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妻がアマゾンから Virginia Astley の CD: Some Small Hope を入手した。このレコードは坂本龍一プロデュースによるもので,彼独特の電子音響が聞いてすぐわかるほどである。透きとおる声とヨーロピアン・テクノ風音響は,大貫妙子のファンなんかには好みのものではないかと思う。

このアルバムはアナログ・レコードで聴いて来た。妻に MP3 変換を頼まれていて,A 面まで済んだところで放置してしまっていた。とうとう CD で発売され,もはや MP3 化を継続する必要がなくなった。
 

サム・スモール・ホープ(紙ジャケット仕様)
ヴァージニア・アストレイ
スリーディーシステム (2009-09-30)

今日のお休み,屋根裏部屋,私の自称書斎のお掃除をした。本当は年末にするはずだったが,LaTeX, FreeBSD のインストールに夢中になってしまった。愛用の Mac,書架,オーディオなど,私の道楽で蓄積された品々の埃を払い,煙草のヤニでべとついた表面をアルカリ洗浄液で拭き清めた。

オーディオ機器はいまやアンプ(YAMAHA C-2 プリ,B-6 パワー),アナログ・プレーヤ(Technics SL-01),CD プレーヤ(Pioneer DV-S646A),スピーカ(YAMAHA NS-1 Classic)しか使わなくなってしまった。これらは古いものばかりであるためか,最近再生音の歪みが気になるようになり,そろそろ修理かと思っていた。ケーブルを外し,接点を専用オイルで磨いた。スピーカ・コードの末端を剥いて接触部を新しくした。狭い部屋に無理して押し込んでいるところに,機器の裏側への結線は面倒この上ない。これは CD,これはチューナ,これはレコード ... と行き先をタグしつつ,プリアンプに繋いでゆく。とくに YAMAHA の B-6 パワーアンプはピラミッド型の特殊な形をした優れものなんだけど,ピラミッドの裾のわずかな間隙からスピーカ・コードを食わせるのがなかなかうまくゆかずチョーイライラ。なんとか終わって接続の動作確認をする。

再生音の歪みがキレイに解消した。完全復活。これだから 1 年に 1 回は接点のメンテナンスをしなくちゃいけない。バッハのヴァイオリン LP,ビル・エヴァンスのピアノトリオ CD を聴く。やっぱり YAMAHA・Technics 製の古い再生装置(もう 30 年モノなのだ)は,音に艶があっていいなあ,とひとり悦に入る。
 

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普段聞いていない FM/AM チューナ(KENWOOD KT-5020),BS チューナ(SONY SAT-100RX),予備のアンプ(Technics 70A プリ,60A パワー)にも通電した。SONY 製のカセットデッキ(TC-K555ESX)と MD レコーダ(MDS-E55)が壊れていた。機械動作の多い機器は,使っていないといつの間にかこのザマである。まあ,いまはもう必要性も限りなく小さそうなので捨て置くことに。
 

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息子が iPod に曲を入れたいので Mac を貸してくれとやってきた。私が中学・高校生のころはオーディオやカメラが欲しくて堪らなかったが,最近の子供はこれらにまったく興味を示さないようである。なによりゲーム機,携帯電話,iPod の最新機種に物欲が働く。音楽は iPod などのポータブルオーディオで楽しむだけで十分なのである。iPod ひとつあれば,あとはとにかく好きなアーティストの CD をレンタルしまくって,金をかけず音楽を楽しんでいる。「使わなくなったアンプをやろうか,Technics 製の昔の高級機だぞ」と言っても,「場所とるからイラネー」とにべもない。「お父さんはスピーカから出てくるよい音響で音楽を聴かないとダメなんだよな」と言っても,まったく理解されない。ま,金をかけずとにかくたくさん新曲を聴きたいという音楽の楽しみ方としては,息子のほうがしごく合理的なんである。オヤジの道楽はつまらないところに執心しているのかも。

今夜,衛星放送で大貫妙子のアコースティック・コンサートの模様が放映された。妻が目敏く番組表で見つけ,家族で観た。流行に流されずに,本当によいものに時間を割く --- これが NHK と他の放送局との「決定的な」違いである。

私は「JPOP」が大嫌いである。育ちのよい人達の,育ちのよい人達による,育ちのよい人達のための,ただの恋愛讃歌ビジネスには虫酸が走る。私のそういう思いは 1980 年代以降の日本人の趣味の否定でもある。大貫妙子のライブ映像を見て,この思いを強くした。

会社の帰りに川崎のレコード店に少し寄り道した。ピエール・ブーレーズ指揮,アンサンブル・アンテルコンタンポラン,シカゴ交響楽団等の演奏によるストラヴィンスキイ・ドイツ・グラモフォン・コレクションを見つけた。どうも発売されたばかりらしい。6 枚組輸入盤で,なんと 3,690 円。迷わずゲットした。『春の祭典』,『ペトルーシカ』,『火の鳥』,『夜鶯の歌』,『兵士の物語』などの代表作,歌曲などとともに,なによりうれしいことに,室内楽集が収録されている。輸入盤 LP で愛聴してきたが,今回やっと CD になったのではないだろうか。

ストラヴィンスキイの室内楽は,あまり録音がない。15 奏者のための 8 つの器楽ミニアチュール,弦楽四重奏のためのコンチェルティーノ,フルート・クラリネット・ハープのための『墓碑銘』,ヴィオラソロのためのエレジー,弦楽四重奏のための二重カノン。いずれも絶品なのに。いろんな演奏家の盤を聴いて来たが,ここに収録されたアンサンブル・アンテルコンタンポランによる録音がモダンで,きびきびしていて,私のいちばんのお気に入りである。とくにジェラール・コセ独奏によるエレジーがよい。
 

