守」,「森鷗外=偉い大先生」,よって「保守=正しい」,ゆえに「歴史的仮名遣い・旧字=正しい」という愚かな論理。これでゆくと「歴史的仮名遣い・旧字=保守」が覆されただけで「歴史的仮名遣い・旧字=正しい」の命題は破綻する。某サイトは鷗外の名を借りたただの権威主義だということがわかる。可哀相な鷗外。

鷗外の精神を汲むとすれば,保守主義に立つのならアクチュアルなルールをヘタに変えるのはよくない,といえる。つまり彼の「私ハ正則ト云フコト正シイト云フコトヲ認メテ置キタイノデアリマス」(岩波鷗外選集第十三巻『仮名遣意見』, 1979, p. 184) との言は,「歴史的仮名遣い・旧字表記」そのものを「正シイ」と主張しているのではなく,本質的には,彼の時代に「正則ト云フコト」つまりルールであったものに対する意思をもったこだわり・積極的受容をこそ示しているのである。彼は仮名遣いというものの Orthographie としてのあり方,つまり文化的統制・ルールたることを正確に理解していた。鷗外は正しかった。いまこの時代の「正則」は現代仮名遣い・新字である。現代仮名遣い・新字でものを書く私たちにとって,鷗外流にいえば,それを「ルールに則って正しく」使うことが「保守主義」である。

自分でもなにが言いたいのかわからなくなってきました。疲れているからか。おやすみなさい。

* * *

※ 2009.10.11 付記

この記事について「正字正仮名」原理主義者のあるXXサイト(会社に入ったら,「正しい」と信念をもって使用しているらしい,そのいわゆる「正字正仮名」を使わなくなるであろう,おそらくは青臭い学生さんのサイトである。ご立派を宣った挙句,就職の前には髪を切るだろう,そのあとの人生を何事もなかったかのように社会に溶け込ませるだろうと予想のつく,昔の全学連くずれのような青臭い学生さん。日記の日付を「平成己丑年春三月辛未朔乙亥」などとしるさずにはおれない,まあ,そういう奇特な「個性的」なサイトである。私が上で揶揄しているサイトのエピゴーネンであり,私への悪口までもきちんと師匠を真似してくれる優等生,権威主義者を崇める権威主義者なんである。やっぱり当人に失礼なのでリンクは貼りません)が,私が「森鷗外は現代仮名遣いを擁護した」と詭弁を弄していると書いていた。これは,私に対する批判ではなく,グチないしはボヤキである。「『かなづかい入門』の作者のやうな事を言つてゐ」て「残念」というのは,批判などではさらさらなく,曲学日本人得意の「ああ,あれか」式鵜呑みの所作だから。日本には,例えばカール・マルクスの『資本論』を読んでもいないのに,「ああ,あれか,だからダメなんだ」と --- 批判できずに --- 極め付ける人がきわめて多い。なら「『かなづかい入門』の作者」の言っていることを事実に基づいて「批判」してみろというのである(師匠を鵜呑みにするのではなく)。

それはさておき,私は現代仮名遣いそのものが「正しい」と言いたい訳でも,鷗外がそれを擁護したなどと言いたい訳でも,もちろんない。そう書いたつもりもないし,そんなふうに読めるとはとても思われないし,またそんなことは歴史的にありえない。同時代にまがりなりにも通用している仮名遣いをルール・Orthographie として鷗外は大事にしたかった,という主旨である。ルールに則って表記することが「正しさ」の根拠だということである。でもまあ,別に,改めて説明するほど深い意味はありませんよ。このような権威主義的・復古主義的な「正統表記」サイトを嗤いたいだけだから。どうぞお好きなように私の駄文を解釈していただいてかまいません。

ところでまったく関係ありませんが,「正字正仮名」原理主義者サイトは,国語表記のみならず,まず間違いなく「HTML の書き方」にもうるさい(だからどの「正字正仮名」原理主義者サイトも,Web 画面としても判で押したように同じである)。これもまた私には吹き出してしまう特性なのである。彼らにとっては Web ページの価値は内容ではなく HTML の書き方で判断される。W3C 仕様準拠の HTML チェッカが彼らのなくてはならない文房具である。彼らにとっては日本語文が内容ではなく表記で判断されるのとまさに同じではないか。言葉,言葉,言葉,HTML,HTML,HTML,「平成廿一年三月廿六日」なんである。