Boulez Conducts Stravinsky
P. Boulez (Dir),
Ensemble InterContemporain,
Chicago Symphony Orchestra,
The Cleveland Orchestra,
Berliner Philharmoniker.
Deutsche Grammophon (2010-01-19)

大晦日の晩は寒さが厳しかった。今日の元日,なんとものどかな一日だった。

夜中に ptetex3-20090610, upTeX-0.28 のインストールを試みたが,ぼろぼろエラーが出て,あきらめて寝た。今日,落ち着いて ptetex3-20090610 下にある LOG ファイルをチェックして問題対処を試みた。xdvik のコンパイル・リンクにおいて FT_xxx の関数参照のエラーで落ちていて,その後トチ狂ったようである。すでに Mac OS X にある Freetype2 ライブラリの版と不整合を起こしているようだったので,freetype-2.3.5 にバージョン・アップし,再試行したらうまく通った。make test の縦書き試験で FT_OpenType_Validate is disabled なるワーニングが出てエラー停止するが,最終成果物は dvipdfmx による PDF でよいので,これは放置。LaTeX のような大規模のシステムの初期インストールは一筋縄ではいかない。

/usr/local/teTeX/ 下をごっそり再インストールするつもりで臨んだので,ghostscript も入れ直し。いままで 8.54 を使っていたのだが,日本語の取り扱いの点から 7.07 に版を落とすことにした。山田泰司さんという方が公開なさっている "Welcome to ~taiji at gyve" サイトから Mac OS ヒラギノ,中国語 OpenType フォントを使うためのパッチを適用し,gs-7.07 で縦組でもヒラギノの高品質フォントを利用できるようになった。山田さんに感謝。

ホコリまみれだった再生装置 YAMAHA のアンプ C-2x, B-2x, Technics SL-01 アナログ・プレーヤ,DENON DCD-1650AR CD プレーヤも大掃除でピカピカにした。のどかな元日にお気に入りのレコードを二枚聴く。

一枚はモーツァルトのディヴェルティメント K.563,ウィーン弦楽三重奏団による独 CALIG 盤 CD。この名曲は名手ソリストが集った名盤が数あるけれど,私はこの Wiener Streichtrio の演奏がイチオシなんである。彼らはモーツァルト以外にも,ベートーヴェン,シェーンベルク,ウェーベルン,クルシェネクの弦楽三重奏曲の端正な録音を残している。ウィーンの演奏家は由緒ある一方で古くさいイメージが先行するけれども,アルバン・ベルク四重奏団のような現代音楽にも優れた室内楽演奏家が突然変異的に登場する。現在は廃盤になってしまったのが惜しい。

いま一枚は韓国のヴァイオリニスト・チョン・キョンファのヴァイオリン独奏,アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団の演奏によるプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第一番,第二番。昔,キングから出ていたロンドン・レーベルの LP である。第一番は,早春の胎動の悦びとほのかな頽廃が感じられるモダニズムの傑作である。私はこれを聴くと,雪解けの泥が瑞々しい札幌を思い出す。いまも CD で入手できると思う。
 

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あけましておめでとうございます。

30, 31 日と大掃除をやり,重いものを何度も動かして,体のふしぶしが痛い。今年は,子供たちが受験なので帰省はせず,家で寝正月。年末恒例の紅白歌合戦を家族皆で観る。ゆく年くる年あたりから年越し蕎麦を食う。子供たちが CDTV(カウントダウン TV: 人気アーティストたちが出演するミュージック番組)にわいわい騒いでいる横で,TeX Q and A に書き込んだり,一大決心で LaTeX システムのバージョンアップに挑む。

ptexlive を入れようかと思ったが,パス情報がいままでとまったく変わり,upLaTeX との共存が面倒臭そうだったので,やっぱり ptetex3 + upLaTeX にした。今回,あらゆるパッケージを最新版にしようとして,/usr/local/teTeX 配下をばっさり消してクリーンインストールしようとしたが,うまくいかない。upTeX のスクリプトでそれなりのところまでいくはずだと思ったが,コマンドが見つからないとのエラーがぼろぼろ出てまったくダメである。いま,ptetex3 だけをまずは組込んで,upLaTeX パッチはそのあとにするのでどうか実行中。

今日は家族でクリスマス・パーティ。妻の作ったホウレンソウのクリーム・スープが旨かった。ケーキを食べながらプレゼント交換した。自分ではまず絶対買わないような気の利いたアイテムを貰う。私は子供たちに CD と本を与えた。上の息子のために,セロニアス・モンクの名盤 "Thelonious Himself"(1957)を選んだ。渋すぎたかも。娘にはジョージ・ウィンストンの "Winter Into Spring"。

できたてホヤホヤの教会スラヴ語 LaTeX パッケージ OldSlav を使ったメッセージをラベルシールに印刷し,プレゼントのパッケージに貼付けた。教会スラヴ語で「2009 年クリスマス,XXXへ,父より」というもの。ウケた。
 

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セロニアス・ヒムセルフ+1
セロニアス・モンク
ユニバーサル ミュージック クラシック (2007-09-19)

今日,9 時少し前に帰宅すると,我が家ではすでに夕食が済んでいた。この時間だとテレビを観ながら皆で晩ご飯が通常だが,今日は私ひとりでいただいた。妻が,洗物をする BGM として,ドヴォルザークの 8 番の交響曲を掛けた。第三楽章のスケルツォ,あの哀愁を帯びた優雅さがやっぱりよい。味醂で味付けした鰆の焼魚が旨かった。
 

ドヴォルザーク:交響曲第8番&第9番
ヘルベルト・フォン・カラヤン (Dir)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック (2003-10-22)

Facebook のスミルノフのページを訪れ,彼の『ヴァイオリン,チェロとピアノのためのトリオ作品 23・第一楽章』(1977)の YouTube 動画を発見。この作品は,彼の師であるエディソン・デニソフに捧げられている。ソヴィエト時代の作品としては自殺行為ともいえる前衛的な無調音楽である。集中力,密度の高い寡黙な音響というスミルノフ音楽の特徴が,この曲にもよく現われている。歌い出しにちょっとシュニトケ風を感じる人も多いと思う。

前衛的とはいえ,実験的ではない。西欧音楽とは一線を画した衷心さがある。弦のハーモニクスとピアノのモノローグ,悲痛な情感。なにか悲劇的な予感の高まり。ヒステリックなところのない,静謐なアンサンブルが美しい。

Posted by NewMusicXX.

この演奏は CD で入手可能である。ベルギーのレーベル MEGADISC からリリースされた "An Introduction to DMITRI SMIRNOV"(型番 Megadisc MDC 7818)。演奏は Patricia Kopatchinskaya (Vln), Alexander Ivashkin (Vlc), Ivan Sokolov (Pf)。ピアノ・トリオ以外にもヴァイオリン・ソナタほかスミルノフの室内楽が収められている。

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Facebook で Fugata Quintet からフレンドリスト追加へのお誘いがあった。Fugata Quintet はロンドン王立音楽院で学んだ若い五人のプレーヤーによる Nuevo Tango クィンテット。メンバーは Z. Nicolic (Accordion),A. Mavroudis (Vln),A. Hatzinikolaou (Guitar),A. Chaushyan (Pf),J. Opstad (Double bass)。

彼らの Web: http://fugata.co.uk/ を訪れると,その演奏が BGM に流れるので聴いてみるとよい。Á. Piazolla ピアソラに認められる,アルゼンチン・タンゴをベースにした楽天的な現代的アコースティックが特色のようである。Facebook の彼らのページには,彼らが歌手のすぐ近くで室内オペラを伴奏する,一風変わった舞台の写真も掲載されていて面白い。クラシック演奏家の名門・ロンドン王立音楽院を出た演奏家たちによる音楽だが,いわゆる古典音楽を連想すると期待が外れる。でもじつは,活きた音楽シーンはこのような若者たちが作るのである。

CD が出ていればぜひ入手してみたい。

ヴァイオリニスト・植田梨紗さんが日本デビューする。Facebook で案内をもらった。12 月 14 日月曜日,大阪・いずみホール。チャイコフスキイのニ長調協奏曲を弾く。藤岡幸夫の指揮,関西フィルハーモニーによる管弦楽。ネットで検索したところ,関西フィル Web サイトにも「辻久子門下生による三大ヴァイオリン協奏曲の夕べ」の広告が出ていた。

植田さんは D. Smirnov 作曲 Dream Journey 初演(2009.2.6,ロンドン王立音楽院デユークス・ホール)においてヴァイオリン・パートを受け持ち,素晴らしい現代音楽アンサンブルを聴かせてくれたのである。ロンドン王立音楽院で研鑽を積んでいた。辻久子の門下生だとは知らなかった。

残念ながら,平日の大阪という場所には行かれそうもない。次は東京でコンサートを開いて欲しいと切に願っている。

植田さんのほか,辻久子門下生二人,徳田雅子さん,藤盛祐輔さんがそれぞれメンデルスゾーン,ベートーヴェンの協奏曲を演奏する。ヴァイオリン・コンチェルトの名曲をまとめて聴くことができる。興味のある方はぜひどうぞ。

Facebook にあるドミトリ・スミルノフの頁を訪れて,誕生日メッセージのお礼をした。そこで,彼の夫人にして高名な作曲家エレーナ・フィルソヴァが,これまた現代ロシア音楽を代表する作曲家ソフィヤ・グバイドゥーリナのもとを訪れた際のフォトがアップされていた。こういうのを閲覧できるのが SNS のありがたいところ。日本では SNS のなかでは Mixi が圧倒的支持を得ているけれども,Facebook は,ワールドワイドの強みか,リゲティなどの作曲家や演奏家の頁,譜面が閲覧できる現代音楽コミュニティもあり,現代音楽好きには重要な情報源となる。請け合ってよい。

グバイドゥーリナの音楽は現代音楽とはいえ古典的な調性感があり楽器法も色彩豊かである。彼女はタタールの血を引くロシア人であるが,その音楽は現代ロシア音楽に特徴的な諧謔的ニュアンスが少なく,物語性を感じさせるダイナミズムがあり,現代音楽のキコキコ,スカスカ調が好きになれないひとでも楽しめるのではないだろうか。以下に彼女のヴィオラ協奏曲(1996 年)のレコードを挙げておく。ユーリイ・バシュメットによる名演である。ヴィオラの瞑想的なモノローグと狂のダンスとが印象的な曲である。
 