ところでやっぱり関係ありませんが,HTML リゴリスムだけでなく,「ら抜きことば」にめっぽう批判的であることを特徴とする「正字正仮名」原理主義者サイトもありました(いまはもうサイトを畳んでしまったらしいけど。おそらく髪を切って学校を卒業したんですね)。とにかく「ら抜き」をしないようしないようそればかり注意していて,「Web 2.0 の HTML は笑はれる」と --- Web 2.0 の HTML はこれを笑うことができる,という意味で ---「笑へる」記事を書いていた。まったく言葉,言葉,言葉,HTML,HTML,HTML,「平成 21 年 3 月 26 日を平成廿一年三月廿六日と書かれる」,なんである。

これら形式主義(下品な用語ですみません)に脱帽。究極の高級言語 HTML の書き方にうるさい人達 --- C などいまや最低級の言語で土方作業に這いずり回ってきた私には,まことに畏れ多い方々である。

私がなんでこんなことにかかずらっているのか? なににせよ,自分のスタイル(そう,「スタイル」でしかない)を「信念」とか「正しい」あり方とか称して他人に押し付けようとしている奴をみると虫酸が走るのである。

* * *

※ 2009.10.20 付記

でも,上で私が悪口をふりまいている「正字正仮名」原理主義者サイトはある意味で可哀相である。「正字正仮名」を批判するサイトは結構あって,古くさくてなに書いているんだかわかりづらいと「正字正仮名」派を嘲り,現代仮名遣いのほうがわかり易くやっぱり「正しい」と主張する。じつは私は,歴史的仮名遣いを絶対化するバカども以上に,現代仮名遣いを「正しい」として「正字正仮名」を批判する者たちのほうが低レベルだと思っている。

「歴史的仮名遣い」も「正字体」も「古くさくてわかりづらい」というのは,それは勉強が足りないだけである。古典や明治・大正・昭和初期の古い文献を読まずにすませられる人達なんだろうけれど。現代仮名遣いもただのルールに過ぎないのであって,「歴史的仮名遣い」,「正字体」の運用を否定するだけの強制力はない。これだけ普及したおかげで,文書の標準的表記ルールの地位を得ていると考えたほうがよいと思う。「歴史的仮名遣い」,「正字体」を好きなひとが個人的に,あるいは仲間内で使っていてもよいではないか。私が「正字正仮名」派の悪口を書くのは,「正字正仮名」が正しくて現代仮名遣い,新字を使うのは愚かだと言うその独善に限定しているつもりである。

「正字正仮名」原理主義者とそのアンチたちはどちらも「正しい」表記を巡って茶番を繰り広げている。私からみると学生運動の内ゲバにしかみえません(ホント「表記信仰」の新仮名派と旧仮名派の内ゲバ。「正字正仮名」原理主義者サイトは自分の宣伝かアンチへの悪口「しか」ない。ホント感心する。最近は「正字正仮名」派のなかでも内ゲバをしているようですが)。まあ「信念」なんだからいいではないか。「正字正仮名」サイトは,不憫にも,卑劣な「サイト荒し」の被害にも遇っているらしい。立ち居振る舞いの点では,アンチのほうがよっぽど子供じみてみえる訳である(私のサイトにも「正字正仮名」原理主義者と思われる者からへんな書き込みがない訳ではないのだが。例えば,下の「木村某」のヘンなコメント)。

* * *

※ 2009.11.14 付記

「正字正仮名」原理主義者の HTML フェティシズムについては,ここにも,ここにも書きました。 mew-dist や mule-ja などのソフトウェア開発の avant-garde なメーリングリストをチェックしてから,この HTML フェティシスト達の愉快なサイトを訪れると,ホント,彼らの計算機活用レベルは高いこと!と感心できる。

うまくできたハサミ。--- ありますね。使いやすいヤツ。
美しいハサミ。--- 僕にはあります。
正しいハサミ。--- うーむ。

うまくできた仮名遣い。--- あまり気にならないが,そういう評価もできる。
美しい仮名遣い。--- 歴史的仮名遣いは美しいと思います。ただし,僕の主観。
正しい仮名遣い。--- 基準に応じて決めること。

うまくできた HTML。--- まあブラウザで表示できてますね。でもデザインがなってない。
美しい HTML。--- よく見ます。さすがデザイナー!
正しい HTML。--- バカかお前。

ドイツの Wikipedia において,日本語漢字字体改変の項目ページ Schriftreform in Japan に,"Konverter von Shinjitai in Kyūjitai" として私の misima Servlet 版へのリンクが付いているのを見つけた。おお,僕の作品も国際的になってきたよ。私はドイツ語がまったく分らないので,このページに興味をいだいても詮ないこと。