Kancheli: Styx; Gubaidulina: Viola Concerto
Yu. Bashmet (Vla), V. Gergiev (Dir),
Orchestra of the Mariinsky Theatre,
St. Petersburg Chamber Choir.
Deutsche Grammophon (2002-05-14)

ミッシャ・マイスキイの演奏によるバッハの無伴奏チェロ組曲を本当に久しぶりに聴いた。私は第二番と第五番が好きである。この曲の演奏はいくつも名演がある。私はムスチスラフ・ロストロポーヴィチ,ピエール・フルニエ,ミッシャ・マイスキイの盤がお気に入りである。なかでもマイスキイ盤には,ある特別な思い出がまつわりついている。

1985 年の春先,ソ連の最高権力者・共産党書記長コンスタンチン・チェルネンコが亡くなった。テレビを持たず新聞も購読できない貧乏学生であった私は,そのニュースを知らずにいた。札幌のまだ凍てつく下宿で,ロシアの文芸学者・文学史家ボリス・トマシェフスキイの詩論集 «О стихе»(『詩について』)を読んでいた。コーヒーをドリップする間に,NHK-FM を付けた。バッハの無伴奏チェロ組曲が流れていた。私は直感でミッシャ・マイスキイの出たばかりの盤だとわかった。一曲が終わったら,別の組曲が開始された。なにかおかしい。DJ なりアナウンサーなりの語りがなく,曲の演奏だけが延々と続く。なんの説明もない。すぐに,私は誰か貴人が亡くなったのだと悟った。ソ連では権力者が亡くなるとクラシック音楽をひたすらラジオで流すという話を思い出したのだ。そうか,書記長が死んだのだ。え,なんで? 就任してまだ少しじゃないか,本当か? でも,それは正しい判断だった。しばらくしてニュースがはじまり,チェルネンコ死去が報じられたのである。

異常な気分になり,トマシェフスキイどころではなくなったのを鮮明に覚えている。いま思うと,NHK はそういう放送局だったのだとへんな感銘を覚える。国際的最重要人物が亡くなろうと,このような放送は現在ではしないと思う。NHK にロシアの伝統を知る者がいたのだろう。それに合わせて哀悼の意を表したのだろう。「不可解」が国際情勢の緊張感を異様に高めるということが身に沁みた。「臨時ニュースを申し上げます」なんかより,観念させるようななにかがあった。

ソ連共産党書記長の死を告げるマイスキイのバッハ。もうひとつ強烈なのは,ミッシャ・マイスキイがソ連官憲によって投獄された経験を持つユダヤ系亡命ロシア人であったこと。そんなマイスキイの演奏でソ連の権力者の死を哀悼するなんて,NHK は端倪すべからざる意図を秘めた放送局だと思ったものである。そして,こういう歴史的事件の黎明の伴奏にはやはりバッハが相応しいと。チェルネンコを襲ったゴルバチョフはやがてソ連を解体させてしまい,冷戦は終局を迎えることになったのである。
 

バッハ:無伴奏チェロ組曲 全曲
マイスキー(ミッシャ)
ポリドール (1994-08-01)

井上陽水は私の好きなアーティストのひとり。1972 年にデビューし,1973 年『氷の世界』がヒットして有名になった。小学校 6 年のころ「心もよう」を耳にして,その歌詞にあるように「青い便箋」のようなうら悲しい歌に惹かれた。

学生運動の熱気が去って孤独に打ち拉がれた若者が世界に悪意を抱きつつ自分の弱さに苛立つ時代だったと思う。弱さは安易な集団的暴力と結びつくことがある。その当時,浅間山荘事件,三菱重工爆破事件など不穏なテロが頻発していたのである。陽水はそんな 1970 年代の荒んだ世代の敗北者精神を代表していたと私は勝手に思っている。

テレビでは我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をしてしゃべっている
だけども問題は今日の雨 傘がない
井上陽水「傘がない」

1981 年,大学に入ったころ,「ジェラシー」がヒットした。「ワンピースを重ね着する君の心は ...」というような歌詞が,陽水らしいあの暗いわからなさを引き継いでいた。この曲を聞くと,国文学科に行った友人 M を思い出す。いつも坊主頭にしていて,ちょっと偏執狂的なところがあった。深夜に私の下宿をぶらっと訪ねて来ては「藤村の詩を読むと泣いてしまうんや」と金沢訛りで独言しながら,大真面目な顔で畳に座っていたものである。私の聞いたこともない 19 世紀ドイツ作家作品の,M による翻訳をよく読ませられた。そのころの私はビーダーマイヤー時代のドイツ小説は日本の私小説と同様つまらないものと誤解していたのだ。かと思うと彼は「裸の女二人が温泉に入るテレビ番組,あれ好きなんや」という一面も持ち合わせていた。私はこの深夜番組を見せてもらいに,よく同じ下宿の友人部屋に行った。私も大好きだったのだ。M はこういうところでへんに気が合う友であった。ドイツ人のように冗談を解さずまったく笑わない彼は,よく衿付シャツを重ね着していたのだ。彼は「不思議な世界を彷徨い歩いていた」のだと私はいまでも思う。

後輩の T は,露文研究室で学生同士話をしていると,ふといきなりギターを手に取って --- そのころは誰のものか知れないギターがどの研究室にも転がっていたのである ---「甘いくちづけ ... 遠い思い出 ...」とろうろうと歌い出すことがよくあった。ドストエフスキイに身も心も捧げた T の歌う陽水には凄みがあった。こいつ女にもてたのだ。いい男だった。そのころはギターで井上陽水や河島英五の弾き語りをする者が多かったのである。もうひとつ。農作業の手伝いをしたりその家の子供たちと遊んだりして,1週間ほど十勝で過ごしたことがある。そのとき一緒に行った同級生(三浪で大学に入った,風来坊のような男だった)は,宿泊施設(町の公会所みたいな掘建て小屋であった)で農家の子供たちとゲームをしたあとで,ギター片手に「心もよう」を歌って子供たちを神妙にさせた。