ドイツ語は正書法の改訂が結構頻繁に行われるらしい。つい先頃も行われたところである。LaTeX のドイツ語ハイフネーションパターンもそのつど改変されているとのこと。常に言語の正しいあり方を目指して書き方を見直しているドイツ人には感心させられる。複雑になりすぎて大変なんじゃないかと忖度してしまうのだけど。

Web 公開サーバを入れ替えた。Apple Power Mac G5 の支払いがやっと終わったので,公開 Web サーバ用のマシンを新たに調達したのだ。ノーブランドのベアボーン,56,000 円也。Intel Core2Duo E7200 CPU (45nm-Dual コア, 2.53GHz x 2, FSB 1,066MHz, L2=3MB) & 2GB Memory を搭載した最近の構成である。これまでのノートパソコンと同じように静音設計の筐体である。この価格で DVD スーパードライブ,500GB S-ATA HDD 付き。OS はこれまでと同じ FreeBSD 7.0-RELEASE。かなりのデータを旧サーバ (IBM ThinkPad X20: Pentium-III 600MHz CPU, 340MB Memory) からのコピーで対処したこと,CPU の性能が大幅に改善したためパッケージのコンパイルがさっさと終わったことで,二日で移行が完了した。

新型の CPU,2GB の大容量メモリを得て,misima 高速簡易オプション版misima フルオプション版プーシキン電子コンコーダンスロシア語電子コンコーダンスなどの性能が劇的に改善された。500GB HDD は私のサイト運用だけでは持て余してしまうので,Mac から NFS でディスク共有することにした。

ところで FreeBSD のインストールでまたしてもアホになりました。つまり,つまらないミスで「オモロー」な状況になってしまったんである (テレビの観過ぎ)。必要パッケージをしこしこ組込み,起動オプションを設定し,いざ新環境の再起動を確認しようとしたところ,システム起動設定ファイル /etc/rc.conf の編集でミスをしたために,ブートでエラーとなり途中停止。せっかくの作業が無駄になるかも知れないはめに。「ん!再インストールかよ...」。

ここは落ち着いて次のオペレーションを行い,/etc/rc.conf を訂正してセーフとなった。/etc/rc.conf に文法不正があると,Bourne シェルのパスを問い合わせるプロンプトで停止する。ここで Enter を押下げてシェルに入る。この時点では,ルートパーティションが Read Only でマウントされている。/etc 配下のデータがここにあると書換えができないので,まずこれを書込み許可でマウントし直す。普通の mount コマンドで "/" をマウントし直せばよい ("/sbin/mount /dev/ad4s1a /" など)。続いて,/etc/rc.conf を修正する訳だけど,そのためのエディタが別のパーティションにある場合,これが格納されているファイルシステムを手動でマウントしなければならない。vi の場合,/usr/bin にあり,私の今回のインストールではルートとは別のファイルシステムにあったのでこの作業が必要であった。"/sbin/mount /dev/ad4s1d /usr" を実行 (私のファイルシステムの場合である。パーティション設定によってデバイス名は変わるので注意)。これで "/usr/bin/vi /etc/rc.conf" として訂正ができるようになった。修正が正しければ,"Ctrl+D" でログアウトすると同時に OS が元気に起動するはずである。

FreeBSD ユーザの皆様,/etc/rc.conf を修正したら,面倒でも Bourne シェルの "." コマンドで読込み試験をしてからリブートするようにしましょう。

new-beatrice.jpg

http://yasuda.homeip.net/ サーバ仕様

Hardware
- CPU: Intel Core2Duo E7200 45nm-Dual core, 2.53GHz x 2, FSB 1,066MHz, L2=3MB
- Bare bones: Shuttle XPC SG31G2
- Memory: DDR2-800 PC6400 2GB
- Video: Intel GMA 3100 DVI+RGB
- HDD: S-ATA2 7200rpm 500GB
- Keyboard: Digital Equipment Corporation RT-6856T 101-US
- Mouse: Logitech MouseMan
- Monitor: EIZO FlexScan E67T 19 inch
- NIC: 1000Base Gigabit LAN

Software
- OS: FreeBSD 7.0-RELEASE
- HTTPD: Apache 2.2.8 with proxy modules
- C/C++: gcc 4.2.1 20070719
- Java: Sun Microsystems, inc. Java 5.0, JDK 1.5.0.14p8_1,1
- Perl: Perl 5.8.8
- Servlet engine: Apache-Tomcat 5.5.25
- SOAP engine: Apache-Axis 1.4
- CMS: Movable Type 4.1::Professional Pack 1.1

Profile

ISAO。システムエンジニア。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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