学生時代の思い出のなかでは,このように陽水の曲が流れていることが少なくない。井上陽水について語ることは感情のお里が丸出しになるような恥ずかしさがある。しかし,陽水的 70 年代の残骸のような者たちが暗い生き方をする(「ネクラ」と言われた)一方で,1980 年代は脇目も振らずバカ明るくてお金をもっている者たち(「ネアカ」と言われた)が我が物顔になった時代である。高校野球のような,皆が一律坊主にしてひとつの目標に向かって努力する集団的営みが鼻で嗤われる時代になったのである。努力,真面目はダサイものとなった。貧乏は恥となった。この「ネアカ」たちに圧倒的に支持されたのがサザンオールスターズである。ご存知のとおり,サザンはいまだにヒットを飛ばし,要するに JPOP の「勝ち組」であり,つまりは 1980 年代以降の日本人の趣味をある意味で決定づけたともいえる。

私はいまだにサザンより陽水を高く買っている(私は桑田佳祐も好きなんだけど)。あのサザンの時代・80 年代にこそいまこの現代の病巣があるとさえ思っている。ゆえに,私はいわゆる「負け組」である。
 

GOLDEN BEST
井上陽水
フォーライフ ミュージックエンタテイメント (1999-07-28)

"sator arepo tenet opera rotas" というラテン語の格言がある。いくつかの古代遺跡の壁面に刻印されているそうである。「種蒔く人は収穫を保有し収穫は種蒔く人を保有す」という意味である。これだけだとなんということもなさそうに思われるが,次のようにしるすとその驚くべき姿が見えて来る。

S A T O R
A R E P O
T E N E T
O P E R A
R O T A S

左上から右横,下方へ読んでも,右下から左横,上方へ読んでも(つまり逆から読んでも),さらに,左上から縦下に,右方へ読んでも,右下から縦上に,左方へ読んでも,同じ。しかも真ん中の TENET は上下・左右で回文をなし,十字架を形成する。

これは「魔法陣」と呼ばれるものである。クロード・ロスタンによれば,その起源,言語学的・宗教的意義について,学者の意見が一致していないという。それにしても,精巧にして不思議。くらくらして来る。

作曲家アントン・ウェーベルンはこの魔法陣に霊感を得て,12 音列を展開した曲を書いた。九つの独奏楽器のための協奏曲作品 24(1934 年)。音による点描のような断片的な無調音楽に聞こえるが,現代音楽好きは簡素な美しさに魅せられる。その枯淡の音像のなかにじつはこの魔法陣のような精巧な規則性があると思うと,くらくらして来る。

「種蒔く人は収穫を保有し収穫は種蒔く人を保有す」--- 私はこの格言を,クロード・ロスタンによるウェーベルンの作品論(クロード・ロスタン『ウェーベルン』店村新次訳, 音楽之友社, 1975 年)によって知った。ウェーベルンの短く緻密な音楽様式を象徴するに相応しい言ではないだろうか。しかし,上記のごとき魔法陣の神秘性を取り除いても,含蓄あることばである。私は仕事の上での座右の銘にしている。仕事とその成果との循環性を鼓舞しないと,日常性に耐えきれなくなってしまうのである。私はまた,この格言で弊 Web サイト・トップページを飾らせてもらっている。
 

Complete Webern [Box Set]

P. Boulez (Dir)
Berliner Philharmoniker
Ensemble InterContemporain
Emerson String Quartet, et al.
Deutsche Grammophon (2000-05-09)

午過ぎに起きてきて,ひとり遅い食事をとり,少し本を読み,FreeBSD で Emacs をいじくりまわす。今日もそんないつもの休日であった。夕方,バッハのマタイ受難曲,ブルックナーの 9 番を聴く。「マタイ受難曲を聴いた」と妻に言うと,--- 娘が横から「え? ママの体重が何キロか聞いたって?」。「信長殿も信長殿だがねね殿もねね殿じゃ --- お父さん,早口で言ってみて」。妻が掃除中,私の灰皿のチェブラーシカの首を折ってしまう。晩ごはんのあと,iPod で日本の旧き良き歌謡曲を聴きながら,食器洗いをする。山口百恵,上田正樹,南こうせつ,バンバンなどなど。学生運動潰えた世代の暗い曲の数々。ヒット江夏のケンケン,否「ひと夏の経験」に感じいって「モモエちゃん...」と独り言を漏らすベートーヴェン。そんな CM が昔あったな。訳わからん。

* * *

鳩山次期首相の組閣の話題でもちきり。半世紀ぶりの政権交代ということもあり,当然ながら,どんな体制になるか皆興味津々である。社民党と国民新党の両党首が入閣するそうである。参議院での協力を得たいため,大臣席でもって懐柔しようとしているらしい。民主党はあれだけ大勝したのだから,他の野党の顔色を窺う必要などないのではないだろうか。意見が合わなければ論戦すればよいのだ。選挙の結果からすれば社民党と国民新党が有権者の支持を得たとは言えない。そんな政党と連立政権を組むなんてナンセンスではないか。

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陸上=南アのスポーツ担当相,『セメンヤ報道』に激怒」なる記事を見た。かの圧倒的強さを見せたセメンヤを「両性具有者」だとするオーストラリアのマスコミ報道に南アフリカの大臣が激怒したそうな。「第三次世界大戦もの」だなんて,そんな大げさな。

オーストラリアは日本にとって大事な国である。日本人の行きたい国のなかでも上位に入るのではないだろうか。しかし一方で,オーストラリアは昔から人種差別の酷い,つい先日まで白豪主義なる人種差別に囚われていた,思想的に遅れた国だ,というのが私の正直な認識である。オーストラリアでは,2005 年 12 月にも,シドニーにおいて中東やレバノン系の住民に対する白人暴動が発生している。いまだにこうなんである。米国の KKK などはもっと陰湿だが公的には徹底的に批判されているのと比較すると,人種差別が大規模化するところがオーストラリアの国情を物語っていると思う。また一方で,米国の反捕鯨団体・シー・シェパードの活動などを見ていると,オーストラリアという国は,環境問題にかこつけて人種差別をするこういうとんでもない愚連隊を政府が野放しにする国だとつくづく思ってしまう。捕鯨を生活の糧としてきた国は日本以外にもロシア,カナダ,ノルウェーなど数多くあるにもかかわらず,シー・シェパードが目の仇としているのは日本だけなのである(シー・シェパードの行為の対象がロシアだったらどうだろう。間違いなくロシア海軍によって直ちに太平洋に沈められてしまうはずである)。それは何故か。日本だけが黄色人種だからである。鯨の肉をかっ食らう日本人は土人と同じという訳か。鯨とカンガルーはどちらが旨いだろうか。

「セメンヤ報道」にも同じ人種的偏見を嗅ぎ取るのは私だけだろうか。中国や韓国という同族の意図的反日行動に怒りを覚える前に,こういうのをもっと叩いたらどうかね。

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昨日は映画『キサラギ』を観て夜更かし。2007 年,佐藤祐市監督作品。主演は小栗旬,ユースケ・サンタマリア,小出恵介,塚地武雅,香川照之。アイドルおたく5人が彼女の死の一周忌に集まる。マンションで焼身自殺した彼女の死はじつは殺人だったというひとりの主張を巡って,5人の記憶をたどりつつ謎解き,ファン同士の掴み合いの喧嘩がはじまる。部屋のなかだけで進む謎解きストーリーは,『十二人の怒れる男たち』のような --- 登場人物はそれとはまったく対極にあるようなアイドル・オタクなんだけど --- 演劇風の緊張感に満ちていて,意外なくらい面白かった。

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おっとそこへ最新ニュース。わが阪神タイガースが3位に浮上したらしい。このところヤクルトが絶不調。そのおかげでヤクルト,阪神,広島の三つ巴で「熾烈な3位争い」になっているらしい。今年の阪神の要約 ---「09 年は熾烈な3位争いを演じた」。レベル低。

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瞬間接着剤でチェブラーシカ復活!

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北園克衛詩のロシア語訳について先日メールのやりとりをしたニューヨーク在住のロシア詩人から,今日,連絡があった。掲載される予定の文芸雑誌 «Новая Кожа, 2009 No. 2»(日本語にすれば『新たなる皮膚』というのか。ニューヨークで発行されている independent なロシア語系雑誌のようである。米国に移住しても母国言語で創作活動の場を興そうというロシア人たちがいるのだと感心してしまった)の,彼の北園翻訳頁を PDF 版で送ってくれたのである。

冒頭に北園克衛のごくごく簡単な紹介文があった。伊勢で生まれたこと,エズラ・パウンドと文通をしていたこと,アヴァンギャルド雑誌 VOU 編集に携わったことが触れられていた。「モダニズムの古典的詩人」と評されていた。

訳は私がはじめに読んだものから少し変更が加えられていた。うれしいことに,頁の最後に私への謝辞が述べられていた。私の名が "литератураведа Исао Ясуду" と対格形でしるされ,しかも「文学研究者」なる肩書きが付されているのに,照れてしまった。Web サイトを公開していると時おりこういう貴重な経験ができる。

«Новая Кожа» の Web サイトはこちら。そのうち,Игорь Сатановский さんの北園詩翻訳がここにも掲載されるのではないかと思う。

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今週会社の夏期休暇を取った。それで昨日,妻と川崎駅周辺に買い物・食事に出た。Tower Records を何気なくぶらついていたら,前から欲しかった CD を 2 セット見つけ購入した。

ひとつはセルジウ・チェリビダッケがミュンヘン・フィルを指揮したブルックナー交響曲第 8 番ハ短調 1890 年ノヴァク版のライブ録音。私は彼の指揮によるブルックナーの CD を何枚も所有し愛聴している。EMI から 1998 年に出たシリーズが特に好みである。7 番と 9 番を発売当時すぐ手に入れたのだが,この 8 番は買いそびれてその後なかなか入手する機会がなかったのである。

ブルックナーのシンフォニーは一時期,ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによるドイツ・グラモフォン盤をよく聴いていた。ところが学生時代 NHK-FM でチェリビダッケ,ミュンヘン・フィルのライブを聴きその集中力の高さと深い音場に心底感激して以来,チェリビダッケ録音ディスクを待望するようになった。彼は音楽の演奏を「一期一会」と見なしていたようである。録音を毛嫌いした。でも愛好家がそんな演奏を偲ぶ記録を手元に置きたい,というのも人情である。彼の死後,発売されたブルックナーの盤はその感動をもう一度再現してくれた。そのためか,私はもうカラヤン盤をまったく聴かないようになってしまった。

(カラヤンは 20 世紀の大指揮者である。けれども,私にとっては彼の録音は「どれもこれも」優れていて好みの演奏であるにせよ,そのうち個別曲の演奏において彼を圧倒的に凌駕する指揮者の盤が登場し,私にとって最高の盤といえるものがほとんどなくなってしまう,そういうタイプの名演奏家である。モーツァルト,ベートーヴェン,ブラームス,チャイコフスキイ,マーラー,ブルックナー,等々どれも一流であるが「私にとって最高」と言えるのものが残念ながらほとんどない。リヒテルと組んだチャイコフスキイのピアノ協奏曲くらいか。)

Bruckner 8
S. Celibidache(Dir), Münchner Philharmoniker
(Live recording: 12 & 13 Sept. 1993)
EMI Classics (1998-09-30)
 

もう一枚は巌本真理弦楽四重奏団による待望のシェーンベルク室内楽 CD 化である。私はこれまでずっとこの録音をアナログ LP で聴いて来た。Tower Records が企画し,復活させてくれたらしいのだ。1972 年の録音。

この盤ほど気合いの入ったシェーンベルクを私は聴いたことがない。少し解釈の重く生真面目すぎるきらいがあるが,長野羊奈子のソプラノの迫力は凄い。ジュリアード,ラサール,アルディッティよりも私はこの盤を上に置いているのである。このカルテットがシェーンベルクの全集を録音していてくれたらと残念である。

シェーンベルク:浄夜 & 弦楽四重奏曲第2番
巌本真理弦楽四重奏団,
江戸純子(Vla),藤田隆雄(Vlc),長野羊奈子(S)
TOWER RECORDS EMI CLASSIC (2009-03-04)

最近,息子が受験生らしくなって来た。どうもガールフレンドに振られたらしい。時折,ぶつぶつこぼしている。気にするなと妻が慰める(私が学生のころ,ガールフレンドの話題が出ると,母には「孕ませたらアカンで」みたいなことばかり言われたものだが)。その一方で,お笑い番組を観てはバカ笑いをし,タレントや祖父母の物まねをやって家族を笑わせている性格は,誰に似たのか。その明るさには我が子ながら感心してしまう。

いつのまにか,子供も大きくなってしまった。なんて感傷に浸っていると,子供たちがまだ幼児だったころ,会社に行く前に『ひらけポンキッキ(ポンキッキーズ?)』や『おはスタ』などの朝の子供向けテレビ番組を,子供たちといっしょによく観てたなあとふいに思い出した。十四,五年前か。

『ポンキッキ』ではブレークする前の鈴木蘭蘭と安室奈美恵とが,ふたりしてうさぎの着ぐるみを着て,「まーさかり・かーついだ・きーんたろおー」と歌っていて愛くるしかった。バックダンサーを引き連れて「Body Feels EXIT!」とカッコ良く歌う安室を観たときは,「あれ? ポンキッキのお姉さんじゃんかー」というのが我が家の反応だったのである。その後,いろんなことが変わってしまった。

『おはスタ』はいまもまだ続いているようである。私の記憶にある『おはスタ』では,司会の山ちゃん(『新世紀エヴァンゲリオン』加持リョウジ役の,しかし加持リョウジにはまったく似ていない声優・山寺宏一)が,「レイモンドだよー」なる黒人タレントとともに,朝に相応しい元気なしゃべりでかしましかった。ポケモンが大流行したころである。「おはガール」という看板娘が日替わりで登場し,そのなかには『スポルト』のフジテレビ人気女子アナ・平井理央もいたことを知っているひとはどれだけいるだろうか。「おっはー」というチョー軽い挨拶が番組の合い言葉であった。『学級王ヤマザキ』という短篇アニメのコーナーがあって,この王様ヤマザキは「おはよう」のことを「おっぱいよー」といっていた。まあ,そのくだらなさが想像できると思うが,私は子供とおもしろがって観ていたのだ。おっはー。おっぱいよー。あぁあ。

最近,テレビで AKB48 なる大勢の若い娘さんたちが歌って踊っているのを観て,「エーケービー・シジュウハチ?」という私は,子供たちに失笑される始末である。「フォーティーエイト!」--- でも 48 人もいないじゃないか。なんかの四十八手をもっているのか(と,下品な口がちょっと滑ってしまう)。「じゃなくて,いろんな女の子がいるってことだよ!」--- あぁあ。なんだ昔のオニャン子か,というのは呑込んだ。

文章がうまくなりたいと思わない者はないだろう。誰しも一冊や二冊はその指南の書を手にしたことがあるのではなかろうか。私も高校生のころから,そのテの本をそれなりに読んで来た。「うまく」書けるようになりたいと。しかし,大学を卒業し,勤めに出るようになって,文章に対する考え方が根本的に変わった。自分の思想(というか「思考」)を簡潔に,明快に,わかり易く書くことが第一目標になった。「個性」,「表現」,「文体」というものが,なるたけちらつかないようにすること。

その過程で,文章の書き方についてしるした本についても評価がまったく変わってしまった。昔は作家が書いた『文章読本』を有り難がって読んだものだが,いまは十中八九,それらはその作家個人の単なる趣味の域を越えず,その多くはただの「たはごと」だと考えるようになった。要するに,丸谷才一や三島由紀夫などの『文章読本』を読んで,吹き出してしまうようになったのである。偉い作家の「書き方」が優れた文章指南の本としてまかり通っているから,文学をやった者が世の中にバカ者(でなければ気取屋)扱いされるのだと,真剣に考えるようになったのである。

それとともに,日本の国語教育のレベルの低級さがいや増しに感ぜられるようになった。作文では自分の「思っていること」をうまく「表現」し「個性的に」書くことが尊ばれ,起承転結などという「はぐらかし」文章構成法がもてはやされ,まあ要するに,個性もないのに個性的たろうとするバカを養成するのが学校の作文教育の目的であるように思われて来た。テーマの取扱い方・絞り方や,誰もが則るべき規則,事実と意見の書き分け方などの,どちらかというと没個性的な言語構成法をどうして子供たちに徹底的に仕込まないのかと思うようになった。

その一方で,埋め草や文学的な言い回し(要するに「表現」への指向)を排して,言いたいことの優先度を整理し,目的の実現に最大限奉仕するようパラグラフを構成し,わかり易い言葉を選びかつ一貫させることが,私の作文(というか仕事などでの資料作り)の主眼となった。そこには「雰囲気」,「空気を読ませる」,「陰翳」などの無意味な意図を絶対に潜り込ませてはならない。そんな「文芸」からもっとも遠いマナーを尊ぶようになった。いまの私にとって文章指南の最高の書籍は,木下是雄著『理科系の作文技術』(「理科系の」という表題が大いなる皮肉である)と M. J. アドラー・C. V. ドーレン共著『本を読む本』(後者は「読む立場」から書かれているが,逆にそれに答えるような書き方を教えてくれるのである)。この二冊につきると思っている。

R. J. ウィンジェルの著書『音楽の文章術』(宮澤淳一・小倉眞理訳,春秋社,1994 年)は,音楽という芸術に関する記述においても,幼稚な比喩や文学的言い回しで陽動するのではなく,「音楽についての考察」,「音楽の内部で何が起こっているのか」を思慮深く明晰に書かなければならないと述べている。音楽の感動を文章にしるすとなると主観的にならざるを得ない。昨日私の書いたブログ記事の「メンデルスゾーンの音楽は,自己主張の少ない慎ましやかなものだが,衷心さが心を打つ」なんてのも,ただの主観的書き散らしに過ぎない。それでも,音楽について公的になにかを主張したいという場合,やはり主観から客観に重心を移すべきであって,本書はそのための指南になっている。

音楽について書くのは難しい。そのため,音楽について実際に考察するのを避けるために,陽動作戦に訴え,まったく関係のない内容でページを埋めてしまう人がいる。... そういう文章の書き方について触れるのは,物笑いの種にするためではない。われわれが避けたい文章の書き方とはどのようなものかを明らかにするためである。なお断っておくが,これから挙げる例は直接的な引用ではなく,私が読んだことのある文章に手を加えたものである。...
...... ヴィオラはみずからの簡潔な主題によってさえぎろうと懸命になるのだが,木管楽器群はそれに心を動かされることなく,引き続き自分たちのおしゃべりを続ける。しかし,最後に金管楽器群が決着をつける。ほかのすべての楽器をかき消して,本来の秩序を回復させるのである。
あまり意味のない内容にいつまでも関っていても仕方がない。この文章は音楽について何も語っていない。凝ったつもりなのだろうが,楽器の擬人化は,有益どころか幼稚である。
リチャード J. ウィンジェル『音楽の文章術』春秋社,pp. 5--6.

引用を含む長い引用でいただけないけれども,ここで「物笑い」になっているような文章を『レコード芸術』などでいやというほど読まされた方は,頷かれるものと信ずる。私には喝采ものである。「陽動作戦」を排する --- 肝に銘じたい。

ウィンジェルの本は,音楽学の学生に向けて書かれた実践的なものである。しかし,主観的なる芸術について真実を求めて書くという姿勢において,書くこと一般について示唆に富む一冊である。

音楽の文章術―レポートの作成から表現の技法まで
リチャード・J. ウィンジェル 著
宮澤淳一,小倉眞理 訳
春秋社

言及した,私のイチ押しの本も挙げておきます。

本を読む本 (講談社学術文庫)
M. J. アドラー,C. V. ドーレン 著
外山滋比古,槇未知子 訳
講談社

一昨日の夜だったか,NHK でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団演奏会の録画放映があった。オール・メンデルスゾーン・プログラム。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスはメンデルスゾーンゆかりのオケである。交響曲『イタリア』,ヴァイリン協奏曲を視聴した。指揮はそれぞれ,リッカルド・シャイー,クルト・マズア。ヴァイオリン独奏はアンネ・ゾフィー・ムターという豪華な顔ぶれ。

メンデルスゾーンの音楽は,自己主張の少ない慎ましやかなものだが,衷心さが心を打つ。それにしても,『イタリア』ってこんなにいい曲だったっけー,と感動を新たにしてくれる演奏会であった。今年はメンデルスゾーン生誕 200 年の年だそうである。

以下の盤は私のお気に入り。

Mendelssohn: 5 Symphonies; 7 Overtures
C. Abbado (Dir),
London Symphony Orchestra.
Universal (2002-05-14)
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調
N. ミルシテイン (Vln),
C. アバド (Dir),
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団.
ユニバーサル ミュージック クラシック (2006-11-08)

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ISAO。システムエンジニア。昭和 30 年代を懐かしむオヤジ。ロシアに興味があります。
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